2013年12月17日火曜日

イエス様の名前の意味 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年12月15日待降節第3主日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書7章10-14節
ローマの信徒への手紙1章1-7節
マタイによる福音書1章18-23節

説教題 「イエス様の名前の意味」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の日課は、ヘブライ語に由来する二つの言葉が重要な主題になっています。一つの言葉は、「イエス」。これは、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛが日本語に訳された形です。この「ィエースース」Ἰησοῦϛですが、これのもとになっている言葉はヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעです。この「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉ですが、これは「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ユーシャアッ」יושע救って下さる。つまり、イエス様の名前は、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。それで天使はヨセフに、将来「自分の民を罪から救うことになる」(詩篇130篇8節)この子に、「ユホーシュアッ(ヨシュア)」יהושעでיהושעユと付けなさいと言ったわけで、この「ユホーシュアッ(ヨシュア)」יהושעは、やがてキリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛに置き換えられて、それが、後世「イエス」とか「ジーザス」とか「ィエーズス」とか「ィエースス」とかいろんな国の言い方に訳されて現在に至っているというのであります。

 もう一つのヘブライ語に由来する言葉は、「インマヌエル」。これはもともとヘブライ語の言葉「インマーヌーエール」אל עמנוが発音をほとんどかえずにギリシャ文字に置き換えられて、「エンマヌエール」Εμμανουηλと記されています。この言葉は、本日の福音書の箇所にも説明されているように、「インマーヌー」私たちと共におられるのはעמנו、「エール」神であるאל、という意味です。つまり、「神が私たちと共におられる」ということです。この「おとめから生まれる子供の名がインマヌエル(神が私たちと共におられる)と呼ばれる」というのは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書7章14節にあるように、預言者イザヤを通して言われた神の言葉です。

 さて、ここで一つの疑問にぶつかります。将来「民を罪から救う」この子に「イエス」、「ユーホーシュアッ」יהושעという名前をつけることは、ぴったりであるとわかります。本日の福音書の箇所は、その名前をつけることが、「おとめから生まれる子供の名前がインマヌエルになる」という預言の成就になると言っています(マタイ1章22節)。どうして、「イエス」、「ユーホーシュアッ」יהושעという名前をつけることが、その預言の成就になるのでしょうか?イエス様の名前はずっと「イエス・キリスト」であって、「インマヌエル」という名前はつかなかったのではないでしょうか?この疑問は、「主が民を罪から救って下さる」ということと、「神がわたしたちと共におられる」ということの二つの事柄が深く結びついている、二つのことは同じことを意味しているとわかれば問題ではなくなります。そういうわけで、本説教では、この二つの事柄、「主が民を罪から救って下さる」ということと「神がわたしたちと共におられる」ということがどのように結びついているかをみながら、私たちに対する神の愛、神の恵みについて学んでいきたいと思います。

2.

 まず、「おとめから生まれる子供の名がインマヌエルと呼ばれる」という預言について。これは、歴史的にみると、イエス様が誕生する700年以上も昔に、神が預言者イザヤを通して当時のユダ王国の王アハズに述べた言葉です。どんな歴史的状況の中で言われた言葉かというと、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂し、お互い反目しあいながら200年近くがたちました。こともあろうに北のイスラエル王国が隣国のアラム王国と同盟して、兄弟国であるはずのユダ王国を攻撃しようと計画した。この同盟締結の知らせに、アハズ王も国民もパニック状態に陥ったことが、本日の旧約聖書の日課のすぐ前に述べられています。そこで神は預言者イザヤに命じて、イスラエルとアラムの共謀は実現しないから落ち着きなさいとアハズ王に伝えよ、と命じます。それから神はまだおびえているアハズ王に、信じられないならしるしをみせてやるからそれを求めてみよ、とさえ言います。王は、畏れ多くもそんな神を試すようなことはできないと躊躇します。そこで神は、お前たちの信頼不足には疲れ果てた、仕方がないから私の言うことが本当であるというしるしをこちらからみせてやる、ということで、「みよ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉がでたのであります。その言葉に続けて神は、イスラエルとアラムの両王国は、東方の大帝国アッシリアに滅ぼされ、二王国の計画は実現しないと述べます。それらのことは、古代オリエントの歴史にも記されている通り、その通りになりました。

 さて、このおとめから生まれるインヌマエルという子供は誰をさすのでしょうか?ユダヤ教の長い伝統のなかでは、それはアハズ王の子供ヒゼキヤ王をさすというのが有力な見解でした。その理由は、ヒゼキヤ王というのは、歴代の王たちが神に背を向けて生きていた生き方を改め、神のもとに立ち返る生き方を始め、それで神の預言者イザヤの言葉を神の託宣としてしっかり受け入れた王として知られていたことによります。さらに、アッシリア帝国が大軍を引き連れて、今度はユダ王国も攻め始め、最後に残った首都エルサレムも完全に包囲されて絶体絶命になったとき、ヒゼキヤ王は神にのみ依り頼む姿勢を貫きました。そしてアッシリアの大軍は突如神の御使いに撃たれ一夜にして18万5千の兵を失って総退却となる(列王記下19章35-36節、イザヤ書37章36-37節)というようにヒゼキヤ王はエルサレムを救った理想的な王様として描かれたことがあります。それで、このインヌマエルはヒズキヤ王をさすのだと。

 ところが、それではヒズキヤ王はおとめから生まれたのかという疑問が起こります。もしそうだとすると、聖霊の力によって身ごもったのはイエス・キリストが最初ではなく、その700年前にすでに前例があるではないか、ということになってしまいます。そこで、イザヤ書7章14節のイザヤの預言の中にある「おとめ」という言葉、へブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהをみてみましょう。この言葉は実は、「おとめ」の意味も「若い女性」の意味も両方ある言葉なのです。それで、ヒズキヤ王は、父のアハズ王と誰が若い妃の間に普通の人間の子供として生まれてきても何も問題はないのであります。

そうなると今度は、「聖霊によってやどりおとめマリアから生まれた」と、キリスト教の信仰告白で唱えられるイエス様の超自然的な誕生は、預言書の根拠を失ってしまうのでしょうか?

実は、ユダヤ教の伝統のなかで、この「インヌマエル預言」はヒズキヤ王で完結することはなかったのであります。神の民を苦境から救い出すインヌマエルはこれから出てくるのだ、ヒズキヤ王は実はまだ預言の成就ではなかったのだという見解が出てくるのであります。というのは、ヒズキヤ王はエルサレムを守った理想王ではあったけれども、その後で大きな失点を残してしまう。列王記下20章とイザヤ書39章に記されているように、アッシュリアの退却後、平穏を回復したユダ王国にバビロン王国からの使者が来ます。バビロンとは、約100年後にユダ王国を滅亡させ、その民を捕囚として連行して行った国です。ヒゼキヤ王は、使者たちに、ユダ王国の宝物、武器一切のものを見せてしまいますが、それはしてはならないことだったとイザヤに告げられます。さらに、ヒズキヤ王の次に即位したマナセ王は、完全に神に背を向ける生き方を始め、神の意志に背く宗教政策をとってしまいますが、それは、列王記下24章3-4節に記されているように、やがて起こるバビロン捕囚の運命を決定づけてしまったのであります。こうした歴史の変遷が起きたために、インマヌエル預言は本当は後の世に成就されるものだと理解されるようになったのであります。イザヤ書も終わりのほうになると、神がご自分の民を最終的かつ完全に救う日は、新しい天と地が創造される日である(66章17節、22節)と記されていますが、このように救いの日と歴史や自然の大変動が一緒に起こると理解されるようになりっていきます。そういう流れの中で、救いの担い手が普通の人間ではないと理解されるようになっていきます。こういう時に、先ほど二つの意味があると申しましたヘブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהの意味も、「若い女性」から「おとめ」に理解されるようになったのであります。こうした理解の変化が起きたことを端的に示すのが、紀元前3世紀頃からヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時に、問題となっている言葉「アルマーハ」עלמהが、はっきり「おとめ」だけを意味する言葉「パルテノス」παρθένοϛに翻訳されたのであります。本日の福音書の日課にあるイザヤ書の引用ですが、それは、ギリシャ語訳の旧約聖書をそのまま用いており、それは当然のことなのであります。

以上に加えて、おとめから子供が生まれる時、聖霊の力によって宿るということについてみてみますと、神の霊というものは、預言者に託宣を伝えるだけが仕事ではありません。創世記1章2節やエゼキエル書39章9節等からも明らかなように、無から命を創り出すという働きもあるのであります。それで、おとめから子供が生まれるという通常起こりえないことが、天地創造の神の業としてありえることなのだと理解されたのであります。

以上、インヌマエル預言の歴史的変遷を大ざっぱにみてまいりました。旧約聖書を理解するには、単に歴史的事実に即した理解では不十分で、神の人間救済計画という広大な観点を併せもって理解する必要があることが明らかになったと思います。(聖書の現代語の訳の中には、イザヤ書のこの箇所で「おとめ」と訳するのをやめて「若い女性」に置き換えたものもあります。そういう訳者は、おとめから生まれるなどとは歴史的事実になりえない、と主張します。)

3.

 さて、本日の説教の中心課題であります二つの事柄、「神が私たちと共におられる」ということと、「主が御自分の民を罪から救って下さる」ということが、どのように結びついているか、ということをみてまいりましょう。

 まず、「主が御自分の民を罪から救って下さる」ということについて。これは、詩篇130篇8節にある預言の言葉であります。ユダヤ教の伝統的な考え方では、「神が民を救う」というのは、神がイスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解がよくされます。ここでは、何から救われるということについて、相手が外敵や侵略者ではなく、罪であるということに注意する必要があります。「罪から救って下さる」というのは、「罪がもたらす神の怒りや神の裁きから救って下さる」ということです。神の怒り、神の裁きというものは、それを受けるならば、人間はこの世の人生の段階では自分の造り主であるはずの神との関係が断ちきれたままの状態になってしまい、この世から死んだ後も造り主のもとに永遠に戻れなくなってしまう、ということです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことがきっかけで、罪が世界に入り込み、人間は死する存在になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。全てを創造された神に背を向けて生きようとする性向がそれであります。もちろん、世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのであります。

それでは、神は、預言の言葉のように、どのようにして人間を罪から救い出すのでしょうか?それを知るために、神が私たちのために御自分のひとり子イエスを通して行ったことをみる必要があります。人間は一人ひとり罪と不従順のために神との結びつき断ちきれていて、この世から死んだ後も永遠に神のもとに戻れないようになってしまった。イエス様は、こうした人間に張り付いている罪の呪いを全て自ら請け負って、私たちの身代わりとして十字架の上で、私たちが死ぬべき死を受けられた。そこで神は、イエス様が私たちのかわりに全てを償ったと見なして、イエス様の身代わりの死に免じて、私たち人間の罪を赦すという道を採られたのであります。

別の言い方をすると、私たちが身にまとっている罪という汚れた衣をとって御自分にまとい、御自分の汚れなき白い衣はそれを取って私たちに被せてくれたということであります。神はその汚れた衣を着たイエス様を死に引き渡し、白い衣を着せられた私たちの罪は問わないと宣されたのです。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、このように法律で言う恩赦の意味合いが強くあります。実際、北欧のルター派教会では、「恵み」を言い表す言葉は「恩赦」を言い表す言葉の類義語であります(スウェーデン語のnåd-benåda、フィンランド語のarmo-armahtaa)。さらに、御自分の一人子の尊い血、命を代価として、私たちを罪の人質状態から解放したとか、買い戻したと言ってもいいと思います。私たちの新しい命はそれ位に高価なものなのです!それだけではありません。神は、今度はイエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間のために開かれたのです。このようにして神は、イエス様を用いて人間の救済を全部整えてしまったのであります。救済は神の方で完成させてしまったのであります。

 このように神がイエス様を通して行われたことは、最初の人間のときに損なわれてしまった神と人間との結びつきをもとにもどすことそのものでありました。しかしながら、イエス様が十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのであります。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えられた救済を自分のものにしないと、この完成済み救済は人間の外側によそよそしくとどまるだけです。ではどうしたら救済を自分のものにできるのか?そのためには、各自まず、「あの、2000年前に神がイエス様を通して行われたことは、実は今を生きる自分にかかわっていたのだ、あれはこの私のためにもなされたのだ」と気づき、それを信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けることで、イエス様の白い衣を頭から着せられ(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23-24節とコロサイ3章9-10節では着せられるのは霊に結びつく新しい人)、天地創造の神の霊を受けられることになります。使徒パウロの言葉を借りれば、聖霊を受けるというのは、完成済み救済の所有者になったことの証明印を押してもらうようなことだということになります(エフェソ1章13-14節)。

 それでは、信じて洗礼を受け、神の完成された救済を所有するようになったら、それで終わりかというと、必ずしもそうならない。ルターがよく強調することですが、キリスト信仰者の人生とは、洗礼を通して私たちに植えつけられた内なる新しい人を日々育て、前々から存在する内なる古い人を日々死に引き渡す長いプロセスだということがあります。イエス様の白い衣を上からかぶせられたといっても、この世に生きている間、私たちはまだ肉をまとっています。私たちの内なる新しい人は、神に従順です。神を全身全霊で愛し、また隣人を自分を愛するが如く愛するのが当然であり、喜びであると考えます。しかし、内なる古い人はそんなことは当然でもないし、喜びは別のところにあると教えます。このような神への不従順は、実に私たちキリスト信仰者も共有している、ということは誰しも認めざるを得ないでしょう。そういうわけで、洗礼で始まる新しい人生のプロセスは、実に、聖霊に結びつく新しい人と肉に結びつく古い人との間の内的な戦いのプロセスということになります。ルターによれば、私たちが死ぬときに、古い人間も肉とともに滅び、私たちは完全に復活の命をもつことになります。その意味で、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになった者にとっては、死は完全な終わりではなく、現世の命と永遠の命をあわせた長い命の中にある一つの通過点のようなものになります。

4.

最後に、キリスト信仰者のこの世の人生のプロセスでは、今神の右に座すイエス様は、私たちの目に見えない形で絶えずともにおられるということに注意を喚起したく思います。2000年前のユダの地でイエス様の教えを聞き、癒しを受け、十字架と復活の出来事を目撃した人たちと違って、私たちにはイエス様が身近にはおられません。しかし、聖書を通してイエス様や神の考えや意思を2000年前の人たちと同じように知ることができます。イエス様の声は聞こえませんが、聖書を読めば読むほど、聖書に聞けば聞くほど、イエス様の弟子たちと同じくらいに私たちはイエス様のそばにいることになります。

それから、聖書の言葉は力に満ちた神の言葉ですから、ルター派の教理問答書が教えるように、この言葉を語りかけることで洗礼式の水はただの水でなくなり、聖餐式のぶどう酒とパンはただのぶどう酒とパンでなくなって、それらはイエス様がその場に臨在することを保証するものにかわります。そうした水をかけられることでイエス様の義という白い衣をきせられ、そうしたパンとぶどう酒を口にすることで、イエス様の義を栄養として体内に摂取します。私たちが内なる古い人の傲慢さに疲れ、悲しむとき、聖餐式で摂取したものは、目に見えない形で栄養を発揮します。私たちの内に宿る罪と不従順は私たちを神から引き離す力を既に失っており、罪と不従順が力を揮ったように見えても、それは見かけ倒しで実際は何の実力も効力もないということを確かなものにする、それが聖餐のパンとぶどう酒です。内なる戦いを戦っていない人、自分はもう完全に新しい人になったと思いこんでいる人には、聖餐は意味がありません。そのような人は、自分はキリストはいらないと言っているのと同じです。内なる戦いを真摯に戦っている人にこそ主はともにおられるのです。このように、私たちを罪から救って下さる主「ユホーシュアッ」יהושעは、私たちと共におられる「インマーヌーエル」אל עמנו のです。
「ユホーシュアッ」יהושע、「インマーヌーエル」אל עמנו!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン




2013年12月9日月曜日

造り主のもとに立ち返る者が結ぶ“良い実”とは? (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2013年12月8日待降節第2主日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書11章1-10節
ローマの信徒への手紙15章4-13節
マタイによる福音書3章1-12節

説教題 「造り主のもとに立ち返る者が結ぶ“良い実”とは?」



私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間であります。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、のお祝いですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世の終わりにあたる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なる神以外には知らされていないのであります。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものであるとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは取り組むために神が与えられたものという認識があります。それらは実に神由来であるがゆえに、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題があれば、解決に向けて努力していく。そうした世話や改善や解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかどうか、ということを絶えず考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。

さて、主を待ち望む者が心得ておくべきことあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

2.

 本日の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章80節によれば、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝え始めます。大勢の人々が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この洗礼者ヨハネの登場がいつだか詳しく記されています。それは、ローマ皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤ地域の総督、ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方の領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、そしてアンナスとカイアファとがエルサレムの神殿の大祭司であった時でありました。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年ということですが、ティベリウスは西暦14年の9月に即位したので、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。いずれにしても、西暦28年か29年の出来事だったということになります。

 洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というものでした。「天の御国」とは、他の福音書で「神の国」と言われているものと同義です。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えています。それでは、「天の国」、「神の国」とは、どんな国かと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章に記されていますが、この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまう終わりの日に、唯一揺り動かされずに残る国であります。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地を取り除いて新しい天と地にとって替えるということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で出現することが記されています。 

 そんな国が2000年前に「近づいた」と言われたのは、一体どういうことか?神の国というものが、今ある天と地がなくなってこの世の終わる時に出現するのであれば、今ある天と地は当時も今も変わっていないではないか?新しい天と地はまだ創造されていないではないか?2000年前に「神の国」が近づいたというのは、イエス様が不治の病の人々を完治したとか、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたとか、大嵐を静めて舟が沈まないようにしたとか、悪霊に憑りつかれた人を救ったとか、そういう無数の奇跡の業に関係があります。黙示録21章4節に言われていますが、将来出現することになる神の国とは、「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」ところであります。2000年前のイエス様の存在と活動は、そのような将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で、人々に味あわせる、人々にその存在を体験させる、そういう意味がありました。そういうわけで、神の国が本格的に出現するのは、あくまでイエス様が再臨する日、今の天と地が新しい天と地にとって変わられる日なのであります。

それでは、今私たちは「神の国」と無関係なのかというと、そうではありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の国と既に結び付けられているのであります。もし、イエス様の再臨が私たちが生きている時代に起きれば、私たちはそのままそこに迎え入れられるのであり、また、再臨の前に死んでいたのであれば、私たちは主の再臨の日に復活させられてそこに迎え入れられるということであります。

 洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが来て神の国が本格的に出現すると言ったのではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、ということを意味していたのであります。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは、「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書に数多く出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになるのです。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになったのです。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主でおられる神に対して背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国を体現なさる方が来られるからだ。その方を通して、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

3.

さて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知らないので、彼のスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来る、今ある天と地が預言の言った通りに新しい天と地に取って替われる日がすぐ来る、と理解したようです。そのような終わりの日はまた、預言書に基づき、神が人類全てに裁きを行う日であるとも理解されていました(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)。実際、ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは、斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと非難します。人々は神の怒りと裁きから免れるために、神に対する罪と不従順を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際しては罪を告白したのです(6節)。

 どうしてヨハネの洗礼と罪の赦しが結びついたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。ヨハネの洗礼は、一見清めの儀式に似ているところがありますが、実は大きく異なるものでした。皆様もご記憶にあるかと思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為に食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζω、βαπτισμοςが使われています(マルコ7章4節)。つまり、これらの清めの儀式も洗礼の一種なのであります。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものは、十戒をはじめとする律法と呼ばれる様々な掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないのだ、神の意思の実現・体現には程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではないのだ、とイエス様は教えるのであります。

 人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この罪の赦しの救いを受け取ることができます。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を衣のように着せられるのであります(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23-24節とコロサイ3章9-10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。

 ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のものです。神が人間に与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。そうですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは、人間を神のもとへの立ち返りに向かわせるきっかけか出発点のようなものです。これに対して、人間が神の国に迎え入れられることを確実にするような完璧な罪の赦しが必要です。それが、前述したイエス様の身代わりの死がもたらした罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言します。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。火を伴う、というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は、罪を内在させていますが、洗礼を受けることで、人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、罪を内在させてはいても、信仰にとどまる限り、罪自体には人間を神の国から引き離す力は消滅している。その意味で人間は罪から浄化されているのであります。

 こうして人間は、神の国に迎え入れられる道に置かれて、その道を歩むこととなりました。そして、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神から守りと良い導きを得られてこの世の人生を歩むようになり、万が一この世から死ぬことがあっても、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。このようなはかりしれない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。

 完全な罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではなかったけれども、ヨハネが人々に自分の洗礼を呼びかけたというのは、ファリサイ派が唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている存在である、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすることで、人間は、もうすぐ実現することになる罪の奴隷状態からの解放を全身全霊で受け入れられる器になれる、ということであります。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということなのであります。人間の掟で汚れが無くなると言うなら、もう神が実現する救いはいらなくなってしまう。それでは、道は整えられず、でこぼこはそのままなのであります。

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以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事をもって、「神のもとへ立ち返る」生き方ができる手がかりを得ることができました。それは、律法を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に内在し罪に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てること。これが、「神のもとに立ち返る」道を歩むことであります。これが、ヨハネが結びなさいと言った「悔い改めにふさわしい実」、「良い実」であります。「悔い改め」とは本説教では「神のもとに立ち返ること」でありますから、「神のもとへの立ち返りにふさわしい実」であります。

もう少し具体的に言うと、あるキリスト信仰者が、一生懸命の努力とお祈りをもって何か事業に成功して、お金持ちになったり名声を博したりしたとします。「良い実」というのは、この成果のことではありません。この人が、この成果を自分のためにではなく、神の意思に沿うように用いようとすること、つまり神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することとに沿うように用いようとすること、これが「良い実」であります。ある信仰者は、別に事業も起こさず、お金持ちにも有名にもならない、とします。もしその人に伴侶がいれば、こんな至らぬ自分にも神は顧みて伴侶を与えて下さったのだと感謝して、神の愛と恵みが満ち溢れるような家庭を築いて行こうとすること。また子供がいれば、こんな至らぬ自分にも神は顧みて子供を授けて下さったのだと感謝して、子供にも神の愛と恵みが伝わるように育てていこうとすること。これが「良い実」であります。また、不運にも病の床について、事業も起こせず、家庭も通常通りに築いていけない場合、このような境遇にあっても、大勢の方の気遣いと祈りに支えられて生きることができるくらい神は顧みて下さると感謝すること。そして、自分も、自分自身のことに加えて、出来るだけ多くの人たちのためにお祈りをすること。これが「良い実」であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン