2016年9月19日月曜日

創造者である神を畏れることは知恵のはじめ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年9月18日(聖霊降臨後第十八主日)スオミ教会

コヘレトの言葉8章10-17節
テモテへの第一の手紙2章1-7節
ルカによる福音書16章1-13節

説教題 創造者である神を畏れることは知恵のはじめ


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の旧約聖書の日課コヘレト8章10-17節と福音書の日課ルカ16章1-13節はとても難しいところです。まずコヘレトを見ると、12-13節で、罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が長生きしているという現実があるにもかかわらず、本当は神を畏れる人が幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできず幸福になれない、と確信をもって言う。ところが、続く14節で、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある、これまた空しい、と言う。さっきの確信はどうしてしまったのか?さらに15節をみると、快楽をたたえる、などと言う。人間には飲み食いして楽しむ以外の幸福はない、快楽は神が人間に与えた人生の日々の労苦に添えられたものだ、などと。まるで、神を畏れて正しく生きようとしても結局いいことはなく、悪を行っても罰せられずに逆にいいことが起こるのだから、快楽に身をまかせてしまった方が意味がある、とさえ受け取られます。なぜこんな書物が聖書の中に収められることができたのでしょうか?

実を言うと「コヘレトの言葉」は、そういう、神を畏れて生きるのは意味がない、だから快楽主義でいいんだ、と言っている書物ではありません。本当は全く逆なのです。この書物のすぐ前にソロモン王の「箴言」という有名な書物があります。その1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」と言われます。実は、「コレヘトの言葉」もこれと全く同じ土台に立っているのです。それでは、なぜそう見えないのか?「コレヘトの言葉」も「主を畏れることは知恵の初め」という土台に立っていることは、この書物が書かれた背景をしっかりみればわかってきます。そういうわけで本日は、この「コレヘトの言葉」の日課を正しく理解することに努め、それを通して、私たちが生きる人生の方向性を明らかにしたいと思います。

とは言いつつも、ルカ福音書の箇所もとてもやっかいなところです。イエス様が不正を働いた管理人をほめて、不正にまみれた富で友達を作れ、などとは一体どういうことなのか?この難しい教えについて、いろいろな解釈がなされてきました。そのひとつとして、イエス様は人生の危機の打開のために早急な決断を下すことが大事だと教えている、そう理解する人もいます。しかしながら、素早い決断が危機打開の決め手、優柔不断では危機は乗り越えられない、というのは、なにも神のひとり子がわざわざ天から降ってまでして教えなくても、人間の知恵で十分わかります。イエス様は、人間の知恵をなぞり書きしたりお墨付きを与えるために天の父なるみ神のもとからこの世に送られたのではありません。人間の知恵をはるかに上回る神の知恵を知らしめ、場合によっては、人間の知恵を粉砕して、私たちを神の知恵に服させるために来たのです。

実は、この福音書の箇所は、3年前、本スオミ教会の説教で解き明しをしておりまして、今回それを読み返してみたら、修正する必要がないとわかりました。それで、本説教にてそれをそのまま読み上げてもよいかなと思ったのですが、やはりコヘレトの箇所を今回も放っておくわけにはいかないと思いました。どうしたらよいかと思ったのですが、ルカ福音書の方は、3年前お聞きにならなかった方もいらっしゃるので、短く要点だけをお話ししようと思います。その後でコヘレトの箇所を解き明かしてみたく思います。

2.

ルカ16章1-13節を理解できるために、この箇所で一番大事なポイントを見つけてそこから全体を見渡してみることをしてみます。大事なポイントは最後の13節にあります。神と富の双方に仕えることはできない、ということです。イエス様の教えの主眼は、神こそ仕えるべき主人である、富を主人にしてはいけない、逆に富に対しては主人になりなさい、富を奴隷にしなさい、ということです。人が富に対して主人になるというのは、富を神の御心に沿うように自由に使うということです。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する、これに沿うように使いなさい、ということです。

イエス様がこのことを教えなければならなった背景には、人が富の主人になれずに、逆に富の奴隷になってそれに仕えてしまって神に仕えられないという状況が一方にありました。他方では、弟子たちの中に、イエス様に付き従うためには富を一切捨てなければならないという考えがありました。しかし、捨てることが出来れば、自分は大決断をしたので神から見返りを与えられて当然だ、という考え方になってしまいました。人間が自分の業で神に指図することになってしまいます。そこで、イエス様は、たとえ富を持っていても、それに対して主人のように振る舞えれば問題ない、その富を神の意思に沿うように用いれば、富を持っていながら神を主人とすることができる、という第三の道を示したのです。

「不正な」富という時の「不正な」という言葉は、元にあるギリシャ語の言葉アディキアαδικιαの使い方を見ると、「神を神とも思わない」とか「神からかけ離れた」という意味を持つことがわかります。富と言うのは本質上、人の心を神から引き離す力を持っている、その意味で富は「不正な」ものですが、それに対して主人として振る舞い、神に対しては仕える者として生きれば、永遠の命に与ることに何も問題はないのです。不正な管理人という、おそらく実際に起きた出来事を題材にして教えることで、そのことが強調されます。

そこで、神に仕えつつも富に対して主人として振る舞うことが本当にできるかどうかということについてですが、十字架と復活が起きる前の段階では不可能に思えたでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後、神はひとり子イエス様を犠牲にして人間を罪の奴隷状態から買い戻した、自由な身にして下さった、そのことがわかってイエス様を救い主と信じる信仰に入った者からすれば、富は色あせたものになり、主人になることができる道が開かれたのです。

3.

 それでは、コヘレト8章10-17節の解き明しに入ります。まず「コヘレト」、ヘブライ語でコーヘレトゥקהלתとは誰か?これは人の名前ではありません。1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあって、ダビデの子供にそんな名前の者がいたかと思われてしまいます。これはヘブライ語の「集める、召集する」を意味する動詞カーハールקהלを名詞化した形と考えられています。ただ、それが具体的に何を意味するかは研究者の間で一致がありません。そこで、旧約聖書のギリシャ語の翻訳をみると、コーヘレトゥは「伝道者」「説教者」を意味するエクレーシアステースεκκλησιαστηςという言葉に訳されています。それで、この書物のタイトルはラテン語でEcclesiastesとなって、英語訳NIVの聖書でも同じタイトルを用いています。スウェーデン語やフィンランド語の聖書でも、これがもとになって「伝道者」、「説教者」を意味する言葉をタイトルにしています。日本語の聖書はヘブライ語の言葉をカタカナにしただけなので、以上の事情が分からないと、ダビデにそんな名前の子がいたと勘違いしてしまいます。

 それでは、ダビデの子でエルサレムの王になった「コヘレト」とは誰かというと、これは紛れもなくソロモン王であります。それでなぜ、そうはっきり言わなかったのか?すぐ前の書物「箴言」ではソロモン王の名が冠せられているのに。この書物を読むとたいていの方は、とても悲観的なことが書いてあるという印象を持ちます。本日の箇所をみても、神を畏れる生き方をしても悪い報いが起き、悪を働いても罰も受けずに長生きしているのが現実だ、全ては空しく、だから快楽に身を任せていいのだ、と言っているように見えます。とても「箴言」を著した同じ人物の書物には思えません。人によっては、ギリシャ哲学のいろんな潮流の影響をみる向きもありますが、そうなるとこの書物はソロモン王のずっと後の時代に成立したことになります。

 このように、この書物の趣旨を悲観主義とみなすと、ソロモン王と関係ない書物になってしまうのですが、実は関係があるのです。フィンランドのA.ラートという旧約聖書学の教授は、「コヘレトの言葉」のような書物がなぜ旧約聖書の中に収められたかということについて次のように述べております。この書物はユダヤ教の伝統の中で古くからずっと権威ある地位を持っていた。その伝統の中で同書は、晩年のソロモン王が自分の犯した過ちを振り返ってそれを悔い、神への畏れに基づく真の知恵に再び戻った、そういう内容の書物である、そう理解されてきた。それでこの書物はユダヤ教の伝統の中で紛れもなく聖書の一つとなりうる、権威ある書物と見なされてきたのである。

ソロモン王が犯した過ちとは何か?ソロモン王と言えば、たいていの方は、ダビデ王の後を継ぎイスラエル国家の全盛期を築いた人物、エルサレムの大神殿を完成させ、彼が神の御前で祈った祈りは、聖書の神を信じる者にとって祈りの模範と見られています。王はまた、神から知恵を授けられ、それに基づいて国民を指導し、周辺諸国の王たちもソロモン王に聞き従い、貢物を携えて王のもとに出入りした。エルサレムは、諸国がもたらした財宝で溢れかえった。まことに神から大きな祝福を受けた王でした。

ところが、この後で何が起こったでしょうか?列王記上11章を見ると、状況が一変します。ソロモン王は、諸国から女性を招いて妻にしたり愛人にします。11章3節をみると、王妃が700人、側室が300人、合計1,000人いました。これは文字通りハーレムです。実は、この1,000人の女性のことは、コヘレト7章28節に言及されています。いったい、「汝、姦淫するなかれ」という十戒の第六の掟はどうなってしまったのか?女性が未婚者であれば不倫にあたらないと思ったのでしょうか?それとも、相手の女性たちはイスラエルの民に属さないので、十戒は関係ないと考えたのでしょうか?状況を一層悪くしたのは、まさに相手の女性たちが異教の神々を崇拝する他民族出身だったことでした。ソロモン王は、関係を持った女性たちの神々を崇拝し出します。このように、「ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった」(11章9節)。

そのような経歴を辿ってしまったソロモン王が晩年に過去を振り返り、自分がいつの間にか神の知恵から離れ、自分の知恵、人間的な知恵に頼って生きるようになったことに気づく。真の知恵は神を畏れることから与えられるのに、人間的な知恵に頼ろうとしたのは神を畏れなくなってしまったからだと気づく。そこで、「コヘレトの言葉」の最後に結論として次のように言われます。

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」(12章13-14節)

これが、この書物の一番大事なポイントなのです。神を畏れることを止めて、人間的な知恵に頼るようになり、出口のないトンネルに入ったようになって、悩みに悩んで悲観的なことを言って、最後にたどりついたのがこれだったのです。以上のような背景を意識して読むと、本日の箇所も正しく理解できます。

まず、8章10節。これは、とてもやっかいな節です。原文のヘブライ語の文ですが、一番権威ある写本の文が難しく、意味の通る文にしようとして、翻訳によっては違う写本を用いるものもあります。日本語の新共同訳は権威ある写本を用いていますが、この訳でも不十分な気がします。詳しいことはここでは立ち入りません。英語やフィンランド語の訳は違う写本に基づいているので、文の内容自体が日本語と違うものになっています。これも果たして良い解決法かどうか、疑問ありです。スウェーデン語訳の聖書などは、この節は(....)となっていて、もうお手上げです、とさじを投げています。そんな中で、日本語訳は頑張っていると思うので、大体このような意味のことを言っているのだな、という受け止め方でいきましょう。

次に11節から13節までですが、日本語訳では大体こうでした。悪事に対して何も対策が取られなければ人は大胆に悪事を働き、罪を犯し百度も悪事を働いている者が長生きしている、そういう現実がある。それにもかかわらず、私は次の真理を知っている。つまり、神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできないし幸福にもなれない。ところが次の14節では、そういう真理を知っていても、やはり善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、と現実には真理が覆される状況がある、と言っている。これを「空しい」ことと言っています。まるで、神を畏れて神の意思に従って善を行っても、悪人が受けるような報いを受けてしまう、だから神を畏れたり善を行うことは空しいのだ、と言っているようにみえます。ところが、前に述べた背景を考えながら読むとそうでないことがわかります。

(11節から13節までをヘブライ語に即してみると、「にもかかわらず」の前後の文を訳と逆にするのが正確だと思います。つまり、私は、神を畏れる人は畏れるから幸福になり、悪人は畏れないから長生きできないし幸福になれないという真理を知っていたにもかかわらず、対策が取られないので人は悪事を大胆に働き、彼らは長生きしている、そういう現実がある。この不条理な現実の描写が14節でも続き、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、ということになります。このほうが訳のように行きつ戻りつせずに、すっきりするのではないかと思います。)

「空しい」こととはどういうことか?神を畏れても、善を行っても、あるべき結果と正反対のことが起こるので「空しい」ということなのでしょうか?そうではありません。「空しい」とは「空虚」とか「無意味」ということですが、コヘレトの他の箇所で何度も「空しい」と「風を追うこと」が一緒に使われていることに注意しましょう(2章17節、26節)。「風を追うこと」とは、風をつかまえようとすること、手に入れようとすることです。それは不可能で、やっても意味のないこと、それで空しいことです。そこで、神を畏れる者や善を行う者に相応しい結果が現れないことが空しいというのは、どういうことかと言うと、それは、そういう不条理なことがどうして起きるのか、それを解明したり説明しようとすることが「風を追う」ようなことであり、空しいということなのです。神を畏れることや善を行うことが、空しいとか風を追うことと言っているのではなくて、この世で起きてしまう、不条理な出来事を理解できると思って捉えようとすることが空しいのです。「空しい」のもとにあるヘブライ語の言葉ハ-ベルהבלですが、英語NIVでは「無意味」、フィンランド語では「無駄なこと」と訳されています(スウェーデン語では「空っぽ」、「空虚」)。

そこで、もし、不条理なことを人知で解明できると思ってそれをしようとすると、神は全知全能で愛と恵みに満ちた方という考えと衝突することになります。神はやはり全知全能ではなく力に限界があったのだ、とか、神は首尾一貫性がなくて気まぐれなのだ、とか、そういう神の本質を疑う考えが出てきてしまう。人間の理性や知恵で答えを出そうとすると、神がそれらで捉えられる存在に貶められて、神を人間と同じレベルで考えてしまうのです。場合によっては、神など存在しないのだ、という無神論の考えも出て来るでしょう。または天地創造の神ではだめだ、別の神がいいんだという考えも出るかもしれません。ソロモン王がどうして異教の神々を崇拝するようになったかを考える時、好きになった女性たちが崇拝しているので、情欲と一緒に目が曇らされて流されてしまったということかもしれない。または、自分は知恵に満ちた者だ、解明できないことは何もない、と驕りだして、そこで神を畏れても不条理なことが起きるという問題を人間的な知恵で解明しようとして行き詰り、天地創造の神に疑いを持つようになった。その隙を、女性たちが崇拝する異教の神々にうまく突かれてしまったのか。いろんな推測ができます。

いずれにしてもソロモン王は、人間の知恵と能力で神のなさることの全て、特に人間の目では理に適わないと思えることを解明しようとすることは、空しい、風を追うようなことだということがわかったのです。16-17節で王は、神のすべての業を観察したが、太陽の下に起こるすべてのことを人間は解明できない、どんなに労苦し追及しても出来ない、賢者が自分はわかったと言っても本当は解明できていない、と断言しますが、これが空しいこと、風を追うことなのです。神を畏れ神の意思に従って善を行うことが空しいのではありません。

15節をみると、空しいから快楽をたたえる、などと言っていますが、そんな訳だと悲観主義の刹那主義になります。そうではありません。まず「快楽」と訳されているヘブライ語の言葉シムハーשמחהは、そんな強い意味はなく、ただの「喜び」です。人生の日々の労苦の中で食べたり飲んだりできるという喜びを讃える、ということです。神を畏れ神の意思に沿って善を行っても良いことがかえってくるとは限らず、正反対なことさえ起きる。それは人間の能力では解明できない。風を追うようなことだ。そんな中で良いことが確実にあるとすれば、それは飲んだり食べたり、また他の具体的な喜びがそれで、それらは人生の日々の労苦の中にあっても人について来るものである。神が人間に人生を与える以上、そうした喜びも神から与えられるものである。そういうわけで、こうした喜びを味わうというのは神に感謝して行う、そういう謙虚な慎ましい喜びです。神に背を向けて大胆に快楽に走ることではありません。9章9節に「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい」というのも同じことです。ここで「妻」とは単数形で一人の妻です。ソロモン王が正気に返ったことがわかります。

4.

解明不可能な不条理なことばかりで労苦を強いられるこの世にあっては、神を畏れることが全てだ、というのが「コヘレトの言葉」の結論でした。それでは、神を畏れたら、こうした難しい問題の解決になるのか?そもそも、神を畏れるとはどういうことか?

人間の知恵で不条理なことを解明しようとすると神を人間のレベルに引き下げることになる、と先ほど申し上げました。そのようなことをすると、神を畏れることを止めることになります。神を畏れるとは、大体次のような心意気になることです。

神は全てを知っている。私そのものについても、私の身に起こることについても全て、私以上に知っている。なぜなら、神は私を造り私に命と人生を与えた永遠の創造者だからだ。しかし私は造られた者で限りある存在だから、そうした神が知っていることをまさに神が知るように知ることはできない。私が出来ることと言えば、自分に起こる全てのことは神が知っているのだから、知ることは神に任せて、自分は神の意思に沿うように生きるだけだということだ。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するだけだ。知ることを神に任せてもいいと言うくらいに神を信頼しきれるのは、神がひとり子のイエス様を私の救いのために送って下さったことによる。最後の審判の時、「裁きの座で善だけでなく悪をも一切の業を、隠れたことも全て引き出される」とき、私が永遠の死の滅びに陥らないように、私の至らない部分、罪をイエス様に全部負わせて十字架の上まで運ばせて、イエス様がそこで私の罪の罰を代わりに受けて下さるようにしたのが、私の造り主である神であった。それで、私はこの世にあっては絶えず、順境であろうが逆境であろうが、神の守りと導きを受けられるようになった。万が一この世から死んでもすぐに神の御許に引き上げられ、復活の日に永遠に造り主のもとに戻れるようになった。知ることを神に任せて、あとは神の意思に沿うように生きれば、不条理なことの結末と全容は後で必ず目の前に明らかにされる。神がよかれと思われる時に。もし、この世の段階で明らかにされない場合は、遅くとも最終的には復活の日、「全ての目から涙が拭われる」(黙示録21章4節)日に全て明らかにされる。死からの復活があることも、神がイエス様を復活させられたことではっきり示された。もし、知ることを神に任せず、神の意思に沿うように生きなければ、不条理なことは結末を迎えることなく、不条理なままで終わってしまう。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、この世というところは解明できないことだらけですが、このような心意気を持って歩んでまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2016年9月7日水曜日

神は生ける方、力ある方、見捨てない方 (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2016年9月4日(聖霊降臨後第16主日)スオミ教会

申命記29章1-8節
フィレモンへの手紙1-25節
ルカによる福音書14章25-33節

説教題 神は生ける方、力ある方、見捨てない方

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の礼拝説教は、旧約聖書の日課、申命記29章1-8節をもとに行おうと思います。本日の福音書の箇所ですが、これは難しいところでして、本当はこちらをもとに説教すべきとも思ったのですが、実はこの箇所をもとに三年前、当教会の礼拝にて説教をしておりました。それを読み返してみたら、ほとんど変える必要がないとわかりまして、復習の意味で同じ原稿を読んでもいいかなと思ったのですが、今回は三年前に比べて申命記の日課が語りかけてくるものに何か力を感じまして、それでそちらをもとに説教することにした次第です。

本題の申命記に入る前に、福音書の日課について三年前どんな解き明しをしたか手短に述べます。ルカ14章25-33節には、二つの大きな問題があります。一つは、父母、娘息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと弟子になれない、とイエス様が教えていることです。イエス様は十戒の第四の掟「父母を敬え」に反することを教えているのか?また彼自身、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と教えているのに、肉親を憎まないと弟子にはなれない、とは、どういうことなのか?

これは、福音書が書かれたギリシャ語の文で「憎む」を意味する動詞(μισεω)が使われていることによります。イエス様はこの場面では間違いなくアラム語を話していたでしょう。アラム語とは旧約聖書の言語ヘブライ語に近い言語です。イエス様がアラム語で話した事柄は、福音書に書き記されるまでの過程の中でギリシャ語に訳されていきます。もちろん、イエス様が話したアラム語の言葉は記録がないのでわかりません。しかし、イエス様の教えや思想の土台にある旧約聖書のヘブライ語の「憎む」を意味する動詞שנאサーネーアをみてみると、これは「憎む」を超えていろんな意味を持つことがわかります。創世記29章や申命記21章では「二つのうち一方をより多く愛して他方を少なく愛する」とか「一方を愛して他方を疎んじる」という意味で使われています。「他に比べて疎んじられる、少なく愛される」ということで、「憎まれる」ということではありません。

これを土台にして考えると、イエス様が弟子の条件として肉親を「憎む」ことと言ったのは、神への愛を最優先するということ、肉親への愛は神への愛を下回らなければならないということになります。これはイエス様の隣人愛の教えと矛盾しません。なぜなら、イエス様は、二つの最も重要な掟について、一番目は「神を全身全霊で愛せよ」、その次に来るのが「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と、ちゃんと優先順位をつけて教えたからです。三年前の説教では、神への愛を第一にして行う隣人愛とはどんな愛かについて述べてみました。

ルカ14章25-33節のもう一つの問題は、塔を建てる人と戦争に臨む王のたとえです。二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。ところが、33節でイエス様は、自分の持ち物を捨てる覚悟がないと自分の弟子にはなれない、と言われる。無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子にはなれない、とは、イエス様は一体何を言いたいのか?

どういうことかと言うと、イエス様はつき従う群衆に対して、お前たちは塔の建設者がするように、後で笑い者になることを心配して前もって綿密に計算をするであろう、また、素早く計算して負けが明らかな戦をしないで講和を結ぶ王と同じようにするであろう、これが今のお前たちの姿だと指摘するのです。そこで33節で、このように自分の持っている物を捨て去る覚悟のない者は私の弟子にはなれない。つまり、塔建設者や王のように計算づくではだめだ、ということになるのです。

そうなると、キリスト信仰者とは単に無謀、向う見ずな生き方をする者になってしまわないか。そんな生き方では、どんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう、計算は前もってしっかり立てて物ごとに臨むべきではないか、そういう疑問が起きてきます。三年前の説教で私は、イエス様の教えていることは、あくまでイエス様の弟子として生きるということ、つまり、イエス様を救い主と信じる信仰を携えて生きること、そして、神に対する全身全霊の愛に立って隣人を愛すること、言うなれば、信仰そのものに関係することなのだ、ということを強調しました。何か事業を起こしたり、建物を建てたりする時に見積もりや見通しを立てないでやれ、ということではないのであります。

2.

 それでは本日の本題である申命記29章1-8節の解き明しに入ろうと思います。申命記29章の舞台は、預言者モーセがイスラエルの民を引き連れて、奴隷の国エジプトを脱出して、シナイ半島の荒野の中を40年近くかけて移動した後、北上してヨルダン川東岸のモアブの地に到達、今や神が約束したカナンの地を目前にするところです。ここで、かつてシナイ山で結ばれた神とイスラエルの民の間の契約を新たなものにします。神はイスラエルの民の神となり、民はこの神の民となるという契約です。その時モーセは、イスラエルの民の前で神の意思を宣べ伝えます。そこで、本日の箇所の3節で不可解なことを言います。「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」

 モーセは、このすぐ前の1節と2節で、神がイスラエルの民を守るためにエジプトに対して行った罰の業を民は目で見た、と言っています。それなのに、今日の今日まで神は、それらの業を理解する心、見る目、聞く耳を民に与えなかった、と言う。これは、どういうことか?

 確かにイスラエルの民は、神がエジプトに様々な罰を下してイスラエルの民の脱出を可能にしてくれた、数々の奇跡的な業を自分たちの目で見ました。しかし、そうしたイスラエルの民を助ける神の業が何を意味するのかを理解できていなかった。それが理解できない以上は、本当に見たこと、聞いたことにならないのであります。それでは、神の業は何を意味していたのか?

それは、神が金属や木材で出来た偶像とは異なり、意志を持ち考えて計画して、それを実行に移すまさに生ける神であるということ、そして計画したことを必ず実現させる力を持った方であるということ、さらに自分を信じ信頼しきる者を決して見捨てない方である、ということを意味したのです。このように、天と地と人間を造られた創造の神とは、生ける方、力のある方、見捨てない方なのである。このことを理解できなければ、それは本当に「見た」こと「聞いた」ことにならず、神の奇跡の業がただ目の前に映って通り過ぎただけにすぎないのです。

本当に見ることのできる目、聞くことのできる耳、理解することのできる心をイスラエルの民が持っていなかったことは、彼らが神に抱いた畏敬や感謝の念がいつも一過性のものにすぎなかったことに明らかです。エジプト脱出の時から何度も神に助けてもらったにもかかわらず、荒野で食料や水に困ればすぐ不平を言いだして、エジプトで奴隷をした方がましだったとなどと言ったり、モーセがシナイ山頂からなかなか戻らなければ、金で雄牛の像を造って拝み始めるとか、そういうことを繰り返してきました。

そして今、紆余曲折を経ながらも、イスラエルの民はモアブの地に到達し、シナイ山で結んだ契約を新しくするところに来た。「今日まで、悟る心、見る目、聞く耳を与えなかった」というのは、今日与えるということです。つまり、イスラエルの民よ、お前たちは今日、神が生ける方であり、力ある方であり、見捨てない方であることがわかる心と目と耳を持つことになったのだ、ということです。4節と5節のモーセの言葉は、このことを確信させたでしょう。お前たちは40年荒れ野を移動していたにもかかわらず、着物は古びず、靴も磨り減らなかったではないか。パンも食べずぶどう酒も濃い酒も飲まずにすませ、今約束の地の手前まで到達したではないか。これを聞いた民は、自分たちの服や靴をみて、神がどのような方であるか本当にわかったでしょう。

こうしてイスラエルの民は、本当の心、本当の目、本当の耳を持った民としてカナンの地に入って行きます。その地には偶像を崇拝する民族が多数おりました。神が約束した土地ですので、神が忌み嫌う偶像崇拝は排除しなければなりません。そのような入り方をすれば、それらの民族との武力衝突は避けられません。最終的にイスラエルの民はカナンの地の隅々まで入植しますが、現実にはカナンの地は、イスラエルの民が独占的に居住する地にはなりませんでした。もとからいた民族はかなり残り、周囲も偶像崇拝する諸民族が取り囲むという状態でした。そういうわけで、イスラエルの民を偶像崇拝に陥らせる力はその後もずっと内外両面にわたって強く働いたのでした。

実際、イスラエルの民がモアブの地で与えられたはずの、神のことを知る本当の心、本当の目、本当の耳は長続きしませんでした。それは、サウル王が登場する前の時代、士師という政治権力と宗教権力を兼ねた指導者の時代に既に起きてきます。王国の時代になって、サウル王が死者の霊にお伺いを立てますが、これは神が最も忌み嫌うことの一つでした。神は「見えるものと見えないもの」の造り主ですから、被造物の人間が造り主の神をさしおいて別の被造物に自分の運命についてお伺いを立てることなど許せないのです。さらに、ソロモン王でさえ晩年は異国の神々を崇拝するようになってしまいます。

王国が南北に分裂した後、北のイスラエル王国はバール神崇拝に走り、最後はアッシリア帝国に滅ぼされます。南のユダ王国は偶像崇拝に陥ったり、天地創造の神への信仰に戻ったりが繰り返されます。ユダ王国で活動した預言者イザヤに対して神は次のように命じます。すでに心が頑なになってしまったこの民の心を一層頑なにせよ、目をもってしても見えなくなるようにせよ、耳をもってしても聞こえなくなるようにせよ、と。恐れおののくイザヤが、いつまで民をそうした状態に置かなければならないのですか、と聞くと、神は答えます。国が荒らされて、民が十分の一になってもさらに大木のように切り倒されて、最後に切り株を残すまでだ。その切り株を神は「神聖な種」と呼びます(6章13節)。それは、神を知る本当の心、本当の目、本当の耳を持つ新しい民の誕生を預言するものでした。

そのような新しい民は生まれたのでしょうか?ユダ王国も紀元前500年代初めにバビロン帝国に滅ぼされ、主だった人たちは異国の地に連行されてしまいました。イザヤ書の40章から55章をみると、イスラエルの民がこのバビロン捕囚から解放されてイスラエルの地に帰還することを示唆する預言があります。この祖国帰還は紀元前538年に歴史的事実として実現しますが、イザヤ書の当該箇所を見ると、民の目や耳が開かれるということが随所に言われます。これは、かつてモーセがこれからカナンの地に入ろうとするイスラエルの民に本当の心、目、耳が与えられる、と言ったことを思い起こさせます。神の民を滅ぼして連行した大帝国が滅び、捕囚の民が祖国に帰還できるというのは、普通ではありえない、まさに出エジプトの出来事に匹敵する神の業でした。本当に、神は生ける方、力ある方、見捨てない方であることを示す業でした。祖国に帰還する民に本当の心、目、耳が与えられた瞬間でした。

ところが、帰還したイスラエルの民は本当に「神聖な種」になったのでしょうか?バビロン帝国滅亡後もイスラエルの民はほとんどの年月を、ペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、ローマ帝国という大帝国の支配のもとで過ごさなければなりませんでした。帰還後の時代のイスラエルの状態がどのようなものであったかについては、旧約聖書は明確に記していません。それでも、祖国帰還後のイスラエルの民の状態について述べているイザヤ書の終りの方をみると、預言者の次のような叫びがあります。「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか」(63章17節)。神がイスラエルの民に本当の心、目、耳を与えないようにしている状態がまだ続いていることを示しています。まだ「神聖な種」は生まれていなかったのです。それでは、神を知る本当の心、目、耳が与えられる新しい民はいつ生まれるのでしょうか?

3.

神を知る本当の心、目、耳は、イエス様の出来事を通して与えられることとなりました。しかもそれらを与えられる人は、もはや血で繋がるイスラエルの民族ではなくなって、イエス様の出来事を心で受け入れて、彼を救い主と信じる人全てに与えられるようになりました。

イエス様が言葉と奇跡の業を通して、人々に神の意思や神の御国について正しく教えていた時、イスラエルの民の宗教指導者たちと衝突を繰り返しました。宗教指導者グループの一つであるファリサイ派との論争の中で、イエス様は、お前たちは自分では見えていると言っているが、本当は見えていない、と指摘するところがあります(ヨハネ9章)。指導者たちからすれば、自分たちは神のことをよく知っている、本当の心、目、耳を持っているということなのですが、神のもとから送られた、神のひとり子であるイエス様からみれば、そんなものは本当のものでもなんでもない。イエス様は、自分がこの世に送られた使命について次のように述べています。見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる、そういう裁きを行う(ヨハネ9章39節)、と。つまり、神のことをわかっていないことに気づき、それではいけないとわかった人には理解できる心、見える目、聞こえる耳を与える。しかし、神のことをわかっていないことに気づかず自分はわかっているから何も問題はないと思っている者には与えない。これがイエス様の行う裁きなのです。前述した旧約の教えから明らかなように、理解できる心、見える目、聞こえる耳を与えたり、与えなかったりするのは神です。イエス様はまさに神と同じ働きをすると言っているのであります。

それではイエス様はどのようにして、神が生ける方、力ある方、見捨てない方であるということを知る心、目、耳を与えるのでしょうか?それは、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で死んだことと、死から三日後に復活されたことで与えられるようになりました。これは、かつて神が示した業、例えば天から食物が与えられるとか、敵の軍勢が壊滅するとか、異国の土地を征服するとか、祖国に帰還できるとか、そういうものとは全く質が異なる業でした。それは、神のひとり子が人間の救いのために自らを犠牲にしたということ、そして一度死んだ者を今度は神が力を及ぼして復活させたという業でした。宗教指導者たちがイエス様に、お前が神の子ならしるしをみせろ、と要求したことがあります。イエス様の答えは、かつて預言者ヨナが大魚の腹に三日間閉じ込められた後に外に出られたがそれと同じことが起こる。それがしるしだ、と答えました(マタイ12章38-41節)。ヨナの遭難と救出の出来事は、イエス様が死んで葬られ三日後に復活して墓から出るという出来事の預言的出来事だったのです。

さて、死からの復活が起きたことで、イエス様とは何者だったのかということが明らかになりました。それは、神が「死の陰府に捨てておかない、その体は朽ち果てることがない」と約束した(使徒2章27節、詩篇16編10節)方であることが明らかになりました。それにあわせて、かつてダビデ王自身が「主」と呼んだ、神のひとり子であることも明らかになりました。そして、神がこの世に送ったひとり子が十字架の上で死ぬというのは、これは、人間が神に対して負っている罪という負債を人間に代わって帳消しにしてくれる、そういう神聖な犠牲の生け贄であることも明らかになりました。この出来事を前にして、人間はどういう態度をとるのか?こういうことが起きた以上、自分が罪ある存在であることから目を背けることはできないと観念して、この私が神から罪の罰を受けないで済むようにと、ひとり子を犠牲にすることさえ厭わなかった神は本当に愛と恵みに満ちた方だとわかるようになるのか。その神の愛と恵みの実現のために自分自身を犠牲にすることを厭わなかったイエス様こそ真の救い主と信じられるようになるのか。そう信じる時、神は本当に生ける方、力ある方、見捨てない方だとわかっているのです。いつの間にか神のことを知る本当の心と目と耳が与えられているのです。

神は一度死なれたイエス様を復活させる力を及ぼしました。そこで、イエス様の十字架と復活の出来事は自分のために起きたのだ、それゆえイエス様こそ自分の救い主だ、と信じて洗礼を受ける者に、神はこの同じ力を及ぼして復活の日に死から復活させて下さいます。その日が来るまでは、洗礼を受けイエス様を救い主と信じる者は、神の御手の中で生きて行くことになり、絶えず神の守りと助けと導きを受けます。洗礼には莫大な力が秘められています。罪には、人間を復活のない死の滅びに陥れようとする力がありますが、洗礼にはそれを無力にする力があります。洗礼には、復活された主イエス・キリストと自分をしっかり結びつける力があります。神の愛と恵みが十分に含まれているのです。
 
もちろん、無力化されたはずの罪はいろいろな隙を狙っては、信仰者が受けた神の愛と恵みを忘れさせようとします。本当の心と目と耳を失わせようとします。しかし、その都度、心の目をゴルゴタの十字架に向ければすぐ、あそこで罪は死滅したと言っていいくらいに無力化されたことがわかります。神に「イエス様は私の救い主です。私の罪の赦して下さい」と祈れば、神は「心配するな、お前の罪はあそこで赦されている」とおっしゃるのです。十字架のおかげで、罪の支配の下ではなく、神の愛と恵みのもとで生きられるのです。

本日これから執り行われる聖餐式にも莫大な力が秘められています。洗礼の時に受けた、罪を無力にする力を自分の内に強め、復活の主と自分との結びつきを一層強める力です。本教会では聖餐式は月一度ですが、兄弟姉妹の皆さん、聖餐式を自分自身の信仰と命そのものにとって大切なものであることを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン