2025年2月4日火曜日

肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きれば大丈夫 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年2月2日顕現節第四主日 スオミ教会

 

エレミア書1章4-10節

コリントの信徒への第一の手紙13章1-13節

ルカによる福音書4章21-30節

 

説教題 「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きれば大丈夫」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の説教は先週の続きです。イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読と説き明かしを担当しました。イエス様はイザヤ書61章の最初の部分を朗読した時、「目の見えない人がみえるようになる」という42章7節の文を挿入しました。自分が人間の信仰の目を開く者であることを知らせるためにそうしたのです。信仰の目とは、天地創造の神の意思が見える目です。神が万物と私たち人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えた方であること、その神が罪のゆえに自分との結びつきを失ってしまった人間がまた結びつきを持てるようにとひとり子イエス様を贈って下さったこと、そのイエス様が十字架の上で自分を犠牲にして神と人間の結びつきを取り戻して下さったこと、これらのことが見えて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると神との結びつきを持ててこの世と次に到来する世の二つの世を生きられるようになるのです。

 

 とは言っても、十字架と復活の出来事が起きる前ではこのような信仰の目を人々に開くことはなかなか出来ません。そのかわりイエス様は、盲目の人たちの肉眼の目を開ける奇跡の業を行いました。そうすることで人々に自分は信仰の目を開ける力があることを比喩的に知らしめたのです。人々も、旧約聖書に言われる目の開きは肉眼のことではなく信仰の目であることを十字架と復活の出来事で初めてわかるようになります。

 

 このようにイエス様はナザレの会堂で自分の使命を明らかにするように聖書を朗読したのです。そこまでが先週の内容でした。その後で何が起きたでしょうか?

 

2.肉眼の目に留まってしまったナザレの人たち

 

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。会堂の人たちの視線が一斉にイエス様に注がれます。イエス様が口を開きます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この後でイエス様の説き明かしが続くのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。ただ22節をみると、会衆みんながイエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、彼が説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したと宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。

 

 ところが、ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。この訳では、どうしてこの後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという転回になってしまったのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の説き明かしを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。みなイエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いてはいるが、あれはヨセフの子ではないか、大工ではないか、などと言い始めたのです。この方は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなは知っている、大工じゃないか、ということが真実を遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様が肉眼に映る像を超えてメシアに映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。

 

 イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡の業でも行わない限り信じないということもわかりました。カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみせろ、そうしたら信じてやろう、会衆はそう言いたくて仕方がないと見破りました。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、後にイエス様が十字架に架けられた時、彼を信じない人たちが口にすることになる言葉でした。

 

 しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことを控えます。(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の御言葉とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラム王国の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異邦人でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異邦人に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じと言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った王国と同じ立場にある、というのです。

 

 これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。

 

3.ゴルゴタの十字架を見る信仰の目

 

 イエス様はなぜナザレの人たちを激怒させるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導いてあげてもよかったのではないでしょうか?先ほど申しましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験することを出発点にして信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります(同6章26節)。

 

 信仰とは、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことをその通りだと信じられることです。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るということもあります。しかし、注意しなければいけないのは、信仰が肉眼に頼るものにならないことです。肉眼に頼るものになってしまうと、奇跡の目撃や体験がなくなったら信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。

 

 それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指さなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反する罪があるなどと認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘したのです。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。そうせずに、自分たちをかつて神の罰を受けて滅亡した王国と一緒くたにするとは何事か、といきり立ってしまったのです。

 

 このことから明らかなように、信仰の目を持てて、その目でイエス様を見ることができるかどうかは、自分に神の意思に反する罪があることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるでしょう。しかし、自分を神の意志に照らし合わせて見るというのは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪までを問うものです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになったために人間は死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を内に宿していることの表われなのです。

 

 しかしながら、父なるみ神は、人間がたとえ死んでも復活の日に目覚めさせて造り主である自分の許に戻れるようにしてあげよう、そしてこの世で生きている間は復活に至る道を無事に歩むことが出来るようにしてあげよう、ということでひとり子をこの世に贈ったのです。それで、神罰を全て彼に受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架で起きたことです。人間は、イエス様の身代わりの罰受けが自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、その瞬間、イエス様が果たして下さった罪の償いは本当にその人のものになります。この時、その人は信仰の目を持っています。

 

 ところで、人間は信仰の目を持つと今度は、かえって自分の内に神の意思の反しようとする罪があるのがよく見えてきます。その時内なる信仰の戦いが始まります。キリスト信仰者が内にある罪に気づいて自分に失望したり神に背を向けたりすると悪魔がどす黒い勝どき声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれを意に介せず、目を一直線にゴルゴタの丘の十字架に向かって注ぎます。そこにかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時、私たちは息をのみ十字架の前に首を垂れます。同時に悪魔は失神して倒れ、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように果てしなく澄み渡り冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦された。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが神の意思に沿うように生きよういう心、神を全身全霊で愛そうとする心と隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。

 

4.勧めと励まし

 

 以上、信仰の目を持つと自分の罪が見るようになるが、罪の赦しの恵みに留まれば大丈夫、何も心配はないことを見てきました。これと同じことが本日の使徒書の日課、第一コリント13章でも言われていています。終わりにそのことを見ておこうと思います。

 

 第一コリント13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖句の一つです。ここで言われる、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、これらは、夫婦間だけでなく人間関係一般の理想です。これら一つ一つに照らし合わせてみたら、今の世はなんと愛から遠ざかってしまっているかと思わされるのではないでしょうか?

 

 「愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える」というのはどういうことでしょうか?「全てを信じる」とは、まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語(παντα)は「全てにおいて」という意味も持ち、ここはそれで訳すべきでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」とは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」も、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされてもイエス様のおかげで大丈夫、神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは、どんなことが起きようとも、忍耐し高ぶらない嫉妬しない等々の愛を持つということです。こうして見ると、愛を持てるかどうかは、全てにおいて信じられるか希望を失わないかどうかに関わってくることが見えてきます。

 

 どうやって「全てにおいて信じられ、希望を失わない」でいられるのか?パウロはそれを8節から永遠の視点で語ります。今の世が終わって、今の天と地に替わる新しい天と地が創造されて神の御国が現れる。その時、預言や異言という今の世に現れる聖霊の賜物はなくなってしまう。神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは無用になってしまうのです。

 

 ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違い、最初から完全で全体的なものだからです。しかしながら、それは神の側で完全かつ全体的なもので、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられる時、この自分が愛を完全かつ全体的に持てていることを目にするのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ、これらはかつていつも部分的、一時的にしか持てず、持てたと思いきや、すぐ消えてしまうの繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。自分が愛そのものになってしまっているのです。

 

 かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはまさにこのことです。当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった、愛は自分にはっきりと明瞭に現れるようになった。それでパウロは次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知ることになる」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。

 

 それでは、「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。

 

「神がこの世で私のことをはっきり知っていたように、私も神の御国で愛を体現していることをはっきり知るようになる。」

 

 これは変です。私は前の世では愛を体現していませんでした。体現しているのは今、神の御国でです。なのに神は、私が前の世でも愛を体現していたと見て下さったと言うのです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。

 

 「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたが前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さったことです。私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしました。高ぶったり傲慢になったりしました。」

 

そこで神は答えられます。

 

「わが子よ。お前は洗礼を受けてイエスの神聖な白い衣を身に纏った。それからは衣を手離さないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。お前が手離さないように握りしめた純白の衣の重みでお前の内なる罪は日々圧搾されてお前を支配する力を失っていたのだ。イエスを救い主と信じる信仰に生きたお前は、聖餐のパンと葡萄酒で衣を手離さないように握りしめる力を得ていたのだ。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者と前の世で知っていた、と言ったのだ。」

 

 パウロはフィリピ1章6節で次にように述べます。

 

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」

 

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言う通りだと思う人は信仰の目を持っています!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注(ギリシャ語がわかる人にです)

・πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。

・καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。

2025年1月28日火曜日

肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年1月26日顕現節第三主日 スオミ教会

 

ネヘミヤ8章1~3,5~6,8~10節、

1コリント12章12-31a節

ルカ4章14-21節

 

説教題 「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 以前の説教でも申し上げましたが、本日の福音書の日課は区切りが良くありません。ルカ4章は、14節から32節までがひとくくりの出来事です。それなのに今日の日課は21節までです。まず、出来事の全容をお話ししましょう。イエス様が育ち故郷のナザレを訪れてユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読を担当する。読み終わった後で、聖書に書かれている預言は今日その通りになったと言う。さらに神の恵みについて教え始め、会衆はそれに驚く。しかし、会衆の中に、あれはヨセフの子ではないか、と言う者もいて、その途端、イエス様は何か会衆の気に障ることを言い始める。会衆は激怒してしまい、イエス様を崖から突き落とそうとする。そういう出来事です。それにしても会衆の急変ぶりには驚かされます。一体イエス様は何をそんなに怒らせることを言ったのでしょうか?お前たちは私が他の町でやっている奇跡の業をナザレでもしろと言うだろう、しかし、旧約聖書の預言者エリアとエリシャが奇跡の業を異邦人にしてあげてユダヤ人にしなかったのに倣って、私もお前たちにはしない、などと言います。かなり挑発的です。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」などと自分で言いますが、自分でそうなるように仕向けたのではないか?イエス様はナザレの人たちになぜこんなに手厳しいのか?

 

 実はこの出来事は、私たちがこの世を生きる時に身につけなければならないものについて教えています。どうしたらそれを身につけられるか、それを身につけないとどうなってしまうか、ということを教えているのです。その身につけなければならないものとは何か?結論を先に言うと、肉眼の目と異なる「信仰の目」です。私たちは肉眼の目を持っています。その目が働かないと生活に支障をきたします。信仰の目は、この世の荒波を乗り越えていくのに必要な目です。肉眼の目だけだと荒波はよく見えますが、それだけだと怖くなってしまいます。信仰の目があると、怖い視点を超える視点が与えられます。それでは、信仰の目とはどんな目で、どうしたら身につけられるのか、そのことを今回と次回の説教でお教えしたく思います。事は旧約聖書にまで広がるスケールの大きなものになります。

 

2.イエス様のイザヤ書朗読の謎

 

 イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神から聖霊が降って特別な力が備えられました。特別な力とは、神の人間救済計画を実行に移す力です。その後すぐユダの荒野にて40日間、悪魔から試練を受けます。イエス様はこれを全て旧約聖書の神の御言葉を盾としてはねのけます。この後、舞台はガリラヤ地方に移ります。イエス様は各地の会堂を回って、神の国が近づいた、人間の救いがまもなく実現するという福音を宣べ伝えます。そして神の国が架空のものではなく実在するものであることを示すために多くの奇跡の業を行います。イエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりす。イエス様が故郷の町ナザレに戻ったのはちょうどその時でした。イエス様はここでも町の会堂に入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。

 

 ここで、当時の会堂シナゴーグの礼拝について少し背景説明をします。礼拝ではヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読し、その後でアラム語で説き明かしすることが行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、ユダヤ民族はもともとはヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉もヘブライ語で記述されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚で民族の主だった人たちは異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、彼らはだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。

 

 さて、紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を打ち倒して古代オリエント世界の覇者になります。ユダヤ人はペルシャ帝国の計らいで祖国帰還を許されます。彼らは廃墟となったエルサレムの町と神殿の再建にとりかかります。その当時のユダヤ人の苦難と信仰の試練については、旧約聖書のエズラ記とネヘミア記に記されています。先ほど朗読されたネヘミア8章では祭司エズラが民にモーセの律法を朗読する場面がありました。そこでレヴィ族の人たちが「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読した後でアラム語に翻訳して解説したということです。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖かつ最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代にも続いていたのです。

 

 さて、ナザレの会堂の礼拝に戻りましょう。会堂長は、その日の聖書の朗読と説き明かしを誰にお願いするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は会衆で一杯だったでしょう。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる形の本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形の書物です。

 

 イエス様は立ってヘブライ語で朗読します。神に油注がれた者とありましたが、これは文字通りメシアです。メシアとはもともとは油注がれた者という意味だからです。そのメシアが神の霊を受けて、何かに囚われた状態にある人に解放を告げ知らせる、心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人が見えるようになるという喜びの知らせを伝える、神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる、そういう内容の個所を朗読しました。

 

 これは、旧約聖書を知っている人ならイザヤ書のあそこだとわかる個所です。少し雑学的なことですが、聖書の書物は初めは章立ても節わけもありませんでした。ところどころ段落分けや余白はありますが、基本的に文章はだらだらと続くものでした。章立て節わけが施されるのはずっと後世になってからです。それなので、シナゴーグの礼拝では、私たちの礼拝のように、本日の日課は何々書の何章何節から何節までです、と言うことは出来ません。しかし、旧約聖書をよく知っている人なら、イエス様が読んだところを聞いて、あれはイザヤの終わりの方だとわかったでしょう。私たちならイザヤ書61章1節から2節までと言うでしょう。ところが、よく見るとイエス様の朗読はイザヤ書の当該箇所と少し違っています。イエス様の朗読は正確ではないのです。ヘブライ語の原文を見ると、そこには「目の見えない人が見えるようになる」というのはありません。別に原文を見なくとも、日本語訳のイザヤ書61章を見れば誰でもわかります。実は、「目の見えない人が見えるようになる」というのはイザヤ書の42章7節にあります。とすると、イエス様は朗読している時に別の章の個所を何気なく挿入したのでしょうか?

 

 イエス様がイザヤ書61章の朗読の際に42章7節を挿入したということが一つ可能性として考えられます。他に考えられるのは、朗読の後の説き明かしで「目の見えない人が見えるようになる」ということを述べた、しかし、この出来事の目撃者が後で朗読と説き明かしを混ぜ合わせて覚えてしまった、それがルカに伝えられたということも考えられます(後注)。

 

 イエス様が朗読の時に挿入したにしても、または説き明かした時に言ったにしても、どっちにしても、彼には「目の見えない人が見えるようになる」ことに特別なこだわりがあったことがわかります。イエス様に、目の見えない人が見えるようになることのこだわりがあったことは、皆さんもご存じのように、彼が目の見えない人の目を見えるようにする奇跡を何度も行ったことからもわかります。イエス様にとって目を見えるようにするというのは活動の中で大事なことだったのです。このことは預言者イザヤの時代から旧約聖書の歴史を貫くようにしてある問題に照らし合わせてみると、目を見えるようにする奇跡の意味が明らかになります。

 

3.十字架と復活の業によって信仰の目を開けられる

 

 そのカギはイザヤ書の6章にあります。紀元前8世紀のことでした。神の意志に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が神からの罰として心が一層頑なにされて目も見えないようにされる、そういう罰を言い渡されます。これは肉眼の目を塞ぐということではなく、霊的な目、信仰の目が塞がれてしまうということです。神の意志がますます見えなくなって滅びの道をまっしぐらに進んでしまうという罰です。ところが、イザヤ書6章の終わりを見ると、国が滅んだ後に今度は目が開かれて神の意志がわかる、そういう「残りの者」が現れるという預言もあります。さて、イスラエルの民はいつ信仰の目が開かれるようになるのでしょうか?バビロン捕囚から解放されて祖国帰還できた者たちが目が開かれた「残りの者」になったのか?これも否でした。イザヤ書の終わりの方にある63章17節を見ると、祖国帰還を果たしても神が依然として民の心を頑なな状態に留めていることを嘆くところがあります。そういうわけで、イエス様の時代にも民はまだ信仰の目が開かれていない状態にある、それをこれから開くようにするというのが神の意図だったのです。

 

 この背景がわかると、イエス様が信仰の目を開くことを重視したことがよくわかります。奇跡の業で肉眼の目を見えるようにしましたが、それは、そういう具体的な業を通して抽象的なことを理解させる手っ取り早い方法だったのです。「私は復活の日に死者を目覚めさせることが出来る」といくら口で言ってもわかってもらえないから、死んだヤイロの娘もラザロも「これは眠っているだけだ」と言って生き返らせました。それと同じことです。「私は罪を赦す権限がある」と言っても、そんなの口先だけだと騒ぎ立てるから、それならこれでどうだ、と全身麻痺の人を歩けるようにしたのも同じです。このように具体的な見える業を通してイエス様は人間の信仰の目を開ける力があることを示しました。そして信仰の目が大々的に開かれる出来事を後で起こしました。言うまでもなく十字架の死と死からの復活の出来事です。イエス様の十字架の死とは、人間が神から神罰を受けて罪と一緒に滅んでしまわないために人間に代わって人間の罪を償って、人間を罪の滅びから切り離す業でした。そしてイエス様の死からの復活とは、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開く業でした。このためにイエス様の十字架と復活の業はユダヤ民族の信仰の目を開けるためだけのものでなく、人間全ての信仰の目を開ける業だったのです。それが神の人間救済計画だったのです。そういうわけで、信仰の目を開けられた人とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪からの切り離しを手にした人です。そして、復活と永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む人です。

 

 そのように人間の信仰の目を開くためにこの世に贈られたイエス様ですから、会堂の礼拝で「見えない人の目が見えるようになる」ことをイザヤ書61章のメシア預言に結びつけて述べても全然おかしくないわけです。

 

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。会堂の人たちの視線が一斉にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」これを言った後でイエス様の説き明かしが続くのですが、その内容についてはルカ福音書では記されていません。22節をみると、会衆みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあります。なので、イエス様が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、説き明かしの冒頭でイザヤ書の預言が実現したと宣言した時、イエス様は、油注がれたメシアとは私のことである、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの私である、と証したのです。その後で会堂の人たちが怒り狂うようなことが起きてイエス様を崖から突き落とそうとします。一体何が起こったのか、ナザレの人たちにどんな問題があったのか、同じ問題は私たちにもあるのか、次回お話ししましょう。

 

4.勧めと励まし

 

 終わりに、信仰の目を開かれたキリスト信仰者たちはお互いどういう関係になるかということについて本日の使徒書の日課、第一コリント12章が教えているのでそれを見ておきたいと思います。パウロの教えです。パウロは、キリスト信仰者というのは、キリストの体という一つの体の部分部分なのだと教えます。それで信仰者はお互いを煙たがったりせず大切な仲間として助け合いなさいと言うのですが、道徳論のように受け止める人もいるかもしれません。また、キリスト信仰者の中には、信仰とは自分と神との結びつきだから、と言って、信仰者同士の結びつきをあまり考えない人もいるかもしれません。しかし、パウロが述べていることは道徳論なんかではありません。

 

 13節でパウロは、神の一つの霊ということを言います。洗礼を受ける人は何人もいても聖霊はお一人です。洗礼を受ける一人一人に別々の霊がつくのではありません。たったお一人しかいない聖霊にそれぞれが結びついて洗礼を受けるから一つの体になると言うのです。どの民族・人種に属しようが、社会的な地位・立場が何であろうがみんな同じ聖霊を注がれるので一つの体のお互い結びついた部分になると言うのです。それなので、信仰は自分と神の問題と言って、同じように神と結びついている他の人との結びつきを考えない人は、聖霊を分割してしまうことになってしまいます。信仰の目とは、神と自分の結びつきという縦の関係と、同じ結びつきを持っている他の信徒たちとの結びつきという横の関係という、二つの関係を見ることが出来る目です。この縦と横の二つの関係が同時に現れる瞬間が聖餐式、主の血と肉に与る時です。

 

 自分と神との結びつきは、もちろん自分の罪と向き合って赦しの中に留まるという極めて個人的な面もあります。しかしながら、他の信仰者たちとの間で、私は目、あなたは足です、または、私は耳、あなたは手です、という場面は無数にあります。横の関係があって、各自の神との縦の関係が支えられるということも忘れてはいけません。目が自分は自分で支えられるから他はなくてもいいとは言えないのです。だから、各自、お互いに相手の縦の関係を支えてあげられるように振る舞いや言葉遣いを考えなければなりません。それを損なうような振る舞いや言葉遣いは避けなければなりません。それが聖霊をお一人としてキリストの体の部分として生きるということです。

 

 それではキリストの体とは具体的には何か?教会ということになりますが、これもいろんな層があります。まず、復活と永遠の命に向かって歩む信徒たちの集合体、組織を超えた世界大の教会があります。スオミ教会のように個別の具体的な教会もあります。個別の教会が属している教派や教団もあります。別の教会の信徒とは祈りを通して支えたり支えられたりする関係は築けます。しかし、やはり、聖餐式の場である個別の教会は振る舞いや言葉遣いを磨ける一番身近な場です。自分がキリストの体の部分であることを一番身近なものにすることが出来る場です。兄弟姉妹の皆さん、そのことを忘れないようにしましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

後注 話をさらに複雑にすることがあります。それは、イザヤ書のギリシャ語訳を見ると、61章に問題の「目の見えない人が見えるようになる」というのが入っているのです(1節)。ここでなぜ、イザヤ書のギリシャ語訳なんかを出すのかと言うと、旧約聖書はもともとはヘブライ語で書かれていました(一部はアラム語でも書かれています)。この旧約聖書がイエス様の時代の2、300年位前に大々的にギリシャ語に翻訳されました。なぜかと言うと、ペルシャ帝国が紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国に滅ぼされてしまい、地中海世界の東半分がギリシャ語化していったからです。ギリシャ語を話すユダヤ人のためにギリシャ語の旧約聖書が必要になったのです。

 それでは、ヘブライ語の聖書を読んだイエス様がまるでギリシャ語訳聖書に倣って「見えない人の目が見える」と言ったことになるのでしょうか?次のように考える人もいるかもしれません。ルカ福音書を書いた「ルカ」はギリシャ語で書いているわけだから、ルカはイザヤ書もヘブライ語原文ではなくギリシャ語訳の方を念頭に置いた、それでイエス様が朗読したヘブライ語の文章は脇にやられてギリシャ語訳にある「目の見えない人が見えるようになる」を入れてしまったのだと。しかし、そう考えると、ルカはイエス様が言っていないことを言ったことにしてしまったことになります。ルカは福音書の冒頭で、この福音書は信頼できる目撃者の証言を集めて纏めたものだ、と言っています。とすると、ナザレの会堂の出来事も、目撃者、間違いなく弟子たちでしょう、彼らが証言したことが土台にあると考えなければなりません。

2025年1月8日水曜日

造り主である神との関係に照らし合わせて自分自身を見つめることは、イエス様を救い主と信じる信仰のはじめ(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年1月5日 主の顕現の主日 スオミ教会

 

イザヤ60章1-6節

エフェソ3章1-12節

マタイ2章1-12節

 

説教題「造り主である神との関係に照らし合わせて自分自身を見つめることは、イエス様を救い主と信じる信仰のはじめ」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課は有名な「東方の三賢」の話ですが、本当にこんなことがあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来たとか、王子様の星を見たことが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。

 

 いつもこの個所について説教する時に申し上げることですが、ここに書かれた出来事はおとぎ話で片付けられない歴史的信ぴょう性があります。今回もそのことについておさらいをします。

 

 ところで、出来事がおとぎ話ではない、信ぴょう性があるとわかっても、それでイエス様を救い主と信じる信仰に至るかというと、そんな程度ではまだまだという人が大半ではないでしょうか?イエス様を救い主として信じて受け入れるというのは、聖書に記された出来事の歴史的信ぴょう性とは別のところに鍵があります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせて見るということです。自分と自分の造り主である神との関係はどんなものか考えてみることです。そのことも以前申し上げてきました。何度繰り返してもいいことなので本説教でも述べます。新しい視点を入れて述べます。

 

 ここで信仰と歴史的信ぴょう性の関係というのは次のようなものではないかということを述べておきます。自分自身を神との関係に照らし合わせて見つめ直して、その結果イエス様を救い主と信じるようになる。その時、おとぎ話みたいな出来事はきっと歴史的に何かがあると考え始めて、いろんな可能性を検証するようになっていく。それとは逆に、自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直しことをせず、イエス様を救い主と信じる信仰に至らなかったら、こんな出来事はありえないというバイアスがかかって可能性の検証に向かわなくなる。つまり、信仰が信ぴょう性に道を開くのであり、逆ではないということです。そういうわけで、イエス様を救い主と信じる信仰は、自分自身を造り主の神との関係に照らし合わせて見つめることから始まるのです。

 

2.東方の三賢の出来事の歴史的信ぴょう性について

 

 まず最初に本日の福音書の箇所の出来事の歴史的信ぴょう性について振り返ってみます。不思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、私はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。

 

 1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座の中で異常接近したことを突き止めました。他方では、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があり、そこから古代の天体図やカレンダーが発掘されています。その中には紀元前7年の星の動きを予測したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するというのは普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。

 

そこでイエス様の誕生年についてみると、マタイ2章13-23節によればイエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ルカ2章にあるローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

 

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで星の動きが緻密に観測されて、その動きもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れと考えられました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、もし学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。それで、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

 

そこで、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみます。紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失いませんでした。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは旧約聖書のエステル記からうかがえます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ民族やその信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ」などと隣近所はささやいていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

 

学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ民族の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで本日の日課にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くして王についた人です。それで、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。

 

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景に見事に裏付けされるものです。ただ、一つ難しいことは、東方の学者たちがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これについては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。先に述べましたが、木星と土星の異常接近は紀元前7年は一回限りでなく何回も繰り返されました。それで、エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。とにかく聖書の神は太陽や月や星々さえも創造された(創世記1章16節)方ですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

 

3.イエス様を救い主と信じる信仰に至る本当の鍵

 

 東方の三賢の出来事の歴史的信ぴょう性を見た後は、いよいよイエス様を救い主と信じる信仰に至る本当の鍵について見ていきます。キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

 

 まず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからは彼こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならないと脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから伝道は続けるしかありません。

 

そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうち信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。

 

 では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は今の時代を生きる自分のためにも神が成し遂げて下さったのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?

 

イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。ご存知のように聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。

 

造り主の神との関係において自分を見つめると、神の前に立たされた時、自分は耐えきれないのではと気づきます。というのは、神は神聖な方であり、自分は神の意思に反する罪を持っているからです。神の意思というのは、十戒に凝縮されています。父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、嘘をついたり偽証したり改ざんしたり、妬みや嫉妬に駆られて何かを得ようしたならば、それらが行いに現れようが心で描こうがみんな神の意思に反するので全て罪です。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。

 

加えて、十戒の最初の部分は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟があります。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考えだな、そんな掟があるから自分の正義を振りかざして宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えています。その理由は「復讐は神のすることだから」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは、少なくともキリスト信仰では、実に人間の仕返しの権利を全部神に譲り渡すということです。そんな、やられたのにやり返さなかったらこっちが損するだけではないか、と言われるでしょう。しかしパウロは、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つと、少なくともキリスト信仰では、人間は相手をなぎ倒してまで自分の正義を振りかざすことがなくなるというのが本当のことなのです。

 

このような十戒に照らし合わせて見ると自分はいかに神の意思に反することだらけということに気づかされます。自分は完璧で、神の前に立たされても大丈夫だ、何もやましいことはない、などと言える人はいません。神の前に立たされたら自分はダメだ、持ちこたえられないと気づくと、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなると、自分を見つめることを神との関係に照らし合わせてしなくなり、別のものに照らし合わせてするようになります。

 

まさにその時、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を贈られたのかを思い出します。神聖な神のひとり子が人間の罪を全部引き受けて私たちのかわりに神罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれました。そのようにして私たちの罪の償いを果たして下さいました。それで彼こそ救い主です、と信じて洗礼を受けると罪の償いがその通りになって、神から罪を赦された者として見なされ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しの十字架は歴史上確固として打ち立てられたものです。自分を神との関係に照らし合わせて見つめて、その結果、神から遠ざかろうとする自分を感じたら、すぐ十字架のもとに立ち返ります。そうすれば、神と自分との結びつきは神の愛によってしっかり保たれているとわかって、恐れや後ろめたさは消えてなくなります。

 

本日の使徒書の日課エフェソ3章の12節でパウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べていました。少し注釈しながら言い換えると、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついていて、その信仰のおかげで神の前に立たされても大丈夫という確信がある。それで、神のみ前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。

 

4.勧めと励まし

 

 最後に、東方の学者のグループのベツレヘム訪問はキリスト信仰者の信仰生活に通じるものがあるということを述べておきます。彼らは星に導かれて救い主のもとに到達しました。私たちにはそのような星はありませんが、救い主のもとに到達できるために聖書の御言葉があります。私たちには聖書の御言葉が星の役割を果たしています。救い主のもとに到達した学者たちは捧げものをしました。私たちも捧げものをします。何を捧げるのか?ローマ12章1節でパウロは「自分の体を神の御心に適う神聖な生贄として捧げなさい」と勧めます。それはどんな捧げものか?2節を見ればわかります。少し注釈しながら訳しますと、「あなたがたはこの世に倣ってはいけない。あなたがたはイエス様を救い主と信じる信仰によって心の状態が一新されたのだ。だから、あとは何が神の意思であるか、善いことであるか、神の御心に適うことであるか、完全なことであるか、それらを吟味する自分へと変わりなさい(後注)。」これが自分の体を神聖な生贄として捧げることです。信仰によって心の状態が一新させられたら、後はどのように変わっていくか、その具体的内容については12章でずっと述べられていきます。先ほど述べた、仕返しの権利を放棄することもその一つです。

 

学者たちは捧げものをした後、ヘロデ王のもとには戻りませんでした。救い主のイエス様のもとに到着して自分を神聖な生贄として捧げる者は、この世の声に倣わないということが暗示されているのです。 

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

後注(ギリシャ語がわかる人に)ローマ12章2節は新共同訳では「自分を変えていただき」と訳されています。これはμεταμορφουσθεを受動態に考えて「(神によって)あなた方は変えられなさい」と訳したものです。4年前の説教で私も受動態で訳しました。フィンランドの神学部の授業ではここはmedium(中動態)で考えるべきと言われていましたが、私は律法的になるような気がして少し抵抗がありました。ところが、その後考えがかわり、今回はmediumで訳しました。パウロは読み手に対して強い調子で「あなたたちは自分自身で変わりなさい」と言っているということです。律法的にならないかという心配ですが、τη ανακαινωσει του νοοςがあるので律法的にならないことがわかりました。「心の状態を新しくしてもらったことをもって(dativus modi)/新しくしてもらったので(dativus causae)」あなたがたは変わりなさい、ということです。νουςは新共同訳では「心」と訳されています。英語ではmindと訳されています。「心」だとκαρδιαと一緒くたになってしまうので「心の状態」としました。キリスト信仰者はνουςが新しくされているので、肉には罪があっても救われているということがローマ7章の終わりで言われています。それで12章2節は、キリスト信仰者であるあなたたちはνουςが新しくされているので変わるのは当然なんですよ、というような、命令よりも注意喚起になるのではないかと思いました。それを基点にして12章の中にある行動リスト(大半は分詞形、一部は命令形)を見ると、νουςが新しくされたキリスト信仰者にとってはどれも当然のものなのだという注意喚起の続きになるのではないかと思いました。イエス様を救い主と信じる信仰によって救われた結果として、リストの諸行為は当然のものとして現れてくるのだ、忘れるな、ということです。救われるためにこれらをしなければならないという救いの条件ではないということです。救いの条件にしてしまうのが律法的ということです。

2025年1月7日火曜日

永遠を思う心を持っていれば大丈夫(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

礼拝説教 2025年1月1日新年礼拝 スオミ教会

 

コヘレト3章1-11節

黙示録21章1~6a節

マタイ25章31-46節

 

説教題 「永遠を思う心を持っていれば大丈夫」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 西暦2025年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は昨年の12月1日の待降節に入った時から始まりましたが、世俗のカレンダーでは今日が新しい年の始まりです。新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことは大事です。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと諦めて向かって行くのと、いや、これからは今までと違うものになるのだと前向きに向かって行くのでは試練に対する向き合い方、試練の中にあっての進み方も違ってきます。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に中身を与えるものになりますように。

 

2.私たちの試練に対する神の手腕

 

 以前の説教でもお話ししたことがありますが、何年か前、私の家族で長期間病気などがあったりして、もう日本でのミッションの仕事は続けられなくなるのではないかという試練がありました。本当にもがくような思いで、多くの人の祈りに支えられながら、やっと暗いトンネルの中に光が見えてきてそれに向かって歩みだした時、あるキリスト信仰者から次のような言葉を頂きました。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、そして、わかった時点に立って後ろを振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい地点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。

 

 なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方だと信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するというのは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福と導きをお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを願う相手はこの方以外にはない、という具合に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。

 

 それでは全身全霊で神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう言うまでもなく、その神がかけがえのないひとり子を私たちに贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父なるみ神を私たちはその子として信頼するのです。だから、試練があってもそこで立ちすくんだり埋没したり堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)神が準備して下さっている次の段階に向かって進んでいるという見方になれるのです。

 

 そのことを使徒パウロは第一コリント10章13節で次のように述べています。「神は真実な方です(注 ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」

 

 イエス様を救い主にしていない人たちから見たら、こういうのは根拠のない楽観論にしかすぎないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的な真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ8章28節です。

 

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 

 私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、神が万事を益にしてくれると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。全てが見事に埋め合わさった全体像を後で見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。

 

3.コヘレトの永遠を思う心について

 

 このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中の時は父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。3章11節で、天と地と人間を造られた神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。

 

 永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、説明は簡単ではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には創造主の神と神の霊、そして箴言で言われる、天地創造の場に居合わせた神の「知恵」なる者しか存在しませんでした。神が天地を創造して時間の流れが始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26-29節、詩篇102篇26-28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。新しい天と地のもとで唯一の国として「神の国」が永遠に存続すると言うのです。そういうわけで、今の天と地は造られてから終わりを告げる日までは時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

 

 神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の中におられる方が、限りあるこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えた後も復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。そのような今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる神との結びつきを持てるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった原因、つまり神の意思に反しようとする罪をどうにかしなければならない。それで神のひとり子のイエス様は人間の罪を全部引き受けて十字架の上で人間にかわって神罰を受けて、私たち人間のために罪の償いを神に対して果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持って生きられるようになったのです。

 

 神はそのような永遠に属するひとり子を信仰を通して私たちの心に与えて下さいました。まさにコヘレト3章11節で言うように、神は永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は永遠を人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר、מבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which)神のなさる業を始めから終わりまで見極められないという心を」という訳になるのではないだろうか?そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」となるのではないだろうか。ただ、英語(NIV)やフィンランド語やスウェーデン語の聖書も新共同訳と同じように訳しているので、あまり大きな声で主張するのはばかれます。それでも、イエス様という永遠に属する御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと密かに思っています。

 

 もちろん日々の試練の中では神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味で、心に永遠を与えられても発見できないというのはやはりその通りです。そうなるとペシミズムになってしまうのか?しかし、先ほど述べたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中にある時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっていることでは神のなさる業を発見できているのです。この視点に立ってコヘレトを見ればペシミズムに留まらないで、それを超えるものが見えてくるのではないでしょうか。

 

 コレヘト3章の初め「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のところで、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、もちろん自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。これをどう考えたらよいでしょうか?

 

 そこで、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りを見てみます。ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。つまり、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかなくなります。そこから出発しなければならなくなります。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?これが一番大切なことです。

 

 ここで「永遠」の出番となります。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのこととしたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、目指す先には神の意思、神の正義、神の義があることが見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目で見て不幸な状態にある人たちの立場が逆転する可能性について繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるでしょう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口にしか過ぎない完璧な逆転が待っているのです。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神と結びつきを持って生きられるようになったとは言っても、それでも内側にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。自分では神の意思に沿うように生きようと志しても、それが叶わない、至らないことにいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分はもう一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つのだろうか?と。

 

 この個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25章40節)」。これはギリシャ語原文が厄介な個所です。直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした分をεφ’ οσονあなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くのことをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことが少しあるということです。少なくしたら、しなかったことが多くあるということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、みんな自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないと言うのです。

 

 キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しに留まって生きる限り、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。助ける人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられなくても神に祈ることはできます。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りがカモフラージュや自己満足に陥ることはありません。

 

 兄弟姉妹の皆さん、今世界を見渡すと、皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして、それをSNSを通して拡散するので何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力のある人たち、感情に訴える力のある人たちが我が物顔です。こういう時だからこそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い起こしましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はやがて火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなこととは別のところにあることもわかります。それなので、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られそれをいつか新しいものに変えられる方と結びついていることを今一度思い起こしましょう。その方は私たちの試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっています。なので、日々聖書を繙き御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン