2017年5月5日金曜日

聖書が教える人生の目的 (吉村博明)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2017年4月30日 復活後第二主日

使徒言行録2章36-47節
ペトロによる第一の手紙1章17-21節
ヨハネによる福音書20章24-29節

説教題 「聖書が教える人生の目的」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.見ないでも信じることができる信仰

 本日の福音書の箇所は、死から復活したイエス様をまだ見ていなかった弟子の一人トマスが、この目で見ない限り信じない、と言い張って、それに対してイエス様が「目で見たことに信仰を基づかせてはいけない」と戒めた出来事です。復活した主を見ることが出来たら、主が復活したことを信じてやろう、というのは全く当たり前の考え方です。弟子たちが見たと言っているのに信じられないとは、トマスは彼らがでたらめを言っていると思ったのでしょうか?ひょっとしたら、他の弟子たちには現れたのに自分にはないというのは不公平だという嫉妬も不信心を助長したのでしょう。結局、イエス様はトマスにも現れました。この目で見た以上は、もう疑うことはできません。お前は、私のわき腹に手を当ててみないと信じないと言っていただろ、ほら、触ってみなさい、とまで言われ、トマスはもう「私の主よ、私の神よ」と言って絶句状態です。不信心も嫉妬も吹き飛んでしまいました。

「わたしを見たから信じたのか?見ないのに信じる人は、幸いである。」ギリシャ語の動詞(アオリスト分詞)のニュアンスは、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」とか「見ないで信じ出した人々は幸いである」です。つまり、信じるきっかけに「見る」ということがなかった、別のきっかけがあって、それで信じるに至ったということです。それでは、そのきっかけとは何か?それについては後で明らかになります。

「幸い」というのはどういうことか?どうして「幸福」とか「幸せ」と言わないのか?「幸い」というのは、幸福は幸福でも、この世の物事に終始した幸福ではありません。死を超えた永遠の命に与っているがゆえの幸福です。死とか、死をもたらす罪に振り回されない、支配されない、それくらい天地創造の神に見守られて、神から祝福を受けて生きられるということです。仮に財産を多く所有していようとも、永遠の命と全く無関係に生きていれば「幸い」ではないことになります。このように、この世の基準からみて「幸福」度が高くても「幸い」とは限らないのです。逆に「幸福」度が低くても「幸い」であることがあるのです。

そういうわけで、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」というのは次のように言い換えられます。「復活したイエス様を見ないで、別のきっかけで彼を救い主と信じるようになった人は、神から祝福を受けて神に見守られてこの世を生きられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に神の御許に引き上げてもらえる。」

 もちろん、復活の主を見て信じた弟子たちが幸いでなかったということではありません。彼らが見たことを必死に人々に伝えたおかげで、多くの人たちが主を見なかったにもかかわらず、彼を救い主と信じるようになったからです。つまりイエス様はこうしたことが起きるために、これからは見ないで信じるようになることが肝要だ、と言うのです。それでは、どのようにして見ないで信じることができるようになるのでしょうか?見ることの他にどんなきっかけがあるのでしょうか?

 弟子たちは、直接見ることでイエス様の復活を信じることが出来ました。復活したイエス様を見たことで、神の偉大な力が働いたこの方は真に神のひとり子であった、ということがわかりました。それでは、なぜその神のひとり子が十字架の苦しみを受けなければならなかったのか?それは、旧約聖書のイザヤ書53章等で預言されていたように、人間の罪を人間に代わって背負って、人間が神の罰を受けないで済むようにするための身代わりだった、まさに預言の実現だった、ということがわかりました。

 それでは、見ない人たちはどのようにして、そうしたことがわかったのでしょうか?イエス様は天に上げられ、弟子たちや他の目撃者たちも、年月を経てこの世を去って行きました。しかしながら、イエス様を救い主と信じる人は増える一方でした。彼らは目撃者でなかったにもかかわらず。一体何が起こったのでしょうか?それは、直接の目撃者である使徒たちの、迫害にも屈しない証言を聞いたことが影響しています。迫害に屈しない命をかけた証言ですから、まさに真に迫るものがあったでしょう。聞いた人たちは、これは本当のことだと確信したでしょう。イエス様が昇天する前に既に目撃者だった使徒たちに加えて、昇天後にイエス様に出会ったパウロが加わりました。まず彼らの体験談や教えが、いろんな教会に送られる手紙の形にまとめられました。その中で、イエス様の出来事がいかに旧約聖書の預言の実現であるかの解き明しがされました。こうした使徒の教えと旧約聖書の解き明しに加えて、次に目撃者たちの証言録に基づくイエス様の言行の記録つまり「福音書」がまとめられました。このようにして旧約聖書に新約聖書が合体して、キリスト教の聖書が出来上がりました。多くの人がこの書物を読み、この書物に基づく教えを聞いて、目で見ていないイエス様を救い主と信じるようになりました。まことにイエス様の言われるような、見ないで信じるようになった幸いな人たちが誕生するようになったのです。

2.生きる目的を教える聖書

 もちろん、人が聖書を読んですぐイエス様を自分の救い主と信じるようになるかといえば、必ずしもそうではありません。例えば、キリスト教は西洋文明の土台の一つなので、それを理解してやろう、そうすることで混迷する現代世界を読み解いてみようと言って聖書を読んでみても、イエス様が読む人にとって救い主になることはありません。また古代のオリエント世界の文化や宗教を知ろうとして読んでも同じです。さらには、イエス様を歴史上の思想家ないし社会改革者の一人とみなして読んでもイエス様が救い主になることはありません。思想家や社会改革者が死を超えた永遠の命など与えないからです。

 それでは、どういう読み方をすると、古代オリエント世界にも、また西洋にも生きていない私たち、現代という時代のグローバリズムが渦巻く世界の中の日本にいる私たちにとって、イエス様が救い主となるのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒言行録の箇所が一つ参考になります。それは、ペトロが聖霊降臨の日に群衆の前で行った演説の最後の部分です。この長い演説の中でペトロは解き明かしをします。お前たちが死刑に引き渡したのも同然のナザレのイエスは実は旧約聖書に預言された神のひとり子であった。そのことが彼の復活で明らかになった。イエス様は異邦人の手に引き渡されたのだが、神はそうなることを全て前もってご存知で、お前たちにさせるままにしただけだ。そんなことも知らずにいい気なものだ。神のひとり子を死刑に引き渡すなどとは、なんと大それたことをしてしまったことか!

これを聞いた群衆は心に突き刺さるものを感じました。新共同訳では「大いに心を打たれ」と訳されていますが、それではペトロの言葉を聞いて感動してしまったことになります。そうではありません。ギリシャ語の(κατενυγησαν την καρδιαν)は文字通り「心が突き刺された」です。そこで群衆はペトロたちに「私たちは何をすればよいのですか?」と聞きます。ペトロの答えは、悔い改めなさい、つまり神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る生き方を始めなさい、そしてイエス様の名前に依拠して洗礼を受けて罪の赦しを受けなさい、そのようにして自分たちと同じように聖霊を受けなさい、というものでした。その結果、この日3千人が洗礼を受けました。キリスト教会が歴史上、誕生した瞬間です。

 心に突き刺さるものを感じて、「私たちは何をすればよいのか?」という問いを発するというのは、それまでの生き方は間違っていた、それを続けることはもうできない、方向転換しなければならない、ということに気づいて、じゃ、何が正しい生き方なのか?目指すべき方向は何か?それを問うているのです。つまり、生きる目的を再考しているのです。

聖霊降臨の出来事というのは実は、人間が生きる目的というのはイエス様を救い主と信じることと切り離せないということをペトロが人々にわからせた出来事です。それを人々はわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。もちろん、この時の人々は、イエス様を死刑に引き渡すことに直接間接に加担した人たちだったので、反省の余地が大いにあり、それをペトロに指摘されて深く反省しました。私たちの場合はどうでしょう?私たちは別にイエス様を死刑に引き渡すことに加担していないのでペトロの演説を読んでも、同じように心に突き刺さるものはないのではないか?果たしてそうでしょうか?

「私たちは何をすればよいのか?」という問いは、生きる目的の問いです。その問いは、それまで目的と思っていたことが目的でなくなってしまった、追及するに値しなくなってしまった、まさに目的を見失った状態の時に出て来ます。あるいは、これまでさしたる目的もなく生きてきたが、何かの原因で今やそれをはっきりさせなければ生きられなくなってしまったという時にも出て来ます。いずれにしても問いは同じです。「私は何をすればよいのか?」そんなこと考えないでも生きていけるという人もいるかもしれません。しかし実際、新聞の新刊本の紹介を見ても、生きる目的を教えるというような本は沢山出ています。多くの人が生きる目的、何のために生きるのか考えたり悩んだりしているのでしょう。

何のために生きるのかという問いは、多くの書物に埋もれて忘れられてしまった感があるとは言え、聖書ももちろん答えています。聖書がどう答えているかと言うと、本日の日課に関連したところでみると、ペトロの演説の中に出てくる「神の計画」がそれです。これは実は本日の日課の箇所の少し前のところで言われています。使徒言行録2章23節ですが、神がひとり子イエス様を十字架の死に引き渡されるのを阻止しないで、そのままにしたのは、「お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで」そうした、と言っているところです。神が定めていた計画とは、人間が天と地と人間を造った神、人間に命と人生を与えて下さった神と結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、ということです。そこで、神との結びつきを持って生きるとは、どういうことかと言うと、順境の時であろうが逆境の時であろうがいつも神から守りと導きを受けられて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとに戻ることができる、そういう生き方をすることです。そのような神との結びつきを持った生き方は、もともとは人間にはあったものでした。しかし、それは失われてしまったのです。なぜかと言うと、旧約聖書の創世記3章で明らかにされているように、造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪が入り込んでしまったために、神との結びつきが失われてしまったのです。

この結びつきを回復させるためには人間の内に宿る罪を取り除かなければならないが、それは人間の力ではできません。それは神もよくご存知でした。そのため神はひとり子イエス様をこの世に送って、彼に人間の全ての罪を負わせて十字架の上で人間の代わりに罰を受けさせて、その身代わりの犠牲のゆえに人間の罪を赦すという方策にでたのです。それで、イエス様を救い主と信じると、罪の赦しがその人にその通りになるのです。罪が赦された者ですので、その人には神との結びつきが回復するのです。このようにして、人間が失っていた神との結びつきを回復する、これが神の人間に対する計画です。

心に突き刺さるもの、私たちは何をすればよいのかという問い、これらは、実は私たちにも関係しています。神のひとり子が犠牲になったのは、私たちの罪のためだったからです。旧約聖書のイザヤ書53章で預言されていたように、私たちが神の罰を受けないで済むようにと、そして私たちが神との結びつきを回復できるようにするためにイエス様は十字架の道を受け入れたのでした。もし、神のひとり子が私たちの罪のために犠牲になったことがわかれば、「何をすればよいのか」は私たちの問いになります。その答えはペトロが言ったものと同じです。悔い改めて、つまり、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生き、イエス様の名に依拠して洗礼を受けて罪の赦しの中に入り、聖霊を受けることです。

ここで罪とは何かについて一言申しておきます。罪とは、神聖な神の意思に反することです。神の意思は十戒の中に凝縮されています。十戒についてイエス様はどう教えたでしょうか?ふしだらな目で異性を見たら、たとえ行為に及ばなくとも姦淫の罪を犯したことになる、たとえ殺人をしていなくとも人を罵ったら第五の掟を破ったことになる、と。行為だけでなく、言葉や心の中まで問われたら誰も神の前で自分は潔白だなどと言えません。しかし、イエス様はそんな自分が神の罰を受けないで済むようにと犠牲になられた、だからイエス様は私の救い主です、そう信じれば、それで神から罪の赦しを得られて、罪が自分に残っているにもかかわらず罪の赦しの中で生きられるようになります。これが神との結びつきの中で生きるということです。いつの日か神の前に立たされても、イエス様のおかげで私にはやましいところはありませんと言っても大丈夫なのです。それにしても、この世はなんと罪に満ちていることでしょうか?心の中にある罪が大手を振って言葉や行いに現れるのを許している感じさえします。ペトロが本日の箇所で「邪悪なこの世から救われなさい」(使徒言行録2章40節)と言っているのは、私たちの時代にも向けられています。神との結びつきの中で生きるとは、罪の力よりも強い力の下にいて安心していられることです。罪が私たちの心を惑わせようとして甘い声をかけてきたり、また私たちを怯えさせようとして怒り声をかけてきたりしますが、そうした声は神の御言葉に耳を傾ける者には一時の耳障りな雑音にしかすぎなくなります。聖霊に一息かけてもらえば、埃のように飛んで行ってしまいます。

以上みてきたように、聖書を読んでイエス様を救い主と信じる信仰に至ることができるのは、聖書が次のことを教えていると気づくからです。まず、自分は化学物質の複雑な化合の結果生じた、そういう偶然の産物としてあるのではなく、この自分に対してお考えと計画を持つ方が造られたということ。次に、今自分は自分の造り主とどんな関係にあるかと言うと、その関係は崩れてしまっているということ。そして、その関係を回復するために造り主は何をして下さったか、と言うと、まさにひとり子イエス様を私たち人間のために送られたということ。こういうことを聖書は教えていて、そうなんだとわかって、やっぱり神との結びつきの中で生きることが大事なんだ、その中で生きなければならないとわかって、それが生きる目的だとわかった時、イエス様を救い主と信じるのは当然のことになります。このように聖書が人間の生きる目的を教えているとわかった時、イエス様は既に救い主になっています。

3.この世は仮住まいという視点

 神がイエス様を通して与えてくれた罪の赦しの中で生きる人は、自分に注がれる恵みの大きさのゆえに思わずひれ伏してしまい、感謝と賛美を口にしないではいられなくなります。神を全身全霊で愛しなさい、隣人を自分を愛するが如く愛しなさい、隣人が神との結びつきの中で生きられるように働きかけなさい、というイエス様の言われたことが自分の一部になったような当たり前のことになります。

そのように生きる人にとって、この世とはどんな世界かということについて、本日の使徒書の箇所でペトロは「仮住まい」と呼んでいます。最後にそのことについて見てみます。ギリシャ語の言い方(τον της παροικιας υμων χρονον)は、「寄留者としての期間」ですが、「寄留者」とは、一時滞在者、その土地の人間ではなく、よそ者です。カナンの地でのアブラハムがそうでした。キリスト信仰者にとって、この世は自分の本当の土地ではなく、よそ者として一時滞在しているということですが、それは、本国が別にあるからで、その本国とは天の御国、神の国です。それは、今は神のもとにありますが、この世が終わりを告げ、今ある天と地が新しい天と地に創造し直される時に唯一現れる国です。キリスト信仰者はそこを目指して、この世を歩んでいます。もちろん、「仮住まい」と訳してもOKです。そう言うことで、「本住まい」が別にあることを意味していますから。

そこで、今生きているこの世を一時滞在の場所、仮住まいなどと言ったら、本住まいの天国が大事になってしまって、この世のことをないがしろにしてしまうのではないか、と思われるかもしれません。それは心配には及びません。キリスト信仰者にとって、この世で自分のものに見えるものは、本当は自分のものではなく、全て神から与えられたものです。伴侶にしろ、子供にしろ、肉親にしろ、家にしろ、仕事にしろ、自分の才能や身体的特徴にしろ、みな神から与えられたものと観念します。神から与えられたので、どう使おうが自分の勝手だ、ということにはならない。与えることが出来る神は、いつでも取り上げることも出来る。だから、完全に自分のものとして自分の欲望を満たすために自分だけで消化するために与えられたのではなく、神に与えられたものとして大切に用い、扱い、育てる。そうすることで、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛せて、隣人を神との結びつきに導くことができます。そういうわけで、この世にあるものは、実はみんな神からお借りしたもので、しっかり世話し正しく用いるようにと委ねられたものなので、そうするのです。

もし、この世自体が本住まいになって、自分たちはこの地の主人、よそ者なんかではない、この世の外に本当の住まい、本国などない、ということになれば、どうなるでしょうか?創造主に対する畏れがなくなって、全てのものは自分の欲望を満たす手段になってしまうのではないでしょうか?本日の使徒書の箇所でペトロは、人を公平に裁く方を父と呼ぶならば、この仮住まいの期間、畏れをもって生きるべきである、と教えています(第一ペトロ1章17節)。「公平」とは、ギリシャ語(απροσωπολεμπτως)では、人物が偉い人かどうか、人気のある人かどうか、また多くの人の支持を受けた人かどうか、全く考慮しないで、どんな行いをしたかに絞って裁く、という意味です。地位も何も関係ありません。全てを見通されてしまうのです。それで畏れを持つことになるわけですが、畏れをもって生きるなどと言うと、びくびくして生きる感じがします。しかし実は、そうではありません。ペトロはその後で言葉をどう続けていますか?キリスト信仰者というのは先祖代々受け継いだ空しい生き方から買い戻されるようにして解放された者である、その買い戻しにあたって支払われた代価は金銀のような情けないものではなく、神のひとり子が十字架で流した尊い血であった、それくらい私たちは価値あるものとして神から見られているのである、と。この買い戻しの中にとどまる限り、神の裁きの前に立つことになっても、イエス様の血をかけられて純白になった者として見てもらえるのです。神はまことに畏れるべき方ですが、その畏れというのは、感謝や大きな安心と表裏一体になっているのです。キリスト信仰とはなんと、重層的で全てを網羅した奥の深い生き方を与えてくれるのでしょうか!キリスト信仰者は自分でも気づかずにそれを手にしているのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2017年3月28日火曜日

解放なら安息日に (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年3月30日 四旬節第四主日

イザヤ書42章14-21節
エフェソの信徒への手紙5章8-14節
ヨハネによる福音書9章13-25節

説教題 「解放なら安息日に」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにする奇跡の業を行った後で何が起きたか、ということについて述べています。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちが、この人を尋問しました。なぜかと言うと、この癒しがなされた日が安息日だったからでした。つまり、癒しを行ったイエスは、安息日に仕事をしてはならないという掟を破ったのではないか、つまり神の意思に反する人物ではないか、ということが問題になったのです。

 安息日を守るというのは、皆様もご存知のように、出エジプトの時に天地創造の父なるみ神がモーセに告げた十戒のうちの第三の掟です。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8-11節)。

なぜ、イエス様が安息日の掟を破ったと騒がれたかと言うと、彼がまず唾と土で何か粘土状のものを作って、それから、それを使って目を治してあげたことの二つが仕事をしたと見なされたからです。本日の箇所の前で、イエス様がどのようにして癒しを行ったかについて述べられています。イエス様は一言声をかけて癒すのではなく、わざわざ作業をするように何か粘土状のものを作って目に塗って、目を治してあげました。この作業が安息日に起きたために、群衆はこれが宗教的に許されるかどうか判断してもらおうと、この人をファリサイ派のもとに連れて行ったのでした。このような奇跡を行うイエスは、本当は神から来た者ではないだろうか?それとも十戒の掟を破る、神に反する者ではないだろうか?一体どちらだろうか?宗教エリートはなんと答えるだろうか?

ファリサイ派の間でも見解が割れました。ある者は、神が定めた安息日の掟を破ったのだからイエスが神由来とは到底言えないだろう、単なる罪びとだ、と主張します。別の者は、そうならば果たしてこのような奇跡の業を行うことができるだろうか、と疑問を呈します。実際、旧約聖書のイザヤ書を通して読むと、将来神の霊を注がれた神の僕が現れて目の見えない人たちの目を見えるようにする時が来ると預言されています(42章7節、加えてマタイ11章4-6節、ルカ7章22-23章も参照)。イエス様を罪びとと考えない人たちは、きっとイザヤ書の預言が頭をよぎったのでしょう。しかし、見解の一致は得られません。そこで、ファリサイ派の人たちは、目が見えるようになった人の見解を求めました。「お前は、お前の目を開けた者のことをどう思うのか?」男の人は答えました。「預言者だと思います。」メシアとか救世主という答えではありませんでしたが、預言者というのは神から送られる人と考えられていたので、イエス様は神由来の者、神の意思に適う者であり、罪びとではありえない、と告白したことになります。

本日の福音書の箇所には、二つ考えなければならない大きなことがあります。一つは、目を見えるようにするイエス様の奇跡の業とイザヤ書の預言の関係です。もう一つは、イエス様はなぜ癒しの業を安息日に行ったのかということです。奇跡の業とイザヤ書の関係は、実はとても深くて大きい問題をはらんでいて、一回や二回の説教でお話しすることはできないと思います。そのため本説教では、安息日の問題を中心にお話ししようと思いますが、ほんの少しだけ、先にイザヤ書の預言について触れておきます。

2.目を見えるようにする奇跡の業とイザヤ書の預言の関係について

本日の旧約の日課であるイザヤ書42章の中で、目が見えない者、耳が聞こえない者について述べられていました。これは肉体的に目が見えない、耳が聞こえない、ということではなく、霊的に見えない、聞こえない、ということです。霊的に見えない、聞こえないというのは、天地創造の神のみ心がわからず、それに沿う生き方ができない状態を意味します。旧約新約聖書を通じて、そういう状態は「心が頑なになる」とも言われます。神はかつて、御自分の意思に反するだけになってしまったイスラエルの民に対して、その霊的な目と耳を塞いでしまうという罰を下しました。そのことはイザヤ書6章に記されています。時はユダ南王国のウジヤ王が死去した頃、イエス様の時代から700年くらい前の頃でした。そのためイスラエルの民は神のみ心が一層わからない状態となり、国内は混乱状態が一進一退で深まり、対外的には大国バビロン帝国の侵略を受けて滅亡してしまいます。紀元前600年近くの出来事です。イスラエルの民の主だった人たちは異国の地に連行されていきました。

それから50、60年経った後、今度はペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の覇者となると、イスラエルの民は祖国帰還が認められます。本日のイザヤ書42章の預言はその時期が近づいた頃に向けられています。神は、イスラエルの民がバビロン捕囚という苦難を背負ったことで、その罪を赦すと宣言します(43章25節、44章22節)。本日の日課のイザヤ書42章16節で神が霊的に見えない、聞こえない民を導いて知らない道を歩ませる、とあります。それは、民がもはや神の差し出す手をしっかり掴まらないと前に進めない、それくらいに神によりすがっている、信頼しきっている状態にあることを意味します。バビロン捕囚の苦難が驕り高ぶっていた民をこのようにへり下って神のみに信頼する民に変えたのです。つまり、霊的に見えなくなる、聞こえなくなるというのは、結局、天地創造の神しか信頼するものがなくなってその御手をしっかり掴まって前に進めるようになる、そういう状態をもたらす機能を果たすと言えます。そのような状態は、神のみ心を知って、それに沿う生き方をすることですので、霊的に見える、聞こえる状態になっているわけです。

ところで、イザヤ書42章19節に、「神の僕」が盲目であると言われていることに違和感を抱く方もいらっしゃると思います。というのは、イザヤ書53章をみると、「神の僕」とは将来到来する救世主メシアのイエス様を指しているので、そのイエス様が盲目というのはどういうことか理解できないからです。実はこれは、イザヤ書で言われる「神の僕」というのは二つの意味がだぶっていることによります。一方で「神の僕」は、バビロン捕囚の罰を受けたイスラエルの民全体を意味し、他方では将来到来する救世主メシアを意味し、イザヤ書ではこの二つの意味がたぶっているのです。42章では明らかにイスラエルの民を指しています。

19節の「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか」という訳ですが、そういう質問ですと、「いいえ、他にはいません」という答えが返ってきてしまいます。ヘブライ語の原文はそういう修辞疑問文ではないと思います。素直に訳すと「わたしの僕以外には誰が目の見えない者か?」です。この神の問いを聞いた私たちは、「はい、私たちもそうです」と告白し、神に全面的な信頼を寄せて、その御手をしっかり掴まって暗闇の中を進みます。その時、神は、16節に言われるように、「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐに」して下さいます。

19節ではまた、「わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者があろうか」とありますが、「信任を与えた者」というのは辞書(HolladayのConcise Hebrew and Aramaic Lexicon of the OTですが)に出ている意味を素直に使えば「報いを受けた者」となり(שלמのpual分詞形)、罪のゆえにバビロン捕囚の苦難を受けることになったイスラエルの民を指します。そうするとここは、「罪の報いを受けたイスラエルの民と同じように目の見えない者は誰か?」という意味になります。この質問に対して、「はい、私です」と答える者は、神の御手をしっかり掴まって進むことになります。(19節は各国語訳も苦労しているようです。)

3.安息日の目的

 イエス様が目の見えない人の目を見えるようにした奇跡の業は、霊的というより肉体的な視力の回復でした。イザヤ書の預言は、字句通りに読めば、肉体的な視力回復としても霊的な視力回復としても理解できます。それで、イエス様が肉体的な視力回復の業を行えば、目撃した人たちは彼がイザヤ書の預言の実現と関係のある方だとわかったのです。イエス様が人間の霊的な目を見えるようにする奇跡の業は、十字架と復活の出来事を通して行いました。このことは後でまた述べます。

ところで、肉体的な視力回復の奇跡を目の当たりにしても、それがイザヤ書の預言の実現と関係があることを見えなくしてしまうことが起きてしまいました。それは、イエス様がこの奇跡の業を行ったのは安息日だったということでした。もし別の日に行っていれば、この方はイザヤ書の預言を実現する方だ!と拍手喝采になったかもしれないのに、わざわざ安息日に行ったがために、人々の注意は病気が治ったという奇跡には向けられなくなって、安息日を破ったということに向けられてしまいました。一体、イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?

実は、安息日を選んで奇跡の業を行う時、イエス様にはちゃんと目的があったのです。どんな目的かと言うと、安息日の守り方について教えるということです。十戒の第三の掟は、先ほどみたように、「安息日を心に留め聖別せよ」です。「聖別する」というのは、神聖なものにするという意味です。安息日を神聖なものにするとはどういうことか?天地創造の神が天と地とそこにあるもの全てを造り上げた時、七日目は創造の業から離れて休まれ、その日を祝福して神聖なものとした。だから神に造られた人間も同じように七日目を神聖なものとせよ、ということです。これが、当時のユダヤ教社会の考え方では、仕事をしないことが安息日を神聖なものにすることの中心になりました。ところが、イエス様の場合は、仕事をしないのなら、じゃ何をするか、ということについて教えます。以下、安息日の守り方についてのイエス様の教えを見ていきます。イエス様の教えを理解することは取りも直さず、安息日の掟を与えた父なるみ神のみ心を知ることにもなります。

 ここで、安息日に絡んだイエス様の行動とそれに伴う教えについて見ていきましょう。

 マルコ2章に(マタイ12章、ルカ6章も)、安息日にイエス様と弟子の一行が麦畑を通りかかった時、空腹を覚えていた弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めた出来事があります。穂を生のまま食べるのですから、飢えに近い相当な空腹だったと思われます。そこで、麦の穂を摘んだことが仕事をしたと見なされて、イエス様がファリサイ派の人たちから批判を受けます。これに対してイエス様は、かつてダビデ王が空腹を満たすために神殿の供え物のパンを食べて家来に分け与えたことに言及して、次のように述べます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(27-28節)。つまり、安息日は人間の益になるように神が定めたものである。従って、飢えや激しい空腹からの解放は禁止されている仕事にはあたらない、ということになり、それを安息日の主であるイエス様が確定したということであります。

 マルコ3章に(マタイ12章、ルカ6章も)、イエス様が安息日にユダヤ教の会堂で手の萎えた人を癒す奇跡の出来事があります。そこに集まっていた人たちは自分を訴える口実を得られる瞬間を待っているのだな、とわかったイエス様は次のように尋ねます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。誰も答えることができません。イエス様は癒しの奇跡を行います。恐らく同じ出来事について述べているマタイ12章では、イエス様が次のように述べたことも記録されています。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12節)。安息日には仕事をしてはならないが、善を行うこと、命を救うことは、してはならない仕事にはあたらない、ということです。

 ルカ14章に、イエス様が安息日に水腫の人を癒す奇跡の出来事があります。ここでも律法学者やファリサイ派の人たちが様子を窺っている。イエス様は言います。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3節)。誰も答えられないのを見て、イエス様は癒しの奇跡を行います。そして、最後のダメ押しとして付け加えます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。牛が井戸に落ちるというのは誇張が過ぎて、読んでいて思わず吹き出しそうになりますが、イエス様にしてみれば、それくらい当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいという様子がうかがえます。

 ルカ13章には、イエス様が安息日に会堂にて、18年間病の霊に取りつかれている女性に癒しの奇跡を行う出来事があります。安息日が破られたと解した会堂長は怒って言います。「働くべき日は六日あるのだから、病気のある人はその間に治してもらうべきだ。安息日はやめるべきだ」と。これに対してイエス様が反論します。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛れていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(15-17節)。「安息日であっても」という言い方ですと、本当はいけないのだが、そこは目をつぶって認めなさい、というニュアンスになります。ギリシャ語原文を素直に読むとニュアンスは異なり、単純に「安息日に束縛から解いてやるべきではなかったのか」となります。つまり、安息日こそが、サタンの束縛からの解放に相応しい日であるというのです。(英語NIV訳、ドイツ語ルター訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳も、素直な訳です。)

 まさにここで、安息日にしてもいい善い行い、つまり、病気の人を癒すこと、命が危険な状態にある人を救うことが、なぜ、禁止された仕事にあたらないかが明らかになります。いずれの場合も、束縛された状態や危険な状態からの解放という意味があります。安息日にそういう束縛の下にある人を解放することは、してはいけない仕事とはみなされない。むしろ、しなければならないことになる。それ以外の活動は七日目には休止して、心と体と魂を自分の造り主に向けなければならない。そこまではイエス様もユダヤ教社会の通念も同じでした。違いは、イエス様の場合、病気であれ、差し迫った命の危険であれ、人間の命を縛りつけるものからの解放ということを安息日に結びつけたことにあります。

イエス様は安息日であるかないかに関係なく、多くの人々に癒しの奇跡の業を行いました。病気だけではなく、悪霊、飢えなどからも人間を解放しました。しかしながら、イエス様が行った解放の業の中で最大かつ最重要のものは、人間の命を束縛している罪と死から人間を解放することでした。それはどのようにして行われたでしょうか?

人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られた良いものでした。それが、堕罪の出来事のゆえに全てが変わり果ててしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教はいつも、人間は罪びとだと強調するので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのです。

以前の説教でも教えたところですが、北欧のルター派教会では、罪というものを、「遺伝的に継承する罪」(arvsynd[スウェーデン語]、perisynti[フィンランド語])と「行為に現れる罪」(gärningssynd[ス語]、tekosynti[フィ語])の二つに考えます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と言うのは、「行為に現れる罪」で人を見ていることになります。しかし、真理は、「遺伝的に継承する罪」が土台にあるから「行為に現れる罪」も出てくるということです。行為に現れる罪を犯さなくても、人は遺伝的に継承する罪を背負っている。一体、人間の誰が、自分の思いと言葉と行いの全てを神の神聖な意思に100%沿うものにすることができるでしょうか?逆説的ですが、何も非の打ちどころがないように見える信仰深い敬虔な人ほど、自分の罪深さを自覚するものです。「遺伝的に継承する罪」があるから、赤ちゃんにも洗礼が必要になります。健気に可愛らしく眠っている赤ちゃんを見ると、この子が罪びとだとは誰も考えられないと思うでしょう。しかし、この世に生まれた以上は、赤ちゃんと言えども罪を背負っているのです。

罪が入り込んでしまったために死すべき存在となってしまった人間は、神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在です。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまいました。しかし神は、人間を見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は人間に永遠の命に至る扉を開きました。人間の方ですることと言えば、これらのことが自分のために行われたとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神との結びつきが回復した者となり、その結びつきの中でこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにとどまることができるようになったのです。

以上から、イエス様が人間にとてつもなく大きな解放をもたらしたことが明らかになりました。イエス様は、人間に死をもたらす罪の力を無力にして、死と罪と悪魔に対して完全な勝利を人間にもたらしました。イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきに生きる者は、このイエス様の勝利に与っているので、何も恐れる必要はありません。天と地と人間を造られた神は今日も、この救いと勝利を人間にどうぞと提供しているのです。あとは人間がそれを受け取るかどうかにかかっているのです。

4.解放なら安息日に

キリスト信仰者が安息日を神聖なものにするというのは、自分が受け取った救いと解放を全身全霊で確認することです。教会の日曜礼拝はまさにその確認の場です。皆様もお馴染みのように、礼拝は、会衆が神の御前で罪の告白をして赦しの宣言を受けることから始まります。神の御言葉を解き明かす説教を聞いて、既に受け取った救いと解放を深く心に刻みつけていきます。また、讃美歌を歌うことで、この救いと解放を与えて下さった神を賛美し、さらに、救いと解放を与えて下さった神を何よりも信頼して祈りを捧げ、思いを打ち明けます。そして、聖餐式では神との結びつきを強化します。人間の目には単なるぶどう酒とパンのひとかけらにすぎないものが、神の御言葉をかけられることで神聖なものにかわり、これを、イエス様こそ自分の救い主と信じる信仰を持って受け取る時、その人と神の結びつきは、神の目から見て強化されたものになります。このように、礼拝とは一度受け取った救いと解放を確認、強化して、私たちをまた一週間の歩みに送り出すところです。そして、一週間後また帰って来るところです。キリスト信仰者は、安息日に仕事をしないで何をしているかというと、このように救いと解放を確認・強化しているのです。

以上は、既に救いと解放を受け取ったキリスト信仰者について述べたものですが、イエス様が自分の救い主とわかり出しつつも、まだ洗礼を受けておらず、神が用意した罪の赦しの救いをまだ受け取っていない人たちにとっても、礼拝は大事です。信仰者にとって礼拝は既に受け取った救いと解放を確認する場なら、教会に繋がり出した人たちにとってそれは救いと解放の受け取りへと導かれる場だからです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、安息日の礼拝をこれからも大切にしていきましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン