2016年1月15日金曜日

永遠を思う心 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

礼拝説教 2016年1月1日新年の礼拝 スオミ教会

コヘレトの言葉3章1-11節
エフェソの信徒への手紙4章17-24節
ルカによる福音書12章22-34節

説教題 「永遠を思う心」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 西暦2016年の幕が開けました。教会の暦の新年は、既に昨年の11月29日に待降節に入った時に始まっております。世俗の暦では本日が新しい年の第一日目です。この日は、教会の暦ではイエス様の誕生から8日目ということで、ルカ福音書2章21節に記された出来事の日です。イエス様がユダヤ教の戒律に従って割礼を受けて、「イエス」の名前が公けにされた日です。キリスト教会では、特にクリスマス(降誕祭)とかイースター(復活祭)とかペンテコステ(聖霊降臨祭)のような大きな祝祭日にはなっていません。

新年というのは日本では一般に一年の中で大きなお祝いの日になっています。これと全く対象的なのが、私が20数年間滞在したフィンランドでして、クリスマスの期間が「お祝い」の期間になりますが、新年はと言うと、1月1日だけが休日、あとは12月31日まで仕事場もお店もやっていて、一日休んですぐ1月2日からはまた平常通りでした(ただし学校は「顕現日」のある1月6日位まで休み)。

フィンランドでクリスマスが「お祝い」の期間と言っても、日本のクリスマスの雰囲気とかなり違います。まず、12月24日クリスマス・イブの日の正午から職場もお店もみな閉まり、公共の交通機関も本数が激減します。この状態がクリスマスの日12月25日丸一日続きます。26日も休日ですが、一部の店は開きだして交通機関も平常ダイヤに戻ります。この間フィンランド人は何をしているかと言うと、大方はクリスマス・イブまでに実家に帰って、クリスマスの期間をそこで過ごします。クリスマスの前までに大掃除、クリスマスの飾りつけ、カードやプレゼントやクリスマスの料理の準備をします。とにかくクリスマス直前までの忙しさ慌ただしさと言ったらなく、日本の年末のようです。実家で過ごすと言うのも日本の新年の過ごし方と似ています。クリスマスの期間、何日間同じ料理を食べるというのも日本のおせち料理と同じです。ただし、これらはクリスマスの期間だけで、新年は特に大きな休みとは考えられていません。先ほど申しましたように1月1日が休日なだけで、学校が6日の「主の顕現日」くらいまでは休みとなる以外はあとは平常通りです。

フィンランドに滞在していた最初の頃は、クリスマスというのは日本の正月を1週間早めたようなものなんだな、と思ったものですが、年を重ねるごとに大きな違いも見えてきました。まず、フィンランドはクリスマス期間は国中が静まりかえる。とにかく電車もバスも止まってしまい、店も閉まってしまうのですから。日本だったら、初詣に行けなくなってしまい、人も神社もお寺も困ってしまうでしょう。教会に行くのはどうするのかと言うと、みんな地元の教会に行きます。実家に帰った人は実家の、帰らなかったり実家がなければ住んでいるところの教会です。歩いて行ける距離になければ、自家用車を使います。日本のように物凄い人だかりになることはなく、クリスマス・イブの日の夕刻の礼拝は一杯になるところが多いですが、クリスマスの日の早朝礼拝、翌日の通常の礼拝になるに従い出席者数は減るようです。

国中が静まり返って、人々は何をするのかと言うと、外出は教会に行く位で(近年は家でテレビ中継を見るだけの人も多い)、あとはずっと家にいます。食卓を華やかに飾ってクリスマス料理を家族や肉親と一緒に食べて、イブの日にはサンタクロースに来てもらって、親が既に用意したプレゼントを子供たちに渡してもらい、あとは日常のサイクルから解放された状態にいる(annetaan olla)ことに徹します。キリスト教の信仰がまだしっかり根付いている人の観点では、クリスマスというのは、救世主の誕生という大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから離れて、救世主誕生のお祝いに徹する期間ということになります。安息日の精神に通じるものがあります。もちろん現代のフィンランドでは、クリスマスの意味をそこまで自覚して祝う人はもはや少数かもしれません。それでも、自分を超えた何か大きなことのために一時、自分を日常のサイクルから切り離して、その大きなこととの結びつきのなかに自分を置く、という姿勢は残っていると思います。

このようにクリスマスというのは本来、救世主の誕生という自分を超えた大きな出来事に身も心も向けて、生活のために日々行っていることから離れて、救世主誕生のお祝いのために時間を捧げる時です。日本の正月では大勢の人たちが神社仏閣に行きますが、何か自分を超えた大きなことのために自分を日常から切り離して、その大きなこととの結びつきの中に自分を置くということはあるでしょうか?三が日のお店の開店時間がどんどん増えて行くのを見ると、日常からの解放どころか、日常の肥大化があるような感じがしますが、どうでしょうか?(フィンランドでは昨年、法改正があって店の開店時間が自由化されました。クリスマスやイースターの期間に開店する店がどれくらい現れるか、いろんな意味で興味深いと思います。)

2.

 救世主の誕生をお祝いするというような大きなことのために自分を日常から切り離して、そのことの中に自分を置く、というのは限りある日常から離れた「永遠」というものを身近に感じさせることにもなります。先ほど読みました旧約聖書「コヘレトの言葉」3章11節で言われるように、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えました。神にそのような心を与えられたにもかかわらず、日常にどっぷりつかっているだけだと、心は満たされなくなってしまうと思います。

それでは、永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界ですが、それでは時間を超えた世界とは何かというと、それの説明は簡単なことではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造の神しか存在しなかったのであります。神だけが存在していて、その神が万物を創造しました。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26-29節、詩篇102篇26-28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは神の国という永遠が支配する世界です。今ある天と地が造られて、それが終わりを告げる日までは、今ある天と地は時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時はその外側におられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子イエス様がこの世に人間としてお生まれになったというのは、まさに永遠の世界におられる方が、限られたことしかないこの世界に生きる人間たちを、永遠の世界にいる神に守られて生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのためにこの世に来られたのです。人間が永遠の世界にいる神に守られて生きられるように、またこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間を神聖な神と正反対のものにしている、人間に染みついた罪を取り除かなければなりませんでした。イエス様は人間の罪を自ら請け負って十字架の上まで運んで行って、人間にかわって罪の罰を受けて、人間が神の御前でも大丈夫になれるようにして下さいました。「イエス様が私の罪の罰を代わりに受けて下さったので、私は神の御前でも大丈夫な者にして頂きました。イエス様は真に私の救い主です。」そう告白する人は、本当に神の御前で大丈夫な者なのです。

先ほど読んだ「コヘレトの手紙」3章11節では、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」とありました。この「神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」という下りですが、この部分は英語(NIV)、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳も大体同じで、「神のなさる業を見極められない」と言っています(ドイツ語の旧約聖書は手元にないので確認できず)。ただ、ヘブライ語の原語を見れば見るほど、私にはどうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は、永遠というものを人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר)神のなさる業を始めから終わりまで発見することはできないというものを」という訳になるのではないだろうか。手短に言えば、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」という意味です。機会があればヘブライ語の専門家に聞いてみたく思うのですが、それでもイエス様という永遠の御子が心に与えられてそれを受け取ることで、神の救いの業を発見することができるようになるというのは否定できないでしょう。

先ほど読んだ「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」として、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われると、この世で真面目に問題なく生きていても意味がないという気がして、あきらめムードになります。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語の原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない。そこから出発しなければならない。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えれば、そこで起きる出来事は全てこの罪にまみれた天と地の中だけにとどまります。真面目に問題なく生きていても意味がないというあきらめムードになります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、神のみ心、神の正義、神の義が目指し向かうべきものとして見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」というように、今この世の目で見て不幸な状態にいるような人たちの立場が逆転する可能性が満ちているということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。この世の段階で逆転することもあるかもしれないが、しなくとも最終的には「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が完結します。

この世は罪が入り込んだ世界ですので、自分では神の御心に適うように生きようと思っても、自分の罪に足をすくわれたり、また他人の罪の犠牲になってしまうことがどうしても起きてしまいます。そういう時、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られていつかそれを新しいものに変えられる方がいらっしゃることを思い起こしましょう。そして、その方が送られた救い主を私たちが信じ受け入れた以上は、その方は私たちに起こることを全て見届けていて、そういう危機の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっているということを思い起こしましょう。日々聖書を繙き、神の御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは「永遠を思う心」を頂いたのですから、その永遠の方との繋がりや対話を絶やしてしまっては、心は満たされなくなってしまいます。どうか今日始まった新しい年が、兄弟姉妹の皆さんにとって、永遠を思う心が良く満たされる年になりますように。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2016年1月13日水曜日

僕を安らかに去らせて下さる神 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2015年12月27日降誕後主日 スオミ教会

エレミア書31章10-14節
ヘブライの信徒への手紙2章10-18節
ルカによる福音書2章25-40節

説教題 「僕を安らかに去らせて下さる神」

 
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、皆さんもよくご存知のシメオンのキリスト賛歌があるところです。皆さんがよくご存知というのは、この賛歌は礼拝の中のヌンク・ディミティスと呼ばれるところ、聖餐式が終わって教会の祈りを捧げる前のところで一緒に唱えられるからです。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも賛美しているところです。「ヌンク・ディミティス」というのは、この賛美の2つ目の文の中にある言葉「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。この2つ目の文の全文は「主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます」ですが、福音書の中では冒頭に来ます。福音書と礼拝式文とで最初の二つの文の順番が入れ替わっているのですが、この福音書では冒頭の文、式文では二番目の文をちょっとラテン語で読んでみます。
Nunc dimittis servum tuum, Domine, secundum verbum tuum in pace:

なんだかローマ法王みたいな雰囲気になりますが、宗教改革者のルターは、聖書はラテン語を通さず直接原語から訳すことを重視した人です。それで、同じ文を原語のギリシャ語でも読んでみます。
νῦν ἀπολύεις τὸν δοῦλόν σου, δέσποτα, κατὰ τὸ ῥῆμά σου ἐν εἰρήνῃ·

 さて、本日の説教題は「僕を安らかに去らせて下さる神」ですが、教会の外の掲示板用に説教題を拡大プリントした後で、一つのことに気がつきました。「僕を安らかに」と書いてありますが、この「僕」という漢字が「しもべ」ではなく、道行く人たちに「ぼく」と読まれてしまうのではないか。聖書を読む人なら「しもべ」とわかるだろうが、「ボク」と読んでしまった人はどう思うだろうか。「ボクを安らかに去らせて下さる神」だと、なんだかキリスト教というのは人をこの世から静かに退場させる宗教で、この世での活動や生き様をないがしろにするような印象を与えてしまわないだろうか、と心配になりました。それで、漢字の横に「しもべ」と振り仮名を付ければ、安らかに去るのが誰か聖書に登場する人物に特定されて、一般の人には無関係と理解されるのではないだろうかと思ったりしました。

しかし、天と地と人間を造られた神というのは、やはり人間がこの世から去る時は安らかにできるようにするということは否定できないので、問題となっている漢字はむしろ「ぼく」と読まれたほうがいいのではないかとも思われました。神というのはボクも私もあなたも皆、この世を安らかに去らせて下さる方だとわかったら、じゃ出口は整ったので、そこに行くまでの期間をどう生きようか、この期間は神に与えられた時間なので神の御心に適うように生きよう使おう、という心意気になって、それでこの世での活動や生き様をないがしろにすることにはならないのではないか。それで振り仮名は付さないことにしました。

そういうわけで本説教では、イエス様を救い主と信じる者が、シメオンのように、本望だ、もう思い残すことは何もない、という思いでこの世を去ることができるかどうかということも考えてみたく思います。その前に、本日の福音書の箇所にある出来事の中で、聖書をよく読まれる方が一つ疑問に感じることがありますので、それを少し見ていきます。その次に、シメオンのキリスト賛歌を見て、最後にキリスト信仰者の本望について考えてみようと思います。

2.

 本日の福音書の箇所で疑問に感じられることと言うのは、出来事として赤ちゃんのイエス様がエルサレムの神殿にマリアとヨセフに連れられて来ます。それは、ユダヤ教の律法に従って、出産後の母親の清めの儀式を行うためでした。ところが、マタイ福音書2章によれば、生まれたばかりのイエス様はヨセフとマリアともにヘロデ王の手から逃れるためにエジプトに避難したことになっているのです。マタイによれば、親子三人はヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。イエス様誕生後の時間の流れはどうなっていたのでしょうか?

ルカ2章21節をみると、イエス様が誕生後8日目にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。それから22節から24節までをみると、律法によれば、子の割礼後、母親は99日間清めの期間を守らなければならず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4-8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのは、この律法の規定を守るためでした。すると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?約3か月間の清めの期間中は神殿には行けないことになっているので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。

しかし、それでも時間的にうまくつじつまがあわないことがあります。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後で、王の死は歴史上は紀元前4年とされています。するとイエス様の誕生は紀元前4年ないし5年になる。しかしながら、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年としては紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に登録があったという記録は見つかっていない。さらに、普通にはない星の輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。もし、紀元前6、7年をイエス様の誕生年とすると、三人のエジプト滞在は3か月より長くなってしまいます。イエス様はシメオンが腕に抱き上げるくらいの大きさで、あまり大きな子供ではない。また、ヘロデ王が死んだ後、息子のアルケラオがユダヤ地方の領主になって、三人はエジプトからイスラエルの地には戻るけれども領主を恐れてナザレのあるガリラヤ地方に向かったとあります(マタイ2章21-23節)。そういうわけで、イエス様の誕生は紀元前7年から4年の間として、エジプトから帰る途中でエルサレムの神殿で清めの儀式を済ませて、ナザレに戻ったとみるのが妥当なのではないかと思われます。

 こういうふうに、イエス様誕生の後の時間の流れは、ジグソーパズルがもう少しで全部埋まりそうで埋まらないもどかしさがあります。しかし、これはやむを得ないことであります。大人の時のイエス様の言行録は、12弟子という目撃者によってつぶさに目撃され記録され伝えられました。それに比べると、大人になる前の出来事は、ヨセフが生前に周囲の者たちに語ったことや、もっと長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心になるので、目撃者に限りがあります。細部に不明な点が出てくるのは止むを得ないのであります。しかし、大きく全体的に見れば、書かれた出来事が互いに矛盾しすぎて無効になるような、そんな大きな対立点はないのであります。

3.

 イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に立ち寄って、清めの儀式をした時、シメオンという老人が近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が、神の約束されたメシア救世主である、と。ここで、シメオンのキリスト賛歌を見てみましょう。
 シメオンは、「イスラエルの慰め」(παρακλησις του Ισραηλ)を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。

ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありませんでした。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる」ような者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる。実際そうなりました。自分たちこそが旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正しく把握していると思っていた律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、イエス様から全然そうではないと暴露されて、彼に躓いてしまいます。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様を自分の目で見なければならなくなるマリアは、文字通り「剣で心を刺し貫かれた」ようになります。

 しかしながら、イエス様はただ単に反対され、躓きを与えただけではありませんでした。多くの人たちを立ち上がらせることにもなりました。イエス様の十字架の死は、ただ単に反対者から迫害を受けてそうなったということではありませんでした。神の計画がそういう形をとって実現したということでした。それでは、神の計画とは何かというと、それは、人間の罪がもたらす罰を神が人間に受けさせるのではなく、自分のひとり子のイエス様に全部請け負わせたということ、つまり、イエス様を人間の身代わりの生け贄にしたというのが十字架の真相だったのです。神はなぜそうしたかと言うと、罪の罰は人間が受けるにはあまりにも重すぎたからです。さらに神は三日後にイエス様を死から蘇らせて、人間のために死を超えた永遠の命に至る扉を開いて下さいました。人間は、これらのことが罪と死の支配から救われるために神が起こしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪を赦され、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩めるようになったのです。このように、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も多く出たのです。使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者も出た一方で、受け入れずに反対する者も出た。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。

 シメオンがイエス様を腕に抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナという人生の大半をやもめとして生きてきた老婆がやってきました。神に自分自身を捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきた女性です。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιερουσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると話し始めたのです。

シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、またこの出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしていることです。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあり、イエス様の誕生はこれらの預言が実現したと理解されたのです。

イザヤ書の40章から55章までの部分は一見すると、イスラエルの民が半世紀に渡るバビロン捕囚から解放されてイスラエルの地に帰還できることを預言しているように見えます。実際にこの帰還は歴史上起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後も、イスラエルの民の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時代のような勢いはありませんでした。ほとんどの期間は異民族の大国に支配され続け、神殿を中心とする神崇拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実はバビロンからの帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。

加えて、イザヤ書56章から後は、今存在する天と地が終わりを告げて新しく創造される天と地に取って代わるという預言が出て来ます。それで40章から55章までの預言も、そういう終末論の観点から理解されるようになります。イザヤ書53章に登場する有名な「主の僕」という者も、バビロン捕囚で苦しみを受けたイスラエルの民を象徴する者ではなくなって、罪と死に支配される人間を神のもとに立ち返らせて神との結びつきを回復してくれる人類全体の救世主として理解されるようになりました。このように旧約聖書の預言を理解していたのはユダヤ民族の一部でしたが、その理解が正しかったことが、イエス様の降誕、十字架の死、死からの復活で明らかになったのです。どうして、ユダヤ民族のみんながこのように理解しなかったかと言うと、それは、現実に異民族に支配されている状況があって、そこからの解放を夢見ていると、メシアはどうしても自民族の解放者として捉えられてしまったのです。

 シメオンの賛美の言葉もよく見ると、ルカ2章31節と32節に、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります。32節は、イザヤ書49章6節の預言「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」、これが実現したことを言っています。「それにもまして」というのは、原語のヘブライ語では、それでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという意味です。神が自分の僕と呼ぶ救世主のなすべきこと、それは、諸国民の光となり、神の救いを全世界にもたらすことだと言うのです。

 そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味しています。ユダヤ人であるか異邦人であるかに関係なく、その救いを受け取る者が真のイスラエルの民なのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が天上のエルサレムと呼ばれるのであります。

4.

 シメオンは、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと告げられ、そしてイエス様を目にしました。本望だ、もう何も思い残すことはない、という気持ちに満たされました。いつ死んでも悔いはない、というのであります。私たちは今のところはイエス様を目で見ることはできませんが、神がイエス様を用いて実現した救いを受け取ることはできます。その救いを受け取って、シメオンと同じように、いつ死んでも悔いはないという気持ちになれるでしょうか?

人は誰でも、成し遂げたい実現したい計画や志があると思います。計画とか志とかそこまではっきりしたものでなくても、こうなったらいい、こうなってほしいという希望があると思います。そうしたものが実現した時には、本望だ、もう何も思い残すことはない、という気持ちになるでしょう。しかし、もし実現しなかったら、キリスト信仰者といえども、やはり残念無念となり、場合によっては死んでも死にきれないという気持ちが起きるかもしれません。

それでも、キリスト信仰では復活ということがあるのを忘れてはなりません。もちろん、志半ばで終わってしまったら、悲しいし残念無念であります。しかし、キリスト信仰者の場合はそこで全てが終わってしまうことはない。将来、復活の日、最後の審判の日が来て、全ての事柄が最終的に清算される。神の目から見て、この世で払い過ぎを余儀なくされた者は無限と言えるくらいに払い戻しを受け、逆の立場の者は無限と言えるくらいに埋め合わせをしなければならなくなって神の正義が最終的に実現する。その時、永い眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられる者は、この世で中途半端に終わってしまったことが新しい世で完結する。天の御国の祝宴に招かれて、この世での労苦が労われる。このようにイエス様を救い主と信じる信仰を持って生きる者にとっては、この世で神の御心に適う生き方をして、つまり神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛して、無駄に終わるということは決してなく必ず報われるのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、シメオンは約束されたメシアを目にしていつ死んでも悔いはないという気持ちに満たされました。私たちはと言うと、このメシアが実現してくれた救いそのものを受け取ったのです。私たちには、このはかり知れない神の恵みに対する感謝の気持ちがあるので、神の御心に適うようにこの世を生きようと志向します。それで、今すぐこの世から立ち去ってもいいとは簡単には言えません。しかしながら、御心に適うように生きようとして志半ばで終わるようなことがあっても、復活があるゆえに、永久に残念無念に終わってしまうことはなく、シメオンのように本望だ、もう何も思い残すことはない、ということになるのであります。この世の出口でイエス様を全身全霊で信頼してその御手に自分の全てを委ねて天の御国の入り口に引っ張り上げてもらいます。神は本当にボクを、ワタシを安らかに去らせて下さるのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン