2022年11月11日金曜日

最後の審判をクリアーできる祈り (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2022年10月23日(聖霊降臨後第20主日)スオミ教会

 

エレミヤ書14章7-10、19-22節

テモテへの第二の手紙4章6-8、16-18節

ルカによる福音書18章9-14節

 

説教題 最後の審判をクリアーできる祈り

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - 神のもとに立ち返る徴税人たち

 

福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前の通り、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人は、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。占領された国民の中に占領国に仕える人たちがいたということです。どうして仕えたかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が同胞の裏切り者とみなされて憎まれていたことは驚きに値しません。

 

ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際の徴税人とは少し様子が違うのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確実なものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。

 

もちろん本日の箇所の徴税人は、たとえの教えの架空の人物です。しかし、徴税人のグループが洗礼を受けにヨハネのもとに行ったという歴史的事実からすると、今日のように改心した徴税人が実際にいたことは否定できないのです。ルカ19章のザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決断をします。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

 

以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。

 

2.二つの対照的な祈り

 

本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方が出ています。一つは宗教エリートのファリサイ派の人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと守っていますと神に報告します。私は周りにうようよいる罪びとたちと全然違うことを感謝します、などと醜いエリート意識そのものです。子供が先生に「先生、ボクは~君みたいに悪い子じゃないよ、いい子だよ」というのを大人にしたらこうなるのでしょう。もう一つは徴税人の祈りです。自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。なので、胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。

 

先週の福音書の箇所は「やもめと裁判官」のたとえでした。それも祈りについて教えるところで、神に対して祈り願い求めることを絶やしてはならないという教えでした。神に対して祈りを絶やさないというのは、十戒の第一の掟「私以外に神があってはならない」を守ることです。ルターも教えたように、祈ること願いごと、喜びや感謝、悲しみなど全てのことを創造主の神に祈り打ち明けるべきである、他のものにそうしてはならないというのが第一の掟のポイントです。神を全身全霊で愛するというのも同じです。「愛する」などと聞くと恋愛を連想してしまい、神を愛するなんてどうしたらいいかよくわからないと言う人もいます。要は神以外に祈らない打ち明けない、それだけ神を信頼してやまないということです。だから、祈りを絶やしてはいけないのです。

 

そこで、先週と本日の祈りの教えには興味深い関連性があることに気づきましょう。「やもめと裁判官」のたとえは弟子たちに対して述べられました。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたでしょうか?「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)です。ここで「正しい」という言葉に注意します。ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」とは、「神の目に適う、神に相応しい」ということです。どういうふうに「目に適う」「相応しい」かと言うと、最後の審判の時に神のみ前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に投げ込まれる心配はないという位に神に相応しいということです。14節を見ると「義とされて」と言われています。ディカイオオ―という動詞が使われていて、これはさっきのディカイオスを動詞にしたものです。これを「義とされて」と訳したのだから、ディカイオスも「正しい」ではなく「義なる」と訳すべきだったと思います。「正しい」と言ってしまうと、少し人間的すぎてこの世止まりではないかと思います。「義」とは、この世とこの次に到来する世の双方にまたがる、神的な「正しさ」です。人間的な「正しさ」とはスケールが違いすぎます。イエス様がこのたとえを話した人たちは、自分たちはそういう義の者である、他の者はそうではないと見下している人たちでした。この人たちは誰なのでしょうか?ファリサイ派でしょうか?実はそうではないのです。

 

「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、最後の審判の日、果たして、やもめのように祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。この質問のすぐ後で今日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえを話します。ここでは、自分は神に相応しいと自信満々な者たちが相手です。つまり、このたとえが向けられた相手は、弟子たちの中で自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると自信満々な人たちだったのです。果たして私が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか?というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる人たちに向けて話されたのです。

 

そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものになっています。たとえ最後までひるまずに祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまうのです。

 

洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないために洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねました。そして、本日の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いはなく、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけでした。神から罰を受けるとはどういうことか?それは、この世の人生を終えた後で復活の日に復活に与れず、復活の体も永遠の命も与えらえず、神の御許に迎え入れられなくなってしまうということです。しかも、問題はこの世の次の段階に限りません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。たとえ罰は将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。歩む道を変えなければならないのです。

 

「私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました」と認めて、「神さま、どうか罰しないで下さい」と憐れみを乞うた徴税人。その彼が神に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので何も心配することはなく、神に憐れみを乞う必要もありません。自分では神に背を向けた生き方をしているなどとは思いもよりません。しかし、百点満点のはずの彼が神のみ前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように聞こえます。それでは、ありきたりの道徳論です。ここは道徳教育みたいなことを言っているのではありません。ここは人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならない大きな問題があることを言っているのです。これがわからないと、この個所はわからないのです。

 

3.原罪を直視することから始まる救い

 

私たちは徴税人が「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。私たちの場合は、同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。加えて、神の意思を表している十戒に照らしても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様は何と教えていましたか?たとえ殺人を犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。

 

以前にもお教えしましたが、フィンランドやスウェーデンには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」に分けて言い表す言葉があります([ス]gärningsynd、arvsynd、[フィ]tekosynti、perisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いでいる罪です。この受け継いでいる罪があるから行為に現れる罪も起こるという、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら具体的に犯していたかもしれないのです。

 

マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうのかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にしているのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神に相応しい者となれるのでしょうか?

 

これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に贈られました。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで神罰を人間に代わって受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はイエス様のこの身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間のために開かれました。神のもとに至る道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しい者とされ、神との結びつきを持って歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので、順境の時でも逆境の時でも変わらない助けと良い導きを神から得られます。この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。

 

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを持っているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを受け取ったので、神からそういう者として見てもらえます。キリスト信仰者は、そのように見ててもらえることを畏れ多く感謝し、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうすると神の意思に一層敏感になります。まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という徴税人の祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちは自分の内にある神の意志に反するものに気がつく度に、心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あそこに首をうな垂れたあの方がおられす。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫になっていることがわかります。父なるみ神は私たちを本当に憐れんだので、ひとり子を犠牲にするのを厭わなかったのです。神は罰しないで本当に赦して下さることを、私たちがわかるようにイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。

 

 ところで、徴税人の祈りにはイエス様の十字架の言及はありません。まだ十字架の出来事が起きる前なので、それは無理もありません。しかし、イエス様はもうすぐしたら十字架と復活の出来事が起こると知っています。その時が来たら、徴税人の祈りを祈る者は心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ、神から罪を赦されていることがわかります。この意味で徴税人の祈りは、神から罪の赦しを得られて神に相応しい者とされる祈りなのです。これぞまさしく、最後の審判をクリアーできる祈りなのです。

 

そういうわけで、キリスト信仰者にとって「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは、イエス様の十字架と復活の業があるおかげで、なくてはならない祈りです。イエス様を救い主と信じてこれを祈る限り、イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されるのです。イエス様を信じない人は、誰かの何に免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で罪の償いを神に対して果たさなければならなくなります。しかし、それは不可能です。このことを、本日の個所のファリサイ派の人の祈りが明らかにしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、お前には本当の罪の償いはないと言われて蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることを知って茫然として足がすくんでしまった瞬間、イエス様のおかげで神の御手が自分を離さずしっかり支えてくれていることです。

 

4.イエス様の再臨は怖くない

 

キリスト信仰者が復活の日の神の御許に迎え入れられる地点に向かって歩む道にはいつも罪の自覚と赦しの繰り返しがあります。しかし、最後の審判の時、神はこの繰り返しのことを、それはお前が神に相応しい者、義なる者として相応しく生きた証しと認めてくれます。その時、繰り返しは終わります。

 

本日の使徒書、第二テモテ4章6-8節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、そのような生き方を総括する言葉になっています。それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。

 

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」

 

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。

 

「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」

 

イエス様の再臨というのは、最後の審判があったりするので怖いものに感じられます。しかし、その日は、お前は神に相応しい者、義なる者として相応しく生きてきたと認められる日です。また、罪の自覚と赦しの繰り返しが終わる日です。義の栄冠はその象徴です。だからキリスト信仰者にとっては主の再臨は怖い日ではありません。待望の日です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年11月9日水曜日

キリスト信仰のかたち (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年10月9日(聖霊降臨後第18主日)むさしの教会

 

列王記下5章1~3、7~15節

テモテへの第二の手紙2章1~15節

ルカによる福音書17章11~19節

 

説教題 キリスト信仰のかたち


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに

 

 説教題「キリスト信仰のかたち」とはわかりそうでわかりにくい題と思います。「かたち」とは何ぞや?一昔前、日本のことを論じる本だったか記事だったか、「この国のかたち」なんていうものがありました。「かたち」という言葉でこの説教者は何を意味しようとしているのか?日本語で自分が何を言おうとしているのか、はっきりさせる際に自分が知っている外国語で言い換えたらどうなるか考えるのはいい訓練になると思います。英語のformではありえない。頭に浮かぶのはessenceです。「本質」とか「真髄」です。フィンランド語やスウェーデン語なら「核心」を意味するydinやkärnaが浮かびます。ところが、もし説教題を「キリスト信仰の本質」にしたらどうなるか?神学校の教授や牧師がそういう題で説教したら、信徒の皆さんは、ふんふん、なるほど、と聞き入るでしょう。私のような一信徒が同じ題を使ったら、何を大それたことを!と思われてしまうでしょう。それで「かたち」などという怪しげな言葉を引っ張り出した次第です。

 

 それでも、この説教の原稿が出来上がってみると、やっぱりキリスト信仰にとって本質的なことについて語っているじゃないかと思いました。それで題を「キリスト信仰にとって本質的なこと」にすれば「キリスト信仰の本質」よりも低姿勢かなと思ったのですが、この日本福音ルーテルむさしの教会は説教題を前々週に知らせなければならないのでもう手遅れでした。そういうわけで、本日の福音書の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしているので、それを皆さんにお教えしたく思います。

 

 イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所は、エルサレムのあるユダヤ地方の北、ガレリア地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。

 

 さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はどうしたかと言うと、その場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに体を見せに行きなさい、とだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだから、と言う通りにただちにエルサレムに向かいました。

 

 すると出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム訪問の目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ、律法に規定された治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア地方のサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に贈って下さった神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の治癒診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。

 

 本日の個所がキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしていると言う時、その本質的なこととは何かと言うと、2つのことがあります。まず、律法の規定を行って神から義とされ救われるというのではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされ救われるということ。それと、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つがサマリア人の行動から見て取れます。ところで、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。なので、キリスト信仰のかたちがもう表れているというのは気が早いと言われるかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。

 

2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の本当の意味

 

 この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみましょう。一見するとこの言葉は、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからだ、ということになってしまいます。それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだ、と言うべきです。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。これに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。それで、この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみることにしましょう。

 

 マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを救った(後注)」と言います。この言葉をかけられてから女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願するところです。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。

 

 本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意します。これはギリシャ語の現在完了です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語のより少し意味が狭く、「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味が主です。それで「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今日この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。

 

 これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?普通は、癒された時に救われたと考えます。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間的な目から見て境遇が良好であるということと同義ではないのです。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。

 

 そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。

 

 さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には言われませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、他の事例と同様に癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。

 

3.サマリア人の行動に見るキリスト信仰のかたちと私たち

 

 先ほども申しましたが、レビ記14章には、重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合、祭司は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。儀式の詳細な内容には立ち入りませんが、いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとしてあります。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(14章20節)。つまり、「清い」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。

 

 ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないか、と思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。

 

 ここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯して、かからなかった人は罪を犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は、本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間はずっと死ぬ存在であり続けたということから明らかです。使徒パウロは罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)と教えています。人間が死ぬということが、人間が罪を持っていることの表れなのです。

 

 さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないで戻ってきてイエス様と神を賛美したことを褒めます。そうすると、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要の和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったからです。先ほど見たように、モーセ律法には「重い皮膚病」が治った後で神との和解のためにする「清めの儀式」がありました。実はそれだけでなく、律法には人間の罪を償って神との和解が得られるために様々な儀式とそこで捧げられる生け贄の規定が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、23章27-32節)。

 

 しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(10章1-4節)。

 

 そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので、神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、復活の日までひと眠りした後で目覚ましてもらって、神の栄光に輝く復活の体を着せられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。

 

 こんなに大きなことを実現して下さった神はなんと素晴らしい方であることか!キリスト信仰者はこの神に心から感謝するようになり、これからは神の意志に沿うように生きようと心に決めます。神の意志は十戒に集約されています。イエス様はそれをさらに二つの掟に集約しました。神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。キリスト信仰の中で律法の作用の仕方が大きく転換しました。かつて神の意志というのは、それをすることで神から義とされ救われるというものでした。ところが、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖いだして、一足先にさっさと神との和解をもたらして下さったのです。人間は先を越されてしまったのです。そうなったらあとは、この受け取ったものを手放さないようにしっかり携えていくしかありません。

 

 ところが、現実に生きていると、自分にはいろいろ神の意志に反する罪があることに気づかされることが起きてきます。神の意志に沿おうと志向しているので、かえって信仰者の方が神の意志に敏感になり、自分の内にある罪が気づきやすくなります。その時キリスト信仰者は、神との結びつきは弱まってしまったか、あるいは失われてしまうかと心配します。もし神がせっかくひとり子の犠牲に免じて罪を赦してくれたのに、こんなことでは復活と永遠の命に向かう道から外されて自分は行き先を失ってしまうのではと不安に陥ります。

 

 まさにそのような時、神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前の罪の赦しはあそこに打ち立てられて今も微動だにせずにそのままである。お前がイエスを救い主と信じているのはわかっている。我が子イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦される。お前の信仰がお前を救ったのだ。これからは罪を犯さないように。」この時キリスト信仰者の心には信仰に入った時と洗礼の時の感謝が蘇り、これからは神の意志に沿うようにしなければと再出発します。この罪の自覚と赦しをキリスト信仰者はこの世の人生の間ずっと繰り返します。やがてそれが終わる日が来ます。復活の日です。ルターも言うように、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは、この世から別れて復活の栄光の体を着せられた時です。

 

 このように、律法の規定を行って救われるということではなくて、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われるということ、それと、先に救われてしまったことで全身全霊が感謝で一杯になるということ、これらキリスト信仰を形作る2つのことは本日のサマリア人の行動から見て取れます。キリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後で、キリスト信仰者はどう立ち振る舞うかを本日のサマリア人の出来事を例にして前もって教えているのです。

 

            救われたら律法に戻らない

            救われたら大きな感謝が生まれて、救ってくれた主のもとに戻る

            感謝は神の意志に沿うように生きようとする心を燃え立たせる

 

 皆さんの心がいつも神への感謝で満たされますように。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注 θαρσειは「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと健康になりなさい、とこれから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。

2022年11月7日月曜日

聖書の神があなたの神になる時、あなたは復活の日に復活する (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年11月6日(聖霊降臨後第22主日)スオミ教会

 

ヨブ記19章23-27a節

テサロニケの信徒への第二の手紙2章1-5、13-17節

ルカによる福音書20章27-38節

 

説教題 「聖書の神があなたの神になる時、あなたは復活の日に復活する」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.キリスト信仰の復活について

 

 本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。キリスト信仰の死生観の土台と言ってもよいでしょう。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。この個所については3年前にも説教しましたが、今日は少し視点を変えて説き明かしをします。結論は全く同じです。

 

 ところで、復活だの死ぬだの、どうしていつも暗い話ばかりするのか、もっと現世的な明るい話題を取り上げてハッピーな気分にできないのかと言われてしまうかもしれません。誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、または自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたなと思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して前に進めなくなるということもないし、逆にそんな問いには来てもらいたくないと必死に避けることもしない。問いが来たら来たで、確認してハイ終わり、です。そういうふうに確認するものがあるというのはいいことです。

 

 本日の説教は福音書の個所の説き明かしが中心になります。本題に入る前に、復活について要点を復習しておきます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それと、イエス様を救い主と信じる者たちが与る、将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度復活するということはありません。それで、将来のある時とはいつかと言うと、それは今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される時です(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)。それはまた、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時です(「ヘブライ人への手紙」12章27-28節)。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

 

 黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神が裁判官になって裁判を行います。神の手元には全ての人が旧い世でどんな生き方をしたか記録した書物があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがその復活に与ることになります。

 

 また、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様と結びついている死者たちが復活させられる。それと、再臨の時点でまだ生きている信仰者たちが彼らに合流して神のもとに迎え入れられる。このようにパウロは、イエス様再臨の時点で生きている人たちにも目を向けています。

 

 ここで、復活について二つ注意すべきことを申し上げます。一つは、パウロが第一コリント15章で言うように、復活させられる者は皆この世の肉体のように朽ちる体ではなく、神の栄光を現わす復活の体を着せられるということです。つまり復活させられる者は、既に死んでいた者も、その時点で生きている者も、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられることはありえないということです。みな同じ復活の体を着せられるのです。誰もこの世の姿かたちで天の御国には迎え入れられないので、皆がこの世の肉体から離別するということになります。

 

 このことは、本日の旧約の日課ヨブ記の中でも言われています。ただ、日本語訳は何か抜け落ちていたりしてはっきりしません。実は、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳もまちまちで、ここは各国の訳者にとってやっかいな箇所のようです。そこで、19章の23節から27節の前半までをヘブライ語の原文に出来るだけ忠実に訳すと次のようになります。

 

「(25)私は知っている、私を贖って下さる方は生きておられると。将来、その方はこの滅びゆく大地の上に立ち上がる。(26)私の皮膚が引き裂かれた後で、私は肉体から離れた状態で神を見る。(27a)その方を私自らが見るのだ。私の目が見るのだ。その方はよそよそしい方ではない。」

 

 このように、ここは復活の時の有り様がこの世の有り様と違うことが言われているのです。さらに贖い主つまりイエス様の再臨のことも言われています。聖書の学会では普通、ヨブ記は知恵文学に属すると言われるのですが、このように復活という黙示文学の要素も持っているのです。聖書の書物を~文学、~文学とジャンル分けすると、他のジャンルの要素があっても気に留めなくなる危険があると思います。各国の訳者は案外、この危険に陥って黙示文学の要素などあり得ないという視点で訳したのかもしれません。

 

 復活に関してもう一つ忘れてはならないことは、迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

 

 復活は将来に一括して起きること、人間一人一人死ぬたびに起こることではないなどと言うと、じゃ、死んだ人たちは将来起こる復活の日まではどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところで我が国日本では普通、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が大半です。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 

 そう言うと今度は、死んだ人が本気で眠ってしまったら、誰が起きていて見守ってくれるのかと心配する人たちが出てきます。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、祟りだの、ナントカ商品だのと言われてもびくともしなくなり、この日本も安心して住める国になるのにと思わざるを得ません。

 

 そこで、天の御国への迎え入れが起こるのは復活の日だからそれまで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

 

2.イエス様の論点(1)- この世での有り様と復活の有り様

 

以上、復活の要点を復習しました。これから本日の福音書の個所の説き明かしに入りましょう。サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 

 サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに議論を吹っかけました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問なんです、と無垢を装う演技派だったでしょうか?

 

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。一つは、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということです。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみます。

 

 人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた新しい世になります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、先ほど見た第一コリント15章のパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」であると言われます(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きるようになる。この、復活した者が「神に対して生きる/神のために生きる」ということが第二の論点のところで鍵になります。

 

 以上、イエス様の第一の論点を見てみました。サドカイ派は復活を正しく理解していませんでした。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。もし復活を正しく理解していれば、そんな質問は出なかったでしょう。

 

3.イエス様の論点(2)-「神に対して生きる/神のために生きる」とは?

 

 イエス様の第二の論点は出エジプト記3章6節です。そこで神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。

 

 ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの根拠になっていることです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブは将来の復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられたと考えることができます。以前の説教では、3人が復活の日まで眠っていてその日に復活させられる可能性について考えてみました。今回は3人が既に神の御許にいる可能性に立って話を進めます。

 

 イエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になります。実はこの個所はそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、その意味で「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、その言い方はこの復活について教える個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。文というものは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文が置かれた文脈と無関係だったら意味を成さなくなるのです。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」です。これも注意しないといけません。文脈から遊離してはいけません。

 

 それでは、このイエス様の言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど素直に直訳的に「神に対して」とか「神のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」byとは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

 

 次に「神に対して生きる/神のために生きる」というのは、どういう生き方かをわからないといけません。わかりそうでわかりにくい文です。イメージとして、神にお仕えするように生きるということが思い浮かぶかもしれません。もっと具体的にわかることができるでしょうか?それができるのです。「神に対して生きる/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章10~11節にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。このようにギリシャ語で読むと両方とも同じ言い方をしているとすぐわかるのに、日本語訳では一方は「神によって」、他方は「神に対して」と違う言い方で訳されてしまうので関連性が見えなくなってしまうのです(後注2)。そこでローマ6章の「神に対して生きる/神のために生きる」がどんな生き方かを言っているかがわかれば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

 

 ローマ6章のパウロの教えは、スオミ教会の聖書研究会の復習になりますが、こういう流れです。神の意思を表す律法は、人間が神の意志に反しようとする性向、罪を持つことを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされるようになる。まさに罪の赦しが神から「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪が暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を復活と永遠の命に導くようになった。

 

 そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人が出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きることなど不可能なのだ」(6章2節)。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、それは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪の言いなりになる生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということなのです。そのことが十字架という歴史上の出来事をもって未来永劫にわたって起きたのです。

 

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様のことだけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまります(後注3)。キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す器として生きるというのはどういう生き方か?本教会の説教でも毎回のように教えています。罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。そのようにして罪に背を向け神に向く生き方を貫くと、復活の日に神の栄光を現す復活の体を着せられて罪との戦いは終結します。

 

4.神は復活に向かう者の神

 

 イエス様の言葉「神に対して生きる/神のために生きる」は、パウロの言い方からわかるように、罪の赦しのお恵みに留まって、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す生き方をすることです。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、既に神の御許に迎え入れられた者たちだけでなく、今そこに向かって進んでいる者も含むのです。「生きている者」というのは、ただ単にこの世で生存している者のことではなくて、まさに復活に至る道に置かれてその道を歩む者のことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~は既に神の御許に迎え入れられた者だけでなく、そこに至る道を歩んでいる者も含むのです。

 

 兄弟姉妹の皆さん、その~に自分を当てはめてみて下さい。皆さんが聖書の神つまり創造主でありイエス・キリストの父である神を「私の神です!」と言うと、皆さんはその神の御許に向かって歩んでおり、復活の日に神が自分を復活させてくれると確信していると告白することになります。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。