2021年6月7日月曜日

償い 買い戻し 赦されない罪 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年6月6日 聖霊降臨後第二主日

 

創世記3章8-15節

コリントの信徒への第二の手紙4章13節-5章1節

マルコによる福音書3章20-35節

 

説教題 「償い 買い戻し 赦されない罪」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

 本日の福音書の箇所にはとても重苦しいことがあります。28節でイエス様は、「全ての罪は赦される」と言ったと思いきや、すぐ後の29節で、永遠に赦されない罪があると言うのです。聖霊を冒涜することがそれです。罪が「赦される」と言う時、新約聖書のギリシャ語で「~される」の受け身の形は普通、天の父なるみ神が隠れた主語になっています。それで、神は全ての罪を赦すが、聖霊を冒涜する罪は赦さない、ということになります。本日の説教では、神に赦されない罪、聖霊を冒涜する罪とはどんな罪なのかということについて見ていきます。その場合、罪が赦される/赦されないというのはどういうことかということも考えなければなりません。さらには、赦される/赦されないと言っている当の罪とはそもそも何なのかということも確認しなければなりません。そういうわけで本説教では最初に、こうしたキリスト信仰の基本的な事柄である罪について見ていきます。その後でイエス様が言われる赦されない罪、聖霊を冒涜する罪について見ていこうと思います。

 

2.根本的な罪 受け継がれる罪

 

 聖書の観点では人間はみな罪びとです。そう言うと、自分は何も犯罪を犯していないのにどうしてそんなことを言うのかと嫌がられます。しかし、聖書の観点では罪というのは個々の悪い行為だけでなく、もっと根本的なものも含めて言います。根本的なものとは、万物の創造主の神の意思に背こうとする性向を人間誰しも持っているということです。これが根本的な罪で、これがあるから何かのきっかけで具体的な悪い行為、悪い言葉、悪い思いになって現れるのです。

 

 人間にそういう根本的な罪、全ての罪の源としてある罪が備わるようになってしまったことは、本日の旧約の日課の前にある有名な堕罪の出来事の中に記されています。最初の人間アダムとエヴァは神から、エデンの園の真ん中にある木の実は食べたら死んでしまうから食べないようにと言われていました。そこへ悪魔がヘビの姿形を取って現れてエヴァをそそのかして言います。その実を食べても死なないよ、神がそんなことを言ったのは、人間が食べたら神のようになって善と悪がわかるようになると知っているからなのさ、神は人間が自分のようになれるのを嫌がっているのさ、だからそんなこと言ったんだよ、という具合にです。そう言われたエヴァは木を今一度見てみます。なんともうっとりさせられる麗しさで、実の方もこれを食べたらいろんなことがわかるようになりますよ、だから早く食べてねと言っているみたいで、抗しがたくなってしまいました。エヴァは、神がいけないと言った言葉など耳の奥から消えてしまい、ついに実を取って食べてしまいました。その実をアダムにも渡して、彼も食べてしまいました。

 

 すると、二人の目は今までと異なる見方が出来るようになり、善と悪が分かるようになりました。しかし、神のようにはなれませんでした。なぜなら、神が善と悪をわかるというのは裁きを行う資格があるということで、人間は神のような裁き主にはそもそもなれないからです。裁き主になれないで善と悪をわかるとどうなるかと言うと、それは善だけでなく悪も行えるようになって神から裁かれる立場になってしまったということです。本当にあの実さえ食べなかったら、神と人間の関係は裁く側と裁かれる側の関係にはならなかったのに余計なことをしてくれたものだと思います。もちろん全てはヘビの巧みな誘導作戦のせいですが、食べたら神のようになれるぞという言葉で弱みにつけ込まれたのです。人間は別に神のようになろうとしなくてもよかったのです。最初のままで生きる上で何も問題はなかったのです。人間が神のようになろうとしたことがいけなかったのです。

 

 ところで、アダムとエヴァがしたことは、ただ何か特殊な木の実を食べただけで、別に殺人とか盗みとかいうような罪を犯したわけではありませんでした。それなのに何でそんなに大騒ぎをするのかと思われてしまうかもしれません。でも、やはり重大なことが起こったのです。それはこの出来事をきっかけに人間が神の意思に背くということが起きたのです。その動機として、自分を神の下にとどめておくことに満足せず神と張り合おうとする大それた願望が芽生えたのです。そして善悪がわかるようになって悪も行えるようになり神の審判を受ける立場になってしまったのです。これらが根本的な罪となったのです。これがあるから、人間は何かのきっかけで個々の様々な罪を犯すようになったのです。

 

 そう言うと今度は、それはアダムとエヴァ個人の問題で、それ以外の人は関係ないのではないかと言われるかもしれません。ところが神が警告した通り、その実を食べたために二人は死ぬ存在になりました。そして人間はみな代々死んできました。つまり、この世から死ぬということが人間はみなこの根本的な罪を持っているということの現れなのです。

 

 ここで、この根本的な罪の呼び方ですが、日本語では「原罪」と言います。大元にある罪という意味です。英語はオリジナル・シンと言い、同じ意味です。ところが、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語では「受け継がれる罪」、「相続される罪」という言い方をします(Erbsünde、arvsynd、perisynti)。この罪に対して「行われる罪」というのが別にあります(スウェーデン語とフィンランド語でgärningssynd、tekosynti、ドイツ語にもありますか?)。殺人や盗み、偽証や改ざん、不倫、悪口、妬みなどは「行われる罪」です。これらは「受け継がれる罪」ではありません。「受け継がれる罪」は根底的なところにある、神の意思に背こうとする性向です。それがあるから何かのきっかけで「行われる罪」が犯されます。私としては、「原罪」というとアダムとエヴァ止まりの感じがしてしまうので、「受け継がれる罪」と呼ぶのがいいと思います。

 

3.罪の赦し、償い、買い戻し

 

 こうして人間は「受け継がれる罪」を持つようになり、何かのきっかけがあれば「行われる罪」も犯すようになって神との結びつきが失われてしまいました。これに対して神は、身から出た錆だ、勝手にするがよい、などと自己責任論を展開することはしませんでした。そうではなくて、結びつきを失わせた原因である罪の問題をなんとか解決して、人間がこの世の人生で神との結びつきを持てて生きられるようにしてあげよう、そしてこの世を去った後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと決めたのです。それでは神はどのようにして罪の問題を人間のために解決して下さったのでしょうか?

 

 それは次のような次第でした。ご自分のひとり子をこの世に贈り、本当なら人間が罪のゆえに裁かれて受けることになる神罰を彼に代わりに受けさせる。そうすることで彼が人間に代わって神に対して罪の償いをする。これこそがゴルゴタの丘のイエス様の十字架の死でした。そこで今度は人間の方が、神がひとり子を用いて行ったことは本当のことでそれは自分のためにもなされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主なのだと信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったわけだから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。

 

 実は、この罪を償ってもらったということには、もう一つ大事なことが付随しています。それについてこれまでの説教でもお教えしたつもりだったのですが、言葉を言い換えて話してきたので、どうも伝わっていなかったようです。スオミ教会では礼拝の後いつもズームを使って会堂とオンラインの礼拝出席者の交わりの時を持っています。そこでその日の説教も話題になるのですが、ここ何回か皆さんのお話を聞いていて、この罪の償いに付随する大事なことが伝わっていなかったということがわかり反省した次第です。それで、今日はそのことをはっきりお教えしなければならないと思いました。

 

 イエス様は私たちの身代わりの犠牲となって神に対して私たちの罪を償って下さいました。それを信じて洗礼を受けると、罪の償いを受け取れて罪を償われた者になれるということは先ほど申し上げた通りです。そこで、罪を償われたということは罪を帳消しにしてもらったということで、これはそのまま罪の支配から解放されたことを意味します。それでは、罪の支配とはどういうことかと言うと、罪が人間を支配すると、人間はこの世の人生で神との結びつきなしで生きなければならなくなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができなくなります。このように神との結びつきがこの世でもその後も永遠に失われてしまうということなので、罪の支配とはまさに罪の呪いです。それで罪を償われたというのは、こうした罪の呪いから解放されたということなのです。どうやって解放されたかと言うと、イエス様がマルコ10章45節で自分のことを「身代金」と言っていたことに注目します。つまり、神がイエス様を元手にして罪の人質状態になっていた私たちをご自分のもとに買い戻してくれたということです。そういうわけで、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取るというのは、イエス様を元手にして神に買い取られる、買い戻されるということなのです。

 

 神に「買い取られる」、「買い戻される」という言い方は旧約聖書のヘブライ語の動詞でして(ガーアル、ファーダー)、イザヤ書35章、51章、52章によく出てきます。新約聖書を見ても、例えば、第一ペトロ1章18~19節で、キリスト信仰者というのは金銀なんかでなく清い神の小羊キリストの高価な血によって買い取られた者だと言っています(リュトゥロオー)。エフェソ1章7節も同じで、キリストの血によってキリスト信仰者には神への買い取り、買い戻しがあるのだと言っています(リュトゥロオーの名詞形のリュトゥローシス)。第一コリント6章20節では、ずばり神はキリスト信仰者を高価なもので買い取ったと言います。ここで使われている動詞はまさに売り買いの「買う」です(アゴラゾー)。高価なものとは、イエス様が十字架で流された血であることは明らかでしょう。

 

 ところが、この神に「買い取られた」、「買い戻された」というのは、日本語では「贖われた」と言います。とても分かりにくい言葉です。ヘブライ語の単語もギリシャ語の単語もみな「買い取る」「買い戻す」の意味があり、英語、スウェーデン語、フィンランド語もその言い方に倣っていて、それとは別に特殊な宗教用語をあてることはしていません。例えば、高速道路を造るために国は土地を収用したと言う時、フィンランド語はこの「収用する」(lunastaa)という同じ言葉が人間の罪からの解放を言い表します。とても具体的でわかりやすいです。土地を収用する際の代価は税金や国債に基づく国庫、人間の買取りは神のひとり子が流した血です。どうして日本語では「買い取る」、「買い戻す」ではダメなのか?宗教的なことだから出来るだけわかりにくくした方が神秘的で権威が感じられるということでしょうか?しかし時々、「罪を贖われた」などと言う人もいて仰天してしまいます。罪は「償われる」です。「贖われる」のは人間です。罪を贖うなんて言ったら、罪を買い取ることになってしまい、神はそんなもの買い取りたくないと言うでしょう。

 

 こういうふうに、日本語には漢字があるため、それが簡潔な言い方で多くの事柄を含めるという奥の深さがある反面、ズバリ何を意味しているか掴みどころがなくなって各自で意味を探さなければならなくなることがあると思います。自分の知識や経験に依拠して自分にピッタリな意味を探し当てることになると思います。そこで探し当てた意味がイエス様やパウロが言わんとしたことに合致すれば万々歳なのですが、どうやって合致しているとわかるでしょうか?まさにそのために神学校や神学部でギリシャ語やヘブライ語を勉強して、信徒たちの探し当てがイエス様やパウロの言わんとしたことから離れないように導いてあげるのです。もちろん神学教育を受けて完璧にイエス様の言わんとしたことがわかるということでもないので、私としては、信徒たちと対話しながら説教者自身も深めていかなければならないと思います。日本では牧師というのは神に近い存在とみなされるので、時としてその日の聖句と関連性が疑われることを言っても、信徒さんの方が「そういう解釈もあるんだ」などと受け取り、疑問を持つ自分が間違っているとしてしまうところがあります。このスオミ教会はそういうことがないので説教者にすればとても緊張感を抱かせる教会です。

 

 ところで、「贖い」という言葉のほかに先ほど「原罪」という言葉についてもひと言申し上げました。他にも、日本語が醸し出すイメージが本来の意味を遠ざけてしまわないか注意すべきものとして「恵み」と「悔い改め」があると思います。それらについても今まで説教の中で言い換えてお話してきました。お気づきになられたでしょうか?これらはこれからも繰り返し出てきますので、ここではこれ以上触れないで先に進みます。

 

3.神に買い戻された者として

 

 さて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら罪を償ってもらったことになって神から罪を赦された者と見てもらえる。その場合、「受け継がれた罪」はどうなるのか?消えてなくなるのか?それで「行われる罪」も行ったり、口に出したり、心で思い描いたりしないようになるのか?どうでしょうか?

 

 聖書の観点では、洗礼を受けても「受け継がれた罪」は消えずに残ります。「行われる罪」も心で思い描くことはしょっちゅうあり、場合によっては口に出たり、最悪の場合には行いで出てしまう時もあります。それじゃ、何も変わっていないじゃないか!と呆れかえられるかもしれません。ところが、やっぱり変わっているのです。パウロがローマ8章1節で言うように、洗礼によってイエス様と結びつけられている者には神の有罪判決はないと言うのです。そう言うとキリスト信仰者でない人たちは、そんなのありか!信仰者だって罪があると言っているのに洗礼を受けたからもう大丈夫だなんて虫がよすぎるぞ!とクレームがかかるかもしれません。でも、そう言う人たちは、キリスト信仰者が洗礼を受けた時から通り抜けなければならない霊的な戦いのことを何もわかっていません。

 

 パウロはローマ7章の終わりで、全てのキリスト信仰者にあてはまることとして次のように言います。キリスト信仰者は意識の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると。このようにキリスト信仰者は何が神の意思に沿うことかわかっているが、肉を持っている限りそれに背こうとする力も働いているというのが現実なのです。この二律背反した状態が解消されるのは、この世を去ってまずは肉の体を捨てて復活の日までひと眠りして、復活させられた時に復活の体という神の栄光を映し出す体を着せられた時です。その時、魂も体も全て罪がない者となって神の御許に迎え入れられて自分がさらに続いていくのです。

 

それでは復活の日まではどうすればいいのかというと、それはただこの世の人生の歩みとはその日を目指して進むことに尽きると観念することです。それはどういうふうに進んで行くのかと言うと、パウロがローマ8章13節で言うように、洗礼の時に注がれた聖霊の支援を受けながら肉の体の業を日々死なせていくという進み方です。物騒な言い方ですが、要は神の意思に沿わない行い、言葉、思いを踏みにじって生きることです。どうやって踏みにじるのか、それは罪や罪を操る悪魔が一番聞きたくないことを日々、自分に言い聞かせることです。私の罪はあのゴルゴタの十字架であの方の犠牲によって帳消しにされた。だから私はもう神のものである、と。確かに「受け継がれる罪」は残っているが、それでも神は自分を買い取って、復活を目指す者にして下さったのだ、と。自分には罪があっても、神によって打ち立てられた罪の赦しは否定のしようがありません。だから罪があることを認めると同時に、それが高価な犠牲によって赦されているという状況の中に踏みとどまるだけです。それが復活を目指して進むことです。その進むところ、私たちの内に駐留する聖霊がいつも惜しまず支援してくれるということは先週と先々週の説教でもお教えした通りです。

 

しかし、これでもまだ自分に罪が残っていることが気になる、復活があるとは言え死が立ちはだかって怖いと言う人がいらっしゃれば、そういう人にはルターがこう言ってやればいいと言っている言葉があるのでそれを紹介します。キリストはそんなあなたにこう言って下さっているんですよ!という言葉です。「私はお前を助けてやる。お前の弱さを私の強さに沈めてやる。お前の罪を私の義に撃ち落としてやる。お前の死を私の命に飲み込んでやる。」

 

4.赦されない罪はキリスト信仰者には関係ない

 

 聖霊の支援を受けながらこの世の人生を霊的な戦いを戦いながら復活を目指して進んで行くということは、これからもいろんな聖句や日課を通して繰り返し出てきますので、本日はここまでにして、ここで本当は本日のメインイベントになるはずだった聖霊を冒涜する罪について見てみます。もう時間も時間なので駆け足になってしまうことをご了承下さい。本日は前置きが異様に長くなってしまいましたが、大事なことだったと思います。

 

 聖霊を冒涜する罪が神から赦されない罪であるということを考える時、何が聖霊を冒涜することかをはっきりさせなければなりません。そこでまず、聖霊とはどういう方なのかを今一度確認しなければなりません。聖霊とは、まず第一に人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導く方です。ある人が、それまではイエス・キリストのことを、あの2000年前の現在のイスラエル国がある地域でとても斬新な宗教活動を行って最後は占領国のローマ帝国の官憲に捕まって十字架刑を受けてしまった者という、世界史の教科書的な理解だったのが、実はそれは表面的な理解だったとわかるようになる。イエス様の出来事は全て万物の創造主である神が人間を罪の呪いから解放するために行ったことで、それは旧約聖書に約束されていたことの実現だったのだ、と。そのようにわかって、イエス様を自分の救い主と信じるようになってくる、この時すでに聖霊が影響力を及ぼしていることになります。

 

 そして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその人はすっぽり聖霊の影響下に置かれます。そうなると、今度はその人にとってイエス様が救い主であることがブレないで保たれるように助けることが聖霊の働きとなります。そういう聖霊の働きについてはパウロがローマ8章でよく教えています。本教会の説教でも度々取り上げました。これからも繰り返し出てくるでしょう。

 

 このように聖霊とは、人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導き、救い主と信じる人が今度はその信仰に踏みとどまれるように助けてくれる方です。その聖霊を冒涜するというのは、その働きを否定するようなことを言うことになります。人間を信仰に導き信仰に踏みとどまれるようにする働きを否定するのは、イエス様の十字架を無意味にすることになり、人間を罪の呪いから解放しようとした父なるみ神の愛を踏みにじるものです。こんなのを赦したら赦しの自己否定になります。まさに罪の赦しがある限りはあってはならない赦しです。

 

 ここで一つ興味深い質問は、イエス様が聖霊の力で悪霊を追い出しているのに、あいつは悪霊のドン・ベルゼブルの力を借りて追い出していると言った人たち、彼らはもう赦しを祈っても無駄で永遠に赦されない罪に定められてしまったのかということです。人によっては、すんなりそうだと言うかもしれないし、人によっては、まだイエス様の十字架と復活が起きる前のこと、聖霊が人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導く働きをする前のことなので、まだ事情が違うのでは言う人もいるかもしれません。私としては、後者に肩入れする見方かもしれませんが、マタイ12章とルカ12章を見ると、イエス様は自分に向けられる冒涜は赦されるが、聖霊に向けられる冒涜は赦されないと言います。このベルゼブルの件は、直接的にはイエス様を中傷しようとして言ったことと見なすことが出来ます。しかし、中傷した者たち自身は気づいていなかったかもしれないが、事は聖霊に及ぶものであった。それでイエス様は、お前たち口を慎めよ、さもないととんでもないことになるぞ、と警告を発したのではないかと考える者ですが、ただそれが、手遅れの警告だったのか、事前の警告だったのか、私には決めることは不可能で父なるみ神に任せるしかありません。

 

 そこで私たちにとって一番肝心なことを申し上げます。赦されない罪があるなどと聞くと果たして自分は大丈夫かなどと思ってしまいます。しかし、心配無用です。私の罪はあのゴルゴタの十字架で神のひとり子の犠牲によって帳消しにされた。だから私はもう神のものなのだ、と自分に言い聞かせている限り、聖霊を冒涜することはありえないからです。だから、この点については何も心配せず安心して進んで行きましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

2021年5月31日月曜日

三位一体の神と新たに生まれること (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年5月30日 スオミ教会

 

イザヤ書6章1-8節

ローマの信徒への手紙8章12-17節

ヨハネによる福音書3章1-17節

 

説教題 三位一体の神と新たに生まれること


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

 

そうは言っても、三位一体はわかりにくいことです。三つあるけれども三つあると言わないで一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうふうにして一つになるのかということはあまり考えません。むしろ、なぜ三つが一つなのかということを考えるからです。そして、なぜそうなのかということの答えを聖書から見つけているからです。どんな答えかと言うと、神がそういう三位一体であるというのは私たちに愛と恵みを注ぐためにそうなのだということです。三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体でなければならないということです。本日の説教を通してそのことがわかるようにしていきましょう。

 

2.神聖と非神聖の断絶

 

 まず最初に思い起こさなければならないことは、天地創造の神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。神に造られた最初の人間が神の意思に背くような性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったのです。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で述べるように、死ぬということは人間誰でも罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対の神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

 

 罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

 

 イザヤは自分の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤが大やけどを負わなかったというのは罪から清められたことを示しています。罪から清められたイザヤは神と面と向かって話ができるようになります。モーセの場合はそのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されました。しかし、彼が山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間には危険なものなのです。

 

 このように神と人間との間には神聖と非神聖の果てしない溝が出来てしまいました。しかし、その神が溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされたのです。その救いの手がイエス様でした。そのことをイエス様は本日の福音書の日課の中でニコデモに教えます。そこでは「新たに生まれる」ということがポイントになっています。神聖な神との結びつきを回復してこの世を歩め、この世を去った後は神の御許に永遠に迎え入れられるようにする、これが「新たに生まれる」ことです。それはどのようにして起こるのか、それを次に見てみましょう。

 

3.悩めるファリサイ派のニコデモ

 

 まずニコデモについて少し述べておきましょう。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。彼らは旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に守ることを主張し、それを実践していました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

 

 イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な行為に留まるものではない。内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければなりませんでした。つまり、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになるとイエス様は教えたのです(同5章28節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。

 

 全人的に神の意思に沿っているかどうかが基準になると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 

 ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このようなやり方で神の前の清さは保証されるのだろうか、そもそもそういうやり方で天地創造の神の目に適う者になれるのだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様と向き合うといつも議論の応酬でしたので、夜こっそり一人で出かけるというのは意味深です。案の定、ニコデモはイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。

(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50-52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、アリマタヤのヨセフと一緒にローマ帝国総督のピラトの許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39-42節))。

 

4.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

 

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」ということについて見ていきます。ところで、「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。例えば、貧乏な人が今度生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことに悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか、そういうことを言うことがあると思います。また、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃんかおばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現する言葉と言うことができます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の考えでは生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなってしまいます。

 

 聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられて運が良ければ朽ちない復活の体を着せられて永遠バージョンの命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。

 

 そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモ(10節)です。ファリサイ派とは言え、聖書をそれなりに学んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分が母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。

 

ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5-6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて、そこで神からの霊、聖霊を注がれることを意味します。

 

人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記2章6節やエゼキエル書37章9~10節で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神自身の霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれることで霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。

 

5.肉的な存在から霊的な存在へ

 

 それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるるかもしれませんが、そうではありません。ここで言っている「霊」は先ほどから言っている神の霊、聖霊のことです。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

 

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 

 風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こり得るのか?彼の問い方には、途方に暮れた様子がうかがえます。

 

 これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞かない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。

 

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」

 

 つまり自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こすのである、と。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。ここでイエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。

 

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」

 

 これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、これは何のことでしょうか?

 

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。先ほど申し上げたように、人間の、神の意思に背こうとする罪のゆえに神との間に果てしない溝が出来てしまいました。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受けると、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられることになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進むことになります。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。

 

6.キリスト信仰者の霊的な戦いと聖霊の支援

 

 しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのためキリスト信仰者の内に駐留する聖霊が、神さまの御心はこうですよ、と聖書の御言葉で示してくれているのに、それに背を向けて考えを持ってしまったり、果ては行ってしまうことすらあります。もっとひどい場合には御言葉自体を曲解したりぼやかしたりしてしまうこともします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。

 

 この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを自分のものにしたいと思ってはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分に、つまり神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿えないのなら、そんな鬱陶しい神の意思なんか捨てて生きていけばいいじゃないか、などと言ってしまったら、イエス様の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底から完全に沿えるようにしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

 

ここで大事なことは、自分の真実の姿にいい加減いやになった時は、いつも必ず心の目をゴルゴタの十字架に向けるのです。目をそこに向けさせてくれるのは聖霊です。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげと、お前があの方を真の救い主と信じた信仰のゆえに、神はお前を赦して下さったのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先回りされたので、あとは何も考えずにその後を追いかけるだけでよいのだ。あの夜、イエス様がニコデモに言っていたことを思い出しなさい。

 

モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。

神はそういう仕方でこの世に愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ3章14~16節)。 

 

 こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思にすっぽり包まれているので、また先まわりされたことの後追いが始まります。

 

キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきますが、こうすることで自分の内に宿る罪を圧し潰していきます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。一度に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

 

7.おわりに ― 素晴らしき三位一体

 

 このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪を宿すようになってしまったために、神は今度はひとり子を犠牲にして私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中で生きられることになりましたが、人生の中でいろんなことがあってそのことを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から指導や支援を受けられるようになりました。

 

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえますが、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命まで生きられるようになるという、造られた目的を達成するということです。このように三位一体は私たちにあるべき姿を示し、そうなれるようにする力そのものです。本当に三位一体はすごいです!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2021年5月26日水曜日

「イエス様は子供たちを祝福された」(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

洗礼式説教 2021年5月23日スオミ教会

 

マルコによる福音書10章13-16節

 

説教題 「イエス様は子供たちを祝福された」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. これからIくんの洗礼式を執行するにあたって御言葉の説き明かしをいたします。Iくんはまだ生後5か月の赤ちゃんです。皆さんもご存じのように赤ちゃんや子供に洗礼を授けることはルター派教会では当たり前のことですが、教派によっては認めないところもあります。その理由として、洗礼は教義を理解して信仰告白をしてから授けるべきとの考え方があるからです。そうすると、教義を理解もしていない信仰告白もしていない子供やましてや赤ちゃんに洗礼を授けるのは意味のないことでしょうか?

 

 この疑問に対して、実は今読みました福音書の個所でイエス様が答えを用意しています。イエス様が述べたことは、洗礼を受けるのに子供でも赤ちゃんでも問題はない、むしろ大人よりも赤ちゃんの方が相応しいということさえ示唆しているのです。このことがわかるために、この出来事中の次の3つの点に注目しましょう。まず、子供たちはイエス様のもとに連れて来られたということ。きっと親たちが連れて行ったのでしょう。イエス様が抱きかかえたということは本当に赤ちゃんもいたのでしょう。第二の注目点は、親たちが連れて行った目的はイエス様が子供たちに触れるためであったということです。イエス様は結果的に子供たちに手をかざして祝福を与えますが、親たちは祝福を考えておらず、ただイエス様が触れてくれればいいという考えで子供たちを連れて行ったのです。第三の注目点は、もうおわかりの通り、イエス様は触れるどころか祝福を与えたのでした。以上の三点に注意すると、洗礼は子供でも赤ちゃんでも授けるのは問題ないということが分かります。

 

2. 親たちが子供をイエス様のもとに連れて行ったのは触れてもらうためだったということですが、なぜ触れてもらうのがそんなに大事だったのでしょうか?福音書の他の個所にもあるように、イエス様や彼が纏っている衣に触れて病気が治ったという奇跡の出来事がありました。それで、イエス様に触れてもらったら病気の子供が癒されるとか何か御利益を期待したのでしょう。

 

 どうして親たちは祝福ではなくて触れてもらうことをお願いしたのでしょうか?祝福は何か飾りみたいで、触れてもらうことで得られる御利益の方が意味があるということでしょうか?その逆です。祝福は飾りどころかとても大きな意味のあることでした。それで子供なんかに簡単にお願い出来るものではなかったのです。祝福は畏れ多いので、せめて触れて下されば十分ですということだったのです。

 

 祝福がそんなに大きな意味のあることというのは、人によっては奇異な感じを受けるかもしれません。それは、恐らく日本語の「祝福」という漢字言葉のせいだと思います。日本語で例えば、結婚式でみんなで新郎新婦を祝福した、などと言います。つまり、祝福はお祝いの気持ちを表すことと同じなのです。ところが聖書の「祝福」は全く違います。それは、天地創造の神の良い意思が働くことを意味します。例えば、キリスト信仰者は食前の祈りでこれから頂く食べ物を祝福して下さいと神に祈ります。それは食べ物をお祝いすることではなく、食べ物を通して神の良い意思が働くことをお願いすることです。エサウは父ヤコブから受け継ぐことになっていた神の祝福を弟ヤコブに奪われ、復讐心に燃え上がりました。エサウが失ったのはお祝いではなく、後継ぎに与えられる神の良い意思でした。

 

 このように聖書では祝福とは神が人間に与えるものです。お祝いの気持ちで理解したら人間が与えるものになってしまい、神が与えるという重大性が見えなくなります。キリスト教会の礼拝の終わりで牧師ないしは教会が特別に認めた信徒が会衆に向かって祝福をします。これは人間が祝福を与えているのではなく、神の祝福を取り次いでいるのです。

 

 このように祝福とはとても重大なことでした。それで親たちは万物の創造主の神の良い意思が子供に働けばいいと、実質は祝福を願いつつも、それは畏れ多いことなので触って下さるだけで結構ですと言って連れて行ったのです。ところが、イエス様は触れるだけでなく、文字通り祝福を与えたのです。

 

3. この時イエス様は、子供にも大人同様に祝福を与えてもよいのだということを行動をもって示しました。自分はもうすぐ十字架の受難と死からの復活を遂げることでこの世に大いなる祝福をもたらすが、それは子供にも大人にも等しく与えられるものであるということを暗示したのです。

 

 イエス様が十字架の受難と死からの復活でもたらした祝福とは何だったでしょうか?それは、人間が内に持ってしまっている罪を人間に代わって神に対して償って下さり、それで人間が神から罰を受けないで済むようにして下さったということです。さらに、神の力で復活させられたことで死を超えた永遠の命に至る道を人間に開いて下さったということです。この罪の赦しと永遠の命の可能性がこの世の全ての人間に開かれたのです。宗教改革のルターが言うように、この世の全ての人間に対してこの真の救いが提供されているという意味でこの世は祝福されています。しかし、ルターが同時に指摘するように、全ての人間がこの神が提供するものを受け取ってはいないのです。せっかく神が準備できたのでどうぞ受け取って下さいと提供して下さっている、それでもう十分な祝福なのに、多くの人たちはそれに背を向けて受け取っていないのです。このようにルターは、救いが準備されたということとそれを受け取って自分のものにすることは別物であるとはっきり言います。

 

4. 天地創造の神がひとり子を用いて人間の救いを総仕上げしてくれて、それを今度は人間にどうぞと提供して下さっている。それを受け取るのが洗礼ということになります。大人の場合、洗礼とはそういう救いを受け取ることであるとわかって受けなければなりません。受け取る救いは何であるかをわかるために、例えば、万物の創造主の神は人間に対してどうあれと言っているかとか、その神から見て人間はどう見えているかとか、神と自分自身の関係はどうなっているかということを意識しなければわかりません。そうすると、意識などしていない小さな子供は救いを受け取れるのかという疑問に戻ります。

 

 それに対してイエス様は受け取れることを態度と言葉で示したのです。子供たちは親に連れて来られました。大人のように自分の足で行ったのではありません。赤ちゃんは運ばれて。ちょうど今、Iくんが聖卓の前に連れて来られたようにです。連れて来られた子供たちを弟子たちは追い返そうとしましたが、イエス様はそれを諫めて受け入れました。そして言いました。「子供のように神の国を受け取らない者はそこに入れない」と。子供が神の国を受け取る仕方は、イエス様が子供たちに祝福を与えたのと同じことです。つまり、ただただ自分を受け入れてくれる方のところに連れて行ってもらって、そこで与えられるものを素直に受け取るという仕方です。大人の場合は、これだけ理解した、これだけ良いことをした、だから受け取れる、あるいはまだ不足で受け取れない、ということが入り込み、救いの受け取りがなんだか取り引きのようになる危険があります。神はそれを望んでいません。大人も学ぶ時は、神がイエス様を用いて総仕上げした救いがどれほど大きなものか圧倒されて理解も能力も何もなしえないことがわかるくらいになれば、子供のように受け取ることができるでしょう。でも、普通はそこまでいくでしょうか?

 

仮にそこまで行かなくとも、洗礼を受けて救いを受け取ったら、あとは子供のように受け取ることを目指すことになるでしょう。つまり救いは自分の理解力や能力では何もなしえない、ただただイエス様が成し遂げたことが全てで、そこに現れた神の愛と恵みと憐みに自分を委ねるしかないというふうに自分を変えていく、あるいは神に変えられていくということでしょう。

 

子供の時に洗礼を受けて救いを既に受け取っている人の場合は、その人の親が、あなたはこういうものを神さまから頂いたのですよ、と気づかせてくれることが必要です。一緒にお祈りしたり、会話の中にイエス様や神さまのことを出したりして、生活の中に救いの香りが漂うようにします。そうすることで子供も自分には神さまからの頂きものがあるとわかるようになります。ある程度の年齢になったら、頂き物を言葉で言い表して整理して確認し、この確認したものをもってこれからの人生も生きますと誓うことが必要です。それが堅信礼です。多くの欧米語ではコンファメーションといい、まさに確認です。フィンランドでは中学2年がその年と定められています。もちろん、違う年でも構いません。そういうわけで、Iくんのご両親と教保におかれては、教会にはそういう確認のための学びの機会があることを覚えて頂き、その時までは生活の中にイエス様の福音が響くように、また香るようにお努め下さるよう、お願い申し上げます。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2021年5月24日月曜日

聖霊が希望を強めてくれる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年5月23日 聖霊降臨祭 スオミ教会

 

使徒言行録2章1-21節

ローマの信徒への手紙8章22-27節

ヨハネによる福音書15章26-27節、16章4b-15節

 

説教題 聖霊が希望を強めてくれる

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰を持てて救われた者としてこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 

 本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。最初に聖霊降臨の出来事について本日の日課の個所をもとに少し詳しく見てみます。二番目のテーマは聖霊とは何者かということについて、特にイエス様が本日の福音書の日課の中で聖霊を「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいて、どうしてそうなのかということを見てみます。毎年教えていることのおさらいです。最後は、本日の使徒書の日課ローマ8章でパウロが聖霊はキリスト信仰者の希望を強めてくれる働きをすると教えていますので、それについて見てみます。

 

2.聖霊降臨の出来事

 

 聖霊降臨とは、先ほど朗読して頂いた通り、イエス様の弟子たちが聖霊降臨を受けて群衆の目の前で、群衆のそれぞれの母国語で話を始めたという出来事です。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは留学もせず英会話学校にも行かず突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?群衆の驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

 

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったのでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。さらに考えられるのは、神が私たち人間を含めた万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

 

 ところが弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが自分たちの目で直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 

 そこでペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象を説明します。群衆の中には新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れなことを言う人もいました。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと的外れな意見に真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?

 

 ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14-21節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の実現であると言います。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かしをします(2章22-40節)。この後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっていますが、本日の日課から外れるので、そこには今日は立ち入らず後日に譲り、今日は前半部分だけを見ます。

 

 ペトロはまず、この不思議な現象はヨエル書3章1-5節の預言の成就であると説き明かしします。分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまって彼らは異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出しました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったとわかったのです。

 

 ところでペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と述べます。「終わりの時に」とはギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヘブライ語原文のヨエル書では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後に」と言っています。これはペトロが引用で改ざんしたのではなく、ギリシャ語訳の旧約聖書が「終わりの日々に」と訳していることに倣ったのです。訳した人たちは終末論の観点でヘブライ語の意味を確定したわけです。ペトロはそれに倣ったのでした。

 

それでは「終わりの日々」とはどんな日々かと言うと、イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になるというのです。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が新しく創造され直すという天地大変動の時で、それはまた唯一残る神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるかという最後の審判が行われる時でもあります。イエス様の再臨を待つ日々は「終わりに向かう日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが仮に3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われていますが、これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。バビロン捕囚の後の時代には終末論的に理解されるようになります。イエス様の十字架と復活の出来事の後は彼の再臨の日を意味するようになります。

 

21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に移行できるのは、創造主の神の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの大説教の後半は、群衆にそのような者になりなさいと導く内容です。 

 

こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

 

3.弁護者、真理の霊

 

 それでは、聖霊とは一体何者でしょうか?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。

 

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で孤児のようになることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、本日の福音書の箇所でも言われるように、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれをどうしようと言うのか?これらのことは以前の説教でも何度かお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 

 聖霊が「弁護者」ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのです。では何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟の光に照らされて、外面的にも内面的にも神の意思に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前に進み出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はどうしようもない罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向け神のもとから立ち去ったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。

 

 人を落胆させたり神のもとから立ち去らせるものには罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神は私の至らなさに不満でそれでこんな目に遭わせているんだ、と自分に原因を見て絶望してしまったり、または、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。このような絶望、失望に陥ることも悪魔の目指すところです。

 

私たちがどんな状況にあっても神の愛を信じられるように、しっかり神のもとにとどまることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように言って弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それが自分の罪に対してもそうであるとわかって、それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向いて次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と。キリスト信仰者は神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦してくれるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上はこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

 

 不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないのだとわかります。神との結びつきがあるということは神にしっかり守られていることだとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは不幸や苦難は神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていたのが、今度は逆に、存在しかつ見捨てない神と一緒にくぐり抜けるための一つのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。嵐吹き荒れる時でも一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。その時、不幸や苦難はもはや自分を打ちのめそうとする嵐ではなくなり、ただの耳障りな強風、煩わしい雨水にしかすぎなくなります。全身ずぶ濡れにはなりますが、家に帰れば湯船につかって服を取り換えてさっぱりできるんだ、というような気持ちで歩めるようになります。フィンランド人だったらサウナでしょう。

 

次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?2週間前の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の現在イスラエル国がある地域でナザレ出身のイエスは旧約聖書とその神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。

 

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言を通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの世の次に到来する世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。そうした旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊はこの真理を私たちの心に示す働きをするのです。

 

人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、この真理を示されたことに気づいたからです。人生のいろんな経験を通して神はこの気づきへと導かれます。気づかせた聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間をその働きの下に服させるようにするのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きの下にすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないとか、また、救い主は沢山あってイエスは単なるそのうちの一人にすぎないとか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは何の意味もなさなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持って生きることができるので、霊的に安全地帯にいることになります。

 

(以下は説教の時に長くなるので省略しました。「ところで、先ほど見たような習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。聖霊降臨の出来事はまさにその力が与えられた出来事でした。このような特別な力は「恵みの賜物」とか「聖霊の賜物」と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマと言います。こうした賜物は教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰にどの賜物を与えるか決めて与えます。それゆえ、何か賜物を与えられても、与えてくれた方は取り上げることも出来る方だとわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いることが求められています。キリスト教の教派によっては、聖霊の賜物を追求することを強調する派もあるのですが、ルター派はどちらかと言うとその点はおとなしい方かもしれません。なぜそうなのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには、聖霊のことをここで申し上げた「弁護者」、「真理の霊」として捉えていることが大きいのではないかと思われます。」)

 

4.聖霊が希望を強めてくれる

 

最後に聖霊がキリスト信仰者の希望を強めてくれることを本日の使徒書の日課のパウロの教えから見てみましょう。まず背景としてローマ6章から7章にかけてパウロが教えていたことを駆け足で見てみます。

 

人は洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると、罪に対しては死んで神に対して生きるようになると言います。罪に対して死ぬと言うのは、罪が洗礼を受けた人を支配しようとしても出来ないくらいにその人は死んでしまっているということです。だから、洗礼を受けた人は罪に服従することはなくなって、代わりに神に服従するようになるのです。しかしながら、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたとは言っても、私たちは実際はまだ死んで葬られていないし、ましてや復活して復活の体も纏っていません。私たちはまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になってしまっています。さらに、十戒の掟が神の意志に反することは罪であるとはっきり言い、私たちの真実の姿を晒す鏡のように立ちはだかります。キリスト信仰者は十戒の掟を通して神の意志が何であるかわかっているのですが、その通りに行えない、語れない、思考できない自分というものを、まさに十戒を通して気づかされてしまうのです。そうなると私たちは、洗礼を受けるとますます神から遠ざかってしまうのでしょうか?

 

いいえ、そういうことではないのです。パウロは7章の最後で、キリスト信仰者は意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。しかし、洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはないと断言するのです。8章1節です。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉の体に打ち込まれているのです。

 

意識や理解の面で神に従うということに続いて、パウロは、キリスト信仰者に洗礼の時に注がれた聖霊が宿っている限り、信仰者は間違いなく復活に向かって進んでいると言います。8章11節です。神はキリスト信仰者に宿る聖霊を通して信仰者の朽ち果て滅びる肉の体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのです。

 

意識や理解の面で神の命じることがわかっていて、聖霊が宿っていれば、大丈夫、信仰者は復活に向かって進んでいます。そこでもう一つキリスト信仰者を大丈夫にするものについて言われます。それが8章24節で言われる「希望」です。パウロがここで言う希望の内容は23節にあるように、肉の体から解き放たれることです。将来、死者の復活が起きる日に朽ち果てる肉の体に替わって神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、これが希望の内容です。その体は今のこの世の段階ではまだ目にすることは出来ません。希望するだけです。パウロが言うように、それを目にしたらもう希望することはないのです。目に見ていないから希望するのです。

 

そういうわけで「希望によって救われた」というのは、復活の体をまだ目にしていない段階で、それを希望している段階で救われた状態つまり神の国に足を踏み入れたということです。復活の体を着せてもらえるという希望を持てていること自体が、今この世で間違いなく神との結びつきを持って復活の体の国に向かって進んでいることになっている。一旦足を踏み入れてしまったら、もう抜け出せないと言えるくらいに神の国に向かって進んでいるということです。ところが、そう言われて感激したのも束の間、すぐ聖霊と肉、神の意思と罪の意思の狭間に置かれて苦しい思いをする現実に戻ってしまい希望が萎えてしまいます。

 

しかし、聖霊が萎えさせないのです!どうしてか?26節でパウロは言います。聖霊は私たちが弱いから助けてくれるのだ。どのようにしてか?私たちのつたない祈りを神に取り次いでくれることによって!私たちは罪の自覚の時、苦難困難の時、もちろん神に祈ります。時として、この言葉で祈り足りているのか、この言い方で聞き入られるのか、不安になります。実は私たちが祈る時、私たちに駐留する聖霊が私たちの祈りを全て神の耳に入るように祈り直して神に伝達してくれるのです。言い足りなかったことは補い、言い間違えたことは訂正して。それは人間の言葉になっていないただの吐く息のようなものかもしれないが、聖霊が取り次ぐ祈りは神の意思に沿うものになっている。だから神は私たちにどんな解決、どんな時間表がいいかちゃんと考えて下さる。このように洗礼を受けて聖霊を注がれたら最後、自分から背を向けて振り払わない限り、神との結びつきは切ろうにも切れない、希望は弱まろうとしてもそれは決して失われないものになっているのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン