2016年12月5日月曜日

良い実を結ぶ木のように (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年12月8日待降節第2主日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書11章1-10節
ローマの信徒への手紙15章4-13節
マタイによる福音書3章1-12節

説教題 「良い実を結ぶ木のように」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節とかアドベントなどと呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔、現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた父なるみ神に感謝し賛美しながら、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちは、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあります。その意味で、待降節という期間は、イエス様の最初の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、めでたし、めでたし、で済ませるのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を持つようにして、身も心もそれに備えるようにしなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつなのかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世が終わりを告げる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていないのです。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を持って、身も心もそれに備えるようにする。それが、「目を覚ましている」ということです。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」などと言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は自分の造り主である神から頂いたものだという自覚に立っています。それで、自分が置かれた立場や境遇、直面する課題というものは、各自取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらは実に神由来であるがゆえに、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題があれば、解決に向けて努力していく。そうした世話や改善や解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は次の二つの原則に照らし合わせてそうします。まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、次に、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかどうか、この二つを基準にして考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っているだけの受け身な姿勢ではありません。

そこで、主を待ち望む者が心得ておくべきことあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

2.

 本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章80節によれば、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。それは、ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年ということですが、彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。いずれにしても、西暦28年か29年の出来事いうことになります。

 洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というものでした。「天の御国」とは、他の福音書で「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とは、どんな国かと言うと、例として「ヘブライ人への手紙」12章に記されています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという終わりの日に、唯一揺り動かされずに現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地にとって替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが記されています。

 本日の旧約の日課イザヤ書11章にも、将来現れる神の国のことが述べられています。「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(9節)ことがどういうことかを分からせるために、野獣猛獣、家畜と幼子が一緒にいても何も危険はないということが言われます。それくらい安心と安全が完璧な夢のような国です。加えて、神の正義が完璧に実現される国でもあります。「エッサイの株から萌え出でる若枝」がそれを実現します。エッサイはダビデの父親の名前ですので、この若枝はダビデ王朝に属する者としてイエス様を指します。再臨するイエス様は最後の審判の時に裁きを司りますが、5節で「正義」と「真実」を帯のように纏っていると言われます(「真実」というのは、ヘブライ語אמונהの正確な意味は「頼り切って大丈夫なこと」です)。彼が裁きを行う時、「目に見えるところによって行わない、耳にするところによって行わない(3節)」というのは、人の目には見えないことや、人の言葉では言い尽くせないことまで全て真実を把握して裁きを行うということです。だから、この世でいろんなことを見落とされて不利益を被ったり、真実を見てもらえずに無念の涙を流した人たちにとっては朗報以外の何ものでもないでしょう。しかし同時にイエス様は、不正義を行った者もその犠牲者も等しく、全て心の奥底にある見えない部分もちゃんと見抜いておられる。そうなると一体誰が、この正義と安全と安心しかない国に迎え入れられるのか?この問題は、本説教の後半で明らかされていきます。

さて、そんな夢のような神の国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?そうならば、今ある天と地は当時も今もそのままではないか?新しい天と地はまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。実は2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は、不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めて舟が沈まないようにしたり、悪霊に憑りつかれた人々を救ったり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。黙示録21章4節を思い出しましょう。将来現われる神の国は、「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」ところです。2000年前のイエス様の存在と活動というのは、そのような将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせる、そういう意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはりあくまでイエス様が再臨する日、今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。

それでは、今私たちは神の国とは無関係なのでしょうか?そうではありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、彼こそ救い主と信じる信仰に生きる者は、既にこの神の国と結びつけられています。もし、イエス様の再臨が私たちの生きている時代に起きれば、信仰に生きる者はそのままそこに迎え入れられます。もし再臨の前に死んでいれば、再臨の日に復活させられてそこに迎え入れられます。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れると言ったのではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、ということを意味していたのです。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは、「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになったのです。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主でおられる神に対して背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国を体現する方が来られるからだ。その方を通して、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

3.

さて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そのような終わりの日はまた、預言書に基づき、神が人類全てに裁きを行う日であるとも理解されていました(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)。実際、ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと非難します。それなので人々は神の怒りと裁きから免れるために、神に対する罪と不従順を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 どうしてヨハネの洗礼と罪の赦しが結びつくと考えられたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。ヨハネの洗礼は、一見清めの儀式に似ているところがありますが、実は大きく異なるものでした。皆様もご記憶にあるかと思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。(興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζω、βαπτισμοςが使われています[マルコ7章4節])。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものはと言えば、律法の様々な掟や様々な宗教的儀式を守ったり行ったりすることでした。しかし、律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないのだ、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではないのだ、とイエス様は教えるのです。

 人間が自分の力で罪や不従順の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部このひとり子に請け負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この罪の赦しの救いを受け取ることができるようになりました。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、不従順と罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23-24節とコロサイ3章9-10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限りは、父なるみ神は私たちの罪ある内側には目を留めず、私たちに被せられた神聖な清い純白な衣に目を留めて下さるのです。

 ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のものでした。神が人間に贈り与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。そうですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは、人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点のようなものです。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、今申し上げたイエス様の身代わりの犠牲がもたらしてくれる罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。火を伴う、というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は、罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで、人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまる限りは、罪自体には人間を神の国から引き離す力は消滅している。その意味で人間は罪から浄化されるのです。

 こうして人間は、神の国に迎え入れられる道に置かれて、その道を歩むこととなりました。そして、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神から守りと良い導きを得られてこの世の人生を歩むようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになりました。このような計り知れない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。

 ヨハネの洗礼は、完全な罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっているのだ、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ起こる罪の支配からの解放を全身全霊で受け取る器になれる、ということでした。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということでした。ところが、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。

4.

以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで、「神のもとへ立ち返る」生き方ができる手がかりを得られるようになりました。それは、律法を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして受け取った罪の赦しの救いの中にしっかり留まり、聖書の御言葉と聖餐式のパンとぶどう酒を栄養にすることで、肉に結びつく古い人を日々弱体化させ、聖霊に結びつく新しい人を日々育てること。これが、「神のもとに立ち返る」道を歩むことです。この道を歩む者から「悔い改めにふさわしい実」、「良い実」が実ってきます。それはどのような実でしょうか?

一般的に言えば、次のようなことです。罪の赦しの救いを受け取った人は、聖霊と共にいろいろな賜物を神から頂く。その頂いた賜物を今度は神の意思に沿うように用いる。そうすると、イエス様の福音が周りの人々に伝えられたり示されたりし、人々が罪の赦しの救いを受け取ることができるようになって教会が成長する。そして、賜物を用いる人自身も、使徒パウロが教えるような聖霊の結ぶ実を結ぶようになる。これはスオミ教会の今年の年間主題でもありますが、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といったものに満たされるようになる。これら全てのことが、「神への立ち返りに相応しい実」、「良い実」です。

最後に、そのような実について、具体的なことを述べておきます。いろんな具体例が考えられますが、ここでは一例としてあげておきます。キリスト信仰者が、一生懸命の努力と真摯な祈りをもって何か事業に成功してお金持ちになったり名声を博したりしたとします。「良い実」というのは、この成果のことではありません。その人がこの成果を自分のためにではなく、神の意思に沿うように用いようとすること、つまり神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することに沿うように用いること、これが「良い実」です。もちろん、みんながみんな、そういう神の意思に沿って用いられる成果を手に入れられるわけではありません。ただその場合でも、もし伴侶がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて伴侶を与えて下さったのだと感謝して、神の愛と恵みが溢れるような家庭を築いて行こうと努力すること。また子供がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて子供を授けて下さったのだと感謝して、子供にも神の愛と恵みが伝わるように育てていこうと努力すること。これが「良い実」です。さらに、不運にも病の床についてしまい、成果も得られず家庭もなかなか築いていけないような場合は、このような境遇にあっても、信仰の兄弟姉妹たちの心遣いと祈りに支えられて生きることができるくらい神は顧みて下さる、と感謝すること。そして、自分自身のことに加えて、多くの人たちのためにも祈ること。これが「良い実」です。これらはみんな、父なるみ神の目から見て等しく良い実です。



 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2016年11月28日月曜日

イエス様の大事業と私たち (吉村博明)

主日礼拝説教2016年11月27日 待降節第1主日
スオミ教会

イザヤ書2章1-5節
ローマの信徒への手紙13章11-14節
マタイによる福音書21章1-11節

説教題 「イエス様の大事業と私たち」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神がスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。

 本日の福音書の箇所は、イエス様がロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。昨年もお話ししたのですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書が読まれる際、群衆の歓呼のところまでくると一旦朗読を止めます。するとパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌います。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。夜のテレビのニュースでも毎年のように「今年も待降節に入りました。画像は何々教会の礼拝での『ホサナ』斉唱の場面です」と言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。

2.

ところで、先ほど一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語では「ホサナ」ではなくて、「ホシアンナ」です。福音書の記述も、群衆がイエス様を迎える歓呼は日本語では「ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語は「ホシアンナ」です。昨年もお話ししたのですが、この違いを考えることは聖書をより身近に感じられるきっかけになります。ただ、今回説教を準備している時にまた新しい発見をしましたので、昨年申し上げたことに補足をしなければなりません。このように聖書は読むたびに、それまで気づかなかったことに出くわすことがよくあるので、本当に飽きさせない書物です。

 このホサナ、ホシアンナというのは、もともとは詩篇118篇25節にある言葉から来たものです。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。「わたしたちに救いを」をいうのは、原語のヘブライ語を忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい」になります。これが הושיעהנא ホーシィーアーンナァ、つまりホシアンナです。本日の福音書の箇所の群衆の歓呼がある9-10節はこの詩篇の箇所が土台にあります。そういうわけで、ホサナと言わずにホシアンナと言った方が、引用元の聖句の原語に忠実になります。ところで、ホシアンナという言葉は、古代イスラエルの伝統では、群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳」になるでしょう。

では、どうして日本語の聖書ではホシアンナと言わずにホサナと言うのか?ホサナהישע־נא  というのは、実はヘブライ語のホシアンナをアラム語に訳したものです。正確にはホーシャーナァと発音します。ヘブライ語のホーシィーアーンナァと違います。アラム語という言語ですが、それはイエス様の時代のパレスチナの地域の主要言語でした。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残ってはいましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それで、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語の可能性が高いと考えられるのです。

そこで、肝心のマタイ福音書の原語のギリシャ語のテクストではどうなっているかを見てみると、ホーシィーアーンナァでもホーシャーナァでもなく、ホーサンナωσανναです。英語訳の聖書は、綴りとしてはこのギリシャ語に倣っていて、ホサンナHosannaと書いています。しかし、そのホサンナを英語はホゥザナと発音します。英語は本当に一筋縄ではいかない厄介な言語だと思います。

さて、ヘブライ語のホーシィーアンナ(ホシアンナ)、アラム語のホーシャナ(ホサナ)、ギリシャ語のホーサンナ(ホサンナ/ホゥザナ)の3つが出そろいました。ここで興味深いのは、ギリシャ語は、ヘブライ語やアラム語の言葉を訳さないで、ただ発音をギリシャ文字に置き換えただけということです。皆様もご存知のように「メシア」はヘブライ語のムーシィーアハですが、それがギリシャ語に訳されてクリストス、「キリスト」になりました。ところがホシアンナ、ホサナの場合は、そのような訳がなされず、発音をそのままギリシャ文字に置き換えただけで、さながら日本語が外来語を訳さないでカタカナに置き換えるのと似ています。

 こうしたことをどのように考えたらよいかと言うと、まず、本日の福音書の箇所に出て来る人たちはアラム語を話す人たちなので、叫んだ言葉はアラム語でホサナと言った可能性が高い。しかし、シナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読も聞いていたので、ひょっとしたらホシアンナを覚えていて、それで叫んだ可能性も否定できない。いずれにしても、この出来事も含めたイエス様の言行録は最初、口伝えで伝えられていき、次第に記録として書き記されるようになる。さらにキリスト教がアラム語圏を超えてギリシャ語圏に広まり始めると、アラム語で伝えられたものはどんどんギリシャ語に訳されていく。そこで、この出来事の記録を訳した人は、ホシアンナだったにせよホサナだったにせよ、このエグゾチックな言葉をみて、ギリシャ語の単語に訳さず、ただギリシャ文字を当てはめて書き記したのです。実は、このおかげで聖書を読む人は、この出来事が起きた時その場にいあわせた人々の生の肉声に触れることができるのです。ギリシャ文字を当てはめて書いた人は、その効果を狙ってそうしたのは間違いないでしょう。

 以上のことは、キリスト信仰の観点からみたら瑣末なことですが、知っていれば、聖書を読む時、当時その場にいあわせた人たちの音声の世界に引き戻されます。聖書に書いてある出来事は後に創作された話だ、などという淡い期待を打ち破り、本当にあったという臨場感を与えます。このホサナの他にも新約聖書には、イエス様自身や関係者が述べた言葉や文がギリシャ語に訳されずにアラム語の発音のまま記されて、日本語訳の聖書ではカタカナで表記されているものがいくつもあります。ギリシャ語に訳した人たちは、このようにしてまで現場の生の声をそのまま残そうとしたのです。

2.

先ほども述べましたように、ホサナないしホシアンナは、古代イスラエルの伝統では群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのです。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?

 さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書やルカ福音書では、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います(マルコ11章2節、ルカ19章30節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 実は、これは何かのパロディーでもなんでもありません。まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事だったのです。以下、そのことを明らかにしてまいりましょう。

 まず、イエス様のこの行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういう途轍もないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、ロバに乗ってやってくるということです。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が、全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという途轍もないことをするにもかかわらず、その実現の仕方は軍事力の行使とは全く正反対な仕方で行うということが、イザヤ書11章1-10節に預言されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、あらゆることにおいて神の守りが行き渡っている世界は、聖書の立場からすれば、今のこの世が終わった後に到来する新しい世を意味します。イザヤ書や黙示録に預言されていますが、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造された時の世です。その新しい世に相応しい完全な正義を実現する「エッサイの根」。それは何者か?エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者です。つまり、イエス様を指します。やがて今ある天と地とこの世とにかわって、神の神聖な意志に完全に従う新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に正義を完全かつ最終的に実現するのがイエス様ということです。

以上のように、今の世が新しい世にとってかわるという、預言書に預言された大事業は、イエス様が担っていくことになりました。ロバにまたがってエルサレムに入城するというのは、まさに預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという、とてつもない大事業はイエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?

3.

この大事業は、当時のイスラエルの人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の方向に展開しました。というのは、彼らは、ダビデ王の末裔が来て新しい世を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち破ってイスラエル王国を再興することを意味すると理解していたからでした。人によっては、この来るべき王国のことを、天と地が新しくされて死者の復活が起きる時に(イザヤ66章22節、ゼカリヤ14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1-3節)現れると考えていた者もありました。ただ、その場合でも、ユダヤ民族の国が再興されるということが中心でした。先ほど読んで頂いたイザヤ書2章では、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言がありました。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、旧約聖書の預言のもっと別の面も含まれていたのです。どんな面か、以下にみてまいりましょう。

 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しく衝突します。まず、エルサレムの神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦しました。それから、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのにローマ帝国の軍事介入を招いてしまうということが危惧されました。三つ目として、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に預言されている終末の日に到来するメシア「人の子」であると公言していることも問題視されました。特に、自分を神に並ぶ者としていることや、さらにもっと直接的に自分を神の子と見なしていることも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言を一面的にしか捉えられていなかったことによる理解不足でした。そこで、イエス様が十字架にかけられた後、旧約の預言が全て理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。最初の人間アダムとエヴァの堕罪以来、人間が死ぬ存在になってから閉ざされていた扉が開かれたのです。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命につながることが出来るようになりました。人間が死を超えられなくなってしまったそもそもの原因は、人間が罪を持つようになって神の罰に服するようになってしまったからでした。それが、「お前の罪は赦された、だから神の罰は受けなくてもよくなった」ということが起きたのです。どこでどうやって罪が赦されたのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の罪に対する神の罰を全部引き受けて下さったことによります。その時、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。イエス様が自分の命を身代金として支払って、人間を罪の支配下から解放して下さったのです。これにあわせて旧約聖書の預言が次々に明らかになりました。例えば、イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことを指すものでした。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3-6節)

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11-12節) 

 イエス様の十字架の死と死からの復活というのは、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、私たち人間すべての罪の償いを神に対して成し遂げたという、犠牲の業でした。加えて、罪の償いをしてもらった私たち人間が、この世のあらゆる悪と誘惑を踏み越えて常に神のもとに向かって進んでいけるようになれるための贖いの業だったのです。実にイエス様の神聖なエルサレム入城は、この犠牲と贖いの上に成り立つ人間の救いが真の目的だったのです。この世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことだったのです。まず、神がイエス様を用いて実現した救いに出来るだけ多くの人が与れるようにしなければならない。しかし、それはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出す。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進み、最終的にはこの世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が生じて今見えるものは全て崩れ落ちて、唯一崩れ落ちないものとして神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まる(ヘブライ12章26-29節)。このように神の国の構成員となるのは、もはやユダヤ民族というより、イエス様を救い主と信じた人たちということになります。イザヤ書2章にあるような、諸国民が天地創造の神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるというのは、もはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムを意味します。このように、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものだったのです。それが神の意図でした。これを明らかにしたのがイエス様でした。神のひとり子であるがゆえに、神の意図を明らかにすることができたのです。

4.

以上から、天地創造の神の意志と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様がロバにまたがってエルサレムに入城したことが明らかになりました。そしてその大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約聖書の理解を超えた形で展開しました。しかし、旧約を全体的に理解すれば、イエス様の十字架と復活こそ、大事業が計画通りに進んでいることを示す出来事であったとわかるのです。

さて、今私たちが生きているこの時代、イエス様の最初の降臨と次の再臨の間の時代は、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを、一方では受け入れて自分のものにした人たち、他方ではまだ受け取っていない人たちに二分する時代であります。しかし、罪の赦しの救いは全ての人間のために実現されたものである以上、全ての人がその所有者になってほしいというのが神の御心です。それゆえ、兄弟姉妹の皆さん、それを先に受け取った私たちキリスト信仰者は、まだ受け取ってない人たちが受け取ることが出来るよう、絶えず祈り、機会を見いだしては働きかけていかなければなりません。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン