2019年3月4日月曜日

山の上での主の変容の謎に迫る (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年3月3日 変容主日 スオミ教会

申命記34章1-12節
コリントの信徒への第二の手紙4章1-6節
ルカによる福音書9章28-36節

説教題 「山の上での主の変容の謎に迫る」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

本日はキリスト教会のカレンダーでは、1月に始まった顕現節が終わって、イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたルカ9章の他に、マルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

少し教会史の話をしますと、かつてキリスト教会ではイースターの前の40日間は断食をするという伝統がありました。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるかのかは調べていないのでわかりません。ことの始まりですが、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだったということが重く受け止められた、それで特にイースターの前は彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間に来る6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がり、イースターの前7週目の水曜日となりました。今度の水曜日です。それで本日は断食前の最後の主日、次主日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」は唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えて、イエス様の受難を身近に感じるようにします。

話が少し脇道にそれますが、この断食の期間は普通、「四旬節」とか「受難節」とか呼ばれます。英語では「レント」です。面白いことにフィンランドやスウェーデンでは今でも文字通り「断食の期間」という言葉を使います。もちろん、両国ともルター派教会が主流の国なので、何か修行や業を積んで神に目をかけてもらうとか救いを頂くというような考えは全くありません。ルター派の基本は、人間の救いとはイエス様を救い主と信じる信仰にのみ基づくというものだからです。カトリック時代の呼び方が修正されずにそのまま今でも続いているということです。それでも、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。例えば牧師の中には、この期間は嗜好物を遠ざけるとか、好きなテレビ番組を見ないようにするとか、何か当たり前の日常から少し自分を切り離すようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。

話が脇道に逸れたついでに、フィンランドやスウェーデンでは、「断食の期間」に入る前1、2カ月位前からでしょうか、ラスキアイスプッラ/セムラと呼ばれる菓子パンが全国どこででも、パン屋でもスーパーでも喫茶店でも売られます。ちょっと鏡餅みたいな形をした焼きパンの間にジャムとこってりした生クリームをたっぷりサンドイッチした伝統的な菓子パンです。当スオミ教会の料理クラブでも作ったことがあるそうですが、これは「断食の期間」の前に少し贅沢に美味しいものを頂いて、あとは厳粛に過ごそうという趣旨のものだそうです。近年フィンランドやスウェーデンは教会離れ・聖書離れが急ピッチで進むご時世ですが、それでも「断食の期間」が始まると、この菓子パンは店頭からパタッと姿を消します。

 四旬節の元にある断食の伝統の話から少し脱線してしまいました。早速、本日の御言葉の解き明かしに入りましょう。このイエス様の変容の出来事は幻想的であり劇的でもあります。出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われます。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

さて、ヘルモン山の上で何が起こったでしょうか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れて、イエス様と話し合う。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。イエスは私が選んだ、私の愛する子である、彼の言うことを聞け、そう神は言います。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられました。周りの様子は、頂上に着いた時と同じに戻りました。

この個所を読まれて、皆さんはどう思われたでしょうか?そんなに難しいことは書いていない、書かれてあることは具体的ですぐ理解できると思われたのではないでしょうか?聖書にはこういう出来事が書かれているんだなとわかって、また一つ知識が増えました。でも、それで書かれていることが分かったことになるでしょうか?もちろん、いつ、どこで、だれが、なにを、どのようにという質問に答えられる位はわかります。しかし、この話は一体なんなのかということはまだわからないのではないでしょうか?モーセとエリアが出てきたのは何なのか?ペトロが言った仮小屋とは何のことか?なぜ三人に仮小屋が必要と考えたのか?さらに、雲が出てきたことや、神がイエスの言うことを聞けと言ったことは何なのか?こうしたことがわからないと、ただ書かれた字面を追うだけで終わってしまいます。

そういうわけで、これからこの謎めいた出来事を本日の聖句の解き明かしを通してわかるようにしていきたいと思います。

2.モーセとエリアの出現

最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみましょう。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?モーセとエリアの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかということについて聖書が教えていることをおさらいします。聖書の観点では、人間はこの世を去ると、神の国に迎え入れられるかどうかの決定を受けます。ただし、その決定がなされるのは、イエス様が再臨してこの世が終わりを告げる時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地が新しい天と地にとって替わられるということです。神の国に迎え入れられるかどうかの決定は既に死んでいる者たちにも及ぶので、その時には死者の復活ということが起きます。そのようにして、迎え入れられるかどうかの決定がなされるのです。そうなると、先にこの世を去った人というのは、ルターが教えるように、復活の日が来るまで神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っています(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。

そうかと思えば聖書には、将来の復活の日を待たずして既に神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターも、そのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセは、その例と考えることができます。というのは、エリアは、列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。本日の旧約の日課である申命記34章に死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(6節)。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。これはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しなければなりません。

4.不思議な雲

次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を立てましょう、と言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬことになると言われます(18-23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだっと言えます。

4.イエス様の変容

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。

 「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。

そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったというのが正確な意味です(後注)。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいい、と言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められました。なぜでしょうか?

それは、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すことになって神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神から切り離された状態で生きることとなり、この世を去った後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間が罪を除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす十戒の掟があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たすものというより、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21-22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27-28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、それができない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が背負うべき罪の罰を全部彼に背負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この犠牲のおかげで、人間が神罰や罪の束縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありませんでした。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が準備した「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。

このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、しっかり携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになれる。全身が輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、「救い」を受け取った段階で心の中が輝き出す、ということを使徒パウロは本日の使徒書の日課の中で言っています(第二コリント4章6節)。それで、この世を去る時が来ても、神に自分を委ねても大丈夫だ、神の方でもしっかり自分を受け取ってくれるのだ、とわかって委ねることができます。そのような確信に満ちた安心を私たちに与えて下さるためにイエス様は受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかかられたのです。

5.弟子たちの誤解と神の声

ペトロが建てると言った「仮小屋」と雲の中から轟いた神の声についてもみてみましょう。「仮小屋」とは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言い、それは旧約聖書に出てくる神に礼拝を捧げる「幕屋」と同じ言葉です。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことでした。しかしながら、ペトロの提案には問題がありました。というのは、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。確かにモーセは、十戒をはじめ神の掟を神から人間に受け渡した預言者の筆頭格です。エリアも、迫害に屈せず生きざまを通して神の意志を公に表し続けた偉大な預言者です。しかし、イエス様は神の子そのものであり、神の意思である十戒そのものが完全に実現した状態の方です。また、預言者たちの預言したことが成就した方です。それなので人間と同等に扱ってはいけません。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天地創造の神の一声で一蹴されてしまいました。「これは私が選んだ、私の子である。彼の言うことを聞け」と。

ペトロはどうしてイエス様をモーセとエリアと同格に扱ってしまったのでしょうか?一つ考えられるのは、三人がみな栄光に包まれていたことがあります。31節で、モーセとエリアが「栄光に包まれて現れ」と言われ、32節に「栄光に輝くイエス」と言われています。しかし、これもギリシャ語原文をよく注意してみると、モーセとエリアの場合は、栄光は自分たちから輝き出ているのではなく神からの栄光で輝かせてもらっていると理解できる表現です。イエス様の場合は、輝きが「彼自身の栄光」によるものとはっきり言う表現です。つまり神と同じように自ら輝く栄光を持っているということです(後注)。

6.おわりに

弟子たちは、イエス様の変容の出来事を誰にも話しませんでした。マタイとマルコの記述によれば、イエス様が十字架と復活の出来事が起きるまで話してはならないと命じたと言われています。私が思うに、イエス様がかん口令を敷こうが敷くまいが、この出来事について弟子たちの驚きと混乱はかなりのものだったので整理がつくまでは話すことが難しかったのではないかと思われます。どうしてかと言うと、この出来事のおかげで、イエス様が何者であるか全くわからなくなってしまったからです。イエス様に付き従った人々は、直近の弟子たちも含めて、イエス様のことをユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放して、全世界が天地創造の神に立ち返ってエルサレムの神殿にお参りに来るようにしてくれる、そういう民族解放の英雄と考えていました。どうしてそのように考えたかと言うと、旧約聖書の預言を自民族の夢や願望を通して解釈したからです。

ところが、ヘルモン山に登る前にイエス様は弟子たちに突然、自分の受難と復活について預言し、弟子たちはなんのことか理解できず混乱します(マタイ16章21-23節)。山の上でもモーセとエリアはそのことについて話をしました(ルカ9章31節)。さらに、イエス様のことをモーセとエリアと同格な方と思った瞬間、それは違うと一蹴されてしまいました。これは一体何なのだ?一体これから何が起きるのか?イエス様が殺されてしまったら、民族解放と諸国民のへりくだりという世紀のプロジェクトはどうなってしまうのか?死から復活するなどと言われるが、それがプロジェクトと何の関係があるのか?ところが、天の父なるみ神が計画していた「解放」とは実は、人間の罪と死からの解放であり、それをひとり子を用いて実現したのでした。このことがわかるのは十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。

さて、当時出来事の只中にあった弟子たちとは異なり、私たちはこれらのことを事後的に知っています。兄弟姉妹の皆さん、これから四旬節を迎える私たちは、イエス様の受難と復活をもう分り切ったことと教会の年中行事のように受け止めるのはやめましょう。今一度それを身近なものにしましょう。それを身近にすることで自分の命の立ち位置を確認できます。つまり、今の自分の命は、神のひとり子の犠牲の上に成り立っているとわかって、それは尊いもの、大事にしなければならないものとわかります。愚かなこと軽はずみなことは出来なくなります。では、どのようにしてイエス様の受難と復活を身近なものにするか?断食をするか?ここで注意しなければならないことは、私たちには神から与えられた立場やそれに伴う課題があるということです。それらをないがしろにするような「身近さ」の追い求めはいけません。断食をしても、日常の立場と課題をないがしろにしなければ良いのですが、それは実際には難しいのではないでしょうか?日常の立場や課題に取り組む時、今ある命は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていることを普段以上に覚えて取り組めば、どこを目指して行けばよいかわかってきます。その時、立場や課題は神から与えられたものということもはっきりします。このような循環に入れる者はイエス様の受難と復活が身近になったと言うことが出来ます。

兄弟姉妹の皆さん、今の命がイエス様の犠牲の上に成り立っていることをよく覚えて今年の四旬節を迎えましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

後注(ギリシャ語が分かる人にです)
ルカ9章34節は、εντωεισελθειναυτουςειςτηννεφελενと言っているので、明らかに「雲が彼らを包む」ではなく、「彼らが雲の中に入る」です。
モーセとエリアの栄光については、οφθεντες εν δοξηと言い(31節)、イエス様の栄光については、την δοξαν αυτουと言っています(32節)。εν δοξηですが、イエス様に用いられるとεν τη δοξη αυτουなどとαυτουが付きます(マタイ25章31節)。
説教準備の終わりの段階になって、33節のδιαχωριζεσθαιがなぜ現在形でアオリストでないのかが気になりだしたのですが、時間切れでした。また次回に考えることにします。


2019年2月25日月曜日

神の子として生きよ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年2月24日顕現節第八主日 スオミ教会

列王記上8章41-43節
ガラテアの信徒への手紙1章1-10節
ルカによる福音書7章1-10節

説教題 「神の子として生きよ」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 皆さんは、本日の福音書の個所を読まれて、どう思われたでしょうか?百人隊長の部下が重い病気で死にかかっていたのをイエス様が癒す奇跡を行ったことです。百人隊長というのは、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国の軍隊の部隊の隊長です。名の通り百人の兵隊で構成される隊です。出来事の舞台はガリラヤ湖畔の町カファルナウムなので、そこに駐屯していた隊でしょう。日本語訳では「部下」ですが、兵隊ではなく、隊長の僕、召使いです。占領軍の将校である隊長はユダヤ人ではありません。しかし、興味深いことに、彼はユダヤ人に好意的です。礼拝堂を建ててあげるくらいユダヤ人を愛していたというのは、もう旧約聖書の神を信じていると言ってもいいかもしれません。使徒言行録に「神を畏れる人」とか「神をあがめる人」という、割礼を受けて改宗はしていないが天地創造の神を信じる人たちが多く登場します。百人隊長もその一人だったのでしょう。ユダヤ人と近い関係にあるので、ユダヤ人の長老たちをイエス様のもとに送りました。長老たちはイエス様に、百人隊長は助けてあげるのに相応しい人物だと推薦しました。

 さらに興味深いことは、百人隊長がイエス様のことをとても畏れ多く感じていて、イエス様が家の近くまで来た時、友人たちを使いに出して自分に代わってイエス様に代弁させます。私の家はあなたをお迎えできるようなところではありません、だからと言って、私から外に出てあなたの面前に立つ資格もありません。どうしてそんなに畏れ多いのでしょうか?旧約聖書ではユダヤ民族が神に選ばれた民、その他の諸国民は「異邦人」という区別がみられます。占領されたとは言え、自分たちは神聖な民という自負があり、他の民族は汚れていると考えます。それで、旧約聖書の神を畏れるようになれば、ユダヤ民族に一目置くようになるだろうし、ましては、今や奇跡の業と権威ある教えで天下に名をとどろかせているイエス様には簡単には近づけないでしょう。

 それでは、肝心の部下の癒しはどうなるでしょうか?百人隊長は使いの者たちに言わせます。あなたが今いる場所からひと言おっしゃって下さい。日本語訳では、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」つまり、あなたが今いる場所からひと言おっしゃてください、その場から奇跡の業を起こして下さい、ということになります。

 やりとりの続きを見てみます。百人隊長の言葉は次のものでした。自分は上官の権威の下に置かれている者だが、同時に、自分の権威の下にも兵隊や部下がいる。彼らに「行け」と命じれば、言葉通りに行くし、「来い」と命じれば、その通りに来る、「これをしろ」と命じれば、その通りにする。これを聞いたイエス様は驚き感心して、これほどの信仰はイスラエルの中でさえ見たことがないと言われます。そして、使いの者たちが隊長の家に戻ると部下はすっかり元気になっていました。イエス様が特に癒しの言葉を発することなく、奇跡が起こったのです。

 皆さんは、このイエス様の感心の言葉を聞いて、どう思われるでしょうか?命令したら有無を言わずに従う、そのように振る舞うことを信仰の見本と言っているのでしょうか?そうだとすると、なんだか教祖や教団指導者の言うことを何の疑いも躊躇もなく実行できることが大事で、出来たらご褒美として癒しや願いも叶えられると言っているみたいではないか?なんだかカルト集団のマインド・コントロールみたいではないか?そう気味悪がる人も出てくるのではないでしょうか?ところが、ここは目をよく見開いて読めば、信仰や宗教の名のもとに人間をロボット化することが言われているのでは全くないことがわかります。それでは、イエス様を感心させた百人隊長のこの言葉は一体何なのか?それを初めに見ていきたいと思います。

2.百人隊長の信仰告白

ルカ7章7節にある百人隊長の言葉は日本語訳では、「ひと言おっしゃてください。そして、わたしの僕をいやしてください」となっていました。前半の「ひと言おっしゃって下さい」はイエス様に対する命令文でギリシャ語原文もその通りですが、後半部分の「私の僕を癒して下さい」は注意が必要です。ギリシャ語原文では「僕を癒して下さい」などとイエス様に対する命令文ではありません。正確には、「私の僕が癒されんことを」とか「私の僕が癒されますように」という意味です(後注)。少し脇道に逸れますが、スウェーデン語訳の聖書はこれに沿った訳でした。英語とドイツ語とフィンランド語訳の聖書は、「ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、私の僕は癒されるでしょう」でした。これはギリシャ語の文の訳としては正確ではないのですが、イエス様と百人隊長のやり取りにヘブライ語やアラム語の背景があることを考えると、この訳も可能性があります(後注)。ただし、ギリシャ語の文章をアラム語に逆翻訳するのはリスクを伴う解釈方法なので、ここはギリシャ語原文を素直に見ていきます。従って、「ひと言おっしゃってください。それで僕が癒されますように」です。

そうなると日本語訳のような、今いる場所から癒しの奇跡を行って下さい、その場所からなんとかして下さい、というイエス様に対するお願いはなくなります。イエス様に対するお願いは、「ひと言言葉をかけて下さい」に絞られます。言葉をかけた結果、癒しが起きますように、と天のみ神に委ねるのが後半部分の意味です。(マタイ8章8節にも百人隊長の言葉がありますが、ルカと少し違っています。しかし、本説教では違いがどうのこうのという話題に入らず、ルカに専念します。)

その次に百人隊長の命令と服従の話が来ます。これはマインドコントロールの模範例を述べているのではありません。命令に対して服従するのは、服従する者が命令する者の権威の下にあるからだという当たり前のことを言っています。それを言ったのは、イエス様が言葉を発すれば病気が治る、つまり、病気はイエス様の権威の下にあるということを明らかにするためです。このことは、イエス様が他の所でも行った奇跡も当てはまります。病気に治れと言えば治り、悪霊に出て行けと言えば出ていき、嵐に静まれと言えば静まる、こうしたことが起こるのは、あらゆることがイエス様の権威の下にあるということを百人隊長は証言しているのです。自分も軍隊組織の指揮系統の中で上位の権威の下にあるし、同じように自分の部下も自分の権威の下にある。だから、病気も悪も自然現象も含めて全てのものがイエス様の権威の下にあるというのはどういうことか、経験から身に染みてわかる。それで、イエス様が病気に対して何か言えば、その通りになる。イエス様の権威はそういうものだと信じていると述べたのです。

これは、まさに信仰告白です。百人隊長が告白した信仰は、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同一扱いする信仰と言ってよいでしょう。これに対して当時の人たちは、確かにイエス様が癒しの奇跡を行える方だと知っていて癒しを受けるために群がりましたが、彼らの理解はせいぜい、イエスは神から不思議な力を授けられた預言者というものでした。百人隊長は、軍隊での権威関係を比較対象にして、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同等に見なす信仰を言い表したのです。神から力を頂いて何かをするというのではなく、神そのものと見なしたのです。そこが他の人たちとの違いでした。イエス様が、イスラエルの民の間でもこんな信仰は見たことがないと言った意味はこれです。

以上のような次第で、百人隊長の命令と服従の話は、ロボット人間になることが優れた信仰の持ち主になることだとか、その褒美に癒しや奇跡をしてもらえるのだというようなことを述べているのではないことが明らかになったと思います。イエス様が全ての上に立つ権威を持つ方であることを信じて告白したのです。

3.神の子として生きること

 ここで一つ疑問が起きます。百人隊長の場合は、信仰を告白して癒しの奇跡が起きました。イエス様を救い主と信じる私たちの場合はどうでしょうか?キリスト教の伝統的な信仰告白に従って、イエス様を神の子、メシア救世主であると信じて告白して重い病気が治るでしょうか?もちろん、治る場合もあるでしょう。治ったのが明らかに良い医療と治療が与えられた結果でも、キリスト信仰者は天地創造の神の導きがあったと考えます。信仰者でない人は、良い医療と治療が得られたことを神の導きなど出さないで、運が良かったとか医学の進歩のおかげとか言うでしょう。違う宗教の人ならば、その宗教の神とか教祖のおかげと言うかもしれないし、先祖の霊のおかげと言うかもしれません。キリスト信仰の場合、医学の進歩のおかげを認めても、神の導きのおかげで医学の進歩に与れたと考えます。さらに、良い医療と治療がなかったにもかかわらず、奇跡としかいいようがない仕方で治った例もあります。それらの中には、ひょっとしたら後になって医学的にメカニズムが解明できるものがあるかもしれません。その場合でも、神の導きのおかげと考えます。

そこで難しい問題になるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて祈っているにもかかわらず、願った結果が得られない場合です。そういう時、治った人には神の導きがあったのに、自分にはない、神は自分に背を向けているのか、という気持ちになります。さらには、じゃ、こっちを向いてくれるために何かしなければいけないのかという思いにとらわれることもあります。実はこの問題は本日の使徒書である「ガラテアの信徒の手紙」で扱われる問題に少し関係してきます。パウロが宣べ伝える福音と異なる「ほかの福音」というのは、神の目に義と見てもらえるためにはイエス様を救い主と信じる信仰だけでは不十分だ、律法の規定を守らなければそう見てもらえない、と教えるものでした。パウロはこの手紙の中で、神の目に義とされるのはやはり信仰によるのであると論証していきます。

パウロの教えに基づいて言うならば、キリスト信仰の真髄は次のようなものになります。イエス様の十字架の死によって人間の全ての罪の償いが神に対してなされたということ。それで人間はイエス様を救い主と信じる信仰によってこの罪の償いが生きたものとなり、罪が赦された者となって神の目に義とされるということ。こうして、神との結びつきを壊していた罪の問題が解決し、人間はその結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、神への感謝から愛する心を持って生きられるようになるということ。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻ることができるようになるということ。これらに尽きます。罪の赦しの救いを受け取るためには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して受け取りは完了。あとは、聖餐のパンと葡萄酒で受け取りを固めて信仰告白と祈りに生きていけばよいのです。救いは、このように受け取りに徹することで持てるものなので、何かをして褒美にもらえるというものではありません。

ところが、病気が治りますようにと、決して自分勝手なお祈りをしているわけではないのに願い通りにならないと、なぜ?という疑問が出てきます。イエス様を救い主と信じる信仰にいる限り、次の世まで神に守られて進んでいけるとわかっていても、なぜこんなに痛い思いをして苦しまなければいけないのか、なぜそれは延々と続くのだろう?そうことになると、「罪の赦しの救い」という救いは、現実の問題とどんな関連性があるのかと疑わざるを得なくなってきます。

私のある知り合いのキリスト信仰者が人生の大半をそのような苦しみの中で送られているのですが、ある時知り合いのクリスチャンに「あなたの苦しみは神の国に入れるために必要なことだ」と言われて疑問を抱いたとおっしゃっていました。確かにイエス様は各自は自分の十字架を背負いなさいと言ったので、その痛み苦しみがその方の十字架だと意味して言ったのでしょう。しかし、ここは注意が必要なところです。痛み苦しみは神の国に入れるための条件であるとか、そのためにしなければならない修行という意味だったら、それは違うでしょう。神の国に迎え入れられるためには、イエス様を救い主と信じる信仰以外に何の修行も業績もいらないというのがキリスト信仰だからです。そうすると、医療や治療や周りの人に支えられて出来る限り苦痛を取り除いて健康に近づけるように努めることは修行や十字架の否定にはなりません。まさに神の導きの中で行われるものです。苦しみそのものが背負うべき十字架ではなくて、苦しみを取り除くため健康に近づけるようになるための戦いが背負うべき十字架というのが正確でしょう。どんなに小さな助けや改善も神の導きの現れです。さらに、その人のために執り成しの祈りがなされれば、神に対してへりくだる心がこの世に一つ生まれることになります。この世で利己的な心と無関心が一つ減ることになります。これも神の導きです。

全てのことが神の導きの中で行われるということになるためには、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって神との結びつきを保たなければなりません。それを保つことが出来るためには、自分はこの世を突き抜けて次の世まで至る神の導きの中にいるのだ、痛みや苦痛があっても神の導きや結びつきは微動だにせず、痛みや苦しみがあっても自分はそういうものに繋がっているのだ、と覚えることができないといけません。

そういうことを覚えられるためには、神の導きや結びつきは痛みや苦しみがあってもなくてもいつも身近にあるということを知らないといけません。痛みや苦しみが現実のものならば、神の導きと結びつきも同じくらい現実のもの、否、そっちの方が本当の現実と言えるくらいのものである、ということを知ることができないといけません。そういうことがわかるようになるのが信仰生活が目指すことではないかと思います。目には確かなものに見えるこの世の現実と確かなものに見えないが本当はもっと確かなものである神からの現実。この二つの現実の中で生きるのが、イエス様を救い主と信じて神の子とされた者たちの生きることではないかと思います。

そういうわけで私は、説教者の使命とは、神の導きと結びつきは本当の現実なんだということを聖書の御言葉の解き明かしを通して知らせることであると考えます。

4.列王記上8章のソロモン王の祈りと神からの現実

神の導きと結びつきは本当の現実であると知らせるのが説教者の使命と申したのですが、本説教では肝心なこの知らせることをまだしていません。最初に百人隊長の信仰告白について述べて、次にこの使命を提起しただけです。それでこの知らせることをしなければいけません。本日の旧約の日課である列王記上8章の解き明かしを通してそれが出来るでしょうか?ちょっとやってみましょう。

列王記上8章はユダヤ民族の三代目の王ソロモンがエルサレムに神殿を建設して、そこで集まった国民の前で神に祈りを捧げる場面です。イエス様の時代からさらに1,000年程遡った昔のことです。22節から53節までが祈りの言葉です。いろいろな祈りがありますが、大まかに言うと、イスラエルの民が何か罪を犯して困難に陥ったら神殿で赦しを乞う祈りをしますので聞いてください、というものです。本日の日課の41-43節は祈りの内容が他の祈りと違っていて、イスラエルの民でない別民族の者が神殿に来て祈ったら、それも聞き遂げて願いを叶えて下さいという祈りです。

このソロモンの長い祈りの中で興味深いことは、神に祈りを聞き遂げて下さいとお願いする時に、「あなたのお住まいである天にいまして耳を傾けて下さい」と繰り返し言っていることです。中には「あなたのお住まい」が省略されて「天にいまして」だけのものもありますが、全部で8回繰り返されます。本日の日課の中にもあります(43節)。8回のうち、30節にある最初のものが完全な文で、あとは「あなたのお住まい」がなかったり、前置詞が省略されていて完全な文ではありません(ヘブライ語の原文で見ています)。30節にある完全な文を見て、正確な意味をわかるようにしましょう。日本語訳の「あなたのお住まいである天にいまして」は正確な訳ではないと思います。というのは、祈りの初めのほうでソロモンは「天も天の天も神を納めることができない」と述べているからです(27節)。天に納まりきれない方がどうやって天を住まいに出来るのでしょうか?正確な意味は、「天の上にいまして、王座に座っていらして耳を傾けて下さい」です。「天の上」とは文字通り、天の上側です。天を下に見下ろすところです。つまり、神は天を超えたところにおられるのです(後注)。

天を超えたところとは、どこにあるのでしょうか?雲一つない青空を見て、神はあの青い広がりの向こうにおられると考えたとします。しかし、私たちは青い広がりの向こうには宇宙があると知っています。夜になって青い広がりが無数の星が散りばめられた透き通るような黒板に入れ替わります。あの中のどこに神はおられるのかと考えても意味がないでしょう。というのは、神のおられる天を超えたところとは、私たちの目で確認したり、数値・数式をもって計測・測定したりする宇宙空間とは全く別の世界だからです。ハヤブサ2号が3,4億キロ飛んで小惑星リュウグウに到達し、NASAのロケットは太陽系外の惑星を探し求めて飛び続けています。そのように目で確認でき計測や測定できる対象は常に拡大していきます。しかし、神のおられるところには実にあの透き通った黒板世界の上側と言っていいのか、外側と言っていいのか、反対側と言っていいのか、裏側と言っていいのかわかりませんが、超えているのです。

そんなところにおられる神のためになぜソロモンは神殿を建てたのでしょうか?ソロモン自身、神は地上には住めない、神殿など住む場所に値しない、と言ったではありませんか(8章27節)。それは、神に祈りを捧げるための場所であり、祈りを捧げる者が神の目に相応しくなるために罪の償いの儀式をする場所でした。それで神殿には神の像などないのです。像など作って置いたら、拝んでいるうちにその像が祈りを捧げる相手になってしまうでしょう。ところで、神殿の中には、「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、そこは大祭司が年に一度、自分の罪と民全体の罪を償うために動物の生贄の血を携えて入ることが出来ました。「至聖所」はそれくらい神の神聖さに満ちて畏れ多すぎた場所でした。そこは、天を超えた世界と天の中にあるこの世界が遭遇する場所だったと言ってもいいでしょう。

しかしながら、神がこの世に贈られたひとり子イエス様の十字架上の犠牲の業がなされたために、神殿を通しての罪の償いは不用になりました。人間すべての罪の償いを、毎年捧げる動物の生贄の血なんかではなく、神聖な神のひとり子の流した血によって未来永劫に果たしてしまったのです。イエス様自身、御自分の十字架と復活の業の後に神殿ががれきの山になると預言していました。果たしてそれは西暦70年ローマ帝国の大軍がエルサレムを破壊した時にその通りになりました。それならば神はなぜ、不用になる神殿などを長い歴史の間認めていたのでしょうか?それは、「ヘブライ人への手紙」にも記されているように、将来イエス様を通して人間の罪からの贖いが完全に実現することを前もって模倣するものでした。現物に比べたらあまりにも小さな模倣でした。ユダヤ民族がそのようにすることで人間は大切なことを教わりました。それは、天地創造の神と結びつきを持てて見守ってもらうためには、自分の罪を覚えなければならないということと、それを何らかの形で償わなければならないことを教わったのです。人間と天地創造の神との関係はこういうものだということを。しかし、イエス様が完成品を出して下さったので、人間は神との結びつきと見守りを得るために小さな模倣品に頼る必要はなくなりました。

さらにイエス様は死から復活させられました。それで、死を超えた永遠の命に至る道が人間の目の前に切り開かれました。それは天地創造の神の御許に至る道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると早速この道に置かれて、神との結びつきと見守りのうちにこの道を進んでいきます。あの青い空を超えたところ、またはあの透き通る黒板を超えたところにおられる方が、本当なら神聖な御前に立つことなど許されなかった私たちなのに、まさにひとり子の十字架と復活の業おかげで、御前に立つに相応しいものにして下さった。そうなると私たちはもう既に、神のもとに迎え入れられたも同然です。このように私たちは言わば、御許への迎え入れを先取りしたような状態でこの世の道を進んでいます。それなので、神が私たちのことを見守って下さり、祈りを聞いて下さっているというのは本当としか言いようがなく、私たちにとって現実なのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


 後注(ギリシャ語とヘブライ語とアラム語がわかる方にです) 

ルカ7章7節「私の僕が癒されんことを」とは、三人称単数の命令形のことです。ヘブライ語とアラム語の背景というのは、ヘブライ語のjussiv+imperfectの連結があると考えると、命令+目的・結果の意味になるということです。アラム語に同じものがあるのか確認したかったですが、手持ちの教科書はF. Rosenthalの薄いもので役に立たず、大学時代に使ったS. Stanislavの参考書は手元になく確認できません。

列王記上8章30節は、H.S. Nybergの参考書(北欧で権威あるヘブライ語参考書)によれば、前置詞אלはעלと同じ意味で使われることがあるとのことでした。