2021年4月19日月曜日

復活の主から旧約聖書を教わって、彼の力に与ろう! (吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教

2021年4月18日 復活節第三主日

 

使徒言行録3章12-19節

ヨハネの第一の手紙3章1-7節

ルカによる福音書24章36b-48節

 

説教題 「復活の主から旧約聖書を教わって、彼の力に与ろう!」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

先週申し上げましたように、日本のルター派教会の聖書日課は復活祭から聖霊降臨祭までは第一の日課は旧約聖書ではなく使徒言行録からです。フィンランドでは通常通り旧約聖書からです。どうして違いがあるのかわかりませんが、日本にいるので日本のやり方に従って説き明かしをしていきます。とは言っても、説教の中で旧約聖書に立ち戻ることはいつもあります。新約聖書は旧約聖書を土台にしているので、旧約に立ち返らずに新約を教えることは不可能です。

 

本日の3つの日課はどれもイエス様の復活が中心にあります。使徒言行録の個所では、ペトロが足の不自由な人を癒した後で驚く群衆に向かってどうして癒しが起こったのか説明します。そこでイエス様の復活を信じることが決め手になっていることを話します。第一ヨハネの個所では、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は神の子とされており、将来復活の日にはイエス様と同じようになるのだと言います。そして福音書のルカの個所は、ずばり復活したイエス様が弟子たちの目の前に現れた時の出来事です。このように本日の日課は、というか本日の日課も、イエス様の復活はキリスト信仰にとって大事なことなのだと私たちに言い聞かせています。そういうわけで本日の説教でもイエス様の復活と私たちの将来の復活について深めていこうと思います。本説教では、3つの異なるテーマについてお話しようと思います。一つ目は、イエス様の復活によって旧約聖書がユダヤ民族にとっての神聖な書物から全世界の民族にとって神聖な書物になったということ。二つ目は復活の体について。三つ目は復活したイエス様の名前が持つ力についてです。

 

2.イエス様の復活と旧約聖書の普遍化

 

復活祭から聖霊降臨祭までは復活節と呼ばれる期間です。約2000年前のその時は復活したイエス様が昇天するまで40日間地上にいて弟子たちを初め大勢の人たちに姿を現し、弟子たちに旧約聖書を正確に教えた期間でした。本日のルカ24章44節でイエス様は次のように言われます。モーセ五書と預言書と詩篇の中で自分について書いてある事柄は全て実現されなければならないということ、これこそが十字架の出来事の前にお前たちに言っていたことなのだ。その次の45節を直訳するとこうです。イエスはこれを言って弟子たちの閉じていた理解を開いてあげて聖書がわかるようにしてあげた。つまり、弟子たちは旧約聖書の随所にイエス様のことが書かれていることがわからず、その意味で旧約聖書がわかっていなかった。それをわかるようにしたということです。

 

そうしたイエス様について書かれていながら、そうと理解されていなかった事柄の例として、次のことを述べます。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」これは旧約聖書のいろんな個所をまとめてくっつけたようなものです。分解すると、まず神から遣わされた神聖な方が人間の罪の償いのために身代わりとなって神から罰を受け苦しみを受けて死なれたということ。これはイザヤ書52~53章にかけてあります。また、ダビデの子孫の死の苦しみについては詩篇22篇にあります。イエス様が3日間葬られた状態でいた後に復活されたことは、預言者ヨナが大魚の腹の中に3日間閉じ込められた後で脱出できたことが暗示していました(マタイ12章39~40節)。ホセア書6章2節では、3日後の復活が暗示されています。またイザヤ書49章6節を見ると、神に遣わされた神聖な方が諸国民の光となって神の救いが世界の果てにまで及ぶようにすることが述べられています。

 

弟子たちの旧約無理解の是正はエマオの道の出来事にも起きます。これは今日のルカの個所の直前にある出来事です。二人の弟子が沈鬱な表情でエマオに向かっていました。そこに復活したイエス様が合流しますが、なぜか二人はイエス様とはわからない。彼らは困惑した様子で話します。民族の解放者と期待されていたイエス様が死刑にされてしまった上に彼の遺体が墓になかった。墓に行った女性たちが天使からイエス様は生きておられると告げられた。これらは一体何なのだ、全くわけがわからない。そこでイエス様はいかにも呆れたという様子で返します。お前たちは旧約聖書を全く知らないからそうなってしまうのだ、メシアが苦しみを受けた後で神から栄光を受けると書いてあるではないかと。そして弟子たちに旧約聖書について講義を始めるのです。旧約聖書にはイエス様に起こったことを言い当てた御言葉が沢山あることが教えられます。このようにイエス様の十字架と復活の後で旧約聖書はイエス様を知るための書物として立ち現われたのです。

 

弟子たちが旧約聖書をそのように理解していなかったのは、当時「メシア」の理解の仕方がユダヤ民族を異民族支配から解放してくれる王様というものが一般的だったからでした。確かに旧約聖書のメシアに関係する個所はそのように理解できました。しかも、バビロン捕囚後のユダヤ民族がずっと大国の支配に置かれ続けたという歴史状況の中ではそういう救国の王様への期待が強まるのはやむを得ないことでした。しかし、聖書にはそのような理解では意味不明になる個所が多くありました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみのうちに死ぬ「神の僕」とは一体誰か?「衣を取ろうとしてくじを引く」(詩篇22篇19節)とはなんのことか?「渇くわたしに酢を飲ませようとする」(詩篇69篇22節)とはなんのことか?

 

ところが天地創造の神の最大の関心事は、ユダヤ民族を他民族の虐げや支配から解放することではなく、民族に関係なく人間全てを支配している罪と死から解放することだったのです。

 

 どうして神はそんな解放を目指したのでしょうか?それは、もともと人間は神に造られた当初は罪と死の支配下になかったからでした。それが、創世記の最初に記されているように、人間が神の意思に反しようとする性向すなわち罪を持ってしまったために神聖な神との結びつきが切れてしまい、人間は死ぬ存在になってしまったのでした。人間を造られた神としては、なんとか結びつきを回復してあげようと計画を立てそれを実行に移したのでした。まず、ひとり子をこの世に贈って人間として生まれさせて人間の痛みや苦しみがわかるようにしました。次に、ひとり子を通して人間に神の意思を正確に教え、また今の世が終わった後に到来する神の国についても教えました。そして解放の業を成す時が来ました。神のひとり子は人間と神の結びつきを断ち切ってしまった原因である罪を全部自分で引き受け、ゴルゴタの十字架の上でその神罰を全て受けて死なれました。イエス様の十字架の死はまさに人間に代わって罪の償いを神に対して果たして下さったことだったのです。

 

実に復活されたイエス様が旧約聖書とはそうした神の人間救済計画について教える書物であることを明らかにしたのでした。これで弟子たちにも合点がいきました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみ死ぬ「神の僕」とはまさにイエス様のことであり、「衣を取ろうとしてくじを引く」も「渇くわたしに酢を飲ませようとする」もみな、イエス様が十字架にかけられたことについて言っていることが明らかになったのです。こんなのは序の口と言えるくらい数多くの聖句がイエス様の活動や彼に起こった出来事について言っていることが明らかになりました。これでメシアの意味が民族の解放者から人間を罪と死の支配から救う救い主に結晶化したのです。

 

このようにイエス様の復活によって旧約聖書は人間に救いをもたらそうとする神の意思を表す書物であることが明らかになりました。それなので救いの実現のために大きな役割を果たす神のひとり子について述べるのは当然なのです。

 

イエス様の復活は旧約聖書の性格を大きく変えただけではありません。彼の復活により死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、また永遠の命が待つ神の御国に至る道が人間に開かれたのです。人間はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものに出来れば罪を償ってもらった者になります。罪を償ってもらったら、神から罪を赦された者として見てもらえ、罪を赦されたら、もう神との結びつきを切り裂くものはなくなってその結びつきの中で生きられます。万物の創造主の神と結びついて生きていければ神以外に何も恐れるものはなくなります。万が一この世から別れることになっても恐れなく神に全てを委ねて眠りにつき、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられ永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられます。本当にイエス様の復活のおかげで私たちにこのように永遠の命に至る道が開かれました。

 

そこで、どうすればその道に入れてそこを進めるようになれるかと聞かれるでしょう。それにはイエス様の果たされた罪の償いを自分のものにすることがないといけません。それでは、どのようにして自分のものにすることが出来るのでしょうか?それは、イエス様が私の身代わりになって罪の償いを果たして下さった、だから彼は私の救い主ですと信仰告白して洗礼を受けることによってです。そうすると罪の償いがその人の内に入って、その人は永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。

 

3.復活の体について

 

本日の使徒書の日課、第一ヨハネ3章でキリスト信仰者は復活の日にイエス様と同じようになると言われています。イエス様と同じようになるとはどうなるのでしょうか?それを知る手掛かりとして復活されたイエス様がどのようであったかを見てみます。イエス様の復活については、2週間前の復活祭の説教で詳しくお教えしましたが、今日は少し違った角度から見ていきます。

 

本日の福音書のルカ24章で復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。弟子たちの驚きようから察するに本当に突然彼らの間に立っていました。ヨハネ20章ではさらに詳しく、扉には鍵がかかっていたのに、いつの間にかイエス様が弟子たちの間に立っていました。弟子たちが、幽霊が出たとパニックに陥ったのは当然です。しかし、イエス様は、幽霊ではないと否定し、その証拠に手と足を見て触ってみよ、幽霊には肉と骨はないが自分にはちゃんとある、確認しなさいと命じます。このようにイエス様には一応体があります。ただ自由に空間移動をするので私たちの体とは異なっています。しかし、幽霊のように体があるのかないのか不確かな存在ではありません。さらに、食べ物はないかなどと聞いて、みんなの見ている前で食事もする。ここまでくると、復活したイエス様は少なくとも私たちと同じ食欲を持つ存在です。しかし、それでも私たちと異なり自由な空間移動が出来るので、今ある天と地の中で働いている重力Gのような自然法則に支配されていません。

 

 使徒パウロは、第一コリント15章で、体には今のこの世での体と将来の新しい世での「復活の体」の二つがあることについて詳しく教えています。復活の日が来ると、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(52-53節)。また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)と言います。イエス様はズバリ、死者の中から復活する者は天使のようになるのだと言っています(マルコ12章25節)。

 

 またイエス様は十字架刑の時に被った手足の傷を見せます。これは復活後のイエス様は死ぬ前のイエス様と同一人物であることを如実に示します。イエス様は、体の有り様はこの世的なものから「復活の体」へと全く異なるものにはなったけれども、復活後も同じイエスとしての自我を持ち、死ぬ前の出来事を完全に過去のものとして、今は全く新しい現実に生きる者となっている。このように、神から復活させられる者は死ぬ前と同じ人格と自我を持ち、他方で体は全く新しい「復活の体」という存在になるのです。

 

このことは実は、日本の仏教の間でごく一般に抱かれている死生観と大きく異なる点ではないかと思います。そこでは、人は死ぬと成仏に至る何十年かの修行の道への歩みを始めるとされます。キリスト信仰では復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠り、復活の日に目覚めさせられます。また、仏教で修行の道を歩む者は住職から戒名という新しい名をもらいます。

 

聖書の観点では、「名前」というのは単なる名称にとどまりません。人の名前はその名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味します。それなので「神の名により頼む」とは「神により頼む」の意味で、「神の名を侮辱する」とは「神を侮辱する」です。またよく使われる「父と子と聖霊の御名によって」というのも、考えるとわからなくなってきますが、要は「父と子と聖霊と繋がって、結ばれて」です。または、「父と子と聖霊の影響下に服して」と言ってもいいと思います。そういうわけで「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を受けると、それは三位一体の神に本気で結びつけられてしまうことになります。洗礼とは本当に大変なことなのです。

 

話が少しそれましたが、キリスト信仰では亡くなった方がこの世の体から離れて復活の日の体を待っている状態においても、同じ人、同じ人格なので新しい名前を付ける必要はありません。

 

このようにキリスト信仰では、死からの復活とは新しい体を伴う復活であり、死ぬ前と復活後の人格は同一で復活後も自我を持つということがはっきりあります。そのように復活した者が自分の造り主、自分に命を与え罪と死の支配から解放してくれた神のもとに迎え入れられる。これがキリスト信仰者の死生観です。

 

ところで、2000年前のイエス様の復活と将来の私たちの復活の間には大きな違いがあります。イエス様の復活は、今あるこの世の中で起きました。つまり、私たちが今生きている天と地の下で起きました。私たちの将来の復活は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節)、そして、造られたものは全て揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが現れる時(ヘブライ12章26-28節)に起こります。その時がいつであるかは、神以外に知ることは許されていません(マルコ13章32節)。その時、イエス様は天使の軍勢を従えて再臨し、この世の人生で彼を救い主と信じる信仰にしっかり留まった者たちを神の国に迎え入れます。その時、既に死んでいて眠りについていた人たちは復活させられてから、御国に迎え入れられます。

 

こうして復活の体と命を得た者たちが一堂に会する神の国は、大がかりな結婚式の祝宴にもたとえられます(黙示録19章7、9節)。それは、この世の人生に起きたあらゆることについての完全かつ最終的なねぎらいを受ける時です。先ほど見たように復活の体は食欲を持つので、祝宴ではこの世離れした最上級のものが供されるでしょう。どんなメニューか考えただけでもワクワクしてしまいそうです。こんなことを考えるのは不謹慎でしょうか?

 

4.名前の力を信仰で受け取る

 

先ほど聖書の観点では名前は単なる名称に留まらず、名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味すると申しました。この観点は、本日の使徒言行録の個所の理解にとって大事です。ペトロが足の不自由な人を癒す時、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言います。「イエス・キリストの名によって」というのは、「イエス・キリストと繋がって、結びついて、その影響下に服して」ということです。足の不自由な人は歩けるようになりました。イエス・キリストと繋がる、結びつく、影響下に服するとはどういうことか考えてみましょう。その前に、イエス・キリストという名前ですが、キリストは新約聖書が書かれているギリシャ語のクリストスです。クリストスは旧約聖書が書かれているヘブライ語ではムシィーアハ、メシアです。つまるところイエス・キリストというのは、メシアのイエスという意味です。メシアの意味は、先ほど見たように人間を罪と死の支配から解放する救い主です。 

 

「イエス・キリスト」、「メシアのイエス」と繋がる、結びつく、影響下に服するというのはどういうことか?それがわかる手がかりが本日の使徒言行録の中にあります。ペトロが群衆に対してどうしてこの人の足が治ったかについて説明しているところです。16節でペトロはこう言います。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」

 

名前が強くしたり癒したりするというのは分かりにくいですが、先ほど見たようにイエス様そのものイエス様の本質が強くした癒したという意味です。ここで思い出さなければならないことはイエス様そのものとか彼の本質とは言うまでもなく、彼が神のひとり子であること、十字架の上で人間の罪を償い罪の人間を死に陥れる力を殺いだこと、そして死から復活されて死を超えた永遠の命を持って生きておられること、これらがイエス様そのもの、彼が彼である本質です。そのような本質を備えた方がこの足の悪い人を強める力があったのです。

 

しかしながら、イエス様そのものにそのような力があるとしても、それだけでは不十分であることをペトロは同じところで言っています。「それは、その名を信じる信仰によるものです。」「その名を信じる信仰」とはずばり、その名前を持つ方、イエス様を信じる信仰のことです。つまり、癒しは二つの条件が重なって起こったのです。まず、イエス様は今は天の父なるみ神の右に座してはいても地上で癒しを行う力を持っているという条件。それと、イエス様を救い主と信じる信仰があり、その信仰がイエス様の力を受け取る受け皿になっているという受け手側の条件。この二つの条件は人間の救いにもあてはまります。イエス様は十字架と復活の業で人間の救いを実現されたのではありましたが、人間の側で信仰の受け皿でそれを受け取らないとダメなのです。受け取らないでいたら実現した救いは人間の外側によそよそしく留まってしまいます。だから、福音の伝道と洗礼は大事なのです。

 

ペトロの言葉の後半ではこう言われていました。「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」「イエスによる信仰」とはわかりにくいと思います。各国語の訳も苦労しています。それらについてはここでは立ち入りません(後注)。ここは直訳すると「イエスを経由してある信仰」とか「イエスを手段にしてある信仰」です。つまり、「他の者を経由しない信仰」、「他の者を手段にしない信仰」です。そうすると、やはりイエス様を唯一の救い主と信じる信仰ということになります。ペトロは、イエス様が持つ力と彼を唯一の救い主と信じる信仰がその力の受け皿になっているということ、この、力と受け皿が一緒に働いて癒しが起きたと言っているのです。

 

それでは、イエス様に癒しを与える力があり、私たちの方でイエス様を救い主と信じる信仰があって、イエス様の力を受け取る受け皿を持っていたら、同じような癒しは必ず起こるのか?これはとても気になるところです。イエス様には力があり、こちらもイエス様を救い主と信じて力を受け取る受け皿はある、それなのに力が来ないで癒しが起きなかったらどうしようと心配もします。その時は次のように考えたらよいでしょう。確かにイエス様には癒しを与える力があり、私も彼を救い主と信じて癒しを受け取る態勢はできている。もし癒しがすぐ起きなくても、それは直ぐには起こさないから引き続き祈りなさいと時間をかけさせようというお考えなのでしょう。あるいは、神は目前の癒しではなく別のことで力を与えたのであり、その別のことで神の栄光を現わしなさいということでしょう。いずれにしても、力ある方と信仰という受け皿の両方がそろっていれば、病気をはじめ他のあらゆる事柄に神の栄光が増し加わる何かが必ず起きます。それなので力ある方が私たちの一番期待していることに働いてくれなくとも、別のことで働かれるので大丈夫です。それで大丈夫と言うのが、復活の希望を持って生きるキリスト信仰者です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)使徒言行録3章16節のペトロの言葉の後半にある、足の不自由な人を人々の前で完全に癒したものを「イエスによる信仰」と言っていることについて。ギリシャ語原文はη πιστις η δι’ αυτουで、直訳すれば「彼を通してある信仰」、「彼を手段にしてある信仰」。「彼」でなくて「彼の名前」の可能性もありますが、名前はその人そのものと考えれば「彼」でもいいことになります。それに「彼の名前」だったら、前半にある言い方に倣ってη πιστις του ονοματος αυτοςないしη πιστις αυτουになるのでは?

参考までに他の国の言葉ではどう訳しているか見てみますと、

英語NIVは、Jesus’ name and the faith that comes through him。

ドイツ語(ルター訳1912年版)は、den Glaube durch ihn。

スウェーデン語は、den tro som kommer genom detta namn。

フィンランド語は、usko, jonka Jeesus antaa。

 英語は「名前」にこだわったので原文にないJesus’ nameをつけたのでしょう。つけないでthe faith that comes through himだけだったら原文通りになると思います。ドイツ語のihnは恐らく「名前」でしょうね。スウェーデン語はドイツ語と大体同じです。フィンランド語「イエスが与える信仰」は上手に逃げた訳ということでしょうか。考え方は間違ってはいませんが。それにしても新共同訳の「イエスによる信仰」とはどういう意味でしょうか?

 

 

 

2021年4月12日月曜日

たとえ目には見えなくとも神との平和があるというのが信仰 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021

2012年4月11日 復活節第二主日

 

使徒言行録4章32-35節

ヨハネの第一の手紙1章1節-2章2節

ヨハネによる福音書20章19-31節

 

説教題 「たとえ目には見えなくとも神との平和があるというのが信仰」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の個所には、二つの大きなテーマがあります。一つは、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったことです。イエス様の言われる平和とは何かということが一つ。もう一つのテーマは、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになったという出来事です。その時イエス様は言いました、「私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである」と。イエス様は、見て信じるのではなく見ないでも信じられることが大切だと言います。イエス様の言われる平和、それと見ないでも信じられる幸い。この二つは実は関連しあっています。というのは、イエス様の言われる平和も目には見えないもので信じるものだからです。

 

見ないでも信じられるということはキリスト信仰にとって大事なポイントです。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

 

このようにキリスト信仰では目で見ないで信じられるということがポイントになっています。そのことを本日の聖書の御言葉をもとに見ていきましょう。

 

2.神と御子と一体になることで復活を心で信じられる

 

 まず、この目で見ない限り信じないと言ったトマスのことについて。彼の言ったことはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教ならどこでも考えられることでしょう。何か不思議な業を行う、医療手段を講じなくて不治の病が治るという奇跡、そういうことを行った者に対して私たちはこの人には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれるかもしれません。

 

 ところが、イエス様がここで教えていることは、「信じる」とは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じることが本当の信じることだということです。ちょっと変な感じがしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を「信じます」とは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。

 

 イエス様の弟子たちは主の復活の目撃者です。彼らの場合は信じるも何も目で見てしまったのでそうとしか言いようがありません。本日の使徒書の日課の第一ヨハネの個所も、私たちはこの目で見た、この耳で聞いた、この手で触れた、だから宣べ伝えているのだと言います。使徒たちの場合は、目で見たことを証言します。これが目で見なくても証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?一つには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭してまで宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあります。ところが、見ないで信じるようになった人たちも次第に最初の目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていきます。彼らも使徒たちと同じように、神のひとり子が十字架にかけられ、3日後に死から復活された、それは旧約聖書に預言されていたことの実現であったのだ、と宣べ伝え出したのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

 

 ところで昨年も申し上げたことですが、もしタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行くことが出来たら、ビデオ撮影をして、それをSNSで拡散することが出来ます。世界中の人が目撃できます。あっ、イエスは生き返っているぞ!壁をすり抜けたぞ、すごい、すごい、という具合に瞬く間に5,000万回、5億回と再生されて、いいね!や驚き顔の絵文字で溢れかえるでしょう。世界中の人がイエス様の復活はあったと言うでしょう。しかしながら、それは「信じる」ことではありません。使徒パウロはローマ10章9節で「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言います。「心で信じる」というのは、復活は頭では理解できないことだが心でその通りだと受け取るということです。SNSだと頭で理解する必要もないし心で受け取る必要もありません。瞬間的な反応だけです。イエス様の復活の動画を見てすごいと感じても、「心で信じる」がなければ、すぐ次に投稿されるもっと凄いものを待ち始めています。イエス様の復活はギガバイトの堆積物の中に埋もれていくだけです。こういうことを考えると、SNSというのは人間の頭と心のために本当に役立っているのか立ち止まって考えてみることも必要なのではないかと思う者ですが、どうでしょうか?

 

 話が少し横道にそれましたが、パウロの言葉は、イエス様の復活というのは頭で一生懸命理解しようとしても受け取り不可だが、心は受け取り可ということを意味します。心で受け取ることが出来るから目撃しなくても信じることができるのです。それでは、イエス様の復活を心で受け取るとはどういうことでしょうか?

 

 本日の使徒書の日課「第一ヨハネの手紙」の個所にその鍵があるので、それを見てみます。ヨハネは、目撃者である使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは伝えられた者が伝える者と一体性を持つためであると言います(1章3節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っています。交流関係を持つみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteys、gemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です。ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です。どの訳語も重なる部分はありますが、微妙に違っていると思います。どちらかと言うと日本語の「交わり」と英語のフェローシップは少し浅い狭い感じがします。そう言うとまた先週に続いて聖書の翻訳の日米同盟と欧州連合の対決を持ち出してしまうのですが、私としては「一体性」とか「共同体」の方があっているのかなと思います。その理由として、本日の使徒言行録の日課で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここでコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。

 

 私たちが礼拝の中で唱える「使徒信条」は2000年近い伝統を持つキリスト教信仰告白の基本中の基本ですが、その終わり部分で信じる事柄の一つに「聖徒の交わり」というのがあります。これもギリシャ語原文を見るとコイノニアで、信仰者が一体であること、共同体を形成していることを意味します。「交わり」と言うと、スオミ教会では礼拝後にコーヒータイムを持ちますが(今はコロナで控えています)、そういう交流や歓談のひと時を連想してしまうかもしれません。しかし、コイノニアは交流や歓談を超えた、それこそ場合によっては財産の共有に至るくらいの一体性、共同性を意味するのです。

 

 さて、ヨハネは、自分たち使徒が見聞きしたことを宣べ伝えるのは、宣べ伝えられた人たちが伝えた人たちと一体性を持つためと言います。しかし話はそこにとどまりません。そのすぐ後でとても本質的なことを言います。それは、宣べ伝える自分たちは父なるみ神とそのひとり子イエス様と「一体性・コイノニア」を持っていると言うのです(1章3節、日本語では「交わり」、英語ではフェローシップ、ドイツ語ではゲマインシャフト、スウェーデン語・フィンランド語も「一体性」を意味する言葉)。つまり、自分たちが見聞きしたことを宣べ伝えるのは、伝えられた人たちが伝えた自分たちと一体性を持てて、今度はその一体性を通して伝えられた人たちも自分たちが持っている神・御子との一体性に与れるようになるためだと言うのです。つまり伝える人たちと伝えられた人たちが共に神・御子と一体性を持つことが目指されているのです。両者が共に神・御子と一体性を持つので、両者は互いに一体ということになります。

 

 このようにヨハネをはじめ使徒たちが目で見たことを証言するのは、それを聞いたりまたは読んだりした人たちが神・御子と一体性を持てるようになって、それを通してお互いに一体となるためでした。これが意味することは、神と御子と一体性を持てれば、別にイエス様の復活を目で見たか見なかったかはそんなに大した問題ではなくなるということです。逆に復活の主を目で見たとしても、神と御子との一体性を持てなければ、その見たことは先ほど見たようなSNSのニュース拡散と同じことになります。

 

 ここで、神と御子と一体の関係を持つことが、復活を自分の目で目撃していなくても心で信じられるようになる条件であることが見えてきました。それでは神と御子との一体の関係はどうやって持てるようになるのでしょうか?

 

 イエス様の復活について聞いた人たちが、どのようにして神と御子との一体の関係を持てるようになって、復活を心で信じられるようになったか?答えは、聞いた人たちがユダヤ人か非ユダヤ人かによって多少異なってきます。

 

まずユダヤ人の場合。彼らには旧約聖書があったので、イエス様の十字架の死と死からの復活を知らされた時、預言が実現したことがわかりました。十字架の出来事は神が遣わした神聖な方が人間の罪を償うために犠牲の死を引き受けるというイザヤ書53章の預言が実現したのだと。3日後に死から復活されることはヨナ書2章に暗示されていたと。そして、復活された主はこの世の肉の体とは異なる体を纏っていたことはダニエル書12章の預言の実現だと。イエス様の十字架と復活の出来事の前はメシアとはユダヤ民族を異民族の支配から解放する地上の王様と考えられていました。しかし、そのような理解だと旧約聖書の中に解明できないことが多く残りました。イエス様の十字架と復活の後、メシアとはユダヤ民族か非ユダヤ民族かに関係なく人間を罪と死の支配から救い出して、天地創造の神との結びつきを回復させてくれる方。人間がこの世を去った後も復活の日に目覚めさせて神の御許に迎え入れられるようにしてくれる、そういう永遠の命の救い主、それがメシアだという理解になりました。それで旧約聖書の不可解だったことが次々とわかるようになったのでした。それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになったのです。その時はもう、イエス様の復活を心で信じています。

 

ただし、ユダヤ人はイエス様に対する姿勢で二分してしまいます。イエス様を救い主メシアと信じるようになった人たちと、信じない人たちとにです。

 

 非ユダヤ人の場合は少し勝手が違いました。彼らは、旧約聖書を持っていないので預言を知りません。また地中海世界の東部はギリシャ文明が浸透している地域なので、人々は多神教の考え方に慣れています。彼らは使徒たちの宣べ伝えを聞いて、どうやって神・御子との一体性を持てるようになって復活を心で信じられるようになったのでしょうか?

 

ユダヤ教とキリスト教では言うまでもなく、万物の創造主の神、天と地と人間を造られ人間に命と人生を与えた神が全ての中心にあります。使徒パウロがアテネのアレオパゴスにて居並ぶギリシャの哲学者・知識人を前にキリスト信仰を弁明したことがあります。使徒言行録の17章です。そこでパウロは、万物の創造主、人間一人一人の造り主である神は将来この世を正当に裁くことになると述べました。そういう裁きの日が将来起こることがイエス様の復活によってはっきりしたと言うのです。どういうことかと言うと、人間が天地を創造し自分をも造られた神を知らずに好き勝手にやる時代はもういい加減終わりにしなければならないということをはっきり示したのがイエス様の復活であった。死んだ者を新しく復活させる神は、心を改める者に同じように復活に与らせて下さるが、改めない者はこの世から死んだ後、復活に与れず滅びに落ちてしまう。そういう審判の日が来るのであると。

 

これを聞いたギリシャの知識人たちは、死者の復活など馬鹿々々しいと取り合いませんでした。ところが、この後で何人かの人たちがパウロを訪ねてきたのです。彼らに何が起こったのでしょうか?彼らの心が多くの神々や霊々にではなく唯一の万物の創造主に向けられるようになったのです。創造主の神に心が向くと、神が人間に対して造り主である自分に立ち返りなさいと呼びかけていることがわかります。そこでその神と自分の関係を考えると、自分には神の神聖さにそぐわない汚れがあることに気づきます。その時、神のひとり子イエス様が十字架で死なれたのは自分の汚れを引き取って下さったことで、そのおかげで自分は神の目に相応しいものになれるということがわかったのです。イエス様が私の救い主である限り、私は創造主の神と結びつきを持って生きられる、この世においても、次に到来する世においても。そういうことが彼らの心の中に起こったのでした。

 

 このように非ユダヤ人に対しては、天地創造の神、自分自身の造り主がおられることがわかり、次にその神と自分自身の関係がどうなっているかを考えることが出発点になりました。神との関係が問題ないものになるように、そのひとり子のイエス様が十字架で自分を犠牲にされた、だから彼を救い主と信じて洗礼を受ければ神との結びつきの中で生きられることになります。今のこの世でも、次に到来する世でも、です。このようにイエス様を救い主と信じている時は既に彼の復活を心で信じています。この非ユダヤ人の事例は私たち日本人にも当てはまるのではないかと思います。 

 

3.たとえ目には見えなくとも神との平和があるというのが信仰

 

イエス様が弟子たちにあるようにと言った「平和」についてみてみます。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、この「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使われたでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומという言葉です。シャーロームという言葉はとても幅広い意味を持っていて、国と国が戦争をしないという意味の平和もありますが、その他に、繁栄とか、成功とか、健康とかいうように人間個人にとって望ましい、何か理想な状態を意味しています。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。

 

どういう意味かわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違っているでしょうか?

 

イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和なのです。つまり、イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげでなくなったという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は平和がない敵対関係だったということは「コロサイの信徒への手紙」1章21-22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間が、イエス様の犠牲によって和解できる道が開かれ、イエス様を救い主と持つことで神のみ前に立たされても問題ない者とされたということです。

 

こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが回復した者は神と一体になっていて神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康などこの世的な目に見える平和シャロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は変更なく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪からの贖いを強めていけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を研ぎ澄ませていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世から別れる時、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛え上げていれば行く先を安心して神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせられて主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さいます。

 

それなので、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、この復活の希望はいつも心の中で研ぎ澄まされた状態にあり、それで私たちの魂は復活の日に障害物なく直結しています。パウロが目で見なくても希望している状態でもう救われているというのは真理です!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

2021年4月8日木曜日

復活の面影 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年4月4日 復活祭

 

イザヤ書25章6節-9節

コリントの信徒への第一の手紙15章1節-11節

ヨハネによる福音書20章1-18節

 

説教題 「復活の面影」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.ハッピー・イースター

 

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目にします。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事でした。

 

復活祭は、キリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。イースターをお祝いする時、英語では「ハッピー・イースター」と言います。クリスマスは「メリー・クリスマス」ですが、イースターは「メリー」ではなく「ハッピー」です。復活祭の何が私たちをハッピーにさせるのでしょうか?昔々イエス・キリストという偉い人が十字架刑という惨い殺され方をしてしまったが、三日後に見事に蘇ってみんながハッピーになったということでしょうか?マジックショーじゃあるまいし、そんな理解で済むのなら聖書なんか要らなくなります。

 

 イエス様の十字架と復活の出来事はなぜ起きたのか、それらは一体何だったのかということは聖書全体を通してみないとわからないようになっています。聖書全体を踏まえて、それらがなぜ起きたかがわかると、たちまちそれは私たち人間のため、時代と国を超えて全ての人のために起きたということがわかり、イースターは本当にハッピー・イースターだとわかります。そういうわけでイエス様の復活は今を生きる私たちに大いに関係があるハッピーな出来事なのだ、ということを今年の説教でもお話ししていこうと思います。

 

2.復活祭は私たちにとってハッピーなのだ

 

 まず、イエス様の十字架と復活の出来事を純粋に歴史上の事件としてみるとこうなります。現在のイスラエル国の北部ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに批判的な教えを説き多くの支持者を獲得した、そのため指導層の反感を買って当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書という書物は万物の創造主であり人間の造り主でもある神が人間にどのような思いを持ちどんな計画を持っているかを知る唯一の手がかりです。聖書をそのような書物であるとの立場に立ってみると、歴史の見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。

 

 それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?本教会の説教でいつもお教えしていることですが、ここでも振り返ってみます。

 

まず、イエス様の十字架の死について。それは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしたということでした。罪と聞くと一般には何か犯罪行為とかそこまでいかなくても何か悪い行いとかを考える人が多いと思います。聖書ではそれは、人間に備わってしまっている、神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。この罪は創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。そこで神は、人間をこの罪の引き離しの力から解放して自分との結びつきを回復してあげよう、人間がその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことを実現する計画を立てたのです。

 

それでは、この人間を救うという神の壮大な計画とイエス様の十字架と復活とはどう関係するのでしょうか?イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになり、そのようにして彼が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さいました。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いがあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。

 

加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。そこで人間が、これらのことは全部自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いが自分の中に入ってきて自分のものとなります。自分ではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であれば人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方がそのひとり子ということであれば、この償いはかけがえのないもの決して軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

 

神から罪を赦されたのであれば神との結びつきは回復しています。そうなると神が立てた計画に従って人生を生きることが始まります。神の計画とは先ほど申しましたように、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるという人生です。キリスト信仰者は人生にこのような大きな方向性が与えられ、順境の時だろうが逆境の時だろうが全く変わらない神との結びつきの中でこの世を生きていきます。進んで行く先は永遠の命が待っている神の御許です。これが、罪と死の支配から解放されて生きるということです。

 

罪と死の支配から人間を解放するという神の計画がイエス様の十字架と復活をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしたのです。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わり新しい世が始まる時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭とは、イエス様が復活させられたことで実は私たちの将来の復活の可能性が生まれたことを喜び祝う日です。さらに自分自身の復活に加えて、復活の日にやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つの希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身だけのためでもなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちをハッピーにさせるのです。

 

3.復活の体と地上の体

 

次に、復活というのはどういう状態のことなのかをみてみます。これも毎年お話ししていることですが振り返ってみます。復活は超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることだけを手掛かりにするしかありません。本日の福音書の箇所で復活したイエス様とマグダラのマリアの再会の出来事がありました。毎年お話ししていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが「復活の体」を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する「復活の体」とはどんな体か?それについては使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52-54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われました(マルコ12章25節)。

 

 復活とは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではないことに注意します。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。復活というのは肉体が消滅しても復活の日に新しい「復活の体」を着せられて復活することです。その体はもう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる完全に清い体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。その意味でイエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかったのですが、40日間も地上にとどまりました。なぜか?その期間があったおかげで弟子たちをはじめ大勢の人たちに自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

 

復活したイエス様が、私たちの今の体と異なる体を持っていたことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 

 復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事があります。二人がイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。このことについては、説教の終わりでもう一度お話しします。

 

さて、天の御国の神聖な神に相応しい「復活の体」を持つイエス様と、それにすがりつく地上の体のマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。マリアがイエス様にすがりついたのは、突然本人が生きて目の前に現れたので感極まって抱きしめたのでしょう。相手が崇拝の対象である場合は「すがりつく」というのはひれ伏して相手の両足を抱きしめることだったかもしれません。

 

イエス様が「すがりつくな」と言ったことについて。これもこの福音書の個所が当たる年に毎回お話ししていますが、ギリシャ語原文では「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)みな「私に触れてはならない」と訳しています。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。どっちが正しい訳でしょうか?話が少し脇道にそれますが、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書(一部アラム語もあります)が現代語でどう訳されているか比べると、ドイツ語・スウェーデン語・フィンランド語が同じ訳をして日本語・英語が別の訳をしているということがしばしばあります。何だか聖書の翻訳に欧州連合と日米同盟の対決があるみたいですが、今日の個所について言えば欧州連合に軍配が上がると思います。というのは、イエス様が復活の体という、まさに天のみ神のもとにいることができる体でいることを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思われます。

 

さらにイエス様は「私はまだ父のもとに上がっていないのだから」(17節)と言って、触れてはならない理由も述べていることに注目します。自分に触れるなと言って、その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本来なら自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上の存在なので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。これで全てつじつまが合います。

 

 しかし、ここで疑問も生じます。それは、ルカ24章で復活したイエス様が疑う弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているからです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろと命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここはギリシャ語原文の動詞の使い方によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いているのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです(後注)。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 

神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこには、かつてモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。何だか思い浮かべただけでこちらまで泣けてしまいそうな感動的な場面です。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。そのことは、イエス様の次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。

 

ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」

 

4.復活の面影

 

先ほど、旧約聖書の復活の預言がイエス様の復活が起きたことで現実味を帯びたと申しました。旧約中の復活の預言としてダニエル書12章をあげました。本日の旧約の日課イザヤ書25章の個所も復活の預言です。神が死を滅ぼしたり、全ての涙を拭ったり、神に属する民が受けた恥辱を地上から抹消するということは大体、黙示録20章と21章に出てきます。黙示録を記したヨハネはイザヤ書25章が最後の審判と死者の復活についての預言だとわかったのでした。

 

イザヤ書25章の今日の個所の中で分かりにくいことは、神が全ての民の顔を包んでいた布と国々を覆っていた布を滅ぼすと言っていることです。これはヘブライ語原文を直訳すると、神が滅ぼすものは「全ての民に被さっている目に見える覆い」、「全ての民に被さっている織りなされた覆い」です。少し難しいですが何か外面的なものです。「織りなされた覆い」ですが、詩篇139篇15節を見ると人間が神に造られる時「織りなされる」と言って同じ動詞נסךが使われています。またパウロは、第二コリント5章で肉の体を天幕つまり布切れにたとえています。そういうわけでイザヤ25章で滅ぼされる布というのは私たち人間のこの地上の肉の体のことです。イザヤ書の個所はまさにパウロが第一コリント15章で言っていること、すなわち肉の体は朽ち果てて復活の日に復活の体を着せられることを意味しているのです。

 

さらに、イザヤ書25章で神が盛大な祝宴を開くことが言われていますが、これも黙示録19章にあります。復活に与った者たちが席につくことになる天の御国の祝宴です。イザヤ書を見ると、脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒と言いますが、本当にその通りのメニューになるかどうかは不明です。実はこれは、祝宴で最上のものが振る舞われることを表現するために、当時の人たちの感覚で最上のものが引き合いに出されたということです。それなので、脂っこい料理が苦手な人も自分は天国に入れないどと心配するには及びません。それから「えり抜きの酒」ですが、この訳はいただけません。ヘブライ語の単語シェメルשמרは辞書を見るとぶどう酒に関係する意味です。「酒」は訳しすぎです。焼酎やウイスキーやビール等も入ってしまいます。フィンランド語訳の聖書も「ぶどう酒」です。日本語の翻訳者はお酒が好きでそう訳してしまったのでしょうか?

 

 最後に、先ほども触れましたが、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐ本人と気がつかないことがあるということについて私の思うところを申し上げて今年の復活祭の礼拝説教を締めようと思います。

 

復活の再会の時、再会の相手はどんな容姿をしているのでしょうか?例えば、高齢でこの世を去ったら、天の御国で再会する時もこの世を去った最後の瞬間の容姿、高齢の容姿なのでしょうか?そうだとすると亡くなる人は高齢の方が多いから天の御国は圧倒的に高齢者が多い超高齢者化社会ということになります。逆に、もし小さな子供や赤ちゃんの時にこの世を去ったのであれば、復活の再会の時も子供のまま赤ちゃんのままなのでしょうか?さらに、もし大きな怪我や病気のために容姿が大きく変容してしまったら、再会の時その人はその痛々しい姿で現れるのでしょうか?しかし、イエス様の事例を見ると、復活の再会の時の容姿は必ずしもこの世を去る瞬間の容姿と同じではないことが見えてきます。

 

復活したイエス様は確かに傷は残っていたが、それは何の痛みも持たない、ただ単に過去にこんなことがあったと示すだけの干からびた痕跡にしかすぎませんでした。そうすると、復活の再会の時に目にするのは、この世を去る瞬間の容姿ではなく、その方の何かベストな状態の容姿ということになるのでしょうか?もし、それがこの世を去る時の直近のベストな状態だとしたら、それは一目でその人だと分かってしまいます。一目見てもわからないというのは、その人が辿ってきたいろんな年齢・段階の面影が一つに重なり合っている、ないしは混ざり合っているからではないかと考えるようになりました。そのような重層的な面影を一目見た時どうなるか?見た人はまだその方がこの世を去る時の容姿が頭にあるから、すぐにはわからない。ところが、何かがかみ合うとその人だと納得できる。そういうことなのではないかと考えるようになりました。

 

過去のいろんな面影と言ったら、苦しい時、辛い時の面影もあるでしょう。しかし、黙示録21章を見ると、復活後は涙もなく死もなく悲しみも嘆きもないと言っています。それで、復活の体が映し出す面影は全てベストなものではないかと思います。イエス様が「天使のようになる」と言うのは、こういうことではないかと思います。

 

ベストな面影とは言っても、受けた傷、心の傷、体の傷は消えずに残っているかもしれません。復活のイエス様にも十字架の時に受けた傷が残っていました。しかし、それはもう痛くも痒くもない干からびた痕跡のようなものでした。私たちの心の傷や体の傷も復活の日にそういうものになっているのでしょう。

 

赤ちゃんや小さな子供の場合ですが、遡れる年数が少ない分、面影も少なくなり一目見たらすぐ分かってしまうかもしれません。しかし、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐには誰かわからないということにこだわったら、こういうことになるのではないかと考えます。すなわち、その子は、もし死なずにそのまま順調に育っていたらこういう面影を持つようになっただろう、つまり復活の再会は面影の先取りのようなこともあるのではないか。もちろん、そうなると親としては子供が死んだ後の成長を見ていないのでベストの面影を映し出す子供を見てもなかなか誰かわからないかもしれません。しかし、心配には及びません。親のことを短い生涯でも精一杯見続けた子供の方から、お母さん!お父さん!と声をかけてくれるでしょう。

 

主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん、どうです、復活の日の再会が待ち遠しくなってきたでしょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

 

(後注) 

ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。

ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。

2021年4月6日火曜日

永遠の命の恩人 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年4月2日 聖金曜日

 

イザヤ書52章13節~53章12節

ヘブライの信徒への手紙10章16~25節

ヨハネによる福音書18章1節~19章42節

 

説教題「永遠の命の恩人」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

 もし、あなたが誰かのおかげで命にかかわる危険から助けられたとしたら、その命の恩人に対しては感謝以外のなにものでもないでしょう。例えば、道路を渡っている時、よく見なかった反対側から急に車が出てきて、しまったと思った瞬間、素早く走り寄ってきた誰かがドンと跳ねのけてくれたので車に引かれないで済んだら、その方に本当に大きな感謝でしょう。

 

 ところが、もし跳ね除けてくれたその人が車に引かれて死んでしまったら、助かった人は感謝もあるかもしれないが自分の不注意のせいでこんなことになってしまったと申し訳ない気持ちで一杯になってしまうでしょう。自分が生きていられるのはその人の犠牲の上に立っていると思っただけで、それからの人生はもう軽々しい生き方はできなくなるでしょう。

 

 イエス様の十字架の死は犠牲の死でした。そのことは本日の旧約の日課イザヤ書の個所からも明らかです。その個所はイエス様の受難を預言しています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(53章4節)と言われていました。また、「彼が受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」(同)とも言われていました。さらに、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(11節)とはっきり述べられていました。

 

 しかしながら、イエス様の犠牲の死は、先ほどの交通事故で誰かが自分を犠牲にしたおかげで自分が助かるという出来事に比べたら、あまり身近な出来事に感じられないかもしれません。交通事故の事例では、今自分が生きていられるのは、あの人が身を投げ出してくれたからだとはっきりわかります。それに対して、今自分が生きていられるのはイエス様が自分を犠牲にしたからだとわかることが出来るでしょうか?

 

 イエス様が自分を犠牲にしたのは、人間が内に持ってしまっている罪すなわち創造主の神の意思に反しようとする性向、その罪のせいで人間が造り主との結びつきを失っている、それを取り戻してあげようとしたからでした。人間が罪の罰を受けて滅びてしまわないように、それで神罰を人間に代わって受けて罪の償いを代わりに神に対して果たして下さったのでした。これがゴルゴタの十字架の出来事の真相だったのです。

 

 「今自分が生きていられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ」と言うと、それは交通事故の事例に比べて遠い感じがします。そこで、視野を拡大してこう言い換えます。「今自分が神との結びつきを持って生きられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ」と。さらに続けて、「この結びつきがあるおかげで私には順境の時も逆境の時も常に変わらぬ神の守りと導きがあり、万が一この世を去らねばならない時が来ても復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになった。これらのことは全てイエス様が自分を犠牲にしたから可能になったのだ。」こうすると遠い感じがしなくなり、イエス様も身近な「命の恩人」になります。正確には「『永遠の命』の恩人」です。

 

このように、命というものを今のこの世での命に留めず、この世が終わった後に到来する次の世にまでまたがるものと考えると、イエス様が「永遠の命の恩人」であることがはっきりします。

 

加えてイエス様は、受難を受けることは大きな苦痛を伴うものと知りつつ、敢えて受難の道に入って行かれました。ゲッセマネの園で、これから受けることになる痛みと苦しみを何か飲み干すべき杯に例え、出来ることなら飲まないで済ませたいと祈るくらいでした(マタイ26章39節)。結局は杯を受けることにしますと父なるみ神に打ち明けますが、その時のイエス様は苦しみもだえ汗を血が滴り落ちるように地面に落としていたと伝えられています(ルカ22章44節)。これから起こることは、神と人間の間を引き裂いている罪を全て人間に代わって償い、そのために罪の罰を全て受けることであると自分でわかっていたのです。全知全能の神のひとり子である方がこれほどまでの苦悩と葛藤を通り抜けなければならない位に人間の罪の償い、罪からの贖いというのは途方もないことなのです。そのことを私たちはイエス様の苦悩からわからなければなりません。これは本当に神と同質である方の純粋な苦悩です。本当なら私たちが苦悩しなければならなかったことを神がひとり子にさせたのです。イエス様はそれを全部引き受けて下さいました。だから「永遠の命の恩人」なのです。

 

 イエス様が受けた苦しみについてルターが次のように教えているので、最後にそれを引用して本説教の締めといたします。

 

「イエス様はなぜこのような苦しみを受けなければならないのか?彼は、神の意思に反する罪を持たない、まさに神聖で神の義を持つお方ではないか。しかし、全てはこの世の罪のために起こらなければならなかったのだ!父なるみ神は、この世の罪を全て彼の両肩に押し付けて彼を圧し潰されたのだ。この事実を前にして私たちはどうすればよいのだろうか?次のことを本当のことと信じて受け入れるしかない。すなわち、神が私の罪を私から取り去ってイエス様に押し付けた、それで私は罪から自由な身にされた、ということだ。どうかこのことが、主の受難を聞く私たちにとって深い慰めとなるように。なにしろ、イエス様が私たちの罪を代わりに引き受けて下さって、私たちに代わってそれを背負って神に対して償って下さったからだ。このことは彼の十字架を心の目で見つめる時にはっきりとわかる。イエス様自身、この世の全ての罪を背負うことがどんな痛みと苦しみをもたらすかを前もって全てご存じだったのだ。

 そこで、もし君の罪がイエス様の両肩に圧し掛かっているのなら、君は本当は安心してよいのだ。なぜなら、その時、罪は正しい場所に置かれているからだ。君の両肩は正しい場所ではない。なぜなら、君も他の全ての人もそれらを背負う力はないからだ。もしひとかけらの罪でも背負ったら、その重みで永遠の滅びに落ちてしまうだろう。だから、君の罪々は全部イエス様の両肩に圧し掛かっていていいのだ。そして、見よ、彼が全力を尽くしてそれらをどこに運び上げたかを。十字架の上にだ。そこで我々の罪の罰を受けられたのだ。

 しかし、イエス様は三日後に罪と死と悪魔を凌駕する者として、それらに対する完全な勝利者として立ち現われた。それらのものが主を滅ぼそうと力を奮ったが、全ては無駄に終わった。この事実は君を慰め勇気づけてくれる。ここに言葉では言い尽くせない神の恵みがある。だから神に感謝するのだ!君を地獄の深みに落そうとした罪という重荷を君から取り去って、御自分のひとり子に背負わせて下さった神を。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン