2016年4月13日水曜日

パウロの回心(かいしん)と私たち (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2016年4月10日 復活後第一主日

使徒言行録9章1節-20節
ヨハネの黙示録5章11節-14節
ルカによる福音書24章36-43節

説教題 「パウロの回心(かいしん)と私たち」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

キリスト教会やキリスト教そのものにとって使徒パウロが重要な人物であることは誰もが認めるところでしょう。もちろん、神の神聖な犠牲の生け贄になって十字架の上で死なれて人間を罪と死の支配から解放してくれたのは、言うまでもなく神のひとり子のイエス様です。パウロではありません。十字架の死と死からの復活の主人公はイエス様です。パウロが重要だというのは、このイエス様の十字架の死と死からの復活は一体何だったのか、そしてそれがどれだけ全ての人間にとって大事なことであるのか、こうしたことをはっきり理解して、それを福音と呼んで教え広めたことにあります。

皆さんのお手元にある聖書の新約聖書の部分をみてみましょう。全部で480ページあります。そのうち、212ページが福音書と呼ばれる、イエス様の言行録が4つあります。その後に「使徒言行録」と呼ばれる、イエス様の後に福音伝道に携わった使徒たちの言行録が続きます。60ページあります。この福音書と使徒言行録は起きた出来事についての歴史を扱った書物です。新約聖書の終りには有名な「黙示録」があり、29ページあります。これは今のこの世が新しい世にとってかわる終末の時の出来事についての比喩に満ちた預言書です。そして、これらの歴史書と預言書に挟まれるようにして、179ページわたる使徒書簡と呼ばれる21通の手紙があります。これは使徒が自分自身ないしは、恐らく使徒の直近の弟子が先生の名を使って、各地のキリスト教徒に書き送った手紙で、実はこれらの手紙の中に福音の教えが沢山含まれているのです。パウロの名が冠された手紙は全部で14通、合計128ページあり、使徒書簡の大きな部分を占めていることがわかります。もしパウロがいなかったら、またいても、本日の聖書の箇所にあるような出来事が起きなかったら、イエス様の十字架と復活の意味も解明されず、福音の内容もはっきりしなかったでしょう。そうしたら本当のキリスト教もキリスト教会も生まれなかったでしょう。

2.

そのように言いますと、じゃ、パウロと違ってイエス様の十字架と復活を直に目撃したペトロや他の使徒たちは何もわかっていなかったのか?それはちょっと言い過ぎではないか、という疑問が起きるかもしれません。イエス様の十字架と復活というのは、人間を罪と死の支配から救い出すために神がひとり子をメシア救世主としてこの世に送って成し遂げさせた業であり、これは旧約聖書に預言されたことの実現であるということ。そして人間はこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神から罪の赦しを得られて救われて永遠の命を持てるということ。こうしたことをペトロたちもしっかりわかっていたということは、聖霊降臨の時にペトロが群衆の前で行った大説教(使徒言行録2章)をはじめ、使徒言行録に記録されている多くの教えの言葉からも、またペトロの手紙からも明らかです。

パウロもペトロも同じ福音を宣べ伝えるのですが、ただパウロの場合は私たちのような非ユダヤ人、つまり異邦人にとって大きな意味を持っています。ユダヤ人以外の民族のことを言い表す時、ヘブライ語でゴーィגוי、ギリシャ語でエトゥノスεθνοςという言葉がよく使われますが、日本語で異邦人と訳されます。ところでペトロたちは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はユダヤ人であるべきということにこだわりました。これは理解できます。というのも、イエス様も使徒たちも聖母マリアも皆、ユダヤ人として、旧約聖書の律法や預言を受け継ぐ民族の一員としてこの世に生まれました。男の人は皆、律法の戒律に従って割礼を受けています。そういうわけで、イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアだと信じる者は旧約を受け継ぐ者でなければならない、そう考えられても不思議ではありません。そこで、もし、ユダヤ人でない異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。もちろん天地創造の神は、そうではないということをペトロにかなり具体的に教えて、それがもとでローマ帝国軍の将校コルネリウスに洗礼を授けたこともありました(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人のこだわりを長く持ち続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。

 パウロの明確な立場は、人がイエス様を救い主と信じて福音を受け取る際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないということです。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられて天地創造の神の子とされる資格があるということです。イエス様もペトロもマリアもユダヤ人だったからと言って、わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要は全くなくなったのです。実にありがたいことです。

3.

 では、自分自身ユダヤ人であるパウロはどうしてそんなことを言い出したのでしょうか?彼は、旧約聖書や律法や預言を放棄してしまったのでしょうか?実はそうではないのです。それどころが、ある意味でパウロの場合、十戒の掟が一層厳格になったとさえ言えるのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?それを以下にみてみましょう。

パウロは、もともとはファリサイ派に属する律法に厳格なユダヤ教徒の一人でした。ファリサイ派というのは、イエス様の時代のユダヤ教社会内部にあった信徒運動で、旧約聖書に記述された律法だけではなく、口述で伝承された掟も同じくらい大事だと主張したグループです。特に、清めに関する掟は大事で、神が与えると約束した土地に住んでいる以上は、異邦人や罪びととへたに接触して汚れをうつされてはいけない。律法を全てしっかり守ることで神の目に相応しいものとなれるという考えでした。ファリサイ派とイエス様の考え方には類似点もあるのですが、決定的に違う点も多く、ファリサイ派はいつもイエス様に論争を吹っかけては撃退されていました。有名な論争の一つに、何が人間を不浄なものにして神聖な神から遠ざけられてしまったかというものがあります(マルコ7章)。イエス様は、人間を汚れたものにするのは外部から入ってくる汚れではなく、人間内部に宿っている様々な性向である、だからどんな清めの儀式や戒律を守っても人間は清くなれないと教えました。本当に神から罪を赦してもらうことから始めないと人間は清くなれないのであって、そのためにイエス様は十字架にかけられたのでした。

ファリサイ派のパウロ、当時はサウロという古代イスラエルの王サウルに因んだ名前を持っていましたが、彼はキリスト信仰者の迫害者として広く知られていました。(パウロの生涯と教えについて詳しくみることは興味深いのですが、ここは大学の講義ではなく教会の説教の場ですので御言葉の解き明かしに専念し、パウロのことは別の機会に譲りたいと思います。)あの、宗教指導者が異邦人の総督に引き渡して十字架にかけて殺してしまったナザレのイエスは実は、旧約聖書に約束されたメシア救世主だった、などというのは、指導者たちにとってとうてい受け入れられるものではありません。それでペトロたちに対して、イエスの名を言い広めたら命はないぞ、と何度も脅しをかけるのですが、相手側としてはイエス様の復活を目撃してしまった以上は引き下がることなど出来ません。対立はどんどんエスカレートして、ついに勇敢なステファノが殉教したのをきっかけにキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起こりました。

そこでパウロも一生懸命迫害に加担し、本日の箇所にあるように、エルサレムの神殿の大祭司から委任状をとって、ダマスコ周辺のキリスト信仰者をエルサレムに連行する権限を得ることまでしました。そして手下を従えて出発したところ、その途上で先ほど朗読していただいたように、文字通り想定外の出来事が起きました。天に上げられてこの地上にはいないはずの復活の主がそれこそワープしてきたかのように間近に来たのです。これはアナニアが「幻の中」(10節)でイエス様の声を聞いたのとは性質が異なります。アナニアは個人的に声を聞きましたが、パウロの場合は個人的ではなく、従者も皆、異常な現象を目撃し声を聞いたのです。つまり大勢の人が出来事を共有したと言ってよいのです。

パウロはこの出来事をきっかけに、キリスト信仰の迫害者からその擁護者、伝道者へと変貌しました。私たちの新共同訳聖書の9章の見出しに「パウロの回心」と付されています。本日の説教題に「かいしん」と送り仮名を付したのは、この漢字は「えしん」とも読めるとのことで、その場合は仏教の言葉となって、辞書によれば「心を改めて仏道に入ること、とか、小乗の心を改めて大乗を信じること」などと出ていました。「かいしん」の方は、「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験」とありました。パウロの回心ですが、注意すべきことは、それはただ単に、迫害者として悪いことをしてしまったなぁ、と後悔して、これからは心を改めて真人間になってキリスト信仰を擁護し伝道に努めよう、などという、そんな悪人が改心して善人になったという話では全くありません。律法を守ることに徹していたパウロは、それこそが神に相応しいと見なされる道である、と固く信じていたのです。それ自体が純粋な信仰だったのです。そのような信仰を持つ者からすれば、イエス・キリストを救い主と信じて神から罪の赦しを受けられて神の目に相応しい者とされるというのは、大切な律法をないがしろにする邪道にしかすぎませんでした。

ところが、それまでキリスト教徒たちの出まかせにすぎないと思っていた復活のイエスが突然、目を開けられない位の強い光を伴って間近に来た。もう、イエス様は単に権力者に楯突いて処刑された反乱者などではなくなりました。本当に信仰者たちが告白しているように神のひとり子であることが、一瞬のうちに明らかになったのです。パウロを覆い包む強い光は真に真理を照らし出す光でした。光の中から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声がした時、地に倒れたままのパウロは「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねますが、「主」というのは、神の呼び名です。パウロは神の臨在がわかったのです。

イエス様は、声の主が自分であることを告げ、あわせてこれからパウロがすべきことを告げます。パウロがすべきことについて、イエス様はアナニアにも知らせました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(15節、16節)。これで、パウロの運命は決まりました。迫害者は使徒にかえられたのです。後にパウロは「ガラテアの信徒への手紙」の中で、神は既に自分を母の胎内にあるときから福音伝道者に選んでいて、自分が召し出されたのは神の恵みによると告白しています(1章15節)。つまり、神はパウロにまず律法を厳格に守るファリサイ派の経歴を歩ませてから、その次に福音伝道者に召し出したのです。兄弟姉妹の皆さん、神はこのように私たちに深く真理をわからせるために、最初それと反対の世界を歩ませることもされるのです!

復活の主イエス様の臨在がわかった以上、パウロはもうイエス様が神のひとり子であること、旧約聖書に約束されたメシア救世主であることを否定できなくなりました。神がイエス様を用いて十字架と復活の業を成し遂げさせたのは、まさに人間を罪と死の支配から解放するためであった。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は神から罪の赦しを得られて神から相応しい者と見なされて永遠の命を持つことが出来る。そうなりますと律法を守ることで神に相応しいと見なされるということはなくなってしまいます。律法は不要になってしまったのでしょうか?

4.

律法は不要にはなりませんでした。律法は新しい役割を持つようになったのです。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けても、自分の中にはまだ罪が残っていることは否定できない事実です。ということは、イエス様を救い主と信じる信仰のせいで律法が存在価値を失ってしまったということはなく、かえってそれは自分が罪深い者であることを思い知らせる鏡のようになったのです。律法は依然として効力を保っているのです。ただ、ゴルゴタの丘に立てられた十字架が否定できない歴史的事実である以上、いくら律法が罪を自覚させても神の赦しは厳然とあるのです。そうなると、キリスト信仰者というのは、内に罪を残したまま、イエス様の罪のない純白な衣を頭から被せられて神に相応しいとみなされているのであり、罪を残してはいるものの、この衣をしっかり纏っていよう、そういう生き方を志向する者なのです。

このようにパウロにとって、それまで神に相応しいと認めてもらおうと一生懸命に守ってきた律法の役割が変わってしまいました。神に相応しい者になれるのは、イエス様が自分に代わってそのようにしてくれたことを信じることでなれるのです。もし罪を犯して相応しさを失ってしまったら、すぐ十字架のもとに立ち返れば、イエス様の犠牲に免じてまた相応しい者と認めてもらえるのです。この時、律法は、私たちに罪を気づかせることで私たちを十字架のもとに追いやってくれる役割を持ちます。

そういうわけで、パウロからみれば、割礼を施してまずユダヤ人という神の目に相応しい者にしてから洗礼を授けるという手順は、それこそ律法を守って神の目に相応しくなろうとすることと同じになってしまうのでした。それで認められないのです。もちろん、パウロやペトロなどのように生まれた時から割礼を受けていて初めからユダヤ人であれば、そのままにするしかありません。新しくキリスト信仰者になる者に対しては、割礼は意味がないばかりか、施してしまうと、神の目に相応しくなることがイエス様を救い主と信じる信仰によらなくなってしまいます。 

ところで、もともとユダヤ人で割礼を受けた状態でキリスト信仰者になる者はユダヤ・キリスト教徒、異邦人から信仰者になる者は異邦人キリスト教徒と呼ばれます(注)。私たち日本人のキリスト信仰者も、欧米人やアフリカ人のキリスト信仰者も皆異邦人キリスト教徒です。パウロの異邦人を中心とする熱心な伝道の結果、キリスト信仰はすぐ当時のローマ帝国の東半分に広がって行きました。キリスト信仰は、地中海世界の人々の倫理観、死生観、性モラルに新しい風を吹き込みました。特に、以前からユダヤ教の教えに接して多神教を捨てて天地創造の唯一神を信じるようになった多くの女性たちが、パウロの教えを支持しました。いつしか異邦人キリスト教徒とユダヤ・キリスト教徒の比率は逆転し、西暦70年のローマ帝国軍によるエルサレム破壊の後は、ユダヤ・キリスト教はほとんど歴史の舞台から姿を消していったのであります。

5.

以上、迫害者パウロが、復活の主の大接近を受けて、イエス様が神のひとり子、メシア救世主であることを受け入れざるを得なくなってしまったことをみました。そしてパウロは、神に相応しい者にされるのは律法の掟を守ることではなく、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神から「罪の赦しの救い」を頂いて相応しい者にされることがわかったということもみました。特に、キリスト信仰者になるのに割礼を受けてユダヤ人になる必要はない、異邦人は異邦人のままイエス様を救い主として信じて「罪の赦しの救い」を受けられるというパウロの立場は、彼にとって律法の役割が大きく変わったことと結びついていたこともわかりました。

 最後に、パウロに大接近したイエス様が述べた言葉の中で、私たちにとって励みになるものがありますので、それについて述べてみたく思います。それは、パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が迫害される時、それはイエス様にとって自分が迫害される、迫害は自分に及んでいる、というのです。私たちキリスト信仰者が、何か害悪を被ったり、災難や困難に遭遇した時、イエス様はそれを自分のことのように受け取るのです。イエス様は私たちの境遇に無関心ではないのです。このことについてルターが次のように教えていますので、それを引用して本説教の締めにしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、ヨハネ15章1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」です。

「見よ、主は苦しみと死に向かって進まれている時に、このように述べて悲しみを乗り越えられた。同時に主は、我々もこの御言葉をしっかり心に刻みつけるようにと教えられる。主が言わんとしていることは次のことである。『私はまことのぶどうの木、父なるみ神が御自分でお植えになった愛すべき木である。だから、お前たちは、私と父の両方にとって愛すべき枝なのである。これほど一生懸命に丁寧に肥料をまかれ、剪定され、きれいにされるぶどうの木は他にあるだろうか?このぶどうの木に害を加えようとするものがあるなら来るが良い。悪魔やこの世がお前たち枝に何か危害を与えようとするなら、させてみればよい。どうせ彼らは、愛する父が許可する以上のことは何も成しえないのだ。』
我々の天の父は、ぶどうの木であり枝である我々をしっかり守って下さるあまり、我々に降りかかる危害さえも自分自身に及ぶものと受け止めてくれる方なのである。これは、なんと我々を勇気づけてくれることであろうか!そもそも信頼できる農夫というのは、ブドウ園にとどまって一つ一つの枝を守り、簡単に他の者に渡したりしない。最後まで自分でぶどうの木を守り世話をする。
主のこのような御言葉を心に刻みつけるには、霊的な耳や目を必要とする。なぜならば、この世の目には、全てのことは全く正反対に見えてしまうからだ。主を信じながらも困難に陥ったり迫害を受けたりする我々のことを、この世は神のぶどうの木、枝などとは呼ばないだろう。彼らからすれば、悪魔の雑草か茨にしかみえないであろう。それは彼らが霊的な耳や目を持っていないからにすぎない。主の語られたこの美しいたとえを信じてこれを宝物のように携えている者は、どんな困難に遭遇しても勇気を失わないであろう。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン




注 スウェーデン語やフィンランド語では、ユダヤ・キリスト教徒(judisk kristen/juutalaiskristitty)、異邦人キリスト教徒(hedna kristen/pakanakristitty)との呼び名がありますが、英語では、ユダヤ・キリスト教(Jewish Christianity)と「ヘレニズム・キリスト教」(Hellenistic Christianity)という区別のようで、地理的・歴史的に限定された言い方です。

2016年4月1日金曜日

イエス・キリストは我らの復活の初穂なり (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2016年3月27日 復活祭

出エジプト記15章1節-11節
コリントの信徒への第一の手紙15章21節-28節
ヨハネによる福音書20章1-18節

説教題 「イエス・キリストは我らの復活の初穂なり」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が神の大いなる力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的のようです。イエス様が天の父なるみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから人として生まれたことを記念してお祝いするのはクリスマス・降誕祭でした。復活祭はクリスマスに劣らずキリスト教会では大事なお祝いです。一度死んだ者が復活させられて、死の悲しみが生の喜びにかわるということで、ちょうど暗い寒い冬が明るい暖かい春にかわる時期にぴったりのお祝いにみえます。

 ところで、イエス様が復活されたことの何が私たちにとってそんなに喜ばしいことになるのでしょうか?復活祭の本当の意味がわかるために、このことを少し考えてみましょう。イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが、復活させられた、ということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったらどうでしょうか?また、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが、復活させられたイエス様に出会って喜び勇気づけられた、ということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったら?復活祭とは、歴史ドラマでも観るように、昔の人物たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いでしょうか?いいえ、決してそうではありません。イエス様が死から復活させられたことは、当時の人物たちの時代という時間の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命の変転そのものに関係することなのです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何かということを考える必要があります。

そこで、イエス様の復活とは何かをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかを考えなければなりません。もちろん、それはイエス様が当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買って、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということなのですが、実はそれは見かけ上の出来事です。見かけの奥にある真実はこうです。旧約聖書に記された神の計画が、イエス様の十字架と復活という形を取って実現したということです。

それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何でしょうか?それは、罪にまみれて神聖な神との結びつきを失い死ぬ存在になってしまった人間が、罪を洗い流されて神との結びつきを回復してこの世を生きられるようにするという計画です。この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにするという計画です。それでは、この神の計画とイエス様の十字架・復活はどう関係するでしょうか?それは次のように関係します。まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部代わりに受けてくれて、神に対して罪の償いを全部してくれました。このように私たちの罪を請け負って神の罰を受けたので、罪はイエス様と一緒に神の罰を受けて破綻しました。こうしてイエス様が自分を犠牲にして罪の力を無力にしたので、私たちは罪の支配から解放されました。さらにイエス様が復活させられたことで、死を超える永遠の命への扉が私たち人間に開かれました。その扉は、罪に支配されたままの者は入れませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを得て罪の支配から解放された者は入れるようになりました。

このように罪と死の支配から人間を救おうとする神の計画が実現したことで、今度は私たち人間もイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。こうして人間は新しい希望をもってこの世を生きることができるようになりました。新しい希望とは、一つには、たとえこの世の人生が終わっても、命は復活の日を経て永遠の命という形をとって続いていく、だから死は終わりではないという希望です。もう一つには、死者の復活が一斉に起きる復活の日、神は御心に従って、懐かしい人同士が合いまみえるようにしてくれるという復活の日の再会の希望です。実に神は、私たちがこうした希望をもってこの世を生きられるようにしてくれたのです。

そういうわけで、復活祭とは、イエス様が復活させられたことで、実は私たちの将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。また、復活させられるという希望と復活の日に再会できるという希望を私たちに与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活させられた主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

2.

 イエス様の復活は、まさに私たちの復活に先だって起きました。イエス様の復活が起きなければ、後に復活は続きません。イエス様の復活が将来の私たちの復活の先駆けになっていることは、先ほど読んでいただいた本日の使徒書である第一コリント15章からも明らかです。23-24節で復活には順序があると言われています。「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」、つまりイエス様の復活は今から約2000年前に起きましたが、その他全ての者の復活はイエス様の再臨の日に起きるということです。

第一コリント15章20節には「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言われています。「初穂」とは、ギリシャ語のアパルケーαπαρχηの日本語訳ですが、「最初の者」とか「第一子」というのがもともとの意味です。興味深いことに、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では素直に「眠りについた人たちの中で第一子となられました」となっています。英語訳(NIV)では「最初の果実」firstfruitsで、植物になぞらえることで日本語訳に近いです。「初穂」の意味ですが、単純に「年の一番最初に実った穂」という意味の他に、宗教的な意味もあるので注意が必要です。日本の宗教的な伝統では、年一番最初に収穫して神仏に捧げる穀物を意味します。穀物ではないですが、似たようなことがユダヤ教の伝統にもあり、人間であれ家畜であれ第一子は神に捧げられるものとして聖別せよという律法の規定がそれです(出エジプト13章1-2節、12-13節、22章28節、34章19節、民数記3章13節)。ルカ2章に赤ちゃんのイエス様が両親に連れられてエルサレムの神殿に行く場面がありますが、その目的の一つが第一子の聖別でした(23節)。

日本語訳で「初穂」としたのは、何か神に捧げられるものという意味をもたせる意図があったのかどうかはわかりませんが、一つ注意しなければならないことがあります。それは、復活して復活の体を持つイエス様はもう捧げものではない、ということです。イエス様は既に十字架の上で全ての人間を罪の支配から贖い出すために御自身を神聖な生け贄として神に捧げたのです。十字架の出来事の後で、もう神に捧げる犠牲などありません。そうは言っても、十字架の出来事の後にも人間には罪がまとわりつきます。それでは、罪がまとわりつく時、人間が罪の支配から贖われた状態を保てるにはどうしたらいいのか?それはもう、イエス様が成し遂げた全てのことのゆえに、彼こそが自分の救い主だと信じて洗礼を受けてイエス様と結びつくこと、そして聖餐式でイエス様の血と肉を受けてその結びつきをしっかり保っていくこと、それしかありません。

そういうわけで、イエス様は復活の「初穂」と言う時、それは単純に眠りについた者たちの中で一番最初に復活させられた者ということです。私たちに先だって復活した、イエス様の復活が起きたので続いて私たちの復活も起きるということです。皆さん、ここで広々とした田んぼ、または麦畑を思い浮かべてみて下さい。秋の収穫の時が近づきました。どの穂か、最初に実った穂があったかと思うと次々と他の穂も実っていって、田んぼや麦畑は黄金色に輝きます。稲や麦のように私たちもイエス様という初穂に続いて行きます。イエス様の再臨の日、それは復活の日であり、また天地が新しく創造される日ですが、私たちは眠りから覚まされて、復活の体を着せられて天の御国に迎え入れられます。実をならせた穂として。

 先ほどみた第一コリント15章20節で「眠りについた人たちの初穂」と言われていますが、聖書ではこの世から死んだ後は、復活の日、イエス様の再臨の日までは「眠り」の期間です。ルターによれば、この「眠り」は、この世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りである反面、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの長い眠りは、本人にはほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きも感じないし、また、この世で生きている人を見守ったり、影響力を及ぼすこともありません。この間ずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは、天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。

3.

 本日の福音書の箇所で、復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が持っている復活の体とはどんな体なのか?それについては、使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52-54節)。イエス様は、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。

 復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活とは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

 さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝や尊敬の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったでしょう。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはまた泣いたでしょうか?次のように考えて見たらどうでしょうか?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。

イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」μη μου απτουです。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」Do not hold on to meです。聖書の訳にも日米同盟があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか?

私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べます。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で天の父なるみ神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(ψηλαφησατε、βαλε両方ともアオリスト命令形)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いているのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(απτου現在の命令形)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。

 神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた危険はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。感動的な場面です。イエス様は、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上、復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことが窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。イエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」

4.

 兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活を通して、私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。

十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様と結びつく者は、
神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、
その度に十字架の主に心の目を向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、
神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。

この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン