2021年2月15日月曜日

復活とは変容なのだ (吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年2月14日 変容主日

 

列王記下2章1節-11節

コリントの信徒への第二の手紙4章3-6節

マルコによる福音書9章2-9節

 

説教題 復活とは変容なのだ

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. 本日は教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースター/復活祭へと向かう四旬節の前の節目の日です。毎年この日に定められた福音書の日課はイエス様が高い山の上で「姿が変わった」(9章2節)という出来事についての個所なので、「姿が変わった」、「変容した」ということで変容主日とも呼ばれます。イエス様の「変容」は、ギリシャ語の原文では正確には受動態ですので「変容させられた」です。誰によってさせられたかというと万物の造り主である神によってです。新約聖書のギリシャ語では受動態の形で「誰によって」がない時は大抵の場合は神を指します。神を名指しすることは畏れ多いのであえて言わないのです。そういうわけで、イエス様は父なるみ神の力で変容させられたのです。これと同じことはイエス様の死からの復活にも当てはまります。普通は「復活した」と言いますが、原文では受動態なので「復活させられた」、つまり神の想像を絶する力で復活させられたのです(後注)。しかも、復活した後の体はそれまでの肉の体と異なっていました。どんなふうに異なっていたかはイースターの時にお話しすることになるでしょう。

 

 イエス様の変容はどのようなものであったかと言うと、衣服が非常に白く輝いたことが言われています。マタイ福音書の同じ出来事を扱った個所を見ると(17章2節)、衣服だけでなくイエス様の顔が太陽のように輝き始めたとあります。ルカ福音書では(9章29節)、やはり衣服だけでなく顔のみかけが別物だったと記されています。マルコ福音書で言われているのは衣服だけですが、最初に「変容させられた」(2節)と言って、その後で衣服が白く輝きだした(3節)と言っているので衣服以外の部分も変わっているのは明らかです。ただ、衣服の白さの輝きがあまりにも尋常ではなかったので、マルコはそれを特筆したのでしょう。

 

 この高い山の上での出来事はマルコ、ルカ、マタイの3つの福音書に取り上げられていて大筋は同じです。細部は異なっていますが、それは、福音書記者それぞれの視点があって、これを強調したい、これはしなくてもいい、ということがあるからです。そういうわけでこの出来事の本日の説き明かしは、マルコの視点に立ったものになります。

 

 ここで言われる「高い山」について。毎年お話ししていますが、ヘルモン山という現在のシリアとレバノンの国境にある2,814メートルの山であるのは間違いないでしょう。どうして特定できるかと言うと、マルコ8章27節にイエス様と弟子たちの一行がフィリポ・カイサリア近郊まで来たとあります。そこから本日の個所まで地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北に聳えるヘルモン山の可能性が大です。

 

 ここのギリシャ語原文を見るといろいろ面白いことに気づきます。例えば、新共同訳では「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と訳していますが、「登る」という動詞は使われていません。正確には「イエス様は3人を運び上げた」です。イエス様が3人をおんぶしたみたいですが、実際は疲れた3人を励まし続けたか、なんで俺たちにこんなきついことをさせるのか不平不満があって叱咤し続けたのか、とにかく足取り重い弟子たちをなんとか頂上まで引き連れたのが「運び上げた」ということだったのでしょう。

 

 ここでヘルモン山の登山がどれだけ大変なものか思い巡らしてみましょう。フィリポ・カイサリアは海抜300メートル位のところなので、頂上まで標高差は2,500メートル位あります。登山する人ならどれ位の時間とエネルギーを使うかすぐわかるでしょう。私の家族はしょっちゅうと言っていいほど高尾山に登ります。麓の高尾山口から標高599メートルの頂上まで標高差は400メートル位で、それを1時間のペースで登るとかなり汗だくになります。ヘルモン山はそれを6回繰り返さなければならないので本当に大変です。ちなみに私は高校時代によく山登りしたのですが、北アルプスの剣岳を早月尾根という尾根から登ったことがあります。標高差2,200メートルです。若かった当時は休憩含めて10時間かからなかったと思います。しかも連続する岩場のスリルと目を奪う壮大な眺めのおかげで文字通り登山の醍醐味を堪能でき、それで疲れたという記憶もありません。

 

 ところが3人の弟子たちの場合は別に登山が趣味でもなく、しかも目的も告げられていないので、何でこんな疲れることをしなければならないのかという雰囲気になったことは容易に想像できます。イエス様はこれから山の上で起こることを後々のために見届けさせようとしたのでした。何を見届けさせようとしたのか?それは一言でいうと、復活とは変容であるということです。高い山でのイエス様の変容の出来事はこのことを私たちに教えているのです。今日はそのことをマルコの視点で明らかにしていきましょう。

 

2.山の上でイエス様が変容した時、マルコの注意を最も引いたのは、イエス様の着ている服が非常に真っ白に輝いたということでした。どうして服が白く輝いたことが「変容」の出来事の中で最も注意を引いたのでしょうか?それは続きの文を見ればわかります。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります(9章3節)。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人です。今で言えば、漂白ということでしょう。当時はどのように漂泊したのか特に調べませんでしたが、いずれにしても古代世界においても衣服や布を純白にする専門家がいたということです。ここで重要なのは「この世のどんなさらし職人」もできないくらいに白く輝いたということです。イエス様が放った白い輝きはこの世的でない白さ、天上の白さだったということです。イエス様は乙女マリアから肉体を伴って人間として生まれたけれども、この時は神の力で神聖な神のひとり子としての神聖な姿形に変えられていたのです。神の御許にいるのに相応しい姿形です。

 

 イエス様がこの世的でない天上の白さで輝いた時、それは私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在であるかを如実に示した瞬間でもありました。私たち人間は神の御許にいるのに相応しくない存在であるということです。どうしてそうなのかと言うと、創世記の最初に記されているように最初の人間が神の意思に反しようとする性向、それを聖書では罪と呼びますが、それを持ってしまったために神聖な神の御許にいられなくなって神との結びつきを失ってしまったのです。もちろん、この世には悪い人だけでなく良い人も沢山います。しかし、創世記2章17節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が罪を持つようになったことが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々みんな罪を汚れのように受け継いできたのです。

 

 人間が罪の汚れから洗い清められ、神の目に相応しいものとなって最終的に復活の日に復活を遂げて神聖な神の国に迎え入れられるようになるためには、神の神聖な意思に完全に沿うようになっていなければなりません。しかし、それは不可能なことです。どうしてかと言うと、神の神聖な意思を表しているものとして十戒の掟があります。しかし、それは、使徒パウロがローマ7章で明らかにしているように、人間が神の目に相応しいと認めてもらうために実行していくものではありません。そもそも完全に守り切ることなど人間には出来ません。そうではなくて、人間が神の神聖な意思からどれだけ遠ざかった存在であるかを思い知らせる鏡なのです。詩篇のなかでダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51章4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように人間の罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 

それでは神は人間を洗い清めて下さるのでしょうか?もちろん、洗い清めて下さいます。どのようにしてでしょうか?それは次のような次第で行われました。神はひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の神罰を全てイエス様に負わせてゴルゴタの十字架の上で受けさせて死なせました。イエス様が罪の償いを私たち人間に代わって神に対して果たして下さったのです。そこで人間はこのことが本当に起こったのだとわかってイエス様を自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったので神から罪を赦された者として見なされるようになります。パウロがガラテア3章27節とローマ13章14節で言うように、洗礼を受けた者はイエス様を衣のように頭から被せられるのです。父なるみ神は私たちを見る時、私たちの内に残っている神の意思に反しようとする罪よりも、私たちに纏われたイエス様という純白な衣の方に目を向けようとされるのです。

 

イエス様は十字架の上で私たちの罪を償う身代わりの死を遂げただけではありませんでした。3日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る門を私たちに開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれて、イエス様の純白な衣を着せられて歩み出すこととなったのです。

 

3.イエス様という純白な衣を頭から被せられたと言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。イエス様の犠牲のおかげで罪を赦された者と見てもらえ、神の目に相応しい者にしてもらったとは言っても、それに相応しくないことが自分に沢山あることに気づかされます。人を傷つける行いや言葉は出さないようには出来ても、心の中で思ったりしてしまいます。神の意思についてイエス様は心の中まで問われると指摘しました。また、どんなに注意しても、人間的な弱さがあったり隙をつかれたりして罪が言葉や行いになって出てしまうこともあります。そのような時はイエス様の衣を汚したとして取り去られてしまうのでしょうか?もう神の目から見て一生失格者なのでしょうか?

 

そうではないのがキリスト信仰なのです。罪の思いを持ってしまった時、罪の言葉や行いを出してしまった時、その事実から目を背けずにそれを神の意思に反する罪と認めて次のように神に祈ります。「父なる神さま、せっかくイエス様が罪を償って下さったのにそれを台無しにするようなことをしてしまいました。イエス様を救い主と信じますので、どうか赦して下さい。」さあ、神はどう出るでしょうか?神は次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前の心の目をゴルゴタの丘の上に立つ十字架に向けよ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられてそれは今も微動だにしない。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい。」そう言って私たちを新しく送り出して下さるのです。その時私たちは復活された主が墓を後にして出て行ったように私たちも新しい歩みを始めるのです。

 

キリスト信仰者の人生はこのような罪の告白と赦しの繰り返しです。それを断ち切らないで続けることがイエス様の純白の衣を纏い続けることになります。たとえ罪が内に残っていても、神の方を向いて罪の告白と赦しを繰り返すことでイエス様の衣を手放なさずにしっかり纏い続けていくと、罪は衣の神聖な重みで日々圧し潰されていきます。そして、いつの日か神の御前に立たされる時、自分の人生は罪が内に残っていた人生だったかもしれないが、イエス様の衣を最後まで手放さなかったことで罪を圧し潰す側に立って生きていたことが明らかになります。神はこれをよしと認めて下さるのです。これがキリスト信仰者に下される審判です。この世で罪を圧し潰す側に立って生きると、馬鹿にされたり爪はじきされたりすることが多くなります。でも、それは間違いではなかったと復活の日にはっきりします。その時、信仰者にはもう圧し潰す罪がなくなっています。外側だけでなく内側も純白になって変容を遂げているのです。

 

4.ここでイエス様が3人の弟子たちに山の上で見たことを自分が復活する時まで人に話してはいけないと命じたことについて考えてみます。これは実は本日のテーマである、復活と変容の関係に関わります。なぜイエス様はそのようなことを命じたのでしょうか?

 

先週の説教でも触れたことですが、イエス様が自分は何者であるかとか、自分が奇跡の業を行った時とか、そういうことを他の人に知らしてはいけないと命じたことが沢山あります。これについて、W.ヴレーデというドイツの歴史聖書学者が120年前に発表した学説が今でも影響力を持っているということをお話ししました。ヴレーデの説は、マルコは福音書を書いた時、イエス様は自分の正体を復活の日まで秘密にするように命じ、その日に全てが明らかになるような仕掛けで福音書を書き上げたというものでした。彼の学説には沢山の反論もあり、私も与しない立場ですが、それならばイエス様のかん口令はどのように説明できるのか、これを説明できなければなりません。先週は悪霊に対するかん口令を説明しました。今日は3人の弟子たちに対するかん口令です。今日のは特にイエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと言うので、ヴレーデの説明が一番響くところです。この個所をマルコの創作ではなく、イエス様が実際に話された言葉としてみたら、どのように説明できるでしょうか?

 

イエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと命じた時、弟子たちは復活とは一体何なのかわからなかったとあります(10節)。弟子たちがわからなければ他の人たちもわからなかったでしょう。復活というものがわからない段階で山の上の出来事を知らせるのは時期尚早、イエス様が復活を遂げて復活というものが起こるのだとわかった段階で知らせたら復活がわかるようになるということです。つまり、イエス様の復活の後ならこの出来事は復活の理解に資するが、復活の前では資さないということです。さあ、どういうことでしょうか?

 

この問いに答えられるためにモーセとエリアの出現について考えることが役立ちます。遥か昔の時代の預言者が突然現れたというのは、これは幽霊でしょうか?そうではありません。二人は神の御許から送られてきたのです。ここは少し複雑なところなので、よく注意して聞いて下さい。聖書の観点では人間がこの世を去った後に神の国に迎え入れられるというのは、今の世が終わって神が新しい天と地を創造される時になってからのことです。その時までは亡くなった人たちは神のみぞ知る場所にて安らかに眠っています。その眠りから目覚めさせられるのが復活です。

 

ところが聖書には、そういう将来の復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた人たちがいることが言われているのです。本日の旧約の日課に出てくるエリアがその一人です。モーセの場合は少し微妙で、申命記34章では「死んだ」と言われていますが、彼を葬ったのは神自身で、その葬られた場所は誰にもわからないという謎めいた最後の遂げ方です。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしないで、復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられたと考えられます。その証拠に彼はエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきました。これは、もう幽霊などという代物ではありません。このように、聖書の観点ではこの世を去った人は原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋です。ただ、例外的に復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた者もいるということです。

 

さて3人の弟子たちは目の前に現れたエリアとモーセを見てどう思ったでしょうか?イエス様が復活された時、突然弟子たちの前に現れて弟子たちは幽霊だと思って大騒ぎになりました。イエス様は自分は幽霊ではないと言って、新しい復活の命を持つ自分を示して弟子たちを納得させました。しかし、イエス様の復活が起きる前のヘルモン山の上で弟子たちはまだ復活について何も知りません。彼らにとってエリアとモーセはやはり幽霊だったのではないかと思います。しかし、この二人は本当は既に神の御許に迎え入れられた者として現れたのです。その証拠に、ルカ9章31節を見ると、二人は「神の栄光に包まれて現れた」と言われています。幽霊にはそんな神の栄光などありません。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からではないので、私たちは一切関りを持たないように注意しなければなりません。それは万物の造り主である神の意思でもあります。なぜかと言うと、旧約聖書の多くの個所で神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているからです(レビ19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。日本人には痛いところかもしれませんが、これが聖書の立場なのです。

 

さあ、3人の弟子たちの驚きと恐れはいかほどのものだったでしょうか?神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているのに、なんとイエス様はエリアとモーセと話をしているではないか!しかし、イエス様は天上の純白さで輝き、エリアとモーセも神の栄光に包まれている。これは幽霊ではない。じゃ、一体何なんだ!という具合にです。でもこれは、私たちも復活を遂げたらエリアとモーセのように神の栄光に包まれた者に変容させられて、天上の純白さに輝くイエス様とお話ができるという、自分たちの未来像が示されていたのです。これは本当に、死からの復活、死を超えた永遠の命があることがわからないと未来像として受け取ることは不可能です。だからイエス様の復活の後でなければわからないことであり、人々に正しく伝えられるためには主の復活を待たねばならなかったのです。

 

5.最後に山上に現れた雲についてひと言述べておきます。登山する人は高い山では天候があっと言う間に急変すること、例えば、ちょっと前まで晴れていたのが冷たい空気が流れ始めるといつの間にか周囲は霧で真っ白になることを知っています。登山用語でガスと言いますが、それは麓から見たら山にかかる雲ということになります。それなので、ヘルモン山上で急に雲が覆ったというのは普通の自然現象としてもあり得ます。普通の自然現象を超えるような雲については出エジプト記の中で述べられています。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を受け取った時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死んでしまうと言われました(18~23節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをわきまえていなければなりません。

 

そういうわけでシナイ山の雲は、生身の人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山上でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、雲は同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。そして、私たちが復活を遂げて肉の体にかわる、神の栄光を映し出す復活の体を着せられる時、私たちも変容させられたのであり、その時はもう防護壁はいりません。パウロが第一コリント13章12節で言うように、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」からです。まさに復活とは変容のことなのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)復活を意味する動詞はεγειρωとανιστημιがあり、受動態で使われるのは前者です。

 

2021年2月8日月曜日

神の国に向かって進む者は疲労しても必ず回復する (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年1月31日 顕現節第四主日 スオミ教会

 

イザヤ書40章21-31節

コリントの信徒への第一の手紙9章16-23節

マルコによる福音書1章29-39節

 

説教題「神の国に向かって進む者は疲労しても必ず回復する」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.カファルナウムの長い一日

 

今日の福音書の個所を読んだ皆さんは、ここにある出来事は先週の出来事の続きで全部が一日の内に起こったことと分かったでしょうか?実にたくさんのことが一日の内に起こりました。少し遡ってみてみますと、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、その後で荒野で悪魔から試練を受けてこれに打ち勝ちます。その時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられたという知らせを聞き、イエス様はガリラヤに乗り込んで行きます。そこでまずペトロとアンドレの二兄弟とヤコブとヨハネの二兄弟を弟子にして付き従わせます。そして、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。この安息日に沢山のことが起こったのです。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ恐れ入ります。丁度その時、会堂にいた悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々はイエス様の教えにはそのような力が伴っていることも思い知ります。この会堂の出来事が先週の福音書の個所でした。この出来事はその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきます。

 

今日の個所はその続きです。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいます。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。

 

イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂に行って教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い安息日になりました。本当にお疲れ様でした。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いた途中だったのか、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。

 

これを読むと、あれっ、イエス様は少し冷たいな、もう少しペトロの家の所で癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったようです。ところで、新共同訳では「教えを宣べ伝える」と言わないで「宣教する」と訳しています。もとにはκηρυσσωというギリシャ語の単語がありますが、それは「教えを宣べ伝える」という意味です。「宣教する」も同じではないかと思われるかもしれませんが、実はそうとも言えないのです。こんなことがありまして、日本福音ルーテル教会の東教区の中央線沿線の7教会が毎年「一日教会祭」という、各教会がそれぞれのタレントをお互いに披露しあうというイベント行事を市ヶ谷教会を会場にして行っています。昨年はコロナで中止でしたが、2年前の一日教会祭である教会が教会外部のベリーダンス・グループを招いて自分の教会の出し物としてダンスを披露させました。その後で牧師と役員の会合があったのですが、私が、あの出し物は一日教会祭の趣旨に合わないのではと疑問を呈したところ、あれは立派な「宣教」なのだ、そんなこともわからないのか、と呆れかえられてしまいました。私が神学を学んだフィンランドでそういう「宣教」に類する言葉はあるかどうか考えてみたのですが思い当たらず言葉に詰まってしまいました。それ以来、私は「宣教」という言葉を使うのをやめることにしました。「福音の伝道」と言うことにしています。

 

話が横道に逸れましたが、イエス様が重視した「教えの宣べ伝え」を今日の説教で見ていこうと思います。イエス様が癒しや悪霊の追い出しを軽視したということではないのですが、ただそれらが「教えの宣べ伝え」とどういう関係にあるのかを明らかにする必要があります。

 

2.イエス様は教えることを優先するが、その教えには力が伴っていた

 

イエス様が宣べ伝えた「教え」とはどんな教えだったでしょうか?イエス様はガリラヤ地方で伝道活動を開始した時に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べました。2週間前の説教でお教えしたことですが、「時は満ちた」というのは「神の人間救済の計画が実行に移される時が来た」という意味です。「神の国は近づいた」というのは、「神の国がイエス様と一緒にすぐそばに来ている」という意味です。「悔い改めよ」とは、「神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きよ」と言う意味、「福音を信じなさい」は「旧約聖書にある神の約束がいよいよ実現するという良い知らせを信じなさい」ということです。イエス様の教えの中心にあるものは「神の国」です。人間が「神の国」に迎え入れられるようにするためにはどうしたらよいか?これがイエス様の教えと業の双方を理解する鍵であると言っても過言ではありません。

 

 「神の国」については本教会の説教でも何度もお話ししましたが、ここでも振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。

 

そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26-29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言うと、「神の国」すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教は死んだらすぐ天国に行けないの?という疑問が起きます。実はキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。

 

そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これもルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。

 さて、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論と違った意味で言っていたのです。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

 

 実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

 

 このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

 

 しかしながら、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできません。自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。

 

この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架の上で果たしてくれた人間の罪の償いがそのまま自分にその通りになります。罪を償ってもらった者になったら今度は神から罪を赦された者と見なされて、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。イエス様の死からの復活のおかげで永遠の命への扉が人間に開かれました。キリスト信仰者はそこに至る道を順境の時も逆境の時もいつも変わらず神に守られ導かれて進みます。たとえこの世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになったのです。

 

以上、イエス様は教えを宣べ伝えることをとても大事にしたということと、彼の教えの主眼は人間を神の国に迎え入れられる者にすることであったことを見てきました。イエス様の教えには癒しや悪霊追い出しの力が伴っていましたが、それは神の国が彼と共にあったからということも見ました。

 

3.悪霊の言うことには耳を貸すな

 

本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節にあります。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」

 

これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?悪霊がイエス様のことを知っていて、イエス様が話をすることを許さないというのは既に先週の個所にありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」ここで「神の聖者」という訳についてひと言申し上げます。「聖者」と言うと「聖者の行進」という有名なゴスペル・ジャズの歌があるので何だか死んだ人みたいに聞こえてきます。それではイエス様が可哀そうです。ギリシャ語原文を見ると「神の神聖な方」です。定冠詞がついているので「神の神聖な方の決定版」です。英語で言えばThe holy one of Godです。「聖者」ではありません。悪霊はイエス様が神の神聖なお方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にしてはいけないと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。これは一体どういうことでしょうか?

 

福音書を見ると悪霊の追い出し以外にも、イエス様が癒しの業を行った時に誰にも言ってはならないとか、自分が行ったこと自分が神のもとから来た者であることを口外してはならないという場面が多くあります。イエス様のこうしたかん口令について、ドイツの歴史聖書学者のW.ヴレーデという人が1901年という昔に「メシアの秘密」という有名な研究書を出しました。彼によると、マルコ福音書を書いた人は、イエス様が自分の正体を人々に隠し続け、復活の時になって全てが明らかになるという仕掛けで福音書を書き上げたと言うのです。これからわかるように、福音書というのは歴史的事実を伝えるものではなく福音書作者の文学作品という立場です。ヴレーデの学説は長く影響力を持って、学会だけでなく礼拝の説教でもイエス様のかん口令を説明する際によく使われたのではないかと思います。ただし、ヴレーデの説に対する反論も沢山あります。私も賛成しません。それでは、悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊が話をすることを認めなかったということは、どうやって説明できるでしょうか?

 

先週の説教で、悪霊と悪魔の区別についてお話ししました。悪魔・サタンは悪霊の頭、悪霊は悪魔・サタンの手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。ところが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神から罪の赦しを受けられる可能性が打ち立てられました。さらに、永遠の命に至る扉も人間に開かれ神の国に迎え入れられる可能性が打ち立てられました。まさにそのために悪魔と悪霊の企ては破たんしてしまいました。それにもかかわらず両者は機会を捉えては、人間が罪の赦しがあることも神の国への迎え入れの可能性も知らないようにしようとします。仮に知ることになっても忘れるようにしようとします。

 

さて、悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方の決定版」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。ただそれは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、人間の神の国への迎え入れということが全然出てこないからです。イエス様が自分は神の神聖な者、神の子であるということを悪霊に話させないようにしたのは、信仰告白と無関係に正体の暴露はするなということです。イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、それらの言うことに耳を貸してはならないということも意味しています。ここでもイエス様が人間の神の国への迎え入れを大事に考えておられることが見えてきます。

 

4.神の国に至る道を進む者は疲労しても必ず回復させられる

 

先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むことはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。ヘブライ語原文をもう少ししっかり見ると、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。父なるみ神に見放されたと思って嘆いているのです。ところが神は、そうではないと、28~31節で言います。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。」

 

「主に望みをおく人」というのは、これも原文に忠実に見ると「主を待ち望む人」です。「主」というのはヤハヴェと書いてあるので、聖書の神のことです。それで「主を待ち望む」と言うのは、「神が救ってくれるのを待ち望む」ことです。「神の救いを待ち望む」とは言うまでもなく、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、その時を待ち望むことです。その時を待ち望む者は、神の国に向かう道を進んでいる時に疲労しても必ず回復が与えられるということを、このイザヤ書40章の終わりで約束しているのです。主にある兄弟姉妹の皆さん、疲労回復のカギは何と言っても神の国への迎え入れを常に待ち望んでいるかどうかにかかっていることを忘れないようにしましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

2021年2月1日月曜日

神は人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年1月31日 顕現節第四主日 スオミ教会

 

申命記18章15-20節

コリントの信徒への第一の手紙8章1-13節

マルコによる福音書1章21-28節

 

説教題 神は人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の聖書日課の使徒書第一コリント8章と福音書マルコ1章の箇所は3年前の礼拝説教で説き明かしをしました。その時、これは頭の痛い厄介な個所だと申しました。というのは、マルコの方はイエス様が悪霊を追い出す奇跡を行うところで、悪霊追い出しなどというものは今どき真面目に取り上げるべきものではないと言われてしまうからです。しかし、聖書に書かれていることを単に大昔の人間の作り話なんかではないという立場で見ていきますと、やはりイエス様の悪霊追い出しは避けて通れないテーマです。

 

もう一つ厄介なのは、コリント8章の偶像に備えられた肉をキリスト信仰者は食べていいのかという問題です。キリスト信仰者が社会の少数派であるところでは似たような問題が起きてきます。この日本でもそうです。コリントの偶像に備えられた肉というのはどういうものか少し振り返ってみます。

 

コリントは現在のギリシャにある町で、そこにある教会に使徒パウロが手紙を送ったのでした。当時キリスト教は始まったばかりで、どこでも少数派でした。キリスト教が広まる地域は大体、ギリシャ神話の伝統が根強い地域で神話の神々の神殿があちこちにあり、人々はそこにお参りに行きます。当時の肉の食べ方ですが、まず家畜を神殿で生け贄に供えるものとしてそこで屠ります。それを祭事の時にみんなで食べるか、またはマーケットに出して売ります。そういうわけで肉料理と言ったら、宗教儀式を経た肉が使われたということなのです。さあ、キリスト教徒は違う宗教の儀式を経て供えられた食べ物を食してもよいのでしょうか?

 

第一コリント8章でパウロは、「偶像など存在しない、神々などというものはあっても、神は本当はただ一人のみ、その方が万物を造られたのだ」と言って、万物の造り主としての唯一の神を打ち出します。そういうことを言うと、多神教と言うのか多霊教と言うのか、そういう立場の人は、またキリスト教の独りよがりが始まったと嫌な顔をするかもしれません。

 

本日の説教は、3年前にお教えしたことを一歩先に進めるような説き明かしになると思います。3年前ははっきり出なかった視点がはっきりします。どんな視点かと言うと、神という方は私たち人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する方だということです。

 

2.偶像と異教の神々

 

初めに、偶像に供えられた肉をキリスト信仰者が食べることについてのパウロの教えを見ます。ここでまず、そもそも偶像とは何かということを考えてみましょう。パウロは4節で「世の中に偶像の神などはない」と言っています。しかし、そうは言っても世界には、これは何々神の像である、というような像は無数にあります。その意味で偶像の神はあります。パウロだってギリシャ神話の神々の像があちこちにあることは知っているはずです。なのにどうして、そんなものはない、などと言うのでしょうか?

 

これは、聖書の神が「生きる」神であることをわかるとパウロの真意が理解できます。旧約聖書のヘブライ語の言い方で、「~をした神は確実に生きておられる」とか「神が確実に生きておられるのと同じ確実さで~が起きる」というものがあります(חי יהוה אשר ~)。神が確実に生きておられることの証明として「神は~をしたのだ」と言うのです。その神がした「~」には、例えば「イスラエルの民をエジプトの地から導いた」とか「民をバビロン捕囚から解放して祖国に帰還させた」とか、そういう歴史的に大きな事件が言われます(例としてエレミア16章14、15節)。こうした出来事は神が力を行使して起こったのだ、まさに神が生きていることの証しだというのです。 

 

そこで聖書の中で偶像崇拝を批判する箇所を見ると、偶像は単なる像にしかすぎない、歴史的大事件を起こせるどころか、口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない、足があっても歩けない、などと手厳しいです(例として詩篇115篇4-8節)。つまり、生きている神から見たら偶像は死んでいるのです。それで、偶像は沢山存在するのにパウロが存在しないと言っているのは、「生きている」偶像は存在しないという意味なのです。

 

ただ、人によっては、何々神の像は見えないということはない、聞こえないということもない、ちゃんと見ておられる聞いておられる、聖書は失礼なことを言うな、と怒るかもしれません。つまり、そうした像が魂を持っていると思って畏敬の念を覚えるのです。像が魂を持っていると思えたら、像は見えている、聞こえている、ということになります。ところが像自体は何を見ているのか聞いているのか、像を作った人間のことをどう考えているのか教えてはくれません。人はどうやって像が見ていること考えていることを知ることが出来るでしょうか?多分、像はこういうことを見ている考えていると自分で思い描いてそれを潜在意識にインプットすれば、夢にでも出て来て教えてくれるかもしれません。

 

聖書の神が人のことをどう見て考えておられるかということはわかります。まず聖書に記されている神の意思というものを知って、それに自分を照らし合わせて見ると、神の目から見た自分の姿を知ることができます。また神は、私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、祈り求めたことの答えや解決を御自分が良かれと思う仕方で良かれと思う時に必ず与えて下さいます。このように人間が自分の姿を知るにしても、祈り求めたことの答えを得るにしても、それはいつも神の視点で起こります。もちろん人間も自分の視点を持ちますが、それはいつも神の視点によって軌道修正させられます。聖書の神は、人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つようにと絶えず教育する方なのです。

 

第一コリント8章に戻りますと、パウロは5節で「天や地に神々と呼ばれるものがいる」と言います。生きた偶像は存在しないが、天や地に霊的なものが沢山あって、それらはみな「神」と呼ばれている、そういう霊的なものは存在することは認めています。これは旧約、新約聖書に共通する見方です。ところが6節をみると、これらの霊的なものは全て天地創造の神に造られた被造物にしかすぎないということが言われます。これも聖書の立場です。他の宗教が聞いたら、自分たちの神が低くランク付けされているようで、あまりいい気持ちはしないでしょう。しかし、聖書は出だしから万物の造り主の神が登場するので、立場上はそうならざるを得ないのです。

 

3.偶像に供えられた肉を食べないことが愛を示すことになる

 

偶像や神々というものと聖書の神の違いについて見ました。ここで、キリスト信仰者は違う宗教の儀式を経由してきた肉を食べてもいいのかという問題に入ります。このコリント8章はロジックが分かりにくいと思います。というのは、パウロは一見すると、強い信仰者は食べるが、弱い信仰者は食べない、と言っているようにみえるからです。

 

人によってはこれは逆なのではないかと思うでしょう。つまり、異教の神々に捧げられた肉なんか死んでも食わないぞ!と頑張るのが強い信仰者で、逆に食べないと周囲からつまはじきされてしまう、だから仕方なくおどおどして食べてしまうのは弱い信仰者ではないかと思われるからです。私が初めてこれを読んだ30年以上も前の時、その頃私に聖書を教えてくれたフィンランドの神学部の学生は言ったものでした。そうじゃないよ、逆だよ、偶像なんか存在しない!異教の神々なんか天地創造の神の前では何者でもない!そういうふうに信じる者は偶像に供えられた肉を物ともせずに食べられる、ところが、食べたら偶像や異教の神々の影響が入り込んでしまうと恐れて食べられないのは、まだそういうものがあると信じているので弱い信仰者なんだよ、と教えてくれたものでした。それを聞いた私は、そういうことならキリスト信仰者は皆、強い信仰者を目指して別の宗教の儀式に関わるものを受け入れて、さらには8章10節に言われているように、その儀式に結びつく宴にも参加できるくらいになれないといけないのか、などと驚いたものでした。

 

ところが、この説明に私自身しっくりいかないものがあって、なかなか食べられる強い信仰者になろうという気持ちは起こりませんでした。やはり自分は弱い信仰者止まりか、でも弱い信仰者で何が悪い、という気持ちになりました。その後もずっとこの箇所を読むたびに同じ気持ちでした。だって、パウロは弱い信仰者に強くなれとは言っておらず、弱いままでいい、自分も同じように食べないから心配するな、と言っているではありませんか!パウロは、偶像や異教の神々をものともせずに供えの肉を食べられる信仰をいいとか目指すべきとは言っていません。正確を期して言えば、パウロは他宗教の儀式を経た肉を食べる人のことを「強い」とは言っておらず、ただ「知識」を持つ者と言っているだけです。パウロが食べることを推奨する意図がないことは、テキストをよく見ればわかります。

 

「知識」ということについて、パウロは8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と述べます。ここで言う「知識」は、先ほども述べた生きた偶像など存在しない、神々などあってもそれは全て被造物であるということを知ることです。その知識を持つことが肉を食べる前提になっています。「愛が造り上げる」というのは、キリスト信仰者というのは各自が一つの体の中の一つ一つの部分であって、それぞれがお互いを支え合いかばい合いながら一つの体として成長することを意味します(第一コリント12章12~31節、エフェソ4章16節参照)。パウロは、知識を持つだけでは肉は食べられるが高ぶってしまうと言うのです。それだけでは、お互いを支え合いかばい合う成長は起こらないと言うのです。

 

続く2節を見ると、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならないことをまだ知らない」、ギリシャ語原文を直訳すると、その人は知らなければならないようには知っていない(知らなければならない仕方では知っていない)、つまり、自分は知識があると言っている人の知識は神から見たらズレていると言うのです。この1節と2節から、知識を持つ者への厳しい見方が明らかです。知識を持つ者が異教の神に捧げられた肉を食べます。彼らは、生きた偶像など存在しない、神々などはあってもそれは単なる被造物で恐れるに値しない、だから食べても痛くもかゆくもない、と言って食べるのです。

 

ところが、食べられない信仰者もいる。なぜかと言うと、イエス様を救い主と信じて受け入れる前は、ギリシャの神々の神殿で礼拝していたので、その礼拝がどんなものかわかっています。それなので神殿の儀式を経由した肉を食べたら、その儀式の内容を一緒に摂取した感じになってあまりいい感じはしません。しかし、あの知識を持つ信仰者たちは平気で食べている、ましてや儀式が行われた神殿の宴で神殿礼拝者と一緒に食事までしている、自分も食べないと馬鹿にされてしまう、それじゃ自分も、とそれくらいの、明確な知識に基づかず風に吹かれるように食べてしまうと、はやり後で落ち着かなくなります。そのことについてパウロは10節で、「その人は弱いのに、その良心は強められて、偶像に供えられたものを食べるようになってしまわないだろうか?」と言っています。「良心は強められて」というのは、ギリシャ語原文では「良心は造り上げられて」です。さっきの1節の「愛は造り上げる」と同じ動詞(οικοδομεω)です。つまりここでは「良心は変なふうに造り上げられて」という意味で、同じ動詞を使うことでパウロは痛烈に皮肉っているのです。

 

パウロの結論は、自分はそうした肉は絶対食べないということでした。理由は、「弱い信仰者」が信仰にとどまれるようにするためでした。実を言うと、食べないのが正しいということはエルサレムの教会の方針でした。使徒言行録15章を見ると、パウロとバルナバがアンティオキアに派遣される時、先方の教会に対する指示が託されました。その一つがまさに偶像に捧げられた肉を食べてはいけないというものでした(29節)。

 

それなら、パウロはなぜコリントの知識を持つ信仰者にはっきりとダメと言わなかったのでしょうか?これはまたいろいろ調べなければ確実なことは言えませんが、今の段階で言えることは、コリントの教会は知識を持つ人や霊的に自信満々の人が多くいて、かなり好き勝手にやっていた教会であったことがパウロの手紙から窺われます。そういうところで指示通りのことを正面から言ったらどうなったでしょう?パウロは情けない奴だ、神は万物の創造者と本気で信じているのか?そう信じれば、異教の儀式で一緒にやったって痛くもかゆくもないのに。そんなふうに凝り固まっている人たちに、正攻法でいってもうまく行かないでしょう。パウロがとった論法は、コリントの知識ある信仰者たちよ、君たちは知識はあるが、それは造り上げてはいない、高ぶるのと造り上げるのとどっちが大事なのか?造り上げるのが大事だと思うのなら、私に倣いなさい。そういう論法だと思います。私に倣いなさい、というのは、食べるのをやめなさい、ということです。

 

4.悪霊の追い出しと神の視点教育について

 

次にイエス様の悪霊追い出しを見ていきます。イエス様が追い出しの奇跡をする悪霊は、本日の箇所にあるように「汚れた霊」(ακαθαρτον πνευμα)と言われるものと、ずばり「悪霊」と訳される(δαιμονιον)の二つがあります。両者は同じものです。悪霊追い出しのことが多く出てくるマタイ、マルコ、ルカの三福音書の関連箇所を見渡すと、悪霊は何か具体的な病気または病的な状態をもたらすことをしでかします。イエス様の悪霊追い出しは、それ自体が目的で行う時もあれば、何か病気を癒す奇跡を行う時に行うこともあります。いずれにしても追い出しをすると、悪霊がもたらしていた病的な状態もなくなってみんな健康な状態になります。追い出しの時に悪霊が口を聞いてくる時もあります。本日の箇所もそうです。悪霊はイエス様が神聖な神の神聖なひとり子であるとわかっていて、その力もわかっているので恐れをなしてしまいます。出て行けと言われれば、そのまま出て行くしかありません。

 

3年前の説教の時、私は、イエス様が行った奇跡には病気の癒しと悪霊追い出しがあることから次のように述べました。人間の病気には病気自体によるものと悪霊のような病気を超えた要因で起きるものがある、病気自体による病気を悪霊によるものと考えて医学以外のものに頼ろうとするのはよくないということです。加えて、キリスト信仰者に関して言えば、悪霊や悪魔の企ては破綻しているので、病気や苦難の時はそれらにやられていると考えないで対処すべきとも申しました。ただ、このように言うと、病気の時はただ単に医学だけを頼りにすればいいと誤解されるのではと思い当たりました。医学を用いて癒しを目指す時にも、もちろん、ベストな治療を受けられますようにとか受けた治療が良い結果をもたらしますようにと父なるみ神に祈ることは必要です。どんなに医学が発達しても神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないからです。

 

今私は、キリスト信仰者においては悪霊と悪魔の企ては破綻していると申しました。これはどういうことか振り返っておきます。「悪魔」というのは新約聖書ではサタナー(σατανα)とかディアボロス(διαβολος)と言われます。サタナーとはサタンのことです。ディアボロスというのは引き裂く者、バラバラにする者という意味があります。旧約聖書ではサーターン(שטן)で、非難する者、告発する者という意味があります。「神様、この者は罪深い者で神罰に値しますよ」などと神に告発する者です。神と人間の間を引き裂き、人間が救われないようにと、将来神の裁きを受けて永遠の滅びに道連れにしようとする者、それが悪魔です。悪魔は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後で荒れ野で40日間誘惑の試練を与え、イエス様がこれから神の人間救済計画を実行するのを妨げようとしました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を全て跳ね除けたので神の計画をそのまま実行に移すことが出来、十字架の死と死からの復活を遂げたのでした。

 

悪魔と悪霊の区別については3年前にもお教えしました。サタン・悪魔は悪霊の頭、悪霊はサタン・悪魔の手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神の罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。両者とも人間がイエス様の成し遂げたことを知らないように、知っても忘れるようにしようとするのです。

 

イエス様が成し遂げたこととは何だったでしょうか?それは、彼が神のひとり子でありながら、人間が持っている神の意思に反しようとする罪を全部引き受けてその神罰を代わりに受けてゴルゴタの丘の十字架で死なれたことでした。私たちの罪の償いを私たちに代わって神に対して果たして下さったのです。さらに、父なるみ神の計り知れない力で死から復活され、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さったことでした。人間は、これらのことがまさに自分のために起こったとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからには神から罪を赦された者と見なされ、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。順境の時も逆境の時もいつも神の守りと導きを得てその道を進み、この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになりました。

 

以上のことが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで悪魔と悪霊の企ては破たんしたということです。イエス様を救い主と信じる者に関してはそれらの企ての破綻はその通りになっているのです。

 

 そこで一つ大きな問題になってくるのは、やはり、病気の癒しや苦難の打開を祈っても期待した結果にならない場合はどうなのかということでしょう。先ほど、どんなに医学が発達しても父なるみ神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないと申しました。それならば、祈っても望ましい結果にならなかったら神の導きや祝福がなかったということになってしまうのでしょうか?これはとても難しい問題です。例えば、何千人に一人の割合で健康上困難がある子供が生まれるという時、他のキリスト信仰者の子供はそうではないのになぜウチの子供はそうだったのか?とても不公平な感じがします。自分たちの信仰に何か問題があったのかと責めることも起きるかもしれません。さらには、イエス様を信じていなくても健康な子供が授かっているのに、信じている自分たちにはそうならなかったとなれば、信じることに何の意味があったのかという思いになるでしょう。

 

とても難しい問題です。ただ一つはっきりしていることは、このような不運がきっかけでイエス様を救い主と信じなくなって神に背を向けてしまったら、それは神の国に向かう道から降りてしまうことになり、悪魔や悪霊の思うつぼです。不運があっても、イエス様を信じて神の方を向いて進んでいれば、復活の日の再会があります。その時の私たちの有様はパウロが教えるように、この世の朽ち果てる体ではなく神の栄光で輝く体であり、イエス様が言われたように、みな天使のようになるのです。不運がもとで神に怒ることはあっても、神の国に至る道に留まって進むことは出来ると思います。それはきっと自分の視点を捨てて神の視点を持つようになるためのとても重いプロセスになるでしょう。それを思うと、不運を持たなかった人たちはどれだけ自分の視点を捨てて神の視点を持てるようになるか心配になってくるくらいです。

 

今の私にはこれ以上のことは言えません。神がこの問題を見極められる知恵を私にも皆様にも与えて下さいますように。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン