2016年2月8日月曜日

主イエスは最後まで共にいて下さる (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年2月7日変容主日 スオミ教会

申命記34章1-12節
コリントの信徒への第二の手紙4章1-6節
ルカによる福音書9章28-36節

説教題 「主イエスは最後まで共にいて下さる」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン


 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースターに向かう四旬節が始まる前の節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという出来事についてです。同じ出来事はマタイ17章、マルコ9章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことが「変容した(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本主日は変容主日とも呼ばれます。

三つの福音書に同じ出来事が記されていますが、よく読んでみると記述がそれぞれ若干異なっていることに気づかされます。しかしながら、さらに読み込んでいくと、そうした違いは本質的なものではなく、むしろ、お互いを補い合っていて、三つをちゃんと読むと同じ出来事の全体像がよりよくわかってくることに気づかされます。全体像がわかるための違いであると言ってよいと思います。具体的に申しますと、マルコとマタイでは、ルカに比べてイエス様の輝いた姿が詳しく述べられている反面、出来事全体の記述はそれほど詳しくありません。出来事全体の記述は、ルカの方がマルコ、マタイに比べて詳しいです。

 本日の箇所に出てくる「山」について、マタイやマルコの記述では「高い」山と形容されています。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同じ地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えられます。

 このヘルモン山について、以前の説教で2700メートル位と申し上げたのですが、2814メートルの誤りでした。この場を借りて訂正いたします。どうして間違えたかと言うと、言い訳になってしまいますが、その時見た地図には9230フィートと記されていて、私は1メートル=3,4フィートと間違えて記憶していて、それで計算してしまいました。1メートルは3,28フィートでした。それで計算し直したら、2814メートルとなりました。実際、メートルで高さを記した地図を見つけ、それも2814メートルでした。2700メートルなら日本の白山と同じくらいだなどと申したのですが、これも訂正しなければなりません。2814メートルでしたら、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ標高です。ただ、インターネットの写真を見てみると、ヘルモン山はなだらかで急峻な感じはありませんでした。頂上は現在のレバノンとシリアの国境上にありますが、山域はイスラエルまで及んでおり、冬はスキー場も開設されてスキー客で賑わう様子もネットで見ることができました。

 山もこれくらいの高さになると、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の福音書の箇所の記述を注意して読むと(33-34節)、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を3つ立てましょう、と言ったすきに頭上を覆ってしまうのですから。高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神が利用したと考えられますし、または、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。どっちだったかはもはや判断できませんが、この件は判断しないままにしても、本日の箇所の解き明しには何の支障もありません。

2.

 本日の福音書の箇所の出来事は幻想的かつ劇的ということができます(「幻想的」と申しましたが、「幻想」とは申しませんので御注意下さい)。山の上で一体何が起こったのか、ルカの記述を中心にマタイやマルコの記述にも注意しながら見ていきましょう。

イエス様は祈るために山に登られました。イエス様が祈る場所に山の上を選んだことは他にもあります。ルカ6章によれば、山の上で一人一晩祈り明かした後で12弟子を選んだことが記されています(12節)。マタイ14章とマルコ6章によれば、5千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たすという奇跡を行った後でイエス様は一人で山の上で夜明けまで祈られました(それぞれ23節、46節)。その後で、ガリラヤ湖上で逆風に煽られて舟をこげなくなった弟子たちを助けに行ったのです。この二つの山は、ガリラヤ湖近辺にあるので、ヘルモン山のような高い山でなく丘陵と言ってよいでしょう。イエス様が一人で何を祈られたかは、記録がないし、そもそも同行者がいなかったのでわかりません。

それでも、十字架にかけられる前日にオリーブ山のゲツセマネでしたお祈りの内容は知られています(マタイ26章、マルコ14章、ルカ22章)。もうすぐ、全ての人間の罪を償う犠牲の生け贄になる、そうすることで人間が神の怒りや罰を受けないで済むようにする、そうして人間が神との結びつきを取り戻せて、死を超えた永遠の命を持てるようになる、そういうことを実現するために神のもとからこの世に送られてきたのだが、これから受ける苦しみに果たして耐えられるかどうか不安に苛まれてしまった。避けられれば避けたい、しかし行わなければならない、そういう苦悩をイエス様は父なるみ神に包み隠さず打ち明けます。そして最後は、「あなたの御心がなりますように」と祈って覚悟が与えられ、立ち上がって十字架の道に進んで行きます。

イエス様が他の祈りの場所で何を父なるみ神にお祈りしたのかは不明ですが、少なくとも、神がイエス様に持っていた計画を明らかにするように、そしてそれを行う力を与えてくれるようにということはあったでしょう。

本日の出来事ではペトロ、ヨハネ、ヤコブの三弟子の同行者がいましたが、イエス様のお祈りの内容は伝えられていません。32節をみると、三人は「ひどく眠かった」とのことで、これは2800メートル級の山をロープウェイやケーブルカーを使わずに麓から登れば疲労困憊になるのは当然でしょう。ああ、イエス様は何かを祈っておられるな、と眠い目には映っているが、何を祈っているのかはもう聞き取れない。ところが、祈っている最中のイエス様の様相が急に変わった。「顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた」(29節)、そして、その輝きは「栄光に輝く」(32節)ものだった。

それだけではありません。気がついてみると、どこから現れたのか、二人の人物がいて、一緒に話しをし始めたではないか?その二人もイエス様と同じように「栄光に包まれ」ています(31節)。三人の弟子は、体は重く疲れたままですが、興奮が入り込んで次第に眠気が引いて行きます。話声も耳に入ってきました。聞いていると、この二人はかつての偉大な預言者モーセとエリアだということがわかってくる。ところで、このモーセとエリアは一体何なのだ?ルカ24章を見ると、死んだ人間が目の前に現れると幽霊とか亡霊と理解されるのは、彼の地でもあったようです。ルカ24章では、復活したイエス様が鍵を閉めてあった家の中に突然入って来たのを見て弟子たちがパニックに陥りました。しかしながら、山の上で三人の弟子たちはそうなりませんでした。恐らく、目の前に現れたモーセとエリアは父なるみ神の力によって再臨をした者という理解があったからだと思います。当時、特に律法学者の間で、エリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10-11節、マルコ9章11-12節)。加えて、ペトロがモーセとエリアのためにも「仮小屋」を建てます、と言ったのも、神の力によって再臨したという理解があったことを示しています。「仮小屋」というのは、ギリシャ語のスケーネー(σκηνη)ですが、正確な訳は、神に礼拝を捧げる場所の「幕屋」を意味します。ペトロはイエス様に加えてモーセとエリアのためにも礼拝を捧げる場所を建てると言ったわけです。幽霊や亡霊にそのようなものを建てる言われはありません。

さて、モーセとエリアが近々エルサレムでイエス様が行なわなければならないことを知らせると、二人はイエス様のもとを「離れ」出しました。文章では「二人がイエスから離れようとしたとき」と書いてありますが、歩いて立ち去ろうとしたのか、空に上げられるように去ろうとしたのか、姿が消えるようにしてなのか、ギリシャ語の言い方からでは全くわかりません(εν τω διαχωριζεσθαι)。どんな仕方であれ、とにかく、二人の大預言者とイエス様の間に距離が開きはじめた。それが見て取れた。まさにその隙をとらえて、ペトロがイエス様の方を向いて、イエス様とモーセとエリア三人のために礼拝を捧げる幕屋を三つ建てます、と言ったのです。三人の話しが終わって、そのうち二人と一人の間の距離が開き出したその時です。

この、ペトロが幕屋の提案を述べている、ほんの10-20秒程の間に突然雲が現れました。雲は、ペトロたちの側からみて、あっと言う間にモーセとエリアとイエス様の頭上に覆いかぶさりました。34節を見ると「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った(εν τω εισελθειν αυτους)、つまり雲の中に乗り込んでしまったのです。弟子たちが恐怖を抱いたのは、得体の知れない雲が現れたということより、雲がイエス様から離れつつあったモーセとエリアだけでなく、イエス様をも取り込んでしまったことによるのです。

まさにその時です。その雲の中から、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という、父なるみ神の声が響き渡りました。この声が響き渡った後で、弟子たちが顔を上げると、目に入って来たものは、そこに一人立つイエス様だけでした。あの、様相が変わる前のいつものイエス様がそこにおられました。もうモーセもエリアも雲もなくなっていました。全てもとに戻っていました。本当にあっという間の出来事でした。全てもとに戻ったとは言っても、この出来事があったがゆえに、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の声は、今目の前におられる方を指すことがはっきりしました。また、ペトロにとっては、モーセやエリアに礼拝を捧げる必要などないこともはっきりしました。

3.

 以上、山の上で起きた出来事を書かれたものに基づいてできるだけ忠実に再現してみました。幻想的でかつ劇的な出来事ですが、天の父なるみ神の意思や計画がはっきり伝わってくる出来事だと思います。神の意思や計画というのは、イエス様に対してだけでなく私たち人間に対して両方のものです。以下、そのことについて見てみましょう。

 まず、イエス様の変容について見てみましょう。ルカ福音書では、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、実は、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ福音書9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪や不従順の汚れに全く染まっていない神聖な神の子としての本質をあらわにしたのです。

 「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証されています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。

そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。イエス様は、もともとからして罪を持たない神の神聖さを持つ方なので、何の問題なしにそのまますんなり天の神の御国に入れた筈です。モーセとエリアの場合は、御国に入れるようになるために神によって変えてもらわなければなりませんでした。31節でモーセとエリアは神の「栄光に包まれて現れ」(οφθεντες εν δοξη)と言われていますが、これは、彼らが神から栄光を輝かせてもらって、それを受けて光っているということです。イエス様の場合は32節で言われるように、彼自身が「栄光に輝く」、つまり神と同じように自ら輝かせることができる栄光(την δοξαν αυτου)を持っているということです。本当にイエス様はお迎えの「雲」に乗って、そのまま天の御国に帰ればよかった。それなのに、私は行かなくてもいい、と言わんばかり、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められたのです。なぜでしょうか?

それは、私たちも神の栄光を受けて光ることができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すこととなって、神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神と切り離された状態で生きることとなり、この世から死んだ後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間がこの汚れを除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能なことです。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす律法というものがあるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たしていくものというより、人間が神の意志からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものなのです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21-22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27-28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、できない人間にかわって人間を罪の汚れから洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで成し遂げました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪の汚れを忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまうことも辞さない方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が背負うべき罪の罰を全部彼に負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は言わば、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この尊い犠牲のおかげで、人間が罪の罰や罪の支配状態から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありません。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができるのです。

このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、それを大事に携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて光ることができるようになれる。そして、いざ、この世を去る時が来たら、神に自分の全てを委ねることができて、神の方でしっかり受け取ってもらえるようになれる。まさにそのためにイエス様は、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

ところで、復活されたイエス様は天に上げられました。今は天の父なるみ神の右に座しています。そして、今のこの世が終わりを告げて、新しい天と地が創造される時に再臨すると約束されました。マタイ福音書の終わりで、復活の主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章19節)と言われますが、今天の父なるみ神の右に座している方がどうやって、私たちと共にいて下さるのでしょうか?

それが本当に共にいて下さるのです!洗礼を受けて「罪の赦しの救い」の贈り物を受け取った者は皆、自分からそれを捨てない限り、その贈り物を大事に携えて生きる限り、イエス様を自分の救い主として確実に持っています。小さな子供の場合は、両親の信仰告白に支えられてイエス様を持っています。大人になって自分で信仰告白をするようになれば、両親から独立して救い主イエス様を持ちます。イエス様を救い主として持てるのは、聖霊が働いているおかげです。

さて、両親に支えられていても、また独立していても、信仰に留まる者が聖書の御言葉を読んだり聞いたりすると、それはただイエス様が救い主であることを絶えず思い起こさせる神の声、イエス様の声そのものです。さらに両親から独立して聖餐式のパンとぶどう酒を受けると、それは受ける人にとってイエス様が救い主であることを御言葉と一緒に強めてくれます。

さらにイエス様は、私たちの祈りを、声に出る祈りも、声にならないため息も、全て聞き遂げて父なるみ神に取り次いで下さって、全てのことを神の御心に適うように祝福されたものに変えて下さいます。まことにイエス様は、この世の終わりまで、そして私たち一人一人の人生の終りまで、いつも共にいて下さるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしっかり歩んでまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2016年1月25日月曜日

罪の自覚 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年1月24日顕現節第四主日 スオミ教会

エレミア書1章9-12節
コリントの信徒への第一の手紙12章12-26節
ルカによる福音書5章1-11節

説教題 「罪の自覚」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 舟も沈まんばかりの大量の魚。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまう。なぜペトロはこの時、自分は罪びとであると罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが、そう告白するに至った原因のように書かれています(θαμβος γαρ περιεσχεν αυτον [.......] επι των ιχθυων [.....])。それでは、ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?そして、恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?本説教では、まずそのことを見ていきたいと思います。

イエス様はガリラヤ湖の岸辺で群衆に教えを宣べています。教えの内容については触れられていませんが、4つの福音書の記述から、次のような内容であったと推察できます。つまり、神の国がイエス様と一体となって到来したこと、神の国の一員として迎え入れられるために人間は罪の赦しを受けなければならないが、その罪の赦しが間もなくメシアの働きで実現すること、また人間は神の御心を正しく知って悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、これらのことが考えられます。

 岸辺には大勢の群衆が集まってイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。その時、イエス様は岸辺に漁師の舟が二そう止まっているのを目にします。ちょうど漁師が舟から降りて、向こうで網を洗っているところでした。イエス様は、ペトロの所有する舟に乗って、彼に命じて岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教え続けました。ひと通り教えた後で再びペトロに、もう少し沖合まで漕いで、魚を捕るべく網を投げるよう命じます。

 ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかった、と応じます。夜の暗い時というのは、魚捕りに最適な時なので、それでも何も捕れないのであれば、日中明るい時はなおさら捕れないではないか。ペテロの応答にはイエス様の命令に対する懐疑が窺われます。しかし、それでも、あなたのお言葉ですから網を投げ入れてみましょう、と言って言う通りにします。この時ペトロはイエス様のことを、上に立つ者、指導的立場にある者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςと呼んでいます。新共同訳では「先生」となっていますが、「先生」を意味する言葉はディダスカロスδιδασκαλοςという言葉が別にあります。ペトロにしてみれば、漁をやめて網を洗っていたのに突然人の舟に乗り込んできて漕ぎなさいと命じたり、教え終えると今度はもっと沖に出て網を入れなさいとか、いろいろ命令ばかりする人だな、やたらと指導者ぶる人だな、という思いが言葉遣いに見て取れます。少し皮肉った言い方で、「お偉いさん」という意味だったのかも知れません。そうは言っても、イエス様は既にガリラヤ全土で権威ある教えと奇跡の業によって名声を博している方です。言われたことを断ることもできません。

無理に決まっているじゃないか、という思いで網を入れたところ、大変なことが起きました。網も破れんばかりの夥しい量の魚がかかりました。もう一隻の舟が応援にかけつけるも、このままでは二隻とも沈んでしまう位の量の魚で舟は溢れかえります。文字通り想定外の出来事が目の前に起こり、恐れを抱いたペトロは叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」その時ペトロは、イエス様のことを先ほどの少し皮肉の混じった「お偉いさん」と呼ばず、今度は一挙に神を言い表す言葉キュリオスκυριος「主」と呼びます。ペテロの罪の告白は、神に対する告白となったのです。最初のぶつくさ言うような感じから、一挙に背中がピンと張って目が覚めて真剣そのものに激変した感じです。

それでは、ペトロは何に恐れを抱いたのでしょうか?そして、どうしてその恐れから神に罪の告白をするようになったのでしょうか?ペトロが恐れたのは舟が沈んで自分が溺れてしまうことではありませんでした。ペトロが金槌でなかったことは、ヨハネ21章から明らかです。ペトロが復活したイエス様に真っ先に会おうとして上着を着けたまま水に飛び込んで岸まで泳ぐ場面がありました。ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことをみたからです。神の力が働いたのをみたということは、神が自分の間近にいた、ということです。

神を間近に見ることが人間に罪の自覚と呼び覚まして、大きな恐れを抱かせることは、イザヤ書6章によく描かれています。ユダ王国が国王から国民までこぞって神の意思に反する道を歩んでいた頃でした。預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。その時、イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の間に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(5節)」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まことに罪の自覚の悲痛な叫びです。ここでは、神聖な神と汚れに満ちた人間との間の絶望的な隔たりが一挙に示されます。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう強力な炎のような力が満ちています。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇にあてられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、炭火がイザヤを霊的に清めたことを意味します。いずれにしても、人間が真の神を間近に見る場合、その神聖さと全く逆の自分の汚れを思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方ですので、神を間近に見てしまった時に強い恐れが生じるのは当然なのです。

2.

 私たちにも、神を間近に見たり感じたりして罪の自覚が生まれるということが起きるでしょうか?私は、人間が死に直面してこの世から去るのを目前に控えた時というのは案外、神を間近に感じて罪の自覚が生まれる時ではないかと考えるものです。どうしてそのように考えるのかと言うと、以前読んだことのあるスウェーデンの小説にそのような出来事があったからです。スウェーデンという国は、日本ではノーベル賞や大規模な家具チェーン店の国として知られていますが、国民の60%強がルター派教会に属している国です。国民の半数以上と言うと多く聞こえますが、実は数十年くらい前はほとんど100%近かったのです。それ位、国民の教会離れが近年進んでいるということです。

さて、問題となっている小説ですが、それは「グルンドゥステーネンGrundstenen」という題名で、日本語にしたら「岩盤」という意味でしょうか。作者は、1960年代から70年代にかけてスウェーデンのルター派教会のイェーテボリ監督区の監督を務めたB.イェールツという神学博士です。もう既に亡くなった人です。神学者の書いた小説ですが、第二次大戦後のスウェーデン文学界の代表作の一つと言われています。

話しを先に進める前に少しだけ小説の内容を紹介しますと、オーデショーという架空の村が舞台で、1809年から1939年までの130年に渡る村の歴史に、形を変えつつも、いつも繰り返し起きる出来事が主題になっています。それは、村の教会に赴任した牧師と村の人たちがいかにルター派の信仰を守る戦いをしたかということです。

130年の歴史は三つの時代に分かれていて、第一部は、ナポレオン戦争の時代にスウェーデンがロシアとの戦争に敗れてフィンランドを失うという時代背景のもと、牧師たちも当代の知識人と同じく啓蒙主義の影響を強く受けていて、信仰よりも理性を重んじる風潮の中での話です。第二部は1870年代で、村からも多くの人たちがアメリカに移民するという社会変動の時代。その頃、キリスト教のいろんな宗派がこの村にも入って来て、多くの村人たちがルター派に魅力を感じなくなって離れてしまい、そうした宗派に流れて行ってしまうという状況の中での話です。第三部は1930年代に国民の教会離れ聖書離れが進み、個人の生き方も神など引き合いに出さず個人が自由に決めればよいという風潮が強まり、それが性のモラルにも現れてくる。やがて第二次大戦が始り、隣国フィンランドがソ連に攻撃されると中立国のスウェーデンから8000人もの義勇兵が出征する。第三部に登場する問題人物もその一人として前線に赴き、彼の戦死の報を牧師が受け取ったところでこの年代記のような小説は終わります。

それぞれの三つの時代の中で教会が直面した三つの挑戦、理性の偏重、教派や宗教の百花繚乱、個人の自由追求やそこから起こる性モラルの乱れといったものは、実は今の時代にも全部当てはまるのではないでしょうか?

一つ余計なことを付け加えると、作者のイェールツという人はスウェーデンのルター派教会の聖書離れに警鐘を鳴らし続けた人で、彼のキリスト信仰に関する多くの著作はフィンランド語にも訳されて、スウェーデンとフィンランド両国のルター派のリバイバル運動に大きな影響を与えました。両国の牧師の中には、この小説を読んで牧師を志したという人もいるほどです。

さて、話を本筋に戻します。死に直面した人間がこの世を去るのを目前にする時というのは、神を間近に感じて罪の自覚が生まれる時ではないかということについてです。グルンドゥステーネンの第一部に次のような出来事があります。村のヨハンネスという老人が重病で、もう死期が近づいているという時に、意識ははっきりしているが半狂乱のようになってしまう。彼は毎週教会の礼拝に通う敬虔な人と思われていたのだが、突然自分はとんでもない罪びとだった、自分が神に受け入れられないのは確実だ、と言い始めて、周りの人たちのどんな慰め言葉も受けつけない状態になってしまった。そこにウプサラ大学神学部を出たての新米牧師が送られてきた。牧師が老人に、神は良い方だから何も心配いらない安心しなさい、といくら言っても、話が全然かみ合わない。老人は、そう、神は良い方だというのは全くその通りである、神は本当に自分に良いものを与え続けて下さった、それなのに自分はそれに応えるように生きてこなかった、心の中で隣人を罵ったり嘲ったりした、困っている人がいた時に助けてあげなかった、その人のために祈ってあげなかった、自分は神の期待を裏切ることばかりしてきた。良いことをしなければならないとわかっていたのにしなかったのは、神がその力を与えて下さらなかったということで、その時既に神に見放されていたのだ、等々。

ヨハンネス老人が苦にしている罪とは、盗んだとか殺したとか姦淫したとか、そういう行為に出る重大なものではなく、心の中のレベルの問題でした。しかし、そのようなものでも、神は裁きの根拠にする。そこで牧師が、「あなたは私が会った人の誰よりも正直な人です。だから、あなたは他の誰よりも確実に天国に行けると牧師の私がはっきり言います」と言う。新米牧師は、老人を本当に励ますつもりでこの言葉を言ったのですが、効果は全く逆でした。老人は、「罪を裁く時、裁く者は他の人の罪と見比べて裁きを決めるものではない」と冷たく答えます。神は人間の行いを全部命の書に記録するのであり、今自分の書が開かれようとしている。そこに記されている罪について、神に申し開きなどできるわけがない。牧師はもう何も言えなくなって途方に暮れてしまいます。

ヨハンネス老人の苦悩は、これからこの世から退場する時、退場した瞬間父なるみ神にしっかりキャッチしてもらえるかどうか、もう確信が持てなくなってしまったことにあると言えます。どうして確信が持てなくなってしまったかというと、キャッチしてくれる方はどんな方なのか、聖書に基づいて罪を裁く方である、ということが、かつてないほどはっきりしてしまった。神はキャッチしてくれないと言うならば、自分のどんな罪が原因なのか?心の中の罪は行いの罪より重くはないと言って、それでキャッチしてもらえると安心して良いのか?新米牧師の論理はそういうことになるのですが、牧師の言うことは本当に神の御心を間違いなく代弁しているのか?神の御心と関係のない人間の都合で言っているのではないか?いずれにしても、神にキャッチしてもらえるかどうか、その心配や疑いが一切なくなる一番よい方法は、行為にせよ心の中にせよ、罪を一切犯さないことなのであるが、それは不可能だった。

このようにして、この世から旅立つ時、いよいよ自分を受け止めて下さる方が目の前に現れるという時が近づいて、さて本当に受け止めてもらえるのかどうか、不安が起きて確証が得られなくなってしまう原因に罪の自覚があると言えます。ヨハンネス老人は果たして救われるのでしょうか?

3.

 牧師が途方に暮れているところに、カトリーナという年老いた女性が到着します。幼馴染で若いころ同じ村に住んでいて一緒に聖書を学ぶこともしたという人で、別の村に引っ越した後はそこでかなり古い世代に属する牧師の下で聖書を学んだという人でした。以下はカトリーナとヨハンネスのやりとりの抜粋です。

 ヨハンネスがまた、自分は罪人だ、偉大な罪びとだ、と言うと、
カトリーナ「その通り。あなたは偉大な罪びとよ。しかし、イエス様はそれを遥かに上回って偉大な救い主なのよ。」
ヨハンネス「イエス様が偉大な救い主なのは、ある特定の人に対してだけなのさ。イエス様が救ってくれるがままに任せられる人に対してなのさ。俺の心は不純で悪に満ちてしまっている。」
カトリーナ「健康な人に医者は要らないのよ。要るのは病気の人なのよ。イエス様が来たのも、聖者を招くためではないわ。罪びとを招くためよ。」
ヨハンネス「改心しなければならないということなんだろう、カトリーナ。でも、俺にはその改心が不足しているんだ。」
カトリーナ「あなたに不足しているのは改心ではないわ。信仰よ!あなたは改心の道を何十年も歩んできたのよ!」
ヨハンネス「何十年その道を歩んできたのに、目的地に到達できなかったんだ!」
カトリーナ「ヨハンネス、私の質問に答えて。あなたは自分の気持ちとしては心を汚れのないものにしたいの?」
ヨハンネス「もちろんだとも。清くしたいんだ。この気持は神様も知っていると思う。」
カトリーナ「それなら、あなたの改心は真実だわ。あなたの改心には何も問題はないわ。問題は、あなたは信仰を見失ってしまったことよ。」
ヨハンネス「それじゃ、俺は何を信じなければならないんだ、カトリーナ?」
カトリーナ「あなたが信じなければならないのは、この神の御言葉よ。『自分の業に依り頼むことはせず、神から離れてしまった者を神の目に相応しい者に変えて下さる方を信じる者、この信仰を神は御自分の目に相応しいものとみて下さる。』今日の日までヨハンネス、あなたは自分の業を気にしすぎて、自分の心の中を一生懸命に見て来たのね。その結果、心の中には罪と貧しさしかないことがわかってしまったの。でも、それは神様があなたの目を聖霊の目薬ではっきり見えるようにしたから、真実が見えるようになったということなのよ。ヨハンネス、あなたの心の中に罪はあるの?」
ヨハンネス「もちろんだよ。たくさんあるよ。ありすぎるくらいあるよ。」
カトリーナ「これで、もうわかるでしょ。神様はあなたを見放していないということが。聖霊を持っている者だけが、自分の罪を見ることができるのよ。」
ヨハンネス「それじゃ、カトリーナ、俺の心が汚れていると言うのは、神様のなせる業だと言うのか?」
カトリーナ「あなたの心が汚れているというのは、神様の業ではないわ。それは、罪のなせる業でしょ。あなたが自分の心の汚れを見ることができるといこと、これが神様のなせる業よ。」
ヨハンネス「でも、どうして汚れのない心を得ることはできないんだ?」
カトリーナ「それは、あなたがイエス様を愛することができるようになるためなのよ。」
ヨハンネス「お前の言っている意味がわからないよ、カトリーナ。」
カトリーナ「はっきり言うわ、ヨハンネス。もしあなたが汚れのない心を持てて、そのおかげで天国行きの切符を獲得できたとすると、救い主は何のために私たちに送られたの?もし律法の掟を守ることで一人でも人間が救われるなら、イエス様は十字架で死ぬ必要はなかったんじゃないの?だけど、律法は満たして救われるためにあるのではなくて、神様の裁きと憎しみをはっきりさせるためにあるの。神様はこの神聖な掟をもって全ての人が救いに関して神様に何も偉そうなことが言えないようにしたのよ。この世全てが、恥辱に打ちのめされて呆然と立ち尽くすために。(ヨハンネスに促されて、カトリーナは続ける。)
この御言葉を覚えている?ヨハンネス、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊よ。』」
ヨハンネス「カトリーナ、あの方は本当に俺の汚れた心の中に住む罪をも取り除いて下さるのか?」
カトリーナ「その通りよ。イエス様は、あなたの身代わりになって十字架の上で死なれて、それで全ての罪を償って下さったのよ。」
ヨハンネス「でも、まだ俺の中に罪が残っているじゃないか?」
カトリーナ「そう残っているわ。使徒パウロの中に罪が残っていたのと同じくらいに残っているわ。パウロが何と言っていたか覚えていないの?『私は、自分という肉の存在の中に善いものが何もないということを知っている。善いことをしなければという意思はある。しかし、それを実現する力がないのだ。』」
ヨハンネス「俺のことを言っているみたいだ。」
カトリーナ「私たちのことを言っているんだし、他の全ての人のことも言っているんだわ。御言葉にもあるわ。『彼の受けた傷を通して、私たちは癒された。』イエス様は、私たちとこの世の罪の償いをして下さったのよ。」
ヨハンネス「カトリーナ、その通りだと思うよ。俺はこのことを信じるよ。もう一つ相応しい御言葉があったら、聞かせてくれないか。」
(カトリーナは聖書を取り出して、それを開いて読む。)
カトリーナ 「『全ての者が罪を犯した。そして神の栄光を失ってしまった。しかし、その全ての者が、神の恵みによりイエス・キリストの贖いの業を通して、神の目に相応しい者とされることを贈り物として得たのである。』」
ヨハンネス「アーメン。カトリーナ、このことを信じるよ。」
カトリーナ「今ここで、神様の業がなされたんだわ。さあ、あなたは牧師先生に聖餐式をお願いしなさい。」

 そして病床にて聖餐式がもたれました。ヨハンネスにとってこの地上での最後の聖餐式となりました。ところで、私たちの礼拝と聖餐式ですが、まず礼拝の初めに罪の告白と赦しの宣言があります。続く説教の部では神の御言葉を通して、神がいかに罪びとを御自分のもとに受けとめたく思って、それでイエス様をこの世に送って、救いの業を成し遂げて下さったことを明確にします。このように、聖餐式の前にも神の業が私たちにしっかり働くようにします。そして、聖餐式それ自体が、私たちの信仰を強めて育ててくれて、私たちがこの世を去る時、父なるみ神が私たちを間違いなくキャッチしてくれることを疑う必要がなくなるようにしてくれます。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、このように礼拝、特に聖餐式が私たちの救いにとって本当に大事なものであることを忘れないようにしましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン