2017年9月18日月曜日

教会にしかない鍵 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2017年9月17日 聖霊降臨後第15主日

出エジプト記6章2-8節
ローマの信徒への手紙12章1-8節
マタイによる福音書16章13-20節

説教題 「教会にしかない鍵」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所は一回読むとなんとなくわかった感じになります。ああ、イエス様は弟子たちに質問して、人々は「人の子」を誰だと考えているか、と聞くんだな。それに対して弟子たちは「人々は『人の子』を洗礼者ヨハネとか旧約聖書のいろんな預言者だと思っています」と答えるんだな。次にイエス様はペトロに「お前は私を何者と思うか」と尋ねて、ペトロは「メシアです、生ける神の子です」と答えるんだな。それに対してイエス様は、ペトロがそう答えたのは神がわからせたからだ、と言っているんだな。そしてイエス様はペトロを将来のキリスト教会の長にする、教会の鍵を与えると言って、彼を教会内で権威ある地位につけるんだな。なるほど、なるほど、簡単じゃないか。

ところが本日の箇所は本当はとても難しいのです。一つ例を挙げると、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」と言うのは、皆様もご存知のように、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今あるこの世が終わりを告げる時、神の国が到来する。それを統治する者が「人の子」です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに聞いたのです。弟子たちの答えは、洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、エリヤだとかエレミアだとか旧約聖書の預言者の名をあげる人もいます、というものでした。このように「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、それでは弟子たちは彼のことを誰だと思うか、と尋ねます。つまり質問が「人の子」についての人々の見解から、イエス様自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは一体どういうことでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っている、と答えた後だから、続く質問としては、それでは弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、というのが自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - これらは一体どう繋がっているのでしょうか?

 もう一つ難しいことは、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと命じたことです。メシアとは、これも皆様ご存知のように、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者を指し、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、「油注がれた者משיח」はユダヤ民族の現実の王様の印でした。これがバビロン捕囚の後の時代になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエルの王国を再建する待望の王様を意味するようになります。さらに紀元前3,2世紀頃になると、ユダヤ教社会のなかで、今あるこの世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだします。そうした時、メシアとは、そういう終末の時に現れて、天地創造の神への信仰を守り抜いた者たちを苦難から救い出して、これを死から復活させた者たちと合流させて新しい世に迎え入れてくれる、そういう救い主と考えられるようになります。

さて、イスラエルの王国を再建するダビデ家系の王様を意味するにせよ、また終末の救世主を意味するにせよ、どちらをとるにしても、問題は、なぜイエス様は、自分がメシアであることを人々に話してはならない、と命じたのか?彼が無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?

 三つの目の疑問は、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、そのペトロを教会の基にすると言います。「ペトロ」という名前は「岩」を意味するギリシャ語のペトラから来ています。「陰府の力も教会には対抗できない」と言いますが、具体的に何を意味するのか?さらに、ペトロに天の御国の鍵を渡し、ペトロが「地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とは何を意味するのか?ペトロに教会内での権威ある地位を与えるんだな、ということはわかりますが、具体的に何を意味しているのか?

本日の箇所は、以上の三つのことがわからないとわかったことにならないのです。それで、本日の説教ではそれら三つの疑問点、イエス様の二つの質問はどう結びつくのか?なぜイエス様はメシアと公言してはならないと命じたのか?ペトロを土台にして建てられる教会とは何か?これらを明らかにしたいと思います。

2.

最初の疑問。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、今度は彼自身についての弟子たちの見解を質問したことは、どう繋がるか?これを明らかにする鍵は、「人の子」とは何かということです。実は、このダニエル書に出てくる「人の子」というのは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学の研究者にとってもやっかいな問題でして、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。

初めに触れましたように、「人の子」はダニエル書7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味では「年齢を無限に重ねた者」、つまり天地創造の神を指します。この神から、「人の子」は王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国を統治します。これがダニエル書の預言です。

ところで、紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの200年位の間に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことをダニエル書のような新しい世に登場する王だけでなく、ずばりメシア救世主と同一視する思想が現れます。他方で、本日の福音書の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを「人の子」に抱いていたのです。

このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者のリストに彼を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。弟子たちの答えを聞いたイエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。果たして弟子たちは、あなたこそ「人の子」ですと答えられるだろうか?しかし、イエス様の十字架の受難や死からの復活をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で結びついているのです。

ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。「生ける神」というのは、金や銀や銅や木や石で作った像ではなく、本当に生きていて万物を創造し影響力大の言葉を発する神ということです。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシア救世主であり神の子でもあるので、ペトロの答えは「人の子」は抜け落ちたけれども間違ってはいません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されます。つまり、迫害を受けるという意味で自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという質問の答えをここで自ら示すのです。

3.

 二番目の疑問は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と、現世から新しい世の永遠の命へ橋渡しをする救世主と考える思潮、この二つがあると申しました。イエス様は確実に後者の意味での救世主ですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまでそういう救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないか、そういうことが福音書の他の箇所から窺うことができます。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。

そういうメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配からの解放を夢見る愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、帝国当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早く起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起こることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。ヨハネはそれを「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(7章30節、8章20節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べます(ヨハネ12章23節)。つまり、「時」が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。

イエス様はまさに、私たち人間を罪と死の支配下から救い出して、造り主である神のもとに私たちを贖い出すために、犠牲の生け贄となるべくエルサレムに入ったのです。この世の終わりの時に天地創造の神は最後の審判を司り、全ての民族を裁きにかけるのですが、その神に前もって捧げられた完全無傷な生け贄、それがイエス様でした。以上のような次第で、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現されなければならない神聖な贖いの業を妨げてしまう恐れがあったのです。この段階でイエス様がメシアであることを公にしてはならないというのは、以上のような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなりました。否、公けにしなければならなくなったのです。

4.

 三つの目の疑問は、ペトロを土台にして建てられる教会とは何か、というものです。本日の箇所の17節から19節までのたった3節だけですが、内容がぎっしりですので、じっくり見ていきます。

 まず、17節のイエス様の言葉、イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。新共同訳にあるような「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは、もちろん「人間」を意味する熟語なので、訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、ペトロにわからせたのは神であって誰か他の人間が入れ知恵したのでははない、ということになってしまいます。しかし、そういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、その状態ではイエス様の正体を理解できない、ということです。ペトロがわかったというのは、彼が神から霊的な影響力を及ぼされて、単なる血と肉の塊でなくなった、ということです。

そういうわけで、ペトロがイエス様のことを「メシアです、生ける神の子です」と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではありませんでした。というのは、皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる直前に主を見捨てて逃げてしまったからです。しかし、十字架と復活の出来事の後は全てが一変しました。まず、霊的な影響力に決定的に服することが聖霊降臨の時に起こりました。それからは、ペトロも他の使徒たちもどんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する「人の子」であると公けに宣べ伝え始めたのです。そのように見ていくと、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表したというのは、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。

イエス様の十字架と復活の出来事の後、そしてそれに続く聖霊降臨の後、人間が天地創造の神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかが明らかになりました。それは神がイエス様を用いて実現した人間救済が人間の心にすっと入るようになったということです。どういうことかと言うと、旧約聖書の創世記の初めにありますように、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事で人間の内に罪が入り込み、人間と神との関係は壊れてしまいました。神はそれを深く悲しみ、なんとか関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに万が一、この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。これらが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から取り除かなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、それは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神の関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪からくる神罰を全部彼に肩代わりさせて十字架の上で死なせました。まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりません。神は今度は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間に開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全部自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。イエス様のことを単なる過去の歴史上の人物ではなく、現代を生きる自分自身の救い主とわかるというのは、天地創造の神の霊的な影響力が働いていることを示しています。洗礼を受けるというのは、その影響力に服することを決定的にすることです。

イエス様がペトロを基にして教会を建てると言うのは、教会というのは単なる建物ではなくて、まさに天地創造の神の霊的な影響力に服してもはや単なる血と肉の塊でなくなった者たちから構成されるものを意味します。

このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」です。日本語訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。フィンランド語、スウェーデン語、英語(NIV)の聖書も「陰府の門」と訳しています。(ドイツ語訳Einheitsübersetzungは「陰府の力」でした。)「陰府」(ギリシャ語αδης、ヘブライ語שאול)というのは、死者が安置される場所という意味ですが、これはよく混同されますが、火が燃え盛る地獄(ギリシャ語γεεννα、アラム語גיהנס)とは別のものです(ルカ16章でイエス様がたとえを使って教えている箇所で陰府と地獄が一緒になっていますが、これは例外的です)。火が燃え盛る地獄というのは、今ある世が終わりを告げる時、今ある天と地が創造主の神によって新しい天と地に造りかえられる時、最後の審判が行われて、罪の支配下に甘んじていた者たちがそこに投げ込まれてしまうというように、火の地獄というのは最後の審判の時に出て来るものです。陰府というのは、その日が来るまでこの世を去った者が眠りについている場所です。ルターに言わせれば、この世の痛みや苦しみから解かれて復活の日まで安らかに眠る場所です。

陰府はよく地下にあるイメージを持たれますが、それは埋葬されるのが地面の下だったり墓石の下だったりするためでしょう。しかし、この世の向こう側のことなので、下とか上とかは言えません。いずれにしても、人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも寄せ付けない力を持っている。ところが、イエス様を救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を与えられて神のもとに引き上げられる。固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう者たちから構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。

 最後に、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことを見てみましょう。この「地上でつなぐこと、解くこと」は一体何を意味するのでしょうか?まず、「地上で解くこと」から見てみます。これはギリシャ語原文の言葉(λυω)の背景にあるアラム語(イエス様が話していた言葉)の言葉(שרא)から見ると、「地上で許可すること」になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」も同様にギリシャ語の言葉(δεω)の背景にあるアラム語の言葉(אסר)からみると「地上で縛りつける、禁止する」という意味になります。天の御国への入国を許可しないということです。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに託される鍵が何の鍵であるかが明らかになりました。

ところが、ここで注意しなければならない大事なことがあります。それは、天の御国への入国を許可するか否かを決めるのは、これは最後の審判を司る天地創造の神であって、いくら神からの霊的な影響力に服するとはいえ、人間個人が行う筋のものではないということです。それなら、なぜイエス様はペトロがそれを決められるかのように言っているのでしょうか?イエス様の趣旨を理解するようにしましょう。

神から霊的な影響力を受けてイエス様をメシア、生ける神の子と証したペトロを中心にして、共に聖霊降臨を受けた使徒たちを土台にして教会が誕生しました。先にも申しましたように、教会は神からの霊的な影響力に服する者たちから構成されるものです。ここでのイエス様の趣旨は、天の御国に入れるための鍵、つまり復活の日に死から目覚めさせられて復活の命と体を与えられて造り主の御許に迎え入れらえるための鍵、その鍵はまさに教会にあって、それ以外にはない、ということです。教会は神の御言葉、つまり十字架と復活の業を成し遂げたイエス様を神のひとり子、メシア救い主と証する神の御言葉を持っています。そしてその御言葉を外に伝える役割を果たしています。教会はまた、天地創造の神からの霊的な影響力に服することを決定的にする洗礼を持っています。そして洗礼を受けた者たちに霊的な栄養を与える聖餐式も持っています。この栄養を受けると、神の御心に沿うようにこの世の旅路を歩む力が得られます。このように、教会にこそ、天の御国への鍵があるのです。イエス様は、この鍵と関わりを持ちなさいとおっしゃっているのです。関わりを持たないと天の御国への入国を認めてもらえなくなる、だから関わりを持ちなさい、と促しているのです。この私にはその鍵で扉を開けてもらえるのだろうか、などと心配するには及びません。イエス様を救い主と信じる者が「その鍵で私にも開けて下さい」とお願いすれば、必ず開けてもらえる、そうイエス様は約束されているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン



2017年9月4日月曜日

通常の生活を送る力はどこから来るか? (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2017年9月3日 聖霊降臨後第13主日

列王記上19章1-21節
ローマの信徒への手紙11章13-24節
マタイによる福音書14章22-33節

説教題 「通常の生活を送る力はどこから来るか?」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 今年の夏のフィンランドは20度を超える日があまりない冷夏でした。夏を謳歌したい北欧の人たちにとって残念なことだったのは天候だけではありませんでした。それは、フィンランドでもテロ事件が起こったのです。8月17日にスペインのバルセロナなどで15人の犠牲者を出すテロ事件が起きた2日後、私たちが滞在していたトゥルク市の中心にあるマーケット広場で、スペインの時と同じ国出身の若者が刃物で無差別殺傷事件を起こし、2人が命を落とし8人が重軽傷者という犠牲者を出しました。スペインの事件ではISが犯行の関与の声明を出したということですが、フィンランドの方は捜査が進むにつれて、犯人がISの思想の影響を受けていたことが明らかになってきました。

 フィンランドは2年前欧州を揺るがした移民難民の大量流入の時、3万人近くを受け入れました。人口550万ほどで3万人とは、1億2500万の日本で考えたら70万近く入ったことになります。かつては他の北欧諸国に比べて移民難民の受け入れに消極的だったフィンランドでしたが、時代は変わったと思わせました。もちろん移民難民の受け入れに反対するポピュリスト政党も大きな勢力を持っています。ちょうど夏前に同党の強硬派と穏健派が分裂した後だっただけに、今回の事件が政治的にも影響を与えることが心配されます。

 さて、今回の事件の捜査や裁判の行方がどうなるか、またフィンランドの政治や社会がどのような方向に進むかという話しには立ち入らないことにします。それなら、なぜ説教の冒頭でこの事件を取り上げたのかというと、良識ある市民の対応を報道などを通して追っているうちに、本日の福音書の箇所が大きな意味を持っていることに気づいたからです。本日の箇所の、イエス様が溺れかけたペトロに手を差し出して引き上げて助けた場面です。

 テロ事件の後、世論の中でスローガン的に言われた言葉に次の二つのものが頭に残りました。一つは「憎しみを憎しみで返すな」です。もう一つは「出来る限り通常の生活を続けよう」というものです。この二つは真理だと思います。というのは、テロリズムの目指すところにあるものは、相手に憎しみを掻き立てて同じ土俵に引き込もうとすることであり、また相手が憎しみや恐怖に満たされて通常の生活が出来なくするようにすることだからです。それで、「憎しみを憎しみで返さない」、「出来る限り通常の生活を続ける」ことほど、テロリストを悔しがらせることはないのです。

とは言っても、「憎しみを憎しみで返すな」とか「悪に悪で報いるな、善で報いよ」というのは、なかなかできることではありません。こうしたことは、イエス様の教えにも、またそれを受け継ぐパウロの教えにもはっきり言われているのですが、キリスト教徒でも実践するのは困難です。それでも、キリスト信仰には、そういう教えに絶えず心と目を向けさせる力が働いているので、信仰者に大きな葛藤をもたらします。私は以前の説教でこの難しいテーマについて触れたことがありますが、そこで申し上げたことは、キリスト信仰の中の二つの要素が人間の心と目をそういう方向に向けさせる力を生み出している、二つの要素とは、一つはイエス様を救い主と信じる信仰であり、もう一つはそれと密接に結びついていて、最後の審判と死者の復活の信仰がそれです。このテーマは、この世が存在する限りは無くなることのないテーマですので、これからも繰り返し説教の中で取り上げられるでしょう。それで、本日の説教では、本日の福音書の箇所に関係する、もう一つのテーマに絞ってみます。それは、「出来る限り通常の生活を続ける」ということです。

今回のフィンランドのテロ事件は、犠牲者の遺族や関係者だけでなく、全国民的なショックを与えました。受けたショックに対しては、「一人でとじこもったり、一人で考え込んではいけない、思いを言葉にして他の人に聞いてもらいなさい、思いを語られたら聞いてあげなさい」ということをよく耳にしました。事件のあったマーケット広場の一角は沢山の蝋燭と花束が置かれ、連日多くの人が取りまいていました。その中に赤十字の職員やボランティアが何人も出ていて、思いを打ち明けたい人たちの話を聞いている場面を目にしました。また、事件が起きたのが金曜日だったので、週明けの月曜日は市内の学校では最初の授業時間に先生が事件について明らかになっていることを話し、生徒の思いを聞くことをしました。これは、ネットなどで根も葉もない情報が飛び交って、恐怖や憎しみを煽り、子供たちが惑わされないようにするために重要な指導でした。事件当日は本当にデマ情報も流れたのです。月曜日のテレビ・ニュースのインタビューで中学生の生徒が「話し合いをして良かった。これからどうなるか心配したが、話し合いの後クラスのみんなは授業に集中できたと思う。クラスの雰囲気は前と同じに戻ったと思う」と話していたのが印象的でした。

2.

テロ事件に限らず、大惨事とか悲劇的なことが起きると、悲しみや恐怖が人々に拡がります。その時、通常の生活がもろく崩れやすいものに感じられ、確かなものを失ったという喪失感に襲われます。テロ事件のようなことが起こると、これからは危険と隣り合わせに生きなければならないということを否が応でも意識します。そうなると「出来る限り通常の生活を続ける」というのは、自然に出来ることではなくなって、本当に意識して努力してしなければならないものになってしまいます。一人で籠っていろんな感情の虜にならないようにするために、話をする、聞いてあげる、というのは基本的なことです。それでも、危険と隣り合わせということを意識して、出来る限り通常の生活を続けるというのは、何か足かせをして前に頑張って前に進まなければならないような重々しさがあります。大人や親は、子供がのびのびと自然に通常の生活を送れるように守る責務があると思います。しかし、子供も大人になれば、通常の生活というものは空気のようにあるのではなくて、意識して送るもの、場合によっては努力して送らなければならないということを学ぶ必要があると思います。それは子供を守るためでもあり、自分自身のためだからです。人間は誰でもいつかは死を迎えるのだから、テロ事件があるかどうかにかかわらず、これは学ばなければならないことだと思います。もちろん、悲しみを生み出す出来事が大きすぎて、意識して努力するなどと言っても、通常の生活を続けるということが非常に困難になる場合もあります。意識するにも、努力するにも、力の源が必要です。どこにそんな力があるでしょうか?

少し脇道に入りますが、ドイツの有名な作家トーマス・マンの小説に「魔の山」というものがあります。主人公の青年が雪山で遭難しそうになって、吹雪の中で睡魔に襲われて夢を見ます。平和に満ちた海辺の町があって、そこには礼儀正しく思いやりに満ちて互いに敬意を表し合う、とても高潔な人たちが住んでいる。そこの若者たちもとても健康的で、見ていて思わず憧れてしまう。ところが、町の背後の山には不気味な神殿があって、そこでは血に飢えた鬼のような者たちが幼児を八つ裂きにしている。海辺の人たちは、実はそういう残酷で悲惨な世界が紙一重にあることを知っていて高潔に生きている。そう気づいた主人公の青年は、彼らはそういう世界があるのを知って、どう生きていこうかと考えて、結論として高潔に生きることを選んだのだと推論する。自分も彼らのように善良になりたい、と思った青年は、そのためには思考を死に服従させてはいけないのだ、と気づき、そこで目が覚める、そういう場面です。

それでは、危険や死と隣り合わせでも、それらに押し潰されない力はどこから来るのか?思考を死に服従させないのが鍵ならば、その具体的な手引きは何で、それを行える力はどこから来るのか?マンの小説に答えはないのではないかというのが、2回読んだだけの私の見解です。もしそうだとしたら、マンの意図というのは、世界にはいろんな宗教や信条があるのだから、答えはそれぞれが自分で見つけなさい、という、読む人に問題点がどこにあるのかを明らかにして示すことにあったのでは、というのが現在の私の解釈です。それが的を得ているか得ていないかという議論はしませんが、危険や死と隣り合わせでも、それらに押し潰されない力、出来る限り通常の生活を送る力はどこから来るかという問いに対しては、キリスト信仰者は聖書から答えを見出します。本日の福音書の箇所も答えを与えています。

3.

焦点となる場面をよく見てみましょう。イエス様は、5千人以上の人たちの空腹を満たす奇跡を行った後、弟子たちに舟に乗ってガリラヤ湖の対岸に先に行っていなさい、と命じます。弟子たちは出発し、イエス様は群衆を解散させると、山に登って一人で祈りを捧げます。時刻はすっかり夜でした。強風がガリラヤ湖一帯に吹き始めます。弟子たちが乗った舟は、向かい風とそれがもたらす波に進行を妨げられて悪戦苦闘します。新共同訳によると舟は陸から「何スタディオン」離れていたとありますが、ギリシャ語原文では「何」どころか「たくさんの(πολλους)」スタディオンです。2,3スタディオン程度ではありません。1スタディオンは約192メートルということなので、仮に10スタディオンとすれば、大体2キロ程離れていたことになります。その時、山を下りたイエス様が、湖の上を歩いて舟に接近します。弟子たちは「幽霊だ」と言って「おびえた」とありますが、おびえたと言うよりは、ギリシャ語では「驚愕した」という位の強い意味の動詞(εταραχθησαν)で、恐怖のあまり叫び出すくらいのパニック状態に陥りました。

さて、水の上を歩いて来た者が幽霊ではなくイエス様とわかって、皆がホッとした時、ペトロがイエス様にあえて命じさせて水の上に乗り出します。新共同訳では「イエスの方に進んだ」(29節)と訳されていますが、これもギリシャ語原文を忠実に見ると、イエス様のところにほぼ到達した表現です(ηλθεν προς τον Ιησουν)。実際、ペトロが溺れ出した時にイエス様は手を差し出して引き上げたのだから、それくらい近くまで行っていたのです。それでは、ペトロが水の上を歩いた距離がどれくらいだったか推測できるでしょうか?水の上に立っているイエス様と舟の間の距離はどれくらいだったかということから考えると、夜明けの薄暗さと強風と波がある中でイエス様の声が聞き分けられたということなので、50メートルというのはどうでしょうか?長すぎますか?それなら30メートルはどうでしょう?30メートルでも、ペトロはそれをほぼ完歩したのです。しかも強風と波の中を、です。さて、溺れかけたペトロをイエス様は手で支えるようにしてか、または両腕で抱きかかえるようにしてかは、ギリシャ語の表現でははっきりしませんが、いずれにしても二人が舟に乗り込むと、風は止み、平穏な湖が戻ります。以上が本日の福音書の箇所の出来事の流れです。

4.

ペトロの一件をよく見ると、3つの段階があることに気づきます。初めにペトロは、イエス様が水の上を歩ける方だとわかり、そのイエス様がひと言命じて、それに聞き従えば、自分も歩けると信じて、実際そうなりました。イエス様が水の上を歩いたというのは、重力に関する自然法則を超えていたからです。天地創造の神が造られた天と地の中で効力を持つ自然法則、これをイエス様が超えたというのは、ヨハネ福音書1章や「コロサイ人への手紙」1章に言われるように、イエス様が神のひとり子として、乙女マリアから生まれる前は永遠の存在として天地創造の場面にも居合わせて創造の役割を担っていたのです。まさに父なるみ神と同様の万物の創造者なので、造られたもの、自然法則をも含む被造物を超えているのです。水の上を歩くというのは、まさに神の子としての一面を現わしたということです。ペトロは、この方の言葉を信じて従えば、同じことが出来ると信じました。そして、まさにそうなりました。しかし、それが出来たのはペトロの力ではありません。それは、完全にイエス様の力によるもの、「来なさい」という言葉に秘められたイエス様の力によるものでした。その言葉をそのまま受け入れたので、言葉に秘められた力がそのまま働いたのです。これが第一の段階です。

次の段階は、場面の描写をよく注意してみる必要があります。新共同訳ですと、ペトロはイエス様に向かっている最中に風に気づいて、それで怖くなって溺れ出した、という訳です。つまり、最初は風に気づいていなかったが、歩いている最中に突然気づいてしまったという表現です。ところが、ギリシャ語原文をよく見ると、そうではなく、「風に気づいた」の「気づいた」は「見る」(βλεπω)という動詞で、その用法は、水の上を歩き出してからイエス様の所に到達するまで、そして怖くなって溺れ出すまで、ずっと一貫して「見ている」(現在分詞、あとの動詞は全部アオリスト)という意味です。ペトロは途中で気づいたのではなく、ずっと風も波もイエス様と同じくらい眼中にあったのです。それで危険な状態があるということは頭のどこかにあるはずなのですが、イエス様の力を信じることが恐怖を上回っていて、「来なさい」というイエス様の言葉が耳に大きく響き、風の音は気にならない雑音にしかすぎなかったのです。ところが時間が経つうちに、雑音が大きく響きだし、イエス様よりも波風の方が強く目に入いるようになって、信じることと恐怖が逆転してしまいました。この、恐怖と信じることの力関係が逆転したことが第二段階です。

この逆転が起きると、自然法則を超えるイエス様の力が働かなくなってしまい、ペトロはその法則の中に吸収されてしまいました。そうなると今度は、被造物である人間の能力や努力で水の上に立たなければなりません。しかし、自然法則の圏内に置かれれば、どんなに踏ん張っても力を込めても、沈むものは沈んでしまいます。

溺れ出したペトロはイエス様に「助けて下さい」と叫びます。イエス様は手を差し出してペトロを引き上げます。これが第三段階です。ここで、「助けて下さい」というのは、ギリシャ語の原文では「救う」という意味の動詞(σωζω)、キリスト信仰で言う、罪の支配からの「救い」、神の罰からの「救い」、死を超えた永遠の命に与る「救い」というような、個々の困難からの脱出を超えた広い意味を持つ言葉です。溺れることから「助かる」という直近のことだけでなく、人間の「救い」に関係する言葉です。

このことからこの出来事を捉えなおすと次のようになります。ペトロが溺れ出したというのは、人間が自分の力で神聖な神のもとに自分を引き上げようとするとどうなるか、ということを象徴しています。人間は自分に内在する罪をそのままにしては父なるみ神のもとに引き上げてもらうことはできません。なぜなら、神は罪の汚れとは全く対極にある神聖な方だからです。ペトロが溺れ出したというのは、人間は自分の力で罪の汚れを拭い去ることができないことを如実に象徴しているのです。

そこでペトロがイエス様に叫んですぐ手を出してもらって引き上げてもらったというのは、まさにイエス様が人間に代わって罪の問題を解決して下さったということ、そのイエス様に全身全霊に委ねることでイエス様がしてくれた解決を自分の解決のように頂けて、それで神の御許に引き上げてもらえることを象徴しています。イエス様が人間に代わって罪の問題を解決してくれたというのは、十字架の出来事として歴史上の出来事としてあります。神話とか作り話ではありません。そこで、十字架の出来事とは何かと言うと、神のひとり子が人間に代わって人間の受けるべき神罰を全部引き受けて下さった、まさに神聖な生け贄になった、ということです。それで話は終わりません。イエス様は一度死なれたが、三日後に父なるみ神の力で復活し、そのようにして死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことが全部自分のために行われたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様に全身全霊で「私を助けて下さい、救って下さい」と叫べるようになり、ペトロのように引き上げてもらえるようになったのです。

たいていの人は、イエス様に手を差し出してもらって引き上げてもらえると聞くと、人生のいろんな困難や危機において「助けて」もらえることを考えるかもしれません。もちろん、それもあります。しかしながら、人間の命にとって一番重要で決定的なことは、この世を去る時に自分の造り主のもとに引き上げてもらえるかどうかということです。このような命の決定的な場面でも「救って」下さる神のひとり子を救い主として信じる信仰、この信仰があれば、人生の中で嵐が吹き荒れ大波が荒れる時でも、いつもイエス様は手の届くところにおられるのだと安心することができます。イエス様は「助けて下さい、救って下さい」という叫びに必ず応じて手を差し出して引き上げて下さいます。それは、この世の人生の中の個々のいろんな困難や危機の時もそうだし、一番重要で決定的な、この世を去る時にも手を差し出して引き上げて下さいます。これが確実なことだ、と信じられるのは、何といっても、イエス様の十字架と復活の出来事があるためですが、その出来事が起きる前にも、ペトロを水の中から引き上げたことで、そうして下さる方であることを具体的に示していました。この世を去る時にそうして下さるのなら、この世の人生の中でも個々のいろんなことでも引き上げて下さると信じられるのです。このことが、死や危険と隣り合わせにいる緊張感があっても、重々しくならず、出来るだけ普通の生活を続けることを意識し、努力する力を生み出すのです。まさに聖書を通してその力が与えられるのです。

5.

終わりに、フィンランドのテロ事件から1週間後、国教会のトゥルク市とその近郊の有志の呼びかけで、事件の場所に集まって讃美歌を一緒に歌うということがあったので、それについて触れておきましょう。トゥルク市交響楽団の団員が伴奏を担当し、集まった人たちが歌ったのはフィンランドの教会讃美歌600番「善の力の驚くべき守りに」でした。それは、悪の力に襲われた時、父なるみ神に身を寄せることの大切さを歌う内容です。曲はフィンランドの作曲家によるものですが、作詞は誰のものかというと、これがかの有名なドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーによるものなのです。あの、ナチス・ドイツの時代に反体制の態度を示して強制収容所に送られて処刑された悲劇の神学者です。その彼が処刑される前年に書いたテキストがフィンランド語に訳されて讃美歌になりました。ドイツ語の原文が手に入らなかったので、ここではフィンランド語訳を紹介します。神から差し出される手にしっかり掴まることが言われています。危機や悲惨なことが起きて心がかき乱されて、これからどうなるかと不安に陥る時、父なるみ神とみ子イエス・キリストへの信頼を今一度思い起こさせ心を落ち着かせ、通常の生活を送れる力を与えてくれる讃美歌だと思います。

「善の力の驚くべき守りに」フィンランド教会讃美歌600番

1.善の力の驚くべき守りに
我らは皆静かに包まれている。
忠実な創造主に信頼して
今ともに新しい時に進み行かん
2.苦難の道、我らの前に立ちはだかるなら、
  キリストはその時も我らを運び往かん。
  我ら命を父なるみ神のみ手に委ね、
  神自ら我らに平安を備えたまう。
3.主よ、希望の蝋燭に輝きを与えたまえ。
ともし火に安らかな、温かな光を与えたまえ。
闇に光を投じ、恐れを取り除きたまえ。
キリストよ、我らの間に留まりて平和を来たらせたまえ!
4.悪の支配が周囲で勢いを増すとき、
  御国の声を轟かせたまえ。
  御国の民が新しい賛美の調べで今もう歌っているのを
  我らが聞き入ることができるようにしたまえ。
5.善の力の忠実な源である方
  何が起ころうとも我らを覆い包んで下さる。
  夕べから朝まで闇の時もずっと共にいて下さる創造主
  彼から我らは新しい日を受け取る。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン