2025年3月4日火曜日

イエス様の変容 ― 私たちの希望と勇気の源(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年3月2日 変容主日 スオミ教会

 

出エジプト記34章29-35節

コリントの信徒への第二の手紙3章12節-4章2節

ルカによる福音書9章28-36節

 

説教題 「イエス様の変容 ― 私たちの希望と勇気の源」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.        はじめに

 

 本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節の最後の日曜日です。水曜日からイースター・復活祭に向かう四旬節が始まります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ172節とマルコ92節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

 

 イエス様の変容の出来事は、実はキリスト信仰者にとってこの世を生きる希望と勇気の源になることを教えています。今日はこのことを見ていきます。ところで、この出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ827節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と特定できます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

 

2.      山の上での出来事

 

 さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。少し詳しく見てみましょう。

 

 最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも夢の話と考える人もいるかもしれません。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディアグレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという言い方です。それで、モーセとエリアの出現は夢ではなくて現実に起きたことなら、彼らはやはり幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来にみんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。

 

 それなのでキリスト信仰の天国は他の宗教の天国とかそれに類するものと大きく異なっています。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類するものは、この世から死んだ後すぐ、ないしは30何年後とかの後で到達できるというものです。つまり、今のこの世がまだ存在している時に到達できるのです。ところがキリスト信仰では、到達は今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その時が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きます。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日に先立って死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということです。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ539節、ヨハネ1111節、第一コリント151820節)。このようにキリスト信仰では死は復活の日までの眠りで、その時に永遠の安寧に入れるか永遠の滅びに入るかの振り分けが起こります。

 

 他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日まで神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記1931節、申命記1811節、サムエル記上216節、イザヤ書819節です。

 

 次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中にもう出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然霧に覆われて視界が無くなるというのは、何も特別なことではありません。その霧は麓から見ると雲なのです。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

 

 あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(1823節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよくわきまえていなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。

 

3.イエス様の変容と受難の道の選択

 

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ932節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は神聖な神の子としての本質を顕わにしたのです。

 

 フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(67節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが言われています。さらに、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが言われています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の本質を目に見える形で顕した出来事だったのです。

 

 そこで34節を見ると、「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」と言っています。ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、乗りかけた「雲」から降りてしまって、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?

 

 それは、私たち人間が復活の日に目覚めさせられて、神の栄光を映し出す輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。そうするためにイエス様は受難の道を進んでゴルゴタの十字架にかけられる道を選んだのです。どうしてそのようにしなければならなかったのでしょうか?

 

 それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪を除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現する神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、それは人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分というものではない、心の中で兄弟を罵ったら同罪と教えました(マタイ52122節)。「姦淫するなかれ」も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同2728節)。詩篇51篇でダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。このように罪は洗い清めなければならない汚れなのです。その洗い清めはもはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 

 そこで神は、できない人間にかわって自分で人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。では、「赦す」ことがどうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のことです。

 

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、つまり不問にするからこれからは神に背を向けず神を向いて新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは全て本当のことだとわかり、それでイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそれを神の守りと導きのうちに進むことになるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、「罪の赦しの救い」という神の贈り物を準備するためでした。私たちはこの贈り物を素直に受け取ってそれを携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。もちろん、全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそこを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、37節辺りから見ていくとわかるようになります。

 

 神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現すのです。しかし、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。というのは、神の栄光を映し出せる位に心の奥底まで掟を完璧に守ることは出来ないからです。それで、十戒は人間が誰でも罪を持っていることを明らかにする鏡です。なので、神の栄光を現す神聖な掟は人間を罰に定めてしまうのです。十戒だけでは人間は神聖な神のみ前に立たされた時、裁かれてしまうのです。

 

 しかし、神の御心はあくまで人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てて、神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。パウロが3章の9節で言っていること、人を罪に定める務め、つまり十戒の務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務め、つまりキリストの務めは、なおさら、栄光に満ちて溢れているというのはこのことです。

 

 そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の焼き尽くす危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがイエス様の十字架と復活の出来事が起こって、この世は神から罪の赦しを頂ける時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままで真の栄光を見ようとしない人たちがいることをパウロは嘆きます。

 

 しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けているので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。

 

 12節「この希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており」と言う時の希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使う時は、大抵は復活と神の栄光の映し出しを指しています。キリスト信仰者は、この希望から勇気を得ると言うのです。その勇気ある生き方の具体例が42節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について人々に真理を語る。そして他の人たちに向かって次のように言えることも。「私たちは罪の赦しの恵みに留まって生きる者です、なので神のみ前でやましいところは何もありません、どうぞそれをあなたたちの良心で判断してみて下さい」と。このように復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われどう思われようと全然平気です。人間は神ではないので恐くはないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン