2021年5月17日月曜日

キリストの体の部分でいれば大丈夫 (吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年5月16日 昇天主日

 

使徒言行録1章1-11節

エフェソの信徒への手紙1章15-23節

ルカによる福音書24章44-53節

 

説教題 「キリストの体の部分でいれば大丈夫」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。近年、国民の教会離れ聖書離れが急速に進んでいるフィンランドですが、それでもカレンダーを教会の伝統に合わせることがまだ残っているのは驚きです。今日は昇天日の直近の主日で、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。昨年と一昨年はエフェソ1章の聖句と結びつけて説き明かしをしました。一昨年はエフェソ1章の特に19節から21節に注目しました。そこでは、一度死んだ人間を復活させて復活の体を纏わせるということと、その者を創造主の神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要であるということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違うものを用いています(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょう。エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も用いています。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのに、日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者を復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというわけです。

 

ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来イエス様と同じように神の力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それをこの自分にも及ぼして下さる、そう信じられるかどうかが信仰の大きな鍵になるということを一昨年に申し上げた次第です。

 

昨年はさらにエフェソ1章の終わりの22節と23節に注目しました。教会は「キリストの体」であるとパウロは言います。ここで言われる「教会」は、スオミ教会のような個別の教会ではありません。また複数の教会から構成される教団でも、ルター派とかカトリックというような教派のことでもありません。それは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に至る道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。個々の教会、教団、教派という人的組織を超えた見えない教会です。それが「キリストの体」です。

 

そしてそのキリストはと言えば、今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立って、それらを足蹴にしていると。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実世界にある国の権力だけでなく、見えない霊的な力も全部含みます。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様はそうかもしれないが、信仰者は正直なところいろんな力の足蹴にされている方ではないか?「キリストの体」だなんて、パウロはちょっとはったりを効かせすぎではないか?でもこれはやっぱり本当のことなのです。昨年はこのことを確認しました。今年は、このことを19節から23節全体を見ながら、もっとはっきり出してみたいと思っています。つまり、キリスト信仰者はキリストの体の部分でいるので何があっても本当は大丈夫ということです。

 

2.イエス様の昇天

 

その前にイエス様の昇天の出来事をどう理解したらよいかということを毎年お教えしていますが、それをおさらいしておきます。

 

新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。それで、イエス様の昇天を同じようなイメージで捉えてしまったら、あまり真面目に受け取られなくなってしまうのではないかと心配します。

 

しかしながら、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。これは、スーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。

 

そうすると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろありました。それを忘れてはなりません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

 

これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。

 

 ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多くありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました(このことについては今年の復活祭の礼拝説教でお話ししましたのでご関心ある方はホームページで過去の説教をご覧下さい)。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物である天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

 

3.天の御国

 

イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されてきました。ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみましょう。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?毎年お教えしていることですが振り返ってみましょう。

 

地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏等々、いろんな圏があって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、先日も野口宇宙飛行士の帰還がニュースになりましたが、そういう宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

 

どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは信仰というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

 

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す人の脳神経の作用という言い方になっていくでしょう。

 

ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに、人間の命と人生は実は、この現実の世界だけでなく創造主の神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がどうしてひとり子を私たちに贈って下さったのかということがわかってきます。それは私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

 

それでは、イエス様を贈ることでどうやって人間がそのような大きな人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神に対して不従順になって罪というものを持つようになってしまって、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る、神の意思に背こうとする性向、罪、それは行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまった。そこで神は、この失われてしまった結びつきを回復するために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。

 

どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を人間に開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けるとその人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ったことになります。罪を償われた状態に入ることになるので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の御国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きる命を持てるようになったのです。

 

4.キリストの体の部分でいるから大丈夫

 

キリスト信仰者は永遠の命と復活の体が待っている神の御国に向かう道を進んでいます。この道を歩む信仰者たちが集まって見えない教会、つまり個別の教会、教団、教派を超えた教会を形作っています。パウロはエフェソ1章で、この見えない教会の頭としてイエス・キリストがあり、教会はその体であると言います。人間は聖書の御言葉の力を及ぼされて洗礼を受けることでその体の部分になれます。そして、体の部分である信仰者は聖餐式のパンとぶどう酒で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して御言葉の力を及ぼされて体の部分として成長を遂げていきます。

 

そこで、体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実がある。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまないし死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 

それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろうという力が働いているところです。大きな人生なんて無理だよ、と。それで、人間が自分の造り主に心と目を向けられないようにしてやろうとか、そのようにして人間が造り主の神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらが既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらはイエス様が再臨される日に消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の巨大な力が今度は信仰者たちに働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうのです。

 

そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として留まっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、この体に留まって成長していくだけで十分なのです。ただ今は、コロナ禍のために聖餐式は受けられません。辛いところです。それだけに説教者は今の時ほど御言葉の力を一層引き出すために説き明かしに努めなければならない時はないでしょう。スオミ教会はキリストの体の末端に連なる取るに足らない教会かもしれませんが、それでも説教者は御言葉の説き明かしにおいては他の立派な教会の説教者と同じように最善を尽くしているということをどうかお忘れにならないように。

 

 最後に宗教改革のルターが、キリスト信仰者はイエス様の強い守りの中にいるということと、体の部分である者同士が祈り合ってお互いを支え合うことを忘れてはならないと教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。その教えとは、マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」の説き明かしです。

 

「『全てのもの』とは文字通り全てのものである。全てのものが我らの主イエス様の手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。これの例外は何もない。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

 このことからも、イエス様の御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、我らに真の知識と真の光が与えられる。もしイエス様が全てのものを手中に収め、父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自らが述べているように(ヨハネ10章28-29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ない。確かに悪魔は機会を捉えてはキリスト信仰者をあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬みや憎しみで心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと仕掛けてくるだろう。しかし、悪魔の攻撃を受けてもキリスト信仰者は怯む理由も必要もない。なぜなら、我らには悪魔をも足下に屈服させている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ我らを真にお守り下さる方である。

もちろん、悪魔の攻撃は君をとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも恐ろしいことだ。それだからこそ君は祈らなければならない。君が堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちも君のために祈らなければならない。どんなことがあっても神が君を見捨てることはない。これは揺るがないことである。イエス様は必ず君を苦境から救ってくれよう。そうである以上、君の方から簡単に神の御国から離脱するようなことはあってはならないのだ。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。

 

2021年5月11日火曜日

聖霊が神の掟を守りやすくしてくれる (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年5月9日 復活後第六主日 スオミ教会

 

使徒言行録10章44-48節

ヨハネの第一の手紙5章1-6節

ヨハネによる福音書15章9-17節

 

 

説教題 「聖霊が神の掟を守りやすくしてくれる」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 復活祭から聖霊降臨祭までは日本のルター派教会の聖書日課の最初の日課は旧約聖書ではなく使徒言行録です。先週は、エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事でした。本日の個所は、ユダヤ民族の地域を占領していたローマ帝国軍の将校コルネリウスがイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたという出来事です。コルネリウスの洗礼の時は聖霊が降ったということが周りの目に見える形で現れました。エチオピアの高官の場合は目に見えない形で降ったことになります。いずれにしても、洗礼と聖霊の降りは密接な関係にあります。それで洗礼について考える時、聖霊についても考えなければなりません。本日の説教では最初にそのことについてお話しします。

 

 次に使徒書の日課である第一ヨハネ5章と福音書の日課であるヨハネ15章は双方とも愛することについての教えがあります。両方とも先週の日課の続きで、ずっとキリスト信仰にとって愛するとはどういうことか教えてきました。父なるみ神は先週だけでは足りない、もっと教えよと言っているようです。それでキリスト信仰にとって愛とは何かについて、今日も聖書の日課に基づいてお話ししようと思います。今日注目する点は、愛することと神の掟を守ることがどう結びつくかということです。ヨハネ15章を見ると、イエス様は「私が父の掟を守ってその愛の内に留まるように、あなたたちも私の掟を守るなら、私の愛の内に留まることになる(10節)」と言います。さらに、「あなたたちは互いに愛し合いなさい、それが私の掟である」と言います(12節、17節)。

 

 第一ヨハネ5章を見ると、ヨハネはまず1節で、イエス様をメシアと信じる者はみな神から生まれた者である、それを生み出す神を愛する者はみな神から生まれた者を愛する、と言います。つまりキリスト信仰者を生み出す神を愛する者は生み出された信仰者も愛すると言うのです。続いて2節で、我々がこうした神の子たち、すなわち他のキリスト信仰者を愛しているかどうかわかるのは、我々が神を愛し、その掟を行う時にわかる、と言います。そして3節で、我々の神に対する愛とは神の掟を守ることに他ならない、と言います。皆さん、話の筋が見えるでしょうか?要は、キリスト信仰者が神を愛すると言うならば、神から生み出された他のキリスト信仰者を愛するのは当然であり、その愛は信仰者が神の掟を守っているかどうかでわかる、というのです。もっと簡単に言えば、キリスト信仰者が神を愛するというのは神の掟を守ることであり、掟の中には他のキリスト信仰者を愛することが含まれるということです。

 

 以上から、イエス様の掟を守ることが彼の愛の中に留まる条件になっています。また、神の掟を守ることが神を愛していることの証しになっています。特にキリスト信仰者が他の信仰者を愛することが掟に含まれているので、そういう信仰者が互いに愛することがイエス様の愛の中に留まること神を愛することになっています。そういうふうに見ていくと、掟を守らないと神を愛していないと見なされてしまう、神を愛すると言うのなら掟をしっかり守れということになり、これは律法主義的に聞こえるかもしれません。しかし、そうではないのです。そのことを後で見ていきます。加えて、信仰者同士の愛についてばかり言っていて、キリスト信仰者でない人に対する愛は何も言っていません。信仰者でない人たちは別に愛さなくても、イエス様の愛の中に留まることや神に対する愛は問題ないということなのか?これも、実はそういうことではないので、それも併せて見ていこうと思います。

 

2.洗礼と聖霊の働き

 

 まずコルネリウスの洗礼について見ていきます。先週のエチオピアの高官の洗礼と様子が違っています。コルネリウスの場合は聖霊が降ったことが目に見える形で現れました。習ったことのない言語で神を賛美し出すという「異言を語る」ということが起こったのです。最初の聖霊降臨の時に起こったことと同じことが起こったのです。コルネリウスの洗礼で注目すべきもう一つの点は、ユダヤ人でない異邦人が洗礼を受けてキリスト信仰者になったということでした。

 

 なぜそれが注目すべきことになるのかと言うと、当時はイエス様を救い主メシアと信じる信仰はメシアを待望するユダヤ人が持てるという考え方でした。それで、キリスト教徒になるためにはまず割礼を受けてユダヤ人にならなければならなかったのです。ところが、コルネリウスの洗礼が起きる前、ペトロが幻を見ました。本日の日課の前の部分です。天から何か入れ物のようなものが下って来て、その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。それらは旧約聖書レビ記11章の中で汚れたものとされていました。突然、天から神の声が聞こえて、それらを食せよと言うのです。レビ記の規定があるのでペトロは出来ないと答えます。そこで神は、自分が清めたものを汚れていると言ってはいけない、と言います(使徒言行録10章13~15節)。このタイミングでコルネリウスの使者がペトロを訪問しました。ユダヤ人でない、しかも占領軍の将校がペトロの教えを乞うているというのです。

 

 ユダヤ人は神聖な神に近いということで異邦人は汚れた存在、それで親しい関係を持ってはいけないことになっていました。しかし、ペトロは幻の中で神に言われたことの意味がわかり出かけていきます。なぜコルネリウスはペトロに教えを乞うたかというと、彼は旧約聖書が証しする天地創造の神を信じるようになっていたからでした。彼のことを2節で「敬虔で神を畏れる者」と言っていますが、この「神を畏れる者」というのは使徒言行録の中によく出てきます。どういう人たちかというと、旧約聖書の神を信じるようになってはいたが、いろいろな事情から割礼を受けて正式にユダヤ教徒にはなっていなかった人たちです。

 

 先週の説教でもお教えしましたが、2000年前のギリシャ・ローマの多神教の世界にあって、万物の創造主である神を崇拝するユダヤ教は人々の目を引きつけました。特に道徳面で新しい視点を提供しました。例えば、当時この世界の奔放というかルーズな性のモラルに対して、ユダヤ教は人間を男と女に造った創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。さらに、当時の地中海世界には余分な赤子を父親の権限で処分するという間引きが当たり前のことのように行われていました。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内の中にいる時から神に目をかけられているという生命観を示して間引きに反対したのです。

 

 このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じ立場で正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けないでいる、ないしは受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍とも呼ぶべき人が大勢いたのです。これが「神を畏れる者」です。そこにある日突然パウロがやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるので予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることができません。そこで、ローマ帝国の官憲も巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。

 

 先週のエチオピアの高官の場合は宦官ですので、割礼を受けたくても受けられません。コルネリウスの場合は受けようと思えば受けられるのですが、受けないで異邦人の立場に留まりました。恐らくローマ帝国軍の将校が被占領国の民族の宗教に改宗するというのは立場上、難しかったでしょう。しかし、彼は神を信じて祈り、ユダヤ人に厚意を示していました。またペトロの発言から明らかなように(37節「あなたがたも知っている通り」)、彼はガリラヤ地方やユダヤ地方で何が起きたかを知っていました。洗礼者ヨハネの活動、イエスの活動とその奇跡の業そして彼の十字架刑と死からの復活。それらの出来事は天地創造の神の意思の現れなのか知りたいと思っていた時に神から目撃者を送ってもらったのでした。

 

ペトロの説教を聞いた結果、コルネリウスはじめ一緒にいた者たちが異言を語り出し聖霊が彼らに降ったことが明らかになりました。ペトロに同行したユダヤ人キリスト教徒たちは聖霊が異邦人にも降ったことに驚きます。ペトロはすかさず聖霊が降ることにユダヤ人も異邦人も関係ないとわかり、洗礼を施します。

 

エチオピアの高官の時はこのような現象は起こりませんでした。フィリポの説教を聞いてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。エチオピアの高官には聖霊は降らなかったのでしょうか?いいえ、そういうことではないのです。キリスト信仰の観点では、人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ません。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の現在イスラエルの国がある地域で旧約聖書とその神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得るも、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突した。その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史的な理解に留まります。

 

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言を通して明らかになります。では、その神のひとり子がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪を償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの世の次に到来する世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。そうした旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊はこの真理を私たちの心に示す働きをするのです。

 

 人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、この真理を示されたことに気づいたからです。人生のいろんな経験を通して神はこの気づきへと導かれます。気づかせた聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間をその働きの下に服させるようにするのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、洗礼を受けて聖霊の働きの下にすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないとか、また、救い主は沢山あってイエスは単なるそのうちの一人にすぎないとか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは何の意味もなさなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持って生きることができるので、霊的に安全地帯にいることになります。

 

 エチオピアの高官の場合は異言を語るということはありませんでしたが、聖霊の働きでイエス様を救い主と信じられるようになって洗礼を受けました。静かに聖霊の下に服したのです。コルネリウスの場合は、異言を語り出して騒々しく洗礼に至りました。どうしてそのような違いが生じたのか?聖霊は、自分の考えるままに賜物を授けるので私たち人間にはわかりません。ただ一つ言えることは、異言を語るという目に見える影響があったことで、ペトロに同行したユダヤ人キリスト教徒たちはぐうの音も言えませんでした。もしエチオピアの高官のように静かに聖霊の下に服したら、異邦人に聖霊が降るわけがないとペトロと言い争いになっていたかもしれません。そういうことを考えるにつけ、神の導きというのは本当によく考え抜かれたものと感心します。

 

3.聖霊が神の掟を守りやすくしてくれる

 

 コルネリウスの洗礼の話が長くなってしまいました。次の問題に入りましょう。ヨハネ福音書の日課と第一ヨハネの日課を見ると、キリスト信仰者がお互いを愛することがイエス様の愛に中に留まって神を愛することになります。そうすると、掟を守らないとイエス様の愛に留まっていない、神を愛していないということになります。もし神を愛すると言うのなら掟を守れ、というのは律法主義的に聞こえるかもしれません。また、信仰者同士の愛についてばかり言っていて、信仰者でない人たちは愛さなくてもいいのか?愛さなくても、イエス様の愛の中に留まることや神に対する愛は問題ないということなのか?急ぎ足になるかもしれませんが、これらの問題を考えてみます。

 

これらの問題は先週お教えしたことを振り返ればいろいろわかってきます。愛についてのヨハネの立場ははっきりしていました。人間が普通、愛と言っているものは実は愛ではない。愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにしてあげよう、そのために他に手立てがなければ自分のひとり子を犠牲にしても構わない、これが神の愛で本当の愛だと言うのです。人間はこの愛で愛されて本当に愛することができると言うのです。この愛がなければ本当に愛することができないと言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということでした。

 

 そうすると、キリスト信仰者が掟を守ったり愛するのは、イエス様の愛に留まるため、神を愛していることを示すためとは言っても、律法主義にならないものが見えてきます。というのは、キリスト信仰者という者は既にイエス様の愛の中に留まっている者であり、神に愛されている者である。だから、イエス様の愛の中に留まれるために、とか、神に愛されるために愛するというような~のためにという目的があって愛するということはありません。既にイエス様の愛の中に組み込まれていて神に愛されているのです。そうすると目的がなくなってしまうので愛したり掟を守る動機が起きなくなってしまうでしょうか?

 

いいえ、そういうことにはならないのです。もし私も皆さんも自分が万物の創造主の後ろ盾を得てこの世とこの次の後に到来する世の双方を生きられるようになった、しかも、それをさせないようにしていた邪魔者を神がご自分のひとり子を犠牲にしてまで撤去して下さった、それで私たちは壮大な方の後ろ盾を得て壮大な人生を生きられるようなった、このことに気づいたら、神は本当に全身全霊で愛すべき方だとわかるでしょう。この愛すべき方が、父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、他人のものを妬んだり欲しようとするな、しかもこれらを外面的な行為だけでなく、心の中までもそういう状態にしなさいと言っているのです。人間の先生が偉そうに言っているのではなく、ひとり子を犠牲にしてまで私たちを滅びの崖っぷちから救い出して下さった方、そして私たちの本当の造り主である方がそう言っているのです。

 

さて救い出された私たちが生きることになった新しい命は、心の中まで父母を敬い、殺さない、姦淫しない、盗まない、偽証しない、他人のものを妬んだり欲したりしないという命です。そんな命を生かされることになったら、それと調和して生きることが自然になります。これはまさに、神に愛されているので神の意思に沿うように生きる、考える、言葉する、行うことが自然になって、そのように生きることが神への愛を現わしているのです。

 

ところが現実はもっと複雑であることをパウロがローマ7章の終わりで見事に言い当ています。キリスト信仰者はこうした意識の面では確かに神の命じることに従っているのだが、肉の面では罪が命じることに従っていると言うのです(25節)。それで新しい命を生きる自分は、神の意思に沿うのがふさわしい生き方だとはわかっていても、いつも肉や肉につけ入るこの世が神の意思に沿わないようにと引っ張ります。それでパウロはローマ8章で、キリスト信仰者は自分の内に駐留する聖霊が助けてくれるので意識が肉を圧倒することができるのだと教えるのです。

 

パウロがローマ12章で列挙するようなキリスト信仰者の生き方、悪を憎み善から離れない、兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思う、迫害する者を呪わず祝福を祈る、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、思いをひとつにし高ぶらず身分の低い人々と交わる、自分を賢い者とうぬぼれない、誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がける、隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第である時は迷うことなくそうする、少なくとも自分から平和な関係を壊さない、自分で復讐しない、最後の審判の時の神の怒りに任せる、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる、善をもって悪に勝つ。これらのことは全て、新しい命を自分一人だけでなく聖霊に助けられながら生きるとこうなっていくというものです。聖霊が肉を押さえつけるので神の掟が守りやすくなるということです。人間に何か力があったからそのように出来るようになったというのではありません。人間にそんな力はないでしょう。聖霊に助けられる人にとって、第一ヨハネ5章3節の御言葉「神の掟は難しいものではありません」というのは真理です。

 

最後に、愛せよというイエス様や父なるみ神の掟はキリスト信仰者同士だけのものかということについて、そもそも神の愛とは、ひとり子イエス様を用いて罪の償いと復活の命への道開きを行って、これを全ての人間が受け取るようにと提供して下さっていることです。そうすると、既に受け取ったキリスト信仰者を愛するということは、その方が信仰に留まるように、新しい命を聖霊に助けられて生きるように支えるということが土台にあることがわかります。そして、まだ罪の償いと復活の命への道開きを受け取っていない人にはそれを受け取れるようにと導いてあげることがその人を愛することの土台にあります。

 

この導きは伝道に繋がります。先週も申し上げましたが、いろんな宗教や死生観があるところではこうした伝道は簡単なことではありません。キリスト信仰者の側としては愛だと思ってやったことが、相手側からすると余計なお世話だとか脅威に受け取られたりするからです。人がどの宗教を信じるか、あるいは信じないかということは、詰まるところ、どんな死生観を持つかという問題に収れんします。自分はどの死生観を持ってこの世を生き別れて次の段階に行くか、自分が納得いくものを持つことになります。私がキリスト信仰の死生観で納得するのは、復活ということが正義と愛の完全な調和になるからです。この世では正義と愛の完全な調和はありません。愛なしで正義を追求しようとすると無慈悲になります。正義なしで愛を追求しようとすると甘やかしになります。愛に裏打ちされた正義、正義に裏打ちされた愛を目指さなければなりません。人間は完全な回答を見つけられないと思います。神のみが完全な正義と完全な愛を持ち合わせています。復活の日に完全な回答を得られるとわかれば、この世で自分の無知無力さを思い知らされても、それほど辛くはなりません。復活の日に思いを馳せられるのも聖霊の働きです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年5月3日月曜日

時代の波風猛る時も神の愛に踏み留まり豊かに実を結ぶのみ (吉村博明)

  

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年5月2日 復活後第五主日 スオミ教会

 

使徒言行録8章26-40節

ヨハネの第一の手紙4章7-21節

ヨハネによる福音書15章1-8節

 

 

説教題 「時代の波風猛る時も神の愛に踏み留まり豊かに実を結ぶのみ」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.時代の状況と無縁ではないキリスト信仰

 

 本日の使徒言行録の日課の個所は、エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事です。この出来事は、人がイエス様を救い主と信じる信仰に至る時、万物の創造主の神はその人の生きた時代の中にあるいろんなことを用いて信仰に至らせるという、そんな神の大いなる導きを示しています。一般に信仰は個々人の内面のことと言われますが、神はこのように時代の状況を用いて人間に働きかけて信仰に至らせるというのが本当ではないかと思います。本日の説教ではこのことをエチオピアの高官の受洗を通して見ていこうと思います。

 

それから本日の福音書の日課の個所は、イエス様がキリスト信仰者に対してブドウの木の枝が木に繋がって実を結ぶように信仰者もイエス様に繋がって実を結べと教えるところです。これも、イエス様を救い主と信じる信仰に至った者は今度は神と共に時代の状況に働きかける側になるということを意味しています。このことについても見ていきます。

 

そういうわけで本日の説教は、キリスト信仰というのは信仰に至るまでも、また至った後も時代の状況とは無縁ではないということがテーゼになります。

 

2.神は時代の中にあるいろいろなものを用いて人を信仰に導く

 

 エチオピアの高官の受洗について、まずこの出来事が記載されている使徒言行録という書物について述べておきます。この書物は、死から復活されたイエス様が天に上げられ、その後で聖霊降臨の出来事が起こって、聖霊の力で弟子たちがイエス様を救い主であると宣べ伝え始めるところから始まります。弟子たちの伝道がエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わり、大体30年間位の出来事が記録されています。まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物です。

 

 本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来ます。ガザは、今でこそパレスチナとイスラエルの不幸な紛争のために中東情勢の熱い焦点の一つですが、本当は紀元前1500年位からある歴史的な町で、ローマ帝国の時代は平穏な町でした。エチオピアの方は、本日の箇所に出て来るのは現在のエチオピア国家と関係はなく、当時エジプト南部の地域はそう呼ばれていました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。どうしてかと言うと、イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至るまでの地中海東部の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えていました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。使徒言行録のパウロの伝道旅行をみますと、彼はたいてい訪問先で初めにシナゴーグを訪れます。そこで、エルサレムで起きた事件、イエス様の十字架と復活の出来事を知らせ、旧約聖書の預言が実現したことを伝えます。それを聞いたユダヤ人たちはいつも信じる者と信じない者に分裂しました。

 

 これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。本日の箇所でエチオピアの高官が読んだイザヤ書53章7-8節ですが、よく見ると、私たちが手にする旧約聖書のそれと少し違っています。これは、私たちの旧約聖書はヘブライ語から翻訳されたものなのに対し、エチオピアの高官が読んでいたのはギリシャ語の旧約聖書だったことによります。翻訳文がもとの文と違っているということがよくあるのです。エチオピアの高官は、ギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官でしたので割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、メシアの到来を待ち望む信仰を持つには至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったのです。

 

地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人が移住したことの他に、移住先の現地人たちが改宗したこともありました。ユダヤ教に改宗するというのは、現代の目で見ると少し奇異な感じを持たれる方がいらっしゃるかもしれません。それは歴史を通してユダヤ教やユダヤ人に対する迫害と偏見が長く持たれ、特にキリスト教側から否定的なイメージが作られたことが影響していると思います。ここではそういう後世に出来てしまった見方を脇に置いて、2000年前はどうだったかという、当時の視点で見てみますとかなりイメージが異なってきます。例えば、2000年前のギリシャ・ローマ世界の性のモラルは奔放というかルーズなところがありました(ひょっとしたら現代も似ているかもしれませんが)。そういうところでユダヤ教は、人間を男と女に造った創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。つまり余分な赤子は父親の権限で処分するという嬰児殺しが当たり前のことのように行われていました。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内の中にいる時から神に目をかけられているという生命観を示して間引きに反対したのです。

 

このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じ立場で正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍が大勢いたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、まさに彼らのことです。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。さあ、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることはできません。ローマ帝国の官憲も巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。

 

以上のような時代状況を使徒言行録は明らかにしています。ここでエチオピアの高官の受洗を見てみましょう。彼はイザヤ書53章7-8節の、屠り場に引かれる羊や毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは誰のことか?と悩んでいました。実は、彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所はヘブライ語の原文よりやっかいです。ヘブライ語では「羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまい、彼の同時代の者は誰もそのことを気に留めない」という書き方です。ところがギリシャ語の方は「主の僕はへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」などと言います。それに続いて「彼が死ななければならなかったことを誰が説明することができるだろうか?」などと問います。ヘブライ語とかなり違っています。

 

(ここで一つ注釈しますと、新共同訳では「卑しめられて、その裁きも行われなかった」と訳されていますが、ギリシャ語原文ではエチオピアの高官が読んだ部分は「彼がへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」です。ギリシャ語のイザヤ書の個所もその通りになっています。参考までに各国語ではどう訳されているかを見ると、フィンランド語訳とスウェーデン語訳はこれと同じです。ルター版のドイツ語訳は「彼の裁判は廃止される」で、新共同訳の「裁きが行われなかった」に近いです。英語のNIVは「彼の正義が奪われる」で、裁判が行われなかったことを意味するのであれば日独に近いです。フィンランド語訳とスウェーデン語訳は裁き=有罪判決が取り除かれるということで、私はギリシャ語原文の意味はこれだと思います。)

 

もしエチオピアの高官がヘブライ語で読んだのなら、主の僕が具体的に誰かはわからなくても何か迫害を受けたことはわかります。ところがギリシャ語を読むと、へりくだったことによって裁きが取り除かれるとあり、何のことかわかりません。しかも、主の僕の死の意味を誰かが説明しなければならないとも言っていて、裁きが取り除かれるのに死んだことにもなっています。ますますわからなくなります。

 

実を言うと、このわかりにくいギリシャ語の文はイエス様の出来事を知っている人ならばわかる内容なのです。へりくだったことにより裁きを取り除かれるというのは、フィリピ2章のキリスト賛歌を思い出すとわかります。そこで言われていることは、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順だったこと、その後で神に高く上げられたということです(8~9節)。神に高く上げられたというのは、神の力で死から復活させられ、さらに天に上げられて神の右に座すに至ったということです。まさに、へりくだったことによって裁きを取り除かれたのです。

 

それから、イエス様の十字架の死の意味を誰かが説明しなければならないということについて、誰がそれをするのか?イエス様が天に上げられた後、イエス様の十字架の死と死からの復活について宣べ伝えるのは使徒たちの役目になりました。ギリシャ語版のイザヤ書を読んで悩めるエチオピアの高官のもとに使徒の一人であるフィリポが送られたのです。ヘブライ語で読んでいたらこのような展開にはならなかったでしょう。それでは、なぜ彼は旧約聖書をギリシャ語で読んだのか?それにしてもなぜ彼は旧約聖書を読むようになったのか?なぜエルサレムに巡礼に行くようになったのか?そうしたことは先ほど述べた時代状況を思い起こせばわかります。

 

フィリポはイザヤ書53章の主の僕についての預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、主旨はこういうことです。天地創造の神が贈られたひとり子のイエス様が十字架の上で人間の罪の神罰を受けて死なれ、人間に代わって罪の償いを神に対して果たされた。それで彼を救い主と信じて洗礼を受ければイエス様の果たしてくれた罪の償いが効力を持つ。それで罪を償ってもらった者とされる。罪を償ってもらったから神からは罪を赦された者と見なされ、罪を赦されたのであれば神との結びつきを回復したことになる。さらに神はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さった。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はその道に置かれてそれを歩むことになる。神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得てその道を進み、万が一この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようになった。以上のような福音が伝えられました。時代を超えて私たちにも伝えられる福音です。

 

イエス様を救い主と信じたエチオピアの高官は洗礼を志願し、フィリポはそれを施します。これでエチオピアの高官は、割礼なくして天地創造の神と結びつきをもってこの世とこの世の次に到来する世の双方にまたがる命を持って生きることとなりました。エチオピアの高官の受洗は、神が時代の中にあるいろんなことを用いて導いたことの結果なのです。

 

3.キリスト信仰者が結ぶ実 - 神の愛に立つ愛

 

福音書の日課の方を見てみましょう。有名なイエス様のぶどうの木のたとえです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、ぶどうの木と枝のように繋がっているというたとえです。

 

2節をみると、イエス様という木に繋がっている枝の信仰者は、実を結べば父なるみ神に手入れしてもらってさらに実を結ぶ、と言われます。3節では、弟子たちはイエス様の話した言葉によって既に清くなっている、と言われます。興味深いのは、「手入れをする」という動詞(カタイレイκαθαιρει)と「清い」(カタロイκαθαροι)という形容詞がギリシャ語では同類語で言葉の引っかけになっています。それで、弟子たちはイエス様の言葉によって手入れをしてもらって清い枝になっているという意味になります。手入れをしてもらって清い枝になるというのは、栄養を一層受け取る枝になっているということです。

 

ぶどうの枝が実を結べるのは木と繋がっているからです。枝が木と繋がっていなければ木から栄養を受けられないので結べません。当たり前のことです。それでは信仰者がイエス様という木から受ける栄養とは何でしょうか?それは言うまでもなく神の愛です。神の愛とは、本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章で言われているように、ひとり子を犠牲にしてまでも人間を罪と死の支配から解放して、復活と永遠の命に至る新しい命を生きられるようにしてあげようという愛です。人間が罪と死の支配から解放されるためには先ほど述べたように神のひとり子の犠牲による罪の償いと赦しが行わなければなりませんでした。このような神の愛と罪の赦しの恵みがキリスト信仰者が受ける栄養です。

 

神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を受けて実を結び、さらに手入れをしてもらってもっと栄養を受けられるようになってもっと多くの実を結べるようになる。ところが、イエス様に繋がっていながら実を結ばない枝は、父なるみ神が農夫のように切り取ってしまう、と言います。イエス様に繋がっていながら実を結ばないとはどういうことでしょうか?

 

キリスト信仰者が実を結ばなくなるとは、霊的な栄養を受けなくなってしまったことを意味します。それはどういう状態でしょうか?それは、イエス様を救い主と信じることがなくってしまうことです。罪を人間と神の関係にかかわる問題と見ないで、人間と人間の間のことだけと考えてしまうことです。6節でイエス様は、取り除かれた枝は集められて燃やされてしまうと言っていますが、これは最後の審判を意味します。私はここでは、イエス様を拒否することや裁きの問題はこれ以上深入りしないことにします。というのは、本質的なことは、どうしたらイエス様が私たちの間で救い主として保たれるかということです。そのためには、神との結びつきを持って生きることが何ものにも代えがたい価値あることとわからなければなりません。それをわかるようにしないで地獄に落ちるのが恐かったら信じろ、というやり方は本末転倒です。本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章の中でも、恐れと罰は表裏一体である、恐れには神の愛がないと言われています(4章18節)。

 

それでは、キリスト信仰者が神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を摂取して実を結ぶと言う時、その実とは一体何なのかということを考えてみましょう。第一ヨハネ4章を見ると、愛の実践ということがよく言われます。そこで言われる愛とは神の愛に立つ愛です。

 

9節 神の愛は、ひとり子イエス様をこの世に贈って彼を通して人間が新しい命を生きられるようにしたことで目に見える形で現れた、と言います。

 

10節 愛は、人間が神を愛したということにあるのではない。神が人間を愛してひとり子イエス様を人間の罪を償う生贄として贈って下さったことにあるのだ、と言います。

 

11節 そこでヨハネは「兄弟たち、神はこのように私たちを愛して下さったのだから、私たちもお互いに愛さなければなりません」と言います。19節でも言います。「私たちは愛そうではありませんか。なぜなら、神が最初に私たちを愛して下さったのですから。」

 

以上、愛についてのヨハネの立場ははっきりしています。人間が普通、愛と言っているものは実は愛ではない。愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにした、しかもそのためにひとり子を犠牲にしても構わないと思うほどであった、この神の愛が本当の愛だと言うのです。人間はこの愛で愛されて愛することができると言うのです。この愛がなければ愛することができないと言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということです。

 

そうすると、キリスト信仰者は愛する時、具体的に何をするのでしょうか?一つには、まだイエス様というブドウの木に繋がっていない人たちを繋がるように導いてあげることがあります。せっかくイエス様というブドウの木がこの世に植えられて立っているのに繋がっていない人たちが大勢います。イエス様に繋がるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを自分のものにするということです。そこに導いてあげるのは伝道の働きです。この働きは、いろいろな宗教や死生観があるところでは難しいものです。キリスト信仰者の側としては愛だと思ってやったことが、相手側から余計なお世話だとか脅威に受け取られたりします。人がどの宗教を信じるか、あるいは信じないかということは、詰まるところ、どんな死生観を持つかという問題に収れんすると思います。これは極めて現代的な問題です。

 

神の愛に立って愛するというのは伝道の働きに尽きません。もっと広いこともあります。それは、隣人に対してどのように振る舞うかという問題です。神の愛に立って隣人を愛するということについて聖書には沢山の教えがあります。有名なのは使徒パウロが第一コリント13章で愛について教えているところでしょう。私自身はいつもパウロがローマ12章で教えていることが大事と考えています。まず9節で「愛には偽りがあってはならない」と言います。その意味するところは、もし何か自分の利益とか名声のためとか下心があれば、もう偽りの愛になってしまうのです。その続きをざっと列挙すると、悪を憎み、善から離れるな/兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思え/迫害する者を呪うな、祝福を祈れ/喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け/思いをひとつにし、高ぶらず身分の低い人々と交われ/自分を賢い者とうぬぼれるな/誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ/隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第である時は迷うことなくそうせよ、少なくとも自分から平和な関係を壊すな/自分で復讐するな、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ/善をもって悪に勝て。

 

これらの中には不利益を承知のお人好しすぎることがありますが、そういうことが出来るのは、正義の問題を神が最後の審判で決着をつけて下さることに任せているからです。正義というのはやっかいなものです。誰かから害悪を被った時、こんな程度の補償や謝罪では収まらない、ということがよくあります。逆に、誰かに損害を与えてしまった時、確かに自分に落ち度はあったがまさかこんなに法外な補償を求めてくるとは、ということもよくあります。不完全な人間が判断を下して決めることは不完全にならざるを得ず、後々尾を引いてしまうのです。全知全能の神が最終的に決着をつけることでいいんだ、という姿勢でいると、この世ではエスカレートさせない、エスカレートと逆方向のことに心を向けられるのです。皆さんもご存じのように、今の世はSNSに書かれたことが原因で人の命が失われるような時代です。もし投稿する人が皆、このような心を持っていれば、SNSは素晴らしい文明の利器になるでしょう。

 

4.おわりに - 神の愛に立つ限り最後の審判では堂々としていられる

 

最後に、神の愛に立って隣人を愛するとは言っても、キリスト信仰者は十戒に示された神の意思に敏感になるので自己採点はどうしても厳しくなります。しかし、それで苦しくならないためにイエス様の十字架と復活の出来事が起きたことをいつも思い起こしましょう。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神の愛を受け取りました。それは人間的でない完璧な神の愛です。それなので私たちは第一ヨハネ4章17節の聖句から大きな励ましを得ます。新共同訳ではこう言っています。「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちもイエス様のようであるからです。」

 

これを原文に忠実に解説的に訳すと以下のようになります。「パウロが随所で言うようにキリスト信仰者は洗礼を通してイエス様を衣のように頭から被せられています。その衣の神聖さの重みで私たちの内に残る罪を圧し潰していきます。これが、私たちがこの世でイエス様のようになっているということです。それで愛は私たちのもとで完璧なものとしてあるのです。そういうふうになっているのは、私たちが最後の審判の日に堂々としていられるようになれるためなのです(後注)。」新共同訳では「確信を持つことができます」ですが、何の確信かはっきりしません。ギリシャ語原文では「勇気を持てる、物怖じしない」という意味です。つまり、神の愛に立つ限り、最後の審判で何も恐れる必要はない、堂々としていられるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)第一ヨハネ4章17節 ”Εν τουτω τετελειωται η αγαπη μεθ’ ημων, ινα παρρησιαν εχωμεν εν τη ημερα της κρισεως, οτικαθως εκεινος εστιν και ημεις εσμεν εν τω κοσμω τουτω” をこのように訳したのは、οτι以下をτουτωの内容と考えたからです。οτι以下を理由の文に考えると全体的に上手くいかないように思えます。