2020年9月21日月曜日

神の国への入門講座 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年9月20日(聖霊降臨後第十六主日)スオミ教会

 

ヨナ書3章10-4章11節

フィリピの信徒への手紙1章21-30節

マタイによる福音書20章1-16節

 

 

説教題 「神の国への入門講座」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の個所は、イエス様のブドウ畑の所有者と日雇い労働者のたとえの教えです。日の出から日の入りまで12時間炎天下の中を働いた人たちが夕暮れ近くの最後の1時間しか働かなかった人たちと同一賃金だっので、それに対して所有者に不平を言う。所有者は、朝雇う時に1デナリオンで合意したではないか、別に契約違反ではない、と。1デナリオンというのは当時の低賃金労働者の一日の賃金です。しかし、長く働いた者からすれば、一番短く働いた者が1デナリオンもらえるのなら自分たちはもっともらえて当然ではないか。もっとな話です。それに対して所有者は、「私の気前の良さをねたむのか」と言って自分のしたことは間違っていないと言う。ギリシャ語の原文は少しわかりにくくて、直訳すると「私が善い者であることに対してお前の目は邪悪なのか?」、つまり「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか?」ということです。お前は私が善いことをしているのを正しくないと言って覆すつもりなのか、私は間違ったことはしていない、それに反対するのは悪い心だと言うのです。

 

これは一体どういう教えなのでしょうか?1デナリオンは当時の低賃金労働者の一日の賃金ということで、先週もやりましたが、今のお金の感覚で言えば、東京都の最低時給が1,000円ちょっと、それで12時間働いたら1万2,000円です。12時間働いた人がその額をもらった時に、おい、聞いたか、1時間の奴らも同じだってよ、なんて聞かされたら心穏やかではなくなるでしょう。まさか、キリスト教は自己犠牲の愛を教える宗教なので、一番長く働いて一番苦労した者は一番短く働いて一番楽した者と同じ扱いを受けても当然と思わなければならないということなのか?でも、このたとえに何の自己犠牲があるでしょうか?一番短く働いた人が1万2,000円もらえたのは一番長く働いた人のおかげということはありません。専ら所有者が自分はそうすると決めてそうしただけです。一番長く働いた人は最初に同意した額は減らされたりしていません。

 

ここでのイエス様の趣旨は、所有者の給与の払い方を私たちの現実の生活にあてはめよ、ということではありません。この教えはたとえです。なにをたとえて言っているか知ることが大事です。初めに「天の国」はブドウ園の所有者にたとえられると言います。「天の国」とは天地創造の神、万物の造り主がおられるところです。「神の国」とも呼ばれます。マタイは「神」という言葉を畏れ多く感じてよく「天」に置き換えます。本説教では「神の国」と言うことにします。

 

「神の国」がブドウ畑の所有者に、国が人にたとえられるのは変な感じがします。これは、「神の国」というのはこれから話すブドウ畑の所有者の意思、考え方が貫かれている国だということです。つまり、ブドウ畑の所有者のような考え方をするお方が「神の国」を体現しているということで、この所有者は神を意味します。イエス様はこのたとえで、神はどのようにして人間を神の国に迎え入れるか、ということを教えているのです。そういうわけで、本説教ではそのことについて以下の3つの点に注目して見ていこうと思います。まず、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を受けることによって神の国に迎え入れられる、そこでは信仰と洗礼がいつだったか期間の長短は問題ではないということ。次に、人間は自分の能力や業績や達成によっては神の国に迎え入れられない、迎え入れは神のお恵みとしてあるということ。最後に、神の国に迎え入れられる者になったら、この世では罪との戦いが仕事になるということ。そういうわけで本説教は神の国に迎え入れられることについての基本をお教えします。、まさに神の国への入門講座です。

 

2.イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたのが早い遅いは関係ない

 

神の国に迎え入れられるとはどういうことでしょうか?それは、聖書が打ち出す人間観と死生観に結びついています。聖書の人間観とは、人間というものは神の意思に反するものを内に持っていて、それを心に抱いたり言葉に出したり行いに出したりしてしまう。それをひっくるめて罪と呼びますが、そういうものを持っているということです。死生観は、人間はそういう罪を持つがゆえに神聖な神から切り離された状態に置かれてしまっている。もしそのままでいたら神から離れた状態でこの世を生きなければならなず、この世を去った後も最後の審判の時に神聖な神の前に立たされた時に申し開きが出来ないということです。そこで神が、これではいけない、人間が自分と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世を去った後も自分のもとに、つまり神の国に迎え入れられるようにしてあげよう、そのために人間の罪の問題を解決しなければ、ということでひとり子のイエス様をこの世に贈られました。これが人間に対する神の愛ということです。

 

それでは、神はイエス様を贈ることでどのようにして人間の罪の問題を解決したのでしょうか?それはまさに、彼に人間の罪を全部負わせて神罰を受けさせて人間に代わって罪の償いをさせることで果たされました。ゴルゴタの十字架の出来事がそれだったのです。さらに、一度死んだイエス様を今度は計り知れない力で三日後に復活させて、死を超える永遠の命があることを天地に示し、その命に至る扉を人間に開かれました。神の人間に対する愛がイエス様を通して示されたというのはこのことです。

 

 そしてこの後は、人間がこれらの出来事は自分のために起こされた、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、その人は永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩むようになります。その時、その人は罪を償われた者と神から見られ、まさに神から罪を赦してもらった状態に置かれます。それで神聖な神の目に適うものとなって神との結びつきを持ってその道を歩むことになります。最後の審判の時も、イエス様を救い主と信じる信仰を持って生きていたことが決め手となって神の国に迎え入れられます。これら全てをひっくるめたことが、キリスト信仰でいう救いです。それを人間に命を賭してまで整えて下さったイエス様は真に救い主です。

 

ここで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということですが、そのタイミングは人それぞれです。ある人は、親がキリスト信仰者で赤ちゃんの時に洗礼を受けて、信仰者の親のもとでイエス様が救い主であることが当たり前という環境の中で育って大人になる場合があります。別の人は、大人になってイエス様を救い主と信じるようになって洗礼を受ける場合があります。子供の時からずっとキリスト信仰者である場合、大人になってから、それこそ晩年でも死ぬ直前でもキリスト信仰者になる場合があります。どの場合でも神の国への迎え入れということについて差は生じません。信仰者として生きた期間が長かったから迎え入れられやすいとかそういうことはありません。みな同じです。そのことを、たとえの労働者がみんな同じ1デナリオンをもらったことが象徴しています。

 

そういうことであれば、晩年やこの世を去る直前に洗礼を受けることになっても何も引けを取らないということがわかって安心します。長年キリスト信仰者の人も神の愛はそういうものだとわかっているので、誰も信仰歴が短すぎるなどと目くじら立てません。全く逆に、私が神から頂いた計り知れないお恵みにあなたも私と全く同じ値で与ることが出来て本当に良かった、そう言ってくれます。

 

ここで一つ気になることは、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、何らかの事情でイエス様が救い主であることがはっきりしない状態で大人になってしまう場合があるということです。近年のヨーロッパではそう言う人が多いです。この場合、神の国への迎え入れられはどうなるのか?この問題は本説教の終わりで触れようと思います。

 

3.人間の能力や業績によるのではなく神のお恵みで迎え入れられる

 

次に、神の国への迎え入れは人間の能力、業績、達成によるのではなく、神のお恵みとしてあるということについて。本日のイエス様のたとえは、実は前の章、19章の出来事の総括として述べられています。どんな出来事があったかと言うと、金持ちの青年がイエス様のもとに駆け寄って来て、「永遠の命を得るためには、どんな善いことをしなければならないのか」と聞いたところです。イエス様は十戒のうち隣人愛に関する掟を述べて、それを守れと答える。それに対して青年は、そんなものはもう守ってきた、何がまだ足りないのか、と聞き返す。それに対してイエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、それから自分に従え、と命じる。青年は大金持ちだったので悲痛な思いで立ち去ったという出来事です。

 

このイエス様と青年の対話の中で、若者が「どんな善いことをしなければならないか」と聞いたときに、イエス様が返した言葉はこれでした。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」善い方はおひとりと言う時、それは神を指します。ここでは話が善い「こと」から善い「方」へ、事柄から人格へ変わるのです。青年は「善い」は人間がすること出来ることと考えて質問したのに対して、イエス様は「善い」は神だけが持つ、「善い」を体現しているのは神しかいないと言い換えるのです。つまり、そもそも「善い」を体現していない人間が神の国に迎え入れられるような「善い」ことが出来ると考えるのは外れているというのです。「善い」ということについて考えたり口にする場合、神が出発点にならないといけないのに、青年は人間を出発点にしているのです。

 

このように、神のもとだけに「善い」がある、神が「善い」を体現しているということを忘れると、人間は救いを自分の能力や業績に基づかせようとします。でもそれはいつか必ず限界にぶつかります。青年の場合は、イエス様が全財産を売り払えと命じたことでその限界が明らかになりました。救いは人間の能力や業績にではなく、ただただ神が「善い」ということに基づかせなければいけないのです。

 

イエス様と青年の対話から、神が「善い」方ということが救いの大前提であることが明らかになりました。この神が「善い」方ということが本日のたとえの中にまた出てくるのです。本説教の最初でも申し上げましたが、「わたしの気前の良さをねたむのか」というのは、ギリシャ語原文では「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか」ということでした。ここの「善い」と青年との対話に出てきた「善い」は両方とも元のギリシャ語では同じ言葉アガトスαγαθοςです。日本語訳では本日のところは「気前の良さ」と訳されてしまったので繋がりが見えなくなってしまうのですが、原文で読んでいくと本日のたとえは青年との対話と繋がっていて、それを総括していることがわかります。どう総括しているかと言うと、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられることは人間の能力や業績や達成に基づくのではない、神が「善い」方であることに基づくということです。神がそのような「善い」方であるというのは、ひとり子イエス様を私たち人間に贈られて彼を犠牲にしてまで私たちを罪と死の支配から解き放って永遠の命に向かってしっかり歩めるように全てを整えて下さったということです。

 

4.罪と戦うという仕事

 

神の国への迎え入れが人間の能力や業績に基づかず、善い神のお恵みに基づくと言ったら、人間は迎え入れのために何もしなくてもいいのか?そのように言われるかもしれません。それなら、所有者はわざわざ何度も広場に出向いて人を雇うのではなく、夕暮れの時にみんなを集めてお金を渡してもいいのではないか?しかし、1時間でも働いてもらうというからには、何か人間の側でもしなければならないことがあるということではないのか?そのしなければならないこととは何か?洗礼を受けてクリスチャンになったら、毎週がんばって教会の礼拝に通い、ちゃんと献金をして人助けや慈善活動をすることか?それが、若い時からずっとしてきた人と晩年になってからするようになった人を神は同等に扱って下さるということなのか?

 

もちろん、そういうこともあるにはあるのですが、ここではもっと根本的なことが問題になっています。教会通いとか献金とか慈善活動はその根本的なことがあって出てくるものです。それがないと、教会通いなどは見かけ倒しになります。それでは、根本的なこととは何かと言うと、それは、キリスト信仰者には罪と戦うという仕事があるということです。

 

パウロが「ローマの信徒への手紙」で教えているように、人間は洗礼を受けるとイエス様の死と復活に結びつけられます。古い自分が死んで新しい自分が始まるのです。この新しい自分とはまさに罪との戦いに身を投じる自分です。ローマ8章13節でパウロは「もしあなたがたが聖霊の力によって体の行いを日々、死なせていくならば、あなたがたは永遠の命に与る者として生きる」と教えています。新共同訳では「体の行いを絶つならば、生きる」と訳されて、「絶つ」などと言うと一気に断ち切ってしまうみたいですが、ギリシャ語の時制は日々そうするということです。動詞も「絶つ」ではなく、文字通り「死なせる」です。「生きる」という動詞も未来形なので永遠の命に向かう生き方を意味します。それで、「体の行いを日々、死なせていくならば、永遠の命に与る者として生きる」というのが正確な意味になります。これが罪と戦うということです。

 

「体の行いを死なせる」というのはどういうことか?ルターがそれを的確に説き明かしていますのでそれを皆様にお聞かせします。

 

「この聖句でパウロは、キリスト信仰者にはまだ死なせなければならない罪の汚れが体に宿っていることを認めている。自然のあるがままの状態では、そのような「体の行い」はいつも生じてきてしまうのだ。それは神の意思に反しようとするあらゆる欲望や誘惑である。例えば、神の意思や御言葉に意を介さない傲慢さ、心の冷たさ、辛い時に神を恨み背を向けること、神に対する反抗心、隣人に対する復讐心、妬み、憎しみ、利己的な心、ふしだらな生活などである。こうしたものはキリスト信仰者の肉と血にも宿っていて、信仰者といえどもたきつけられたり苦しめられたりする。そればかりでなく、人間的な弱さのために、また油断してしまったために不意をつかれることもある。もし、これらに対して立ち向かおうとせず、パウロが言うような「体の行いを死なせる」ことをしないでいると、これらの罪は一線を越えて人間を占拠してしまうことになる。

 

聖霊の力を借りて罪を死なせていくというのは、次のようにすることである。まず、罪は罪であり神の意思に反することであると自分自身はっきりさせて、自分にはそれがあるという弱さを認める。自分に罪が芽生えてその欲に火が灯ったと気づいたら、すぐ罪ではなく神の御言葉をもって信仰者としての自分に立ち返る。神の御言葉とは、罪を神罰に値するものであると言い、同時にイエス・キリストの十字架のところでそれは償われていると言う御言葉である。キリスト信仰者はこのようにして罪の赦しを信じる信仰で強められて罪と戦うことができるのであり、罪の言いなりにならず、欲望が行為に現れることを圧しとどめることが出来るのである。」

 

以上がルターの教えです。「体の行いを死なせる」とは、内に宿る罪が行為や言葉となって現れてくるのを圧しとどめることと考えられています。このような生き方はパウロがローマ12章2節で言っている、この世に倣わない生き方です(μη συσχηματιζεσθε τω αιωνι τουτω)。理解・意志が一新された者として神によって変えられていく生き方です(μεταμορφουσθε τη ανακαινωσει του νοος.....)。その結果、何が起きてくるかと言うと、パウロはガラテア5章で聖霊の結ぶ実を結ぶようになると言います。どんな実かと言うと、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と言われています。どれも素晴らしく聞こえますが、これらは日本語の漢字に置き換えられているのでギリシャ語のもとの意味が正確に伝わっているか怪しいところもあります。それなら、聖霊の結ぶ実は具体的に何であるかを見てみるといいです。いろいろありますが、ローマ12章にその例が列挙されています。悪を憎み善から離れない、兄弟愛を持って互いに愛し尊敬をもって互いを優れた者と思う、希望を持って喜び苦難を耐え忍びたゆまず祈る、迫害する者を呪わずその者の祝福を祈る、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、身分の低い人と交わり自分を賢い者と自惚れない、誰に対しても悪に対して悪を返せず全ての人の前で善を行う、他者と平和に暮らすことが自分次第であるという時は必ずそうする、復讐は神の怒りに任せて敵が飢えていたら食べさせ渇いていたら飲ませる等々です。こうしたことが、神の御言葉の上に立って罪を死なせる戦いをしていくうちに実のように出てくるというのです。

 

パウロはまた洗礼を受けるとイエス・キリストを衣のように着せられると言いますが(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)、そのような神聖な衣を着せられたら、内側に宿る罪は圧し潰されていきます。罪は私たちの肉を足掛かりにして抵抗しようします。それで罪との戦いが生じてしまうのです。罪と戦うというのは、神聖な衣が罪を圧し潰していくのに自分を委ねることです。つまり、イエス様という衣を手放さないで、しっかり纏い続けるということです。そうすれば、苦しい戦いかもしれないが、勝利が約束されている戦いです。最後の審判の時に神聖な神の前に立たされる時、至らないところは沢山ありましたが、頂いた衣はしっかり纏ってきました、と言うことが出来ます。それは、纏った期間が長くても短くても関係ありません。

 

4.洗礼を受けても罪と戦っていない人たちはどうするのか?

 

最後に、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であるとわからないで大人になってしまった場合はどうなるかということについてひと言。これはやっかいな問題で、キリスト教会が分かれてしまう一つの原因にもなります。教派によっては、赤ちゃん洗礼は意味がない、イエス様が救い主であるとわかって告白してから受けないと意味がないというところもあります。私たちのルター派の場合は、救いは人間の能力や業績に基づかず神のお恵みとしてあるということにこだわるので、自分を出来るだけ無力な者として受けた方がお恵みということがはっきりする、それで、むしろ赤ちゃんの方が相応しいということになってしまうのです。しかしながら、子供に洗礼を授けることを願う親が皆が皆、イエス様が救い主と教えたり、信仰の生き方をするとは限らない現実もあります。

 

その場合はどうしたらよいのか?これはもう、わかっていない人にあなたが受けた洗礼というのはイエス様の衣を着せられたということで、それがわかって罪と戦わないと神聖を冒涜してしまう危険なことだ、しかし、わかって戦えば大きな祝福があるということを教えていかなければなりません。

 

まさにそのための活動があるのです。私とパイヴィを派遣しているフィンランドのミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会SLEY」は海外伝道だけの団体ではありません。その組織は海外伝道部と国内伝道部の二本立てです。国内伝道とは、まさに洗礼を受けても何もわからずに生きている人たちに伝道することです。国内伝道のキャッチフレーズはまさに「おかえりなさい!Tervetuloa kotiin!」です。翻って、海外伝道は、まだ洗礼の恵みに与っていない人たちにその恵みを伝えて分け与えることです。国内伝道は恵みに与っている筈なのに気づかない人に気づかせることです。両方行っているのです。最近はフィンランドも、キリスト教以外の国からの移民や難民が増えたので彼らに対する伝道も行っています。またフィンランド人でも洗礼を受けない人が増えていて、30年前にはルター派の国教会に属する人は90%以上いたのが今では70%を下回る勢いです。それで国内伝道も海外伝道みたいになってきているというのが現状です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年9月14日月曜日

罪という神に対する負債を帳消しにされて (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年9月13日(聖霊降臨後第十五主日)スオミ教会

 

創世記50章15-21節

ローマの信徒への手紙14章1-12節

マタイによる福音書18章21-35節

 

 

説教題 「罪という神に対する負債を帳消しにされて」


 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.

 

本日の福音書の個所はそんなに難しくない感じを持たれるのではないでしょうか?王様に多額の負債があった家来が泣きついて情けをかけられて借金を帳消しにしてもらう。しかし、自分に対して少額の借金がある仲間の家来に対しては、泣きつかれても耳をかさず非情な態度で厳しく取り立てる。それを知った王様はこの情けのない家来を牢屋に入れて完済するまで出さないことにした。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら自分も他の人に同じようにしてあげなければならない、そう教えているのだなと思うでしょう。でもそれはなんだか当たり前の話で、別にキリスト教でなくても、聖書を持ち出さなくても、道徳教育で教えることができると思うかもしれません。さらには、情けをかけられたらお返しに他の人にもかけられるだけでなく、むしろ自分が最初に情けをかける人になって周りの人がそれに倣うことができるような模範になることも大事だと教える人もいるかもしれません。つまり、たとえの中の王様になることです。聖書はそこまでは言っていないので、そのように教える人は聖書なんか大したことないなどと思うかもしれません。

 

しかし、イエス様がここで教えていることはそういう道徳論ではありません。では、何を教えようとしているのか?これから、それを見ていくわけですが、結論を先に申し上げます。道徳論だと先に申し上げたように人間と人間の間の関係はこうあるべきだという話になりますが、ここでは、もっと根底的なこと、天地創造の神、万物の造り主の神と人間の関係はこうあるべきだという話です。そこから派生して人間と人間の間の関係はこうあるべきということも出てきます。まず、神と人間の間のあるべき関係があって、それに続いて人間と人間の間のあるべき関係が来ます。

 

そういうわけで、このたとえの中で教えられる神と人間のあるべき関係とはどんなものか、そしてそこから導かれる人間と人間の間のあるべき関係とはどういうものかについて見ていきましょう。

 

2.

 

このたとえはペトロの質問に対するイエス様の答えとして話されました。ペトロがした質問は、もし兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげていいのか?7回までか?というものでした。つまり、赦しには制限があってそれを超えたらもう赦してあげなくてもいいのか、という質問です。それに対するイエス様の答えは7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、でした。聖書の訳によっては77回とするものもあります。それは、創世記4章24節に数字の7と77の対比があるからですが、ギリシャ語原文を見るとどっちにも取れます。どちらにしてもイエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。イエス様は教える時、よく相手の度肝を抜くような誇張を用います。数ミリしかない小さなからし種から大木が育って天の鳥たちが来て巣を作るとか、麦の種が30倍、60倍、100倍の実を結ぶとか、ここも7回なんてみみっちいことを言うな、77回だ、7の70倍だ、と少しぶっきらぼうに相手があっけに取られるような言い方をしているのです。制限のない赦しとはどんなものか教えるためにたとえが話されます。

 

たとえの説き明かしに入る前に、先週のイエス様の教えを少し振り返ってみます。というのは、ペトロの質問は先週の教えの続きとしてあるからです。「私の兄弟」とは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者に罪を犯すという問題です。先週の教えもそのことについてでした。

 

まず、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」ということはどういうことか。これは何か法律的な犯罪を犯すことよりももっと広い意味で、要は十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。イエス様は、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟の核心は全て「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」なのだと教えました(マルコ12章31節等)。隣人を自分を愛するが如く愛さないで、殺す、姦淫する、盗む等々の掟を破る、こうしたことを行為のみならず考えや言葉でも行ってしまうことが「罪を犯す」ことです。

 

 ここで「隣人」というのは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、自分が属している民族、グループその他共同体の境を超えた全ての人が相手です。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただ、今見ているマタイ18章では問題が絞られていて、隣人の中でもキリスト信仰者が別の信仰者に隣人愛を破るようなことをしたらどうするかということです(後で見るように、問題が信仰者以外の隣人の場合にはどうするかということにも応用がききます)。

 

イエス様の教えは、罪を犯された信仰者は犯した信仰者が罪を認めて赦しを願うように導かなければならない、ただし、大っぴらにならないように出来るだけ内輪でしなければならないというものでした。もし罪を犯した信仰者が心をかたくなにして赦しを願わず、最後に教会の代表者の言うことも聞かなければ、その時はその人は教会の外側の人間のようになってしまうのだ、ただし、それは罪を犯された人についてそうなのだ、と教えます。少し微妙な言い方ですが要は、罪を犯した者は教会員全員にとって外側の人間になってしまうのではなく、罪を犯された者に関してのみそうなるのである、しかも外側の人間そのものになってしまうというより、そのような者になると言っていて、そこには断罪の視点がありません。断罪の視点がないというのは、裁きは神がすることとして神に委ねられているということです。人間がすることと言えば、犯された罪は罪であると明確にはするが、罪の赦しを受け取れるように導くことです。罪を犯した者がキリスト信仰者であれば、罪の赦しの恵みに再び戻れるようにすることです。信仰者でない場合はその恵みに初めて入ることが出来るように導くことです。

 

以上のことを教えた後で、今日のペトロの質問が出てきます。信仰の兄弟が罪を犯した、話し合いの結果、赦しを願ったのでめでたしになったが、残念なことにまた犯してしまった。それで話し合ったら、また赦しを願った。そんな繰り返しは何回まで許されるのか?あるいは、話し合いをしたが、心がかたくなで赦しを願わなかった。その状態でまた罪を犯した。それで話し合って、今度こそ赦しを願うかと思ったらまた願わなかった。こんな状態で罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことをずっと続けるのか?イエス様の答えは明快でした。ずっと続けるのだ、赦しを願ってまた犯しても赦しを願ったら何度でも赦すべし、赦しを願わなくてまた犯しても罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことを続けるべし。裁きはしないと言う以上は、そうにしかならないのです。裁きというのは、罪の赦しの恵みに戻れるようにしない、入れるようにしない、とシャットアウトしてしまうことです。それは人間がすることではありません。そもそも人間には出来ないことです。

 

他人を裁くことは人間がすることでなく、そもそも出来ないということは、本日の使徒書の日課ローマ14章10~12節でも言われています。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです(10節)。わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです(12節)。」この「自分について神に申し述べる」と言うのは、ギリシャ語原文ではなにか収支報告をするような意味の言葉です。自分ではどんなに正確に報告しているつもりでも、神の御手にはその人のことの全てを記した「命の書」があるので、見落としていることは全て指摘されてしまいます。ましては誤魔化しなどは一切通用しません。この人生の収支報告はまさに自分自身についてであって、他人がどうだったということは全く関係ないのです。全知全能の神の前ではあなた自身、私自身のことだけが問われるのです。

 

3.

 

さて、赦しを願う心になってもまた罪を犯してしまった、それでも赦しを願ったら何度でも赦さなければならない。または、赦しを願わないまままた罪を犯してしまった、それでも、その人が罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことを続けなければならない。そういう無制限の赦しをイエス様はたとえで教えるわけですが、その教えで無制限の赦しが納得できるでしょうか?以下、見ていきましょう。

 

まず、言われている金額について見てみます。これは以前にもお話したことがありますが、まだ聞いていない人もいらっしゃるので今一度お話しします。1万タラントンというのは誰でも何か大きな額だろう、100デナリオンは小さな額だろうと推測できると思います。具体的にどれくらいの額かと言うと、まず100デナリオンですが、1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それなので100日分の賃金となります。少し身近な金額で考えてみますと、今東京都の最低賃金は時給1,013円ということで、仮に8時間働いて8,000円ちょっと、その100日分で80万円強。これが、王様から情けをかけてもらった家来が仲間の家来には情けを示さなかった借金の額です。仲間の家来は情けを乞いましたが、問題の家来は返済が済むまで彼を牢屋に入れてしまいました。

 

次に1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので1万タラントンは6,000万デナリオンになります。1デナリオンを8,000円とすると、6,000万デナリオンは4,800億円。問題の家来は4,800億円の借金を返すことが出来ず王様に泣きついて情けを乞い、王様は憐れんで帳消しにしてくれました。なのに、仲間の家来が抱える80万円の借金は情けを乞われても聞いてあげませんでした。

 

普通に考えると、4,800億円の借金を帳消しにしてもらったら、80万円の借金など帳消しにしても痛くも痒くもないだろうに、なんと心の狭い家来だということになるでしょう。しかし、ここは心の狭い広いという問題を超えた大きなことがあります。問題の家来は王様の怒りを買って、牢屋に入れられてしまいます。返済が済むまで出られないということですが、借金を返す余裕がない人がどうやって返済できるでしょうか?これはもう永遠に牢屋に入っていることになります。1万タラントンという金額はイエス様流の度肝を抜く言い方ですが、要は返済は一生かかっても無理、永遠にかかるという意味です。

 

そこで詩篇49篇にある御言葉を思い出します。

 

「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」(8~9節)

 

「贖う」というのは難しい言葉ですが、捕らわれた状態にある人を代償と引き換えに解放するという意味です。「買い戻す」と言い換えてもいいです。さて、問題の家来は「とこしえに払い終えること」のない状態に陥ってしまいました。彼は本当ならば初めの段階で永遠の捕らわれの状態に陥っていたはずなのですが、王様から常識では考えられないような憐れみをかけられて陥らないで済んだのでした。詩篇の御言葉、魂を買い戻す値は高く、永遠に払い終えることはないというのは、人間は誰かに買い戻してもらわないと天国に入れないということです。人間は何かに捕らわれた状態になっている、そこから解放されないと天国に入れないということです。それでは人間は何に捕らわれているのでしょうか?

 

そこでマルコ10章45節にあるイエス様の言葉を思い出します。

 

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」

 

イエス様が人間のために身代金になったというのはどういうことでしょうか?この言葉はイエス様が十字架にかけられる前に話されました。これを聞いた弟子たちは何のことか理解できませんでした。しかし、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きた後で全てのことがはっきりとわかるようになりました。イエス様が神の想像を超える力で死から復活された時、彼は本当に死の力を超える永遠の命を持つ方、まぎれもなく旧約聖書に預言されていた神のひとり子であることがはっきりしました。それではなぜ、神のひとり子が十字架にかかって死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間に代わって受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。人間は自分では何も犠牲を払っていないのに、神のひとり子イエス様のおかげで神から罪を赦された者として扱ってもらえる、そういう状況が生み出されたのです。

 

そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起こったのだとわかってそれでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この罪の赦しの状況に入れます。そこに入れると、人間は死を超えた永遠の命に向かう道に置かれその道を歩み始めることになります。この世を去る時が来ても、その時は安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。そして、復活の日に目覚めさせられて永遠に自分の造り主である神の御許に迎え入れられます。このように人間は、イエス様の十字架と復活の業によって、かつ、そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、罪と死の捕らわれ状態から解放されて神の御許に移行できるようになったのです。そこにはイエス様の犠牲の死があります。彼が人間を神のもとに買い戻す身代金になったのです。十字架と復活の出来事の後、やっとこのことがわかった使徒たちは次のように記しました。

 

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)

 

ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)

 

神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が人間に開けたのでした。イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者はその道に入ったのです。

 

4.

 

イエス様を救い主と信じる信仰で神から罪を赦された者であると見てもらえるようになったとは言っても、最後の審判の時に神の御前に立たされて人生の収支報告をしなければなりません。神は細かいところまで全てお見通しだと言うのなら、その時自分は罪は全然ありませんでした、あなたの意思に完全に一致するように生きてきましたなどとは言えないのではないか。そういう不安が起きます。その時はパウロの次の言葉を思い出します。

 

「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテア3章27節)

 

実に洗礼を受けるというのは、イエス様を神聖な衣のように頭から被せられることなのです。その衣を被せられたら、神は内側に残る罪よりもその衣に目を向けられます。自分が編み出したのではなく、着せてもらった神聖な衣に神は目を向けられて内側の汚れを覆い隠して下さるのです。

 

そう言うと、罪を隠し持っていてもいいのか、それなら神の意思に反することを行ったり考えたりしても大丈夫ではないか、と思われるかもしれません。しかし、そういうことでは全然ないのです。着せられたものは神の神聖さそのものです。覆われたものは神の意思に反する罪です。神聖と罪は全く相いれません。死の力を超える神聖は、一度覆いかぶさると内に残る罪を圧し潰そうとします。嫌でもそういうことになるのです。イエス様を衣のように纏ったら、あとはその神聖さが罪を圧し潰していくことに身も心も任せるしかありません。もちろん罪は抵抗しようとします。無駄な抵抗ですが、罪は肉を通して人間が抵抗に加担するように仕向けるので、時として物凄い戦いが起きます。イエス様を衣のように纏う者がどのような内的な戦いに身を投じることになるかということをパウロの次の言葉はよく表しています。

 

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ローマ13章14節)

 

神の御前で人生の収支報告をしなければならない時、神は信仰者がイエス様という衣を最後までしっかり身に纏っていたかどうかに目を留められます。衣を手放さずに纏っていたということ自体が、自分は罪を罪としてはっきりさせてそれに加担しない生き方をしたという証しだからです。衣を手放せという暴風雨のような力にも屈せず、手放さなかったからです。この時、イエス様をしっかり纏っていた人は、あの暴風雨の時、神はもう自分から離れてしまったと思ってしまったが、全然そうではなかった、あの時もずっと一緒だったとわかるのです。

 

5.

 

このように天地創造の神、万物の造り主である神はイエス様を通してまことに人間の贖い主でもあります。人間を罪と死の支配のもとから御自分の御許に買い戻すために、ひとり子の血を流すことまでされました。それは、人間がこの世を御自分としっかり結びついて歩むことができ、この世を去った後は永遠に御許に迎え入れられるようにするためでした。真に永遠ということがかかっているので、それこそ死を超える価値がないと買い戻すことができません。金や銀をいくら積み上げてもその価値は生まれません。人間には払えないので神が代わりに支払って下さったのでした。このことがわかれば、隣人が罪の赦しを受け取れるように導くことが神の御心であることがわかります。罪という神に対する莫大な負債を帳消しにしてもらったら、隣人にも帳消しが起きるように導かなければなりません。あの家来が仲間の家来にしたことは導くどころかシャットアウトしてしまったことを意味します。罪を犯した者がキリスト信仰者であれば、罪の赦しの恵みの中に再び戻れるようにすること、信仰者でない場合はその恵みに初めて入ることが出来るように導くことが何よりも大事です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年9月7日月曜日

罪は罪であると言うが、我のすべきは神への立ち返らせであり裁きにあらず (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十四主日)スオミ教会

 

エゼキエル書33章7-11節

ローマの信徒への手紙13章8-14節

マタイによる福音書18章15-20節

 

 

説教題 「罪は罪であると言うが、我のすべきは神への立ち返らせであり裁きにあらず」


 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は、「あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか」について教えます。ここで言う「あなた」と「あなたの兄弟」は、双方ともイエス様を救い主と信じる者です。17節を見ると、問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので、二人とも教会に属する者です。つまり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したとき、どう対処すればよいのでしょうか?

 

それを見る前に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」ということはどういうことか考えてみます。「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟の核心は全て「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」なのだと教えます(9節)。これと同じ教えはパウロよりも前にイエス様も教えていました(マルコ12章31節等)。パウロはイエス様の教えを受け継いでいるのです。隣人を自分を愛するが如く愛さないで、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。

 

「隣人」というのは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、自分が属している民族、グループその他共同体の境を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。本日の福音書の個所のイエス様の教えでは問題が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛を破るようなことをしたら、その者に対してどうするかということです。

 

少し脇道に逸れますが、「コリントの信徒への第一の手紙」の6章をみると、信仰者同士の間で利害の対立があって、その解決を当時まだキリスト教と何のかかわりもなかったローマ帝国の法廷に委ねられていたことがうかがえます。それについてパウロは、問題解決を信仰者同士で行うのではなく、信仰を持たない者に委ねるとは何事かと叱責します。どんな利害の対立があったのかははっきり述べられていませんが、「相手から損害を被っても耐えろ」とか「相手から奪い取るな」とか言っているところをみると(6章7-8節)、金銭上のトラブルがあったことが窺えます。すぐ法廷に持ち込むということに自己の利益しか頭にないということをパウロは見抜いていました。

 

金銭上のトラブルに加えて、信仰者同士の罪の問題には性関係の乱れがあったことも、同じコリント第一の手紙の中に記されています(5章)。キリスト教の性モラルの基本は、イエス様の教え「神は人間を男と女とに創りあげ、男と女は親元を離れて、神によって一つに結ばれる」(マルコ10章6-9節)にあります。つまり、徹底して男女の間の永続する一夫一婦制です。当時の地中海世界の性モラルは、この第一コリント5章の他にローマ1章などからも伺えるようにイエス様やキリスト教会が教えるものとは異なっていました。それで、なかなかそこから抜け出られない信仰者もいたに違いありません。

 

2.

 

本題に戻りましょう。罪を犯された信仰者は犯した信仰者にどう対応したらよいか?

 

ここで一つ細かいことで恐縮ですが、私たちの新共同訳では「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあります。ここには写本の問題があります。写本の問題というのは、私たちが手にする聖書の中にある書物はみなオリジナル版の写本に基づいているということです。というのは、書物のオリジナル版は現存せず、それを手書きで写した写本、写本の写本、そのまた写本を手掛かりにするしかないからです。無数の写本の中からどれがオリジナル版に近いかということが研究され、それが聖書の翻訳に反映されるのです。このマタイ18章15節について、古い写本によっては「あなたに対して」がないものもあります。その場合、兄弟の罪は具体的に誰に対して犯されたということがないので、それを目撃したあなたはどうするかという意味になります。新共同訳では罪を犯されたあなたはどうするかという意味です。ギリシャ語”原文”の新約聖書(Nestle-AlandのNovumu Testamentum Graecaeです)の解説部分を見ると、第25版では「あなたに対して」がある写本に基づいていたが26版からはないものに基づくと言っています。それでフィンランド語の聖書も1938年の訳は「あなたに対して」がありましたが、1992年の現行訳では外されました。このように写本やその他学会の研究が進むと聖書の文言も変わるということが起きるのです。日本では最近「聖書協会訳」が出ましたが、そこでは「あなたに対して」はどうなったでしょうか?

 

さらにギリシャ語聖書の解説部分を見ると、このマタイ18章15節のところはどの写本に基づくべきか最も困難な個所の一つである、各自しっかり調べて判断しなさいというようなことが述べられています。まさに説教者の力量が問われるところです。私もどっちにするか随分悩みましたが、マタイ18章全体の流れからみて「あなたに対して」があった方がよいという結論に至り、新共同訳の通りにいこうと決めた次第です。

 

話をもとに戻します。罪を犯された信仰者は犯した信仰者に対してどうすべきか?イエス様が教えることは、まず、二人だけのところで、「君が行ったことは我々の神の意思に反することである。罪である」とはっきり教え戒めるべきである、ということです。もし罪を犯した者が「おっしゃる通りです」と認めて、罪を悔いて赦しを願えば赦してあげる。そうすることで、罪を犯された信仰者は信仰の兄弟を取り戻したことになる。なぜなら、神の意思に沿うように生きようと、お互いの心がまた同じ方向を向くようになったからです。

 

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節にある神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」に基づいているということです。どういうことかと言うと、罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君がしたことは我々の神の意思に反することなのだ。罪なのだ」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまう、と言うのです。教え戒めて相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人は責任解除になるのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7-9節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

 

以上から、「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手続きではないことがわかります。それは、罪を犯した者にそれは神の意思に反することであると認識させて、その上で赦しを願うように導くということです。罪を犯された者はその導きをする大事な役割を持つということです。

 

そこで、罪を犯した者が悔いて赦しを願う時は、犯された者は赦さなければなりません。それも神の意思です。なぜそうかと言うと、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。失われた結びつきを神は人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も永遠に自分のもとに戻れるようになれる。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子のイエス様に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにしました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は神罰を引き受けて死なれましたが、神はそのイエス様を三日後に復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その命に至る扉を人間に開きました。

 

そこで人間が、自分の罪は真にイエス様に償なってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だと信じて洗礼を受けるとイエス様の死と復活に結びつけられて、古い自分は死に新しい自分が生き始めます。そして、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、その結びつきは自分から手放さない限り何があっても失われません。この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて、神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。

 

イエス様の償いによる罪の赦しを受け取って、このような神の恵みの中で生きられるようになった者は、罪の赦しを願う者に対しては自分も神からしてもらった以上、赦しを与えなければならない。また、罪が何かわからず赦しを願うこともしない者に対してはまさに罪の赦しの恵みを受け取ることが出来るように導いていかなければなりません。

 

罪の赦しを願う者に赦しを与えるというのは、何かその者に対して優位に立つということではありません。自分こそが神から赦しを与えられた者であることに思い至らなければなりません。そして、赦しを与えるというのは、赦した後は犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にするということです。ミカ7章19節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪の汚れを取り除くというのは、まさにこのことです。まず、罪を包み隠さずに罪は罪であるとはっきり言い、そこから赦しを与えることで罪を帳消しにしていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

 

イエス様の教えの次に進みましょう。残念なことに「二人だけのところで教え戒める」ことが功を奏せず、罪を犯した信仰者が教え戒めに耳を貸さなかった場合はどうするか?自分は罪を犯していないとか、自分のやったことは罪ではない、と言い張った時です。その時は、証人を信仰者の中から一人か二人呼んで、それは神の意思に反することだったということを確認してもらうことになる、とイエス様は教えます。この証人を立てるというイエス様の教えは、旧約聖書の申命記19章15節にある神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。

 

さて、証人の証言が出ました。これで罪を犯した信仰者が赦しを願えば、信仰の兄弟を取り戻したことになりますが、耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員みんなの前でつるし上げにあうような感じがしますが、そうではありません。最初は二人だけで、それがだめなら二人か三人の証言で、と言っているように、罪を大っぴらにしない方向性がはっきりあります。罪を犯した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話し合うということになるのでしょう。

 

そこで罪を犯した信仰者がそれを認めて赦しを願えば、問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神、御子イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配しているローマ帝国の租税官吏となって同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしていた人たちです。民族の裏切り者と見なされていました。罪を犯しても最後までそれを認めない、心がかたくなな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。

 

ところで、日本語訳の「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文をしっかり見ると、「その人は、あなたに関して言えば、異邦人か徴税人のようになってしまえばいい、そうなってしまうのはやむを得ない」というような意味です。ここは三人称単数の命令形なのでちょっと難しいのですが、少なくとも日本語訳の「見なしなさい」みたいに、罪を犯された者に向けた命令文ではありません。

 

それではどういうことかと言うと、「その人は、あなたに関して言えば、異邦人か徴税人のようになってしまえ」と言っているので、「あなたに関して言えば」と限定的に考えています。全ての人に関してそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。そうなると問題の兄弟の神との結びつきを回復することを考えることができます。このことについて神自身、本日の旧約の日課エゼキエル33章11節で次のように言われています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」(その前の10節ではイスラエルの民が罪の告白をしています。罪は罪であるとはっきり認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!)

 

それなので、罪を犯された者は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に神罰を受けてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。このことは、本日の福音書の箇所に続く21-22節を見るとよくわかります。ペトロがイエス様に、信仰の兄弟が罪を犯したら何回赦すべきか7回までか、と尋ねるところがあります。それに対してイエス様は、7回どころか7の70倍までも赦せ、と答えます。これはもう、赦すことにおいて回数に制限を設けるなという意味です。このことについては次主日の説教でお話しします。ここでは、兄弟を教え戒めることに続くイエス様の教えを見ていきましょう。

 

3.

 

18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」は、18章の最初を見ればわかるようにイエス様の弟子を指します。「つなぐ」というのは禁止することを意味します。「解く」というのは、許可することを意味します。イエス様は以前16章で同じこと「地上でつなぐこと、解くこと」は将来教会の代表格になるペトロがすると言っています。今日の18章では弟子たちがすることとして言っています。ペトロを中心にした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上で禁止したり許可したりすることは、神がおられる天の国でもお墨付きを得るということです。使徒たちは、かつてイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になって、その後は迫害にも屈せずイエス様が神から送られた人間の救い主であると宣べ伝えました。彼らが神の意思はなんであるかを地上で明らかにする権限を持っているということです。

 

続く19節から20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神はかなえて下さるというような、一見、願い事は何でもかなうと言っているように見える教えです。実はこれはもっと広い意味です。これは先ほどの18節の使徒たちの権限の教えの続きです。しかも、先の16節でイエス様が基づいた旧約の伝統「二人か三人の証人の証言」を一段高い次元に引き上げるものです。どういうことかと言うと、まず、19節の意味ですが、これをギリシャ語原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする全ての事柄について合意して祈り求めれば、その事柄は天の父なるみ神のお墨付きを得て実現される」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが勝手に決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でもかなうということもあるかもしれませんが、ここの全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、反しているかを明らかにしなければならない。その時、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意したら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。

 

ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記19章15節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる者たち祈る者たちがみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認・告白します。

 

こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には、神との結びつきを持たねばならないと思っても、手掛かりがなかったことになります。イエス様の名前が付くと、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としすぎています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったことで、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン