2022年5月18日水曜日

洗礼によって新たに生れて旅立とう (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

洗礼式 説教

2022年5月15日(日)

 

聖句 ヨハネ3章3~6節

説教題 「洗礼によって新たに生れて旅立とう」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.

 

 今お読みしましたヨハネ福音書の個所は、ニコデモという人とイエス様の対話の一部です。ニコデモは、当時ローマ帝国に支配されていたユダヤ民族の自治組織の代議員でファリサイ派に属していました。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の中で旧約聖書に書かれてある律法と書かれていない口伝えの掟の双方を守ることを主張していたグループです。これらの掟を守ることで自分たちは天地創造の神の目に適う者になれると固く信じていました。神の目に適う者になることは、死を超えた永遠の命を得られるために必要なことでした。

 

 そこにイエス様が現れて、人間は神の掟を完全に守ることはできない、それくらい内部から罪で汚れている、その人間が神の目に適う者になれて永遠の命を得られるためには罪の赦しを得なければならないと主張したのです。その罪の赦しはどうやって得られるのか?それはまだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は謎でした。このように、イエス様が教えることはファリサイ派が教えることと相いれないので、ファリサイ派はイエス様に反対します。

 

 ところが、ファリサイ派は神の目に適う者になれて永遠の命を得たいという望みがあるので、正しい信仰を求める心があります。ただ、求め方が間違っていたのです。ファリサイ派の中にも自分たちの行っていることは本当に大丈夫なのだろうかと見直す心のある人はいました。ニコデモはその一人でした。彼は人目につかぬように夜にイエス様のもとに出かけて行って教えを求めます。

 

 訪れたニコデモにイエス様はいきなり言いました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」これにニコデモは面食らいます。神の国つまり将来永遠の命を得た者が入ることになる御国は、神の掟や律法を守ることでなく、新たに生まれなければ入ることはできないのだとイエス様は言うのです。この「新たに生まれる」ということがニコデモにとって難しかったようです。彼は文字通り受け取ってしまいました。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生れることができるでしょうか。」そこでイエス様は、「新たに生まれる」とはどういうことか教えます。「はっきり言っておく。だれでも、水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

 

2.

 

 新たに生まれるとは、水と霊によって生れることだと言います。これは言うまでもなく洗礼のことです。洗礼によって人は新たに生まれると言うのです。洗礼で新たに生まれる前の生まれ、母親の胎内から生れる最初の生れは「肉からの生まれ」です。人間誰もが生れる生れです。しかし、それは水と霊による生まれではないので、そのままでは永遠の命を得ることも神の国に入ることもできません。肉から生まれた状態の上にさらに霊から生まれた状態を被せないと永遠の命を得て神の国に入ることはできないのです。

 

 それでは洗礼を受けて新たに生まれたら、どうして永遠の命を得て神の国に入ることができるのでしょうか?それは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって人間に勝ち取って下さったもの、すなわち罪の赦しが洗礼を通して私たちの内に入ってくるからです。律法に照らし合わせて見れば私たちはまだ罪を持つ身であっても、赦しを受けられるので、神の国に入ることができるのです。

 

 洗礼を通して得られるのは罪の赦しだけではありません。神の霊すなわち聖霊も与えられます。聖霊は、私たちに罪が残っていてもそれは必ず赦されるという真理を教えてくれます。また、イエス様の犠牲によって私たちは無罪とされると弁護して下さいます。人間は洗礼を受ける前にイエス様の十字架と復活のことを聞いて、イエス様が罪の赦しを打ち立ててくれた救い主であることがわかるようになります。その時すでにその人には聖霊が働いています。そこで洗礼を受けると、聖霊はその人に常駐するようになります。「エフェソの信徒への手紙」1章13~14節でパウロが言うように、洗礼を受けた者は「聖霊で証印を押された」者です。パウロはまた、聖霊はキリスト信仰者が神の国に入れるための保証だと言います。

 

3.

 

 洗礼を受けて神からの罪の赦しと聖霊を得られると、今度は将来この世が新しい世に取って代わる時に到来する神の国に迎え入れられる地点に向かって旅が始まります。つまり、洗礼を受けると神の国に向かう道に置かれてそこに向かって歩み出すのです。一旦歩み出したらもう後戻りできない旅です。一度受けた洗礼は取り消すことができないからです。受けてしまったら最後、復活を遂げて神の国に迎え入れられることが人生の最終ゴールとして確定します。

 

 ところが最終ゴールは確定したのに途中で道から外れてしまったり迷子になる人も出てきます。この世はキリスト信仰者がゴールに向かうのを邪魔しようとする力が沢山働いています。また信仰者の内部にも罪が残っていて、それがお前は神の目に相応しくないのだと言って歩みを断念させようとします。

 

 しかしながら、洗礼を受けて神から罪の赦しを受けた者は神と結びついています。神はこの世のどんな力よりも強い方です。なぜなら神は創造主でその他のものは被造物だからです。また洗礼を受けて聖霊を受けた者は、罪の自覚を持ってもすぐ罪の赦しに転化してもらえます。罪の自覚があればあるほど赦しを与える神との結びつきが強くなっていくという構図です。罪が人間を陥れようとしてやることはキリスト信仰者には全く逆効果になるのです。実にキリスト信仰者にはこのような強い味方が人生の旅路の同伴者としてついていて下さっているのです。この旅を続ける限り、キリスト信仰者はいつも新しく生まれた者でい続けます。そして、復活の日、神の国に迎え入れられる日、それはもう罪の自覚も赦しも過去のものになった、新しく生まれた者の成人式です。

 

4.

 

 今日これから洗礼を受ける〇〇さんも、この新しい人生の旅路を始めます。私たちと一緒に最終ゴールを目指して歩むことになります。〇〇さんはもう大分前からイエス様のことを自分にとって救い主だと思うようになっていました。聖霊が働き始めていたのです。イエス様が自分にとっても救い主であることをスオミ教会の礼拝と聖書の学びを通して確信するに至りました。また、既にいろいろなことでイエス様を通して父なるみ神に祈ることもされていました。今次のウクライナの戦争では居てもたってもいられなくなり、ウクライナ大使館に行ってウクライナの人たちのために祈りたいと申し出て、驚き喜んだ外交官たちと一緒にお祈りしたという位に祈る勇気のある方です。今こそ聖霊を常駐させる時、洗礼の時です。

 

 〇〇さんはまた、ご自身でご病気を抱えながらも区の傾聴ボランティアを長年続けられ多くの悩む心に向き合ってこられました。どうか父なるみ神が〇〇さんの健康を祝福して守り、彼女の祈りと傾聴の活動を通して多くの方に聖霊の働きが及ぶようにお祈りいたします。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2022年5月16日月曜日

神の愛に挟まれて (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年5月15日復活後第五主日 スオミ教会

 

使徒言行録11章1-18節

ヨハネの黙示録21章1-6b節

ヨハネによる福音書13章31-35節

 

説教題 「神の愛に挟まれて」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                               アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課の個所はイエス様が十字架にかけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしている場面です。よく「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去りました。その時イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。裏切る者が目的を果たそうと立ち去ってイエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とはどういうことでしょうか?それを言った後で今度は弟子たちに新しい掟を与えると言って「互いに愛し合いなさい」と命じます。

 

 裏切る者が出ていってイエス様が栄光を受けることになるというのは、わかりにくいことです。そしてその後すぐに、互いに愛し合いなさいと言われる。この二つは一見関係ないように見えますが、実は深く結びついています。イエス様が栄光を受けることがどういうことかわかると、キリスト信仰の愛がどういうものかもわかるのです。逆に、イエス様が栄光を受けることがわからないとキリスト信仰の愛もわからないのです。今日はこのことをわかるようにしていきましょう。

 

2.イエス様が栄光を受けるとは?

 

 裏切る者が目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことか?それはまず、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定したということがあります。それでは、死ぬことがどうして栄光を受けることになるのか?しかもそれで、神も栄光を受けることになるのか?

 

 イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。それはどんな意味でしょうか?人間は創造主の神に造られた最初のアダムとエヴァの時から罪というものを代々受け継いできてしまいました。それでイエス様はこの罪から人間を解放するために自分を犠牲にしたということです。確かに、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われてしまうかもしれません。特に生まれたばかりの赤ちゃんは無垢そのもので、それも罪を持っているなどと言うのは酷いと思われるかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間誰もが罪を持っているということなのです。たとえ一時の間、悪い言葉や思いや行いが出なくとも人間だれもが神の意思に反しようとする性向を持っているというのが聖書の立場です。

 

 人間はこの罪をそのままにしておくと、いつまでたっても神との関係は切れたままです。この世から別れた後も神のみもとに戻ることはできません。それで神は、人間が自分と結びつきを持ててこの世の人生を生きられ、この世から死んだ後は復活の日に自分のもとに迎え入れてあげよう、それによって永遠の滅びに落ちないようにしてあげようと決めました。それで、ひとり子イエス様をこの世に贈り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方を取ったのです。少し法律的な言葉で言うと、本当は有罪なのは人間の方なのに、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実のひとり子に背負わせて有罪者が背負わないですむようにした。有罪者は気がついたら無罪になっていたのです。

 

 罪は、人間が神との結びつきを持てなくするようにする力を持っています。また、人間がこの世から別れた後で復活を遂げられず神のみもとにも迎え入れられないようにする力も持っています。人間をこの悪い力から解放するために神は、ひとり子を犠牲に供してその犠牲に免じて人間の罪を赦し神罰に定めないという手法を取ったのです。そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業なのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、神が打ち立てた罪の赦しが自分の中に入ってきます。そして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、この世から別れた後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられるようになったのです。このように罪はキリスト信仰者に対してはかつての力を失ったのです。加えて、イエス様が死から復活させられたことで死を超える永遠の命が人間に打ち立てられました。罪と死はキリスト信仰者に対しては支配する力を引き抜かれたのです。

 

3.神の愛に挟まれて

 

 このようにイエス様が受難を受けて死ぬというのは、神による人間の救いが実現するということなので、それでイエス様は栄光を受けることになるというのです。このような救い方を考えて実行した神も栄光を受けることになるのです。つまり人間のためになることが起こることで神とひとり子が栄光を受けるというのです。聖書の神は一体なんという神でしょう!私たち人間は、この救いを神に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、本当に罪を赦されて罪の支配から脱せられるのです。そして神との結びつきを持てて復活と永遠の命に向かう道を歩むようになるのです。もちろん、道中いろんなことが起こります。それでも神との変わらぬ結びつきがあるから何があっても大丈夫、いつも導きと力を頂けます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて永遠にみもとに迎え入れられます。

 

 これだけの途方もないこと、今のこの世と次に到来する世の双方にまたがるスケールの大きなことを父なる神とひとり子イエス様はこの私のために成し遂げて下さったのだ、とわかった時の安心感と感謝の気持ちと言ったらないでしょう。この安心と感謝があると、この場合の神の意思はどうだったかといつも思い起こして、それに沿うように生きようという姿勢になります。これが神に対する愛です。神が与えた掟を守ることが自然で当たり前になっているのです。これとは逆に、神が自分に途方もないことをしたということがわからないと、神への本当の感謝もなく本当の安心もありません。そのような状態で掟を守ろうとしたら自然で当たり前に守ることになりません。イヤイヤで無理に守ることになります。

 

 このように、神がイエス様の十字架と復活という、歴史の過去にこれほどのことをして下さったとわかると安心と感謝が生まれ、そこから神の意思に沿うように生きようと向かいだします。それに加えて、神は将来何をしてくれるのかも知っておくと神の意思に沿おうとする心に勇気が加わります。本日の黙示録21章の日課では、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されて死者の復活が起こる日、神がみもとに集めた者たちをどうされるかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3-4節)」。

 

 目から「全ての涙」(παν δακρυον)を拭われるというのは、この世の人生で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできます。しかし、それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、正義も残念ながら実現に至らないことがあります。いろんなことがこの世の段階でやり残ってしまい、未解決のまま無念の思いでこの世を去らねばならないことが多くあります。ところがキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると神の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されるのです。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。キリスト信仰者はそういう時が来ると知っているので、この世でおよそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、また信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の至るところに「命の書」という、最後の審判の時に開かれる書物が登場します。それは、全ての人間に関する神の記録書です。そのような書物があるというのは、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたか全てご存知で、何も見落としていないということです。誰も自分のことをわかってくれないと悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っているのです。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人自身以上よりもその人のことを知っているのです。

 

 復活の日は神の国で全てのことが清算され報われる日ですが、その日は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録19章5-9節、マタイ22章1-14節、黙示録21章2節も参照)。つまり、この世での労苦が完璧に永久に労われるということです。

 

 キリスト信仰者というのは、過去に神がひとり子イエス様を用いて「罪の赦しの救い」を打ち立ててくれたことを知っているだけではありません。将来自分が死から復活させられる時、神がこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれることも知っています。このように過去に神がしてくれたこと、将来してくれることの両方に挟まれるようにしていると、神に大きな感謝、深い安心と強い勇気を持つことができます。それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。

 

4.隣人愛のための視点

 

 神の愛に挟まれるようにして生きるキリスト信仰者は神の意思に沿うように生きようとする。このように神の愛を受けて神に対する愛が生まれる。それでは、隣人に対する愛はどのように生まれるでしょうか?隣人を愛せよと言うのは神の意思です。それなので、神の意思に沿うようにしようとすれば隣人を愛することも当然のことになります。しかし、それでも難しいことがあります。相手が神の場合は神が大きなことをして下さったので神を愛する心が生まれます。相手が隣人の場合はいつもいいことをするとは限らないし、逆の場合もあります。それなのに愛せよというのは難しい感じがします。どうしたら隣人を愛せよと言う神の意思に沿うことができるでしょうか?ここでは2つの視点をあげてみましょう。

 

 まず一つは、神が自分にどれだけのことをして下さったかをもう一度確認することです。マタイ18章にイエス様の一つのたとえの教えがあります。50億円の借金を抱えた男が主人に泣き叫んで帳消しにしてもらったのに自分に50万円の借金ある者を赦さずに牢屋に送ってしまった、それを聞いた主人は激怒して、私はお前の多額の負債を帳消しにしてやったのだからお前も同じようにすべきではなかったかと言って牢獄に送ってしまうという話です。50億円を帳消しにしてもらったら50万円を帳消しにするなんて容易いことではないかという話です。キリスト信仰の有り様も大体これと同じですが、ただ桁数が違いすぎます。人間が永遠の滅びに落ちないで復活を遂げて永遠の命に入れるように神のひとり子が犠牲になって罪という負債を帳消しにしたということです。これだけ大いなる帳消しは50億と50万の比どころではありません。永遠の命がかかっているので1千兆円と1円の比以上です。それだけの赦しを受けたら自分も隣人を赦してあげるのが当然になるのではないでしょうか?

 

 ただ問題が深刻な場合もあります。相手が与えた害悪が重大すぎる場合とか、相手が自分には全然問題がないと思っている場合です。どうしたらよいでしょうか?このような場合は、キリスト信仰の基本的なスタンス、大いなる赦しを得たので自分も赦すというスタンスにとどまります。ただなかなか気持ちは収まりません。その場合でも、社会の秩序が保たれるために法律的に解決しなければならないことはします。自分自身だけでなく自分の周りでも十戒が破られることを放置してはいけないからです。ただしその場合でも、パウロがローマ12章で教えるように復讐心で行ってはいけません。それは、先ほども申したように最後の審判で神が正義の不足分を全て最終的に完全に清算されるからです。

 

 もう一つの視点は、キリスト信仰者というのは宗教改革のルターも言うように、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者であるという自覚です。つまり、皆が皆、何かしら支援を必要としているということです。そこをわきまえていないと完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのためにパウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です(27節)。このことについて宗教改革のルターは次のように教えています。

 

「主にある兄弟姉妹が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。あるいはまた、それを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうだろう。その時はもう手遅れだ。どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」

 

5.キリスト信仰者の隣人の場合、信仰者でない隣人の場合

 

 以上の述べてきたことはキリスト信仰者同士の愛についてでしたが、相手が信仰者でない人の場合はどうなるでしょうか?それでも基本的なスタンスは同じだと思います。自分は父なるみ神から莫大な赦しを受けたので、今この世の人生を神との結びつきを持てて生きられる、この世から去った後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられる道を歩んでいるというスタンスです。それと、歩んでいる自分はこの世にいる間は不完全なままで罪の自覚がありそれで神に赦しを祈る、イエス様の十字架と復活がある以上、赦しは確実にあることを確認しながら生きていくというスタンスです。

 

 このスタンスに立った場合、信仰者でない人たちに対する隣人愛も目指す方向が出てきます。それは彼らも罪の赦しを得られるようにして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてこの世を去った後も復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられる道を歩めるように信仰者は導いてあげるということです。どうしてそんな方向が出てくるのでしょうか?

 

 それはイエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると火を見るよりも明らかです。イエス様の愛の実践は、人間と造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、それを妨げていた罪の力を無力にして罪から来る神罰を私たちに代わって全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いをもたらしたということがその出発点にあり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールとしてあります。それなので、隣人愛と聞いて普通頭に浮かぶ、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、キリスト信仰の場合はこの出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になると言っても言い過ぎではありません。

 

 そうなると、キリスト信仰の隣人愛とは、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人が相手の場合は、その人が受け取った救いにしっかり留まれるように助けることが視野に入ります。まだ受け取っていない人の場合は、受け取るように導いてあげることが視野に入ります。受け取っていない人の場合はいろいろ難しいことがあります。もしその人がキリスト信仰に興味関心を持っていれば、信仰者は教えたり証ししたりすることができます。しかし、興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それは難しいです。それでも信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるように導いて下さい」と一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近な課題にして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

2022年5月9日月曜日

羊飼いが羊を守り導くようにメシアも守り導かれる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2022年5月8日 復活節第四主日

 

使徒言行録9章36節-43節

ヨハネの黙示録7章9節-17節

ヨハネによる福音書10章22-30節

 

説教題 「羊飼いが羊を守り導くようにメシアも守り導かれる」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに

 復活祭の後の福音書の日課は死から復活したイエス様が弟子たちの前に姿を現した出来事が中心でした。今日の福音書の日課は舞台を再び十字架と復活の前に戻します。イエス様の教えと業は、十字架と復活の出来事の前は聞く人見る人にとってわかりにくいことが多くありました。それが、十字架と復活の後になって、それらがどんな意味なのかが正確にわかるようになりました。本日の日課についても私たちは、イエス様の十字架と復活の出来事を知る者として意味を確認してまいりましょう。

 イエス様は、数多くの奇跡の業と神の権威がある教えでローマ帝国シリア州(マタイ4章24-25節)において名声を博していました。イエス様自身、自分は父なるみ神から送られた「神の子」であると、また旧約聖書ダニエル書に出てくる救世主的人物「人の子」であると公言していました。それに対してユダヤ教社会の宗教指導層は、あれは神の子でも救世主でもない、民衆を惑わす危険な男だと見なしていました。宗教指導者たちが神と人間の関係を取り仕切っていたところに、別の誰かが勝手に取り仕切るようになったら、それは彼らの権威に対する挑戦になります。しかし本当は、イエス様の取り仕切りが神の意思そのものだったのです。宗教指導者たちはそれが全くわからず、自分たちの教えや流儀が神の意思だと思い込んでいました。

 それで宗教指導者たちは、なんとかこのイエスを捕まえて殺してしまおうと考えるようになっていました。そこで、エルサレムの神殿の祭事の時に大勢の人でごった返す中にイエス様を見つけて取り囲み尋問を始めます。イエス様が何か間違ったことを言えば、大勢の人が目撃者となる状況です。指導者たちは聞きます。いつまで我々に気をもませるのか、お前がメシアなら、はっきりそう言え、と。イエス様は答えます。自分は既にそう言ったのに、君たちが信じようとしないのだ、と。

 ここで、ヨハネ福音書をさかのぼってみると、イエス様が自分のことをメシアだと指導者たちに公言したことは見当たりません。4章のサマリア人の女性とのやりとりの中で、自分がメシアであると明かしますが(26節)、ユダヤ人の前では信奉者に対しても反対者に対しても、自分は父なるみ神から送られた「神の子」とか、救世主的人物である「人の子」とか言うだけで、ずばりメシアであるとは言っていません。もっとも、ユダヤ人の中にはイエス様がメシアだと信じる人も出ていました(7章31節)。イエス様は自分からは言っていないのに、既にそう言ったというのはどういうことでしょうか?これは当時、メシアという言葉が人々に誤って理解されていたという問題があります。

 メシアとは、もともとは頭に油を注がれて聖別された者を意味しました。神から特別な使命を与えられた者です。実際には、ダビデ王朝の王様が代々即位する時に油を注がれたので、ダビデ家系の王様を意味するようになりました。ところが、ダビデ王朝の王国は紀元前6世紀初めのバビロン捕囚の時に滅びてしまいます。イスラエルの民は同世紀の終わりにユダの地に帰還を果たしますが、それ以後はある一時期を除いて諸外国の支配下におかれ、ダビデ王朝の王国は再興しませんでした。何世紀もの間ユダヤ民族の間では、将来ダビデ家系の王が現れ、外国支配を打ち破って王国を再興し諸国に大号令をかけるという期待がずっと抱かれていました。この王がメシアと考えられたのです。

 他方で、バビロン捕囚から帰還した民の中には、旧約聖書イザヤ書の終わり(65章や66章など)にある預言に注目して、今ある天と地はやがて終わりを告げて新しい天と地に再創造される時が来るとわかった人たちがいました。そのような預言を通してメシアとは創造の秩序が一新される時に現れて、創造主の神の目に適う者を御許に迎え入れてくれる方という、そういう終末的な救世主を意味するということがだんだん明らかになってきます。この意味のメシアはユダヤ民族を解放する王様とは違います。全人類にかかわる救世主です。

 そうすると、イエス様が尋問を受けた時、それまで自分がメシアであるとはっきり言っていなかったのに、どうして既に言ったなどと答えたのかがわかってきます。イエス様は、特定民族の解放のためにこの世に送られたのではなく、文字通り全人類の救い主として送られたということがポイントです。もし「私はメシアだ」と言ったら、聞いた人たちの多くは、イエスは自分がメシアだと言ったぞ、ダビデの末裔の王で、これからイスラエルをローマの支配から解放すると宣言したぞ、と捉えたでしょう。そうなれば、宗教指導者たちにとってはしめたものです。この男は反乱を企てています、とローマ帝国の官憲に引き渡せばいいだけです。イエス様自身は、もちろん自分は本当の意味でメシアであるとわかっていました。しかし、聞く側がそう受け取らないこともよく知っていました。それで、人々がメシアを正しく理解していない間は、自分でその言葉を使うのは控え、かわりに父なるみ神から送られた「神の子」であるとか、終末の救世主「人の子」であると言い換えていたのです。でも、それがメシアの本当の意味だったのです。もちろん、「神の子」、「人の子」と言うのも宗教指導者たちを苛立たせました。なぜなら、神を冒涜していると思ったからです。

 

2.本当のメシア

 ユダヤ教社会の宗教指導層は旧約聖書に集積された天地創造の神の言葉を維持管理する立場にありました。それなのになぜ彼らはイエス様が「神の子」であること「人の子」であることを信じられなかったのでしょうか?イエス様が数多くの奇跡の業を行っていたことは広く知れ渡っていました。しかも、それを自分の父である神の名によって行っていました。業自体が既に神の子であることを証明しているのに、指導者たちは信じない。イエス様は呆れ返ります(10章25-26節)。

 指導者たちの不信仰の理由の一つは、先ほども申しましたように、イエス様が指導者たちを飛び越えて神と人間の関係を取り仕切ろうとした、そのことが指導層の権威に対する挑戦と受け止められたことがあります。彼らは自分たちのしていることが神の意思だと信じて疑わなかったのです。4つの福音書を見ると、宗教指導層に対する批判が多くあるので彼らは即悪党集団という印象がもたれがちです。ところが歴史的事実として、彼らの中には、自分たちは神の意思を究めたい、究めた神の意思をしっかり守り実現していきたい、と自分なりに神に忠実であろうとした人たちも大勢いたのです。それなのにどうしてイエス様を神の子、救世主と信じることができなかったのでしょうか?それは、自分たちの教えや流儀こそが神の意思であると固く信じていたからです。このためイエス様がいくら奇跡の業を行っても、お前を神の子と信じるにはまだ足りない、という位に頑なになってしまったのです。この頑なさはさらに度を増します。イエス様は労働を禁じる安息日に病の人を癒す奇跡を行いました。すると、人が助かったことよりも安息日を破ったということに目が行ってしまい、この男は神の意思に逆らう者だ、などと奇跡の偉大さが見えなくなってしまうほどでした。

 宗教指導層が神の意思を誤って理解していた原因としてもう一つ、旧約聖書に書かれている神の約束をユダヤ民族のみに関わると理解していたこともあります。確かに、旧約聖書を繙くと、神とイスラエルの民の関係の歴史が延々と語り伝えられています。それで、ユダヤ民族以外の世界の諸民族はその他大勢に括られてしまうだけに感じられます。しかし、たとえユダヤ民族の歴史の記述が大半を占めていても、旧約聖書に述べられている神の約束は全人類に関わるものです。

 それは、創世記の出来事から明らかです。神に造られた最初の人間が神に対して不従順となり、神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったために人間は死ぬ存在となってしまいました。人間はユダヤ民族か否かに関わらず、誰でも死ぬ以上、誰もが造り主である神に背を向けようとする罪の性向を受け継いでいます。罪を言い表す時、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、具体的な行為に現れる罪(tekosynti、verksynd)と具体的には現れなくても遺伝して誰でも持っている罪(perisynti、arvsynd)という二つの言葉があるくらいです。このような受け継がれる罪があるので、たとえ具体的に行為や言葉や思いに現れなくても人間は皆罪びとであるというのが聖書の立場です。

 この罪のために、人間は神聖な神との結びつきを失ってしまいました。それに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世から別れた後は永遠に自分のもとに戻れるようにしようと決めました。神はそれを人間の歴史の中で実行したのです。どのように実行したでしょうか?

 アブラハムが歴史の舞台に登場しました。モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の地エジプトを脱出して約束のカナンの地に移住しました。この過程でイスラエルの民、ユダヤ民族が出来てきました。神は、この自分が選んだ民とのやり取りを通して、自分はいかなる者で、いかなる意思を持ち、何を考えているかをたえず知らしめ、その都度その都度、将来実現する人間の救いについて預言者を通して明らかにしました。これらをまとめたものが旧約聖書です。

 そして、救いを実現する時が来ました。神はひとり子をこの世に送ったのです。ひとり子はダビデ家系のヨセフの婚約者、乙女マリアを通して人間として誕生しイエスの名をつけられました。神がイエス様に課した役割は、人間の罪を全部彼に背負わせて人間の代わりに神罰を受けさせて人間が受けないで済むようにすることでした。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法をとったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。人間はただイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の赦しを自分のものにすることができます。それで人間は神との結びつきを回復出来、結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は復活の日に復活の体を着せられて造り主のもとに永遠に迎え入れられるようになったのです。

 神のひとり子がこの世に送られた場所は、まさに神の意思である十戒と御言葉と約束の維持管理を任されていたユダヤ民族の真っただ中でした。イエス様は神の意思を誤って理解していた指導者たちに本当の神の意思と神の業を示したのに反対されて処刑される、そういう形で人間を罪から贖う、いわゆる贖罪を自ら行ったのです。さらに神はイエス様を死から復活させ、この世に対して死を超えた永遠の命が本当にあることを示されました。そこに至る道を人間に切り開かれたのです。このように神の約束は、かつて人間が失ってしまったもの、造り主との関係を回復するという約束でした。それは特定の民族にとどまらない全人類に関わるものだったということが明らかになりました。願わくは、神の約束が特定の民族や文化文明に向けられたのでなく、全世界の人々に向けられていることが多くの人にわかってもらえますように。

 

3.本当のメシアは良き羊飼い

 本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について語ります。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(10章27-28節)。永遠の命を与えられ、この世から死んでも決して滅ぶことはない「彼ら」とは誰のことか?それは復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになった者、キリスト信仰者のことです。

 イエス様の「声を聞き分ける」とは、十字架の前に彼の教えを耳で直に聞いたということだけではありません。死から復活して天に上げられたイエス様の声を私たちは直に耳で聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った教えは、彼の弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。イエス様が救い主と信じないで福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史物語にしかすぎません。しかし、信じて読むとそれは自分を造って命と人生を与えてくれた神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻して下さった救い主メシアの言葉になります。彼が私たちに語りかける言葉です。福音書以外の書物も、使徒たちが記した書簡は復活したイエス様が、あなたたち、伝えなさい、と彼らに託した自分の言葉の集大成です。旧約聖書も、ひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらすことになる神がどのような方であるかを明らかにする書物群です。総じて聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついています。聖書を繙くことで、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに、イエス様のことを知ることができます。

 イエス様はまた、彼の羊、つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いであるイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。個人的に知っているから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。ご存知ではあるけれども、イエス様の方では、私たちがそれらのことをお祈りして打ち明けることを望んでいます。そうすることで、私たちはイエス様に信頼をおいていることをイエス様にも示し自分自身にも言い聞かせることができます。イエス様や父なるみ神はどうせ全部ご存知だから祈る必要もない、というのは信頼をおくことを怠けることになります。

 死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、造り主の神との結びつきを持ってこの世の人生を歩むことになると申しました。人生の歩みでは、いつも私たちの祈りを聞いてくれる、個人的な思いや願いを聞いてくれる主がいつもそばにいるとも申しました。しかし、人生の歩みの中で、本当に神との結びつきはしっかり保たれているだろうかと疑問や不信を抱くことが多くあることも事実です。特に罪に陥った時とか、苦難や逆境に陥った時がそうです。

 罪に陥った時、陥ったのはあくまで自分ですから、それで十字架と復活がもたらす救いと恵みの力が減ることはありません。救いと恵みに力がなくて罪に陥るのを阻止できなかったということではありません。救いと恵みの力と価値は私たちがどんな状況にあるかにかかわらず不変です。それゆえ、罪に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、罪を罪として認めて神の御前で赦しを祈ることです。そうすると十字架と復活に現れた神の恵みと愛は私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者はいつも立ち返れる地点があります。

 それから、私たちは自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることもあります。この問題はとても難しいです。一つ言えることは、そのような時でも、救いと恵みに力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」で始まる詩篇23篇の4節に「たとえ死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われています。主がいつも共にいてくださるような者でも死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主が共にいれば苦難も困難もないとは言っていません。苦難や困難が襲って来ても主は見放さずに共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に再興された神との結びつきは私たちの方で捨てない限り、いかなる状況にあっても保たれているのです。

 今日の説教の中で、キリスト信仰者は神との結びつきを持ってこの世を進むとか歩むとか申しました。一体どこに向かって進むのでしょうか?それについても申しました。復活の日に復活を遂げて神の御許に迎え入れられるところです。このことが今日の黙示録の中でも言われていますので、最後にそれを見ておきましょう。

7章14節「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」

 イエス様がゴルゴタの十字架で流した血で私たちは罪から清められる道に置かれてその道を進みます。復活の日、私たちは内も外も完全に白くされているのを自分の目で見ます。イザヤ書1章18節の神の言葉「お前たちの罪が赤くとも、お前たちは雪のように白くされる」がイエス様の十字架の血のおかげで本当になるのです。また詩篇51篇9節のダビデの祈り「私を雪よりも白くして下さい」も本当になるのです。

7章15~17節「玉座に座っておられる方がこの者たちの上に幕屋を張る。彼らはもはや飢えることも乾くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを襲うことはない。玉座の中におられる小羊が彼らの牧者となり、命の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである。」

 ここに、イザヤ書49章10節、詩篇121篇6節、詩篇23篇1、2節、イザヤ書25章8節の御言葉がそのまま実現するのを見ることが出来ます。

 兄弟姉妹の皆さん、このように旧約聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついていると言うのは誠にその通りです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

 アーメン

2022年5月2日月曜日

イエス様が教える愛とは? (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2022年5月1日 復活節第三主日

 

使徒言行録9章1節-20節

ヨハネの黙示録5章11節-14節

ヨハネによる福音書21章1-19節

 

説教題 「イエス様が教える愛とは?」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに ― ペトロとパウロ

 

 今日の聖書の日課にはパウロとペトロのことが出てきます。パウロはもともとはサウロという名前でした。古代ユダヤ民族の初代の王サウルのことです。王様の名前だったのが「小さき者」を意味するパウロになりました。ペトロの方はもともとシモンという名でしたが、イエス様からお前の名はこれからは岩を意味するケーファーだと言われました。これはアラム語ですが、それがギリシャ語のぺトゥロスになりました。「岩」というのは教会の基を意味します。私が中学の時だったか高校の時だったか、世界史のテストで( )に人物名を書けという問題で「キリスト教が誕生した時、ユダヤ人に伝道したのは( )、ユダヤ人以外の異邦人に伝道したのは( )」というのがあって見事に逆に書いてしまいました。似たような名前なのでどっちでもいいじゃないかなどと思ったものですが、その頃、新約聖書くらい読んでいたら、そんなことにはならなかったでしょう。

 

 ユダヤ人に伝道したのがペトロ、異邦人に伝道したのがパウロというのは少し乱暴な区分けです。キリスト教会の誕生史をみると最初はユダヤ人が中心でした。イエス様の弟子たちも皆ユダヤ人で、イエス様自身、ユダヤ人の乙女マリアから人間の肉体を受けてこの世に生まれたので、旧約聖書を受け継ぐ民族の一員として生まれました。そういう背景があるので初代のキリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はまずユダヤ人であるべきということにこだわりました。イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアと信じるならば、その人は旧約の伝統を受け継ぐ者でなければならない。もし異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そう考えられても不思議はありません。ところが天地創造の神は、そうではないということをペトロに教えていたのです。それでペトロはローマ帝国の将校コルネリウスに洗礼を授けたのです(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人にこだわり続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。

 

 パウロは、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないという立場でした。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられ、そのようにして天地創造の神から罪の赦しを等しく受けられて神と結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も復活を遂げて神の御許に迎え入れられるようになりました。わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要はなくなりました。実にありがたいことです。

 

 そのパウロの伝道の仕方をよく見ると、彼は伝道する先々でまずシナゴーグに行って教えました。ということはユダヤ人に伝道したのです。ただ、教えを聞いたユダヤ人たちは受け入れる人も出るが反対者の声が強くてパウロは追い出されてしまうことが度々でした。ところが、シナゴーグの外でなんと異邦人がパウロの教えを受け入れるということが起きたのです。パウロは両方を相手に伝道したのですが、結果的に異邦人が受け入れたということです。

 

 イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるのに、ユダヤ教に改宗しないでいいというパウロの教えはどうして生まれたのか?本日の日課にある出来事、パウロがキリスト教徒迫害の旅をしていた時に復活の主の栄光を目のあたりにしたことが大きなきっかけになりました。そのことについて私は3年前の説教でお話したことがありますので、興味のある方はそちらをご覧ください(教会HPにあります)。本日はペトロの方をお話ししようと思います。

 

2.神の人間に対する愛

 

 本日の福音書の日課は、復活されたイエス様が弟子たちの前に3度目に現れた出来事についてです。ガリラヤ湖で夜通し漁をしていた弟子たちが何も取れないで夜明けになった頃、イエス様が岸辺に現れて大声で魚が取れるところを教えます。言われたとおりに網を下ろすと網が張り裂けんばかりの大量の魚がかかりました。イエス様だと気づいたペトロは他の者より一足早くイエス様のもとに行こうと湖に飛び込みます。その時、自分が裸であることに気づいて、失礼に当たると思ったのか慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロの性格がよく表れていると思います。弟子たち全員が岸に上がると、魚を焼く炭火とパンが用意されていました。イエス様は、さあ、朝ご飯を食べていきなさい、と労います。

 

 食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。もちろん、その意味もありますが、ここではもう少し深いところも見ておこうと思います。

 

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。

 

 「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφιαという言葉がありました。愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。

 

 それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与えると言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。ここには、イエス様の弟子たちに対する愛とそれを模範にした弟子同士の愛の二つが言われています。両方ともアガパオーです。

 

 イエス様の弟子たちに対する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形です。ここで、アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わないものであることが明らかになります。

 

 そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない強い愛はないと思います。

 

 それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものだと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったと言うのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てるのを妨げていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられるのを妨げていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。そのことがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちの内にある、神の意思に反しようとする罪が妨げの力を失くすのです。罪があることを認めて神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせ、いつも赦しがあることを見せて下さいます。この時、罪に妨げの力はなく干からびています。罪よ、ざまあみろ、です。そのようにして、洗礼で新しく生まれ変わった自分にいつも戻れるのです。

 

 イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、たとえ他の弟子が見捨てても自分はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい、ただし、人間的な愛ですが」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで言わず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?そりゃ、あんまりです!という様子が窺われます。

 

 ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロがイエス様を信用していました。どうしてかというと、ペトロの答えの後でイエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、イエス様が信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。それほどペトロを信用していたのであれば、なぜ三回も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならないことをはっきりさせたのです。

 

3.私たちのイエス様に対する愛

 

 それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それも先ほども見ました、ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになると言うのです。

 

 それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去る時は復活させられて神の御許に迎え入れられるように働くことです。

 

 そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そんな時は、どうしてこんなことが起こるのかと、神に失望や不信が生まれる危険があります。それで信仰者を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。

 

 イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助ける場合でも、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは肝に銘じておく必要があるでしょう。宗教改革のルターは、その時は財産や命を失う可能性すらあることを覚悟しなさいと言っているほどです。これが、イエス様のために自己犠牲することです。

 

4.おわりに ― 神の栄光を現わすということ

 

 ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」終わりに、このイエス様の言葉を見ておこうと思います。

 

 キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしていたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。

 

 ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

 

 それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。三つの者とは、まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

 

このような神の真理を胸張って証しするように生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんなのは取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

 

 私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまいます。それなので口に出すことは良心・信条の自由が存続するためにも非常に大事です。

 

 最後に、イエス様がダマスコの途上でパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を神の視点で読んだり聞いたりする時や聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。しかも、臨在する方はただボーっとしておられるのではなく、私たちの境遇や状況を他人事としてではなく自分事として受け止めておられるということです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。