2019年4月8日月曜日

見よ、神は新しいことを行う (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年4月7日 四旬節第五主日 スオミ教会

イザヤ書43章16-28節
フィリピの信徒への手紙3章5-11節
ルカによる福音書20章9-19節

説教題 「見よ、神は新しいことを行う」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の旧約の日課イザヤ書の個所の中で神は、「見よ、新しいことをわたしは行う」と言っていました。新しいこととはどんなことでしょうか?ちょうど日本では新しい元号が公表されて、世間は新しいことへの期待が高まった感があります。しかし、聖書のことですので、聖書外のことに結びつけて理解しようとするのではなく、あくまで聖書内で理解しようと思います。そうなるとイザヤ書43章16節から28節をよく読まなければならないのですが、少しわかりにくい個所と思います。イザヤ書全体のことを念頭に置く必要があります。面白いことに、本日の福音書の日課と使徒書の日課を何度も読んでいくうちに、イザヤ書43章で神が行うと言われる「新しいこと」を理解するのに役立つことに気がつきました。福音書の日課は、イエス様がブドウ園のたとえを使って教えを述べる個所でした。使徒書の日課は、パウロがイエス様を救い主と信じることで、それまで勝ち取ったと思っていたことは皆損失になったと言っているところです。そういうわけで本日の説教では、福音書と使徒書の日課と結びつけて神が行う「新しいこと」を明らかにしていきたいと思います。

まず、イザヤ書43章の個所を見てみましょう。分かりにくい個所かもしれませんが、解きほぐすようにしていけば分かってきます。最初の16節と17節で神は海の中に道を与えたとか、戦車や強大な軍隊が倒された状態にあることが言われていますが、これが出エジプト記の出来事を指していることは申し上げる必要はないでしょう。モーセ率いるイスラエルの民のために神は海を開いて通り道を与え、後を追ってきたエジプトの軍勢は海水が戻ったので海底に沈んでしまったという出来事です。そして18節で神は「初めのことを思い出すな、昔のことを思い巡らすな」と言われますが、「初めのこと」、「昔のこと」は何を指すのかはっきりしません。そこで25節を見ると、神は「民の背きの罪をぬぐい、彼らの罪を思い出さないことにする」と言っています。神が過去の罪を思い出さないことにする、忘れてやる、と言っている以上、私たちもそれに倣って、違うことに思いを巡らさなければならない。それが、神が行う「新しいこと」なのです。

それでは、私たちが思い巡らさなければならない神の「新しいこと」とは何か?この個所をまず、書かれている内容に関係する歴史の文脈に置いて考えてみます。そうすると、「新しいこと」とはイスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還させてもらえることを指します。歴史の文脈に置いて見た場合、それが「新しいこと」になります。その背景にあるものが21節から24節に記されています。イスラエルの民は神の意志に背くことばかりし、その結果、罰として国滅ぼされて異国の地バビロンに連行されてしまいました。これは、紀元前6世紀初めに起きた歴史上の出来事です。神としては、民が悔い改めればいつでも罪をぬぐい不問にしてあげる用意があったのに、民の態度と言ったらまるで、自分たちには落ち度はない、神は根拠もないのに民に罰を与えて苦しめている、そんな神を相手に裁判しても構わない、そういう傲慢さがありました(26節、後注)。それは自滅を招いてしまう態度でした(27-28節)。

しかしながら神は、民の捕囚が70年近くに及ぼうとする段階で、民の罪の償いは果たされたと見なします(イザヤ書40章2節)。それで、祖国帰還を認めるのです。それは、ペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼして、ペルシャの王がイスラエルの民の帰還を認める勅令を出すことで実現します。これも歴史上の出来事です。かつて出エジプトの頃、神が力を発揮してエジプトの軍勢を滅ぼしてイスラエルの民が安全に移動出来るようにしたことや、荒れ野の中で進むべき道を示したり、水や食べ物を与えたこと、それと同じことがバビロンからの祖国帰還にも起きたのです。19節と20節を見ればわかるように、神は祖国帰還するイスラエルの民のために荒れ野に道を敷く、砂漠に大河を流れさせて民に水を飲ませると言われます。これが、民の罪の償いが果たされたことを示す祖国帰還でした。それで、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから、そう神は言われたのでした。罪の償いを果たした者として帰還する祖国で新しくやり直しなさいと言って下さったのでした。

ところがどうでしょう、祖国帰還した民は神の意志に沿う生き方をしていないことが次第に明らかになりました。イザヤ書の終わりの方やマラキ書にそのことが伺えます。他方で、祖国帰還後に再建した神殿には世界の諸国民が天地創造の神を崇拝しにやって来るという預言があって、神の力で帰還できたのだから、その預言も帰還後に実現するという期待がありました。ところが現実には、ユダヤ民族はほんの一時を除いてずっと大国の支配下に置かれ続けていました。祖国帰還はまだ預言の本当の実現ではなかったのか?ならば、それはさらなる将来に実現するものなのか?かつて民を奴隷の国エジプトから解放し、さらには捕囚の地バビロンからも解放した神であれば、それらに並ぶような偉大な解放を実現して下さるのではないだろうか?そんな期待が持たれていた時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。果たして神は、イエス様を通してどんな「新しいこと」を行おうとしたのでしょうか?本日の福音書の個所のイエス様の教えがそれを明らかにしています。以下そのことを見てまいりましょう。

2.

イエス様のブドウ園のたとえの内容は以下のものでした。ブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を任せ、収穫の実を持ってこさせるべく僕をつかわすが、これを農夫たちは袋叩きにして手ぶらで帰してしまいます。三人の僕が同じ目にあった後で、所有者は自分の息子なら敬意を払ってちゃんとブドウの実を持たせるだろうと期待して送ります。ところが、農夫たちはこともあろうに、息子を殺害して園を自分たちのものしようと企み、本当にそうしてしまいます。そんなことしたら自分たちのものになるどころか、所有者に報復されてしまうのは目に見えているのに。イエス様はどうしてそんな頭の悪い農夫たちを登場させたのでしょうか?

この問いに答える前に、ブドウ園のたとえに続いてイエス様が語る「隅の親石」の話を見てみます。隅の親石とは、石造りの家を建てる時の大事な基となる石、つまり礎石のことです。イエス様の話は実は、詩篇118篇22節からの引用です。石造りの家を建てる者がこの石は使い物にならないと言って捨てた石が後で本当の礎石になるという預言です。イエス様はこの聖句に対する補足説明として次のように言います。この石につまずく者は深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する、と(ルカ20章18節)。実はこれも、イザヤ書8章14節からの引用です。このようにイエス様はブドウ園のたとえに続けて二つの旧約聖書の個所を結び付けて引用しました。

 ところで、イエス様のブドウ園のたとえは、これを初めて聞いた当時の人々にとってわかりそうでわかりにくい話だったと言えます。まず、当時のユダヤ教社会の人たちだったら、ブドウ園と聞くとイザヤ書5章にある「ブドウ園の歌」を思い出します。神が一生懸命に守り育てたブドウ園からはろくな実がならなかった、イスラエルの民の現状もそれと同じだとして、神に背を向けて不正にまみれて生きる民が批判される、そういう内容の歌です。このように、ブドウ園はイスラエルの民を指します。しかしながら、イエス様のたとえでは、ブドウ園自体はこのような悪い存在ではなく、悪いのは雇われ農夫です。イエス様のたとえを聞いた人たちは、イザヤ書をもとに、ブドウ園はイスラエルの民、所有者は神だとは連想はできても、雇われ農夫や所有者が派遣した家来や息子についてはイザヤ書にない要素なので、少し考えてみなければなりません。所有者の息子が殺されてしまうというのも、神のひとり子が殺されるということになりますが、まだイエス様が十字架に架けられる以前の段階では何のことか見当もつかなかったでしょう。

 そこで、イエス様のたとえでブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を委ねると旅に出ることに注目します。日本語で「長い旅に出た」と言っているのは、ギリシャ語原文では「外国に旅立った」(απεδημησεν)というのが正確な意味です。どうして外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通でした。「外国に出かけた」というのは、故国に戻ったということでしょう。

このような背景を考えると、14節で雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがわかってきます。普通だったら、そんなことをすれば自分たちのものになるどころか、すぐ処罰されてしまうでしょう。ところが、息子は始末したぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということになるのです。このようにブドウ園のたとえは、当時の人たちにとって、その社会状況から起こり得そうな身近な話に聞こえます。しかし、登場人物全ては誰を指して、一体なんの出来事について教えようとしているのかはわかりません。イザヤ書のことがあるから、何かイスラエルの民に関する教えだろうとはうすうす感じていながらも、現実の身近な世界で起こりうる出来事として理解できるだけです。つまり、遠い国にいるブドウ園の所有者が、邪悪な雇われ農夫に息子まで殺害されて、ブドウ園を乗っ取られてしまう。そして所有者は報復として農夫たちを滅ぼして、ブドウ園を別の者たちに委任するという具合にです。大方の人にとっては、これは当然の報いだと受け取られたでしょう。

ところが、群衆の中にはイエス様のたとえのポイントを理解し始めた人たちがいました。祭司長や律法学者がそれでした。ユダヤ教社会の指導層です。イザヤ書の「ブドウ園の歌」からブドウ園はイスラエルの民、所有者は神と理解できると、雇われ農夫というのは、神から委託されてブドウ園つまりイスラエルの民を世話する役割を与えられた人というイメージが湧きます。つまり、民の指導層です。祭司長や律法学者たちは、雇われ農夫が自分たちをさすのだ思い至ります。彼らは、イエス様が奇跡の業と権威ある教えで多くの人々を引き付けていることをいまいましく思っていました。何とかしないと自分たちの権威が揺らぐと危惧していました。それにも増して、もし群衆があの男をユダヤ民族の王にでも祭り上げたら、占領者のローマ帝国が鎮圧部隊を派遣して国中は大混乱に陥ってしまう、早く手を打たなければならないと危機感を抱いていました。しかし、彼を殺害することは神のひとり子を殺害することになって罰として神に滅ぼされてしまうなどとたとえを用いて語っている。自分を神同等に扱い、民の指導層を侮辱している。「そんなことがあってはならない!」と叫んだのは外ならぬ彼らだったのです。

この指導層のブーイングに対してイエス様は、詩篇118篇22節の「隅の親石」の預言を述べるのです。この預言がブドウ園のたとえと結びつけて言われるとどうなるでしょうか?家を建てる者に捨てられた石というのは農夫たちに殺された所有者の息子、すなわち捨てられた石は指導層に殺される神のひとり子を指すとわかります。その殺されたひとり子が「隅の親石」になると言うのです。これに対する補足説明としてイエス様は、その「隅の親石」が何をするのかということを述べます。これが指導層の堪忍袋が切れるだめ押しとなります。「その石に躓く者は、深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する」(18節)。この言葉は先ほども申しましたように、イザヤ書8章14-15節の預言の引用でした。旧約聖書を詳しく知っている指導層であれば、ブドウ園のたとえは、指導層に対する痛烈な批判であり、全く不都合な預言であることがわかります。しかも、詩篇の「隅の親石」の預言とイザヤ書の「躓きの石」の預言も自分たちのことを言っていると言われてしまったのです。つまり、指導層は神のひとり子を殺害して神罰として滅ぼされる。さらに、殺害されたひとり子は隅の親石になって、指導層はその石に木端微塵にされてしまうのだ、と。激怒した指導層はイエス様を捕えようとしましたが、周囲はイエス様に付き従う群衆が取り巻いていて果たせませんでした。

3.

果たしてイエス様が預言したこと、つまり指導層が神のひとり子を殺害し、その後で滅ぼされてしまうこと、そしてイエス様が「隅の親石」になって指導層を木っ端みじんにするということ、これらの預言は見事に実現します。まず、イエス様は過越し祭の期間に指導層に捕らえられて死刑判決を受けて十字架にかけられました。たとえの中でブドウ園の外に追いやられて殺害されると言われていましたが、十字架が立てられた場所はエルサレムの町の外のゴルゴタという名の処刑場でした。そして、指導層が滅ぼされる出来事も起きます。イエス様の十字架の出来事から約40年程経った西暦70年、エルサレムの町と神殿はローマ帝国の大軍の攻撃にあい灰燼に帰してしまいました。

さらに、もう一つの預言、捨てられた石のように十字架にかけられたイエス様が今度は隅の親石になって宗教指導層を木っ端みじんにするという出来事も起きました。イエス様の死からの復活がそれです。十字架の死を遂げたイエス様は天の父なるみ神の力で三日後に復活させられました。出来事の目撃者となった弟子たちを皮切りとして、イエス様は本当に天地創造の神のひとり子だった、旧約聖書に預言されていたメシア・救世主であったということが理解され出します。イエス様の復活が起きたことで、死を超える永遠の命というものが本当にあってその扉が人間に対して開かれたことがわかりました。その扉は、かつて人間が天地創造の後で神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって以来閉じられていたのです。それが、イエス様が人間の罪を人間に代わって背負い十字架の上で神罰を人間に代わって受けられたことで開かれました。イエス様が人間の罪の償いを果たして下さったことになり、それで人間が神から罪の赦しを頂けるようになったのです。

このようにイエス様のおかげで神から罪の赦しが頂けるとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しが頂けます。神から罪の赦しを頂くということは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるということであり、同時に復活されたイエス様と同じ永遠の命に与れるということです。万が一この世を去る時が来ても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に永遠に迎え入れてもらえることになります。

そうなると、罪の赦しを頂いて永遠の命に与れるために必要なことというのは、神がイエス様を用いて罪の償いを果たして下さったことをその通り起こったと信じてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることに尽きます。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、罪の赦しも永遠の命も手掛かりはと言えば、律法の掟を守ったり宗教的な儀式を積み重ねることだけでした。それが、先ほども申しましたように、西暦70年にエルサレムの神殿が破壊されてしまうと神から罪の赦しを頂くための儀式を行う場所がなくなってしまいました。その場所は、毎年動物の生贄を犠牲に捧げたり穀物の初穂を捧げたりして罪の償いの更新を繰り返すところでした。ところが、神がご自分のひとり子を犠牲にすることで罪の償いを一回限りで済むように、文字通り未来永劫に果たしてしまいました。あとは神がイエス様を用いて整えて下さったものを受け取るだけで大丈夫になったのです。

神殿の儀式に関する掟以外の掟についても革命的なことが起きました。十戒の掟のことです。イエス様は、それらは見かけ上外面的に守れても十分ではない、心の有り様までも問うていると教えました。そうなると人間は誰も神が義と認めるくらいに十戒を守れる人はいません。ところが、イエス様を救い主と信じて洗礼の時に被せられる、見えない神聖な純白な衣を纏うようになると、それで人間は神の前に義とされるようになったのです。それから後は、神から贈り物として頂いた義はひとり子の尊い犠牲の上に成り立っているとわきまえるので軽々しいことはできなくなります。だからと言って、重苦しくなることもありません。なぜなら、神が贈り物として与えて下さる義は、人間を罪に追いやろうとする力や罪の赦しなんかないと思わせる力など陽炎のように消え去るにしかすぎないと映し出してくれます。ここから何とも言いようのない大きな解放感と安堵感が沸き起こります。心は神への感謝で満たされ、これからは神の意志に沿うように生きていこうと志向する有り様になります。

律法の掟を守って神から義とされることを目指していたが行き詰ってしまった、ところが、イエス様がもたらしてくれた義を受け取ることで解放感を得た、このことはパウロの教えによく出てきます。本日のフィリピ3章の個所も同じ教えです。パウロはまず、自分が律法の掟を遵守することで神から義とされることを目指す筋金入りのファリサイ派であったこと、それゆえにイエス様を救い主と信じる者たちを迫害した過去を持つと明かします。ところが、イエス様が神のひとり子の身分でありながら人間の罪の償いを全部果たしてしまったことを知って以来、自分の力で獲得しようとした義は屑同然になってしまった。償いを果たして下さったイエス様を救い主と信じる信仰を神が見て下さり、また洗礼によってイエス様の死と復活に結びついたことも見て下さり、それで神は自分のことを義と見て下さる。その義が本物の義である、そうパウロは証ししているのです。

4.

以上から、イザヤ書の中で神が行おうとする「新しいこと」が明らかになりました。それは、ユダヤ民族という特定の民族を他民族支配という特定の歴史状況での従属状態から解放することではありませんでした。それは、民族に関わらず人間全体を罪と死の支配という普遍的な従属状態から解放するということでした。バビロン捕囚からの解放の時は民が罪の償いをしたと見なされました。つまり、祖国帰還は民が行った償いと結びついていたのです。しかし、それは律法の掟の外面的な遵守と生贄を使う贖罪に戻る運命にありました。「ヘブライ人への手紙」で言われるように、律法の掟の外面的な遵守や生贄を使う贖罪というものは、将来来るべき本物の遵守と贖罪のミニチュアのようなもので、本物が来たら消え去るものだったのです。そして本物が来たのです。十戒を完全に実現している状態の神のひとり子が人間の罪の償いを完全に果たして下さったのです。これが神が行うと言った「新しいこと」だったのです。

かつて民がバビロン捕囚から解放された時、神の御心は、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたたちは罪の償いを果たした者としてこれから帰還する祖国で新しくやり直しなさいというものでした。今、本当の解放、普遍的な解放を得た私たちに対しても神は同じように言われます。あなたはもう過去の罪を思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたは、尊い犠牲を払ってもらって罪の償いを果たしてもらった者として生きていきなさい。そうすれば、罪と死はあなたが永遠の命に至る道を歩むのを邪魔できないのである。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2019年3月25日月曜日

神が共にいれば不運があっても不幸にはならない (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年3月24日 四旬節第三主日 スオミ教会

出エジプト記3章1-15節
コリントの信徒への第一の手紙10章1-13節
ルカによる福音書13章1-9節

説教題 神が共にいれば不運があっても不幸にはならない

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      聖書の神の名前

 本日の旧約の日課は出エジプト記3章のモーセが天地創造の神と出会うところでした。当時イスラエルの民はエジプトで奴隷扱いを受けていました。神は民の助けを求める声を聞き、以前アブラハム、イサク、ヤコブに約束したことを果たす時が来たと見なしました。約束したこととは、民にカナンの地を定住地として与えるということです。神はモーセに、エジプトの国王ファラオのもとにかけあって民の出国を認めさせて、民を引き連れて約束の地に民族大移動せよと命じます。この出エジプトの出来事は世界の歴史の古代史の出来事の中で最も大きなものの一つです。その中で起こるいろいろな出来事は、人間と天地創造の神との関係はどういうものかをいろいろ考えさせるものです。中でも、神がモーセを通して十戒の掟を与えたことが重要です。確かにこれは、イスラエルの民が守るべきものとして与えられたという面がありますが、人間に対する神の神聖な意志、神が人間に求めていることが凝縮されているという意味で全人類に関わる掟と言えます。

 本日の出エジプト記の中で一つ注目すべきことは、神が自分の名前を明らかにしたことです。エジプトを脱出しろと神が命じるなら、その神の名前は何と言うのか、そう民が聞いてきたら何と答えたらいいのか?とモーセは神に聞きます。神はこう言いなさいと言って自分の名前を明かしたのです。ここで少し脇道に逸れますが、「神」という言葉は一般には、超自然的で人格(ないしは人格に近いもの)を持ち崇拝の対象となるものを意味します。世界中にはいろんな神がいて、それぞれに名前がついています。ギリシャやローマの神話の神々、日本の神話に出てくる神々の名前は、ここではいちいちあげませんが、皆さんも聞いたことがあるでしょう。このように世界中にいろんな名前を持つ神がいるのですが、ただ、聖書の立場ではそれらは皆つくられたもの、被造物ということになります。聖書の神が万物の造り主であり、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた、これが聖書の立場だからです。そう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まった、と言われてしまうのですが、聖書の立場はそういうものなので、その立場に立ったらそうとしか言いようがないのです。

そこで、聖書の天地創造の神はどんな名前を持つでしょうか?モーセの問いに対する神の答えは「私は『私はある』である」でした(出エジプト3章14節)。「私はある」エフ イエאהיהというのは、まさに万物の造り主であることを言い表しています。というのは、聖書の神というのは万物の創造に着手された以上は、創造の時にポッと出てきたのではない、創造の前から存在していた永遠の方だからです。それなので、「わたしはある」以外に言い表しようがないと言えるでしょう。

さて、天地創造の神はモーセに、イスラエルの民にはこう言いなさいと命じます。「『私はある』という方が私をあなたたちのもとに遣わした」と(14節)。神はさらに、民にこう付け加えなさいと言います。「お前たちの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤハヴェが私をあなたたちのもとに遣わした」と。ここで「私はある」が突然、「ヤハヴェ」יהוהに替わりました。「私はある」אהיהは一人称ですが、ヤハヴェיהוהは三人称に近い形で「彼はある」という意味を連想させます。神は今後この名で自分を呼びなさいと言います(15節)。

ここで皆さんの聖書に関する知識を増やすために一つ申し上げます。ヘブライ語の旧約聖書には、神のことをヤハヴェと記すところが無数にあるのですが、それを読む時はヤハヴェと読まないことが慣例になっています。神聖な神の名を汚れた唇の人間が口にするのは畏れ多いからです。それで文字でヤハヴェと書いてあっても、それを「主」を意味する「アドナーイ」という言葉で読み替えることになっています。それで、日本語やその他の言語の訳もヤハヴェは「主」と訳します。日本語訳の旧約聖書で神のことを「主」と言い表しているところは、ヘブライ語ではほとんど全てがヤハヴェです。出エジプト記3章15節の「ヤコブの神である主が」と言うのも、正体は「ヤコブの神であるヤハヴェが」です。

話が脇道にそれましたが、神の名前に関してもっと大事なことがあります。先ほど、天地創造の神が自分のことを「私はある/彼はある」と名乗った時、それは永遠の存在者を意味していると申しました。これにはもう少し深い意味があります。何かというと、神が14節で自分のことを「私はある」אהיהと名乗る前の12節でも自分のことを「私はある」אהיהと言っているのです。それはモーセが、ファラオに駆けあって民をエジプトから脱出させるなんて自分には無理ですよ、と言った時の神の応答の言葉です。日本語訳では「わたしは必ずあなたと共にいる」となっていますが、ヘブライ語原文の逐語訳は「私はある、お前と共に」エフ イエ インマークאהיה עמךです。見ての通り、これは神の名前の「私はある」エフ イエאהיהに「お前と共に」インマークעמךがくっついた形です。これが意味するのは、神が「私はある」と言う時、それは人間を向いて言っているということです。つまり神は、自分が永遠にある者と言う時、人間と無関係にあるというのではなくて、人間と関係があるように永遠にある者と言っているのです。このことは、神の名前を考える時の大事なポイントになります。こうしたことはヘブライ語の原文を見ないと見えてこないことですが、見えた人は見えない人に伝える責務があります。

 それでは、天地創造の神が人間と関係があるように存在していると言う時、それはどんな関係なのか?そのことを本日の福音書の日課の解き明かしを通して見てみたく思います。

2.イエス様にとって「滅び」とは何を意味するのか?

 本日の福音書の個所のはじめは、ローマ帝国ユダヤ地域の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いて、どんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを総督ピラトが殺害させて、その血を彼らの生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。

 この知らせを受けたイエス様は、ある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐ何の出来事を指すかわかるような、多くの人の記憶に残っている出来事であったと言えます。

 さて、イエス様に報告した人たちには、この事件を通して何か知りたいこと、イエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から、彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのですか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しない、ということなのですか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのではないでしょうか?」と確認を求めたのです。

 これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない」と強く否定します(ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定)。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかったその他のガリラヤ人よりも罪深かったということはなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じくらいあり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになる。そうなると、それはもう因果応報とは関係のないことになります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。

イエス様は同じ言葉「決してそうではない(ουχι)」を、塔の倒壊事故を話した時にも使います。5節です。この意味も3節と同じように、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。これも3節と同様に、両者とも同じくらい罪びとであると言うからには、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけで、それはもう因果応報とは関係のないことになる。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。

ところが、どうしたことでしょう。イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。これは、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような暴力の犠牲になったり、不慮の事故の犠牲になる、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って、因果応報の観点を否定しながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?

実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しない、などと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。

それならば、イエス様は何を言っているのでしょうか?イエス様の言葉が因果応報の観点で言っているように見えてしまう大きな原因があります。何かと言うと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と「滅びる(απολλυμι)」という動詞がありますが、これを残虐行為や不慮の事故に遭って命を落とすことだと理解してしまうとそうなってしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。それでは、どんな意味でしょうか?

それがわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも、「滅びる(απολλυμι)」という動詞が出てきます。同じギリシャ語の動詞です。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことの反対を意味しています。それでは、「永遠の命を得る」とはどんなことでしょうか?それは、私たちがこの世を去る時、自分を自分の造り主である神に全部委ねて、神の方でしっかりキャッチしてくれる、そして復活の日に朽ちない体を着せてもらって創造主の神のもとに永遠にいられるようになるということです。そうすると、「滅び」は、これとは逆にこの世を去る時、神にキャッチしてもらえない、復活の日に神のもとに永遠に戻れないことを意味します。

このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって、「滅び」はこのようなこの世にかかわるものでした。イエス様にとって、「滅び」はこの世の次に来る新しい世にかかわるものでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、神から罪の赦しを受けていない者としてこの世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、次の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということも同じようにわからなければならないのだ。」

 このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に来る新しい世に関係する滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は、弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むということ、そして、歩みの途上で苦難災難のゆえに万が一命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは、どのようにして可能でしょうか?

3.神のもとへの立ち返り

 その鍵は、イエス様の答えの中にある「悔い改める(μετανοεω)」ということにあります。メタノエオ―μετανοεωのもともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されますが、ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが自分の無思慮さや身勝手さのために隣人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」はその相手の人に向けられていると言えます。ところが、キリスト信仰では、隣人に対して謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は天地創造の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に背いたからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまった生き方を改めて神に向きなおって生きるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳してもよいでしょう。

そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と言ってもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?神に「よし」と言ってもらえる「立ち返り」はどんなものでしょうか?そのことを少し考えてみましょう。

皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなことを言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。そこまでして神の意思を完全に実現できる人間は存在しないでしょう。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになったものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神にキャッチしてもらえず自分の造り主のもとに戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神自身がとった解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送って、本来は人間が背負うべき罪の神罰を全部ひとり子に背負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦す、というものでした。そこで人間は誰でも、このひとり子イエス様を用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。洗礼を受けることで人間は、罪が残った汚れた状態のままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうして人間は、イエス様を救い主と信じて、純白な衣をはぎ取られないようにしっかり掴んで纏っていれば、神の方で目に適う者と見なされて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、この世を去る時にも、神にしっかりキャッチしてもらえて、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。

このように人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認を頂き、再び永遠の命の道を歩み出すことです。

ところで、本日の福音書の個所のもう一つのエピソードはイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。そこを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を前にした私たちをかばって下さるイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠に待ってくれない、期限があるということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて、神に立ち返るようになりますように。

4.神が共にいれば不運があっても不幸にはならない

イエス様が意味する「滅び」とは、今の世に関係するものではなく、次に来る新しい世に関係していることが明らかになりました。それで、人間がこの世で遭遇する苦難災難は、たとえそのために命を落とすことになっても、「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもない、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者の命をその手の中にしっかり握っているのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神にしっかり握ってもらっているという気がしなくなるのではないでしょうか?信仰者が苦難災難に遭遇した時、どう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。

そこで使徒パウロは、出エジプト記のイスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者の生き方を映し出す鏡になっていると教えます。長い困難な大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話し守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め、神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。

パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために起きたのだ、と言います。そこで、信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情があります。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、それは聖書にしっかりある観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を創造され、再び来られるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。そのような時がいつ来るかは神自身しかわかりません。パウロの時代はもうすぐ来るという切迫感がありました。そのような切迫感はパウロの手紙の随所にも見られます。しかし、それから2000年近く立ちましたがまだのようです。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていたので(マタイ24章14節等)、それが目安でしょう。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では「終わりの時代」ということになります。

パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐ神の守りを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そして大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、人間の耐久度を超えるような度外れたものはなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方なのだから、君たちの持てる力を超えるような試練に君たちを遭わせたりはしない。君たちを試練に遭わせてるようなことをしても、試練の出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。「試練に耐える」とは具体的には何をすることでしょうか?シナイ半島のイスラエルの民を反面教師にすれば明らかです。それは、神への信頼を失わずに試練がもたらす課題を一つ一つ解決することです。

このパウロの教えは、神が出口を用意しているということで励まされる反面、なんだ神は結局は試練を与えるのか、なんで安逸な人生にしてくれないのか、キリスト教は御利益のない宗教だとガッカリされるかもしれません。でも、試練は即、不幸ということでしょうか?そうではないということを実感させるニュースが先週ありました。それは、殺人容疑で逮捕された女性が懲役12年の刑を受け、後になって取調べに誘導があったことが明らかになり最高裁が裁判のやり直しを認めたというニュースです。その女性が記者会見で、自分はえん罪に巻き込まれて不運だったけど不幸ではないと思っている、と述べていました。不幸でなかった理由として支援者に励まされてきたことをあげていました。人によっては、不運だったら即、不幸になる人もいるでしょう。女性の場合はそうならなかった。その理由として、支援者の存在があったからでした。

パウロの教えもこれに似たところがあると思います。イエス様を救い主と信じても試練はある。しかし、それで不幸になることはない。なぜなら、天の父なるみ神が支援者のように共にいて下さるから。

 神は自分のことを「私はある」と名乗った時、私たちと共にあることを前提して言いました(出エジプト3章)。

 天使はヨセフに、生まれてくるイエス様のことをインマヌエルと呼びました。それは「神は我々と共におられる」という意味でした(マタイ1章23節)。

 イエス様は聖霊のことを私たちのための「弁護者」であると言いました(ヨハネ14~16章)。

兄弟姉妹の皆さん、これだけ役者が揃っていたら何の不足があるでしょうか?

最後に、先ほど第一コリント10章13節には大事なポイントがあると申しましたが、そこには重い内容も含まれていることについて一言。パウロは、信仰者はまだ人間の耐久度を超えるような度外れた試練を受けてはいないと言うのですが、今後そういう試練が来ることに含みを持たせています(後注)。それが何かは明らかにされていませんが、そうではあっても、13節後半部分のポイント、つまり神は試練の出口も用意してくれて、試練を私たちの力を超えないものに留めて下さるということ、このポイントは度外れた試練の時も度外れでない試練の時と同様に有効である。これがパウロの言っていることです。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、神を信頼し、神に立ち返る生き方をしていれば何も心配はいりません。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注(ギリシャ語が分かる人にです)
第一コリント10章13節の後半「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」、「出口を用意して下さる」というのは、両方とも未来形です(εασει、ποιησει)。つまり、将来の試練について言っています。これまでの試練は人間の耐久度を超えるものではなかった、というのは現在完了で言っています(ειληφεν)。それで、将来の試練は耐久度を超えるものがあることに含みを持たせていると考えた次第です。