2025年2月24日月曜日

この世で正義は不完全だが、最善を尽くして復活の日に清算してもらおう(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年2月23日顕現節第7主日 スオミ教会

 

創世記45章3-11、15節

コリントの信徒への第一の手紙15章35-38、42-50

ルカによる福音書6章27-38節

 

説教題 「この世で正義は不完全だが、最善を尽くして

      復活の日に清算してもらおう」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日のイエス様の教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者を祝福せよとか、汝らを侮辱する者のために祈れとか。お前なんか地獄に落ちろと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さいなどと祈らないといけないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげないといけないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞ、とは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?

 

 これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰もキリスト信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、困りました、どうしましょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者が物事を見る視点、キリスト信仰に特有な視点について教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が教えようとしている視点とは何か、考えなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

 

2.神が与えたものにではなく与えて下さる神に固執せよ

 

 イエス様の実行困難な教えは他にもいろいろあります。どれも聞く人読む人にショックを与えます。一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせるやり方です。

 

 イエス様は金持ちの青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。それに対してイエス様はこう返しました。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。

 

 このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。神が用意して下さったものを受け取ることでしか救いは得られないということです。もう一つは、人間は賜物を賜った神よりも賜ってもらったものに固執してしまうということ。賜ってもらったものに固執して賜ったお方を忘れるようになったら神は賜物を取り上げることも辞さないということです。

 

 まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったりすると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。それは、いつか将来今ある天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に死の眠り復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる。これがキリスト信仰の救いです。

 

 そう言うと、救いとは遠い将来のことで新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。ただ、神が守って導いて下さるとは言うものの、苦難や困難に出くわすと守りなんかないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として私たち人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。

 

 キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世ではそこに至る道を神の守りと導きを受けながら進むことができる、これがキリスト信仰の救いです。

 

 この救いは人間の力では獲得できません。それを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようにしっぺ返しを喰らってしまいます。それでは、なぜ人間の力では獲得できないのか?それは、人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっているためです。その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによって人間は救いを獲得できるようになったのです。イエス様はどうやって解消したのでしょうか?それは、人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は私たち人間がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。このようにイエス様が果たして下さった罪の償いを信仰と洗礼で自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。

 

 金持ちの青年の出来事が教えているもう一つの大事なこと、人間は賜物を賜った神よりも賜物の方に固執してしまうことについて。神は固執する対象を訂正するために手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。たとえ賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執する心を持っていなければならないのです。宗教改革のルターはその心は次のようなものだと教えます。

 

「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからしか得られないと思ってしまう位に愛しいものになってはいけない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えになるのをやめると言われるのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」

 

 本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えは、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に追いやって賜物に執着してはならない、執着している限りそんな賜物は取られ奪われて当然だということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきです。そこで、もし逆にルターが教えるように神に固執して賜物を持っていたのに、不当な取られ方、奪われ方をされたらどうするのか?つまり、賜物が取られ奪われるのが当然ではない場合です。それは正義の問題になります。次にそれを考えます。

 

3.この世で正義は不完全だが最善を尽くし復活の日に清算してもらおう

 

 まず、敵を愛せよ、頬を差し出せという教えを見ます。これらも、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。イエス様はマタイ5章でも同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くでしょう。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前よくすると悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれるとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?

 

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです(神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書1823節と3311節を見れば明らかです)。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛しています、などと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 

 ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活と最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげる、ということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

 

 復讐心で行わないということには、神がそうせよという命令があるからですが、もう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者が神から罪の赦しを受けた立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が膨張するのを抑える力になります。神聖な神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで私は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は復活の日に向って進む私を毎日支え守り、道を迷わないように導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。至らないところが沢山ある私だが、イエス様がこの私のためにも成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さずつけて生きている。その私を父なるみ神は毎日支え守り導いて下さる。

 

 本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」この教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。十字架と復活の出来事が起きる前にこれを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活と完全な正義に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私はあいつを裁く、罪びとに定めてやる、赦さないなどと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われるでしょう。イエス様の教えは、私はできない、できない、絶対できない、と言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて簡単なことではありません。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪として、この世では不完全かもしれないが罰せられねばなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。

 

4.勧めと励まし

 

 本説教で、キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々である、復活させられて神の御国に迎え入れられる日を目指して、今はこの世で神の守りと導きを受けながら進む日々であると申しました。苦難や困難に遭遇すると守りや導きを疑ってしまうかもしれませんが、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることである、それなので神の守りと導きは時として私たちの理解を超えた仕方で現れることがあるとも申しました。本日の旧約の日課、創世記45章のヨセフの信仰の証しがそれを示しています。愛のない兄弟たちの策略でヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされ、苦難に次ぐ苦難を受けます。しかし、最後にはエジプトの王ファラオに次ぐ高官に任命されるまでに至ります。その時、カナン地方を大飢饉が襲い、兄弟たちは食糧援助を求めてエジプトに来ました。今自分たちの目の前にいる高官がヨセフとわかって彼らは激しく動揺します。しかし、ヨセフは言います。あなたたちが私をエジプトに追放したのではない。後にあなたたちを救うために神が私をエジプトに送ったのだと。ヨセフは、兄弟たちに裏切られて売り飛ばされた時も、その後のエジプトでの様々な苦難の中にあっても、神がそばにおられることを信じて疑わなかったのです。もし疑っていたら、様々な誘惑があった時、神の意思に沿うなど意味がないと背いてしまったでしょう。しかし、背きませんでした。それは、まさに今日の詩篇の日課37篇にある、「主に信頼し、善を行え」という御言葉、「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように輝かせて下さる」という御言葉の通り、神に信頼して善を行い、そしてその正しさが光のように輝いたのでした。

 

 こう言うと、ヨセフの場合は運よくそうなったが、神に信頼して善を行ってもみんながみんなハッピーエンドにはならないと言う人も出てくるでしょう。ああ、信仰の薄い者たちよ、そんなことを言うあなたがたは、なぜイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたのかまだわからないのか?復活というものが本当に起きることが明らかになった以上は、正しさが光のように輝くのはたとえこの世の段階でなくても遅くとも復活の日に完全に起こるということがわからないのか?

 

 だから、神を信頼して善を行うことは何も心配しないで行って大丈夫なのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン