2022年1月17日月曜日

今が、主と関わり合いを持って生きる時、 主に願い事を祈り求める時 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2022年1月16日 顕現後第二主日

 

イザヤ書62章1節-5節

コリントの信徒への第一の手紙12章1-12節

ヨハネによる福音書2章1節-11節

 

説教題 「今が、主と関わり合いを持って生きる時、

主に願い事を祈り求める時」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業についてです。結婚式の祝宴でふるまわれるぶどう酒が底をついてしまった。そこでイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って祝宴は無事続けられたという話です。聖書のよく知られている話の一つです。嵐を鎮めたり病気の人を癒したりする奇跡に比べたら手品みたいで奇跡と呼ぶには少し大げさに思われるかもしれません。しかし、結婚式の祝宴がイエス様の時代も大がかりなものであったことを考えるとこれはやはり奇跡と言ってよいとわかります。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとあります。一つにつき80-120リットル入りということです。それが6つありました。イエス様はこの水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変えたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。そのような大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えてしまったというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

 

 この福音書の箇所は結婚式に関係するのでキリスト教会の結婚式や婚約式での説教にもよく用いられます。あなたたちはこのように困っているときに助けてくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような頼りになる方がついておられるんですよ、というメッセージは式全体に祝福された雰囲気をもたらすでしょう。

 

 ところが、この箇所はよく読んでみると、助け人のイエス様のイメージに合わないことがあります。それは、イエス様の母マリアが彼に、もうぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」ぶどう酒がなくなった、と言われて、イエス様は、はい、わかりました、私が何とかしましょう、とは言いませんでした。彼の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離すものに聞こえます。何と冷たい人なのかと思わされます。しかも、自分の母親に対して、お母さん、とか母上ではなくて、「婦人よ」とは他人行儀も甚だしい。ところがマリアは、このような冷たい答えにもかかわらず、何を思ったのか召使いたちにイエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。マリアは、イエス様の答えの中に拒否ではないものを感じ取って次の動きに備えたのです。

 

 結果は、大量の、しかも上等のぶどう酒が出てきて、助け人イエス様の面目は保たれます。それにしても最初のやりとりは一体何だったのか?イエス様はあまのじゃくで素直な方ではないと思わされます。しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくでもなんでもなく、ちゃんと意味の通る会話をしているのです。以前の説教でこのことを見ましたが、今回また新しいことが見えてきたのでそれを合わせて見ていきます。

 

2.マリアの立場

 

 まず、出来事の状況を把握することから始めましょう。文章から手掛かりはいろいろ見えてきます。まず、マリアもイエス様も弟子たちも祝宴に列席していますが、興味深いのは「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(2‐3節)と言っていることです。マリアとイエス様と弟子たちみんなが招かれた、とは言っていないことです。「招かれた」のはイエス様と弟子たちで、マリアは「そこにいた」と別扱いです。それと、マリアは後で召使たちに命じたりして召使たちは素直に聞き従います(5節)。そうしたことから、彼女は単なるお客様でなくて主催者側の一人として何か役割を持っていたのではないかと考えられます。それで、ぶどう酒が底をついた時の心配は他人事ではなかったでしょう。

 

 そうすると、マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時(3節)、それは落ち着きを失って慌てふためいた言い方だったと考えられます。ここで注意すべきは、マリアはイエス様に、お願い、何とかして!と助けを求めたのではないということです。ぶどう酒がなくなってしまった、ああ、どうしよう、とおろおろしていたのです。11節をみると、このぶどう酒の奇跡はイエス様が公けに行った奇跡の最初のものと言われています。そうならば、マリアも弟子たちもイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を起こせる方だとはまだわからなかったことになります。それで、「ぶどう酒がなくなりました」というのは、助けをお願いしたのではなく、大変な事態になってしまったとおろおろした状態で事実を述べただけと言ってよいと思います。

 

 それに対するイエス様の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?昔テレビのある時代劇でヒーローがいつも「あっしにはかかわりのねえことでござんす」と言って、いつも結局はかかわって悪者を退治するというものがありました。イエス様も最初は自分には関係のないことだと冷たく言いながら、後で助けてあげるということなのでしょうか?

 

 以前の説教で私は、この箇所のイエス様は冷たく言い放っていませんと申しました。その後で宗教改革のルターが、これは冷たく言い放っているのだと言っているのをみてかなり焦りました。彼の論点は、マリアは冷たく突き放されてもイエス様にしがみつくように信頼を捨てなかった、本当の信仰を示したというものです。キリスト信仰というのは、神が怒っているように思える時でもそれは人間の感情からくる思いにすぎず、本当は神は良い方なのだと信じて神から離れないようにするのが本当の信仰なのだ、と言うのです。もちろん、ヤコブが荒野で神が送った者か神自身かわからないが謎の人物と取っ組み合いをして、祝福してくれるまで離しません、としがみついて祝福してもらったことがあります。また、異邦人の女性がイエス様に娘を悪霊から助けて下さい、とお願いした時、最初イエス様はユダヤ人でないからと言って聞き入れる素振りがありませんでしたが、女性がしがみつくように懇願して、犬もおこぼれに与りますなど、と言って願いがかなったということがあります。しかしながら、マリアの場合はしがみつくようなこともせず、イエス様の言葉を聞いてすぐ、まるで彼が手を打ってくれると理解したかのように召使いにスタンバイを命じたのです。ルター先生の解釈に盾をつくようで気が引けるのですが、でも結論は、イエス様を信頼してお願い事はなんでも、諦めないで提示していいのだというところで合流するので、問題はないと思いました。

 

3.イエス様の「時」

 

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」この言葉の本当の意味がわかるために、まず後半部分「わたしの時はまだ来ていません」から見ていきます。私の時はまだ来ていない、とは何のことでしょうか?おろおろするマリアに意味をなす言葉なのでしょうか?

 

 「わたしの時」とか「時」という言葉はヨハネ福音書の中に何度も出てきます。その一つヨハネ12章23節を見てみましょう。次のような出来事です。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神と神の国について教え、ユダヤ教社会の指導者たちと激しく論争をしていた時でした。地中海地域の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23節)。さらにヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(17章1節)。

 

 つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が受難の道に入られて十字架の上で死を遂げる時、そして死の後で神の想像を絶する力で復活させられて神の栄光を顕す時のことです。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、人間が全ての罪を神から赦していただけるようになるための神聖な犠牲の生贄となるためでした。それなので、イエス様が十字架にかけられるのは神にとっても人間にとっても本当に大事な時だったのです。そして、イエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命に至る道が開かれました。死が無力にされたのです。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、罪を赦されて神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。あとは人間がこのことを信じてイエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ければこの可能性を自分のものにすることができるのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性をもたらす出来事の時、十字架と復活の時を意味するのです。世界各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きれば、後はその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

 

 それで、「わたしの時はまだ来ていない」の意味は次のようになります。「今はまだ、私が十字架の道に入ってお前たちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神と神の国について教え、神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、将来到来する神の国がどんな国かを奇跡の業をもって示していかなければならないのだ。だから、十字架と復活が起こる前の今は、私はお前たちと共にいてこの教えと業を行う時なのだ」という意味になります。

 

 さてイエス様が「わたしの時はまだ来ていない」と言った時、果たしてマリアはそういうふうに、まだおまえたちのもとにいて働きをする時だ、と理解したでしょうか?まだ十字架も復活も起きる前に聞いたので、それは無理だったのではと思います。しかし、マリアの場合は、かつて赤ちゃんのイエス様を抱き上げたシメオンが、この子は将来神と神の民の間を取り持つような何かとてつもないことをすると預言したのを聞いています。それでこの子には将来何か重大なことが起きるとわかっていたでしょう。それが何であるかはまだわからない。しかし、今はまだその時ではなく、この、聖霊の力で誕生したこの子は今のところは私たちと共にいるということなのだな、というくらいはわかります。言い方自体は、ぶどう酒の問題の解決には直接関係ありませんが、聖霊の力で誕生したこの方が私たちと共におられるという一言は、慌てふためく心を落ち着かせるインパクトはあります。そういう視点で前半の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」を見ていくと、その意味もわかってきます。つまり、イエス様の言葉全体はマリアを落ち着かせ、この子は何かをするつもりだとわからせて、召使いたちに待機するように指示するくらいの言葉だったのです。これからそれを見ていきましょう。

 

4.パニックから導き出されるイエス様

 

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文を直訳すると、「婦人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」という疑問文です。わかりにくい文です。ギリシャ語原文でこれと全く同じ形を取る文が他にもあるのでそれを見てみます。マルコ1章24節です。シナゴーグで汚れた霊にとりつかれた男とイエス様が対峙するところです。汚れた霊が叫んで言いました。新共同訳ではこうです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている、神の聖者だ!」ここのギリシャ語原文を直訳すると、「ナザレのイエス、お前と俺たちの間にどんなかかわりがあるのか?我々を滅ぼしに来たのか?云々です。

 

 この「~と~の間にどんなかかわりがあるのか」は旧約聖書にもあります。列王記上17章18節で、預言者エリアがシドンのサレプタというところであるやもめの家で居候していた時、やもめの息子が死んでしまうという悲劇があります。その時やもめがエリアに言った言葉です。新共同訳ではこう訳されています。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか?あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか?」ヘブライ語原文を直訳するとこうなります。「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのですか?あなたは私の罪を思い出させ云々」となります。ここで、あれ、ギリシャ語とヘブライ語は違う言語なのに、どうして同じ形の文などと言えるのか、と言われてしまうかもしれません。でもこれは、ギリシャ語とヘブライ語がわかる人が見たらすぐわかるくらいに同じ形なのです。言語学を勉強している人なら統語論という言葉を使うと思いますが、統語論的に同じなのです。この辺のからくりは、本説教の原稿をホームページに載せますので、そこでお見せしますので、ここではこのまま話を進めます。

 

 さて、サレプタのやもめ、シナゴーグの汚れた霊、カナの祝宴でのイエス様はみんな、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?と言っています。新共同訳では、どんなかかわりがあるのか?とか、かまわないでくれ?などと訳されています。そこで他の国の言葉ではどう訳されているか参考までに見てみました。私が読んで理解できるのは日本語と英語とドイツ語とフィンランド語とスウェーデン語の5つですが、結論から言うと大体、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?というのと、あなたは私に何を望むのか?というものに収まっていきます。各国語の訳もホームーページでお見せします。

 

 そこで、「私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」と「あなたは私に何を望むのか?」という訳で見ていきましょう。サレプタのやもめ、「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあって、私の罪を思い出させて息子を死なせたのですか!」、または「神の人よ、あなたは私に何をお望みですか?私の罪を思い出させて息子を死なせることですか!」となります。シナゴーグの汚れた霊、「ナザレのイエスよ、俺たちとお前の間にどんなかかわりがあって、俺たちを滅ぼそうとするのか?」、または「ナザレのイエスよ、お前は俺たちに何を望んでいるんだ?俺たちを滅ぼそうというのか?」となります。どちらも、私に構わないで下さい、俺たちに構うな、かかわりなど持ちたくない、ほっといてくれ、となっていきます。

 

 ところが、カナのイエス様の場合は勝手が違います。やもめや汚れた霊たちは神の力を持つ人を前にしてパニック状態になってこの言葉を述べますが、カナの時はパニック状態になっているのは言葉をかけられるマリアの方で、言葉をかける本人のイエス様は平静そのものです。だから、ここは、私に構うな、ほっといてくれ、という意味はありません。その意味を捨てて考えると、こうなります。「私とあなたの間にどんなかかわりがあるかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあなたたちと一緒ですよ。」または、「あなたは私に何をお望みかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあなたたちと一緒ですよ。」こういうことでしたら、冷たく突き放したようには聞こえなくなります。むしろ、この人は何かするつもりだと感じ取らせるものになります。マリアがそう感じ取ったことは彼女の次の行動で分かります。召使いたちに、イエスが何か言いつけたらその通りにするように、と命じたのです。その時のマリアはパニック状態にあってもイエス様を信頼するということが心の中に何か芯というか核のように生まれたのです。その意味でパニックはあってもそれに支配されなくなったのです。それは実際にはパニックを脱したということになります。

 

 ここで一つ余計なことになるかもしれませんが、言ってもいいのかなということがあります。それは、この言葉を述べた時のイエス様は案外ニヤリという表情で言ったのではないかということです。昔、大学の神学部のギリシャ語の授業で先生が言ったことですが、イエス様がニヤリと笑みを見せたところがあるという研究論文があると。どこでニヤリとしたかと言うと、ペトロがイエス様に私も水の上を歩きたい、と言って、湖の上に立つイエス様が、じゃ、こっちに来なさい、と言って、ペトロは水の上を歩き始める。しかし、波風を見て怖くなった瞬間に溺れ始めてしまい、助けを求める。イエス様は手を差し出してペトロを引き上げる時に言った言葉「信仰の薄い奴だな」、この時イエス様はニヤリと笑ったというのです。どうしてそんなことが言えるかというと、私の記憶になってしまいますが、その研究者はギリシャ古典の大家で、古代ギリシャの哲学、小説、戯曲の文体を徹底的に分析して、福音書の問題の個所の文体は主人公が笑みを浮かべるものに一致するということだったと思います。これに反論しようとするなら、同じ位ギリシャ語文献を熟知しなければならないことになります。さて、「信仰の薄い奴だな」とニヤリと笑ってペトロを引き上げてあげるイエス様。そこでカナのイエス様の場合はどうか。「私に何をお望みかな、ご婦人さん、私はまだあなたたちと一緒にいるのだよ。」それをニヤリと言われたら、ますます、この方は何かをしでかす、とパニックを忘れさせる効果は大と思うのですが、どうでしょうか?イエス様をこんな風に何か大胆不敵さと茶目っ気さを兼ね備えた方のように言うのは行き過ぎでしょうか?でも、大胆不敵さは母親譲りと言えるし、茶目っ気の方も、彼のたとえの教えの中には読んで吹き出してしまうものもあります。どのたとえか別の機会にお話ししますが、ユーモアの精神も見られるのです。本人がどこまでそれを意識していたかわかりませんが。

 

5.今が、主とかかわりあいを持って生きる時、主に願い事を祈り求める時

 

 さて、これでイエス様とマリアのやり取りは、突き放されてしがみついたというルターが言うのとは違って見えるものになってきました。そこで、イエス様の言葉は、いろんなことで慌てふためく私たちの心にもイエス様を信頼することを呼び起こす力があることを見てみます。そんなこと言ったって、イエス様はあの後十字架にかけられ復活を遂げたではないか、もう彼の時は過ぎてしまったではないか、彼は今私たちのところにいないではないか、天の父なるみ神の右に座している、といつも使徒信条や二ケア信条で唱えているではないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、「私の時はまだ来ていない」という主の言葉は、私たちにとっては、主の再臨はまだ来ていないという意味になります。再臨の日まで今天と父なるみ神のもとにおられる主は、信仰と洗礼をもって神の子とされた私たちとは聖霊を介してその日までいつも私たちと一緒にいて下さいます。だから、かかわり合いがあります。望むことを打ち明けていいのです。そうしないと、再臨の日が来たら手遅れになります。その日、私たちは復活させられてしまったら、痛みも苦しみも悩みもなく正義も完全に実現しているところに迎え入れられてしまうので、そこではもう何も望むことは出来なくなってしまいます。

 

 だから今が、主とかかわり合いを持って生きる時、願い事を打ち明けて祈り求める時なのです。今、共にいて下さるイエス様が慌てふためている私たちにあの時と同じような平静さで、ひょっとしたらニヤリと、お前は私に何を望むのか?私はお前と共にいるぞ、とおっしゃって下さるのです。私たちは時として何も望むこともできない位に落ち込む時もあります。そういう時は、イエス様と自分の間には何もかかわり合いはないと思ってしまうでしょう。しかし、イエス様はそう思うのは間違っている、かかわり合いはあるぞ、望むものを思い出して打ち明けなさい、とおっしゃって下さるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


 

列王記上17章18節、マルコ1章24節、ヨハネ2章4節の文の形と各国訳は以下の通りです。

 

ヨハネ2章4節  τι εμοι και σοι, γυναι; (…)

【新共同訳】「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。(わたしの時はまだ来ていません。)」

【英語NIV】Woman, why do you involve me? (My hour has not yet come.)

【ドイツ語・ルター】Was geht´s dich an, Frau, was ich tue? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)

【ドイツ語Einheitsübersetsung】Was willst du von mir, Frau? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)

【フィンランド語】Anna minun olla, nainen. (Minun aikani ei ole vielä tullut.)

【スウェーデン語】Låt mig vara, kvinna. (Min stund har inte kommit än.)

 

マルコ1章24節 τι ημιν και σοι, Ιησου Ναζαρηνε; (...)

【新共同訳】「ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。(我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている。神の聖者だ。」

【英語NIV】What do you want with us, Jesus Nazareth? (Have you come to destroy us? I know who you are – the Holy One of God.)

【ドイツ語・ルター】Was haben wir mit dir zu tun, Jesus von Nazarem? (Bist du gekommen, um uns ins Verderben zustürzen? Ich weiss, wer du bist: der Heilige Gottes.)

【ドイツ語Einheitsübersetsung】Was willst du von uns, Jesus von Nasareth? (Du bist gekommen, uns zu vernichten. Ich weiss, wer du bist: der Heilige Gottes!)

【フィンランド語】Mitä sinä meistä tahdot, Jeesus Nasaretilainen? (Oletko tullut tuhoamaan meidät? Minä tiedän, kuka sinä olet, Jumalan Pyhä!)

【スウェーデン語】Vad har du med oss att göra, Jesus från Nasaret? (Har du kommit för att ta död på oss? Jag vet vemdu är, Guds helige.)

 

列王記上17章18節 (…) מה-לי ולך איש האלהים

【新共同訳】「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。(あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子をしなせるために来られたのですか。)」

【英語NIV】What do you have aganst me, man of God? (Did you come to remind me of my sin and kill my son?)

【ドイツ語・ルター】【ドイツ語Einheitsübersetsung】ドイツ語の聖書は、私の手元にあるのは新約聖書だけなので割愛します。

【フィンランド語】Pitkö sinun sekaantua minun elämääni, Jumalan mies! (Pitikö sinun tulla tänne vetämään minunsyntini esiin ja tappamaan poikani.)

【スウェーデン語】Vad har du här att göra, gudsman? (Du har bara kommit hit för att låta min synd komma i dagenoch för att döda min son!)

 

 

 

2022年1月10日月曜日

洗礼と聖霊 - 知識から信仰へ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2022年1月9日 顕現後第一主日(主の洗礼)

 

イザヤ書43章1節-7節

使徒言行録8章14-17節

ルカによる福音書3章15-17、21-22

 

説教題 「洗礼と聖霊 - 知識から信仰へ」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるというのは理解しがたいことです。ヨハネの洗礼は、ルカ3章3節で言われているように「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。イエス様は神のひとり子なので罪を持たない方です。それで洗礼を受ける必要など本当はありません。マタイ3章を見ると、ヨハネはイエス様が洗礼を受けに来たことに驚き「わたしこそ、あなたから洗礼を受ける必要があるのに、あなたが私のところに来るのですか?」と言います。どうしてイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?

 

 少しヨハネの洗礼について振り返ってみます。それは「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」です。「罪の赦しに至る」というのは微妙な言い方です。ギリシャ語原文がそういう言い方をしているからですが、洗礼を受けて即罪の赦しに至るのか、それとも受けた後しばらくしてから赦しに至るのか、はっきりしません。しかし、後でみるように答えは後者でした。即ではなかったのです。

 

 それでも大勢の人が洗礼を受けにヨハネのもとにやってきました。中にはユダヤ民族を占領下においているローマ帝国の手下となって好き放題している取税人や兵士たちもいます。みな一様に何かに怯えています。なんでしょうか?それは、神の怒りの日が来ることでした。神の怒りの日とは、旧約聖書の預言書のあちこちに出てくる「主の日」のことです。それは神が人間に怒りをぶつける日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異も起こる時です。イザヤ書の終わりの方では、それこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地に創造し直す日が来ることが預言されています。人々はヨハネが「悔い改めよ、神の国が近づいた」と大々的に宣べ伝えるのを聞いて、その日が近いと思ったのです。悔い改めないと神の怒りをもろに受けて、森羅万象の大変動を乗り越えられず滅び去ってしまう、永遠の神の国に迎え入れられなくなってしまうと心配したのです。それでヨハネのもとに来て、自分たちには神の意思に反する罪がありますと告白して、悔い改めに相応しい行いをしますと誓って罪から清められようと洗礼を受けたのです。水を浴びることは清めを象徴しました。

 

 ところがヨハネは、自分は水を使って洗礼をしているが、後に来る方つまりイエス様は聖霊と火をもって洗礼を授けると言います。火を伴うというのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリア13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2―3節)、罪からの浄化を意味します。ヨハネは自分の洗礼にはそういう浄化の力もないし聖霊も伴わない、だから神の怒りが及ばないようにする力はないと認めるのです。そこで先ほどの「罪の赦しに至る」ということについて見てみます。それは、ヨハネの洗礼で即赦しが与えられるのではなく、聖霊と火を伴うイエス様の洗礼で即与えられる、それを受ければ神の怒りが及ばないということだったのです。そういうわけでヨハネの洗礼は人々に罪の自覚を呼び覚まして告白させ、すぐ後に来るメシア救い主が設定する本物の洗礼に備えさせるものでした。人々を罪の自覚にとどめて後に来る罪の赦しに受け渡すためのものでした。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではなかったのです。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊と火の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい、その時お前は罪を赦されて神の子となれる、そうして「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救い主をお迎えする準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中の道を真っ直ぐに整えるためのものでした。ヨハネが本物の洗礼を授けるメシア救い主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのは当然のことでした。

 

2.預言の実現と救いの計画実行開始としての洗礼

 

 ヨハネの洗礼がイエス様をお迎えすることが出来るようにする洗礼だとすると、イエス様がそれを受けるというのは自分で自分をお迎えするみたいでとても変です。これは一体どういうことなのでしょうか?一つの見方としては、イエス様が洗礼を受けたというのは人間に対する連帯の表れという見方があります。しかしながら、以前の説教でも申し上げましたが、人間に対する連帯の表れを言うのならば、天の父なるみ神のもとにいたひとり子が乙女マリアから人間の姿かたちを取って生まれたという受肉の出来事の方が連帯をよく表していると思います。それとイエス様がユダヤ教の伝統に従って割礼を受けた出来事も人間に対する連帯の表れとして重要だと思います。というのは、割礼を受けることで人間と同じように律法の効力の下に身を置かれ、それによってゴルゴタの十字架の上で罪の罰を本当に神罰として本気で受けられるようになったからです。

 

 洗礼には、もちろん人間との連帯の意味も否定できないが、もっと別の意味もあるということで二つのことを申し上げました。一つは、イエス様が洗礼を受けたことでイザヤ書42章の預言が実現したということがあります。もう一つは、イエス様の洗礼に聖霊が伴ったことで私たちが受ける洗礼の先駆けになったということがあります。本説教でこの二つの意味を振り返ってみます。その後でキリスト信仰の洗礼と聖霊は切っても切れない関係にあることを見ていこうと思います。

 

 まず、イザヤ書42章の預言が実現したことについて。イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その時、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声が轟きました。この出来事はイザヤ書42章1~7で預言されていることの成就でした。実にイエス様の洗礼はこの預言が成就するために必要な手続きだったのです。そこで、この預言の内容を、本日の旧約の日課ではありませんが、見る必要があります。

 

 このイザヤ書の箇所で神は、将来この地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が聖霊を受けて、神から特別な力を与えられて何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?私たちの新共同訳を見ると「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが言われます。しかし、これらはわかりにくい訳です。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体どんな意味なのでしょうか?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?頭のいい人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにもありません。ここはもうヘブライ語の原文に遡ってみないと本当のことはわからないのです。

 

 まず、参考までに各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の言葉をどう言っているか覗いてみると、英語の聖書はjustice、「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Recht、「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデン語の聖書では「権利」(rätten)、フィンランド語の聖書では「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味する単語(oikeus)です。

 

 神の僕が携わることが、どうして日本語では「裁き」になって他の訳ではそうならないのか?それは、ヘブライ語の単語ミシュパートמשפטがいろんな意味を持つ言葉だからです。大元の意味は、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」です。その意味から出発して「裁き」とか「判決」というような意味がでてきます。しかし、それだけではありません。大元の意味を出発点として「正当な要求」「正当な主張」という意味もあるし、「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。辞書を見れば他にもあります。

 

 それなのでイザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、他の国の訳のように「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。さらに、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳せます。そういうわけで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民(גוי、特にユダヤ民族の異邦人をさしますが)に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」です。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」です。

 

 それでは、神の僕がもたらしたり打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何でしょうか?神の御言葉集である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか出てきたら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」でしょうか?それは、人間が自分の造り主である神の意思に反しようとする罪の力から解放されることです。罪から解放されて神との結びつきを持ててこの世を生きられることです。そして、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れられることです。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。これらは全て、神のひとり子イエス様が十字架の死と死からの復活の業をもってこの世にもたらして打ち立てて下さいました。

 

 イエス様が洗礼を受けた時、天から預言どおり神の声が轟き、聖霊がイエス様に降りました。これでイザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。この時イエス様に神が定めた人間救済計画を実行に移す力が供えられたのです。もちろんヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のひとり子でした。しかし、洗礼を通して預言通りに聖霊と特別な力を得て、主体的に神の計画を実現させることとなったのです。洗礼を押しとどめようとするヨハネに対してイエス様が言ったマタイ3章15節の言葉、神の義を実現するために洗礼を受けなければならない、というのはその通りだったのです。

 

3.洗礼と聖霊 - 知識から信仰へ

 

 ヨハネはイエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。火を伴うとは罪からの浄化を意味します。しかし、人間は洗礼を受けて本当に罪から浄化されるかと言うと、実は洗礼を受けてキリスト信仰者になっても神の意思に反しようとする罪はまだ残ります。それじゃ、浄化されていないじゃないか、イエス様の洗礼には力がないじゃないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、洗礼には、受ける前と後で人間に決定的な違いをもたらします。それは、人間を復活に与らせないようにしようとする罪の力、神のもとに迎え入れさせないようにする力が罪から奪われるということです。なぜ罪からその力が奪われるかと言うと洗礼を受けると聖霊がその人に降るからです。

 

 聖霊が洗礼を受ける人に降るということで、イエス様が受けた洗礼はキリスト教会の洗礼を先取りしています。ヨハネの洗礼は受ける人に聖霊が与えられる洗礼ではありませんでした。ヨハネはかなりの数の人に洗礼を施しましたが、誰にも聖霊は降りませんでした。誰にも起こらなかったことがイエス様に起こったのです。それは神がそうすると決めていたからです。イザヤ書の預言が文字通りに成就して神の救いの計画の実行を開始するためにそう決めたのです。

 

 聖霊が人に降るなどと言うと、事情を知らない人は何か霊にとりつかれたみたいに聞こえて不気味に感じるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点は、人間は自分の力ではイエス様を救い主と信じることはできないというものです。第一ヨハネ4章2~3節では神のひとり子が肉を伴ってこの世に来られたと告白する霊は神から来る霊であると言っています。第一コリント12章3節ではずばり、聖霊を持っていなければ誰もイエス様は主であると言うことはできないと言っています。このように人間は聖霊が働かないとイエス様を救い主を信じることはできないというのがキリスト信仰の立場です。それくらい聖霊は信仰のカギになっているのです。

 

 このことは、信仰と知識の違いを見ればよくわかります。イエス・キリストという人物が約2000年前に現在のイスラエルの地で活動して最後は十字架刑に処せられたというのは歴史の本に書いてあったので知っているぞ、と言うのは知識です。信仰ではありません。また、キリスト信仰者は処刑されたイエスが復活したと信じていて、そのイエスのおかげで神と結びつきを持ててこの世を生きられると信じている、そしてこの世から別れた後は自分も復活の日に復活させられて神の御許に迎え入れられると信じている、そういう連中なんだ、そういうふうに言うのも知識です。信仰ではありません。

 

 翻って信仰というのは次のように言うことです。あの方があの時成し遂げた十字架の死と死からの復活は今の時代を生きる私のためにもなされたのだ、それはあの方の身代わりの犠牲のおかげでこの私が天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになるためだったのだ、この結びつきは私が自分から手放さない限り順境の時も逆境の時も変わることがないので私は常に神から見守られ導いてもらっている、もしこの世から別れなければならない時が来たらその時は復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れてもらえる、そこは懐かしい人たちとの再会の場所なのだ、このように事柄を自分事として自分自身に対しても周囲に対しても言える人、その人は事柄をもう知識で持っていません。信仰に生きています。聖霊が働いたから事柄は知識ではなくなったのです。聖霊が働かないところでは知識どまりとなります。

 

 洗礼を受ける時に聖霊が降る、聖霊を注がれる、その時に知識が信仰になると言うのなら、洗礼を受ける前にイエス様は救い主と信じられるようになった人は聖霊が降っていることになるのではないか、その場合は洗礼はもう必要ないのではないかという疑問が起きるかもしれません。これは次のように考えます。洗礼を受ける前にも神は人間に聖霊を働かせてイエス様が歴史上の人物に留まらず、本当に今を生きる自分の救い主、自分を犠牲にしてまで私と神聖な神を結びつけて下さった方とわかるようにします。そうなれば洗礼を受ける機が熟したことになります。洗礼を受けることで聖霊の働きに完全に服することになります。受けないでいると、せっかく一時イエス様が自分の救い主と見えたのに、すぐ別のもの、例えば別の霊や人間の理性に頼ってしまい、自分の救い主としてのイエス様が見えなくなってしまい、世界史の教科書か何かの小説のイエスに戻ってしまいます。それなので洗礼は聖霊の働きを定着させる出来事と言ってもよいでしょう。聖霊の働きが定着するというのは、神との結びつきがそれこそ順境の時も逆境の時も変わらずにあるということになり、この人生大丈夫、この世と次に到来する世にまたがって生きてやろうという心が起きるということです。

 

 それでは最後に、どうしたら知識上のイエス・キリストが自分と個人的な繋がりのある主になるのか、どうしたらそうなるように聖霊の働きが自分に起こるようになるのかを考えてみます。いろいろあると思いますが、一つカギになるのは、自分と自分の造り主である神との関係はどうなのかを考えてみることです。造り主の神がどのような方で、どんなことを私に望んでいるかについては聖書がよく教えています。この私は神の意思に照らし合わせてみてどんな存在なのか、神のみ前に立たされて果たして大丈夫な存在なのかを考えてみます。どうしてそんなことを考えるかと言うと、神は神聖な方で罪の汚れを持つ人間はその正反対だからです。預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃した時、恐怖の叫び声をあげました。私は滅びてしまう!この目で神を見てしまった、私は汚れた口を持つ者なのだ、汚れた口を持つ国民の一人なのだ!と。イザヤ書6章です。神に選ばれた預言者にしてこうなのです。預言者でもない私たちはなおさらでしょう。

 

 しかし、ここで思い起こします。イエス様はこの私が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられる者にして下さったということを。大丈夫な者にするために神は大切なひとり子をこの私に贈って下さり十字架と復活の業を果たさせたということを。それは神が私を愛しているからそうされたのだということを。イエス様も私を愛しているから天の栄光ある地位を捨てて人間としてこの世に降り十字架の道に進まれたのだと。そして、今天の父なるみ神の右の座におられる主は再臨の日まで聖霊を介して私とともに毎日一緒にいてくださるということを。そして、復活の日が来たらこの私をも目覚めさせて御許に迎え入れて下さるということを。

 

 ここまでくれば、私はこの世の人生をイエス様と共に歩もう、もう私には何も不足はない、何も怖くはない、という詩篇23篇を絵に描いたような心意気になります。もうイエス様は遠い過去の人物ではなくなっているのです。このようにイエス様がそばにいる方になると、縁遠く感じた旧約聖書の御言葉も私たちに呼びかけるものに聞こえてきます。試しに本日の旧約の日課イザヤ書43章で見てみましょう。

 

1節 神はかつてヤコブとイスラエルの民を造り形作ったように私たちを造り形作ったと言います。それがどんなことか後で7節でわかります。「恐れるな、私はお前を贖った」と神は言います。新共同訳では「お前を贖う」ですが、ヘブライ語原文では「お前を贖った」と完了形で言っています。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者のことを言っています。信仰者でない人も信仰者になったら、そう言えることになります。私たちはイエス様のおかげで罪と死のもとから神のもとへ買い戻された、難しい言葉を使えば「贖われた」のです。それで神は私たちを名前で呼ばわる位に私たちの父になり、私たちは神の子となったのです。

2節 お前が水の中を通らねばならないような時も私は一緒にいるからお前は流されない。火の中を通らねばならないような時もお前は焼き尽くされない。なぜなら私は主なる神であり、お前自身の神だからだ。

3節 私はイスラエルつまり神の民の神だ。お前を滅ぼそうとする者から救い出す神なのだ。

4節 お前を贖うためなら、私はエジプトやクーシュやシェバやその他諸国を身代金として差し出してもいいくらいだ。それ位お前は私にとって価値があるのだ。(しかし、実際にはそんな国々など差し出さず、私はひとり子を身代金にした。お前は価値があるということの本当の意味はそれだ。)

5節 だから恐れてはいけない。私がお前と共にいる。

6節 お前が東にいようが西にいようが何処にいようが地の果てにいようがお前を呼び寄せる。誰も邪魔することは出来ない。

7節 お前は私の名で呼ばれるくらいに神の子なのだ。私がお前を造り、贖われた者に形作り、私の子へと完成させたのは、私自身の栄光を増し加えるためにそうしたのだ。

 

以上です。どうでしょう、旧約のみ言葉が身近になったでしょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年1月3日月曜日

ロゴスの光を持って生きよ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年1月2日降誕節第二主日

スオミ・キリスト教会

 

エレミア書31章7-14節

エフェソの信徒への手紙1章3-14節

ヨハネによる福音書1章1-18節

 

説教題 「ロゴスの光を持って生きよ」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているでしょう。ただ、よく見ると、この「ことば」は漢字では「言」と書かれています。普通の「言葉」ではありません。普通の言葉ではない特別な言葉だから、違う言い方をしているのです。それでは、この「ことば」は普通の言葉ではない、「言」であるとすると、それはどんな「ことば」なのでしょうか?これはもう、日本語をこねくり回しても解決出来ない問題です。ギリシャ語の原文に立ち返って、その言語の世界の視点から事柄を眺めてわかるようにして、そして日本語の世界に戻ってわかりやすい言葉に直すしかないです。この言はギリシャ語でロゴスと言います。

 

 ところで、日本語の世界から飛び出すと私たち日本人に関係ないことになってしまう、と思う人がいるかもしれません。特に今は新年で大多数の日本人は神社仏閣に参拝に行く時です。新年早々日本的でないことに手を染めてしまうと怪訝な顔をする人も出てくるかもしれません。しかし、これを見ていくと、事は日本とかギリシャとかを超えたこと、日本とかギリシャとかを全部含めてそれらを超えたことに関わっているとわかってきます。どうしてそうなるかと言うと、聖書の神の意思というのは民族を超えた普遍的なもので、それを神は人間に知らせる時にある特定の地域の人たちにその人たちが生きた時代の中で知らせたからです。それがたまたまギリシャ語の世界だったからギリシャ語云々という話になるのです。事をもっと広く見ると、天地創造の神は旧約聖書が形成される時代はずっとヘブライ語やアラム語を用いる人たちを通して自分の意思を伝えました。その人たちが住み生活する地域がギリシャ語の文明圏に組み込まれると、今度はギリシャ語を通して伝えるようになったのです。

 

 本日の福音書の日課ヨハネ1章1~18節を見ると、イエス様のことを言い表わす言葉として言ロゴスの他に光フォースも出てきます。この二つは何度も出てきます。ロゴスは4回、フォースは6回。さらに、それらを指す代名詞が何回も出てきたり、主語を省いた動詞だけというのもあるので、ここはロゴスとフォースのオンパレードです。イエス様はロゴス言、フォース光であるというのです。私たちは、日本語で言葉、光と聞いてそれらの意味はわかります。しかし、ここの「言葉」は特別な言葉、言です。「光」も後で見るように特別な光です。じゃ、どんな言葉なのか?光なのか?もう日本語では太刀打ちできないので、ここから神が御自分の意思を伝えたギリシャ語の世界に入っていきます。それから日本語の世界に戻ります。

 

2.ロゴスなるイエス・キリスト

 

 ヨハネ福音書の記者ヨハネはイエス様のことをロゴスと呼びました。彼はなぜそう呼んだのでしょうか?ヨハネは、あの十字架にかけられて死なれるも3日後に復活された方、その後1カ月少し自分ら弟子たちと共におられそして天の父なるみ神のもとに戻られた方、あのイエス様のことをどう表現したらいいだろうか?彼は福音書を書く時に考えました。あるいは既に考えついていたのかもしれません。ヨハネは旧約聖書を守るユダヤ民族の一員です。旧約聖書の預言を思い出し、イエス様と共にいた日々を思い出して出た結論が、イエス様とはロゴスなのだということでした。どうしてそういう結論に至ったのでしょうか?

 

 ヨハネはイエス様の復活を目撃しました。それでイエス様は本当に神のひとり子で、今は再臨する日まで天の父なるみ神のもとにいながらも聖霊を介して私たちの身近におられるとわかっています。そして、彼が父なるみ神のもとにいるというのは、復活して初めているようになったのではなく、もともとは神のもとにおられたのだが神が前もって定めたように乙女の受胎を通して人間の姿かたちを取ってこの世に生まれ出てきた、そういうもともとは神のもとにおられた方なのだ。人間として生まれてきた時にイエスという名前をつけられたが、それ以前の父の御許におられた時の有り様はどんなだったか?イエスという名前をつけられる前の神のひとり子をどう呼んだらいいか?それを考えた結果、ヨハネはロゴスと呼ぶことにしたのです。それで14節で次のように言ったのです。「ロゴスは肉となって、私たちの間に住んだ。」

 

 それではなぜ神のひとり子をロゴスと呼ぶことにしたのでしょうか?ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味があります。まず、紙に書き記して文字になる「言葉」や(昨今ではキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味します。これは私たちが日本語で「言葉」と言っているのと同じです。この他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味します。また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったらこういうふうに別々の言葉で言い表す事柄も全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語文化圏のある哲学の考え方として、世界の事象の全て森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた考え方もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるでしょうか。

 

 このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話です。それは、もともとはユダヤ教やキリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出された概念です。聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を明らかにしたり伝えたりして人間はそれを受け取るという立場です。つまり、大元にあるのはあくまで神である、という立場です。哲学では人間の頭が大元ということになります。

 

 こうして見るとヨハネは、神のひとり子イエス様というのは森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたようにみえてきます。しかし、ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をそのままイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、あくまで旧約聖書の伝統とイエス様が教え行ったことに立ってイエス様を捉えようとするが、このとてつもないお方を今自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

 

 では、旧約聖書のどんな伝統がイエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたのか?それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造以前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の際にも父と同席していたと言われています。しかしながら、神のひとり子の役割は同席だけではありませんでした。ヨハネ福音書の1章3節をみると「万物はロゴスによって成った。成ったものでロゴスによらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に天地創造の大事業を担ったのです。どうやって担ったでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように神が発する言葉も天地創造になくてはならないアクターだったと気づけば、ひとり子をロゴス言葉と呼ぶことで彼も創造の役割を担ったことを言い表せます。

 

 このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であると言っていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。

 

 それならヨハネはなぜイエス様を「知恵」と呼ばなかったのか、という疑問が起きるでしょう。それは、アラム語というヘブライ語に近い言語の使い手であるヨハネがギリシャ語世界の人たちにどう言ったらイエス様のことを正確に伝えられるかを考えた結果です。知恵はヘブライ語でחכמהと言います。ギリシャ語でソフィアと言います。この、天地創造の時に既に父なるみ神のもとにいてその「言葉」として創造の業を担ったという途方もない方をギリシャ語の「知恵」と言ったら言い尽くせない、やはりあの方はロゴスでいいのだ、ということになったのです。

 

 この世に生まれ出てイエスと呼ばれた方は実は天地創造の時に父なるみ神と共におられ、父と共に創造を行っていたというのは想像を絶することです。イエス様とは本来はそういう方だったとわかると、「はじめに言ロゴスありき」の「はじめ」というのはいつのことかもわかります。多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるでしょう。実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしの「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。このように時間をずっとずっと遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに言ロゴスとヨハネが呼ぶ神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。

 

 ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう途方もない方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

 

 この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてきてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地創造が成って時間が始まった後もまだしばらくは父のもとにおられました。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られてきました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

 

3.光なるイエス・キリスト

 

 ヨハネはイエス様のことを光フォースとも呼びます。それがどんな光なのかを見てみましょう。4節を見ると「ロゴスには命があった」と言われています。「命」とは、ヨハネ福音書では死で終わってしまう限りある命のことではなく死を超える永遠の命を意味します。ロゴスは死を超える永遠の命を内包していた。これに続いて次のことが言われます。「ロゴスが内包する永遠の命は全ての人間の光であった、その光は闇の中に輝く光である。」新共同訳では「人間を照らす光」と言っていますが、少し注意が必要です。原文では「人間を照らす」とは言っておらず、ただ「人間の光」、人間は複数形なので全ての人間の光です。どうして「人間を照らす光」と言ってはいけないのか?闇の中に輝いているから暗い夜の証明のように照らすと言ってもいいではないか、と思われるかもしれません。しかし、ここは注意して見ていく必要があります。この光は単なる照明器具のような光ではありません。

 

 同じことが9節でも言えます。新共同訳では「世に来て全ての人を照らす」と言っています。しかし、ここの動詞φωτιζωの正確な意味は「人を照らす」ではなく、「人間に輝きを与える」、「人間を輝かせる」です。それで4節の「全ての人間の光」とは「人間に輝きを与える光」、「人間を輝かせる光」です。10節から12節を見ると人間は、ロゴスであり光である方を受け入れる人と受け入れない人に別れてしまうことが言われています。受け入れる人は神の子になれると言っています。

 

 それでは、人間を輝かせる光とはどんな光でしょうか?人間をどう輝かせるのでしょうか?それをこれから見てみましょう。それがわかるために、ここで言われている光と闇は普通言われる光と闇と違うものであることをわからないといけません。今あちこちで見られるイルミネーションを思い浮かべてみましょう。大体クリスマスの頃が一番多く見られますが、まだやっているところもあります。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間が懐中電灯を持たなかったり、照明のない所を歩いたという不用意不用心によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じです。それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。

 

 ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っています。闇の目的は、人間から造り主である神との結びつきをなくそうとすることです。闇がその目的を果たした出来事が創世記の3章に記されています。最初の人間が悪魔に巧みに誘導されて造り主である神に対して不従順になって神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間は神との結びつきを失い死する存在となってしまったのです。しかし神は、人間が神との結びつきを回復して、それを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に御許に迎え入れられる道を開きました。その道を、御自分のひとり子をこの世に贈って、彼に十字架と復活の業を果たさせることで道を開いて下さったのです。闇の力を上回る光が闇の中にいる人間に与えられたのです。人間がその光を受け取って持つことが出来るようになったのです。

 

 ここで5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。ここの訳は各国の訳で別れます。これはギリシャ語の動詞カタランバノーがいろいろな意味を持つからです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。しかし、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、全ての人間の罪の償いを神に対して果たして下さいました。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、悪魔は私たちをもはや罪の罰に繋ぎとめることは出来なくなりました。もし十字架の出来事がなかったら人間はそれに繋ぎとめられるしかないのです。しかも父なるみ神が一度死なれたイエス様を復活させたおかげで、死を超える永遠の命の扉が開かれました。こうしてイエス様のおかげで罪の償いを受けて赦された者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。

 

 悪魔は罪を活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てます。しかし、それはイエス様の十字架と復活の業で完全に破たんしてしまいました。なぜなら、闇は死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。それなので5節の訳はやはり暗闇は光を支配下に置けなかったというのがピッタリではないかと思います。

 

 そういうわけで、イエス様の光、ロゴスの光は、人間が永遠の命を持てるようにするという意図と目的を持つ光で、人間が受け取ることができる光です。受け取っても目の前が真っ暗になってしまう時もあります。受け取ったはずの光が見えなくなってしまうのです。しかし、それは私たちが勝手に見えなくなっているだけで、大元の光は相も変わらず輝いています。それは闇が支配下に置けない光だからです。どうしたらそれを私たちはまた見ることが出来るでしょうか?そういう時は、どこでイエス様に出会え、その声を聞くことが出来るかを思い出します。聖書のみ言葉をひも解くところでです。礼拝の説教を通してです。聖餐式に与る時です。罪の自覚から逃げず勇気を持って罪の赦しの宣言を受け入れる時です。そのようにしていつも洗礼の地点に立ち返ります。こうすることで一旦は閉じた私たちの目はまた開きます。

 

 このようにロゴスの光は神との結びつきを回復させるだけではなく、回復した結びつきが失われないようにし一層強める目的も持っています。このような光を私たちは与えられているのです。どうかこの新しい年も私たちがこのロゴスの光を持って歩むことができますように。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン