2025年9月8日月曜日

永遠の命と隣人愛 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年7月13日(聖霊降臨後第四主日)スオミ教会

 

申命記30章9~14節

コロサイの信徒への手紙1章1~14節

ルカによる福音書10章25~37節

 

説教題「永遠の命と隣人愛」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日のイエス様のたとえの教え「善きサマリア人」は、聖書を読む人なら誰でも知っている教えの一つです。そこでイエス様は何を教えているでしょうか?まず、困っている人を助けてあげなければならないと教えているとわかります。盗賊に襲われて半殺しにあった人が道端に横たわっていました。そこをエルサレムの神殿の祭司と祭司に仕えるレビ人が通りかかりました。しかし、二人とも無視して行ってしまいました。神殿のエリートたちがそんなことをするのです。ところが、サマリア人という、当時ユダヤ民族が見下していた民族の人が走り寄って助けました。これを聞いた人はどう思ったでしょうか?見下していた人が正しいことをし、偉いと思っていた人がしなかった、あの民族はレベルが低い、立派な行動などとるはずはないと決めてかかるとしっぺ返しをくらうことになる。逆に自分の民族はレベルが高いのだと鼻を高くしていると遜らなければならなくなってしまうことになる。このようにイエス様の教えは、困っている人を助けることを教えると同時に異なる民族に対する偏見は愚かなことだと教えているように見えます。こういう教えは、ちょうど今、参院選挙の真っ最中の日本で各党の主張やSNSに溢れる声を聞く時に少し考えさせる材料になるかもしれません。

 

 ところが、イエス様の教えはもっと深いことも教えているのです。もし、困っている人を助けることが大事とか、偏見は捨てよ、という教えだけだとしたら、そういうことは別にキリスト教徒でなくても、他の宗教の人でも、また宗教を持たない無神論的なヒューマニズムの人でもわかります。イエス様が教えるもっと深いこととは何でしょうか?イエス様の教えの発端は、律法の専門家が、何をすれば永遠の命を得られるか?と聞いたことがありました。イエス様のたとえはこの問いに対する答えなのです。なので、このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いを忘れては理解出来ないのです。(2世紀から3世紀にかけて活躍した有名な神学者にオリゲネスという人がいます。彼はこのたとえについて有名な解釈を残しています。教会の説教でも牧師がよく取り上げたりします。詳しいことはここでは割愛しますが、オリゲネスの解釈は私から見たらイエス様が本当に言おうとしたことを飛躍して拡大解釈しているにしか見えません。もし、永遠の命に関する答えを明らかにしていれば解釈は妥当であると申しましょう。)

 

2.永遠の命

 

 このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いに対する答えとしてこのたとえがあることを忘れてはなりません。当時のユダヤ教社会では、どうしたら永遠の命を持てるかということが関心事になっていました。ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章に金持ちの青年がイエス様のもとに走って来て、何をすれば永遠の命を持てるでしょうか?と尋ねたことからも明らかです。また、イエス様が活動を始める前に洗礼者ヨハネが現われて、悔い改めよ、神の国は近づいた、と宣べ伝えると、大勢の人たちが洗礼を受けるためにヨハネのもとに集まってきました。これも永遠の命を得るためでした。当時、聖書に基づいて次のような考えが持たれていました。この世は神が創造して始まったが、始まりがあったように終わりもある、今ある天と地は新しい天と地に造り変えられる、その日は神の怒りの日であり裁きの日である、神に義と認められた者は怒りと裁きをクリアーできて新しい天と地のもとで永遠の命を持つことができるという考えです。人々はヨハネの洗礼でクリアーできるようになると思ったのです。ところがヨハネは自分の後に偉大な方が来られると言って、人々の心をイエス様に向けさせたのです。

 

 金持ちの青年の質問に対してイエス様はどう答えたでしょうか?まず、十戒の掟を守りなさいと言います。それに対して青年はそんなものは子供の時から守っている、まだ何が足りないのかと聞きます。イエス様は答えます。お前には足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に施せ、そして私について来なさい、と。金持ちの青年はそれが出来ず悲しみにくれて立ち去って行きました。

 

 今日の教えも同じです。律法の専門家は、何をすれば永遠の命を得られるのかと聞きました。それに対してイエス様は律法に何が書いてあるか、それをお前はどう理解しているかと聞きます。男の人は律法の専門家だけあって、十戒の教えを旧約聖書に基づいて二つの項目にまとめました。一つは、神を心を尽くし魂を尽くし力を尽くし理解力を尽くして愛せよ。これは申命記6章5節にあります。もう一つは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ。これはレビ記19章18節にあります。イエス様は専門家の答えを良しとし、その通りにすれば永遠の命を得られると言いました。ところが、専門家は自分が神の目に相応しい者であることを認めてもらおうとさらに聞きました(後注)。私の隣人とは誰のことか?と。なぜ、この質問が神の目に相応しい者であることを認めてもらうための質問だったのでしょうか?

 

 それは、レビ記19章を少し広く見るとわかります。そこでは隣人とは、ユダヤ民族に属する者であることが言われているのです。大体9節くらいから、ユダヤ民族に属する貧しい人たちを助けてあげろとか、盗んではいけないとか、嘘をついてはいけないとか、裁判は公平に行えとか、同じ民族に属する者を中傷してはいけないとか、そして18節で同じ民族に属する者に復讐してはいけない、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、が来ます。隣人とはユダヤ民族に属する者なのです。ただし33節を見ると、興味深いことにユダヤ民族の中に一緒に住む異民族の人たちにはユダヤ民族と同じように愛せよとあります。つまり、ユダヤ民族には属さない者にも隣人愛を行いなさいということです。これは、実際はどうだったでしょうか?イエス様の時代、ガリラヤ地方とユダヤ地方に挟まれたサマリア地方がありました。サマリア人は純粋なユダヤ民族ではないと見下されて隣人愛の相手とは見なされなかったのです。ユダヤ人にとって隣人とはやはり同胞が中心に考えられていたのです。

 

 律法の専門家は隣人=ユダヤ民族という一般的な理解を念頭において、イエス様に隣人とは誰かと聞いたのです。もし、イエス様がそれはユダヤ民族に属する者であると答えたら、しめたもの、専門家はきっと、はい、ちゃんとその通りにしています、と答えたでしょう。これが自分は神に相応しいと認めてもらうことでした。ところが、イエス様はたとえの中でレビ記19章の異民族に対する隣人愛をどんでん返しするように出したのです。ユダヤ民族の神殿エリートが傷ついた同胞を助けませんでした。このエリコに向かう途中で襲われた男の人は神殿のあるエルサレムから出発したので間違いなくユダヤ人です。傷ついたユダヤ人を助けたのは、ユダヤ民族が見下していた異民族のサマリア人だったのです。本当はユダヤ民族の方が異民族に隣人愛を行わなければならなかったのに、それが出来ずにいたところ、異民族の方がユダヤ人に隣人愛を行ったのです。ユダヤ人に隣人愛を行ったサマリア人がユダヤ人の隣人である、お前はこのサマリア人のようにしなければいけない、というのです。そうしなければ永遠の命は得られないというのです。律法の専門家は立ち往生してしまったでしょう。金持ちの青年が悲しみながら立ち去って行ったのと同じことが起こったのです。

 

 イエス様は一般的に愛に満ちた優しいお方、何でも言うこと願いごとを聞いてくれる神さまみたいな方(実際、神さまですが)という見方がされます。イエス様は本当は厳しい方なのです。思い出してみて下さい、十戒の第5の掟「汝、殺すなかれ」について、イエス様は人を殺していなくても心の中で罵ったり憎んだりしたら同罪であると教えました。第6の掟「汝、姦淫するなかれ」も、たとえ不倫をしていなくても淫らな目で異性を見たら同罪であると教えました。「貪るな」という第9と第10の掟も、実際に他人のものを盗んだり台無しにしなくても、心の中で自分のものにしたいとか台無しにしてやりたいと思ったら罪なのです。こういうふうに十戒の掟というのは、行いや言葉で悪をしなければ十分というものではなく、心の中もそうでなければならないというのが十戒を与えた神の意思なのです。イエス様は神のひとり子の立場にたって父の意思をそのように伝えたのです。

 

 さて、大変なことになりました。心の中まで問われたら神のみ前で潔癖な者などいなくなります。神の怒りと審判の日が来たら何も申し開きができません。神は全てお見通しです。イエス様、あんまりです、厳しすぎます、と言いたくなります。しかし、まさにここでイエス様が本当に愛のある方であることが明らかになるのです。イエス様は、神の怒りと審判の日に人間が絶体絶命にならないために、人間が受けてしまう罪の罰を全て自分で引き受けて下さったのです。それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は私たちの身代わりとなって神罰を受けて死なれたのでした。イエス様の厳しさと優しさは表裏一体なのです。厳しさがあるから優しさは自己犠牲の愛になるのです。ところで、事はイエス様の死で終わりませんでした。神の想像を絶する力で三日後に死から復活され、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、復活と永遠の命が待っている地点への道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは、私たちがこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いが自分のものになり、その人は罪を償ってもらったから罪を赦された者として神から見なされるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきが回復して復活と永遠の命に向かう道を進んで行くことになります。

 

 しかしながら、永遠の命への道を歩むようになったとは言っても、自分の内には神の意思に反する罪があることにいつも気づかされてしまいます。そこで自分を偽らず、罪があることを認めて、イエス様を救い主と信じます、私の罪を赦して下さい、と神に祈り願えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦すから、これからは気をつけなさい、と言って下さるのです。神が罪を赦すというのは、不問にするから新しくやり直しなさい、と言ってもらうことです。過ぎ去ったことを執念深く突っつきまわすことはしないということです。そういうわけで、キリスト信仰者の人生は罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。しかし、イエス様の厳しさと優しさが表裏一体で優しさが厳しさを上回っていたのと同じように、罪の自覚と赦しも表裏一体で赦しが自覚を上回っているのです。それで繰り返しの人生が可能なのです。そして、繰り返しの人生は罪から完全に解放される復活の日に終了します。

 

 このように永遠の命というのは、人間の力ではどうにもならないものなのです。神のひとり子の十字架と復活の業に全てお任せしないとだめなのです。それなのに、金持ちの青年や律法の専門家のように、人間が頑張って何かをすれば得られると考えてしまったら、イエス様が十字架にかけられて復活する必要はなくなってしまうのです。イエス様がこの世に贈られる必要もなくなってしまうのです。イエス様自体が必要ではなくなってしまうのです。

 

 金持ちの青年は失意のうちに立ち去り、律法の専門家はおそらくふてくされた立ち去ったでしょう。それは、その時点ではやむを得なかったと思います。なぜなら、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起こっていなかったからです。出来事の後、それを聞き知った二人は、永遠の命を得る決め手は自分たちにはない、神があのひとり子を用いて成し遂げて下さったことが全てだと信じるようになったことを願うばかりです。それは決して不可能ではありません。ファリサイ派のパウロだってイエス様を信じて受け入れたのですから。

 

3.隣人

 

 少し隣人についてみてみます。隣人と訳されるヘブライ語のレーアはもともとは仲間という意味でした。それなので先ほどのレビ記19章の中で使われると、どうしてもユダヤ民族を中心に考えがちになります。イエス様は、たとえをもって「隣人」のユダヤ民族中心の見方「同胞の隣人」を壊して「誰でも隣人」にしたのです。傷ついたユダヤ人の隣人になったのはサマリア人でした。二人の神殿エリートは同胞の隣人にはなれなくなってしまったのです。

 

 永遠の命は神の力によらなければ得られない、なのに人間の力で得られると勘違いする人たちがいたのでイエス様はそれが不可能であることを骨身に染みるように教えました。つまり、本当は出来ないのに出来るとする律法主義の矛盾を暴露したのです。イエス様のたとえでは律法主義の矛盾がもう一つ出てきます。律法主義が隣人をユダヤ民族に留めてしまっているという矛盾です。イエス様はたとえの中に、ファリサイ派ではなく、祭司とレビ人という神殿エリートを登場させました。レビ記21章を見ると、祭司はよほど近い親族でない限り遺体に触れてはならないという規定があります。二人の神殿エリートは道端に横たわっている同胞を見た時、この規定のゆえに、もし死んでいたら近寄ったら汚れてしまうと思ってそそくさと通り過ぎたのです。一方で、祭司は死体に触れてはいけないという掟がある。他方で、隣人を自分を愛するが如く愛せよという掟がある。さあ、どうしたらよいか?隣人愛は、神の意思を二つの大黒柱にまとめたものの一つです。もう一つの柱は神を全身全霊で愛せよでした。祭司は死体に触れるなという掟はこの大黒柱を前にしたら脇に退かなければならないのです。神殿エリートは何が主で何が従であるか本末転倒してしまったのです。まさに律法主義の矛盾です。

 

 このことは、安息日に病人を癒すのは罪でもなんでもないということと同じでした。イエス様は安息日にユダヤ教の宗教エリートたちの目の前でこれ見よがしに病人を癒してあげました。それは神が与えた安息日の掟を否定したのではありません。病気を治すとか命を守るとか緊急のことがない場合は安息日は守らなければならないことに変更はないからです。

 

 イエス様は今日のたとえの中に、祭司の汚れ規定が及ばない普通のユダヤ人を登場させませんでした。あえて異民族、しかもユダヤ人が軽蔑しているサマリア人を登場させました。そこに注目します。もし普通のユダヤ人に傷ついた同胞の世話をさせたら、隣人はユダヤ人のままです。しかし、サマリア人を登場させ、彼が傷ついたユダヤ人の隣人になりました。隣人の意味がまさにユダヤ民族中心から解放された瞬間です。隣人から民族の壁を取り払って「誰でも隣人」にしたのは、イエス・キリストの福音の趣旨と一致します。人間の力のおかげではなく、イエス様の十字架と復活の業のおかげとそれをその通りと信じる信仰のおかげで罪の償いと永遠の命が得られるというのがイエス・キリストの福音です。この福音は世界の全ての民族に向けられたものです。神はこの福音をどうぞ受け取って下さいと言って、全ての人間に提供して下さっているのです。

 

4.勧めと励まし

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、人を助けるというのは、キリスト信仰の場合、永遠の命と隣人愛の二つが土台にあることを忘れてはいけません。それが他の宗教やヒューマニズムの人助けと違う点です。キリスト信仰者にとって隣人愛とは、信仰者同士の場合、約束された永遠の命への道を歩めるように支え合うことです。まだ道の歩みに入っていない人たちに対しては、道に入れるように導き働きかけることが隣人愛です。人を助けることにはいろいろな形態があるのに、なぜ、永遠の命に至る道をしっかり歩めるようにすること、また、その道に入れるようにすることが助けになるのか?永遠の命を約束されたというのは、今の天と地が新しい天と地に取って代わる大変動の時、神の怒りと裁きをクリアーできるという確信を得られることです。それはとても大きな安心感を与えてくれます。この大きな安心感があれば、この世で困難や苦難に遭遇しても不安や心配に押しつぶされることはありません。なぜなら、大変動の時にある苦難や困難は今のこの世の苦難や困難よりも遥かに大きなもので、その時に大丈夫ならば今の時はもっと大丈夫だからです。このような不安や心配に押しつぶされないですむ安心感を得られるようにしてあげるのも立派な助けです。助けの中の助けです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)日本語訳では「自分を正当化しようとして」ですが、ギリシャ語のディカイオオ―は「自分を義とする」、つまり、「自分を神の目に相応しい者にする」ということです。律法主義の考えの人なので「律法を守っていることで自分を神の目に相応しい者にする」ということです。

2025年6月24日火曜日

聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし (吉村博明)

  

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年6月22日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会

 

イザヤ書65章1~9節

ガラテアの信徒への手紙3章23~29節

ルカによる福音書8章26~39節

 

説教題「聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、墓場を住みかにしていたと。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというような不気味な光景が思い浮かび上がるかもしれませんが、ここで言われる墓場は岩にくり抜いた墓穴があるところです。墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露をしのいでいたということです。イエス様がその男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名はレギオンと言いました。それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味する言葉です。つまりそれくらい沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。悪霊たちは男の人から追い出されると今度は豚の群れに入り、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。

 

 この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つです。ここで、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取ったり病気になったりする話は聖書によくあるし、キリスト教以外にも沢山あります。異常行動や病気をなくすために悪霊の追い出しということがあるわけです。しかし、それは現代社会には相応しくないと考えられます。現代では病気や異常行動の解決には医学的、精神医学的、心理学的な解決がはかられるからです。問題の原因は悪霊のとりつきにあるとして、それを追い出して解決しようとするのは前近代的と考えられます。それではイエス様の悪霊追い出しは前近代的なことで、今は医学的、精神医学的、心理学的に解決させるのが当然と言ったら、イエス様のやったことは私たちには意味のないことになります。意味がないばかりか、危険な考えを生み出すものとさえ見なされます。というのは、現代にも医学の力では解決できない問題は多くあり、その時、原因を悪霊のとりつきにあるとしてその追い出しで解決を得ようとする人もいるからです。その場合、誰が追い出しをするのかという問題がでてきます。そこにはいろいろな危険があります。でも、解決を求める人は藁にもすがる思いなので危険など二の次になります。

 

 今日の説教では、イエス様の悪霊追い出しは前近代的なことだと言って軽く見てはいけない、それは現代にも意味があるということを明らかにします。結論を先に言うと、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。聖礼典とは洗礼と聖餐式のことです。聖書の御言葉と聖礼典にそのような力が働いていることをわかるために、イエス様の悪霊追い出しを細かく分析することは大事です。今日はそのような分析を行います。

 

2.悪霊に取りつかれた男の人と神の旧約での約束

 

 本日と同じ出来事はマタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、マルコと今日のルカでは出来事の場所はゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域となっています。これは、イエス様が地上で活動した時は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していたのが、後にガダラに属したことによります。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「イエス様がおられた時あの崖はゲラサに属していた」という意味です。マタイがガダラと言うのは「イエス様が天に上げられた今はあの崖はガダラに属している」という意味です。いずれにしても同じ崖です。

 

 この他にも、3つの福音書の記述には違いがあります。しかし、根幹部分は3者とも共通しています。イエス様がガリラヤ湖の対岸に渡って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って群れは崖に突進して湖に飛び込んで溺れ死んでしまったということ、これがマルコ、マタイ、ルカの三者に共通しています。細かい点で違いが生じたのは、最初の目撃者の証言が言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりしたためです。しかし、付け足しや省略に付されない根幹部分があって、それが実際に起こった出来事を映し出しているということです。

 

 さて、今日の福音書の日課はルカなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。私たちの新共同訳では「ゲラサ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民です。ゲラサ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけてこの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していました。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族が汚れた動物と見なした豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。

 

 町の人たちの多数派が異邦人と考えられる理由は、豚の放牧以外にもあります。それは、町の人たちがイエス様の奇跡の業を見て彼に退去するように言ったことです。もし同じことがガリラヤ地方かユダヤ地方で起こったとしたら、人々はきっと預言者の到来だとかメシアの到来だとか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言ったでしょう。ところが、ゲラサの町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているに違いないと恐れたのです。彼らが旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待など持っていないことを示しています。

 

 それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?聖書の記述をよく見れば、ユダヤ人だったことが見えてきます。どうしてそんなことが言えるのかというと、イエス様は伝道の対象をイスラエルの民に絞っていたことに注目します。12人の弟子たちを伝道に派遣する時にこう言いました。異邦人の道に入るな、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け、と(マタイ10章5~6節)。それで、悪霊に取りつかれた男の人は、異邦人が多数派を占める地域で少数派として暮らすユダヤ人とみることができるのです。まさにイスラエルの家の失われた羊なのです。イエス様の伝道の主眼は、旧約聖書を受け継ぐイスラエルの民を相手に天地創造の神について正確に教え、宗教エリートたちの誤りを正し、来るべき日に到来する神の国について教えることです。もちろん、イエス様の十字架と復活の業は、ユダヤ民族だけでなく全ての民族が神の国に迎え入れられるようにするためになされました。しかし、それはまだ先のことです。エルサレムでの受難の道に入る前のイエス様の伝道はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。

 

 そう言うと、イエス様はローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたりして異邦人も相手にしているじゃないか、と言われるでしょう。しかし、百人隊長と女性の場合は、イエス様が彼らとのやり取りを通じて、異邦人にもこんなに深い信仰があるのだととても驚き感心したことが癒しの実現に結びついています。つまり、二人の場合は例外的なことだったのです。本日の悪霊にとりつかれた男の人は、そういう異邦人がどうのこうのという問題は現れず、ストレートに癒しの対象になりました。それでユダヤ人だったと言えるのです。

 

 悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えて下さいとお願いします。しかし、イエス様は家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の人たちに、旧約聖書に預言されたことがいよいよ実現し始めたことを伝えよと命じたのでした。ところが男の人は家に行くどころか、イエス様を拒否したゲラサの人々に伝え始めたのです。これは、イエス様の伝道は旧約聖書を受け継ぐユダヤ民族を相手にするものとして始まったのであるが、救いはユダヤ民族を超えて全ての民族に及ぶことが伝道の本質部分にあったことを示しています。この伝道の本質について既にイザヤ書49章6節で言われていました。そこで神は主の僕、つまりイエス様に対して次のように言われました。お前はヤコブの諸部族を復興させ各地に散らばったイスラエルの残存者を連れ帰らせる役目を負っているが、それでは不十分である、私はお前を全ての国民の光にして救いが全世界に及ぶようにすると。見かけはユダヤ民族に限った伝道でも、それを行うことで世界大の伝道も進むというのが神の構想なのです。

 

3.聖書の御言葉と聖礼典があればこわいものなし

 

 次に、イエス様が悪霊を追い出した時に用いたのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということを見ていきましょう。男の人が癒されるプロセスをよく見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったのではありません。それはあり得えないことです。なぜなら、悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力がある方だとわかっていて恐れているからです。何を好んで自分から進んで彼のもとに行く必要があるでしょうか?それなのに男の人はイエス様の前に行きました。これはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方を見ると、舟から上陸したイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明白です。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどうやってイエス様の前に行くことができたのでしょうか?

 

  それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されようとも、イエス様に会う意志があれば、それを悪霊は妨げられない、そのような悪霊に逆らう力がイエス様の方から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、あれは今やガリラヤ全土で預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と誰かが叫んだのを聞いたのかもしれません。あるいは、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊が動揺するのを男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していけばいくほど悪霊の動揺はどんどん大きくなり、悪霊の方も男の人がイエス様を目指して行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということではないかと思います。どちらにしても確実に言えることは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊の嫌がることをする意志さえ持てば、邪魔する力は弱まりだし、その意志にしがみついてさえいれば、あとは神の力が勢いを増して、あれよあれよとイエス様のもとに行けるということです。

 

 さて、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は放牧中の豚にして下さいと。どうして豚を選んだかというと、こういうことだと思います。悪霊が人間にとりついても人間がイエス様のもとに行こうとする意志を持てば、最初どんなに小さな意志でも、イエス様に方向付けられたら最後、悪霊がもう何もなしえなくなる位の大きな意志になるのです。悪霊も、もう人間にとりついても無駄だと観念したのでしょう。豚だったらイエス様のもとに行こうとする意志など持たないだろうから楽だ、パニックに陥ることもないということだったのでしょう。そしてどうなったか?案の定、豚は一直線に自己破滅に突き進んでしまいました。

 

 この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のようにどんなに小さくとも破滅から助かろうとする意志があって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔するものが次々になぎ倒されていくような神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば代わりに神の力が働いてくれてイエス様のもとに行けるのです。

 

 しかしながら、私たちの場合は、悪霊追い出しの奇跡をする生身のイエス様が身近におられません。今イエス様は再臨の日まで天の父なるみ神の右におられるからです。しかし、心配には及びません。聖書を繙けばイエス様の教えと業が数多く証言されています。あわせて十字架と復活の業を成し遂げられたことも証言されています。目撃者は目で見た通りに耳で聞いた通りに信じました。私たちの場合は、聖書に記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。そうすることで、イエス様が十字架で果たしてくれた人間の罪の償いがこの私にとっての償いになり、罪を償ってもらったのこの私は神から罪を赦された者として見なされて創造主の神と結びつきを持って生き始めます。本日の使徒書の日課ガラテア3章27節でパウロは、洗礼を受けた者はキリストを衣服のように身に纏っているのだと言います。神は私たちが纏っているキリストをご覧になるので、私たちのことを罪を償われて赦された者と見て下さるのです。悪霊はイエス様の前で動揺しパニック状態になりました。私たちは身に纏っているイエス様を悪霊に示してあげれば、悪霊はあの時と同じようにパニックに陥るのです。

 

4.勧めと励まし

 

 悪霊が目指すことは、キリスト信仰者が身に纏っているイエス様の衣を手放させて、人間と神との結びつきを断ち切ることです。しかし、神は私たちが衣をしっかり纏えるように、神との結びつきを保てるように聖書の御言葉と聖礼典を私たちに与えて下さいました。聖書の御言葉を通してイエス様が救い主であることはその通りですという心があれば、それは洗礼を通して与えられた聖霊がその心の持ち主に働いている証拠です。悪霊が取りつく島などありません。その上、聖餐を受ければ、パンとぶどう酒を介してイエス様そのものを自分の内に取り込むことになり、受けるごとにイエス様との結びつきは強まります。イエス様の衣がしっかり纏われている状態になります。

 

 主にある兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰者が聖書の御言葉と聖礼典に密接に結びつけばつくほど悪霊が忌み嫌うことをしていることになり、悪霊を無力にすることになるのです。まさにこれが、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年6月2日月曜日

イエス様の昇天 ― なぜこの世を生きるのかという問いに対するキリスト信仰者の答えはそこに (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士) 


スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2025年6月1日 昇天主日

 

使徒言行録1章1-11節

エフェソの信徒への手紙1章15-23節

ルカによる福音書24章44-53節

 

説教題 「イエス様の昇天 ― なぜこの世を生きるのかという問いに対するキリスト信仰者の答えはそこに」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.        はじめに

 

 イエス様は天地創造の神の想像を絶する力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で弟子たちの目の前で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。今日は昇天日の直近の主日で「昇天後主日」とも呼ばれます。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天のみ神のもとから送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日がそれを記念する日です。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 

 イエス様の昇天は私たちの理解を超える出来事です。日本語で「天国に行った」と言うと、普通は「死んでしまった」と理解します。しかし、イエス様は生きたまま天に上げられたのです。ただし、生きたままとは言っても、死からの復活を遂げたので普通の肉体ではない復活の体をお持ちでした。復活の体を持つというのは死を踏み越える命、永遠の命を持つということです。イエス様はそのような者として天の父なるみ神のもとに上げられたのでした。

 

 イエス様の昇天は私たちの理解を超える出来事ですが、いろいろ考えていくと、なぜこの世を生きるのかという問いに対してキリスト信仰者はどう答えるかを明らかにしてくれます。今日はそのことを見ていきましょう。

 

2.昇天とはいかなる現象か?

 

 最初に昇天とはいかなる現象かをみてみます。以前にもお教えしましたが、これは極めて聖書的な現象です。大事なことなので復習しておきます。

 

 新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(1章9節)。これを読むと、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていくか、ドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実のものと思いません。イエス様の昇天を同じようにイメージしてしまったら、誰も真面目に受け止めないでしょう。

 

 そこで、ギリシャ語の原文を見てみます。雲は上空でイエス様を覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲に類する現象がイエス様を運び去ってしまったのです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいるイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みにフィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまったという理解を与えてしまいます。

 

 聖書には旧約新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。モーセが神から掟を授かったシナイ山の雲しかり、イスラエルの民が運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様が高い山の上で姿が変わった時も雲が現れて神の声が響き渡りました。また、イエス様は裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると予告しました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言います。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨すると。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来るということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天は聖書的な出来事の一つなのです。加えて、冒頭で申し上げたように、イエス様の体は復活の体でした。復活後のイエス様は空間移動が自由にでき食事もするという天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主の神と同質な方なので天使以上の方です。体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だった、そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

 

3.天の御国とは?

 

 これで、イエス様の昇天は聖書的な出来事、現象であるとわかりました。次に、天の御国について考えてみます。天に上げられたイエス様は今、父なる神の右に座している、と毎週キリスト教会の礼拝の信仰告白の部で唱えられます。私たちもこの説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのでしょうか?

 

 これも毎年述べていることですが、人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数のロケットやスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても恐らく見つからないのではと思います。

 

 なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰と全く別世界のものだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足を使って確認したり、長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っていることはこうした計測確認できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして、し終えることなどできるでしょうか?

 

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えたことに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、この現実の世界は森羅万象の一部分にしか過ぎないという位に広大な森羅万象を見据えるのが信仰です。天の御国もこの現実の世界を超えたものです。

 

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界が森羅万象の全てだと言うことも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。

 

 ところがキリスト信仰者は、自身も含め現実の世界とそこにあるものは全てこの現実の世界の外側におられる創造主に造られたと見ます。なので、創造主と結びついていれば、命と人生はこの現実の世界の中だけにとどまらないと考えます。皆さんご存じのように聖書には終末論と新創造論があります。この現実の世界は始まりがあったように終わりもある、その時は新しい天と地に再創造される、その時に神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられると命と人生がまた続いていくと考えます。このようにキリスト信仰では、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがるという死生観になります。

 

 日本では普通、この世の人生が終わると、天国にしろ極楽浄土にしろ別のところに移動すると考えられます。死んですぐそこに到達すると考える人もいれば、33年くらいかかると言う人もいます。どっちにしても、あの世とこの世は同時に存在しています。なので、この世を去った人はあちら側からこちら側を見ているというイメージがもたれます。

 

 ところがキリスト信仰では事情が全く異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰には終末論と新創造論があります。今はこの現実の世界の外側にある神の国がその時に唯一の国として現れます。黙示録21章では「下って来る」と言われます。そのため、今の世と次に到来する世は同時並行ではありません。次の世が到来する時、今の世はなくなっているのです。それじゃ、到来する前に死んでしまったらどうなるの?と聞かれます。答えはキリスト信仰に特異な復活の信仰です。到来する前に亡くなった人たちは復活の目覚めの日まで神のみぞ知るところで静かに眠っているのです。ただ、聖書をよく見ると、復活の日を待たずして天のみ神のもとに上げられた人たちもいます。しかし、それは例外で基本は復活の日まで眠ることです。イエス様もパウロも死んだ人のことを「眠っている」と言ったのはそのためです。それなので、亡くなった方が起きていて地上の私たちを見守ってくれるというイメージは復活の信仰を持つキリスト信仰者には起きないのです。私たちを見守るのは死んだ人の霊ではなく天地創造の神です。神はかの日に眠れる者を起こして復活させて懐かしい人たちとの再会を果たして下さるのです。

 

4.今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる命と人生

 

 このようにキリスト信仰では、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがるという死生観になります。この死生観に立つキリスト信仰者は、どうして神はひとり子を私たちに贈って下さったかが分かります。それは、私たちの命と人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。人間が今のこの世と次に到来する世にまたがる命と人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。命と人生が二つの世にまたがっているということは、本日の使徒書のエフェソ1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。

 

 それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が二つの世にまたがる命と人生を持てるようになるのでしょうか?人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の命と人生は持てませんでした。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に反する罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するためにひとり子を贈って彼に大仕事をさせたのです。

 

 イエス様は人間に宿る罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を全部受けられました。罪の償いを人間に代わって果たして下さったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。そこで人間が、ああ、イエス様は私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去る時も神との結びつきを持って去り、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世とこの次に到来する世にまたがる大きな命と人生を持てるようになったのです。

 

5.勧めと励まし

 

 このように神は私たちが大きな命と人生を持てるようにして下さいました。本日の使徒書エフェソ1章でパウロはそれが保証済みであることを述べています。最後にそのことを見ておきましょう。

 

 まず、神には十分な力があることが言われます。一度死んだ人間を復活させることと、その者を天のみ神の御許に引き上げることは、まずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーを要することが言われます(19~21節)。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つの異なる言葉で言い表します(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。エネルギーという言葉も2回(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も出てきます。このようにパウロはこの想像を絶する莫大なエネルギーを何とか人間の言葉で描写しようと苦労しているのです。新共同訳は「力」という言葉を2回しか出さず、彼の苦労が見えません。とにかく死者を復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主の神はそれをお持ちであるということが言われているのです。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというのです。

 

 ところがもっと肝心なことが言われます。神はこれと全く同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者たちにも及ぼされると言うのです(19節)。キリスト信仰者も将来、かつてのイエス様と同じように神の莫大な力を及ぼされて復活を遂げて神の御許に上げられるというのです。これを聞いたらハレルヤ!と叫ばずにはいられなくなるのではないでしょうか?

 

 神が莫大な力を及ぼしてあげようと待機していることに加えて、キリスト信仰者は道の歩みにおいても間違いなく守られていることもエフェソ1章からわかります。パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。ここで言われる「教会」とは天の御国に向かう道に置かれて、それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。それが「キリストの体」とも言われるのです。

 

 その体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると同じ体の部分である私たち信仰者もこの世の権力や霊的な力を足蹴にしている側にいるはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている私たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまいます。イエス様が罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまず神の意思に沿うことも力不足で及ばず、死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝っているイエス様に繋がっている信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 

 それは、イエス様を頭としても体の方はまだこの世の中にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世は、命と人生は全部ここで終わりだよ、二つになんかまたがっていないよ、と言って私たちの目を曇らせます。私たちが神に背を向けるように、神との結びつきを見失うようにと、そういう力が働いています。これらは既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらはイエス様が再臨される日に全て消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の莫大な力が私たち信仰者にも働き、イエス・キリストの体は全部が神の国の中に置かれることになります。

 

 そういうわけで、イエス様の昇天から再臨の日までの間の時代を生きるキリスト信仰者は二つの相反する現実の中で生きることになります。一方で全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられる現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。

 

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

 攻め立てられてはいるが守られている、守られてはいるが攻め立てられる、これがキリスト信仰者の現実です。しかし、守られていることの方が攻め立てられることをはるかに上回っています。なぜなら、私たちが部分として繋がっているこのキリストの体はやがて神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているからです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。

 

 以上から、キリスト信仰者は、なぜこの世を生きるのかと問われたら、答えは明快です。私は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれたからです、神はその旅路を守って下さるからです、これが答えです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

 

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。

 

 

2025年5月26日月曜日

イエス・キリストのシャーローム (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年5月25日復活後第六主日 スオミ教会

 

使徒言行録16章9-15節

ヨハネの黙示録21章10、22節-22章5節

ヨハネによる福音書14章23-29節

 

説教題

イエス・キリストのシャーローム

שלומ יהושע משיח

Η ειρηνη Ιησου Χριστου

            

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は戦争がない状態と理解されます。今私たちはウクライナやガザの戦争が一日も早く終わるようにと願い毎日祈っています。ところが世界には他にも武力衝突があったりもうすぐ起きそうなところもあったりして世界から平和が失われていく状況があります。また他国の攻撃に備えるためと言って軍備の増強があちこちで進められています。そんな時世にイエス様が平和を与えると言っても空しく聞こえてしまうかもしれません。

 

 ここでイエス様が与えると言った「平和」について立ち止まって考えてみます。イエス様は「私の与える平和」と言い、この世が与える平和とは違うと言います。イエス様が与える平和とはどんな平和なのでしょうか?イエス様はまた、自分の平和を与える時、この世が与えるような仕方では与えないと言います。イエス様はどのような仕方で平和を与えて下さるのでしょうか?

 

 このことについて宗教改革のルターが上手に教えています。以前にも紹介したことですが、要点だけ復習すると、この世が与える平和とは外面的に害悪がない状態のことである、イエス様が与える平和とは外面的にはいろんな害悪、疫病とか敵、貧困とか罪や死それに悪魔といった害悪が私たちに襲い掛かって来ても失われない平和である。この平和を頂くと、心は外面的な不幸に左右されないばかりか、不幸の時の方がかえって勇気と喜びが増し加わる。まさに使徒パウロがフィリピ4章7節で言うような「人知を超えた神の平和」です。

 

 このようにルターは、外面的には平和がなく不幸や害悪があっても内面的にはそんなことに動じない平和があるというのです。こんなことを聞くと、「心頭滅却すれば火もまた涼し」みたいだ、キリスト教と禅仏教には共通点があるなどと言い出す人がでるかもしれません。しかし、共通点はありません。「心頭滅却」の方は苦難や苦痛に遭遇しても心を無にすれば苦しみを感じなくなるという意味ですが、キリスト信仰の方は心を無にしません。全く逆です。神から頂くものを心で受け取って受け取ってとにかく受け取って、それで心を一杯にして苦しみに埋没しなくなる、そしてしまいには苦しみを踏みつぶして前に進んでいくということです。それなので、イエス様が与える平和を理解しようとしたら、まず神から頂くものは何かがわかってそれで心を満たさないといけません。以前の説教で今日の聖句を扱った時、イエス様が与える平和とは外面的な平和が失われても揺るがない内面的な心の平安であるとお教えしました。今回も同じ内容のことをお話ししますが、少し角度を変えて見ていきます。

 

2.シャロームの観点

 

 本日のイエス様の言葉が書かれているヨハネ福音書は古代ギリシャ語で書かれています。イエス様が言われる「平和」はエイレーネ―という言葉です。ただし、イエス様が弟子たちと会話した時の言葉はアラム語という言葉でした。ギリシャ語のエイレーネ―の元にあるアラム語の言葉は間違いなくシェラームでしょう。これは言うまでもなく、ヘブライ語のシャーロームから来ています。イエス様の時代、ヘブライ語は(後に旧約聖書を構成する)神聖な書物の書き言葉で、律法学者とかファリサイ派のようなユダヤ教社会の知識人エリートが判読できる言葉でした。一般の人はアラム語を話して生活していました。アラム語は文字はヘブライ語と同じ文字を使いますが、文法は古代シリア語に近いのでヘブライ語とは異なる言語です。

 

 さて、ヘブライ語のシャーロームですが、「平和」の他にもいろんな意味があります。辞書(HolladyのConcise)をみれば、健全な状態、無傷な状態、欠けるものがない状態、繁栄とか成功という意味があります。平和の意味もつまるところ、国と国、人と人との関係がそういう健全な状態、無傷な状態、繁栄した状態になるということです。アラム語のシェラームは挨拶言葉としても用いられるようになります(エズラ4章17節、5章7節、ダニエル3章31節、6章26節)。ヘブライ語のシャーロームも挨拶言葉になりました。「あなたに平和がありますように」という挨拶は、「あなたが健全な状態、無傷な状態でありますように、あなたに繁栄がありますように」という意味を持ちます。ここで大事なことは、これらの望ましいシャーローム、シェラームは、みな神から与えられるということです。それで挨拶は、神があなたを顧みてこれらの善いものをお与えくださいますように、という意味になるのです。

 

 そこで、イエス様が与えると言った平和、シェラーム、シャーロームとはどんなものなのでしょうか?この世が与えるようには与えないのなら、どのように与えるのか?シャーロームが健全、無傷、繁栄、成功を意味し、もしそれらが揃っていれば、シャーロームがあることになります。神が顧みて下さったと思うことができます。ところが、もし、それらがなかったらどうなるでしょう?病気になったり、傷がついたり、失敗したり、没落してしまったら、シャーロームではなくなってしまう、それは神から見捨てられてしまったことを意味するのか?ここで、ルターが教えたことを思い出します。ルターは、外面的に害悪があって平和が失われた状態でも、内面的には失われない平和がある、そのような平和があれば、外面的な厳しい状態に立ち向かっていける、そういう平和をイエス様は与えると教えるのです。健全、無傷、繁栄、成功はもちろん神が与えてくれるものです。しかし、それらがなくなってしまったら、それは神から見捨てられた証拠だなどと言ってしまったら、シャーロームを神から切り離してこの世が与えるものに貶めてしまうことになるのです。イエス様は、普通に考えたら健全、無傷、繁栄、成功はないのに、実はそれらはあるというシャーロームを与えると言われるのです。それで、この世が与えるようには与えないと言われるのです。イエス様が与えるシャーロームとはどのようなものなのでしょうか?

 

3.神とのシャーローム

 

 イエス様が弟子たちにシャーロームの約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。その後で十字架の出来事が起こり、その三日後に死からの復活が起こりました。イエス様が神の力によって復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間が神から罪の罰を受けないで済むように、神のひとり子が身代わりになって受けて下さったということです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになれるのは、神がイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたからです。

 

 このようにイエス様の十字架の死と死からの復活は、神がひとり子を用いて人間に自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の出来事が起きて人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が入り込んで結びつきは失われてしまいました。神の神聖さとは罪を焼き尽くさずにはおかないものだからです。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神との関係が健全・無傷でなくなり、没落と失敗になってシャーロームがなくなったのです。神と人間は敵対関係に陥ったのでした。

 

 しかし、神はひとり子を用いて人間が失ったものを回復する道を開いたのでした。人間はこの神の救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当にメシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのはあの時代の人たちだけでなく後世を生きる私たちにも向けられているんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを受けられ神との結びつきを回復するのです。神との結びつきが回復すると今度は、復活した主が切り開いてくれた道、死を超える永遠の命への道に私たちは置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと導きを与えて下さるということです。この世から去った後も、復活の日に目覚めさせてくれて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。このように神との結びつきを回復した人は神との関係が無傷な状態、無欠な状態、繁栄した状態、成功した状態になるのです。神との関係がシャーロームになるのです。まさに使徒パウロがローマ5章1節で「主イエス・キリストによって神との間に平和シャーロームを得ている」と言っている通りです。そのシャーロームはイエス様が成し遂げた十字架と復活の業を心で受け取ることで得られました。だから、イエス様が与えるシャロームなのです。この世が与えることができないシャーロームなのです。

 

4.失われないシャローム

 

 しかしながら、私たちが生きているこの世というところは、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力が沢山働いています。例えば、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者と言えども、内側には神の意思に反する罪が残っています。さすがにそれを行為に出して犯すことはしなくても、言葉に出してしまったり、心の中で思い描いたりしてしまいます。まさにその時、お前は神の前では失格者だ、赦されたなんていい気でいるのもそれまでだ、などと糾弾する者がいます。言うまでもなく悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて自覚を失意と絶望に増幅させます。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。ヘブライ語の言葉サタンには非難する者、告発する者という意味があります。文字通り、悪魔は私たちを神の前で告発するのです。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われました(14章26節)。

 

 私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて私たちを責めるようになっても、聖霊は神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエスの十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエスを救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです。」すかさず今度は私たちに向かって言われます。「心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているんですよ!」洗礼を通して聖霊を受けた私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた父なるみ神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい。」その時、私たちは安堵と感謝に満たされて、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正すでしょう。本日の福音書でイエス様が言われるように、彼を愛する者は彼の言われたことを守ることが本当のことになる瞬間です。キリスト信仰者は罪の自覚と告白と赦しを受けることを繰り返すことで、神との関係がシャーロームであることがますます真理になっていくのです。

 

 内に残る罪の他に、もう一つキリスト信仰者から神との結びつきを失わせようとするものがあります。私たちに何か神の意思に反することがあったわけではないのに苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいと思ってはいないのではないか?という疑いが生じてきます。一体自分に何の落ち度があったのかと神に対して非難がましくなります。

 

 このようなことはヨブ記の主人公ヨブにもみられました。神の御心に適う正しく良い人間でいたのにありとあらゆる不幸が襲い掛かってきたら、正しく良い人間でいることに何の意味があるというのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところでたたみかけるように問いかけます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。私は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは私が造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、お前たち人間の知恵ではとても把握しきれない仕方で私の意思が働いている。なので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味ということにはならない。人間の知恵では把握できない深いことがある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

 

 神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて眠れる者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなことが出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかかり、復活されれたではありませんか!イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪を忘れてやる、過去のことは不問にする、新しく生きなさい、と言って下さるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで満足というような薄情な傍観者ではありません。神は、人間が自分との結びつきを回復して復活の日に無事に送り届けようと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをされたのです。なので、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもその道をしっかり歩めるように支援する責任があるのです。神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえない以上はそうなのです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も祈りも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援の形です。

 

 このようにイエス様を救い主と信じる信仰に留まり、罪の赦しのお恵みに留まって進んで行けば、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく見捨てられたなどということはありません。境遇を神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度に考えたら、シャーロームはこの世が与えるものになってしまいます。そうではありません。イエス様の成し遂げて下さった業のおかげと、それを心で受け取る信仰のおかげの二つのおかげで、私たちには神とシャーロームの関係があるのです。私たちの周りでこの世が与えるシャーロームが崩れ落ちても、イエス様が与えるシャーロームは最後まで残るのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン