2020年11月9日月曜日

この世で目を覚まして生きるとは? (吉村博明)

 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 

 

2020年11月8日(聖霊降臨後第23主日)スオミ教会

 

アモス書5章18-24節

テサロニケの信徒への第一の手紙4章13-18節

マタイによる福音書25章1-13節

 

説教題 「この世で目を覚まして生きるとは?」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.  はじめに

 

結婚式の祝宴というものは、イエス様の時代にも大がかりでした。ヨハネ福音書の2章に有名なカナの婚礼の話があります。イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行った話です。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶があり、今の単位で言えば80-120リットル入る大きさのものでした。そんな大きさの水瓶が全部で6つありました。既に出されたぶどう酒が底をついてしまった時、イエス様は追加用に水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしました。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。

 

本日の福音書の箇所でも結婚式の祝宴の盛大さが窺われます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に行って結婚を正式に申し込みます。先方の両親からOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで祝宴が盛大に催されました。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従います。こうした付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。

 

本日の福音書の箇所でイエス様は、婚礼の行列に付き従うことになった10人のおとめたちに何が起きたかを話します。10人のうち賢い5人は、花婿が花嫁の家を出発するまでの待ち時間にともし火が消えないように油を準備します。愚かな5人はそうしませんでした。案の定、花婿はなかなか出て来ず、10人とも疲れて眠ってしまう。すると突然、花婿が出てきて、結婚は成立した、これから祝宴に向かって出発するぞ、と号令がかかる。はたと目が覚めたおとめたちは支度をするが、愚かなおとめたちはともし火が消えそうなのに気づいて慌てて油を買いに行く。その間に行列は出発してしまい、さっさと祝宴会場に行ってしまう。油を買って遅れて来たおとめたちは閉ざされた門の前で、中に入れて下さいと懇願するが門前払いを食ってしまう。そういう話です。

 

これを読むと、花婿は5人に対してなぜそんなに厳しく振る舞うのか、と大抵の人は思うでしょう。閉じた門の反対側から「お前たちなど知らない」などとは、ちょっと冷たすぎはしないか?結婚式の行列にともし火を持って付き従うというのは、そんなに花婿の名誉にかかわるものなのか?それをちゃんと果たせないというのはそれほどの大失態ということなのか?こうした疑問は、当時の民衆の生活史を綿密に調べないとわかりません。

 

ここで注意しなければならないことがあります。それは、この話はたとえということです。架空の話で実際に起こったことではありません。お前たちも注意しないとこの5人みたいになってしまうぞと警告する教訓話です。当時の人が身近に感じる事柄を題材にしてひゃっとさせて考えさせる手法です。ところが現代の私たちには婚礼の行列のおとめのともし火なんてあまり身近に感じられません。エキゾチックな感じはしますが。門前払いでひやっとさせる事と言ったら、私などはかつて日本の大学で必修科目の試験で遅刻して門前払いを食ったことがあります。他の単位を満たしてもそれに合格していないと卒業は出来ないので、さすがに次の年は気を引き締めました。それが最終学年の試験でなくてよかったと何度も思いました。

 

しかしながら、この10人のおとめの場合は門前払いを食って人生の進路の予定が狂うという次元の話ではありません。実はこれは人間の生死にかかわる話で、門前払いを食ったら永久に取り返しのつかないことになるという、かなりシビアなことを教えているのです。それでひゃっとさせることが出来たら警告は重く受け取られることになるでしょう。現代の私たちは同じようなひゃっとはないかもしれません。しかし、たとえ昔と今の感覚の違いはあっても警告は昔と同じくらいに重く受け取られるようにする、これが説教者に課せられた使命です。ここでもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、このたとえは警告の教えだけに留まらないということです。賢いおとめたちのように立ち振る舞えば祝宴に入れるということにも注目しなければいけません。彼女たちの立ち振る舞いが何を意味するのかがわかると、このたとえは希望の教えにもなります。以下そうしたことを明らかにすることを目指して御言葉の説き明かしを進めてまいります。

 

2.結婚式の祝宴にたとえられる「神の国」

 

 まず、この10人のおとめのたとえは何についてのたとえだったでしょうか?それは冒頭に言われています。「天の国」についてのたとえです。「天の国」または「天国」は聖書では「神の国」とも言い換えられますが、それがどんな国かをわからせるために、このたとえが話されているのです。それでは、このたとえから神の国はどんな国であるとわかるでしょうか?

 

キリスト信仰で言う「神の国」について、まず一般的なことを大ざっぱに述べておきます。これまでの説教でも何度もお教えしましたが、「神の国」は天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。「天の国」、「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間の五感や理性で認識・把握できるような、この現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、ご自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見ると神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に贈り、彼をゴルゴタの十字架の死に引き渡して、三日後に死から復活させたことです。

 

 神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神との結びつきが失われて神のもとから追放されてしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

 

 神の国は、今はまだ私たちが存在する天と地の中にはありません。しかし、それが目に見える形で現れる日が来ます。復活の日がそれです。それはイエス様が再臨される日でもあり、最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、創造主の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる時です。「ヘブライ人への手紙」12章や「ペトロの第二の手紙」3章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨したイエス様が、その時点で生きている者たちとその日死から目覚めさせられた者たちの中から神の目に相応しい者を神の国に迎え入れます。本日の使徒書の日課「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章にある通りです。

 

その時の「神の国」は、黙示録19章に記されているように、大きな結婚式の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節も)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。

 

「神の国」を結婚式の祝宴として述べている黙示録19章によれば、花婿はイエス様であり、花嫁はイエス様を救い主と信じた者たちの集合体です。マタイ22章でもイエス様は「神の国」について結婚式の祝宴を題材にしてたとえを述べていますが、そこでの花婿はイエス様自身を指しています。

 

 そうすると、本日のたとえにある結婚式の祝宴は将来現れる「神の国」を意味することが明らかになります。そうすると、ともし火に油を用意した賢い5人は神の国の入ることができた者たち、用意しなかった愚かな5人は入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、愚かな5人のようになってはならない、神の国に入れなくなってしまわないように注意しなさいと警告していることがわかってきます。ここで一つ難しいことが出て来ます。それは、イエス様がたとえの結びで「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と述べるところです。あれ、神の国に入れるために目を覚ましていなさい、居眠りしてしまったら入れなくなってしまうぞ、と言うのなら、賢いおとめたちだって眠りこけてしまったではないか、ということになるからです。賢いおとめたちは、予備の油を準備したおかげで神の国に入れたのであって、頑張って目を覚ましていたからではありません。この「目を覚ましていなさい」という命令には、文字通りの事柄ではなく、何か深い意味が込められています。それはどんな意味でしょうか?

 

3.「目を覚ましている」とは「用意ができている」ということ

 

 賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」とも言われています。そうすると、「目を覚ましていなさい」というのは、文字通りに寝ないで起きていることではなくて、何か用意ができている状態にあることを意味する、それを「目を覚ます」と象徴的に言い換えていると分かります。そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」の「眠り込んでしまった」というのも、文字通りに寝てしまうことではなく、何かを象徴的して言い換えているとわかります。何を言い換えているのでしょうか?「眠り込んでしまった」という言葉はギリシャ語ではカテウドーκαθευδωという動詞ですが、これは「眠る」の他に「死ぬ」という意味もあります。本日の使徒書の日課第一テサロニケ4章13節ではその意味で使われています。さらに7節で「おとめたちは皆起きて」と言うところの「起きて」という言葉は、ギリシャ語ではエゲイローεγειρωという動詞で、これも「起きる」の他に「死から復活する、蘇る」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。

 

こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して死者の復活が起こる日のことについて教えていることがわかります。その日、死から目覚めさせられた者のうちある者は祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられないということが起こる。イエス様は、神の国に迎え入れられるためにはこの世の人生で用意をしなければならない、と教えるのです。賢いおとめたちが油を用意してともし火が消えないようにしたような用意をしなければならない。それでは、その用意とは何をすることなのかを考えなければなりません。

 

これからそれを見ていきますが、その前に一つ申し添えておきたく思います。イエス様の教えというのは、このように、今の世の次に来る新しい世とか、死者の復活とか、そういう今のこの世を超えた視点を持って語られているということをよく覚えておく必要があります。その視点を抜きに本日の箇所を理解しようとしたら、人間何事も準備が大切だ、先を見越して行動することが大切だ、というような誰にでもわかる人生訓をイエス様が述べていることになってしまいます。そんなことを教えるためにイエス様は創造主の神のもとから贈られてきたのではありません。人間が将来の神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方ができるようにするために贈られてきたのです。

 

4.罪の自覚と赦しで罪を圧し潰していく戦い

 

それでは、「用意する」生き方とはどんな生き方かをみていきましょう。神の国の祝宴から排除されてしまった5人は賢い5人と同様に祝宴に招かれていたことを思い返しましょう。みんな婚礼の行列にともし火を持って付き従う任務を受けていました。つまり10人とも神の国への招待を受けていたのです。その意味で愚かな5人も賢い5人ももともとはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちを意味します。ところが、神の国に入れたのは賢い方でした。先月の福音書の日課にあったマタイ22章14節のイエス様の言葉を借りれば、招待を受けたのに選ばれた者にはならなかったのです。同じ出発点に立ちながら、どうして異なる結末を迎えることになってしまったのか、それがわかれば予備の油を用意すること、ともし火を絶やさずに燃え続けさせることの意味もわかります。あわせて「目を覚ます」の霊的な意味も明らかになります。

 

本教会の説教で何度もお教えしましたが、人はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様がゴルゴタの十字架で成し遂げられた人間の罪の償いを自分のものにすることが出来ます。イエス様に罪の償いを神に対して代わりにしてもらったことになり、それで神からは罪を赦されたものとして見なされるようになります。それはイエス様の罪の汚れのない純白さをあたかも衣のように頭から被されることです(ガラテア3章27節)。私たちの内にはまだ神の意思に反する罪があるのに、神は私たちが纏うことになった純白の衣の方に目を留められ、私たちもそう見られているのに相応しい生き方をしようとします。

 

ところが、神の意思に沿う生き方をしようとすると、自分にはそれに反しようとする罪があることに気づかされることになります。神を全身全霊で愛することが神の意思なのに、そうしていない自分に気づかされます。神に全ての願い事や悩み苦しみを打ち明けて祈らなければならないのに、そうしていない。神に感謝しなければならないのにそうしていない自分です。加えて、神への愛に基づいて隣人を自分を愛する如く愛さなければならないのに、そうしていない。自分は人殺しもしない、不倫もしない、盗みもしない、偽証もしない、妬みもしない、だから何も問題ないと思っているが、実は心の中で思ったり言葉で言ってしまっていて隣人愛を持っていないことを証してしまっている。その時、神は私に纏わせた純白の衣は朽ち果て色あせてしまったと見なして、私のことを罪を赦された者と見て下さらないのだろうか?

 

いいえ、そういうことではありません。純白の衣は純白のままです。では何が問題なのか?それは、内在する罪が衣を捨てさせようと力を行使してその攻撃を受けているということです。その攻撃を撃退するには、純白の衣を手放さないようにしっかり纏ってその重みで罪を圧し潰していくことです。どうやってそんなことができるのか?それは、罪の自覚が生まれた時、神の御前で素直にそれを認めて赦しを祈ります。父なるみ神よ、ゴルゴタの十字架で私の罪の償いをされたイエス様は私の救い主です、どうか私の罪を赦して下さい、と。そうすると神は、お前が我が子イエスを救い主と信じる信仰に生きていることはわかっている、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、もう罪を犯さないようにしなさい、と言って下さいます。これをすることで、神と人間の間を引き離そうとする罪は入り込む余地がないと思い知らされ歯ぎしりします。

  

実にキリスト信仰者は罪の自覚と罪の赦しを繰り返すことで罪を圧し潰していくのです。この中で聖餐式を受けると罪の圧し潰しに一層拍車をかけることになります。罪の圧し潰しは私たちがこの朽ちる肉の体から離れる時までずっと続きます。ルターは、キリスト信仰者のこの世の歩みとは、洗礼の時に植え付けられた霊的な新しい人を日々育て、以前からある肉的な古い人を日々死に引き渡すプロセスであると言っています。それで、キリスト信仰者はこの世を離れる時に完全なキリスト信仰者になると言うのです。

 

賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、まさに霊的な新しい人を日々育て、肉的な古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いが不断に続くことを意味します。信仰の戦いを続けることが将来の復活の日の神の国への迎え入れを用意することになります。それをすることがこの世で目を覚まして生きる生き方になります。その生き方はともし火が消えない生き方です。だから、信仰の戦いを続けることは予備の油を持つことと同じです。

 

翻って、愚かなおとめたちが予備の油を用意しなかったというのは、もう洗礼を受けたらそれで終わり、信仰の戦いに入っていかないか、最初は行ったけれどもいつしか離脱してしまったことです。そうなると、洗礼の時に植えつけられた霊に結びつく新しい人はもう育ちません。肉に結びつく古い人間がまた盛り返してしまいます。ともし火の火も消えます。これが目を覚まさない生き方であり、神の国への迎え入れの用意をしないことです。とは言っても、このたとえを話したイエス様の主眼は信仰の戦いをやめてしまった人たちを断罪することではありません。警告が主眼です。信仰の戦いをやめてしまった人たちに対して、こうならないために早く戦いに戻りなさいと促しているのです。信仰の戦いを生きることが大事と言うのであれば、このたとえは、まだイエス様を救い主と信じておらず洗礼も受けていない人たちに対しても、賢いおとめにならって、それに入りなさいと促すメッセージになります。

 

5.終わりに - キリスト信仰者はこの世を超えた視点を持つ

 

信仰の戦いなどという言葉を聞くと、なんだか宗教間の争いを想起させてあまりいい気がしない方がいらっしゃるかもしれません。しかし、この説教で聞いてきたことを思い返せば、それはあくまでキリスト信仰者の内面の戦い、神の意思に反する罪を自覚と赦しを繰り返すことで圧し潰していくことであって、外面的な争いと全然関係ないとわかるでしょう。使徒パウロがローマ12章で教えていますが、内面的な信仰の戦いを真摯に戦えば戦うほど、全ての人と平和に暮らす、自分を相手より上だと思わない、悪に対して悪で報いない、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々のことは当然なものになっていくのです。このような平和路線は、今の時代の、他人を追い落とすために自分を有利にするために偽りを真実と言ってはばからない風潮にあっては、不利で損なことでしょう。しかし、先にも申したように、キリスト信仰者はこの世を超えた視点を持ちます。それなので、神の意思に沿うことをして損をするか、それとも得するために神の意思から外れるかという選択肢に立たされたら、キリスト信仰者はこの世での損は次の世での得になると考えます。それがキリスト信仰というものです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年11月2日月曜日

幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2020年11月1日 全聖徒の日

 

黙示録7章9-17節

ヨハネの第一の手紙3章1-3節

マタイによる福音書5章1-12節

 

説教題 「幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は」

 


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今年の日本のルター派教会の「全聖徒の日」の聖書日課は変則的に旧約聖書がなくて、その代わりに黙示録からでした。その7章で著者のヨハネが天使から見せられたこの世の将来の出来事についての一場面です。万物の造り主である神と救い主イエス・キリストの御前に世界中から数えきれないくらいの大勢の人たち、しかも純白に輝く衣を纏った人たちが集まっている場面です。福音書の日課の方はマタイ5章の有名なイエス様の「山上の説教」の初めの部分で、「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。今から約2,000年前の地中海東海岸のガリラヤ地方でイエス様が群衆を前にして教えた事柄です。黙示録の方は、イエス様の時代から60年くらい経った後に弟子のヨハネが神からの啓示を受けて今の世が新しい世に取って替わる時の出来事について見せられた事柄です。二つは一見何の繋がりもないようですが、実は内容的には繋がっています。というのは、イエス様が「幸い」と言っている人たちはヨハネが見せられた大勢の純白の衣を纏った人たちのことだからです。今年の全聖徒の日の説教ではそのことについてお話ししようと思います。

 

2.黙示録7章の純白の衣を纏った人たち

 

 まず、黙示録7章を見てみましょう。玉座には万物の造り主である父なるみ神がいます。その傍に御子イエス・キリストがいて小羊と呼ばれます。玉座を前にして純白の輝く衣を纏った世界中から集められた大勢の者たちが神と小羊を賛美している場面です。彼らは大声で叫びます。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊のものである。」これは少し注釈を要します。原文はギリシャ語ですが、文のヘブライ語の背景を考慮に入れると、「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある」です(後注1)。救いは他のところにはないということです。純白の衣を纏った者たちはその神と小羊の御前に来たのです。救いがあるところにです。この場面はまさに、今ある天と地が終わりを告げて最後の審判と死からの復活が起こって、神が新しい天と地を創造して、そこに神の国が現れて神に義とされた者たちが迎え入れられた場面です。

 

 そう言うと一つ疑問が起きます。ここはまだ7章ではないか?最後の審判と復活は20章、新しい天と地の創造と神の国への迎え入れられは21章ではないか?黙示録というのは、こういうふうに最終的に起こることをプロセスの途中で垣間見せることがあります。19章にも同じことがあります。復活して神の国に迎え入れられた者たちがキリストと結ばれる婚宴の祝宴の場面を見せられます。この祝宴も新しい天と地のもとでの神の国のことです。このように黙示録の時系列は私たちの理解を超えるものです。あまり自分の頭で理解しようとしないことが肝要です。人間の理解力でどうにかなるような代物ではありません。一つはっきりしていることは、理解を超える時系列を通して私たちに大事なことを伝えているということです。それは、最終目的地に至るプロセスの中でどんな苦難や困難の真っ只中にあっても、お前は今垣間見せてもらった、やがて起こることになる場面の当事者なのだ、今そこに向かう道を間違いなく進んでいるのだ、だから心配するな、そう励まし力づけているということです。これで十分でしょう。

 

 玉座の場面を見せられたヨハネは、一人の長老から、これらの純白の衣を纏う者たちに起こることを聞かされます。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽もあらゆる灼熱も彼らを襲うことはない。」これはイザヤ書49章10節にある預言です。太陽や灼熱は身体的な苦痛だけでなく、マルコ4章のイエス様の教えから明らかなように迫害も意味します。「小羊が牧者となり、命の水の泉へ導く」とは詩篇23篇の言葉です(後注2)。「神が彼らの涙をことごとく拭われる」というのは、これもイザヤ書25章8節の中にある預言です。8節全部はこうでした。「主なる神は、死を永久に滅ぼされる。全ての顔から涙を拭い、ご自分の民が受けた恥や屈辱を地上から一掃される。」

 

長老はヨハネに、純白の衣の者たちにこれらの預言が起こると言っているのです。彼らが父なるみ神と御子キリストの御前に立つ時には預言は全てその通りになっているのだと。飢えも渇きも迫害も苦痛もなく、命の水の源がそこにあり、涙も苦痛のだけでなく無念の涙も全て拭われていると。まさに、最後の審判と死からの復活を経て神の国への迎え入れが起こったのです。

 

 これら神とキリストの御前に集う純白の衣の者たちは一体誰なのか?それは、イエス様の山上の説教の「幸いな者」の教えからわかります。

 

3.幸いな人とは神の国に迎え入れられる人のことである

 

 イエス様は山上の説教の出だしの部分で「幸いな人」について教えていますが、ここで「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意します。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」と異なる「幸せ」が意味されています。以前にもお教えしましたが、「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとって幸せだという、神の視点での幸せです。人間がこれが幸せだと言うのとどう違うのか?重なる部分もあるのですが、人間の視点では幸せとは言えない状態であっても、「幸い」な状態にあるということもあるのです。それで違うのです。それでは「幸い」とはどんな幸せなのでしょうか?

 

 まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。以前にもお教えしましたが、この「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)をはじめ、いくつかの国々の聖書も「霊的に貧しい」と訳しています。「霊的に貧しい」というのはどういうことか?ここから先はルター派の観点で述べていきます。「霊的に貧しい」とは、万物の造り主である神を前にして至らないところがあるということです。さらに大事なことは、その至らなさを自覚しているということです。十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らし合わせると、自分は神に対して至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。イエス様は「山上の説教」の別のところで、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えています。神聖な神は人間の外面的な行為や言葉のみならず心の奥底まで潔白かどうか見ておられるのです。そうすると、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、全然なっていない自分に気づき意気消沈します。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。

 

なぜ、そのような者が幸いなのか?その理由が言われていています。「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」新共同訳では出ていませんが、ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。この後の「幸い」な人のところでも全部「なぜなら」と言っています。「天の国」、つまり「神の国」のことですが(マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わず「天」に置き換える傾向があります)、それが、神の前に立たされても大丈夫な者、霊的に貧しくなんかない者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと心配する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われるのです。これは一体どういうことなんだろうと考えさせられます。イエス様は同じ調子で話を続けていきます。

 

 霊的に貧しい人に続いて「悲しむ者」が幸いと言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。一つには、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。加えて、そういう神との関係でなく、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。ここでも「悲しむ者」がなぜ幸いなのか、理由が述べられています。「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになる、だから幸いなのだと言うのです。

 

 次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスπραυςも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えば、マリアの品性がそうだと言えます。マリアは神を信頼し、神が計画していることは自分の身に起こってもいいです、という物分かりのいい態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになっても、神が取り仕切って下さるから大丈夫という単純さでした。そうした神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純で静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入って来ると思います。

 

 そんな柔和な人たちが幸いだという理由は、「地を受け継ぐことになるからだ」と言います。少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味します。キリスト信仰の観点では、「約束の地」とは将来復活の日に現れる「神の国」になりますので、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」を得る、そこに迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということです。

 

 次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神に相応しい状態、神の前に立たされても大丈夫、問題ないという状態です。先ほど見た、霊的に貧しい者は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それなので義に飢え渇くことになります。そのような者が幸いだと言う理由は、「彼らは満たされることになるからだ」と言います。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して希求する者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。逆に言えば、義の欠如の自覚がなく、義に飢えも渇きもない人は満たしてもらえないので幸いではありません。

 

7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言います。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに神が受け入れて下さるということです。神の意思に反する罪を持つのに赦してもらえるということです。そのような罪の赦しを受けていることをよく覚えて、周りの人たちにも赦しの心で接すれば、神はご自分が与える罪の赦しを揺るがないものにして下さるのです。

 

8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。「心の清い」とは罪の汚れがないことです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。本日の使徒書の日課である第一ヨハネの3章で言われているように、神を目で見れるようになるのは復活を遂げて神の国に迎え入れられた時です(後注3)。

 

 9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する」と言うと、何か紛争地域に出向いて支援活動をするような崇高な活動のイメージが沸きます。しかし、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、神の子と呼ばれる者はそうするのが当然というのです。

 

 10節と11節を見ると、義やイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに人からあることないこと言われたりひどい場合は迫害されてしまうが、それも幸いなことと言われ、それは神の国に迎え入れられることになるからだと言います。どうやら、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているようです。神に慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということが見えてきます。それでは、神の国に迎え入れられるとはどういうことでしょうか?

 

4.神の小羊の血で衣を白くされる

 

 イエス様の教えは当時はじめて聞いた人たちには理解不能だったのではと思われます。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味していたからでした。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫に見なされる人を意味しました。

 

 人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

 

それに対してイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。人間の造り主である神は人間の心の清さも求めておられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は本当の罪の赦しはそこにはない。父なる神が預言者たちの口を通して言っていたように、毎年繰り返される生け贄捧げは形だけの儀式で心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが幸いなことなのだ。なぜなら、それがお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しだからだ。

 

 それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、人間が律法を心に留められるようにして「幸いな者」にしたのでしょうか?

 

 それは、イエス様が父なるみ神の大いなる救いの意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡すことで全ての人間の罪の神罰を人間に代わって受けられたことで果たされました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。

 

この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の赦しがその人に効力を発揮します。その人は朽ちない復活の体が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。イエス様を救い主と信じる信仰に入り洗礼を受けた者は、使徒パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せられるのです。黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことでした。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。

 

このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を神との結びつきを持って進む者です。これが「幸いな者」なのです。

 

ところで、この「幸いな者」は、この世ではまだ朽ちる肉の体を纏っています。それで、神の意思に反する罪をまだ内に宿しています。それなので信仰者は自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、神の小羊の血が私たちの衣の白さを保ってくれます。キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対する信頼が一層強まり柔和になっていきます。

 

5.そして復活の日に

 

そうこうしているうちに歩んできた道も終わり、復活の日に眠りから目覚めさせられて神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚しています。あの古い世界で神の意思に反することが自分にあった、人を見下すこと罵ること傷つけること不倫や偽証や改ざん等々、たとえ行為で出すことはなくとも心の中で思ってしまったことがあった。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりだった。あるいは、弱さのために行為や言葉に出してしまったことがあった。しかし、それは神の意思に反することとわかって悔いて神に赦しを祈り願った。その時イエス様の十字架のもとでひれ伏して祈った。本当にイエス様を救い主と信じる信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。イエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、洗礼の時に着せられた純白の衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力や汚そうとする力が襲いかかっても、お前はそれをしっかり掴んで離さず、いつも罪の赦しの恵みの中に踏みとどまった。その証拠に私は今、お前が変わらぬ純白の衣を着て立っているのを目にしている。」

 

そのように言われたら、私たちはどうなるでしょうか?私だったら、きっと感極まって崩れ落ちて泣いてしまうのではないか。そして立ち上がって周りにいる者たちと一緒にこう叫ぶのではないか。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊のもとにある、他にはない!」

 

η σωτηρια τω θεω ημων τω καθημενω επι τω θρονω και τω αρνιω!

幸いなるかな、神の小羊の血で衣を白くされた者は!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

(後注1)黙示録7章10節の群衆の叫びのギリシャ語原文のヘブライ語の背景というのは、前置詞לのことです。ギリシャ語の文はその直訳と考えられます。לは、「~のもの」と所有・所持の意味もありますが、「~のもとにある」の意味もあります。例として詩篇3篇9節「救いは主のもとにあります(新共同訳)」。

 

(後注2)その詩篇は預言には聞こえませんが、ヘブライ語の動詞の用法を見ると行為が完了していないことを表わしています。つまり、羊飼いは常に導く方である、間違いなく導いて下さる、という意味で預言にも捉えられます。

 

(後注3)新共同訳では「御子が現れる」と訳していますが、どうでしょうか?第一ヨハネ3章2節のギリシャ語原文を直訳すると以下のようになります。

「愛する者たち、私たちは今神の子なのです。しかし、(復活の日に)私たちがどのような様態になっているのかはまだ明らかではありません。私たちは知っています、(その日に)それが明らかになれば、私たちは彼と同じようになっているということを。なぜなら、私たちは(その日)彼をあるがままの姿で見ることができるからです。」

新共同訳はこうでした。

「愛する者たち、私たちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、その時御子をありのままに見るからです。」

参考までにフィンランド語訳はこうです(日本語に直訳します)。

「愛する友よ、私たちは既に今神の子ですが、私たちがどのようなものになるかはまだ明らかになっていません。私たちは知っています、それが明らかになる時、私たちは彼のようになるということを。なぜなら、私たちは彼をあるがままの姿で見ることになるからです。」

新共同訳では「現れる」のは「御子」ですが、ギリシャ語原文やフィンランド語訳では「明らかになる」のは「私たちがどのようなものになるか」です。それから、新共同訳では誰に似た者になるかという時、それは御子ですが、フィンランド語訳では「彼」は「神」を指していることは明らかです。私は、ギリシャ語原文もそうだと思います。

2020年10月26日月曜日

神の最も重要な掟と愛 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2020年10月25日 聖霊降臨後第21主日

 

レビ記19章1-2、15-18節

テサロニケの信徒への第一の手紙2章1-8節

マタイによる福音書22章34-46節

 

説教題 「神の最も重要な掟と愛」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 エルサレムでのイエス様と彼に反対する人たちの間の論争が続きます。本日の福音書の箇所の直前に、サドカイ派と呼ばれる党派とイエス様の間で論争がありました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿祭司やユダヤ教社会の上流階層を構成員とする党派です。論争の的となったのは、死からの復活はあるかどうかということでした。サドカイ派は復活などないと主張する派で、これをイエス様は旧約聖書の御言葉に基づいて見事に論破します。その一部始終を見ていたファリサイ派と呼ばれる別のグループ、これはユダヤ教の伝統的な戒律を幅広くできるだけ多く守ろうとする信徒運動です。そのファリサイ派の人たちが集まって、サドカイ派は言い負かされてしまったぞ、自分たちはどうやってあの生意気なイエスを言い負かそうかと相談を始めます。

 

 そこで、彼らの一人で律法学者も務める者がファリサイ派を代表してイエス様のところにやってきて質問します。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか?」原語のギリシャ語を直訳すると、最も偉大な掟、最大級の掟はどれかと聞いています。つまり最も重要な掟ということです。サドカイ派は、復活という死生観の問題でイエス様に挑戦してあっけなく敗れ去りました。ファリサイ派はユダヤ教の根幹とも言える律法の問題で挑戦してきました。

 

 なぜこのような質問が出たかというと、律法学者というのは職業柄、ユダヤ教社会の社会生活の中で生じる様々な問題を律法に基づいて解決する役割を担っていました。それで、律法の各掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて教えることもしていました。神の掟である律法は、まず旧約聖書に収められているモーセ五書と言われる律法があります。それだけでもずいぶんな量ですが、他にもモーセ五書のように文書化されずに、口承で伝えられた掟も数多くありました。サドカイ派は文書化された掟しか重んじませんでしたが、ファリサイ派は両方とも大事と考えていました。そういうわけでファリサイ派の律法学者となると、膨大な神の掟を適用することになるので、どっちを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題によく直面したのです。

 

 「どの掟が最も重要ですか、最大級の掟ですか?」という質問は、そのような背景から出てきました。もし、これが重要だ、と答えたら、きっと、それじゃ他のは重要ではないのですか?掟は全て神が与えたものではないのですか?これが重要で、あれは重要でないという根拠はなんですか?あれだってこれこれの理由で重要ではないのですか?そういう具合に、相手は法律の専門家ですので、答えようによっては反論の山が押し寄せてくるのは火を見るより明らかです。

 

2.第一の掟

 

 イエス様の答えは以下のものでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは、申命記6章4-5節で神がモーセを通してイスラエルの民に伝えた掟です。その部分を振り返ってみましょう。

 

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 

 神を愛するという時、このように全身全霊で愛するということはどういうことでしょうか?全身全霊で愛するなどと言うと熱烈な恋愛みたいですが、ここでは相手は万物の創造主の神です。天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられ、御子イエス・キリストをこの世に送られた父なる神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 

 その答えは、今みた申命記の掟の最初の部分にあります。「我らの神、主は唯一の主である。」これは命令形でないので掟にはみえません。しかし、神を全身全霊で愛せよ、というのは実は、神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにしなさい、ということなのです。言い換えると、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということです。この神以外に自分の運命を委ねたり、また委ねられているなどと考えてはならない、自分が人生の中で経験する喜びを感謝し、また苦難の時には助けを求めて祈り助けを待つ、そうする相手はこの神以外にあってはならないということです。もしそれでは物足りないと言って、神以外のものに祈りや願いを捧げてしまうと心移りしたことになり、神を全身全霊で愛さなくなってしまったことになります。

 

 祈りや感謝をささげ願い事や悲しみを打ち明ける相手はこの神しかいないという位に神一筋になることが神を唯一の神としてしっかり保たれるようにすること、それが神を全身全霊で愛することであるとわかりました。このような愛をどうしたら私たちは持てるのでしょうか?このような愛は何もないところから自然には生まれてきません。どこから生まれてくるかと言うと、この神が私たちに何をして下さったかを知ることで生まれてきます。それではこの神は私たちに何をして下さったかのでしょうか?

 

 神はまず、今私たちが存在している場所である天と地とその中にあるものを造られました。そして私たち人間をも造られ、私たちに命と人生を与えて下さいました。もともと人間は神の目から見てよいものとして造られたのですが、創世記3章にあるように、人間が神に対して不従順になって神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神の創造の世界は様変わりしてしまいました。光で満ちた世界は影が覆うようになり、光は垣間見ることが出来るものになってしまいました。様変わりした世界で人間は神との結びつきが失われて死ぬ存在になってしまいました。人間は代々死んできたように、代々神の意思に反する罪をも受け継ぐ存在となってしまったのです。

 

 神は人間が自分との結びつきを失ってしまったことを悲しみ、それを復興させるべくひとり子のイエス様をこの世に贈られました。神がイエス様にさせたことは次のことでした。本当だったら人間が受けなければならない罪の神罰を全てイエス様に受けさせて十字架の上で死なせました。まさにその時、神のひとり子が人間に代わって罪の償いを神に対してして下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることを世に示し、そこに至る扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことがまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪が償われたのだから神から罪を赦された者として扱われるようになります。神が罪を赦した者ですから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この結びつきは順境の時も逆境の時も変わることなく絶えず続きます。万が一この世から別れることになっても、復活の日までの眠りの後で目覚めさせられて、朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。

 

 このように万物の創造主であり人間の造り主である神は、ひとり子を犠牲の生け贄に供することで人間を罪と死の支配から救い出して下さった「贖い主」でもあります。このように神が私たち人間にして下さったことがこの世で生きることと次の世で生きることとの双方にまたがる大きなことだとわかると、この方以外に頼れる方はいない、神が唯一の神であるという心になります。これが神を全身全霊で愛そうという心です。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていきます。

 

3.第二の掟

 

 以上、天と地と人間を造られた神を全身全霊で愛するとは、この神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることだと申しました。この神に対する愛の掟をイエス様は最も重要な掟であり、「第一の掟」であるとも言いました。これに続けて「第二の掟」もあると言って、「隣人を自分のように愛しなさい」がそれであると述べました。そして、「律法全体と預言者たちはこの二つの掟に基づいている」と言われました。この「基づいている」ということですが、もとのギリシャ語の動詞κρεμαννυμιは「つるす」とか「かける」という意味で、普通はドアの片側に留め具をつけて壁ないし柱にドアを取り付けることを意味します。そういうわけで律法と預言はドアのようなもの、二つの掟はドアが取り付けられる壁ないし柱、これに取り付けられていることでドアはドアの役目を果たします。取り付けられていないとドアはただの木の板にしかすぎません。律法や預言も二つの掟に結びつけられていないと意味をなさないということです。

 

 イエス様はこの二つの掟は神の掟中の掟である、山のようにある掟の集大成の頂点にこの二つがある、この二つの掟に結びつけられていないと他のものは意味をなさないと言うのです。それでも、二つの頂点にも序列があると言います。まず、神を全身全霊で愛すること、これが最も重要な第一の掟。それに続いて隣人を自分のように愛することが第二の掟としてある。これから明らかなようにキリスト信仰においては、隣人愛というものは神への全身全霊の愛としっかり結びついていなければならない、この神への全身全霊の愛に隣人愛は基づいていなければならないのです。

 

 普通、隣人愛という言葉を聞くと、苦難困難にある人を助ける支援活動を思い浮かべるでしょう。ところが、苦難困難にある人を支援するという形の隣人愛は、これはキリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていてもまたは無信仰者・無神論者にも出来るものです。このことは日本でも災害の時にボランティアの支援活動が積極的に行われることから明らかです。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛には他の隣人愛にはないものがあります。それは、キリスト信仰の隣人愛は神への全身全霊の愛に基づき、それに結びついているということです。神への全身全霊の愛とは先ほど申し上げましたように、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、これも申し上げたように、この神が自分にどれだけのことをして下さったかをわかるようになった時です。そういうわけで隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。もし、別に神なんかいろいろあったっていいんだとか、聖書の神も数多くあるものの一つだと言った場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということにはなりませんが、しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別のものになります。

 

 それから、隣人愛は人道支援に尽きてしまわないということも大事です。イエス様は、重要な掟の二番目に隣人愛があると教えた時、それを本日の旧約の日課レビ記19章18節から引用しました。そこでは、法律的な問題ではえこひいきをしてはいけない、正しい決定をしなければならないという正義の問題に加えて(15節)、人間関係の在り方についての神の命令が言われていました。相手を誹謗中傷してはいけない、生命に危険を及ぼすようなことをしてはいけない(16節)、心の中で罵ってはいけない、相手の罪は罪としてたださなければならない(17節)、たとえ害を被っても復讐をしてはならない、怒りや憎しみを燃やしてはいけない(18節)、そういったことを全部ひっくるめて「隣人を自分のように愛せよ」と神は命じます。つまり、隣人を自分のように愛せよと言う時の愛の内容がここで具体的に言われているのです。

 

 ここで一つ目に留まることがあります。それは、心の中で罵ってはいけないということは、イエス様が山上の説教でも教えているということです(マタイ5章22節)。このことからもわかるようにイエス様は自分の教えを旧約聖書に基づかせているのです。イエス様は、たとえ殺人を犯さなくても心の中で罵ったら同罪であると教えますが、神は本日の使徒書の日課第一テサロニケ2章4節でも言われるように、人間の心の中までを見通される方です。それなので、行為や言葉のように外に現れるものだけでなく心の中まで見られたら誰も神の前で大丈夫と言える人はいなくなってしまいます。このように旧約聖書に基づくイエス様はとても厳しいのです。要求度が高すぎて人間には無理です。しかし、イエス様は神が完全であるように私たちも完全であるようにと命じます(マタイ5章48節)。本日の旧約の日課でも神が神聖な方である以上は私たちも神聖なものでなければならないと命じるのと同じことです(レビ19章2節)。

 

 イエス様は私たち人間に無理難題を押し付けているのでしょうか?イエス様は神聖な神の意思とはこれくらい厳しいものだと教えましたが、同時に人間がそれをその通りに守り実現することは無理であることもわかっていました。神のように完全で神聖な者になれないと、神の前で大丈夫な者にはなれず、この世でも次の世でも神と結びつきを持って生きることはできない。しかし、それは人間には無理である。まさにそれだから、イエス様は十字架にかかったのでした。まさに、神のひとり子の犠牲に免じて人間を赦すという状況を生み出したのでした。このおかげで人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって神との結びつきを持てて生きることが出来るようになったのでした。

 

4.新約とは旧約の正しい理解である

 

 一般にイエス様という方は、厳しい戒律的なユダヤ教に比べたら慈愛に満ちた優しい方というイメージが持たれるのではと思います。しかし、そのような対比の仕方は間違っています。これまで見てきたことから明らかなようにイエス様は厳しいくらいに旧約聖書に基づいています。それがあるから十字架と復活の出来事があったと言ってもいいくらいです。ではなぜユダヤ教と違うように見えるのかと言うと、イエス様が違っていたのは実は旧約聖書ではなくて、当時の旧約聖書の理解や解釈と違っていたということです。そうした理解や解釈にしがみついていた人たちと違っていたということで、イエス様自身は神のひとり子で神の意思を体現した方だったのでその彼が旧約聖書を正しく理解していたのです。そういうわけで、キリスト教の観点で言えば、旧約聖書という神の御言葉の集大成はイエス様を通して正しく理解できるのです。その正しい理解が形になって現れたのが新約聖書と言ってもよいと思います。

 

本日の個所の終わりの部分で、メシアは誰の子かという質問がありました。これも同じです。当時の人々の理解では、メシアはダビデの子孫ということになります。その意味することは、ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放してこの地上に神の国を建設し、諸国民は神を畏れ敬ってこぞってエルサレムの神殿に参拝に集まって来るという理解です。つまり、メシアとは民族の解放者の王様という理解です。しかし、イエス様は詩篇110篇の聖句に基づいて、ダビデがメシアのことを自分の主であると言っていて、その方は神の右に座す者である以上、地上の特定民族の王様ではありえないと指摘します。このメシア理解は、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の段階では誰にとっても理解不可能なものでした。しかし、十字架と復活が起きた後で、メシアとは人間を罪と死の支配から解放する救い主であるということがわかり、イエス様がその方であると明らかになったのでした。

 

5.おわりに

 

 本説教で、私たちは神からどれだけ愛されているかがわかって、神を愛することができ、それに基づいて隣人愛もわかるようになるとお教えしました。それを言い表した聖句ヨハネの第一の手紙」4章9-11節を最後のお読みして本説教の締めとしたく思います。

 

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン