2020年8月11日火曜日

キリスト信仰者はため息をつきながら希望に燃える (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年7月19日(聖霊降臨後第七主日)スオミ教会

 

イザヤ書44章6-8節

ローマの信徒への手紙8章12-25節

マタイによる福音書13章24-30、36-43節

 

説教題 「キリスト信仰者はため息をつきながら希望に燃える」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.「良い種と毒麦」のたとえ

 

本日の福音書の日課は先週に続いてイエス様のたとえの教えです。良い種と毒麦のたとえです。先週は「種まき人」のたとえでした。マタイのバージョンでは種は福音を聞いた人を意味しました。迫害や誘惑に遭っても信仰を保ち続け、神の意志に沿う生き方をすることで善を生み出す、そのことが良い土地に撒かれて実を結ぶということにたとえられているとお教えしました。ルカのバージョンでは種は神の御言葉であり、マルコのバージョンでは神の御言葉と人間の双方を意味するので、教えの内容も視点が変わってくるということも申しました。

 

本日のたとえも種は人間を指していますが、実る実は人間のままなので、「種まき人」で実が善であるのとは違います。加えて、種は二種類あります。つまり、二つの異なる人間のタイプがあるということです。一つは良い種でこれは麦に育つ。もう一つは毒麦になる種です。毒麦というのは、ちょっとネット情報を見ましたが、イネ科の植物で、写真を見ると、なるほど穂が出たばかりだと麦と見分けがつきにくいようです。麦がちゃんと黄金色に実ったら区別できるようです。毒麦という名前ですが、それ自体に毒性はないのだが、何か悪い菌が付きやすく、家畜が食べると中毒を起こすことからその名が付いたとのことでした。

 

 そこで、このたとえをもう一度見てみましょう。ある人が良い種を畑に撒いた。知らない時に敵が来て毒麦を撒いて行ってしまった。麦が育って穂が出始めた時、毒麦も一緒に育っていた。僕たちが主人に毒麦を抜きましょうかと聞くと、主人は今の段階では区別がはっきりしないから麦も一緒に抜いてしまうおそれがある、刈り入れ時まで待って区別がはっきりつくようになったら、まず毒麦を抜いて集めて燃やし、麦は刈り入れて倉に納めると言います。

 

 イエス様はこのたとえを群衆に聞かせた後で弟子たちに限ってその説明をします。それを見ますと、実にこのたとえは聖書の終末論の観点が結晶したものと言えます。まず、良い種を撒く者は「人の子」と言いますが、それはイエス様を意味します。ただし、イエス様はイエス様でも「人の子」のイエス様は、十字架と復活の出来事の前にこの世で活動されたイエス様というよりは、終末論的な存在です。どうしてかと言うと、ダニエル書7章に預言されている「人の子」とは、まさにこの世の終わりに現れる救世主だからです。イエス様は自分がそれであると言うのです。そこで終末論的なイエス様とは何かと言うと、復活された後、天に上げられて今は天の神の右に座しているが、将来この世に再臨して最後の審判を司ることになる救世主イエス・キリストということです。この方が再臨の日までずっとこの世で良い種を撒いているのです。種が撒かれる畑とは世界そのものと言われます。そして良い種とは御国の子、つまり将来、神の国に迎え入れられる者たちです。正確に言えば、迎え入れられるのは種が育った実ですので、種は候補者ということになります。つまり、天上のイエス様は、地上で行われる福音伝道や教会生活を通して将来の神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てているのです。

 

 そこで、毒麦というのは、良い種と正反対のもので悪い者の子と言われます。正反対なので将来神の国に迎え入れられない者たちです。毒麦を撒いた敵は悪魔です。悪魔とは、創世記の初めに最初の人間に神の意思に反することをするように仕向けて神と人間の結びつきを失わせた張本人です。悪魔の目的は人間が造り主である神との結びつきを失ったままでこの世を生き、この世を去った後も永遠に神のもとに戻れなくすることにあります。それで、毒麦を撒いて、正しい麦と入り混じるようにして、正しい麦の成長を邪魔したり、また慌てた主人が急いで毒麦を刈り取ろうと正しい麦も一緒に刈り取ってしまい一緒に燃やされたら、悪魔にとって大成功なのです。しかし、そうはなりませんでした。主人は刈り入れの時を待つことにしました。正しい麦も毒麦も育つだけ育って、しっかり見分けがつくようになった時に、毒麦は毒麦で正しい麦は正しい麦で刈り取って、一方は燃やし一方は倉に納めることにしました。

 

 イエス様は、刈り入れの時は世の終わりを意味すると言います。つまり、今のこの世が終わって新しい天と地の創造が起こって、そのもとで神の国が唯一の国として現れる時です。世の終わりとは言いつつも、実は新しい世の始まりも意味します。聖書にはこのような今の世の終わりと新しい世の到来という観点があります。イエス様の再臨と最後の審判は、この二つの世の過渡期に起こることです。最後の審判の時にはまた、眠りについている者も起こされて、誰が新しい世の神の国に迎え入れられるかが明らかにされます。神の国に迎え入れられた者たちは倉に納められた麦ということになります。彼らは太陽のように輝き、毒麦は燃えるさかる炉の中に投げ込まれると言われます。これは明らかにダニエル書12章の預言を土台にしています。

 

以上のように、良い種と毒麦のたとえは聖書の終末論を凝縮したような教えです。そこで問題になるのが、それでは、良い種から育って倉に納められる麦、つまり神の国に迎え入れられる者たちとは具体的に誰のことを指すのか、ということです。そして、火の中に投げ込まれてしまう毒麦とは誰のことか?「人の子」イエス・キリストが地上の福音伝道と教会生活を通して、神の国に迎え入れられる人を増やし育てようとしているので、良い種や麦の実はキリスト教徒ということになります。そうすると、火に投げ込まれるのはそれ以外の者たちということになります。こういうのは他の宗教の人たちや無宗教の人たちは顔をしかめるでしょう。キリスト教会の中でも現代の宗教対話の思潮にそぐわないと思う人がいるでしょう。そのような人は、このたとえを現代の思潮にあうように解釈するかもしれません。しかし私としては、イエス様やイエス様のことを伝えた使徒たちが思いもよらないことを、イエス様が言ったことにしてしまうのはイエス様に気の毒というか申し訳ない気持ちになるのでしません。時代の要請はそれとして、それには耳栓をして聖書の御言葉の中に潜り込んでいくことをします。そしてまた水面に浮上した時に世の中や時代はどう見えて、御言葉はどんなインパクトを与えるかを考えたく思います。もちろん、御言葉の中に潜り込むなどというのは、いくらヘブライ語やギリシャ語やアラム語が出来てもそんなに簡単なことではありません。それはよくわかっています。しかし、このようなスタンスで私は聖書の説き明かしをしているということを申し上げておきたく思います。

 

話が脇道に逸れましたが、このたとえがキリスト教徒とそうでない人たちの二分法で言っているということに関して、一つ注意しなければならないことがあります。それは41節でイエス様が、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものをすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」と言っているところです。つまづきとなるものとは、キリスト信仰を持つ人に対して持てなくなるようにしてやろうと躓かせることです。誘惑や迫害があります。不法とは、神の意志に反すること全てです。具体的には十戒の掟に反することです。天地創造の神を唯一の神、自分の造り主としてお祈りしないこと、神の名を汚すこと、安息日を無視すること、両親を敬わないこと、人を傷つけること、異性をふしだらな目で見たり不倫をすること、他人のものを奪うこと、偽証したり真実を曲げること、他人を妬んだり他人や他人のものに執着心を抱いてしまうこと等々です。

 

ここのイエス様の言葉をよく見ると、「自分の国から集めさせ」ると言います。つまり、神の国に迎え入れられる予定の者だったが、神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということです。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。キリスト教徒でも、つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように神の御国に迎え入れられるという保証はない。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それでこれからも火に投げ込まれる毒麦のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。

 

誰が倉に納められて、誰が炉に投げ込まれるかという問題については、ここではこれ以上のことはもう言えないので、ここでやめておきます。ここから先は、キリスト信仰者は本当につまづきとなるものをことごとく踏みつぶして神の意志に沿うような生き方が出来るのかどうかということを見ていこうと思います。これを考える際に、本日の使徒書の日課ローマ8章がよい手引きになります。

 

2.キリスト信仰者のため息と希望

 

3週間前から使徒書の日課はローマ6章から章を追って見ています。6章で使徒パウロは、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説きます。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になっている。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ足枷になるのは、律法の掟が罪を罪として白日の下に晒してさながら鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は律法の掟を通して何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分にやはり律法の掟を通して気づかされてしまう。そのことをパウロは7章25節で自分を例にして、信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。

 

しかしながら、パウロは8章1節で断言します。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊が楔のように打ち込まれています。それでパウロは11節で次のように言います。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対である、と先週の説教で申し上げた次第です。

 

今日はその続きの12節からです。今は肉の体を纏ってはいるが、そこに聖霊が楔のように打ち込まれました。それで肉の思いに相対立する神の意思を知っています。罪の命じることに真っ向から対立する聖霊の命じることに耳を傾けるようになりました。復活の日に肉も罪も消滅して復活の体を纏うことになるので、今は何か大きな過渡期を進んでいるようなものです。この過渡期では、先にも申し上げたように、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にしなければなりません。そこでパウロは13節で言います。聖霊によって体から生じてくる業を死なせるならば、あなたがたは永遠の命に入れます、と。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」ですが、ギリシャ語の動詞タナトオ―は「殺す」「死なせる」とかなりどぎついです。しかも、「絶つ」と言ったら、エイ!ヤー!と罪を一気に断ち切ってしまうみたいですが、そんなことは無理です。そんなこと出来たら苦労はいりません。「ローマの信徒への手紙」の6章とと7章は要らなくなります。ギリシャ語の動詞の用法は死なせることが常態、日々繰り返し行われるという意味です(タナトゥーテは現在形の命令 アオリストの命令タナトーサテだったら「絶つ」の訳でいいでしょう)。罪との戦いは一気にケリがつくものではなく不断に続くものなのです。

 

体から生じてくる業を死なせるというのは具体的にはどういうことか?ルターが次のように教えています。まず、神の意思に反することをしてしまった、言ってしまった、思ってしまった、それは罪であると神の御前で認め、それを憎むこと。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって罪の赦しをゴルゴタの十字架にかけられた主に見出すこと。そこで神の手から罪の赦しを受け取ること。こうすることで、罪が私たちを支配下に置こうとするのを打ち破ることが出来るとルターは教えます。これが、体から生じる業を日々死なせていくことです。

 

この戦いは一人孤独に暗中模索で行うものではありません。パウロは、この戦いの真っただ中で聖霊が私たちキリスト信仰者を導いてくれていると言います。罪と戦っていること自体が聖霊に導かれていることの表れと言えます。パウロはこのように罪と戦って聖霊に導かれる者は「神の子」であると言います。14節からあとはこの「神の子」のテーマが教えを深めていきます。聖霊がキリスト信仰者を神の子にしていることは、信仰者が祈る時に神のことを「アッバ!」と呼びかけることから明白だと言います。「アッバ」というのは、アラム語のアッバーという父親を呼び掛ける言葉です。お父さん、父ちゃん、パパです。罪と戦って聖霊に導かれる「神の子」は神に祈る時、神を父親呼ばわりするのは当然なのです。

 

16節を見ると、聖霊と私たちの霊が一緒になって私たちのことを神の子であると証言していると言います。「私たちの霊」というのは何か?人間は神に造られる時、体と心という肉の部分に対して神から息を吹きかけられるようにして霊を吹き込まれて生きる者になります。こうした人間誰しもが持つ霊に加えて、洗礼を受けてキリスト信仰者になると聖霊が注がれます。それでキリスト信仰者には聖霊と各自の霊があって、それらが一緒になってキリスト信仰者のことを神の子と言うのです。

 

キリスト信仰者が神の子ならば、やはり神の子であるイエス様と兄弟ということになります。そうなると神の国もイエス様と一緒に相続することになります。このようにイエス様と同一の扱いを受ける者になると、今度はイエス様が苦しみを受けたことも一緒のものになると言います。イエス様と同一扱いでせっかくいい気になれたのに、苦しみも一緒だなどとは冷や水を浴びせらる感じがします。しかし、パウロはすかさず、イエス様の苦しみに与るのは、実はイエス様が受けた復活の栄光に与るためだと言います。さらにたたみかけるように、復活の栄光というのはこの世での苦しみなど色あせたものにしてしまうくらいのとてつもない価値があると言います(18節)。

 

19節からあとは話のスケールが急に壮大になります。神に創造されたこの世の被造物全てが、今この世で苦しむ神の子の復活の日の栄光を待っているというのです。復活の栄光が現れるのは、天と地が新しく創造し直される時ですので、その時は今ある被造物は全て消え去ってしまいます。その日を被造物が待っていると言うのです。一体どういうことでしょうか?そもそも今ある被造物は朽ち果てる運命に定められていると言います。それを定めたのは神だと言います。しかし、神がそれを定めたのは希望と抱き合わせだったと言います。どんな希望かと言うと、被造物が滅びという奴隷状態から解放されて、神の子たちが復活の栄光に変えられる解放に合流できるという希望です。神はこのような希望と抱き合わせで被造物を朽ち果てる運命に置いたのでした。

 

それなので、パウロはこの世の被造物は今、キリスト信仰者と一緒にため息をつき産みの苦しみにうめいていると言います。新共同訳では「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」ですが、ギリシャ語原文では後者は「共に産みの苦しみを味わう」(シュノーディネイ)で同じですが、前者は「共にため息をつき」(シュステナツェイ)です。フィンランド語訳の聖書もその通りに「ため息をつき、産みの苦しみを味わう」と訳しています。

 

ところが、23節からあとを見ると、希望ということが神の子に関わることとして述べられていきます。そのため希望をもって生きるのは神の子たちの方で、被造物の方は希望を与えられているのにそれを持っていないようなのです。パウロは、神の子が現れるのは肉の体が復活の体に変えられる時で、今はそれをため息をつきながら待っている状態だと言います。また「ため息をつく」という言葉が出てきました(ステナツォメン)。ため息をつくというのは、キリスト信仰者は復活の栄光に変えられる日までは、神の意志は分かっていても肉の思いに遮られる現実にため息をつく日々なのです。復活の日に必ず栄光に変えられると知っていて、その希望は持ってはいるが、希望が叶えられる日までまだ待たなければならないので産みの苦しみにうめいているのです。先ほど見た、アッバ、お父さん、と叫ぶ神の子はまだこの世の肉の体を纏っている時のことです。23節で言う神の子は肉の体が復活の体に変えられた正真正銘の神の子になった時のことです。しかし、それはまだ起こっておらず、希望の中のことです。ここでパウロは重要なことを言います。24節です。キリスト信仰者は復活の体をまだ目で見ていない状態、それを希望している状態で救われたのだ、と。どうしてそんなことが可能でしょうか?

 

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、肉の体を纏いながらも聖霊が楔のように打ち付けられて、神の意志に沿うように生きようとします。肉の思いに反抗しようとします。人生の中でこれまでなかった大きな決定的な変化です。あとは復活の日まで聖霊に導かれて行きます。その日、復活の体を目で見ることになります。そうなったらもう希望することはありません。希望したことを目にしたからです。しかし、その日までは希望して生きていきます。それで今は復活の体を目で見ないで希望で感触を得ているようなものです。「希望している状態で救われた」というのは、復活の体の希望を持ったことが肉の体に挑戦状を叩きつけたことになり、神の側に立ったことを宣言したことであると言えます。この希望を持って生きると沢山のため息をつくことになるでしょう。しかし、この希望を持っている限り、つくため息はいつも次から次へと過ぎ去っていき、私たちは前に進めるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年8月3日月曜日

聖書の理解の仕方 (吉村博明)

 

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年7月12日(聖霊降臨後第六主日)スオミ教会

 

イザヤ書55章10-13節

ローマの信徒への手紙8章1-11節

マタイによる福音書13章1-1、18-23節

 

 

説教題 「聖書の理解の仕方」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の個所はイエス様の「種まき人」のたとえの教えです。イエス様のたとえの教えの中で有名なものの一つです。同じたとえは、本日のマタイ13章の他にマルコ4章、ルカ8章にも記載されています。3つの記載にはみなイエス様のたとえの説明もついています。大体次のような内容です。神の御言葉を種のように撒くと4つの異なる地面に落ちた。まず、道端に落ちた種はすぐ鳥が来て食べて行ってしまった。これは、悪魔が御言葉を取り去ってしまうことを意味する。次は岩の上に落ちた種で、種は芽を出すが、太陽に焼かれて干からびてしまう。これは、御言葉を聞いて喜んで受け入れても、迫害とか信仰が原因で困難に陥ったら躓いて信仰を捨ててしまうことを意味する。その次は茨の茂みの中に落ちた種で、芽を出し育っていくが、勢いのある茨の方が覆いかぶさってしまい、実を結ぶことはできなかった。そして最後は良い土地に落ちた種で、これは沢山の実を結ぶ。これは、御言葉を聞いて「悟る」人だと言う。この「悟る」について後で見ていきます。

 

「種まき人」のたとえは、キリスト信仰者が自分はどのタイプになるのかと自問して反省する材料に用いられます。その意味ではこのたとえの教えはそう難しくはありません。しかしながら実は、これは一筋縄でいかない、とても底が深い教えなのです。ニコラス・トーマス・ライトというイギリスの有名な聖書学者が1996年に出した研究書の中で言っているのですが、このたとえの本当の意味について研究者の間で統一した見解がないというのです(後注1)。信じられないことですが、それを示すこととして聖書のいろんな解説書を見ると、このたとえに付されるタイトルがバラバラであることに気づきます。「種まき人」が多いですが、「撒かれた種の運命」とか「4つの土壌」とか、解説者がこれがたとえの主眼だと考えたものがタイトルになります。果たしてこのたとえの主人公は種を撒く人なのか、種なのか、土壌なのか?私事で恐縮ですが、2010年に私がまとめた博士論文の中でこのたとえについても調べる必要があったので調べました。その当時でも決定的な解釈はまだ出ていなかったと思います。それから10年経ちました。その間、学会の動向をフォローしませんでしたが、このたとえの本当の意味はこれだ!と言って世界中の学会もそれに間違いないと太鼓判を押すような解釈は果たして出たでしょうか?

 

このたとえの難しさを示すものとして、撒かれる種が何を意味するのかはっきりしないことがあります。マルコに記載されたイエス様の説明を見ると、撒かれるものは神の御言葉であると冒頭ではっきり言います(マルコ4章14節)。ところが、イエス様の説明をよく見ると、撒かれるのは人間であると何度も言われます。撒かれる種とは、果たして神の御言葉なのか人間なのか?人間が撒かれるとはどういうことなのか?(人間が撒かれるものになっているのは、日本語や英語その他の現代語の聖書訳でも確認できますが、原文のギリシャ語はもっとはっきりしています。この説教のテキストの後ろにギリシャ語がわからない人でも一目見てわかるような注を載せますので、興味ある方はホームページに掲載されるテキストをご覧下さい。後注2)

 

他方、ルカを見ると、「種とは神の御言葉である」と冒頭で言って(ルカ8章11節)、あとは徹頭徹尾、種イコール御言葉で通していきます。マルコのような二重の意味はありません。ところが、本日のマタイの個所では、ルカやマルコみたいに撒かれるものは御言葉であると言わず、人間が撒かれるものになっています。一度だけ、心の中に御言葉が撒かれると言いますが(13章18節)、あとは人間が撒かれるものとして何度も出てきます。

 

さあ、大変なことになりました。マルコは撒かれるものは御言葉と人間であると言い、ルカは御言葉だと言い、マタイは人間だと言うのです。このように福音書というのは、イエス様の教えや業について同じ出来事を扱っても記者の観点で強調点や焦点の当て方が異なってくることがしょっちゅうです。それなので福音書を読む時は、全ての観点を網羅すると全体像が得られるんだという気持ちで読むことが大事です。

 

本説教では、マタイ版の「種まき人」とマタイの観点を見ていきます。人間が種のように撒かれて4つの違いが出てくるという時、何が実を結ぶ、結ばないの決め手になるのか、そして実を結ぶとはどういうことなのかを明らかにしようと思います。その際、本日の旧約の日課イザヤ書55章と使徒書の日課ローマ8章も手掛かりになると思いますので、それもあわせて見ていきます。

 

2.実を結ぶ、結ばないの決め手は御言葉を「理解する」こと

 

 「種まき人」のたとえについてイエス様が弟子たちに説明したことを見てみます。マタイ13章18~23節です。先ほど述べましたように19節に一度だけ「心の中に撒かれたものを奪い取る」と言って、撒かれたものが御言葉であると言っていますが、そこだけです。あとは、「道端に撒かれたものとは、こういう人である」、「岩に撒かれたものとは(…..)すぐにつまずいてしまう人である」、「茨の中に撒かれたものとは(…..)実らない人である」、「良い土地に撒かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」であると言います。

 

ここで「悟る」という言葉についてひと言。ギリシャ語の動詞συνιημιの意味は辞書では「バラバラなものを一つにまとめる」が基本的な意味で、そこから派生して「理解する」、「把握する」という意味で用いられます。「悟る」だと何か鋭い洞察力や直観で「見抜く」ような感じがあります。また、観念してあきらめるような時に「運命を悟った」などという言い方をします。それから仏教用語で「悟りを開く」というのがあります。それは何か心に迷いがなくなった状態で、それはキリスト信仰の平安と違います。キリスト信仰で言う平安とは、神と人間の間に平和な関係が得られていることが土台にあります。神と人間の間の平和な関係は、神のひとり子イエス様が人間の罪を全部ゴルゴタの丘の十字架で人間に代わって神に対して償った、それで人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその償いを自分のものにすることが出来る、それで神から罪を赦された者として見てもらえるようになった、ということに基づいています。イエス様の償いの業と彼を救い主と信じる信仰で、罪による神との敵対関係がなくなり、人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになりました。人間は神にとことんより頼む者になり、神にあらゆる事を打ち明けて祈り願い求め、神はそれを全部聞き遂げて、自分の良かれと思う時と仕方で答え導いて下さるという関係になったのです。このようにキリスト信仰では、ゴルゴタの十字架という歴史上の出来事のゆえに、神に対して強い深い信頼を寄せていて、その信頼と表裏一体のものとして平安があります。人間が何か修行や勤行をして何かの境地に達して心に迷いがなくなったというのとは違います。

 

そういうわけで、たとえの説明の中にある「悟る」も、本説教では「理解する」にします。他の国の聖書訳を見ても、英語NIVはunderstandで「理解する」、ドイツ語のルター訳も共同訳もverstehen、スウェーデン語はförstå、フィンランド語もymmärtääとみんな「理解する」です。なぜ、日本語訳は「理解する」ではダメだったのでしょうか?宗教的なニュアンスを持たせるために「悟る」にしたのでしょうか?もちろん、「理解する」と言うと、何か頭で理解するという頭でっかちな感じがして、ここで言おうとしていることを言い表せていないのではという心配もあります。ただ、理解は理解でもどんな理解が問題になっているのかがわかればいいのです。少しややこしくなってきましたが、どんな理解の仕方が問題になっているのかをわかるようにしましょう。

 

道端に撒かれた人は御言葉を聞いたが理解しなかった、それで悪魔に御言葉を心から奪い取られてしまった人でした。岩の上に撒かれた人は、御言葉を聞いてすぐ喜んで受け入れたが根をおろしていなかったので迫害や困難が起きると躓いてしまった。茨の中に撒かれた人は御言葉を聞いたが、思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいでしまった。そして、良い土地に撒かれた人は御言葉を聞いて「理解した」人で実を結ぶに至った、と言います。これを見ると、全てのケースで御言葉を聞いているのがわかります。ある場合は喜んで受け入れたとさえ言っています。ところが「理解する」ことがなかったために、みんな途中でダメになってしまった。御言葉を聞いて喜んで受け入れるだけではだめなのです。「理解する」ことがなければならないのです。逆に言うとこの「理解する」ことがあれば、悪魔が来ても奪い取られない、迫害や苦難が起きても躓かない、思い煩いや富の誘惑に覆いふさがれないで実を実らせることができるのです。

 

そうすると、御言葉を聞いて「理解した」という良い土地に撒かれた人は、御言葉を奪い取る者から守ることができ、迫害にも屈せず、思い煩いや富の誘惑にも覆いふさがれずに実を実らせるところまで到達した人になります。良い土地に撒かれたと聞くと、何も問題なく苦労も悩みもなくすくすく育った印象を受けますが、そうではありません。奪い取る者から御言葉を守り、迫害にも屈せず、思い煩いや富の誘惑にも覆いふさがれずに実を実らせることが出来たということです。そういうことをくぐり抜けて実を実らせるに至った、そういう強さを持っていたということです。そのような強さを持てたのは御言葉を「理解する」ことがあったからです。そういうわけで、この「理解する」というのは、頭で理解するというよりは、それがあるおかげで悪魔から御言葉を奪い取られないですむ、迫害や困難に遭遇しても躓かないですむ、思い煩いや富の誘惑に覆いかぶさられないで実を結ぶところまでいける、そういう力を意味します。御言葉を頭で理解することも大事ですが、ここで言う理解とはそういう力を生み出す理解です。

 

ところで、ルカ版のたとえでは、撒かれる種はあくまで神の御言葉で、人間は土壌です。実を結ぶのは神の御言葉です。そうすると、たとえをルカ版で読んだり聞いたりした人は自分はどのタイプの土壌だろうか、道端だろうか、岩だろうか、茨の茂みだろうか、良い土地だろうかと自問することになります。マタイ版のたとえを読んだり聞いたりした人は、自分は実を実らせるに至るような理解をしているだろうかと自問することになります。

 

それでは、いろんな妨害や障害を乗り越えて実を結ぶに至る力をもたらす理解とはどんな理解なのか、それを本日の旧約の日課イザヤ書55章の個所を手掛かりにして見ていきましょう。

 

3.御言葉を「理解して」「実を結ぶ」ということ

 

本日のイザヤ書の個所で神が言われたことはこうでした。神の口から発せられる言葉は一度発せられたら、空しく神のもとに戻らない。それは、雨や雪がひとたび天から降れば天に戻らないで大地を潤し、芽を出させ生い茂らせ、種まく人に種を与え、食べる人に糧を与えるのと同じである。神の言葉が一度発せられたら、神の望むことを成し遂げ、言葉が発せられた目的を成功裏に果たす。それくらい神の言われることは必ず結果を生み出す、実を結ぶのだと言います。それでは、生み出される結果、結ぶ実とは何を意味するでしょうか?

 

 12~13節を見ると「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く」とあります。実はイザヤ書の40章から55章までというのは、イスラエルの民が捕囚の地バビロンから解放されて祖国に帰還できるという預言が多く宣べられます。その帰還は実際に紀元前538年に実現します。それで12節と13節もバビロンからの帰還を意味すると考えられて、神の言葉はむなしく発せられないと言うのは、預言は実現するのだということを言っていると考えられます。

 

そうすると、それは過去の歴史的な出来事について言っているだけということになります。しかしながら、神の言葉は空しく発せられないというのは歴史を超えて今を生きる私たちにもあてはまる真理であることに気づかなければいけません。神は、自分は将来とてつもない大きな事を起こすし、それを起こす力もあるということを、歴史の中で大きな出来事を起こすことで前もって示したのです。どういうことかと言うと、大帝国に完膚なきまで滅ぼされて異国に連行された小さな民族が祖国に帰還できて復興を遂げられるという、普通では起こり得ないことを神は起こしたのです。これを前もって預言者に預言させ、それを紀元前6世紀終わりに実現させたのです。後世の者たちよ、こんなのは序の口なのだ、私はもっと大きなことを成し遂げる計画とそれを実現する力を持っているのだ、私が預言者たちに言わせたことの主眼はこれなのだ、そのことを忘れるな、ということです。

 

それでは、神は後世にどんなことを実現して、それがどう現代を生きる私たちに関わっているのでしょうか?神の発する言葉は雨雪が大地に実りをもたらすのと同じように私たち人間にも恵みを与えるというのは、何だかありがたい言葉に聞こえます。喜んで飛びつきたくなります。しかし、それで迫害や思い煩いや富の誘惑が来ても、その聖句は本当だと言って手放さないでいられる理解が生まれるでしょうか?耳に聞こえのよい言葉は自分に都合の良い解釈になって、都合悪くなったら捨ててしまうことにならないでしょうか?

 

実はイザヤ書55章10~13節は、そこだけ見ても理解できません。神の御言葉は空しく戻らず、必ず当初の目的を果たすということの本当の意味を理解できるためには、6節から見なければなりません。本日の個所は10~13節で区切られていますが、本当に理解しようとすれば6節~13節をひとまとまりで見る必要があります。

 

6節と7節で預言者は、主を見出せる時に主に立ち返れ、主が近くにおられる時に主を呼び求めよ、神に逆らう者はその道を捨て、悪を行う者はその考えを捨てよ、と呼びかけます。この呼びかけは、バビロン捕囚という神罰を受けたユダヤ民族だけでなく、時代を超えた全ての人間に対して向けられています。神に立ち返るならば、神は罪を赦して下さる。しかも、途切れることなく絶えず赦して下さると預言者は言います。なぜ、罪を赦すことが絶えずあるのかと言うと、ルターも言っていますが、人間は誰もこの世での人生の間に罪の赦しが必要なくなる段階に達することが出来ないからです。

 

8節から後は、神が言われることを預言者が取り次いで述べていきます。立ち返れば神は必ず罪を赦して下さることがどれだけ本当のことであるかを神自身が述べていきます。神の考えは人間の考えと同じではない。神の道は人間の道と同じではない。天が地を高く超えているように神の道は人間の道を高く超えている。神の考えは人間の考えを高く超えている。このように神の考えは人間離れしているということを8節と9節で言って、その後に本日の個所が来ます。天から降る雨や雪が大地を潤し実りをもたらすように、天の神から発せられる御言葉は目的を果たす。このように本日の個所は、罪の赦しが確実に与えられるということが主眼なのです。

 

 それでは、神が発した御言葉が目的を果たして罪の赦しが与えられたというのは一体どういうことか?それはまさしくイエス様が果たした人間の罪の償いでした。神が遣わす僕が将来人間の罪を償う犠牲になることがイザヤ書53章で預言されていました。神が発した預言の言葉です。それが歴史上、本当に実現し神の目的が果たされたのでした。またヨハネ福音書の冒頭を見るとイエス様のことを神の言葉が肉となった方であると言われています。まさに神の御言葉そのものであるイエス様が神の目的を十字架と復活の業で果たされたのでした。ひとり子を犠牲に供して人間と神との間に平和を打ち立てるというのは、まことに人間離れした、まさに全知全能の神ならではの仕方でした。まさに神の考え、神の道は人間の考え、道を高く超えているということでした。

 

ここで、神の御言葉が実を実らせるというのはどういうことか見てみます。キリスト信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きます。そしてイエス様のおかげで父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられる日が来るという希望を持って生きます。まさにその時、信仰者の生き方はどんな生き方になるかということを見れば、実とはどんな実かわかります。

 

先々週から使徒書の日課はローマでした。使徒パウロは6章で、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説いていました。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具である。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具とせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ辛いことは、律法の掟が罪を罪として包み隠さず鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分に気づかされてしまう。そのことをパウロは7章25節で、自分を例にして信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。

 

しかしながら、8章1節ではっきり言います。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。肉の面でも従えれば完全ですが、それは復活の日に復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊の楔が打ち込まれているので、パウロは11節で次のように言うのです。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対です。

 

さて、肉の体を纏っていながらも、このような難攻不落の要塞を築いてもらった以上は、それこそ体を神の意志の武器にして戦わなければなりません。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は体を神聖な生贄として神に捧げよと言います。3節からあとは、そのために具体的に何をするかが言われます。自分を過大評価するな、悪を憎み、善から離れるな、兄弟愛を持って互いに愛せよ、互いに尊敬を持って相手を優れた者と思え、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはいけない、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、高ぶらないで身分の低い人と交われ、自分を賢い者とうぬぼれるな、悪に悪を返すな、全ての人の前で善を行え、他の人と平和に暮らせるかどうかがあなたがた次第ということであれば迷わずそうせよ、自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませよ等々、そうそうたるものです。

 

以上が、キリスト信仰者が自分の体を生贄として捧げる生き方です。これができる、これが当然という心になれるのは、イエス様のおかげで罪の赦しがあることを信じる信仰があるからです。ここで注意しなければならないのは、こうしたことは、神に認めてもらうためにするとか、罪を赦してもらうためにするとか、そういうご褒美を頂くためにするものではありません。イエス様の十字架と復活の業でまず神から一方的に赦しを頂いて認めてもらった、それでそういう救われた結果の実として現れてくるものです。これが神の御言葉を聞いて「理解した」者が結ぶ実です。「理解する」とはまさに、御言葉がこの私に、罪の赦しが果たされたこと、それで神との間に平和な関係が打ち立てられ神との結びつきを持ってこの世を生きられること、そして、この世を去った後は造り主の神のもとに永遠に迎え入れられること、これらのことを言っているのだとわかる理解です。この理解がないと試練や苦難に遭遇したら御言葉を保ち続けることは難しく、実を結ぶことも出来なくなるので注意しましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1)N.T. Wright “Jesus and the Victory of God. Christian origins and the question of God”, Vol. Twoの230ページです。

(後注2)マルコ4章14~20節の「種まき人」のたとえの説明の中で、

撒かれたものが人間である部分はアンダーラインで、

撒かれたものが御言葉である部分は太字イタリックで示しました。

14節 ο σπειρων τον λογον σπειρει.

15節  ουτοι δε εισιν οι παρα την οδον οπου σπειρειται ο λογος και οταν ακουσωσιν, ευθυς ερχεται ο σατανας και αιρει τον λογον τον εσπαρμενον εις αυτοις.

16節  και ουτοι εισιν οι επι τα πετρωδη σπειρομενοι, οι οταν ακουσωσιν τον λογον ευθυς μετα χαρας λαμβανουσιν αυτον, 

18節  και αλλοι εισιν οι εις τας ακανθας σπειρομενοι ουτοι εισιν οι τον λογον ακοθσαντες,

20節  και εκεινοι εισιν οι επι την γην τεν καλην σπαρεντες, οιτινες ακουουσιν τον λογον και παραδεχονται και καρποφορουσιν εν τριακοντα και εν εξηκοντα και εν εκατον.

 

2020年7月27日月曜日

洗礼には人生の重荷を軽くする何かがある (吉村博明)

 

 

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年7月5日(聖霊降臨後第五主日)スオミ教会

 

ゼカリヤ書9章9-12節

ローマの信徒への手紙7章15-25節

マタイによる福音書11章16-19、25-30節

 

 

説教題 「洗礼には人生の重荷を軽くする何かがある」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の日課の終わりにあるイエス様の言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」これを聞いた人は、キリスト信仰者でなくても、この世にはこういうことを言ってくれる人がいるんだ、とありがたく感じて、イエス様の言うとおり彼のもとに行ってみようという気持ちになるのではないでしょうか?イエス様のもとに行くとはどういうことでしょうか?聖書をよく読んでイエス様のことをもっと知ろうとしたり、イエス様にお祈りしてお願いしたりすることが考えられます。もっと近づきになるために教会の礼拝に参加してみよう、洗礼を受けてみようと考える人も出てくるかもしれません。ただ、人によっては、教会なんかに行かなくても洗礼なんか受けなくても自分はイエス様のもとに行けると言う人もいるかもしれません。

 

さて、どんな仕方にせよ、自分では「イエス様のもとに行った」つもりだったのだが、果たして重荷はなくなって安らぎは得られたかどうか?人によっては、人生や生活の問題が解決したと言ってイエス様の言ったことは本当だという人がいるかもしれません。しかし、そうならなかったら、どうなるのか?イエスはあんな調子のいいことを言ったが、自分の重荷は相変わらずだ、彼のもとに行っても何の御利益はなかった、と言って教会や聖書から離れて別のところに安らぎを求めようとすることにならないでしょうか?

 

イエス様の言葉で注意しなければならないことがあります。それは、イエス様は重荷がなくなるとは言っていないということです。自分が与える荷は軽いと言っているように、彼のところに行っても何がしかの荷は背負わされる。しかし、それは軽いと言うのです。それから、軛。軛とは昔、牛や馬の頸に木の板をつけて、それを綱か何かで後ろの馬車か農作業の道具に連結させてそれらを引かせるためのものでした。軛を付けられた家畜は後ろのものを引っ張っていかなければなりません。イエス様は軛を取り除くとは言っていません。自分が与える軛は負いやすい、つまり、彼のところに行っても何がしかの軛は負わされることになるが、それは大きな負荷はかからないと言うのです。

 

そうなると、今の自分には何も重荷も軛もない、人生全て思い通りにいっていると思っている人はイエス様のもとに行く必要性はない、なんでわざわざ荷や軛を負わなければならないんだと思うでしょう。また、自分には重荷も軛もあって大変な人生だ、それらを全て取っ払って欲しい、軽いとは言え、新しく背負わなければならないのはいやだという人もイエス様にもとに行くのを躊躇するでしょう。もっとも、軽くなるだけでも十分ですからイエス様の与える軛と荷を下さい、という人は行くでしょう。

 

本日の説教では、イエス様の与える軽くて負いやすい荷とか軛とは何を意味するのかを見ていこうと思います。それが明らかになると今度は、自分には重荷も軛もない、だからイエスのところに行く必要はないと言っている人は本当にそうだと言い切れるのか?それから、重荷も軛もない人生を追い求めることは意味のあることなのか?そういうことを考え直すきっかけになるのではないかと思います。

 

 イエス様の言う、軽い荷、負いやすい軛の意味を明らかにする前に、イエス様にまつわる誤解について触れておこうと思います。イエス様にまつわる誤解というのは、本日の旧約の日課ゼカリア書の個所と福音書のマタイ11章の16-19節が関係します。この誤解について説明しておくと、イエス様の重荷と軛のことがよくわかるようになると思います。

 

2.イエス様にまつわる誤解を解く

 

 イエス様にまつわる誤解について、ゼカリア書9章の個所がどう関係するかと言うと、そこで王様がロバに乗ってエルサレムにやって来るという預言があります。ゼカリアは紀元前6世紀の終わり頃に活動した預言者ですが、この預言は西暦30年プラスマイナス何年かの頃、イエス様が群衆の歓呼の中をロバに乗ってエルサレムに入城した時に実現します。しかしながら、その時の群衆の気持ちとしては、この方がもう直ぐかつてのダビデ王の王国を再興して、他民族の支配をはねのけて広大な版図を持つ王国を打ち立てて下さる待望の王なのだという期待でした。それで歓呼で迎えたのでした。ゼカリア書の個所で神が「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河の地の果てにまで及ぶ」と述べていたことがいよいよ実現すると思ったのでした。

 

 ところが実際には何が起こったかというと、イエス様はユダヤ教社会の宗教指導層と激しく衝突します。占領者であるローマ帝国の軍事介入を恐れた指導層はイエス様を逮捕して帝国の官憲に引き渡して裁判にかけさせ十字架刑に処してしまいました。群衆はなんだ期待外れだったと背を向けてしまいました。イエス様に付き従っていた弟子たちも逃げ去ってしまいました。

 

 ところがその後で、神が預言者たちを通して預言していたことはユダヤ民族の解放と王国の復興なんかではなく、もっと大きなことだったということが明らかになる、そんな出来事が起きました。神が言わんとした大きなこととは、人間が天地創造の神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにするということでした。そして、この世を去った後も造り主の神のもとに永遠に迎え入れられるようにするということでした。このことが明らかになった出来事とは、イエス様の死からの復活でした。創造主の神の力でイエス様は死から復活させられて、肉の体ではない復活の体をもって弟子たちの前に現れたのでした。この復活の出来事をもって、イエス様は死に繋ぎとめられない方である、よって神のひとり子であることが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも、旧約聖書のイザヤ書53章などにある預言から明らかになりました。それは、人間が神との結びつきを持てないようにしているた原因である人間の内に宿る罪を、イエス様が全部自分で引き取って神に対して償って下さったということだったのです。まさに神のひとり子の神聖な犠牲だったので、これ以上の償いはないという位の償いがなされたのでした。

 

 そこで人間が、これらの出来事は本当に自分のために起きて、それでイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、彼がしてくれた罪の償いがその人のものになります。神聖な神のひとり子にしてもらった償いは完璧なものだったので、神からは罪を赦された者として見なしてもらえ、それで神との結びつきを持ってこの世を生き始めることとなります。この世を去った後も、イエス様を救い主として信じる信仰に生きていたことを神に認めてもらえて、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて造り主の神のもとに永遠に迎え入れられます。

 

 ゼカリア書に預言されている平和な世というのは、今ある天と地が新しく創造し直された時に現れる神の御国を意味します。今のこの世でも戦争のない平和な時期があります。しかし、その後にまた戦争が起こって、また平和という繰り返しです。また自分たちのいるところは平和でも、他のところでは戦争があります。もちろん、この世で全世界的で永続的な平和が実現することがよいに決まっていますが、聖書の観点はそういう平和は今の次に来る世に実現するというものです。それじゃ、聖書はこの世の平和を望まないのかと言われてしまうかもしれませんが、そうではありません。ローマ12章でパウロが説くように、キリスト信仰者は全ての人たちと平和に暮らさなければならない、相手と平和な関係が持てるかどうかが自分たちにかかっている時はそうしなければならないのです。相手が応じてくれるかどうかわからなくても、こちらからはそうしなければならないのです。

 

 ゼカリア書9章11-12節の御言葉「またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえにわたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ」について。「契約の血」というのは、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前にこれを聞いた人たちは出エジプト記24章にあるような神とユダヤ民族の間の契約を指すと思ったでしょう。しかしながら、「契約の血」は十字架と復活の後はイエス様が十字架で流された血を意味します。キリスト信仰者は聖餐式で祝福されたぶどう酒をイエス様の血として受けますが、それは罪が償われて神との結びつきに生きるという契約を守るためにそうするのです。

 

 それから捕らわれ人の解放と帰還のテーマがありますが、これは一見、他の預言書にあるバビロン捕囚からの解放と祖国帰還の預言と同じように見えます。しかし、ゼカリア書は紀元前6世紀の終わり、祖国帰還の後に出た預言書です。それなので、ここで言われる帰還はもはやユダヤ民族の祖国帰還ではなくて、人間一般が神のもとへ帰還することを意味します。「捕らわれた人」とは、まさに罪や罪がもたらす死に捕らわれたことを意味します。「水のない穴」とはヘブライ語の単語列の直訳ですが、辞書によれば「死者の居場所」という意味もあります。それなので、罪と死に捕らわれた人がイエス様のおかげでそこから解き放たれて永遠の命に向かって進めるようになったことを意味します。

 

 以上のように、ゼカリア書の預言は、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は神の意図を理解するのは難しいものでした。本日の福音書の個所の最初の部分マタイ11章16~19節からも、十字架と復活の前はイエス様は理解されなかったことが言われています。洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場して、もうすぐ救世主が現れる、だから心を改めて迎える準備をしなさいと言う。それに対して、自分たちの権威にしがみつく宗教指導者たちはヨハネのことを悪魔にとりつかれた者と中傷する。続いて登場したイエス様に対しても同じでした。イエス様が一声かけると、罪びとたちは次々と心を改めて彼につき従って行きます。民族の裏切り者と目されていた取税人たちが全てを捨てて付き従ってきました(ルカ5章27~28節、19章1~10節)。イエス様はそういう回心した元罪びとたちと食事を共にしたのですが、それに対しては、大食漢、大酒飲みという非難が付きまといました。イエス様が開いた食事会は、実は復活の日に神の国に迎え入れられた者たちが持つことになる大祝宴の予行演習のようなものだったのです。

 

こういう、神の計画に対する指導者たちの無理解について、イエス様はたとえを用いて描写します。それは子供たちが広場に座って「僕らは嬉しい曲を弾いてるのに君らは踊ってくれない、弔いの歌を歌っているのに泣いてくれない」とお互いに言い合っているのと同じだと言います。旧約聖書の「コヘレトの言葉」3章に、天の下の出来事には全て定められた時があると言われ、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時もそうだと言います。子供たちが自分たちの歌や演奏に君たちは乗ってこないとお互いに愚痴を言い合っているのは、この定められた時がわからないことを意味します。指導者たちは洗礼者ヨハネやイエス様が到来した時が神の定めた時であることがわからず、全く見当はずれなことを言い合っているのが、広場の子供たちが定められた時をわからないのと同じだと言うのです。

 

19節の「知恵の正しさは、その働きによって証明される」というのは、「知恵」は旧約聖書の箴言にあるように、神の知恵のことです。しかも、それは聖霊のように人格化されています。それでここで言う「知恵」とはずばりイエス様のことを指します。神の知恵そのものであるイエス様が神の意思に沿う方であることは、指導層の目には見えなくても、彼の行っている奇跡の業や権威ある教えから明らかだったのでした。

 

3.洗礼には人生の重荷を軽くする何かがある

 

さて、イエス様が与える軽い荷と負いやすい軛の意味を見ていきましょう。先々週から使徒書の日課は「ローマの信徒への手紙」6章で今日は7章です。これらの個所が軛と荷の意味を明らかにするのに役立ちます。

 

少しおさらいになりますが、パウロは6章で、キリスト信仰者は洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様の死に結びつけられると、「罪に対して死ぬ」ことになると言います。その意味は、信仰者は罪に対して死んでしまったので罪の影響力が及ばない、それで本当は罪から自由な身であるということです。このように罪に対して死ぬと今度は返す刀で神に対して生きることになります。神に対して生きるとは、かつて罪に利益をもたらすように生きていたのを打ち切って今度は神に利益をもたらすように生きることです。つまり、服従する相手が罪から神に変わったのです。

 

しかしながら、イエス様の死と復活に結びつけられたと言っても、まだ本当に死んで葬られて復活していないので、「罪に対して死に神に対して生きる」というのは、まだ土台が打ち立てられた段階です。建物全体が完成したのではありません。私たちが纏っている体はまだ復活の体ではなく、肉の体です。この体は、油断するとすぐ、洗礼前の時のように神に対してではなく罪に対して生きようとします。罪に対して生きてしまうと、心は「体の欲望」の言うことに聞き従ってしまいます。「体の欲望」とは、神聖な神の意思に反するとわかっていても、口に出してしまわずにはいられない、行為に出してしまわずにはいられない、思わずにはいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としかいいようがないものです。先週もお教えしましたが、十戒でしてはいけないと言われていること、両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを口にしたり思ったり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫をしてしまうこと、他人のものを自分のものにしてしまうこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人を妬んだり、その持っているものを自分のものにできないかと思い巡らすことです。

 

洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられたら、罪は本当は支配者ではなくなっている筈なのに、肉の体を纏っているために肉の思いをかなぐり捨てて行ったり語ったり思ったりすることが自然に自動的に出来ないのです。まさにそのために自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるのかを知って自覚することが大事になります。それでパウロは、自分の肢体を神の意思に反することのために用いるのをやめて、神の意思に沿うことのための武器、道具にしなさいと繰り返し教えるのです。

 

本日の7章で話がもっと深まります。イエス様の十字架と復活のおかげで罪の償いを果たしてもらったということは、キリスト信仰者が神との結びつきを持って生きられるのは神からのお恵みということでしょう。自分で律法を守り抜いてそうなったのではありません。それで神から義と認めてもらうことに関して言えば、律法は何の意味も持っていません。ところが、神のお恵みがあるからと言って、それで人間から罪が消えて肉の思いも持たなくなって全身全霊で神の意思に沿えるようになったということではありません。律法は人間には罪があることを示す機能は果たすのです。それはキリスト信仰者であっても、肉の体を纏っている限りそうなります。

 

律法はとても厄介なものです。パウロも言うように、もしそれがなければ罪の自覚は生まれません。しかし、自覚がないからと言って罪が存在しないということではありません。神の意思に反する行いや思いや言葉は、律法がなくてもあるわけで、律法があると、それらは神の意思に反するものであると言い表すことができます。神の意思に反する行いや思いや言葉が罪であると言い表されると、今度は肉が待ってましたとばかり、それに加担しようとします。神から罰を受けないためには、神の意思に反する行いや思いや言葉をなんとか食い止めなければなりませんが、それは時として大自然に抵抗するような難儀さを感じます。

 

そこにイエス様の十字架と復活の出来事が起こりました。神罰は全部イエス様が受けて下さいました。洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられて、罪に対して死に神に対して生きることが始まりました。十字架と復活が起きる前の律法しかなかった時は、罪に対して死んでおらず、神に対して生きることもなく、罪の力をもろに受けながら、神罰を受けないように受けないようにとただただ自力でもがくだけでした。しかも、罪の力を全面的に受けながらもがくのです。これは大変な重荷であり、凄まじい軛です。しかし、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると罪に対して死に神に対して生きられます。もちろん、まだ肉の体を纏っているので律法が私たちの内に宿る罪を暴露します。しかし、そのたびに洗礼の時に注がれた聖霊が「あなたは神に対して生きる者になっています。神に対して生きているのであれば、あなたは罪に対して死んでいるのです」と思い起こしてくれます。先ほど、キリスト信仰者は洗礼によって本当はどんな状態にあるのかを知って自覚することが大事であると申しました。かつては、思い起こしをしてくれる方もなく、肝心の思い起こすべき状態そのものがありませんでした。それが今では洗礼によって新しく生まれた状態があります。それを洗礼によって注がれた方が絶えず思い起こして下さるのです。もちろん、律法がある限り罪の自覚は消えません。しかし、それは新しくされた状態と聖霊のおかげで、かつてのような重荷、軛ではなくなりました。まさに軽くされた荷、負いやすくされた軛がここにあります。

 

以上から、イエス様が与える軽くて負いやすい荷や軛とは何かが明らかになります。それは、洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられて、罪に対して死に神に対して生きることそのものです。そこで罪の自覚は洗礼前より一層はっきりするので、そこがきつく重くなるところですが、イエス様の罪の償いは消えてなくならないので、イエス様を救い主と信じる信仰にある限り神との結びつきはしっかり保たれています。何も心配はありません。だからイエス様の与える荷は軽く、軛はきつくないのです。信仰にあるのに罪の自覚が出てくるということ自体が、神に対して生きていることの証しです。

 

そうなると、イエス様が軽くすると言ったのは、人生の重荷や軛のことではなく、神と人間の結びつきにかかわる重荷や軛ということになります。これを聞いて、なんだ人生の重荷ではないのかと、がっかりする人もいるかもしれません。ところが、この人間と神の結びつきにかかわる重荷が軽くされるということは実は人生の重荷の軽減にもつながるのです。そのことを宗教改革のルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

 

「信仰の教師である我々は、イエス様を救い主と信じる信仰について教えたら、次は善き業を行うことについて教える。もし君が信仰によってイエス様を自分のものとし、彼のおかげで神の御前で義なる者となれたのなら、その次は善き業を行いなさい。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛し、神に祈りを捧げ、神に感謝し敬い賛美し人前で告白しなさい。そして、隣人に仕え、自分の務めを忠実に果たしなさい。

これらの業が本当の意味で善き業になるのは、それらがイエス様を救い主と信じる信仰から生じてくる時である。罪の赦しは自分の業績によってではなくただひとえにイエス様のおかげで得られものなので、それを喜び感謝する心で行う業は全て本当に善き業なのである。その時、私たちは背負わなければならない自分の十字架や人生の重荷を全て耐えることができる。そのようにしてイエス様は私たちの荷を軽くし軛を負いやすくされるのだ。

キリスト信仰者とは、このように罪の赦しが与えられて良心が罪の重圧から解放されているので、あらゆることを楽に取り組む出来るのである。彼の心の中では全てのことが麗しいものに変わり、遭遇するあらゆる事柄に喜んで取り組み、耐え忍ぶことが出来るのである。しかし、イエス様の与えて下さる罪の赦しを持たない人にとっては、取り組み耐え忍ばなければならないことは全て重く嫌なものになる。なぜなら、彼はしたくないことを仕方なくしているだけだからだ。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン