2021年4月8日木曜日

復活の面影 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年4月4日 復活祭

 

イザヤ書25章6節-9節

コリントの信徒への第一の手紙15章1節-11節

ヨハネによる福音書20章1-18節

 

説教題 「復活の面影」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.ハッピー・イースター

 

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目にします。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事でした。

 

復活祭は、キリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。イースターをお祝いする時、英語では「ハッピー・イースター」と言います。クリスマスは「メリー・クリスマス」ですが、イースターは「メリー」ではなく「ハッピー」です。復活祭の何が私たちをハッピーにさせるのでしょうか?昔々イエス・キリストという偉い人が十字架刑という惨い殺され方をしてしまったが、三日後に見事に蘇ってみんながハッピーになったということでしょうか?マジックショーじゃあるまいし、そんな理解で済むのなら聖書なんか要らなくなります。

 

 イエス様の十字架と復活の出来事はなぜ起きたのか、それらは一体何だったのかということは聖書全体を通してみないとわからないようになっています。聖書全体を踏まえて、それらがなぜ起きたかがわかると、たちまちそれは私たち人間のため、時代と国を超えて全ての人のために起きたということがわかり、イースターは本当にハッピー・イースターだとわかります。そういうわけでイエス様の復活は今を生きる私たちに大いに関係があるハッピーな出来事なのだ、ということを今年の説教でもお話ししていこうと思います。

 

2.復活祭は私たちにとってハッピーなのだ

 

 まず、イエス様の十字架と復活の出来事を純粋に歴史上の事件としてみるとこうなります。現在のイスラエル国の北部ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに批判的な教えを説き多くの支持者を獲得した、そのため指導層の反感を買って当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書という書物は万物の創造主であり人間の造り主でもある神が人間にどのような思いを持ちどんな計画を持っているかを知る唯一の手がかりです。聖書をそのような書物であるとの立場に立ってみると、歴史の見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。

 

 それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?本教会の説教でいつもお教えしていることですが、ここでも振り返ってみます。

 

まず、イエス様の十字架の死について。それは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしたということでした。罪と聞くと一般には何か犯罪行為とかそこまでいかなくても何か悪い行いとかを考える人が多いと思います。聖書ではそれは、人間に備わってしまっている、神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。この罪は創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。そこで神は、人間をこの罪の引き離しの力から解放して自分との結びつきを回復してあげよう、人間がその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことを実現する計画を立てたのです。

 

それでは、この人間を救うという神の壮大な計画とイエス様の十字架と復活とはどう関係するのでしょうか?イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになり、そのようにして彼が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さいました。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いがあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。

 

加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。そこで人間が、これらのことは全部自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いが自分の中に入ってきて自分のものとなります。自分ではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であれば人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方がそのひとり子ということであれば、この償いはかけがえのないもの決して軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

 

神から罪を赦されたのであれば神との結びつきは回復しています。そうなると神が立てた計画に従って人生を生きることが始まります。神の計画とは先ほど申しましたように、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるという人生です。キリスト信仰者は人生にこのような大きな方向性が与えられ、順境の時だろうが逆境の時だろうが全く変わらない神との結びつきの中でこの世を生きていきます。進んで行く先は永遠の命が待っている神の御許です。これが、罪と死の支配から解放されて生きるということです。

 

罪と死の支配から人間を解放するという神の計画がイエス様の十字架と復活をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしたのです。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わり新しい世が始まる時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭とは、イエス様が復活させられたことで実は私たちの将来の復活の可能性が生まれたことを喜び祝う日です。さらに自分自身の復活に加えて、復活の日にやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つの希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身だけのためでもなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちをハッピーにさせるのです。

 

3.復活の体と地上の体

 

次に、復活というのはどういう状態のことなのかをみてみます。これも毎年お話ししていることですが振り返ってみます。復活は超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることだけを手掛かりにするしかありません。本日の福音書の箇所で復活したイエス様とマグダラのマリアの再会の出来事がありました。毎年お話ししていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが「復活の体」を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する「復活の体」とはどんな体か?それについては使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52-54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われました(マルコ12章25節)。

 

 復活とは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではないことに注意します。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。復活というのは肉体が消滅しても復活の日に新しい「復活の体」を着せられて復活することです。その体はもう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる完全に清い体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。その意味でイエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかったのですが、40日間も地上にとどまりました。なぜか?その期間があったおかげで弟子たちをはじめ大勢の人たちに自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

 

復活したイエス様が、私たちの今の体と異なる体を持っていたことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 

 復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事があります。二人がイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。このことについては、説教の終わりでもう一度お話しします。

 

さて、天の御国の神聖な神に相応しい「復活の体」を持つイエス様と、それにすがりつく地上の体のマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。マリアがイエス様にすがりついたのは、突然本人が生きて目の前に現れたので感極まって抱きしめたのでしょう。相手が崇拝の対象である場合は「すがりつく」というのはひれ伏して相手の両足を抱きしめることだったかもしれません。

 

イエス様が「すがりつくな」と言ったことについて。これもこの福音書の個所が当たる年に毎回お話ししていますが、ギリシャ語原文では「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)みな「私に触れてはならない」と訳しています。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。どっちが正しい訳でしょうか?話が少し脇道にそれますが、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書(一部アラム語もあります)が現代語でどう訳されているか比べると、ドイツ語・スウェーデン語・フィンランド語が同じ訳をして日本語・英語が別の訳をしているということがしばしばあります。何だか聖書の翻訳に欧州連合と日米同盟の対決があるみたいですが、今日の個所について言えば欧州連合に軍配が上がると思います。というのは、イエス様が復活の体という、まさに天のみ神のもとにいることができる体でいることを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思われます。

 

さらにイエス様は「私はまだ父のもとに上がっていないのだから」(17節)と言って、触れてはならない理由も述べていることに注目します。自分に触れるなと言って、その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本来なら自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上の存在なので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。これで全てつじつまが合います。

 

 しかし、ここで疑問も生じます。それは、ルカ24章で復活したイエス様が疑う弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているからです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろと命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここはギリシャ語原文の動詞の使い方によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いているのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです(後注)。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 

神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこには、かつてモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。何だか思い浮かべただけでこちらまで泣けてしまいそうな感動的な場面です。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。そのことは、イエス様の次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。

 

ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」

 

4.復活の面影

 

先ほど、旧約聖書の復活の預言がイエス様の復活が起きたことで現実味を帯びたと申しました。旧約中の復活の預言としてダニエル書12章をあげました。本日の旧約の日課イザヤ書25章の個所も復活の預言です。神が死を滅ぼしたり、全ての涙を拭ったり、神に属する民が受けた恥辱を地上から抹消するということは大体、黙示録20章と21章に出てきます。黙示録を記したヨハネはイザヤ書25章が最後の審判と死者の復活についての預言だとわかったのでした。

 

イザヤ書25章の今日の個所の中で分かりにくいことは、神が全ての民の顔を包んでいた布と国々を覆っていた布を滅ぼすと言っていることです。これはヘブライ語原文を直訳すると、神が滅ぼすものは「全ての民に被さっている目に見える覆い」、「全ての民に被さっている織りなされた覆い」です。少し難しいですが何か外面的なものです。「織りなされた覆い」ですが、詩篇139篇15節を見ると人間が神に造られる時「織りなされる」と言って同じ動詞נסךが使われています。またパウロは、第二コリント5章で肉の体を天幕つまり布切れにたとえています。そういうわけでイザヤ25章で滅ぼされる布というのは私たち人間のこの地上の肉の体のことです。イザヤ書の個所はまさにパウロが第一コリント15章で言っていること、すなわち肉の体は朽ち果てて復活の日に復活の体を着せられることを意味しているのです。

 

さらに、イザヤ書25章で神が盛大な祝宴を開くことが言われていますが、これも黙示録19章にあります。復活に与った者たちが席につくことになる天の御国の祝宴です。イザヤ書を見ると、脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒と言いますが、本当にその通りのメニューになるかどうかは不明です。実はこれは、祝宴で最上のものが振る舞われることを表現するために、当時の人たちの感覚で最上のものが引き合いに出されたということです。それなので、脂っこい料理が苦手な人も自分は天国に入れないどと心配するには及びません。それから「えり抜きの酒」ですが、この訳はいただけません。ヘブライ語の単語シェメルשמרは辞書を見るとぶどう酒に関係する意味です。「酒」は訳しすぎです。焼酎やウイスキーやビール等も入ってしまいます。フィンランド語訳の聖書も「ぶどう酒」です。日本語の翻訳者はお酒が好きでそう訳してしまったのでしょうか?

 

 最後に、先ほども触れましたが、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐ本人と気がつかないことがあるということについて私の思うところを申し上げて今年の復活祭の礼拝説教を締めようと思います。

 

復活の再会の時、再会の相手はどんな容姿をしているのでしょうか?例えば、高齢でこの世を去ったら、天の御国で再会する時もこの世を去った最後の瞬間の容姿、高齢の容姿なのでしょうか?そうだとすると亡くなる人は高齢の方が多いから天の御国は圧倒的に高齢者が多い超高齢者化社会ということになります。逆に、もし小さな子供や赤ちゃんの時にこの世を去ったのであれば、復活の再会の時も子供のまま赤ちゃんのままなのでしょうか?さらに、もし大きな怪我や病気のために容姿が大きく変容してしまったら、再会の時その人はその痛々しい姿で現れるのでしょうか?しかし、イエス様の事例を見ると、復活の再会の時の容姿は必ずしもこの世を去る瞬間の容姿と同じではないことが見えてきます。

 

復活したイエス様は確かに傷は残っていたが、それは何の痛みも持たない、ただ単に過去にこんなことがあったと示すだけの干からびた痕跡にしかすぎませんでした。そうすると、復活の再会の時に目にするのは、この世を去る瞬間の容姿ではなく、その方の何かベストな状態の容姿ということになるのでしょうか?もし、それがこの世を去る時の直近のベストな状態だとしたら、それは一目でその人だと分かってしまいます。一目見てもわからないというのは、その人が辿ってきたいろんな年齢・段階の面影が一つに重なり合っている、ないしは混ざり合っているからではないかと考えるようになりました。そのような重層的な面影を一目見た時どうなるか?見た人はまだその方がこの世を去る時の容姿が頭にあるから、すぐにはわからない。ところが、何かがかみ合うとその人だと納得できる。そういうことなのではないかと考えるようになりました。

 

過去のいろんな面影と言ったら、苦しい時、辛い時の面影もあるでしょう。しかし、黙示録21章を見ると、復活後は涙もなく死もなく悲しみも嘆きもないと言っています。それで、復活の体が映し出す面影は全てベストなものではないかと思います。イエス様が「天使のようになる」と言うのは、こういうことではないかと思います。

 

ベストな面影とは言っても、受けた傷、心の傷、体の傷は消えずに残っているかもしれません。復活のイエス様にも十字架の時に受けた傷が残っていました。しかし、それはもう痛くも痒くもない干からびた痕跡のようなものでした。私たちの心の傷や体の傷も復活の日にそういうものになっているのでしょう。

 

赤ちゃんや小さな子供の場合ですが、遡れる年数が少ない分、面影も少なくなり一目見たらすぐ分かってしまうかもしれません。しかし、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐには誰かわからないということにこだわったら、こういうことになるのではないかと考えます。すなわち、その子は、もし死なずにそのまま順調に育っていたらこういう面影を持つようになっただろう、つまり復活の再会は面影の先取りのようなこともあるのではないか。もちろん、そうなると親としては子供が死んだ後の成長を見ていないのでベストの面影を映し出す子供を見てもなかなか誰かわからないかもしれません。しかし、心配には及びません。親のことを短い生涯でも精一杯見続けた子供の方から、お母さん!お父さん!と声をかけてくれるでしょう。

 

主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん、どうです、復活の日の再会が待ち遠しくなってきたでしょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

 

(後注) 

ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。

ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。

2021年4月6日火曜日

永遠の命の恩人 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年4月2日 聖金曜日

 

イザヤ書52章13節~53章12節

ヘブライの信徒への手紙10章16~25節

ヨハネによる福音書18章1節~19章42節

 

説教題「永遠の命の恩人」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

 もし、あなたが誰かのおかげで命にかかわる危険から助けられたとしたら、その命の恩人に対しては感謝以外のなにものでもないでしょう。例えば、道路を渡っている時、よく見なかった反対側から急に車が出てきて、しまったと思った瞬間、素早く走り寄ってきた誰かがドンと跳ねのけてくれたので車に引かれないで済んだら、その方に本当に大きな感謝でしょう。

 

 ところが、もし跳ね除けてくれたその人が車に引かれて死んでしまったら、助かった人は感謝もあるかもしれないが自分の不注意のせいでこんなことになってしまったと申し訳ない気持ちで一杯になってしまうでしょう。自分が生きていられるのはその人の犠牲の上に立っていると思っただけで、それからの人生はもう軽々しい生き方はできなくなるでしょう。

 

 イエス様の十字架の死は犠牲の死でした。そのことは本日の旧約の日課イザヤ書の個所からも明らかです。その個所はイエス様の受難を預言しています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(53章4節)と言われていました。また、「彼が受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」(同)とも言われていました。さらに、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(11節)とはっきり述べられていました。

 

 しかしながら、イエス様の犠牲の死は、先ほどの交通事故で誰かが自分を犠牲にしたおかげで自分が助かるという出来事に比べたら、あまり身近な出来事に感じられないかもしれません。交通事故の事例では、今自分が生きていられるのは、あの人が身を投げ出してくれたからだとはっきりわかります。それに対して、今自分が生きていられるのはイエス様が自分を犠牲にしたからだとわかることが出来るでしょうか?

 

 イエス様が自分を犠牲にしたのは、人間が内に持ってしまっている罪すなわち創造主の神の意思に反しようとする性向、その罪のせいで人間が造り主との結びつきを失っている、それを取り戻してあげようとしたからでした。人間が罪の罰を受けて滅びてしまわないように、それで神罰を人間に代わって受けて罪の償いを代わりに神に対して果たして下さったのでした。これがゴルゴタの十字架の出来事の真相だったのです。

 

 「今自分が生きていられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ」と言うと、それは交通事故の事例に比べて遠い感じがします。そこで、視野を拡大してこう言い換えます。「今自分が神との結びつきを持って生きられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ」と。さらに続けて、「この結びつきがあるおかげで私には順境の時も逆境の時も常に変わらぬ神の守りと導きがあり、万が一この世を去らねばならない時が来ても復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになった。これらのことは全てイエス様が自分を犠牲にしたから可能になったのだ。」こうすると遠い感じがしなくなり、イエス様も身近な「命の恩人」になります。正確には「『永遠の命』の恩人」です。

 

このように、命というものを今のこの世での命に留めず、この世が終わった後に到来する次の世にまでまたがるものと考えると、イエス様が「永遠の命の恩人」であることがはっきりします。

 

加えてイエス様は、受難を受けることは大きな苦痛を伴うものと知りつつ、敢えて受難の道に入って行かれました。ゲッセマネの園で、これから受けることになる痛みと苦しみを何か飲み干すべき杯に例え、出来ることなら飲まないで済ませたいと祈るくらいでした(マタイ26章39節)。結局は杯を受けることにしますと父なるみ神に打ち明けますが、その時のイエス様は苦しみもだえ汗を血が滴り落ちるように地面に落としていたと伝えられています(ルカ22章44節)。これから起こることは、神と人間の間を引き裂いている罪を全て人間に代わって償い、そのために罪の罰を全て受けることであると自分でわかっていたのです。全知全能の神のひとり子である方がこれほどまでの苦悩と葛藤を通り抜けなければならない位に人間の罪の償い、罪からの贖いというのは途方もないことなのです。そのことを私たちはイエス様の苦悩からわからなければなりません。これは本当に神と同質である方の純粋な苦悩です。本当なら私たちが苦悩しなければならなかったことを神がひとり子にさせたのです。イエス様はそれを全部引き受けて下さいました。だから「永遠の命の恩人」なのです。

 

 イエス様が受けた苦しみについてルターが次のように教えているので、最後にそれを引用して本説教の締めといたします。

 

「イエス様はなぜこのような苦しみを受けなければならないのか?彼は、神の意思に反する罪を持たない、まさに神聖で神の義を持つお方ではないか。しかし、全てはこの世の罪のために起こらなければならなかったのだ!父なるみ神は、この世の罪を全て彼の両肩に押し付けて彼を圧し潰されたのだ。この事実を前にして私たちはどうすればよいのだろうか?次のことを本当のことと信じて受け入れるしかない。すなわち、神が私の罪を私から取り去ってイエス様に押し付けた、それで私は罪から自由な身にされた、ということだ。どうかこのことが、主の受難を聞く私たちにとって深い慰めとなるように。なにしろ、イエス様が私たちの罪を代わりに引き受けて下さって、私たちに代わってそれを背負って神に対して償って下さったからだ。このことは彼の十字架を心の目で見つめる時にはっきりとわかる。イエス様自身、この世の全ての罪を背負うことがどんな痛みと苦しみをもたらすかを前もって全てご存じだったのだ。

 そこで、もし君の罪がイエス様の両肩に圧し掛かっているのなら、君は本当は安心してよいのだ。なぜなら、その時、罪は正しい場所に置かれているからだ。君の両肩は正しい場所ではない。なぜなら、君も他の全ての人もそれらを背負う力はないからだ。もしひとかけらの罪でも背負ったら、その重みで永遠の滅びに落ちてしまうだろう。だから、君の罪々は全部イエス様の両肩に圧し掛かっていていいのだ。そして、見よ、彼が全力を尽くしてそれらをどこに運び上げたかを。十字架の上にだ。そこで我々の罪の罰を受けられたのだ。

 しかし、イエス様は三日後に罪と死と悪魔を凌駕する者として、それらに対する完全な勝利者として立ち現われた。それらのものが主を滅ぼそうと力を奮ったが、全ては無駄に終わった。この事実は君を慰め勇気づけてくれる。ここに言葉では言い尽くせない神の恵みがある。だから神に感謝するのだ!君を地獄の深みに落そうとした罪という重荷を君から取り去って、御自分のひとり子に背負わせて下さった神を。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2021年3月22日月曜日

十戒が血と肉になるとき (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年3月21日 四旬節第五主日

 

エレミア書31章31-34節

ヘブライの信徒への手紙5章5-10節

ヨハネによる福音書12章20-33節

 

説教題 「十戒が血と肉になるとき」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

 ここ数週間の礼拝説教で十戒について教えることが多かったと思います。特にキリスト信仰者にとって十戒とは何か、それにどう向き合うかということが大きな問題としてありました。本日の旧約の日課エレミア書31章の個所も、キリスト信仰者にとって十戒とは何かということを教えています。今日もこの問題について本日の聖書の日課をもとにして深めていきたいと思います。キリスト信仰者にとって十戒とは何か?それにどう向き合うか?

 

 まず十戒について少し復習しておきましょう。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。大きく分けて二つの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名を引き合いに出して誤った誓いを立ててはいけない、また神の名を不正や偽りにかこつけて唱えてはならない、神聖な名を汚してはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

 

 第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。第9と10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

 

 十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。ところがイエス様はもっと深いところ、すなわち十戒を与えた神の本当の意図について教えました。有名な山上の説教のところです。たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪であると(マタイ5章21-22節)。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思っただけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。天地創造の神は人間に内面の潔白性までも求めているのです。全ての掟がそのようなものならば、十戒を完全に守ることができるのは誰もいなくなります。このことは使徒パウロも深刻に受け止めました。ローマ7章です。十戒の掟があることで自分にはそれに反するものがあると気づかされると言うのです。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は守れない自分を気づかせるという、人間の真実の姿を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。

 

 さらにイエス様は、十戒の土台にあるものについても教えました。マルコ12章28-31節です。神と人間の関係を律する最初の3つの掟について、その趣旨は神を全身全霊で愛することであると教えました。それで3つの掟はこの趣旨に従って理解し守らなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することであると教えました。それで7つの掟についてもその趣旨に従って理解し守らなければならなくなりました。このような土台があるために宗教改革のルターは第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入るのだと教えたのです。さらにイエス様は、神への愛の掟と隣人愛の掟の関係についても教えました。彼によれば、神への愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えたのです。

 

 以上、人間は十戒を守り切れない。心の中まで問われたらとても難しい。しかも、守ることが神への愛、隣人への愛に基づいていなければならない。さらに隣人への愛は神への愛に基づいていなければならない。イエス様はそう教えられました。少しこんがらがってきましたが、どうやらそういう愛を持てないと十戒は守れない、守ったつもりが守ったことにはなっていない、そんな愛があるというのです。それはどんな愛なのでしょうか?どうしたらそんな愛を持てるのでしょうか?エレミア31章の神の言葉は実は、そのような愛を持てる日が来ることを言っています。まず、その御言葉を見てみましょう。

 

2.      神は十戒を人間の体の外側でなく内側に授け、心に書き記す

 

 エレミア31章の神の言葉は、神がイスラエルの民と新しい契約を結ぶ時が来ると言っているところです。新しい契約の前に古い契約がありました。それは、出エジプトの時に神と民の間に結ばれた契約でした。「契約」と言うと、賃貸契約、売買契約のような取引関係を思い起こさせますが、そうではありません。ヘブライ語の単語ブリートは「同盟」の意味があります。それで聖書で「契約」という言葉が出てきたら、神と人間の「同盟関係」とか「契り」というふうに考えます。神は、イスラエルの民を世界の諸民族の中から選んで自分の民とすると宣言しました(申命記7章6~7節)。つまり、万物の創造主である神から守りと導きと祝福を受けられる民になれるということです。相手は万物の創造主ですから、これほど名誉なことはありません。それにしても、なぜイスラエルの民がこんな破格な扱いを受けられたかと言うと、それは民が偉大で優秀だったからではありませんでした。ただ単に神の一方的な思い、つまり民を憐れんで愛したからでした(申命記7章8節)。

 

 ただし、イスラエルの民が天地創造の神の守りや導きや祝福を受けられる「神の民」でいられるために、民の側にもしなければならないことがありました。それが十戒の掟でした。旧約聖書の初めのモーセ五書を繙くと、神が与えた掟は十戒の他にもそれから派生して無数の掟があります。特に将来建てられる神殿での礼拝に関する規定は沢山あります。これらの掟を称して律法と言います。十戒はその中心です。

 

 さて、イスラエルの民は約束の地カナンに移住し、敵対する民族の攻撃をはねのけながら、その地に根付いていきます。紀元前11世紀半ばに王制に始め、サウル、ダビデ、ソロモンという王を輩出しました。しかしながら、その後は王国は南北に分裂し、民の心や生き方は神や律法から離れていきます。これははっきり契約違反でした。神は預言者を遣わして民が神のもとに立ち返るよう警告しますが効果はなく、民は神の祝福を失い、まず北王国が紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、残る南王国も紀元前587年にバビロン帝国によって滅ぼされてしまいます。

 

 本日のエレミア31章の神の言葉は南王国が滅亡する直前に語られたものです。古い契約は民が律法を破り続けて神のもとに立ち返ろうとしなかったため民の方から破棄されてしまった。それで、国が亡びるのは当然のことでした。しかし、ここで注目すべきことは、神はかつて自分の一方的な思いでイスラエルの民を選んだ、その思いを捨てないのです。イスラエルの民を見限って別に掟を守れそうな民族を選ぶということはしない。そもそも、どの民族をとっても結果は同じでしょう。しかし、神は今度はイスラエルの民が律法を守れるような民族にしてあげよう、自分の力で守れないのなら、こっちで守れるような者に変容させてあげよう、と言うのです。それが新しい契約ということでした。この新しい契約は実は、イスラエルの民という一民族を超えた世界の全ての民族にとっても重要な意味を持つものになりました。神はそれをイスラエルの民を通して世界中の諸民族に及ぼそうとされたのです。

 

 新しい契約とは何か?それは、「わたしの律法を胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」というものでした。新共同訳では「胸の中」ですが、ヘブライ語の単語ケレヴを辞書で見るとthe inward part of bodyなので胸だけでなく体の内面的な部分全体です。律法を人間の外側部分にではなく内側部分に授ける、心にそれを書き記すというのです。古い契約の時は律法は内側部分ではなく外側部分に授けられ、書き記されたのは石の板でした。人間はそれを読んだり聞いたりして守ろうとしたのですが、それが今度は律法が人間に内面化して、内側から守るようになるというのです。ここで「律法」という言葉についてひと言。これはヘブライ語のトーラーでモーセ五書の掟集全部を指すこともあります。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事が起きた後、そしてエルサレムの神殿が消滅した後は、十戒に絞って考えるのが妥当です。

 

 さて、十戒が人間に内面化するというのは、それがあたかも血と肉と化すということです。十戒は人間に対する神の意思ですから、神の意思そのものが内面化して血と肉と化すると言うのです。本当にそんなことが起きれば、人間は無理して掟を守ろうと苦労することはなくなります。血と肉と化しているのだから、自然に守れるようになります。新しい契約ではそういうふうになると言うのです。その証拠に、隣人同士、兄弟同士が「主を知れ」と言って教え合うことはなくなると言います。もう神の意思が自然にわかるし、それに従って生きることも自然に出来るようになります。人間をそのようなものに変容させる契約とはどんな契約なのでしょうか?そのような契約を結ぶ日が来ると言っていますが、それはいつなのでしょうか?

 

 エレミア31章33~34節をもう少し詳しく見てみます。神が十戒を人々の心に書き記し、それで人々は神の民となり神はその人たちの神となる。その時、人々はお互いに「主を知れ」と教え合う必要がなくなる。人々がそこまで神のことを知ることが出来るようになるのは、神が十戒を人の心に書き記したからです。以前は、石の板に書き記したものを読ませて守るように命じたけれども、結局は守れませんでした。それを今度こそは守れるようにと心に書き記すのです。十戒を自然に守れるように心に書き記すということは本当に起こったのでしょうか?それが起こることを示す神の言葉があります。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」人間が神の意思に反する罪を持ったり行ったりしても、神がそれを赦して不問にすると言うのです。神の罪の赦しと十戒の内面化が関連しあっていることが見えてきます。両者を結びつけたのがイエス様でした。どのように結びつけたのか、それをイエス様の本日の福音書の言葉をもとに見ていきましょう。

 

3.十戒の血肉化はイエス様の十字架と復活から始まった

 

ギリシャ人が自分に会いたがっていると聞いたイエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言いました。さらに「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」と言いました。ここでイエス様は「死ぬ」ということを言います。32節では「私が地上から上げられる時」と言います。これは言うまでもなく、イエス様が十字架にかけられて地上から上げられることを意味します。神の栄光を現わす時が来たと言って、それは自分が十字架にかけられて死ぬ時に起きると言うのです。これはどういうことでしょうか?

 

イエス様がゴルゴタの十字架で死を遂げたというのは、人間の罪から来る神罰を私たちの代わりに受けられたということでした。つまり、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。まさに人間が神罰を受けないで済むようにするための犠牲の生贄になったのです。イエス様は全人類の罪を十字架の上にまで運び上げて罰を受けたので罪はイエス様と抱き合わせの形で滅ぼされました。それで罪の人間を支配下に置こうとする力は無にされました。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられました。それによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。

 

そこで人間がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いと罪の支配からの贖いがその人にその通りになります。その人は神から罪を赦された者と見てもらえ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待っている神の御国に迎え入れられるようになります。31節でイエス様が「この世の支配者が追放される」と言いますが、「この世の支配者」とは目に見える具体的な権力者ではなく、目に見えない霊的な支配者、悪魔のことです。人間が神との結びつきを持てなくなるようにしようとする者です。その一番大事な道具である罪が役立たずになってしまいました。悪魔としては歯ぎしりするしかありません。

 

キリスト信仰者は洗礼を通してイエス様のおかげの罪の償いと罪からの贖いを自分のものにした者ではありますが、そうは言っても、罪すなわち神の意思に反することを行ったり言葉に出したり心で思ってしまう可能性は残ります。そうなってしまったら、どうなるのか?イエス様の犠牲を台無しにしてしまったのでまた罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?そうではないということをここ数週間毎回述べてきました。そのような時、その人はすぐ我に返って父なるみ神に「私の身代わりとなって死なれたイエス様は真に私の救い主です。彼の神聖な犠牲に免じて私を赦して下さい」と願い祈れば、神はイエス様の犠牲に免じて本当に赦して下さるのです。それくらいにイエス様の犠牲は完全なものです。その人はまた復活と永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻ることができ、それを進み続けることが出来ます。このようにキリスト信仰者は罪にはまることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いに戻ってそこに留まる限り、神は罪を赦しそれを不問にして下さいます。まさにエレミア31章34節で神が罪を赦す、思い返さないと言っている通りのことが起こるのです。

 

このようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを持つキリスト信仰者は、パウロがガラテア3章27節で言うように、イエス様を罪の汚れのない純白な衣のように着せられた者です。神聖な神は罪を忌み嫌い、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、信仰者がこの衣を手放さないでしっかり纏っているのを見て義とされるのです。キリストを着せられる前は、自分には罪があるから神に相応しくないということでした。ところが着せられた今は、イエス様のおかげで神に相応しい者に変えてもらいました。それで、罪は自分には相応しくないという自覚が生じて罪を足蹴にします。

 

キリスト信仰者がイエス様という衣を手放さないでしっかり纏うというのは罪の告白と罪の赦しにしっかり留まるということです。キリスト信仰者は十戒を持っており、しかもイエス様が教えた神の意図も知っています。それで、それらに照らせば自分には神の意思に反するものがあるとすぐ気づきます。その時は罪の告白をして罪の赦しを頂きます。それで、自分にはこんな罪があるのにイエス様のおかげで神に受け入れられていることに再び感謝します。その時、罪は自分に相応しくないという自覚が戻り、罪を足蹴にします。しかし、一時するとまた自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで罪の告白をし赦しを受ける。そして神に受け入れられていることがわかり罪を足蹴にする。罪の告白と罪の赦しを繰り返せば繰り返すほど、罪を圧し潰していくことになります。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これが、十戒が心に書き記されて血と肉になった者の生き方です!人によっては、罪を告白するんだったら十戒を守っていないことじゃないかと言うかもしれません。しかし、罪を足蹴にし圧し潰していくのは、十戒が血と肉になっているからです。十戒を内側から守っているのです。

 

そもそもキリスト信仰者が被せられているイエス様というのは十戒が完全に実現されている方でした。信仰者は罪の自覚、神への告白と赦し、これを繰り返すことで自分を着せられている衣に合わせていくのです。これがイエス様が25節で言う、「この世で自分の命を憎む」生き方です。自分の命を憎むなどと言うと自己否定に聞こえますが、そうではありません。この世で目や心を引き付けるものに自分を合わせていかないで、イエス様の衣に自分を合わせていくのです。否定するのはこの世と結びついた自分です。神と結びつきを持ちイエス様という衣を纏っている人はそれが自己になっています。自己否定などありません。罪の告白と罪の赦しを繰り返せば繰り返すほど、罪の償いと罪からの贖いを自分の内に最大化していくことになります。そのような生き方がイエス様が26節で言う、彼に仕える生き方なのです。

 

私たちの造り主である父なるみ神は、私たちの側で何か顧みてもらえるようなすごいことをしたわけではないのに、父の方から一方的にひとり子を私たちに贈られて罪の償いと罪からの贖いを果たして下さいました。このことのゆえに私たちは神のこの一方的な愛に心を動かされて神を愛するようになります。また神が私たちにしたように私たちも隣人に対して一方的に善いことをしよう、赦しを与えようという心を持てるようになるのです。この愛があるおかげで、十戒を愛以外の動機や目的に基づかせて守ろうとすることがなくなっていきます。愛に基づかせて守ろうします。その時、十戒は間違いなく心に書き記されて血と肉になっています。

 

4.一粒の麦、地に落ちて死ななば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし

 

最後に、本日の福音書の個所でギリシャ人がイエス様に会いたがったことがありました。このことについてひと言述べておきましょう。当時地中海世界の東側はギリシャ語が公用語になっていました。いろんな民族の人がギリシャ語を話していたので、彼らをひっくるめて「ギリシャ人」と呼んでいました。そうした諸民族の中からユダヤ教に改宗する人たちも大勢出ました。なにしろ、多神教が主流の世界で唯一の神を崇拝するというのは斬新なことでした。しかも、人間はこの唯一の神に造られ、胎内にいる時から見守られている、などと言うのです。当時の地中海世界というのは、生まれてくる子供を大人の都合で間引きすることが普通だったところでしたから、このような生命感は革命的なことでした。こうしたことのために人々は聖書の神にひきつけられたのです。イエス様に会いたいと言ってきたギリシャ人は過越祭を祝うためにエルサレムに来ていたので改宗者だったのでしょう。彼らは旧約聖書を知っているのでメシアの到来も信じていました。イエス様のことを聞いて、もしかしたらこの人かもしれないという予感がしたのでしょう。

 

さて、十字架と復活の出来事の後、あの方こそ旧約聖書に預言されていたメシアだったという知らせが使徒たちの伝道の働きを通して地中海世界に瞬く間のうちに広まりました。あの時、ギリシャ人が会いたいと言っているのを聞いたイエス様は、これから果たすことになる罪の償いと罪からの贖いの業がユダヤ民族の境界を越えて拡がっていくのは間違いないと確信したのでした。そして、それは彼の十字架と復活の出来事の後でその通りになりました。まさに一粒の麦が死んで多くの実を結ぶということが起こったのでした。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年3月15日月曜日

心の目でゴルゴタの十字架を見つめる時、死を超えた永遠の命に向かって進むことができる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年3月14日 四旬節第四主日

 

民数記21章4-9節

エフェソの信徒への手紙2章1-10節

ヨハネによる福音書3章14-21節

 

説教題

「心の目でゴルゴタの十字架を見つめる時、死を超えた永遠の命に向かって進むことができる」 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに 

 

 東日本大震災から10年が経ちました。死者・行方不明者合わせて2万2千人の大惨事でした。避難生活を送られている方も未だ4万人を超えるそうです。心に深い傷を負いながらも前に進んでいる人たちもいれば、なかなか進めない人たちもおられます。それなので、被災された方たちがみな前に進めるように必要な支援を受けられ力を得ることができるように、後ほどみんなで一緒に祈る時に父なるみ神に祈り願いしましょう。

 

 東日本大震災はまた地震と津波の災害の他に原発や放射能汚染の問題もあります。この問題は、この日本でどのように生きていくかという問いを被災したかどうかにかかわらず全ての人に突き付けています。

 

 そこで本日の礼拝の説教ですが、私たちは一時の間、この世界のことから身を引いて聖書にある神の御言葉に耳を傾けて父なるみ神は私たちに何を求めているのか、それに対して私たちはどう応えていくのかということを明らかにしていきたいと思います。明らかになったことを心に留めて、また明日から始まる平日の日常に戻って、私たちを取り巻く世界のいろんな問いかけに向き合いながら、自分自身の課題に取り組んでいきたいと思います。

 

 そういうわけで本日の説教は、本日の福音書の箇所、ヨハネ福音書3章14-21節にあるイエス様の言葉を中心に解き明かしをしていきます。この個所は実は本日の旧約の日課、民数記21章4-9節と使徒書の日課、エフェソ2章1-10節とも密接に結びついています。これら3つの聖句を互いに突きあわせることで、ヨハネ福音書のイエス様の言葉の意味がよくわかってきます。どんなことがわかってくるかと言うと、イエス様がかけられたゴルゴタの十字架を心の目で見つめることが出来るかどうか、このことが死を超えた命、永遠の命に至るかどうかの決め手になるということです。以下それを見ていきましょう。

 

2.      信じるとは、心の目で見つめること

 

 本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1-21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛とはどういうものか、また人間の救いとは何か、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについても教えを受けます。

 

 本日の箇所でイエス様はニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げたという出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にあります。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は、「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では「炎の蛇」を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥהביתプラス前置詞エルאלは辞書によると英語のlook at、gaze atです。それで、「見上げる」、「仰ぐ」のような「見やる」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。

 

 イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたということにとどまらない深い意味が含まれています。

 

 民数記21章の出来事に出て来る「炎の蛇」サーラーフשרףですが、興味深いことに各国の聖書では「猛毒の蛇」と訳されています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。しかし、ヘブライ語の辞書を見ると「炎の蛇」はありますが、「猛毒の蛇」はありません。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて「猛毒の蛇」という辞書にはない言葉で訳したんではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、出来るだけ合理的な訳をしようとしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、せっかく彼らが作った辞書に「炎の蛇」とあるのだから、ここでは少し踏みとどまって、「炎の蛇」で通すことにします。モーセが神から「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりますが、これは一体どういうことでしょうか?以下のように考えたらよいでしょう。

 

神から「炎の蛇」を造りなさいと言われたモーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを神に言われたように旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが悪魔にそそのかされて、造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。これが堕罪と言われる出来事です。

 

イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うということについて、これはまさに神の意思に反する罪を犯すと、その罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いということを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、そこで表わされていることがその通りになって死を免れたのです。

 

 これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。神の意思に反しようとする罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを修復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。つまり、イエス様は全ての人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。加えて、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力であり、人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありませんでした。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。それによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

 

 このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部して下さり、また罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。イスラエルの民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた毒消しがその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それゆえ、私たちは心の目で見つめなければなりません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を償われ罪から贖われた者はイエス様の十字架を心の目で見つめたのです。

 

3.      一度だけでなく、何度でも見つめること

 

 イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時に一回だけあったのではありません。心の目で見つめることは洗礼の後も何度も何度も繰り返されます。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったとは言っても、神の意思に反する性向つまり罪はまだ残っているからです。イエス様は有名な山上の説教で、たとえ人殺しをしていなくても兄弟を罵ったり憎んだりしたら同罪、たとえ不倫を犯していなくても女性を淫らな目で見たら同罪と言う具合に、神は罪のない潔白さを心の中まで問うていると教えたのです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも心の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない不注意があって罪を言葉や行いで犯してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?せっかくイエス様が果たしてくれた罪の償いと罪からの贖いを台無しにしてしまったことになり、もう神罰を受けるしかないと観念するしかないのでしょうか?

 

 いいえ、そうではない、ということを先週の説教でも先々週の説教でも申しました。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で素直に認めて次のように赦しを願い祈ります。「どうかイエス様を救い主と信じますので、彼の犠牲に免じて私を赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられて今も微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦すのだから、お前もこれからは罪を犯さないようにしなさい。」

 

 こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待っている神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることをしたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と神への告白と罪の赦しの繰り返しですので、十字架を見つめることは何度でもします。そうやって何度でも再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が死を超えた永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛ということです。そのことをヨハネ3章14~16節はよく言い表しているので、もう一度拝読します。

 

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

4.信じない者は信じるに転ぶ可能性を秘めている

 

ヨハネ福音書3章の本日の箇所の後半(18-21節)で、イエス様は自分のことを信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

 

3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」などと言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたらあまりいい顔しないでしょう。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されます。信じなければ状況は何も変わらず、堕罪の時以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。

 

 3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と彼を用いて救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

 

 3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るところだと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教が本当は独善的でも何でもないことがわかるために、まず、キリスト信仰者とそうでない者の違いを見てみます。そうでない者の場合は、造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。

 

 キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

 

 このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。

 

翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないように働きかけたり支えたりするというのは、詰まるところ心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超えた永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン