2022年11月7日月曜日

聖書の神があなたの神になる時、あなたは復活の日に復活する (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年11月6日(聖霊降臨後第22主日)スオミ教会

 

ヨブ記19章23-27a節

テサロニケの信徒への第二の手紙2章1-5、13-17節

ルカによる福音書20章27-38節

 

説教題 「聖書の神があなたの神になる時、あなたは復活の日に復活する」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.キリスト信仰の復活について

 

 本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。キリスト信仰の死生観の土台と言ってもよいでしょう。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。この個所については3年前にも説教しましたが、今日は少し視点を変えて説き明かしをします。結論は全く同じです。

 

 ところで、復活だの死ぬだの、どうしていつも暗い話ばかりするのか、もっと現世的な明るい話題を取り上げてハッピーな気分にできないのかと言われてしまうかもしれません。誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、または自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたなと思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して前に進めなくなるということもないし、逆にそんな問いには来てもらいたくないと必死に避けることもしない。問いが来たら来たで、確認してハイ終わり、です。そういうふうに確認するものがあるというのはいいことです。

 

 本日の説教は福音書の個所の説き明かしが中心になります。本題に入る前に、復活について要点を復習しておきます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それと、イエス様を救い主と信じる者たちが与る、将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度復活するということはありません。それで、将来のある時とはいつかと言うと、それは今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される時です(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)。それはまた、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時です(「ヘブライ人への手紙」12章27-28節)。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

 

 黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神が裁判官になって裁判を行います。神の手元には全ての人が旧い世でどんな生き方をしたか記録した書物があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがその復活に与ることになります。

 

 また、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様と結びついている死者たちが復活させられる。それと、再臨の時点でまだ生きている信仰者たちが彼らに合流して神のもとに迎え入れられる。このようにパウロは、イエス様再臨の時点で生きている人たちにも目を向けています。

 

 ここで、復活について二つ注意すべきことを申し上げます。一つは、パウロが第一コリント15章で言うように、復活させられる者は皆この世の肉体のように朽ちる体ではなく、神の栄光を現わす復活の体を着せられるということです。つまり復活させられる者は、既に死んでいた者も、その時点で生きている者も、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられることはありえないということです。みな同じ復活の体を着せられるのです。誰もこの世の姿かたちで天の御国には迎え入れられないので、皆がこの世の肉体から離別するということになります。

 

 このことは、本日の旧約の日課ヨブ記の中でも言われています。ただ、日本語訳は何か抜け落ちていたりしてはっきりしません。実は、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳もまちまちで、ここは各国の訳者にとってやっかいな箇所のようです。そこで、19章の23節から27節の前半までをヘブライ語の原文に出来るだけ忠実に訳すと次のようになります。

 

「(25)私は知っている、私を贖って下さる方は生きておられると。将来、その方はこの滅びゆく大地の上に立ち上がる。(26)私の皮膚が引き裂かれた後で、私は肉体から離れた状態で神を見る。(27a)その方を私自らが見るのだ。私の目が見るのだ。その方はよそよそしい方ではない。」

 

 このように、ここは復活の時の有り様がこの世の有り様と違うことが言われているのです。さらに贖い主つまりイエス様の再臨のことも言われています。聖書の学会では普通、ヨブ記は知恵文学に属すると言われるのですが、このように復活という黙示文学の要素も持っているのです。聖書の書物を~文学、~文学とジャンル分けすると、他のジャンルの要素があっても気に留めなくなる危険があると思います。各国の訳者は案外、この危険に陥って黙示文学の要素などあり得ないという視点で訳したのかもしれません。

 

 復活に関してもう一つ忘れてはならないことは、迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

 

 復活は将来に一括して起きること、人間一人一人死ぬたびに起こることではないなどと言うと、じゃ、死んだ人たちは将来起こる復活の日まではどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところで我が国日本では普通、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が大半です。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 

 そう言うと今度は、死んだ人が本気で眠ってしまったら、誰が起きていて見守ってくれるのかと心配する人たちが出てきます。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、祟りだの、ナントカ商品だのと言われてもびくともしなくなり、この日本も安心して住める国になるのにと思わざるを得ません。

 

 そこで、天の御国への迎え入れが起こるのは復活の日だからそれまで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

 

2.イエス様の論点(1)- この世での有り様と復活の有り様

 

以上、復活の要点を復習しました。これから本日の福音書の個所の説き明かしに入りましょう。サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 

 サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに議論を吹っかけました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問なんです、と無垢を装う演技派だったでしょうか?

 

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。一つは、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということです。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみます。

 

 人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた新しい世になります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、先ほど見た第一コリント15章のパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」であると言われます(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きるようになる。この、復活した者が「神に対して生きる/神のために生きる」ということが第二の論点のところで鍵になります。

 

 以上、イエス様の第一の論点を見てみました。サドカイ派は復活を正しく理解していませんでした。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。もし復活を正しく理解していれば、そんな質問は出なかったでしょう。

 

3.イエス様の論点(2)-「神に対して生きる/神のために生きる」とは?

 

 イエス様の第二の論点は出エジプト記3章6節です。そこで神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。

 

 ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの根拠になっていることです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブは将来の復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられたと考えることができます。以前の説教では、3人が復活の日まで眠っていてその日に復活させられる可能性について考えてみました。今回は3人が既に神の御許にいる可能性に立って話を進めます。

 

 イエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になります。実はこの個所はそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、その意味で「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、その言い方はこの復活について教える個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。文というものは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文が置かれた文脈と無関係だったら意味を成さなくなるのです。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」です。これも注意しないといけません。文脈から遊離してはいけません。

 

 それでは、このイエス様の言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど素直に直訳的に「神に対して」とか「神のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」byとは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

 

 次に「神に対して生きる/神のために生きる」というのは、どういう生き方かをわからないといけません。わかりそうでわかりにくい文です。イメージとして、神にお仕えするように生きるということが思い浮かぶかもしれません。もっと具体的にわかることができるでしょうか?それができるのです。「神に対して生きる/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章10~11節にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。このようにギリシャ語で読むと両方とも同じ言い方をしているとすぐわかるのに、日本語訳では一方は「神によって」、他方は「神に対して」と違う言い方で訳されてしまうので関連性が見えなくなってしまうのです(後注2)。そこでローマ6章の「神に対して生きる/神のために生きる」がどんな生き方かを言っているかがわかれば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

 

 ローマ6章のパウロの教えは、スオミ教会の聖書研究会の復習になりますが、こういう流れです。神の意思を表す律法は、人間が神の意志に反しようとする性向、罪を持つことを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされるようになる。まさに罪の赦しが神から「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪が暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を復活と永遠の命に導くようになった。

 

 そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人が出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きることなど不可能なのだ」(6章2節)。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、それは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪の言いなりになる生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということなのです。そのことが十字架という歴史上の出来事をもって未来永劫にわたって起きたのです。

 

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様のことだけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまります(後注3)。キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す器として生きるというのはどういう生き方か?本教会の説教でも毎回のように教えています。罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。そのようにして罪に背を向け神に向く生き方を貫くと、復活の日に神の栄光を現す復活の体を着せられて罪との戦いは終結します。

 

4.神は復活に向かう者の神

 

 イエス様の言葉「神に対して生きる/神のために生きる」は、パウロの言い方からわかるように、罪の赦しのお恵みに留まって、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す生き方をすることです。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、既に神の御許に迎え入れられた者たちだけでなく、今そこに向かって進んでいる者も含むのです。「生きている者」というのは、ただ単にこの世で生存している者のことではなくて、まさに復活に至る道に置かれてその道を歩む者のことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~は既に神の御許に迎え入れられた者だけでなく、そこに至る道を歩んでいる者も含むのです。

 

 兄弟姉妹の皆さん、その~に自分を当てはめてみて下さい。皆さんが聖書の神つまり創造主でありイエス・キリストの父である神を「私の神です!」と言うと、皆さんはその神の御許に向かって歩んでおり、復活の日に神が自分を復活させてくれると確信していると告白することになります。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。

2022年10月3日月曜日

キリスト信仰者の自己肯定感といわゆる「信仰の成長」について (吉村博明)

  

 

主日礼拝説教 2022年10月2日(聖霊降臨後第十七主日)スオミ教会

 

ハバクク書1章1~4節、2章1~4節

テモテへの第二の手紙1章1-14節

ルカによる福音書17章5-10節

 

説教題 キリスト信仰者の自己肯定感といわゆる「信仰の成長」について


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課の最初の部分は、イエス様の有名な「からし種」の話です。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は、何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。

 

 からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが3~4メートル位の木に育つと言われています。それなので、イエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言っていることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?

 

 もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?そんな疑問が生まれます。からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。果たしてそうなのか?以下に見ていきましょう。

 

2.キリスト信仰者の自己肯定感

 

最初に、召使いを労わない主人のたとえを見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指しているからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇用者と被雇用者、親と子、先生と教え子の関係ではありません。

 

 神が命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、突き詰めて言うと、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。これでは、自己肯定感なんか生まれません。

 

 ところが、神は、私たちにとって労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても私たちは全然平気だ、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はイエス様を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。

 

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この与えられた神のひとり子の償いを手放さずにしっかり携えてこの道を歩み続けると、かの日、創造主の神のみ前に立たされる時、大丈夫、何もやましいところはない者として見てもらえると安心して立つことができます。本当を言うと、失敗だらけ至らないことだらけだったのだが、その度にいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを祈った。すると、一度打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにある、だから心配しなくてもよい、といつも神から言われた。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで満たされて再び永遠の命の道を歩み始めることが出来た。永遠の命の道とは、このように繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道を歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでその人はかの日に神のみ前に心配せずに立つことが出来るのです。

 

 ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰を携えて歩めたおかげで、神のみ前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はこの私にイエス様を贈って下さったのだ。

 

 このことがわかると、やるべきことをして労われて誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を犠牲にして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ。これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しないでいられる自己肯定感です。別に見返りなんかなくても平気でいられる自己肯定感です。

 

 もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。それなので、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきた時、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。

 

 本日の旧約の日課ハバクク書の箇所には、周囲は不正と暴力が溢れ、正義が歪曲されてしまった状況が描かれています。その中で、神の義に生きる者はどうしたらいいのかという問いに対する答えがあります。それは、神の救いの約束はなかなか実現しないように見えても、必ず実現するから、神の意志に反する者たちの言うことを聞くな、神の意志に従えば永遠の命に与れるということを明らかにしています。このことは、イエス様が来られる前の時代には確信を持つことは難しかったかもしれません。しかし、イエス様が来られた後は神の約束は実現すると確信が持てるようになったのです。この確信を得たキリスト信仰者は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を与えられているとパウロは本日の使徒書の日課第二テモテの個所で述べています。

 

 それなので、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の関係から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、果ては選挙で投票してもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。自己肯定感のためにやっていたはずのことが、いつの間にか肝心の自己が周囲や便宜を図る者に造られていってしまうのです。

 

3.からし種のように成長するのは信仰か?

 

次にからし種のたとえの教えを見てみましょう。イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうのではと思わせます。それで、お前たちは、せめてからし種くらいの信仰を持て、そうすれば奇跡を起こせるぞ、と言っているように聞こえます。イエス様は本当にそういうことを言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?

 

 まず、イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。後の文と一緒にしてみると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示します。そうすると、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、あなたがたにはないことを前提に言っていることになります。高校の英文法で言えば、事実に反することを暗示する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。つまり、ここは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っていないとも持っているとも言っていないのです。そして不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを暗示しています。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろうが、実際にはお前たちは命じないだろうから、桑の木も実際にはそういうことをしないだろう」という意味です。

 

 さあ、混乱してきました。今まで多くの方が理解していた理解がぐちゃぐちゃになってきたと思いますので、整理してまいりましょう。

 

 からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。

 

 このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長することに関係しているということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。ここで問題になるのは、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは、神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う者が持てないような「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。

 

 それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、キリスト信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神のみ前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところはないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。「恵みの賜物」は異なっていても、これだけは全員同じです。

 

 そこでもう一つ大事なことを申し上げます。「信仰が成長する」とよく言われますが、正確には「信仰を携えて私たちが成長する」ということです。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰ですが、それが成長するのではなく、それを携えた私たちが成長するということです。どういうことかと言うと、先週スオミ教会の礼拝の後で聖書研究会を行いました。学んだ箇所はローマ10章1~13節。かつてモーセは、律法は難しくない、それは人間が行えるようにと口と心の中に置かれているのだ、と教えました。それに対してパウロは、人間を罪の支配から贖い出して下さったキリスト自体が信仰と洗礼を通して人間の口と心の中に置かれているのだと教えました。それで、かつては、口と心の中にある律法を行うことで人間は神から義と認められて救われるということだったが、今度は、口と心の中にあるキリストの贖いを、口にあるからそのままイエスは主である言い表し、心の中にあるからそのままイエスは死から復活したと信じれば義と認められ救われるのだ、と教えたのです。パウロにとって信仰とは、キリストの贖いが口と心の中にある位に身近にあって、それで口でその通りに言い表して心でその通りに信じることなのです。

 

 それなので、キリストの贖いを口と心の中に持つキリスト信仰者は口でその通りに言い表し心でその通りに信じることを、この世の人生の中で行う。これが信仰を携えて成長することです。それはあたかも、口と心の中にあるキリストの贖いという大きなものに小さな自分を適合させていくようなことです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出すという繰り返しがあります。その繰り返しをすることもキリストの贖いを口と心の中で携えて成長することです。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になります。その時が復活の日なのです。

 

 こういうふうに見ていくと、イエス様の主眼とするところは、だんだん、奇跡の業を起こせることで信仰が大きいとか小さいとか判断することをやめよ、ということになっていきます。先にも申しましたように、奇跡の業を起こせることは「恵みの賜物」の領域で人間が立ち入ることは出来ません。奇跡の業を起こせて信仰が大きい起こせなくて小さいという問題ではないのです。イエス様は弟子たちに、お前たちがそんな考えにとらわれているんだったら、これでどうだ、と言わんばかりにこのからし種の話を出してきたことがわかります。奇跡の業を起こすのは別に大きな信仰なんかではないと思い知らせるために、奇跡の業をからし種のような極小のものに結びつけて見方をひっくり返す。そして、奇跡の業の例として取り上げたものも、たまたまその辺に生えていた桑の木を指さして、その木が自分から抜け出して海に行ってそこで生えるというような、あまり意味のないどうでもいいものにする。このように見ることができれば、イエス様の主眼は一般に言われるような、お前たちはからし種位さえの信仰もないので奇跡は起こせない、せめて、からし種位の信仰を持て、そうすれば起こせる、ということではありません。そうではなくて、奇跡の業を起こすのが大きな信仰ではない、信仰者にとって大事なのは神から与えられたキリストの贖いの信仰を携えてからし種のように成長することである、ということなのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

(後注1)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεになるべきでしょう。


(後注2)εχετε - ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk-SvenskOrdbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。

2022年9月26日月曜日

イエス様の十字架と復活は旧約聖書を繙く者に絶大な力を発揮する (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年9月25日(聖霊降臨後第十六主日)スオミ教会

 

アモス書6章1、4-7節

テモテへの第一の手紙テモテ6章6-19節

ルカによる福音書16章19-31節

 

説教題 イエス様の十字架と復活は旧約聖書を繙く者に絶大な力を発揮する


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. この話は単なる道徳論か?

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくご自分で創作した話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?

 

 まず、金持ちがいて贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていた。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

 

 ラザロという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら叶わない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。

 

 「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを無視して贅沢三昧な生活を続けていました。

 

 さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので葬式が挙行されました。16億6千万円位する国葬級ではなくとも、さぞかし盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も書いてありません。きっと遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

 

 ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事はほんの序論にすぎないと言えるくらい、本論がここから始まるのです。金持ちは、盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちに天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。

 

 金持ちは、聖書の観点から見て、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、神に服従せず富に服従したからです。それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方です。つまり、二重の罪というわけです。もし、富にではなく神に服従して、富の主人になって、それを神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。

 

 以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人はキリスト信仰者であってもなくても、ああ、イエス様は利己的に生きてはいけない、困っている人を助けてあげなければいけない、と教えているんだなと思うでしょう。ところで、利己的に生きてはいけない、困っている人を助けなければいけないというのは、別に聖書の神の掟を持ち出さなくても、誰にでもわかる道徳的な教えだと思われるかもしれません。それに、良いことをさせるため、悪いことをやめさせるために天国や地獄を持ち出すのは時代遅れのやり方だ、今はもっとスマートな議論をすると批判されるかもしれません。このように本日の個所は道徳的な教えにしかすぎないように見えてきます。

 

 しかしながら、本日の個所のイエス様の教えの中心は、利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ、ではありません。もしそれが中心なら、別にキリスト教なんかいりません。本当に中心にあるものがあって、そこから、利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ、という規範が派生して出てくるのです。その中心にあるものを把握しないと、本日の個所は別にキリスト教でなくてもいい道徳論になります。

 

 それでは中心にあるものとは何か?それを見つける鍵は、この話の最後にあります。金持ちがアブラハムに言います。「父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」「悔い改める」というのは、ギリシャ語のメタノエオーという動詞です。神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになるという方向転換を意味します。うなだれて反省しまくっているのとはニュアンスが違います。これに対してアブラハムが答えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。「その言うことを聞き入れはしないだろう」も正確な訳は「納得しないだろう」とか「確信に至らないだろう」です。何のことかと言うと、先ほど述べた「悔い改め」、「方向転換」する位に納得しない、する位の確信を得られないということです。それでこの最後の部分の正確な訳は以下に掲げます。因みに「モーセと預言者」と言うのは神の掟が集大成されたモーセ五書と全ての預言書のことで、大雑把に言って旧約聖書のことです。「もし、モーセの律法や預言書に記されていることに耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、方向転換をすることはないだろう。」

 

2.キリスト信仰の天国と地獄について

 

 このアブラハムの言葉の中にイエス様の教えの中心があるのですが、それを解き明かす前に、一つ大事なことを確認しておきます。それは、キリスト信仰の天国と地獄はどういうものかについてです。これは、以前の説教でもお教えしたことです。

 

 この個所は普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」です。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。

 

 「陰府」と「地獄」の関係について少し見てみます。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした殉教者たちが最初に死から復活させられます。その次に、それ以外の人たちが復活させられます。この者たちは前世での行いに基づいて裁判を受けます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4-6節)。これが最後の審判です。この後で天と地が新しく再創造されて今の私たちの天と地に取って代わり(21章1節)、神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。このように神の国とは復活を遂げた者たちが一堂に会するところで、キリスト信仰で天の国、天国というのはこのことです。

 

 そうすると、天国とか地獄というものは、将来、最後の審判や復活や天地の再創造が起きる時になって迎え入れられるところ、投げ込まれるところになります。それなので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と教えています。ルターは眠りの場所を「陰府」と言っていませんが、復活の出来事が起きる前には、そのような眠りの場所があるのです。

 

 そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の海に投げ入れられるかはまだまだ先のことで、今の天と地が存在する今の段階ではどこかで安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われます。でもそうなると、最後の審判や復活や天地の再創造が起きていなければならない。ところが、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判は来ていません。そうすると「地獄」でなく「陰府」が正確と思われます。しかし、金持ちはもう眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。まだ最後の審判は起きていないのに。一体これはどういうことでしょうか?

 

 この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVは、このハーデースを陰府ではなくhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では地獄ではなく陰府を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳せざるを得ませんでした、そう断っています。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、別のEinheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltという訳で「陰府」です。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、「地獄」とはしっかり区別されています。

 

 どうしてイエス様はこの個所で、地獄と考えられる場所を「陰府」と言ったのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、事の順序にこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、最後の審判と復活が起きて今ある天地がなくなった後のことです。全人類が対象となる、天国への迎え入れか地獄への落し入れかの選別が起きた後のことです。ところが、金持ちはアブラハムにラザロを父親の家にいる兄弟のもとに送って下さい、そうすれば彼らは悔い改めますから、などと頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまったら、最後の審判と復活が起こったことになってしまいます。その場合は、今の天も地も父親の家もなくなって、兄弟たちも裁きの座に引き渡されて、ラザロを送ってあげるどころではなくなります。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。それでイエス様は火の海を地獄ではなく陰府と言ったと考えられます。こうしたことは、自由な創作をすれば起きると思います。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで事の順序にはこだわらなかったのでしょう。

 

 これから、その大事なこと、イエス様の教えの中心に入っていきますが、その前に天国と地獄についてもう一つだけ述べておきます。聖書の立場では人間は死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、ということにすると、聖書には例外もあるということも覚えてよいかと思います。つまり、最後の審判や復活の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人たちがいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記下2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもその一人と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、最後の審判や復活の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうか?これはもうそこにおられる父なるみ神だけがご存じです。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。

 

 日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった人が今天国から見守ってくれているという言い方をよくします。「天国」というキリスト教的な言葉を使うのですが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。その日まで眠りについているという考えもありません。それなので亡くなった方とコミュニケーションを取り続けます。そこに祟りとか呪いということを持ち出す輩につけ入れられる危険があると思います。しかし、亡くなった方が安らかに眠ってしまったら、コミュニケーションは取れないし、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と大方の日本人は心配するでしょう。でも、キリスト信仰では天と地と人間の造り主である父なるみ神が唯一のコミュニケーションの相手であり見守ってくれる方なので何も心配はいりません。

 

3.イエス様の教えの中心にあるもの

 

 それでは、イエス様の教えの中心に迫ってみましょう。アブラハムの言葉「モーセの律法と預言書に耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、方向転換はしないだろう。」実はこれは、イエス様の言葉です。アブラハムの口を借りて言わせたのです。それで教えの中心はここにあります。この言葉は逆に言うとこうなります。「モーセの律法と預言書に耳を傾けるのなら、誰かが死者の中から復活したら方向転換するだろう。」どうしてそのようなことが起こるのでしょうか?

 

 律法というのは、神が人間に与えた掟ですが、それはイエス様やパウロが教えたように、人間がいかに神の意志に反するものであるか、人間の神に対する罪性を明らかにする鏡のようなものです。律法を神から授かったイスラエルの民は、それを守ることで神から認められて永遠の命に与れると考えました。そうではなかったのです。律法は、人間の心の中まで入り込んで人間が神の目に相応しくないものであることを明るみに出す神聖な光だったのです。

 

 人間は、律法のこの役割を知った時、絶望と悲しみに襲われます。しかし、旧約聖書には預言書があります。そこには神から大いなる慰めがあるという約束、それと罪のゆえに陥った悲惨な状態から復興できるという神の約束が記されています。なかでもイザヤ書53章は、人間の神の意志に反する罪を人間に代わって償ってくれる者が現れる、その者は自分を犠牲にしてそうしてくれる、神もその者の償いで十分と認めるという預言があります。

 

 このように律法と預言書に耳を傾ける者は、悲しみと絶望を持つが同時にそれらを超える喜びと希望があると信じる者です。そこにイエス様の十字架と復活の出来事が起きると大変なことが起きます。イエス様はイザヤ書53章の預言通りに、人間の罪を全て引き受けて神の神罰を受けられました。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。神のひとり子が自分を犠牲に供したのです。完璧な罪の償いでした。さらに神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世に示されました。そこで人間が、これらのことは神が自分のためにして下さったことだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この罪の償いを自分のものとすることが出来、復活に至る道に置かれて復活を目指して道を歩み始めます。道の歩みではいつも変わらぬ神の守りと導きがあり、たとえこの世から別れる時があっても、復活の日まで眠りにつけ、その日が来たら復活の体を着せられて造り主である神の御許に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所です。

 

 こんな大きなことをして下さった神に対して信仰者はただひれ伏して感謝するだけです。その時、神の意志に沿うように生きるというのが当たり前になっています。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するがごとく愛することが当たり前になるのです。そこでは、律法は永遠の命を得るために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。

 

 このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意志に沿う生き方を志向するのですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意志に反する罪があることに気づかざるを得ません。神の意志によく注意するようになるので、信仰者になる前よりも敏感になります。気づいた時は失望します。怒りに変わることもあります。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、怒りはへり下りに変わり、自分に対する失望は神に対する感謝に転化します。自分が復活の道から踏み外していないことがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意志に沿うように生きようと志向します。このようにキリスト信仰者は方向転換を何度も遂げながら進んでいくのです。

 

 そうすると、キリスト信仰者でない人たちはどうなるのでしょうか?律法や預言書に耳を傾けることもないので、イエス様の十字架と復活の出来事を伝えても何のインパクトもなく、神に向かう方向転換もできないまま固定されてしまうのでしょうか?

 

 その心配は必要以上に抱かなくても大丈夫かもしれません。どうしてかと言うと、信仰者は、自分の場合どのようにしてイエス様の十字架と復活がインパクトを持つようになったかを思い出してみて下さい。洗礼を受ける前、ひょっとしたら旧約聖書はそんなに繙いていなかったという人が案外多いかもしれません。しかし、それでもイエス様の十字架と復活がインパクトを持って洗礼を受けるに至ったという事実は否定できません。洗礼の後でそのインパクトを眠らせないために旧約聖書をもっと繙くようになるということもあります。

 

 それでは、そのような人はどうやってイエス様の十字架と復活がインパクトを持つようになったのでしょうか?私が思うに、多くの人は自分で気づくか気づかないか、大体次の3段階の問いのプロセスを辿ったと思います。まず第一段階で、自分は造り主に造られた存在であるか? a)造り主などいない、b)造り主に造られた。bと答えたら第二段階に進む。そこでの問いは、造り主と自分の関係はどうか? a)何も問題ない、b)何か問題がある。bと答えたら第三段階に進む。そこでの問いは、造り主との問題をどう解決するか? a)自分の力で解決する、b)自分の力で解決できるか自信がない。ここでbと答えたら、イエス様の十字架と復活がインパクトを持つ可能性大です。また、どこかの段階でaと答えて先に進めなかった人も、後日何かのきっかけで考えや見方が変わって一つずつbと答えるようになるかもしれません。私たちキリスト信仰者はそのようなことが起こるよう祈らなければなりませえん。また、彼らがb、b、bでいいんだと確信持てるためにも、私たち自身イエス様の十字架と復活のインパクトを眠らせないように生きていかなければなりません。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン