2023年6月7日水曜日

創造主の神に造られたもので行こう! (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年6月4日 三位一体主日 スオミ教会

 

創世記1章1-2章4a節

コリントの信徒への第二の手紙13章11-13節

マタイによる福音書28章16-20節

 

 

説教題 「創造主の神に造られたもので行こう!」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.       

 

  今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週の主日は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、そのうちの一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され出したことを記念する日でした。父、御子、聖霊の三者がそろった後の主日ということで今日は三位一体を覚える主日です。

 

 皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝されます。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表されています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、そして聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない者、神に相応しい者にしていくということです。

 

 これら三つの人格、三つの役割は別々のようなものでも、全部が一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。この全体が神の大いなる愛を表しています。第一ヨハネ4章8節で「神は愛なり」と言われますが、三位一体の大いなる愛のことを言っています。

 

 本日の説教は二部構成になります。第一部では、マタイ福音書の日課の箇所でイエス様が弟子たちに、世界の人々に「父と子と聖霊との御名によって洗礼を授けよ」と命じていることについて見てみます。三位一体の神と洗礼は不可分に結びついているということについて見てみます。第二部では旧約聖書の日課、創世記の天地創造の話を見てみます。進化論から見たら聖書の天地創造は馬鹿々々しい話になってしまうのですが、実は天地創造は現代において意外にも意味がある話であることをお話ししようと思います。

 

2.

 

 本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる箇所です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるというのは、洗礼を受ける者が三位一体の神に結びつけられるということです。神は創造の業を行う父であり、人間を罪の支配下から贖う御子であり、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊である、この三位一体の神に結びつけられるのです。結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていきます。そして、この世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎えられます。

 

三位一体の神と結びついて生きる時、私は「神に創造された者」という自覚を持つことは特に大事と考えます。と言うのは、その自覚は、キリスト信仰に入れるか入れないかどうかのカギになるからです。また信仰に入った後もしっかり信仰に踏み留めるかどうかのカギになるからです。どういうことかと言うと、自分が神に造られた者との自覚を持つと次に、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになります。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?

 

聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけない、という立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。どうしてそんなことが起きたかというと、人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わってしまった。そのことが創世記3章に記されています。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、そのままの状態ではこの世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。

 

 しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世を去った後は永遠に自分のもとに帰れるようにしてあげようと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間のために切り開いて下さったのでした。

 

そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれて神との結びつきを持ってその道を進むようになります。

 

ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入っても道から踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊が大事な役割を果たします。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。神に背を向けてしまうようなことがあっても、聖霊はすぐに私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれます。その時、私たちは再び神の御前にひれ伏すようになり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正してまた天の御国に向かう道を進んでいきます。

 

 このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖い出されることです。それと、造られ贖われた者が天の御国に向かう道を歩める力と支えを得られるようになることです。実に三位一体の神と結びつけられる洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れられるという約束を神からしてもらうことです。

 

3.

 

 先ほど申し上げましたように、三位一体の神と結びついて生きる時、「神に創造された者」という自覚を持つことは大事です。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きません。その問いがなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわかりません。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。

 

ところが、今日では神の創造ということを信じることがますます難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからではないかと思います。生物は長い年月をかけて単純なものが複雑なものに進化していく。そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。

 

何年か前にイスラエルのハラリという歴史学者の書いた「ホモデウス」という本が話題になりました。その中で、彼は進化論の立場に立って、なぜキリスト教は進化論に否定的なのか?それは進化論が魂の存在を否定するからだ、と言っていました。これにはなるほどと思いました。生き物は、人格と意志を持つ創造主が造るのではなく、無数の化学反応の集積から構成されて変化していくと見たら、魂などという科学的に説明できないものは入り込む余地はなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は、造り主がどう思っているかなんて考えないで、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

 

そこで、ここから先は本日の旧約聖書の日課、創世記の初めのところをもう一度振り返り、天地創造は本当は現代においても意味のある話であることを見てみたいと思います。この問題に関して近年では進化論に対抗するものとしてインテリジェント・デザインという考え方が注目されたようですが、私はおそらくその議論についていけるインテリジェンスを持っていないので、ひたすら聖書をじっくり見ていくことにします。じっくり見る聖書とは、旧約聖書はヘブライ語のBiblia Hebraica Stuttgartensiaで(一部はアラム語で書かれていますが)、新約聖書はギリシャ語のNovum Testamentum Graeceです。私にとって大切な聖書のテキストです。

 

創世記1章について、本説教では2つのことを見て、聖書の天地創造は今日でも意味があることを確認したいと思います。一つは、天地創造の時間の流れについて。もう一つは、造られたものとしての人間と動物の立場についてです。

 

まず、天地創造の時間の流れについて。天地創造によると、神は6日間で天地とその中にあるものを造り上げ、7日目に休まれたとあります。これなどは、多くの人は真に受けないでしょう。物理学などで地球は何十億年前に誕生したと言っています。それなのに、最初の24時間で光が出来、次の24時間で空、次の24時間で海と陸と植物、次の24時間で太陽、月、星、次の24時間で魚と鳥、次の24時間で陸の生き物と人間、合計144時間、分にして8,640分、秒にして518,400秒、これで地球誕生から最初の人類まで間に合うのか、誰も見向きもしないでしょう。

 

もちろん、神に不可能なことはないというのが聖書の立場なので、144時間で完結したという可能性も残しておきますが、ここは次のように考えることも出来ます。毎日の終わりに「夕べがあり、朝があった。第何の日である」という締めの言葉があります。ヘブライ語の原文の言い方は、「そして日の入りとなり、そして日の出となった。以上が第何の日である」という意味です。ここにあるのは、一日というのは日の出で始まり次の日の出までという考え方です。なので「日の入りとなって日の出となった」と言うのは、その日は暗くなったので仕事は終わりですという、その日の終わりを告げる合図の文句です。

 

つまり、天地創造の記述の観点は、造られたものを6つの段階的なグループにわけて、それぞれの段階の長さは私たちの時間の観念ではどれくらいなのかはわからないが、とにかくそれぞれの段階の終わりに「これで一日が終わりました」と言って、それぞれの段階が1日という扱いになって全部で6日になるように見せようとしていると考えることができます。それぞれの段階の長さは、私たちの時間の観念でひょっとしたら何億年もかかっているかもしれないが、それぞれに一日の終わりを意味する締めの言葉をつけることで1段階を一日と言っていると考えることができます。それでは、どうして6段階を6日にすることにこだわるのかと言うと、それは神が人間に1週間7日というリズムを与えて、7日目は安息日に定めるという意図があるからです。このように6日というのを6段階と考えれば、天地創造は時間的流れに関しては問題はなくなります。

 

4.

 

次に造られたものとしての人間と動物の立場について。先ほどのハラリは進化論に立つので霊の存在を否定します。そうすれば人間と動物は能力の差はあれ、同じ種類になるので決定的な差はなくなります。それなので進化論から見ると、キリスト教というのは人間を霊的な存在にはするが動物はそうせず、それで人間を優、動物を劣にしているというふうに見ます。ところが、聖書をよく読むと、動物も実は霊的な存在で、進化論が言うのとは逆の意味で人間と動物が同じ種類に入るということがあるのです。ひょっとしたら、これはあまり注目されてこなかったことかもしれません。少し注意しながら聖句を見てみましょう。

 

 5日目に神は魚と鳥を祝福します。そのまま続けて読んでいくと、6日目に人間も祝福します。あれ、人間と同じ日に造られた動物は祝福されないのか?やはり動物は神の祝福に与れない、人間より劣ったものなのかと思わされます。しかし、それならば、なぜ魚と鳥は祝福を受けられるのか?魚と鳥は動物以上で人間並みということなのか?

 

 これは、ヘブライ語の原文の厄介さがあります。複数形と単数形が入り乱れて、どれが何を指しているかよく考えないといけません。問題となるのは27節と28節です。28節を逐語訳すると、「神は彼らを祝福した。そして神は彼らに言われた。『お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして、お前は地を従わせよ』」となります。最後の「地を従わせよ」と命令されている相手は単数形なので「お前は」です。その前の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の相手は全部複数形です。それで「お前たちは」です。それが突然「お前は」になるのです。これはどういうことか?可能な考え方として、神が祝福した「彼ら」は人間だけではなく、同じ日に造られた動物も含まれる。そして両者に対して「産めよ、増えよ、満ちよ」と言った。ところが、「地を従わせよ」のところで相手を人間に絞ったということです(後注)。鳥や魚が祝福を受けて「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのなら、動物も祝福を受けられて同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われてもおかしくなく、それは文法的にも可能です。つまり、動物も魚も鳥も人間と同じように神の祝福を受けられ、みな「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのです。

 

動物が霊的な存在ということを考える時、民数記22章でバラムを乗せたロバが行く手に天使を見て立ち止まり、天使が見えないバラムに対して人間の言葉で話し出した出来事を思い出すと良いでしょう。人間には見えなくても動物には天使が見えたということが聖書にはちゃんと記載されているのです。

 

そこで、26節と28節に人間に動物、魚、鳥を「支配させる」と言われていることを見てみます。それは、聖書が人間に優越的な地位を与えていると考えられるところです。ところが、この「支配する」というヘブライ語の動詞רדהですが、詩篇72篇8節でも使われています。そこを見ると、正義を守る理想的な王の支配について言われています。力や数に任せた身勝手な権力行使ではないのです。そのように動物や魚や鳥に対しても、神の創造ということを念頭において何か注意深さ賢明さが必要ということになります。

 

さらに29節を見ると神は人間に食べ物として植物から採れるものを与えると言い、鳥や動物にも植物を食べ物として与えると言います。神が与える食べ物は人間も鳥や動物もかわりません。ところが、現実は、人間は動物や鳥も食べるし、鳥や動物の中には他の鳥や動物そして人間を食べるものもいます。それなので、神が人間と動物と鳥の食べ物について言ったことは、天地創造当初の理想状態の時のもので、それが堕罪の後で変わってしまったというふうに考えられます。そこで興味深いのは、イザヤ書11章にエッサイの切り株から出てくる若枝がこの世の権力者とは全く異なる仕方で世界を治めるという預言があります。エッサイはダビデの父親なので、エッサイの末裔から出る若枝とはイエス様のことです。イエス様が世界を治めるというのは、これは今の世が終わった後の次の世に現れる天の御国のことです。そこでは猛獣たちも他者を傷つけることなく家畜と一緒に仲良く並んで草を食べています。これは、まさに堕罪が起きる前の天地創造の理想的な世界が戻って来ることを示しています。つまり、動物たちも天の御国にいられるのです。

 

 それならばなぜ、聖書は動物のことをもっと出さないのか、もっと踏み込んで動物の救いについて言わないのかという疑問を持たれるかもしれません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架の死と死からの復活があったのであり、贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐を受けることが必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだと言っても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。じゃ、動物の救いは何かと言うと、それは聖書にはそれ以上のことはないのでわからない。聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造の業と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。

 

5.

 

以上、創世記の天地創造は、時間の流れについても受け入れるのに問題がないこと、人間と動物の立場についても神の創造に属するものとして同じ祝福に与っていることを見ました。もちろん、聖書は人間の問題に集中しているので動物のことは書いてある以外のことはわからず、神に任せるしかありません。いずれにしても天地創造は、救いを人間を超えて生態系にも及ぼしていることを予感できるだけで十分と思います。それなので、時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点も与えます。もし、自分は神なんかに創造されていないと言ったら、その時はもう造り主がどう思っているなんか考える必要はなくなります。自分こそ自分の主人だから自分の好きなようにやればいい、神なんかにとやかく言われる筋はない、という生き方になります。逆に自分は神に創造されたと認めたら、神との関係は必ず心配の種になりますが、神が贈ってくれた贖い主がおられる。彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きるのは自然なこと、別にとやかく言われるからするということではなくなります。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

(後注)

ここで厄介なことがいろいろありますが、解決策を考え出すことも可能だと思います。

一つの厄介なことは、「お前は地を従わせよ」と言った後すぐ、今度は「お前たちは海の魚、空の鳥(etc)を支配せよ」と言います。つまり、「支配する」人間が単数から複数に変わるのです。そうなると、その前で「お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言っていたのは、人間プラス動物ではなく、やはり人間だけなのではないかと思えてきます。しかし、26節と27節では人間は単数扱いになったり複数扱いになったり目まぐるしいのです。27節で「神は自分に似せて彼を(אתו単数)造った。男と女とに彼らを(複数אתם)造った。」とあります。28節の「支配する」が複数なのは、26節で複数形で言われている文をそのままそこにコピー&ペーストしたことで起こったのではないかと思います。

もう一つ厄介なことは、「支配する」動詞のרדהですが、詩篇8篇で神が人間に他の被造物を支配することを委ねたというところで、このרדהを期待したのですが、なんとמשלでした。実はこのמשלは創世記1章18節で「太陽が日中を支配し、月が夜を支配するために」のところでも使われています。秩序だった支配を意味すると考えれば、詩篇72篇8節の正義の支配と重なりますが、משלは現在分詞で「暴君」の意味もあるということで、頭が痛いところです。今回は解決策の模索はここで休止します。またいつの日か考えなければならない時が来ると思います。

 

2023年5月22日月曜日

我ら、使徒言行録の続編を生くる者 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)



スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2023年5月21日 昇天主日

 

使徒言行録1章1-11節

エフェソの信徒への手紙1章15-23節

ルカによる福音書24章44-53節

 

説教題 「我ら、使徒言行録の続編を生くる者」

  

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

 今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は創造主の神の計り知れない力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。そして今日は昇天日の直近の主日なので、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 

 さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、現代を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。今年は使徒言行録の昇天の記述とルカ福音書の記述の両方をよく見比べて、主の昇天が私たちに大いに関係があることをお話ししようと思います。その前に、まず昇天とはどんな現象かということについて、そしてイエス様が上げられた天とはどんなところかについて毎年お教えしていることを復習しておきます。その後でルカ福音書と使徒言行録の記述から、イエス様の昇天と私たちの関係を考えてみます。

 

2.昇天とはいかなる現象か?

 

 新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。イエス様の昇天を同じようなにイメージしてしまったら、同じように現実にはないものと思われてしまうのではないかと心配します。

 

 ところが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまった印象を与えてしまうと思います。

 

 そうなると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。それを思い出さないといけません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

 

 これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。

 

 ここで聖書を読む人が思い出さなければならないことがあります。それは、天に上げられた時のイエス様の体は既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが沢山ありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかない何かがありました。それから、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物の天使と同じではありません。イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

 

3.天の御国というところについて

 

 イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されたと思います。どうでしょうか?ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみます。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通キリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?

 

 毎年述べていることですが、世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

 

 なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰というものと全く別世界のことだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

 

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。

 

 ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに信仰者は、自分の命と人生はこの世だけではない、今のこの世は始めがあったように終わりもある、終わりの時には天と地が新しく再創造されてそこに神の国が唯一の国として現れる、自分の命と人生はそこで続いていくことになると考えます。この世では肉体の体をもって生きたように、この次に到来する世では復活の体をもって生きるようになる、そういうふうに人生を二つの世にまたがるものとして考えます。この人生観を持つ信仰者は、神がどうしてひとり子を私たち人間に贈って下さったかが分かります。それは、私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間が今のこの世の人生と次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。生きる舞台が今のこの世とこの次に到来する世の二つにまたがっているということは、本日の使徒書の日課エフェソの1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。

 

 それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が大いなる人生を持てるようになるのでしょうか?それは次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に背こうとする性向、罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために罪の問題を人間のために解決することにしたのです。

 

 どのようにして解決して下さったのでしょうか?神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生とこの次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を生きられるようになったのです。

 

4.我ら、使徒言行録の続編を生くる者

 

 以上、昇天とはどんな現象か、そしてイエス様が上げられた天とはどういう所か、私たちがそこに迎え入れられるようになるためにイエス様が大役を果たされたことを見ました。それでは次に、イエス様の昇天が現代を生きる私たちとどんな関係があるかについて、ルカ福音書と使徒言行録の記述から見ていこうと思います。

 

 ルカ福音書と使徒言行録のイエス様の昇天の出来事の記述は、同じ出来事を扱っているとはいえ、内容が少し違っていることに気づきます。使徒言行録の方がルカ福音書より詳しく書かれていますが、イエス様が弟子たちに話す内容が違っていたり、使徒言行録では昇天の時に雲や天使が出てくるのにルカ福音書にはありません。どういうことでしょうか?

 

 ルカ福音書と使徒言行録は同じ著者によるものです。著者がルカという人物であるというのは初代の教会からの言い伝えですが、それに対する反論はなく定説になっています。パウロのコロサイの信徒への手紙4章14節、ティモテへの第二の手紙4章11節、フィレモンへの手紙24節にパウロと共に福音伝道に携わった同志として名前が出てきます。

 

 ルカは福音書と使徒言行録をテオフィルスという位の高い人に献呈する書物であると双方の出だしで言っています。使徒言行録の出だしでは、テオフィルス様、先に私は、イエスが弟子たちに指図を与えて天に上げられる日まで彼が教えたり行ったりしたこと全てを第一巻として書き下ろしました、と言います。その第一巻とは言うまでもなくルカ福音書のことです。実際、ルカ福音書はイエス様が弟子たちに指図を与えて天に上げられたところで終わっています。イエス様が与えた指図というのは、天の神から力を受ける時までエルサレムに留まっていろということです。天の神からの力とは、聖霊が降ってきた時に受けられる力というふうに聖霊由来の力です。

 

 ところでルカは、使徒たちのようなイエス様の直接の目撃者ではなく、使徒たちの伝道を聞いて信仰者になって伝道に従事するようになった者です。ルカにとってイエス様は少し前の過去の人ですが、使徒たちは同時代の人です。そのことはルカ1章からわかります。そこで、自分はどのようにしてイエス・キリストの言行録を書いていくかということを述べます。目撃者の証言と信頼できる記録を集めて書くのだと。つまり、自分は直接の目撃者ではないが、信頼できる資料を集めて書き上げるのだと。使徒言行録ではそういうことは言っていません。それは、ルカが使徒たちから直接聞いたというだけでなく、自分自身使徒たちと行動を共にし使徒たちの生きざまの直接の目撃者であったからです。使徒言行録16章10節から、書き方が「私たちは~した」という言い方になり、目撃者としての立場を明らかにしています。

 

 このような背景がわかると、どうしてルカ福音書と使徒言行録の昇天の記述が異なってきているかがわかります。ルカは、福音書の方はあくまでイエス・キリストの言行録に留めよう、イエス様がこの世に贈られてから、この世で教え行ったことの記録をまとめようと、イエス様の言行録に徹したのです。どこで終わりにするかについてイエス様の昇天で終わりにすることにしたのですが、どういうふうに昇天を記述したらいいか、続く使徒言行録の出だしとの兼ね合いで考えなければならなくなりました。もちろん、ルカ福音書の終わりに使徒言行録の出だしとそっくり同じことを書いて重複させることも可能だったでしょう。しかし、ルカはそうしませんでした。なぜか?私は、ルカが手元にある沢山の資料を福音書用と使徒言行録用に使い分けたと考えます。どういうふうに使い分けたのか?

 

 ルカ福音書の方に、イエス様が十字架で死なれ死から復活されたことは旧約聖書の預言の実現であるというイエス様の言葉が入れられました。それでルカ福音書は彼が旧約聖書の預言の実現であることを明確にして完結させます。預言が実現したことで「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」(ルカ24章47節、新共同訳は「罪の赦しを得させる悔い改め」)、そういう神への立ち返りを人間が出来るようになった、そのことを人間に教え伝えなければならないというイエス様の言葉を載せて、使徒言行録への繋ぎとしました。

 

 続く使徒言行録では、もうイエス様が旧約聖書の預言の実現ということは繰り返されず、新しい動きに入っていきます。それは、人間が将来到来する神の国ないし天の国に迎え入れてもらえる可能性をイエス様が開いた、今度はその可能性を人間が持てるようにする働きが始まったのです。イエス様は40日の間、弟子たちに神の国について教えたと言われます。この教えで、弟子たちは、神の国が当時考えられていたような、支配民族を打ち倒してかつてのダビデの王国を再興するというような地上の国ではないとわかったでしょう。ダニエル書に預言された死者の復活が起きた以上はこの世を超えた終末論的な国だとわかったでしょう。

 

 ところが弟子たちは、この終末論的な神の国が遠い将来に現れるのではなく、今すぐにでも現れると考えたようです。それは彼らの「あなたがイスラエルの民に王国を再興するのは今のこの時ですか」という質問に見て取れます。イエス様は神の国について教えた時、自分はまず天に上げられて後で再臨する、その時に神の国が現れると教えなかったのでしょうか?それとも、教えたけれども、弟子たちは目の前にいる復活の主に心を奪われて、神の国の王が今まさに目の前におられる、王国はいよいよ打ち立てられると気がせく状態だったのでしょうか?いずれにしても、弟子たちの頭には主の昇天も再臨も全然入っていません。

 

 しかしながら、この時点での神の国の樹立は神の御心ではありませんでした。そんなことしたら、せっかくひとり子を用いて全ての人間に整えた可能性、人間が神の国に迎え入れられる可能性をまだほとんど誰も受け取っていない段階で新しい天と地の創造や最後の審判を行うことになってしまいます。これからしなければならない本当のことは、神の国に迎え入れられる可能性を全世界の人間が持てるようにすることでした。そのためには最初の目撃者たちに聖霊が降って力を得てイエス様について人々に証言しなければならなかったのでした。

 

 それでは、証言するのにどうして聖霊が降らなければならないのでしょうか?それは、ただ単にイエス様が十字架にかけられて復活したのを目撃しましたと言っても、それだけでは、すごいなあ、不思議だなあ、で終わってしまいます。十字架と復活の出来事は「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」を人間が出来るようになるために起きた出来事であるということを伝えないと何の意味もないのです。

 

 人間に神の意思に反しようとする罪があることを気づかせるのは聖霊です。同時にイエス様の十字架と復活に罪の赦しがあることをわからせるのも聖霊です。それなので聖霊が自分の内に働くようにする人は罪の自覚を持てて赦しを願う心を持ちます。これが神への立ち返りです。この立ち返りが起これば聖霊はすぐ心の目に主の十字架を示してくれます。これが罪の赦しをもたらす神への立ち返りです。この立ち返りは聖霊が働かないと起きないし、伝えることも出来ません。イエス様は弟子たちに、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授けたが、お前たちは「聖霊を伴う洗礼」を授けると言いました。「聖霊を伴う」というのは、洗礼を受ける者に「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」が実際に起こるようになるということです。そして、洗礼を受けた者が他の者に同じ立ち返りを伝えることができるようになるということです。それで、聖霊が自分の内に働くようにしているキリスト信仰者は神への立ち返りをしながら生き、他の者に立ち返りを伝えるのです。これは最初の使徒たちが行ったことそのままです。

 

 使徒言行録はパウロがローマに到着したところで終わっていますが、使徒言行録のテーマは終わっていません。イエス様が開いて下さった可能性、人間が将来到来する神の国に迎え入れてもらえる可能性を人間が持てるようにする働きはまだ続いているからです。とにかく主の再臨の日まで続く働きですから、私たちは使徒言行録の続編を生きているのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。

2023年5月11日木曜日

神を信じ主イエスを信ぜよ、さらば心騒ぐことなし (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

2023年5月7日 復活節第五主日 主日礼拝説教 スオミ教会

 

使徒言行録7章55-60節

ペトロの第一の手紙2章2-10節

ヨハネによる福音書14章1-14節

 

説教題 「神を信じ主イエスを信ぜよ、さらば心騒ぐことなし」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

 

 弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。

 

 ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。

 

2.道の決定版、真理の決定版、命の決定版

 

 イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して神聖な復活の体を持つイエス様がおられるのに相応しい場所、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。そこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。どこに連れて行ってくれるのでしょうか?それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、新しい天と地のもとで新しく始まる世の中にあります。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。

 

 そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれます。つまり、その国では旧い世の不正義の報いが完璧に果たされます。また、そこは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様はこの約束を必ず果たされると信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちを持てるのです。

 

 しかしながら、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に復活に関係する話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

 

 イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。どういう決定版かというと、創造主の神のもとに至る唯一の道という意味で決定版なのです。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っているなどと誤解する人が出てきます。 

 

 このように言うと、人によっては、いや、それはこの福音書を書いたヨハネの考えであって、実際のイエス様はそんな偏狭な考えの持ち主ではないと言う人もいます。そういう人にとって、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は実際のイエス様の言行録ではなく、それらを書いた人の限りなくフィクションに近い文学作品なのです。そういう、福音書を見ても実際のイエス様の教えや業は見えてこないという考え方はドイツの有名な聖書学者W.ヴレーデやR.ブルトマンの時代から1980年代まで聖書学会に根強くありました。福音書を文学作品のように扱うと、作者の意図は何かということに関心が行きいろんな解釈が生まれます。人を感心させたり感動させる解釈が注目を集めます。文芸評論みたいになります。ただ、それが実際のイエス様と関係ないことは、福音書は作者の文学作品であるという前提から明らかです。そのような解釈が信仰にとって妥当かどうかは、キリスト信仰の土台である使徒的伝統に照らし合わせてみればすぐわかります。

 

 話がわき道に逸れたので戻ります。イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいいが、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そういうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価を受けます。

 

 しかしながら、至福に至る道に関してキリスト教を他の宗教と同列にできない点があることを忘れてはいけません。恐らく多くの宗教では人間はこの世を去ったらあの世に行ってそこからこの世にいる人たちを見守っているというような、この世とあの世が同時併行してあるという見方ではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地再創造があるので同時併行にならないのです。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異なる次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は新しい復活の体を与えられてそこに迎え入れられるという流れになります。もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。それで、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なるのではないかと思われます。他の宗教ではこの世から離れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような何かを行っているという見方があると思われます。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。

 

 道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。

 

 真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理なのです。そしてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、これは真理なのです。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場です。最後の審判が真理であるということです。

 

 次に命の決定版ということについて見てみます。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。

 

3.父なるみ神と御子は一体

 

 7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践し、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことがわかるようになったのです。

 

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?

 

弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を開きました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

 

それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。弟子たちの働きはイエス様が天に上げられた後で本格化します。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。

 

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務として祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。

 

 自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者とは神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難に解決を与えて解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。それに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のために、その歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の忍耐が試されるところです。

 

4.おわりに

 

 イエス様は、心を騒がせるな、神を信じ私を信じなさい、と弟子たちに言われました。そこで、復活が関係する将来のことを話しましたが、まだ十字架と復活の出来事が起きる前です。弟子たちは何のことかわかりませんでした。イエス様はさらに、自分と父なるみ神は一体であることも教えましたが、それもわかりません。そこでイエス様は、言葉で信じることができなければ、イエス様の業のゆえに信じなさい、その業はイエス様と一体である父なるみ神が行うのである、それくらいイエス様と父なるみ神は一体なのであると言います。弟子たちはイエス様の行った数多くの奇跡の業を思い出したのではと思われます。

 

 しかしながら、それで弟子たちが心を騒がせなくなったかどうかはあやしいです。というのは、最後の晩餐の後でイエス様が逮捕されてしまうと、弟子たちは逃げてしまったからです。ペトロに至っては、お前はあいつの弟子だっただろうと聞かれて、あんな人知りませんと3度も答えてしまいました。

 

 ところが、弟子たちが心を騒がせなくなるような真の業がこの後に起こったのです。イエス様の復活がそれです。これこそイエス様と一体である父なるみ神が行う業の中で最高の業でした。復活された主を目撃した弟子たちは一変しました。権力者から、イエスの名を広めたら命はないぞと脅され続けたにもかかわらず、彼らはひるまず恐れず伝道していったのです。それでイエス様が、言葉で信じるのが難しければ業のゆえに信じなさい、と言った時の業とは復活だったことが明らかになりました。このように復活というのは、神がイエス様を通して行う業のなかで一番心を落ち着かせて勇気を与える業なのです。それなので復活の日を目指して歩むこと自体が、心騒がず勇気を持って歩める歩みになるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン