説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2019年3月24日 四旬節第三主日 スオミ教会
出エジプト記3章1-15節
コリントの信徒への第一の手紙10章1-13節
ルカによる福音書13章1-9節
説教題 神が共にいれば不運があっても不幸にはならない
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. 聖書の神の名前
本日の旧約の日課は出エジプト記3章のモーセが天地創造の神と出会うところでした。当時イスラエルの民はエジプトで奴隷扱いを受けていました。神は民の助けを求める声を聞き、以前アブラハム、イサク、ヤコブに約束したことを果たす時が来たと見なしました。約束したこととは、民にカナンの地を定住地として与えるということです。神はモーセに、エジプトの国王ファラオのもとにかけあって民の出国を認めさせて、民を引き連れて約束の地に民族大移動せよと命じます。この出エジプトの出来事は世界の歴史の古代史の出来事の中で最も大きなものの一つです。その中で起こるいろいろな出来事は、人間と天地創造の神との関係はどういうものかをいろいろ考えさせるものです。中でも、神がモーセを通して十戒の掟を与えたことが重要です。確かにこれは、イスラエルの民が守るべきものとして与えられたという面がありますが、人間に対する神の神聖な意志、神が人間に求めていることが凝縮されているという意味で全人類に関わる掟と言えます。
本日の出エジプト記の中で一つ注目すべきことは、神が自分の名前を明らかにしたことです。エジプトを脱出しろと神が命じるなら、その神の名前は何と言うのか、そう民が聞いてきたら何と答えたらいいのか?とモーセは神に聞きます。神はこう言いなさいと言って自分の名前を明かしたのです。ここで少し脇道に逸れますが、「神」という言葉は一般には、超自然的で人格(ないしは人格に近いもの)を持ち崇拝の対象となるものを意味します。世界中にはいろんな神がいて、それぞれに名前がついています。ギリシャやローマの神話の神々、日本の神話に出てくる神々の名前は、ここではいちいちあげませんが、皆さんも聞いたことがあるでしょう。このように世界中にいろんな名前を持つ神がいるのですが、ただ、聖書の立場ではそれらは皆つくられたもの、被造物ということになります。聖書の神が万物の造り主であり、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた、これが聖書の立場だからです。そう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まった、と言われてしまうのですが、聖書の立場はそういうものなので、その立場に立ったらそうとしか言いようがないのです。
そこで、聖書の天地創造の神はどんな名前を持つでしょうか?モーセの問いに対する神の答えは「私は『私はある』である」でした(出エジプト3章14節)。「私はある」エフ イエאהיהというのは、まさに万物の造り主であることを言い表しています。というのは、聖書の神というのは万物の創造に着手された以上は、創造の時にポッと出てきたのではない、創造の前から存在していた永遠の方だからです。それなので、「わたしはある」以外に言い表しようがないと言えるでしょう。
さて、天地創造の神はモーセに、イスラエルの民にはこう言いなさいと命じます。「『私はある』という方が私をあなたたちのもとに遣わした」と(14節)。神はさらに、民にこう付け加えなさいと言います。「お前たちの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤハヴェが私をあなたたちのもとに遣わした」と。ここで「私はある」が突然、「ヤハヴェ」יהוהに替わりました。「私はある」אהיהは一人称ですが、ヤハヴェיהוהは三人称に近い形で「彼はある」という意味を連想させます。神は今後この名で自分を呼びなさいと言います(15節)。
ここで皆さんの聖書に関する知識を増やすために一つ申し上げます。ヘブライ語の旧約聖書には、神のことをヤハヴェと記すところが無数にあるのですが、それを読む時はヤハヴェと読まないことが慣例になっています。神聖な神の名を汚れた唇の人間が口にするのは畏れ多いからです。それで文字でヤハヴェと書いてあっても、それを「主」を意味する「アドナーイ」という言葉で読み替えることになっています。それで、日本語やその他の言語の訳もヤハヴェは「主」と訳します。日本語訳の旧約聖書で神のことを「主」と言い表しているところは、ヘブライ語ではほとんど全てがヤハヴェです。出エジプト記3章15節の「ヤコブの神である主が」と言うのも、正体は「ヤコブの神であるヤハヴェが」です。
話が脇道にそれましたが、神の名前に関してもっと大事なことがあります。先ほど、天地創造の神が自分のことを「私はある/彼はある」と名乗った時、それは永遠の存在者を意味していると申しました。これにはもう少し深い意味があります。何かというと、神が14節で自分のことを「私はある」אהיהと名乗る前の12節でも自分のことを「私はある」אהיהと言っているのです。それはモーセが、ファラオに駆けあって民をエジプトから脱出させるなんて自分には無理ですよ、と言った時の神の応答の言葉です。日本語訳では「わたしは必ずあなたと共にいる」となっていますが、ヘブライ語原文の逐語訳は「私はある、お前と共に」エフ イエ インマークאהיה עמךです。見ての通り、これは神の名前の「私はある」エフ イエאהיהに「お前と共に」インマークעמךがくっついた形です。これが意味するのは、神が「私はある」と言う時、それは人間を向いて言っているということです。つまり神は、自分が永遠にある者と言う時、人間と無関係にあるというのではなくて、人間と関係があるように永遠にある者と言っているのです。このことは、神の名前を考える時の大事なポイントになります。こうしたことはヘブライ語の原文を見ないと見えてこないことですが、見えた人は見えない人に伝える責務があります。
それでは、天地創造の神が人間と関係があるように存在していると言う時、それはどんな関係なのか?そのことを本日の福音書の日課の解き明かしを通して見てみたく思います。
2.イエス様にとって「滅び」とは何を意味するのか?
本日の福音書の個所のはじめは、ローマ帝国ユダヤ地域の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いて、どんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを総督ピラトが殺害させて、その血を彼らの生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。
この知らせを受けたイエス様は、ある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐ何の出来事を指すかわかるような、多くの人の記憶に残っている出来事であったと言えます。
さて、イエス様に報告した人たちには、この事件を通して何か知りたいこと、イエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から、彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのですか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しない、ということなのですか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのではないでしょうか?」と確認を求めたのです。
これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない」と強く否定します(ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定)。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかったその他のガリラヤ人よりも罪深かったということはなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じくらいあり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになる。そうなると、それはもう因果応報とは関係のないことになります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。
イエス様は同じ言葉「決してそうではない(ουχι)」を、塔の倒壊事故を話した時にも使います。5節です。この意味も3節と同じように、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。これも3節と同様に、両者とも同じくらい罪びとであると言うからには、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけで、それはもう因果応報とは関係のないことになる。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。
ところが、どうしたことでしょう。イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。これは、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような暴力の犠牲になったり、不慮の事故の犠牲になる、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って、因果応報の観点を否定しながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?
実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しない、などと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。
それならば、イエス様は何を言っているのでしょうか?イエス様の言葉が因果応報の観点で言っているように見えてしまう大きな原因があります。何かと言うと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と「滅びる(απολλυμι)」という動詞がありますが、これを残虐行為や不慮の事故に遭って命を落とすことだと理解してしまうとそうなってしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。それでは、どんな意味でしょうか?
それがわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも、「滅びる(απολλυμι)」という動詞が出てきます。同じギリシャ語の動詞です。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことの反対を意味しています。それでは、「永遠の命を得る」とはどんなことでしょうか?それは、私たちがこの世を去る時、自分を自分の造り主である神に全部委ねて、神の方でしっかりキャッチしてくれる、そして復活の日に朽ちない体を着せてもらって創造主の神のもとに永遠にいられるようになるということです。そうすると、「滅び」は、これとは逆にこの世を去る時、神にキャッチしてもらえない、復活の日に神のもとに永遠に戻れないことを意味します。
このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって、「滅び」はこのようなこの世にかかわるものでした。イエス様にとって、「滅び」はこの世の次に来る新しい世にかかわるものでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、神から罪の赦しを受けていない者としてこの世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、次の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということも同じようにわからなければならないのだ。」
このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に来る新しい世に関係する滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は、弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むということ、そして、歩みの途上で苦難災難のゆえに万が一命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは、どのようにして可能でしょうか?
3.神のもとへの立ち返り
その鍵は、イエス様の答えの中にある「悔い改める(μετανοεω)」ということにあります。メタノエオ―μετανοεωのもともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されますが、ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが自分の無思慮さや身勝手さのために隣人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」はその相手の人に向けられていると言えます。ところが、キリスト信仰では、隣人に対して謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は天地創造の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に背いたからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまった生き方を改めて神に向きなおって生きるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳してもよいでしょう。
そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と言ってもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?神に「よし」と言ってもらえる「立ち返り」はどんなものでしょうか?そのことを少し考えてみましょう。
皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなことを言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。そこまでして神の意思を完全に実現できる人間は存在しないでしょう。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになったものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのです。
人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神にキャッチしてもらえず自分の造り主のもとに戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神自身がとった解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送って、本来は人間が背負うべき罪の神罰を全部ひとり子に背負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦す、というものでした。そこで人間は誰でも、このひとり子イエス様を用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。洗礼を受けることで人間は、罪が残った汚れた状態のままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうして人間は、イエス様を救い主と信じて、純白な衣をはぎ取られないようにしっかり掴んで纏っていれば、神の方で目に適う者と見なされて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、この世を去る時にも、神にしっかりキャッチしてもらえて、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。
このように人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認を頂き、再び永遠の命の道を歩み出すことです。
ところで、本日の福音書の個所のもう一つのエピソードはイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。そこを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を前にした私たちをかばって下さるイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠に待ってくれない、期限があるということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて、神に立ち返るようになりますように。
4.神が共にいれば不運があっても不幸にはならない
イエス様が意味する「滅び」とは、今の世に関係するものではなく、次に来る新しい世に関係していることが明らかになりました。それで、人間がこの世で遭遇する苦難災難は、たとえそのために命を落とすことになっても、「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもない、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者の命をその手の中にしっかり握っているのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神にしっかり握ってもらっているという気がしなくなるのではないでしょうか?信仰者が苦難災難に遭遇した時、どう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。
そこで使徒パウロは、出エジプト記のイスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者の生き方を映し出す鏡になっていると教えます。長い困難な大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話し守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め、神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。
パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために起きたのだ、と言います。そこで、信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情があります。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、それは聖書にしっかりある観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を創造され、再び来られるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。そのような時がいつ来るかは神自身しかわかりません。パウロの時代はもうすぐ来るという切迫感がありました。そのような切迫感はパウロの手紙の随所にも見られます。しかし、それから2000年近く立ちましたがまだのようです。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていたので(マタイ24章14節等)、それが目安でしょう。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では「終わりの時代」ということになります。
パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐ神の守りを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そして大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、人間の耐久度を超えるような度外れたものはなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方なのだから、君たちの持てる力を超えるような試練に君たちを遭わせたりはしない。君たちを試練に遭わせてるようなことをしても、試練の出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。「試練に耐える」とは具体的には何をすることでしょうか?シナイ半島のイスラエルの民を反面教師にすれば明らかです。それは、神への信頼を失わずに試練がもたらす課題を一つ一つ解決することです。
このパウロの教えは、神が出口を用意しているということで励まされる反面、なんだ神は結局は試練を与えるのか、なんで安逸な人生にしてくれないのか、キリスト教は御利益のない宗教だとガッカリされるかもしれません。でも、試練は即、不幸ということでしょうか?そうではないということを実感させるニュースが先週ありました。それは、殺人容疑で逮捕された女性が懲役12年の刑を受け、後になって取調べに誘導があったことが明らかになり最高裁が裁判のやり直しを認めたというニュースです。その女性が記者会見で、自分はえん罪に巻き込まれて不運だったけど不幸ではないと思っている、と述べていました。不幸でなかった理由として支援者に励まされてきたことをあげていました。人によっては、不運だったら即、不幸になる人もいるでしょう。女性の場合はそうならなかった。その理由として、支援者の存在があったからでした。
パウロの教えもこれに似たところがあると思います。イエス様を救い主と信じても試練はある。しかし、それで不幸になることはない。なぜなら、天の父なるみ神が支援者のように共にいて下さるから。
神は自分のことを「私はある」と名乗った時、私たちと共にあることを前提して言いました(出エジプト3章)。
天使はヨセフに、生まれてくるイエス様のことをインマヌエルと呼びました。それは「神は我々と共におられる」という意味でした(マタイ1章23節)。
イエス様は聖霊のことを私たちのための「弁護者」であると言いました(ヨハネ14~16章)。
兄弟姉妹の皆さん、これだけ役者が揃っていたら何の不足があるでしょうか?
最後に、先ほど第一コリント10章13節には大事なポイントがあると申しましたが、そこには重い内容も含まれていることについて一言。パウロは、信仰者はまだ人間の耐久度を超えるような度外れた試練を受けてはいないと言うのですが、今後そういう試練が来ることに含みを持たせています(後注)。それが何かは明らかにされていませんが、そうではあっても、13節後半部分のポイント、つまり神は試練の出口も用意してくれて、試練を私たちの力を超えないものに留めて下さるということ、このポイントは度外れた試練の時も度外れでない試練の時と同様に有効である。これがパウロの言っていることです。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、神を信頼し、神に立ち返る生き方をしていれば何も心配はいりません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
後注(ギリシャ語が分かる人にです)
第一コリント10章13節の後半「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」、「出口を用意して下さる」というのは、両方とも未来形です(εασει、ποιησει)。つまり、将来の試練について言っています。これまでの試練は人間の耐久度を超えるものではなかった、というのは現在完了で言っています(ειληφεν)。それで、将来の試練は耐久度を超えるものがあることに含みを持たせていると考えた次第です。