2017年6月20日火曜日

キリスト信仰者と心配事 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年6月18日 聖霊降臨後第二主日

スオミ・キリスト教会

イザヤ書49章13-18節
コリントの信徒への第一の手紙4章1-13節
マタイによる福音書6章24-34節

説教題 「キリスト信仰者と心配事」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所のイエス様の教えはよく知られているところの一つです。特に、思い悩んではいけない、と教えるところでは、天の父なるみ神が空の鳥と野の花をいかに養い飾って下さっているかを見なさい、と言います。空の鳥は種を蒔かず、刈り入れもせず、刈り入れたものを倉に納めることもしない。それなのに神はちゃんと養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。また、野の草花もあくせく働かず、糸紡ぎもしない。枯れてしまえば炉に投げ込まれて燃やされてしまうだけなのに、それを神はこんなにきれいに装って下さる。あなたがたにはなおさらのことではないか。このイエス様の言葉を聞いてどれだけ多くの人が感動して思い悩むことから解放されたでしょうか?本日の箇所の終りにある言葉も有名です。「だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」この言葉を聞いて、どれだけ多くの人が勇気づけられたでしょうか?

 こういう励ましや力づけの言葉は、もちろんイエス様は沢山語りました。しかし、イエス様以外にも励ましや力づけの言葉を話したり書いたりした人は歴史上、古今東西大勢います。そこで、そういう言葉を沢山知っていれば、悩みから解放され、絶望に陥ることもないかもしれません。キリスト教会の礼拝の説教は、聞く人に励ましや勇気づけを与えることが期待されています。それでか説教者によっては、イエス様の言葉や聖書以外のものを並べて、あの哲学者はこう言った、あの宗教の創始者や実践者はこう言った、とちりばめて、最後に、結局人間の知恵というものは言い方や立場は違っていても深い所では皆共通しているのだ、というような持っていき方をする人もいます。本説教では、話をそういうふうに拡げないで、あくまでイエス様を中心に話を進めて行こうと思います。どうしてかと言うと、「思い悩むな」というイエス様の教えの中には、キリスト信仰に特殊なものがあるからで、それを明らかにしないで、人類皆共通というのはちょっと早急すぎると思います。共通のものがあるかどうかは、その特殊なものを明らかにしてから考えても遅くはないでしょう。

 それでは、そのキリスト信仰に特殊なものとは何かと言うと、イエス様が思い悩むなと教える根拠に、「神の国と神の義を求めよ」という教えが関係していることがあります。ここでのイエス様の教えは一見すると、鳥や花は思い悩むことなく食べていけて着飾っていられる、だから鳥や花より優れた人間はなおさらそうなので思い悩む必要はないという、自分を鳥の立場に置き換えることで思い悩みの観点を無効にする、そういうレトリックの技法があるように見えます。ところが、イエス様の教えをよく注意して読むと、神が鳥を養い花を着飾って下さる、それと同じように神は人間も養って下さる、と言っていて、要するに面倒を見て下さる神が土台にあります。思い悩みをしないですませられるのは、自分を鳥に置き換えるだけでは全く不十分で、神が養って下さるということを信じられないと出来ないのです。神が鳥を養い花を飾って下さるのと同じように自分をも養って下さると信じられれば、思い悩まないですむことになるのです。でも、何をもって神がそこまで面倒見のよい方であると信じられる根拠になるでしょうか?

 さらにイエス様は、何よりもまず、神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはみな加えて与えられる、と教えられます。つまり、私たちが神の国と神の義なるものを求めることがあって、それで神が養って下さるということがある。神が養って下さると信じられるのは、自分たちの方で神の国と神の義を求めることがあって、それで信じられるということです。神が養って下さると信じることができるためには、神の国と神の義を求めなければならない。さあ、大変なことになりました。神の国、神の義とは何なのでしょうか?それを求めるとはどういうことなのでしょうか?それらがわからないと、神が養って下さるということもわからず、心配事から解放されることもないのです。これから、そうしたことを明らかにしていきたく思います。

2.

 まず初めに、本日の福音の箇所の出だしである24節でイエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えられていることを見てみます。「仕える」というのは、ギリシャ語では「奴隷として仕える」という意味の単語です(δουλευειν)。奴隷というのは主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能です。イエス様は、神ないし富に対する人間の関係も同じだと教えるわけです。つまり、どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になるのです。

 もちろん、人間が富の奴隷にではなく、富の主人になることもできます。そのことについて、ルターは次のように教えます。「もし人が財産の主人ならば、財産が人に仕えるのであり、人が財産に仕えることはない。どのようにして財産が人に仕えるかと言うと、こういうことである。君が服の無い人を見つけたとする。すると君はお金にこう命ずる。『親愛なる金貨君、出発しなさい。あそこに服の無い貧しい裸の男がいる。行って彼に仕えなさい。』また次のようにも命ずる。『お前たち価値あるお金よ、あそこに治療を受けられない病人がいる。彼のところに急行し、すぐ助けてあげなさい。』財産をこのように扱える者が、財産の主人なのである。」

 そういうわけで、もし財産が人を束縛して虜にしてしまい、ルターの教えるように財産を扱えない人はもうその奴隷であり、もはや神に従属していないことになります。イエス様の意図ははっきりしています。神と富の双方に仕えることはできない、どっちか一方にしか仕えることができない以上は、あなたたちは神に仕えなさい、神に仕えることで富の主人になりなさい、と教えているのです。それを受けて、25節の「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか云々と思い悩むな」と続いて行きます。つまり、ここの流れは「お前たちは富にではなく神に仕えなさい。だから、神に仕える者である以上は、お前たちは何を食べようか云々と思い悩んではならない」というふうになります。食べ物や着る物など生活の必要物は、もちろん、なくてはならないものです。しかし、それが心や頭を支配してはいけない、と言うのです。天の父なるみ神こそはお前たちの造り主であり、お前たちが何を必要としているかご存知で、お前たちの生活の必要物を準備して下さる方である。なのに、自分の造り主を忘れる位に心と頭を必要物のことで一杯にしてしまっている。そうであってはならない。また必要物のことを心配しすぎるあまり、神がそれを準備してくれることを忘れたり、疑ったりしてはならない、神を信頼しなければならない、というのがイエス様の教えの主旨です。

 ここのイエス様の教えで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この有名な「空の鳥」「野の花」のたとえは誤解されることがあって、「空の鳥が種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもせず、それでいて神は養って下さる」と聞くと、人によっては、「ああ、働かなくても神様は養ってくれるのか」と理解する向きがあります。イエス様は、働く必要はないと教えてはいません。イエス様が教えていることは、「種まきもせず、刈り入れもせず、倉にも納めることもしない鳥たちを神は十分に養って下さるのだから、お前たちのように種まきをし、刈り入れをし、倉に納めている者たちは、もっと養って下さるのだ。だから、なおさら心配の必要はないのだ」ということです。同じように、「働きもせず、紡ぎもしない野の花を神はきれいに装って下さるのだから、働いて、紡いでいるお前たちは、もっと素晴らしく装って下さるのだ。だから思い悩む必要は何もないのだ」ということです。つまり、働くことが前提されているのです。もちろん、働きたくても働けない人もいます。その場合は、仕事を探すことが働きになります。また病気が原因で仕事に就けない人は治療や闘病が働きになります。引退した人は、現役の人たちや子供たちを見守ったり励ましたり、祈ったりすることが働きになります。このように人には、置かれた立場に応じて、いろいろな働きがあります。

 もう一つ注釈したいことは、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(25節)というところです。ギリシャ語の原文の単語の意味が広いので難しいのですが、直訳すると「命は食べ物以上のものであり、体は衣服以上のものである」で、フィンランド語やスウェーデン語の聖書ではそうなっています。英語、ドイツ語の聖書は日本語と同じで「よりも大切」となっています。いずれにしても、生活の必要物に対する心配が心と魂を支配、コントロールしてはならないということを教えています。余談ですが、今の日本で長時間労働が原因で命を落とす悲劇があるというのは、働くことと神の養いの調和がなくなっている状態です。必要物を得る手段であったはずの仕事が命よりも大切になってしまうのは本末転倒です。

 それでは、富に対しては主人として、神に対しては従属する者として生きる者は、あとは働きさえすれば、必要物は満たされてくるかというと、ここでイエス様はひとつ大事な事柄を付け加えます。神に仕える者には追い求めているものがある。それは生活の必要物ではないが、それを追い求めているからこそ、必要物があとから付いてくるものである。それでは、神に仕える者が追い求めるものは何かというと、それが「神の国と神の義」なのです。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「加えて与えられる」というのは、ギリシャ語の動詞に忠実に訳せば「付け足される」とか「付け加えられる」です。「求めなさい」というのは、ギリシャ語のニュアンスでは「求めることを常としなさい」、「求めることを常態としなさい」です(動詞が現在形のため)。つまり、ここは「富ではなく神に仕える者であるお前たちは、働きつつも、いつも神の国と神の義を求めていなさい。そうすれば、生活の必要物は神の国と神の義の付け足しのようについてくる。だから、必要物のことを心配する必要はない。神に仕える者とは、それくらいに神を信頼する者である。この間、お前たちの心と頭を支配するものは、神の国と神の義でなければならない。」これがイエス様の教えの主旨です。それでは、神に仕える者が心と頭を一杯にし、追い求めなければならない「神の国と神の義」とは何かを見てみましょう。

3.

 イエス様が活動を開始する直前、洗礼者ヨハネが現れて、「神の国が近づいた」と宣べ伝えました。そして実際に神の国は、イエス様と一体となって到来しました。神の国がイエス様と一体となってきたというのは、彼の行った無数の奇跡の業に明らかに示されています。イエス様は、難病や不治の病の人たちを完治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、嵐のような自然の猛威を静めたり、悪霊を追い出したりしました。そうした業を通して神の国が彼と一緒にあるということを示されました。神の国とは、要約すると、あらゆる邪悪なもの危険なものの力が及ばない国、神の意思と力で満たされた、奇跡が奇跡でなく普通になっている空間ないし領域です。今は天の父なるみ神のところにありますが、将来この世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時に、「ヘブライ人への手紙」に記されているように、全ての被造物が崩れ去って、唯一崩れ去らないものとして現れてくるものが神の国です。黙示録によれば、そこに迎え入れられる者は神から目の涙を全て拭ってもらい、死も悲しみも嘆きも労苦もない国です(21章4節)。 

2000年前に神の国がイエス様と共に到来したというのは、彼の奇跡の業を通して人々に前もって神の国を少し身近に体験させる意味がありました。しかしながら、体験させてくれたとは言っても、人間はまだ神の国と繋がっていませんでした。難病や不治の病を治してもらったり、悪霊を追い出してもらったり、自然の猛威から助けられても、助けられた人たちはまだ神の国の外側に留まっていました。なぜなら、神の国に入れるためには、人間が神の目から見てふさわしい者になっていなければならないからです。神の意思を100%実現できる者でなければならないからです。つまり、そういう神の義を持っていなければならないのです。しかし、そんなことは罪の汚れに満ち、神聖な神から切り離された人間には不可能です。

神は、この憐れな人間が神の国に迎え入れられるようにして下さいました。どのようにしてかというと、ひとり子イエス様をこの世に送って、本来なら罪の汚れに満ちた人間が受けるべき罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせました。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。私たち人間は、これらのこと全てが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神から罪の赦しの救いを受け取ることができるようになりました。こうして人間は、イエス様を救い主と信じる信仰によって罪の赦しの中で生きられるようになり、神の国に迎え入れられる資格を得られるのです。神は、私たちに残っている罪の汚れには目を留めず、私たちが洗礼の時に被せられたイエス様の清さを見られるのです。このようにまさにイエス様のおかげで、私たちは神の目に適う者とされて、神の義を持つことができるようになりました。

ここから「神の国と神の義を求める」、それも「常に求める」というのはどういうことかがはっきりします。それは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって罪の赦しを得て、神の目に適う者にされることです。その後はこの罪の赦しの中にしっかり留って神の国の資格を失わないようにすることです。そうすることが神の国と神の義を常に求めることです。万が一神の意思に反するようなことを考えたり行ったりしてしまった場合には、すぐ心の目をゴルゴタの十字架に向け、そこに罪の赦しが変わることなく打ち立てられていることを確認します。自分の命が神のひとり子の犠牲の上に成り立っているとわかればわかるほど、軽々しいことはどんどん出来なくなります。このようにして、神の与えて下さった罪の赦しから外れないようにしよう、その中にしっかり留まろうとする者は、神の国と神の義を常に求めているのです。

イエス様の純白な衣を離さないようにしっかり纏い、罪の赦しの中に留まるということは、神の一番望まれていることです。神の一番望まれていることですので、神の方からそれを止めさせるようなことは絶対にありません。何か困難や誘惑が起こって、イエス様の衣を手放しそうになったり、罪の赦しの外に出て行ってしまいそうになったら、そうならないようにと神は助けて下さいます。神が助けて下さる方であることは、神が三位一体の方であることを思い出すだけでもわかります。先週の主日は三位一体主日だったので、その時の説教でお教えしました。それを繰り返しますと、神には三つの人格とそれに応じた役割がある。まず、私たちが永遠の命を持てるようにと願って私たちを造られたという、造り主としての人格がある。そして、永遠の命を持てなくなるようにしようとする悪い力から私たちを買い戻して下さったという、贖い主としての人格がある。さらに、私たちがこの贖われた状態にしっかり留まれるようにといつも清めて下さるという、神聖化の人格がある。これら三つの人格は別々のようなものでも全部繋がっていて、一つでも欠けたら全体が成り立たなくなるもので、この全体こそは大いなる愛そのものとしか言いようがないものである。そういったことをお話ししました。

このような大いなる愛の神が私たちの側についていて下さるので、私たちはイエス様の衣をしっかり纏い続け、罪の赦しの中に留まることができます。そのような神がたえず傍にいて下されば、自分を押し潰そうとするかのような心配事や思い悩みはしぼんで影が薄くなります。イエス様が「思い悩むな」と言うのは、自分の力で無理して頑張って心配事を忘れろ、ということではありません。忘れようと頑張っても心配事は消えません。まず、神の愛と恵みを受け取りなさい、そして受け取った愛と恵みがどれほどのものかがわかれば、そっちの方が重みをもって、心配事の方は軽くなって自分を圧倒する力を失うのだ、ということです。心配事が力を失って軽くなったら、解決の大きな第一歩を踏み出したことになります。ほとんど解決したのも同然と言っていいのかもしれません。なんだか信じられない話ですが、それが聖書の神なのです。逆に、罪の赦しの救いを受け取っていない人は、自分を圧倒するような心配事にどう対処できるのでしょうか?圧倒しようとする力はそのままで、その力と格闘することから始めなければなりません。それだからこそ、多くの人が、イエス・キリストの罪の赦しの救いの福音を聞いて、その救いを受け取ることができるようにと願ってやみません。

4.

ルターは、キリスト信仰者は心配事にどう向き合ったらよいのかについていろいろ教えています。本説教の終りにその一つを紹介したく思います。それは第一ペトロ5章7節の聖句「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」についてのルターの解き明しです。この聖句は日本語では今言った通りの訳なのですが、フィンランド語訳の聖書では、「心配事は全て神に投げつけなさい。なぜなら神があなたがたの面倒を見てくれるからです」になります。そちらの方がギリシャ語の原文のニュアンスがよく出ていると思うので、そちらに基づいてルターの教えを紹介したく思います。

「課題を自分の重荷にするな。なぜなら、君たちはそれを運びきれないからだ。そうしようとするならば、最後には重荷に押し潰されてしまうだろう。そうではなくて、それをかなぐり捨てて、喜んで安心してそれを神の御手に放り投げなさい。その時、次のように言いなさい。『天の父なるみ神よ。あなたは紛れもなく私の主であり神です。あなたは、私がまだ存在しなかった時に私を造って下さり、それだけでなく、御子イエス様を通して私を罪の支配から贖いだして下さいました。そのあなたが私にこの課題を成し遂げるようにとお与えになりました。しかし、それは自分が望んでいたようには成功しませんでした。多くの事柄が私に押しかかり、心配事を生み出しています。どこからも助言や助けを得らなくなってしまいました。それで、全てのことをあなたの御手にお委ねします。あなたが助言と助けを与えて下さい。この課題の中の隅々にあなたがいて、あなたの意志が働かなければ何も動かないようにして下さい。』
 このように言うことは、まことに神の意思に適うものである。神が我々に求めているのは、我々は義務さえ果たせばそれでいいということである。どんな結果が出るかについての心配は神がしてくれることなのである。
 こういうわけで、キリスト信仰者の理解力と巧みさというのは、そうでない者たちのよりも優れたものになる。それは、キリスト信仰者はどのようにして心配事から距離を置くかを知っているからである。他の者たちは、心配事の虜となって、自分を不幸な状態にとどめて、自分を痛めつけるだけである。最後には希望のない状態に陥ってしまう。これとは反対に(イエス様を救い主と信じる)信仰はこの御言葉『神はあなたたちの面倒を見て下さる』を捉えて離さい。離さないばかりか、とことん信頼するのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。


2017年6月14日水曜日

三位一体の予感 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年6月11日(三位一体主日)スオミ教会

イザヤ書6章1-8節
コリントの信徒への第二の手紙13章11-13節
マタイによる福音書28章16-20節


説教題 三位一体の予感


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は「イエス様の宣教命令」と呼ばれるところです。ここにはキリスト信仰者にとって大事なことが二つあります。一つは前半の「~しなさい」というイエス様の命令です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」このイエス様の命令がもとで、キリスト信仰者が世界各地に出向いて福音を宣べ伝えて教会を建てる原動力となりました。フィンランドは人口550万程度の小さな国ですが、国教会系のミッション団体と非国教会系のものをあわせて600人近い宣教師を世界各地に派遣しています。近年では福音伝道ということよりも発展途上国に人道支援をするミッションも増えましたが、それでも重点は福音伝道、新たな教会の設立、既にある教会に対する支援ということに置かれていると思います。最近ではインターネットを使って母国にいながらいろんな国の言語を駆使して福音を発信する伝道も行われています。宣教師たちに、どうしてその仕事をするのか、と聞くと、おそらく100%の人がこのマタイ28章のイエス様の宣教命令をあげるでしょう。

本日の福音書の箇所のもう一つの大事なことは、終わりの部分の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様の約束です。「いつも」というのは、ギリシャ語の原文では「全ての日々」で、つまりイエス様が毎日共にいてくださるということです。キリスト信仰者に、聖句の中でどの言葉から励ましを受けますか、と聞くと、おそらくこの言葉は筆頭に挙がるものの一つではないかと思います。イエス様とは、私たち人間が天地創造の神から罰を受けないで滅びてしまわないようにと、私たちの罪を全部背負って十字架の上まで運び上げて、そこで私たちにかわって罰を受けて死なれた方です。そして一度死なれて葬られたにもかかわらず、神の計り知れない力で復活させられて死を超えた永遠の命の扉を私たちのために開いて下さった方です。そのイエス様が世の終わりまで毎日私たちと共にいて下さる、とおっしゃられるのです。果たして私たちには、これ以上に勇気づけられる言葉はあるでしょうか?

 ここで一つ疑問が起きるかもしれません。あれ、イエス様って、確か復活された後、40日間地上にいて弟子たちに御自分を現して、その後で天の父なるみ神のもとに上げられたんではなかったっけ?そして、世の終わりの再臨される日までは父なるみ神の右に座しているんではなかったっけ?そうならば、どうやって毎日私たちと共にいることができるのだろうか?天と地上の間をひっきりなしに行ったり来たりするのだろうか?

実を言うと、キリスト信仰者はあまりそういう疑問を抱かないのではないかと思います。天の父なるみ神の右に座すイエス様と毎日私たちと共にいらっしゃるイエス様ということに矛盾を感じていないと思います。どうして矛盾を感じないですむかと言うと、それは聖霊というものがあるからです。イエス様は聖霊について次のように述べています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14章16節)。「(しかし)弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(26節)。この、父なるみ神のもとから遣わされる聖霊がイエス様を救い主と信じる者たちと永遠に一緒にいる、そしてイエス様が教えたことを信仰者たちに思い起こさせてくれる、そういうわけで、一緒にいるのは聖霊なのですが、それはもう、イエス様が一緒にいるのと同じと言ってもいいくらいなのです。

イエス様は次のようにも述べています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである」(ヨハネ15章26節)。聖霊がイエス様について証をするというのは、聖霊が信仰者に対してイエス様が救い主であることをいつもはっきりさせるということです。信仰者が苦難や困難に陥った時、イエス様は天の高い所で傍観しているのではなく本当に助けて導き出してくれる方だと思い出させてくれるということです。それでイエス様は近くにおられることになります。イエス様が父なるみ神のもとから聖霊を遣わされて、その聖霊が私たちと共にいるということが、実はイエス様が共にいるということになっているのです。

そうは言っても、それは、聖霊を介してイエス様が私たちと共にいて下さる、ということだから、やはり共にいるのは聖霊なのではないだろうか?マタイ28章の宣教命令も、イエス様ではなくて聖霊が共にいる、と言った方が正確ではないだろうか?と言われてしまうかもしれません。

2.

それでも、キリスト信仰者にしてみれば、共にいるのがイエス様であろうが、聖霊であろうが、それは同じことなのだ、ということになるのではないかと思います。どうしてそうなるかと言うと、キリスト信仰者は神を三位一体の神として崇拝しているからです。三位一体とは、一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているということです。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格の三つです。これらが同時に一つになっているのが私たちの神です。とてもわかりにくいことです。理解しようとすると頭がパンクしてしまいます。

しかしながら、神とはそもそも、イザヤ書45章15節にあるように人間の目や考えから隔てられた「隠された」存在ですので、人間の理性や理解力で把握できたり説明できる筋合いのものではないのです。三位一体も同じで、理に適う説明をつくることは不可能です。聖書にそのように言われたら、そのように受け入れるしかありません。それは誇り高い人間にとって耐えがたいことかもしれません。しかし、信仰とはそもそも、人間には自分の能力の及ばない領域があるのだと観念させてしまうものです。そこから先は全知全能の神に任せよう、神が全部を知っているなら自分は知らなくてもいい、神が自分のかわりに知っていて下さればそれで十分、と神に任せてしまうものです。でも、そのように神に任せられるのは、神が信頼に値する方だとわからないとできません。どうして神がそこまで信頼できる方とわかるのか?それは、神が三位一体だからということが鍵になります。三つの人格とそれに応じた役割があってなお且つ一人の神でいられるというのは理解不可能なことですが、三つの人格と役割は何なのかということから見ていくと、神が信頼に値する方だとわかり、三位一体は受け入れられ易くなるのではないかと思います。

3.

最初に私たちが思い起こさなければならないことは、神と人間の間には途方もない溝ができてしまっているということです。この溝は、創世記に記されている堕罪の出来事の時にできてしまいました。「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは神に禁じられた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知って行えるようになってしまう。そして死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということが人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれになっています。人によっては、悪い考えは持つが行いに出さない強い人もいるし、また悪いことばかりするが時々良いこともするので憎めないという人もいます。しかし、何を言っても、全ての人間には、神への不従順と罪が脈々と受け継がれているのです。

このように人間を罪の存在とみなすと、神は全く正反対の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という全くかけ離れた二極の存在です。神の神聖さというのは、罪の存在である人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは神を肉眼で見てしまう。その時の反応は次のようなものでした。「私は呪われよ、私は滅びてしまう。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪の存在が神聖を目にした時の反応です。罪の汚れの存在が神聖な神を目の前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。イザヤと言えば、神から預言者として立てられて紀元前700年代の同時代の出来事だけでなく、将来の救世主イエス様のことや、さらなる将来の新しい天地創造のことまでも預言した大預言者です。そのイザヤにしてもこうなのですから、預言者でもない私たちにはなおさらのことです。

自分の罪と自分の属する民の罪を告白したイザヤに対して、神の御使いは燃え盛る炭火をその唇に押し当てます。イザヤは大やけどをして命を落とすことはありませんでした。焼き尽くされたのはイザヤの罪でした。イザヤは罪から清められたのでした。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。その話の内容は、本日の日課の後に続きます(イザヤ書6章9~13節)。

 ところが神は、罪ある私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝をそのままに放置することはしませんでした。溝を超えて私たちに救いの手を差しのばして私たちを罪の支配から解放しようとされたのです。それを、ひとり子イエス様をこの世に送られることで実行されました。最初にも述べましたように、イエス様は私たち人間が神から罰を受けないで済むようにと、私たちの罪を全部背負って十字架の上まで運び上げて、そこで私たちにかわって罰を受けて私たちの罪の償いをして死なれました。それと同時に罪自体もイエス様と抱き合わせに罰を受けて滅ぼされて、人間を永遠の死に至らせる力を失いました。このイエス様の十字架の業によって、人間は罪の支配から解放されるチャンスを与えられたのです。さらに神はイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示されて、その扉を私たちのために開いて下さりました。

私たちがこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、神が差し出す手と私たちの手がしっかり結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを御許に迎え入れて下さいます。このような計画を立てて実行された神は、私たち人間を愛するがゆえにそうされたのです。それ以外に何も理由はありません。神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順を受け継ぐようになってしまったために、今度はひとり子を用いて罪と死の支配力を無力にして、私たちをそこから贖い出して下さいました。こうして私たちは神の与えた罪の赦しの中で生きられるようになりました。ところが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しの中で生きていることを見失ってしまうことが起きてきます。しかし、その時は聖霊から導きや指導を受けられます。

 聖霊の導きや指導は、聖書の御言葉や洗礼や聖餐式を介して現れます。イエス様を救い主と信じる信仰をもって聖書を繙き、御言葉に聞くと、イエス様が教えられたことは意外なことに福音書だけではなくて、旧約聖書からも使徒書からも伝わってきます。イエス様が自分の口で教えられたことは福音書に記録されていますが、彼の教えは聖書全体の中でよりはっきりするのです。まさに聖霊が聖書の御言葉を介して働かれるからです。

 洗礼では、イエス様の神聖さ、神の義つまり神の目に相応しい状態、これらが白い純白の衣のように私たちの上に被せられます。ルターの言葉を借りれば、私たちの弱さがイエス様の強さに飲み込まれる瞬間であり、死が命に飲み込まれる瞬間です。もちろん洗礼を受けても、私たちには罪が残存しています。しかし、私たちが白い衣をしっかり纏って離さない限り、神は私たちのことを白い衣を纏った者として見て下さるのです。そこで悪魔が来て、この者は本当はとんでもない罪びとだ、隠し通そうとしても無駄だ、などと告発しても、洗礼の時に注がれた聖霊が反論してくれます。いや、この人はイエス様を救い主と信じる信仰に生き、白い衣をしっかりまとっている。神の罪の赦しの中で生きている者に対してそうでないなどと偽証ははやめなさい、と証人になってくれて弁護してくれます。まさに聖霊が弁護者と言われる所以です。

 キリスト信仰者が聖餐式でイエス様の血と肉を受ける時にも、洗礼の時と同様に、弱さがイエス様の強さに飲み込まれ、死が命に飲み込まれます。聖餐を繰り返すごとに私たちの内にある、罪に結びつく古い人は日々干からびていきます。反対に聖霊に結びつく新しい人は日々強められていきます。このように聖霊は、御言葉と聖礼典を介して新しい人を強めて私たちを日々清めて、いつの日か私たちが神聖な神の前に立っても大丈夫なようにしてくれます。聖霊の役割は私たちを神聖なものにする、神聖化する、ということは真にその通りです。

 そういうわけで、三位一体の神のそれぞれの人格と役割が明らかになりました。私たちが永遠の命を持てるようにと願って私たちを造られた神、つまり造り主としての人格です。その私たちから永遠の命を捨てさせようとする悪い力から私たちを贖いだして下さった神、つまり贖い主としての人格です。そして私たちが贖われた状態にしっかりとどまれるようにといつも清めて下さる神、つまり神聖化の人格です。それらは別々のようなものでも全部繋がっていて、一つでも欠けたら全体が成り立たなくなるものです。この全体こそは大いなる愛そのものです。まことに「神は愛なり」(第一ヨハネ4章8節)という言葉に全てのことが集約されています。

4.

三位一体のそれぞれの人格と役割については以上述べた通りです。それでは、それらはどこでどう繋がって、どのようにして一つでいられるのか?最初にも申し上げましたように、そうした疑問は人知で解明できたり言葉で説明できるものではありません。それですので、三位一体ということから神は大いなる愛だということが見えてきた、それで十分ではないでしょうか?三つが一つになっているメカニズムを解明しようとするよりも、三位一体から顕わになる神の大いなる愛、その愛を受けた者として、自分はどのように生きていくべきか?そういうことに注意を向ける方が生産的ではないでしょうか?そうだ、私は着せてもらったイエス様の純白な衣を手放さないようにしよう、それをしっかり纏っていこう、そのようにこの世を生きていこう。そういうふうになることを神は望んでおられるのです。

三位一体のメカニズムは私たちが解明しなくても、いずれ私たちに明らかにされる日が来ます。パウロは第一コリント13章の中で次のように述べています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(12節)と述べています。鏡に映るものがおぼろというのは、どういうことかと言うと、それは当時の鏡が今のようにガラス仕様ではなくて銅とか金属製のものなので輪郭がはっきりしないのです。それがはっきり見える時が来るというのです。「そのとき」というのは、世の終わりの日、イエス様が再臨して死者の復活が起きて、新しい天と地が創造される日のことです。その時復活させられた者は神を前にして「顔と顔とを合わせて見ることに」なります。今は一部しか知らなくとも、そのときにははっきり知ることになる。これはまさに三位一体について当てはまります。三つがどうやって一つでいられるのか、どうせ「そのとき」に全てのことはわかるのだから、今はおぼろげながらでもそれで十分ではないでしょうか?把握できていることはおぼろげだが、それは後で必ず的中する予感ということでいいのではないでしょうか?

ルターは、神から与えられた宝物がどんなに途轍もないものであるかを今この世にいる段階では見えなくてもいいのだ、と教えます。もし全部見えてしまったら、私たちはきっと耐えられないだろう、と。三位一体についても同じことが言えると思います。ルターの教えを要約すると次のようになります(ガラテア4章7節「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」のルターの解き明しから)

「イエス様を救い主と信じる者は、善い行いをする前に既に永遠の命に与っているのだ。神に受け入れられて神の子とされているのだ。だから神に認められようと、また受け入れられようとして善い行いをするのではなく、既に受け入れられて必要なものは全て与えられているので、あとは自由な気持ちで、見返りを期待しないで善い行いをするのだ。そうするのは、ただ神の栄光が増し加わるためにするのであり、隣人の役に立つためにするのである。罰を恐れることも、報いを求めることも一切ない。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して全てのものを手にしている。全てのものが一度に与えられたのだ。しかしながら、その与えられたものを目で見ることはできない。この世が罪に満ちて惨めな状態にあるので、イエス様を救い主と信じる信仰にとどまることで手にすることができるというのが精一杯である。考えても見なさい。そのようなとてつもない宝物が目の前に現れたら、この世にいる私たちはきっと耐えられないだろう。」

 神から与えられる大いなる宝物も、三位一体も、私たち人間の側では予感するだけで十分です。詳細は私たちが死から復活させられる日に明らかにされるので、今は予感のする方に向かって進んで行きましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン