2020年12月23日水曜日

いと高き方の力に包まれて (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2018年12月16日待降節第三主日 スオミ教会

 

サムエル記下7章8-16節

ローマの信徒への手紙16章25-27節

ルカによる福音書1章26-38節

 

説教題 「いと高き方の力に包まれて」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.2020年の待降節ももう第四主日です。今度の木曜日がクリスマス・イブ、金曜日がクリスマスです。この期間、私たちの心は2千年以上の昔に現在のイスラエルの地で実際に起きたメシア・救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を贈られた父なるみ神に感謝してクリスマスをお祝いします。今年の待降節の礼拝の説教で私は特に、キリスト信仰者にとってクリスマスというのは過去の出来事を記念するお祝いに留まってはいけないということを強調してきました。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。そういうわけで私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければならないのです。イエス様が再臨する日というのは、聖書によれば今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それは、また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは、父なるみ神以外は誰もわからないのだとイエス様は言われました。それで大切なことは、「目を覚ましている」ことであると教えられました。

 

 とは言っても、イエス様の再臨というのは気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、なんだか微笑ましい話に聞こえますが、再臨となるとこの世の終わりとか最後の審判とか死者の復活とか物騒なことがつきまといます。誰もそんな日を待ち望まないでしょう。

 

 しかし、キリスト信仰者は、その日は特別な意味を持つ日だと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を通して聖霊を注がれたので自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。これを繰り返していくことで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられます。そこではもう罪の自覚を持つ必要はありません。それなので、キリスト信仰者は主の再臨が待ち望むに値するものであるとわかるのです。

 

 以上から、主の再臨を目を覚まして待ち望む者は次のことを肝に銘じていなければならないとわかります。自分には神の意思に反する罪があるという事実から目を背けないで、たえず神のもとに立ち返る生き方をすることです。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することです。

 

2.主の再臨を待ち望む者が肝に銘じておきべきもう一つのことを本日の福音書の個所から学んでみようと思います。本日の箇所で天使ガブリエルがマリアに、お前は救い主の母となると告げていました。天使が言わんとしていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、だから、それを信じそうなることを受け入れなさいということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていて受け入れ難いものでも、神がそう言われる以上はそうなる、だから、それを受け入れて、それを全てに優先させなさいということです。人間の本心としては、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置くというのはあまりしたくないものです。ましてや、そうすることで余計な困難や試練を抱えてしまってはなおさらです。しかし、神はまさに人の都合よりも神の意志を優先させる人と共に一緒におられるのです。この真理が本日の福音書の箇所の説き明かしから明らかになります。

 

 このガブリエルという天使ですが、ダニエル書にも登場します(8章と9章)。神に敵対する者が跋扈する時代が来るが、それは必ず終焉を迎える、とダニエルに告げ知らせます。ガブリエルはまたマリアのところに来る6カ月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。 

 

ガブリエルがマリアに告げたことは、彼女がまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊すなわち聖霊の働きで神の力が及んで男の子を産むということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続くということも告げました。その子につける名前として「イエス」が言われます。「イエス」と言うのは、ルカ福音書が書かれているギリシャ語ではイェースースΙησουςと言います。ところでマリアがガブリエルと会話した言葉は恐らくアラム語というヘブライ語に似た言語です。その言葉ではィエーシューアישועといいます。それは旧約聖書のヘブライ語ではユホーシェアיהושעといい、これはモーセの後を継いでイスラエルの民をカナンの地に導いた指導者の名前です。日本語ではヨシュアと言います。それは文字通り「主が救って下さる」という意味です。つまり、旧約聖書の「ヨシュア記」のユホーシェアがアラム語でィエーシューアになって、その後でルカが福音書をギリシャ語に書いた時にイェースースになって、それが日本語ではイエス、英語ではジーザスになったということです。以上、キリスト教雑学辞典でした。

 

さて、ダビデ家系の王が君臨する王国が永遠に続くということについてですが、世界史の教科書にも出てきますが、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいました。捕囚が終わってユダヤ民族が祖国に帰還した後はもうダビデ家系の王国は実現しませんでした。しかし、旧約聖書の中にダビデの王国は永遠に続くという神の約束があるため(サムエル下7章16節、詩篇45章7節、イザヤ9章6節、ダニエル7章14節)、ユダヤ民族の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつもありました。

 

しかしながら、神がダビデの家系に属する者に与えると約束した永遠の王国とは実は、地上に建設される国家ではなく、天の御国のことだったのです。ヘブライ12章や黙示録21章で言われているように、今のこの世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、唯一揺るがないものとして立ち現われる神の国がその永遠の王国だったのです。私たちが「主の祈り」を祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことだったのです。そこで王として君臨するのは、まさしく死から復活した後に天に上げられて今のところは父なるみ神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主イエス・キリストなのです。

 

イエス様は、人間として見た場合どこの家系に属するかと言えば、ダビデの子孫のヨセフが育ての父親だったので、ダビデの家系に属することになります。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物である人間ではありませんでした。イエス様はマリアから誕生する以前から既に父なるみ神のもとに神のひとり子として存在していました。そのことはヨハネ福音書1章に述べられています。「イエス」という名前はマリアのお腹を通って人間の体を持って付けられた名前です。父なるみ神のもとにいた時には人間的な名前は何もありません。それでヨハネはそのひとり子をギリシャ語でロゴスと呼んだのです。ロゴスは「言葉」を意味します。つまり、神のひとり子は神の言葉としての役割を果たすというのです。天地創造の時、神は「光よ、あれ」と言葉を発していって全てのものを創造しました。それで神の言葉の役割を果たすひとり子は天地創造の時に既に存在していて父と共に創造の業を行っていたのです。そのことがヨハネ1章で語られています。その神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってマリアのお腹から生まれてきたというのがクリスマスです。マリアが処女のままイエス様を産むことになったのは、神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってこの世に登場できるようにするためだったのです。

 

3.それではなぜ天の御国におられる方がわざわざ人間の体を持ってこの地上に来なければならなかったのでしょうか?それはひと言で言えば、人間の救いのためでした。「救い」というからには、何からの救いなのかをはっきりさせなければなりません。聖書によれば、人間と創造主の神との結びつきが失われてしまったので、それを取り戻すことが救いです。それではなぜ失われてしまったかと言うと、創世記3章にあるように最初の人間が造り主である神の意思に反して罪を持つようになってしまったからでした。その結果、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べる通り(ローマ6章23節)、人間は罪がもたらす死に服従する存在になってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金を積んでも死から自分を買い戻すことはできません。そこで創造主の神は人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにと計画を立ててそれを実行しました。これが神による人間の救いです。

 

それがどのような計画でどのように実行されたかと言うと、神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪から来る神罰を全て受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの丘での十字架の死でした。父なるみ神はイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。この、神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が私たちを罪と死のもとから神のもとに買い戻す代価となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペトロ1章18~19節)。さらに神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る扉を人間のために開かれました。それで今度は人間の方がイエス様こそ救い主であると信じて洗礼を受けると、この神のひとり子が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになって、神からは罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたので、もう神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。神との結びつきを持ってこの世を生きるというのは、永遠の命が待つ神の御国に至る道に置かれてその道を歩むことです。順境の時にも逆境の時にもいつも変わらぬ神との結びつきを持って歩みます。この世を去った後も、新しい天地創造の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を付与されて神の御国に迎え入れられることになります。

 

人間が罪の償いと赦しを得られて神との結びつきを持てるようなることが神の救いの計画だとわかったとしても、そのためになぜ神のひとり子が人間として生まれてこなければならなかったのでしょうか?それは、償いが果たされるために誰かが犠牲にならなければならなかったからです。その償いは人間には不可能です。人間が神罰を受けてしまったらもうそれでお終いです。他人の罪を償ってあげるどころか自分の罪さえも償って生き続けることは出来ません。それで神は人間の罪の償いを人間にさせるのではなく、自分のひとり子を神聖な生贄として捧げることにしたのです。

 

ひとり子が犠牲を引き受けるとき、天の御国にいたままでは行えません。人間の罪の神罰を全て受けるという以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法が効力を有しているところにいる存在にならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は当然、律法の上に立つ方です。上に立ったままでは罰を罰として受けられません。罰を受けられなければ罪の償いもありません。罰を罰として受けられるためには、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。それで神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。まさに使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったということが起こったのです(ガラテア3章13節)。フィリピ2章6~8節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子を惜しまなかった父なるみ神と、その救いの実現のために御自身を捧げられた御子イエス様、そして私たちが神との結びつきを持って生きられるように日々、支えて下さる聖霊はとこしえにほめたたえられますように。

 

4.天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初それを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)です。ギリシャ語原文をもう少し直訳すると、「神が言われることは(ρημα)神の方から全て不可能ではなくなる」です。どうしてそんなに自信満々でいられるかというと、神の力というものは34節で言われるように「いと高き方の力」だからです。これももう少し直訳すると「最も高いところの方の力」です。最も高いところの方ですので、他のものは全てこの方より低いものとなります。そうなると、あらゆるものの力はこの方の力に及びません。そのような私たちの想像をはるかに超える力を「最も高いところの方の力」と呼ぶのです。そのような力がマリアを「包んだので」(ギリシャ語では「覆った」)、神の言葉の役割を果たす方が人間として生み出されることが出来たのです。 

 

この「最も高いところの方」の力はイエス様の死からの復活の時にも働きました。そのことがエフェソ1章19~21節で言われています。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」ました。ここで「力」という言葉が2回出てきますが、ギリシャ語原文では4回出てきます。そのうち3つは力を意味する3つの別々の言葉です。ドュナミス、クラトス、イスキュスです(もう一つは関係代名詞)。それらの力が働いてイエス様を死から復活させたという言い方です。日本語に訳すのは大変です。「神が力の力の作用をもって、私たち信仰者に向けられる力の強大さがどれだけ桁外れのものであるかを悟らせて下さるように。その力の力の作用をもって、神はキリストを死者の中から復活させたのです」。

 

 いずれにしても、マリアの処女受胎もイエス様の死からの復活も、何か、ちちんぷいぷいのおまじないで起きたというようないい加減な話ではないのです。当時の人たちは、本当に想像を絶する力が働いて起きたということがよくわかっていたのです。それが記述の仕方に出ているのです。そして、私たちにとって重大なことは、エフェソ書の中で言われているように、この想像を絶する力が神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者に向けられているということです。

 

 そう言うと、神の想像を絶する力が自分に向けられているのなら、どうして自分や自分の周囲にそんな力が働いていると感じさせないことばかりなのか?そういう疑問が出てくると思います。神の力など本当は何も働いていないのではないかと疑う人も出てきます。この問題は、マリアに何が起こったかを見ていくと神の力に包まれる(覆われる)というのはどういうことか分かってくると思います。

 

マリアはガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と答え、神の意思に従うと言います。この従いは、天地創造の神のひとり子の母親になれるという意味では大変名誉なことではありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものでもありました。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは婚約破棄を考えたのでした(マタイ1章19節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を伝えられて、神の計画の実現のために言われた通りにすることに決めました。

 

神の人間救済計画の実現のために特別な役割を与えられるというのは最高の名誉である反面、人間の目からすれば、最悪の恥になることもあるという一例になったのです。さらにイエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で三人はナザレに戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に「この子は神の子です、天使がそう告げたんです!」と弁明したところで人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも黙って言われるままにした方が賢明ということになったかもしれません。

 

いずれにしても、マリアとヨセフは社会的に辛い立場に置かれたのです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から目を注がれて一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも人間的にはおめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神の意思に従っていれば、神は共におられのです。神の意思に従う時、人間的には辛い状況になっても、実はその状況そのものが、神が共におられ神の力に包まれている(覆われている)ことの証しなのです。マリアは順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいるという生き方に入っていったのです。「神様が一緒にいてくれても逆境になるんだったらイヤ!」とか、「神様が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい」という生き方は選びませんでした。たとえ逆境を伴うことになっても神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって学ぶべきことがあります。

 

 キリスト信仰者といえども、この世にいる限り、神の力に包まれている(覆われている)とは感じられないことばかりです。しかし、神の意思に従う限りは、そう感じられない状態にあるということが逆に神の力に包まれている(覆われている)ことの証しになっている、このことがマリアの生き方から明らかになります。この逆説的な状況は、復活の日にきれいに解消されます。というのは、神の想像を絶せする力に包まれて(覆われて)生きた者は、その日その力によって復活させられるからです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年12月14日月曜日

冬の闇夜を照らすイルミネーションよりも素晴らしく輝く光 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 

 

2020年12月13日(待降節第三主日)スオミ教会

 

イザヤ書61章1-4、8-11節

テサロニケの信徒への第一の手紙5章16-24節

ヨハネによる福音書1章6-8、19-28節

 

説教題 「冬の闇夜を照らすイルミネーションよりも素晴らしく輝く光」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.  洗礼者ヨハネとその洗礼について

 

 本日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネに焦点が当てられています。ヨハネは来るべきメシア救世主を人々が迎え入れるように導いた人です。少し歴史的なことを述べておくと、彼はエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章によればイエス様より半年位早くこの世に誕生しました。神の霊によって強められて成長し、ある時からユダヤの荒れ野に身を移して神が定めた日までそこにとどまっていました。らくだの毛の衣を着て腰には皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の定めた日がきて神の言葉がヨハネに降り、荒れ野からヨルダン川沿いの地方に出て行って「悔い改めよ、神の国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の群衆がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネに罪を告白し洗礼を受けました。ルカ3章によれば、それはローマ帝国皇帝ティベリウスの治世15年、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。皇帝ティベリウスはイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の人で西暦14年の9月に即位しました。治世15年というのは即位年を含めて数えるのかどうか不明なので、洗礼者ヨハネの活動開始は西暦28年か29年ということになります。

 

 ヨハネは活動開始してからまもなく、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの不倫問題を諫めたことが原因で投獄され、無残な殺され方をします。

 

 ヨハネのもとに大勢の群衆が集まって罪を告白して洗礼を受けました。先週も申し上げましたが、当時の人々は旧約聖書に預言されている「主の日」と呼ばれる日がついに到来したと考えたのでした。「主の日」とは旧約聖書の預言書によく出てくるテーマで、神がこの世に対して怒りを示す日、想像を絶する災いや天変地異が起こって神の意思に反する者たちが滅ぼされる日です。しかし、その後に全てが一新されて天と地も新しく創造されるので、「主の日」は今の世が新しい世に変わる過渡期とも言えます。洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人々はいよいよその日が来たと思い、神の怒りや天変地異から助かろうと、罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのでした。

 

 当時の人たちがそういう終末論的な恐れを抱いていたことは、本日の福音書の個所の中でも窺えます。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちがヨハネに、あなたは預言者エリアかと尋ねます。これは、旧約聖書のマラキ書3章の預言に関係します。エリアはイエス様の時代からさらに800年位前に活動した預言者で、列王記下2章に記されているように、生きたまま天に上げられました。マラキ書の預言のためにユダヤ教社会では神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送られると信じていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではない、ましてはメシア救世主でもない、自分はイザヤ書40章に預言されている、「主の道を整えよ」と叫ぶ荒れ野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日やこの世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、メシア救世主が来なければならない。自分はその方のために道を整えるために来た。そうヨハネは自分の役割について証しました。

 

 先週の説教でもお教えしたように、ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けました。それは清めのジェスチャーのようなもので、罪の赦しそのものが起こる洗礼ではありませんでした。先週の日課のマルコ1章の中でヨハネも認めたように、それが起こるためには聖霊が伴わなければならなかったのです。聖霊を伴う洗礼を授けられるのは自分の後に来られるメシア救い主しかいないのだ、と。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシアの罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものであったと言えます。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は罪を洗い清める洗礼ではなく、人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。それで、ヨハネは人間に主の道を整えさせる働きをしたのでした。それで、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救世主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。

 

2.イエス様が贈られた聖霊を伴う洗礼について

 

 洗礼者ヨハネの活動は普通は、イザヤ書40章3節の預言が実現したものと見なされます。それは、「荒れ野で叫ぶ声がする」と書いてあるので、ヨハネがユダヤの荒れ野で叫ぶように宣べ伝えたことと重なるからです。ところが、先週の説教でも見ましたように、そのように書いてあるのは旧約聖書のギリシャ語版で、ヘブライ語版はそう書いてありません。叫ぶ声はただの叫ぶ声で、荒れ野で叫ぶとは言っていません。「荒れ野」は、主の道を整える場所になっています。ギリシャ語版では、荒れ野で叫ぶ声がして、その声が「主の道を整えよ」と叫んでいる。ヘブライ語版では、叫ぶ声が「荒れ野で主の道を整えよ」と叫んでいる。どうしてそんな違いがあるのかということについて、先週も少し申しましたが、旧約聖書がどのようにして出来たかという大問題にかかわるので時間の限られた説教では割愛します。大事なことは、大元にあるヘブライ語の旧約聖書はどちらにでも取られる書き方をしていたということです。

 

 ギリシャ語版に基づいて見ていくと、洗礼者ヨハネは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫んで、人々に罪の自覚を呼び覚ましました。そして、来るべきメシア救世主から聖霊を伴った洗礼を受けられるように導きました。罪の自覚とメシアの洗礼の待機の印としてヨハネの洗礼がありました。このようにしてイザヤ書40章3節の預言は実現しました。

 

それでは、人々はどのようにして聖霊を伴うメシアの洗礼を受けるようになったのでしょうか?イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれ、その3日後に神の想像を絶する力で復活させられるという出来事が起きました。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、これで彼の十字架の死がなぜ起こったかがわかりました。それは、神のひとり子が人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったということでした。そのことは実は旧約聖書に既に預言されていて、それらの預言が何を意味するのかがイエス様の十字架と復活の出来事で明らかになったのでした。

 

神がひとり子を用いて十字架の死と死からの復活の出来事を起こしたのは、人間が堕罪の時以来失ってしまっていた神との結びつきを取り戻せるようにするためでした。人間が、これらの出来事は自分のために神がなさせたものだったのだとわかって、それでイエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。これがメシア救い主イエス様の洗礼です。それを受けた人は罪を償われたので、神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきを持って世を生きていくことになります。目指すところはただ一つ、永遠の命と復活の体が待っている天の御国です。イエス様の死からの復活が起きたことで、そこに至る扉が開かれて、キリスト信仰者はそこに至る道に置かれてそこに向かって歩み出します。順境の時にも逆境の時にも変わらずにある神との結びつきを持ってただひたすら進んでいきます。

 

 ところが、罪を赦された者と見なしてもらえるとは言っても、信仰者から罪の自覚がなくなったわけではありません。神がそれだけ身近な存在になれば、神の意思もそれだけ身近になって自分には神の意思の沿わないことが沢山ある、罪があるということに一層気づかされるようになります。行為では盗みも殺人も不倫も偽証や改ざんなどしていなくても、心の中でそのようなことを思い描いたりします。その時、神はがっかりして愛想を尽かして見捨てるかと言うと、そうはならないのです。どうしてかと言うと、洗礼の時に注がれた聖霊が信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、罪の赦しが微動だにせずあることを示してくれるからです。神のひとり子のとても重い犠牲の上に今の自分があるとわかると、もう軽々しいことはできないという気持ちになります。また今自分が生きている新しい命は微動だにしない十字架を基にしているので、自分の過去の嫌なことが来て台無しにしようとしても傷一つつけられません。傷は全部イエス様が代わりに負って下さったのです。それがわかると心は安心し平安が得られます。

 

 罪の自覚の呼び覚ましとその後に続く罪の赦しが一つになっているというのは聖霊の働きです。聖霊が働かなければ罪の自覚は生まれません。自覚が生まれないと罪の赦しもありません。また罪の自覚が生まれても、赦しがなかったらそれは絶望にしかなりません。それは聖霊の働きではありません。罪の自覚と赦しが一つになっているのが聖霊の働きだからです。なぜ聖霊はそのような働きをするのかというと、これを繰り返すことによって信仰者と神の結びつきが一層強まっていくからです。人間が神と結びつきを持てて、それを強めるようにすることが聖霊の目的だからです。そのような聖霊は、まさにイエス様が贈られた洗礼を通して与えられるのです。

 

 聖霊が働くままにさせて神との結びつきが強まっていけば、内に宿る罪は行き場を失い圧し潰されていきます。罪の本質は、人間と神の間の結びつきを失わせて、人間を永遠の滅びに陥れることにあります。そのような罪を悪魔は用います。それは、悪魔の目的が、人間と神の間の結びつきをなくして人間を永遠の滅びに陥れることにあるからです。しかし、キリスト信仰者は、罪には結びつきを失わせる力がなくなっているとわかっています。なぜなら神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を十字架で受けたのですから。十分過ぎるほどの償いはなされたのです。しかも、イエス様は死から復活させられたので、彼に罪を償ってもらった者には罪は本当は力を及ぼせないのです。それがわかったキリスト信仰者は罪に対して、こう言ってやればいいのです。「罪よ、お前は本当は死んでいるのだ。」

 

 人間と神との結びつきを弱めるものとして、罪の他に私たちが遭遇する苦難や困難もあります。そのような時、人は、神に見捨すてられた、とか、神は怒っている、などと思いがちです。イエス様の犠牲を脇に置いて自分が何かをして神を宥めねばと何かをやってしまったり、または、見捨てられたからもう神と関りは持たないという考えになりします。しかし、神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を受けたという、それくらい神が私たちのことを思って下さったのなら、見捨てたとか怒っていると考えるのは間違いです。それならば、なぜ苦難や困難があるのか?どうして神は苦難や困難が起きないようにして下さらなかったのか?難しい問いです。しかし、苦難や困難がもとで私たちが神から離れてしまったら、それは悪魔や罪が手を叩いて喜びます。それなので、今こそ苦難や困難を、神との結びつきを失わせるものから、結びつきを強めるものに変えないといけません。でも、どうやって苦難や困難を神との結びつきを強めるものに変えることができるでしょうか?とても難しい問題です。一つはっきりしていることがあります。それは、神との結びつきがあれば人生は順風満帆になるという考えは捨てることです。そのかわりに、神との結びつきは順境の時も逆境の時も同じくらいにある、外的な状況や状態に全然左右されないである、ということはうよく言い聞かせることです。ゴルゴタの十字架と空っぽの墓に心の目を向けながら、言い聞かせをすることです。

 

3.冬の闇夜を照らすイルミネーションよりも素晴らしく輝く光

 

キリスト信仰者の生き方は罪の自覚と赦しの繰り返しをして神との結びつきを強めていくことであると申し上げてきました。しかしながら、そう言うと今度は、この世にはいかに神との結びつきを弱めたり失わせることが沢山あることに気づかされます。それなので、神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世は闇と言うのは間違いではありません。そうすると、神との結びつきを持たせよう強めようとする力は光となります。この闇と光についてヨハネ福音書の本日の日課のひとつ前の個所で述べられています。

 

それは1節から8節までの個所です。そこではイエス様が乙女マリアから生まれて人間の体を持って誕生する前のことが述べられています。この世に誕生する前の神のひとり子には人間の名前はありません。「イエス」という名は誕生した後でつけられた名前です。この世に誕生する前の神のひとり子のことを福音書の記者のヨハネはギリシャ語で「言葉」を意味するロゴスと呼びました。神のひとり子が神の言葉として天地創造の場に居合わせて創造の働きを担ったことが述べられます(2~3節)。その後で、この神の言葉なる者には命があると言います(4節)。ヨハネ福音書で「命」と言ったら、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神の言葉なる者には永遠の命が宿っているということです。そして、永遠の命は「人間の光」であると言います(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文を直訳すると「人間の光」です。その「人間の光」が闇の中で輝いていると言います(5節)。闇とは先ほども申しましたように、神と人間の結びつきを失わせようとする力が働くこの世です。その中で輝く光とは、その結びつきを人間に持たせて強めようとする力のことです。まさにイエス様のことです。それで「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」でイエス様そのものです。

 

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。実はこれは解釈が分かれるところです。というのは、原文のギリシャ語の動詞カタランバノーがいろんな意味を持つからです。日本語(新共同訳)と英語(NIV)の訳は「暗闇は光を理解しなかった」ですが、フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語の訳では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持っているか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解して、日本語や英語のように訳してもいいかもしれません。しかし、悪魔は罪を最大限活用して人間から神との結びつきを失わせようとしても、それはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。

 

さて、福音書の記者は洗礼者ヨハネのことを、この光を証しするために遣わされたと言います(6~8節)。人々はヨハネ自身がその光ではないかと思ったが、そうではなくヨハネは人々の前で、もうすぐその光が現れると表明したのでした。

 

この光がどれだけ素晴らしいものか、今まで申し上げたことではまだ抽象的すぎて遠い感じがすると言う人もいらっしゃるかもしれません。それならば、もう少し具体的に身近に感じられるようにお話ししてみましょう。

 

今はクリスマスシーズンということで、あちこちにイルミネーションが見られます。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。ネットを見ると、どこのイルミネーションがきれいかランキングなんかもあります。私たちの家族もそれを見て今年はどこのを見に行こうかなどと話し合って出かけます。今年は人が多いところは行けませんが。とにかくイルミネーションは闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。

 

闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間がライトを持たずに歩いたという不用意によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じで、それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。

 

ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っているのです。闇の目的は、人間から神との結びつきを失わせようとすることです。そして、その闇が支配下に置けなかった力強い光は、まさに人間から失われていた神との結びつきを取り戻してあげることを目的としています。取り戻したらそれが失われないようにし一層強められるようにする目的を持っています。

 

その光は、イエス様の十字架と復活によって現れました。それは闇が支配下に置けない位、力強い光です。

 

なぜなら、闇が死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。

 

それなので、キリスト信仰者は、冬の闇夜を照らすイルミネーションを見た時、目的を持たない光がこれだけ素晴らしいのならば、私たちのために目的を持つ光の素晴らしさはいかほどのものだろうと予感し期待に胸を膨らませることができるのです!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年12月7日月曜日

この世という荒れ野の中で主の道を整え生きよ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2020年12月6日 待降節第二主日

スオミ教会

 

イザヤ書40章1-11節

ペトロの第二の手紙3章8-15a節

マルコによる福音書1章1-8節

 

説教題 「この世という荒れ野の中で主の道を整え生きよ」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.

 

 先週の主日にキリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会の新年の二回目の主日です。新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救世主のこの世への降臨を待つ期間です。カタカナ語ではアドヴェントと言います。この期間、私たちの心は、2000年以上の昔に起こった救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救世主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救世主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 

 待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、キリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、それじゃまた来年、と済ませるのではなく、毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は再臨の日がいつかは誰にもわからないと言われました。彼が再臨する日というのは、今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それで、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。

 

 もちろん、私たちはこの世では、神から取り組みなさいと与えられた課題がいろいろあります。世話したり守るべきものがあればそうする、改善すべきことがあればそうする、解決が必要な問題があれば解決に努める。先週の説教でも触れましたが、宗教改革のルターも教えるように、キリスト信仰者というのは、片方ではそうしたこの世でしなければならないことをし、片方では主の再臨を待ち望む心を持っているのです。その心を持っていることが目を覚ますことです。

 

 とは言え、イエス様の再臨というのは実は気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、一見おとぎ話みたいで可愛らしい出来事です(本当はそうではないのですが)。ところが、再臨となると先ほど申しましたように、この世の終わりとか、最後の審判とか死者の復活とか想像を絶する出来事がつきまといます。先ほど朗読した第二ペトロの日課の個所でも、創造主の神が今ある天と地に代えて新しい天と地に造り直すことが預言されていて、「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去る」などと言っています。誰もそんな日が来ることを望まないでしょう。

 

 しかし、キリスト信仰者は、そのような日に目を背けず、それは自分にとって大事なことと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、イエス様を救い主と信じ洗礼を通して聖霊を注がれたキリスト信仰者は、自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。キリスト信仰者の人生は、この世を去るまではこうした罪の自覚と赦しの繰り返しです。しかし、そうすることで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を与えられて神の御国に迎え入れられます。もう罪の自覚を持つ必要はありません。

 

 それから、この世で罪を圧し潰す側について生きると、いろいろ損することや不利益を被ることが出てきます。この世は、別に大勢に影響ないからいいのだとか、誰も見ていない、多くの人がやっているからいいのだとか、果ては、神はそんな厳しいことは言っていない、などと言います。せっかくイエス様の犠牲と復活のおかげで新しい命を得て、神と結びつきを持って生きられるようになったのに、この世はそれを失わせようとします。しかし、パウロがローマ12章で教えるように、キリスト信仰者は不利でも損でもいいからこの世の基準に倣わないで生きていきます。そして、イエス様の再臨の日に全てが逆転します。なにしろ、基準を出してくるこの世そのものがなくなってしまうのですから。今のこの世で神の意思に従って損していたことが、次に到来する世では得になります。逆もまたしかりです。

 

 以上のことを思えば、キリスト信仰者にとって主の再臨とはやはり待ち望むに値するものであると言ってもよいでしょう。

 

2.

 

 前置きが長くなりました。今日の福音書の日課を見ていきましょう。洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したことが記されています。福音書の記者のマルコは、洗礼者ヨハネの登場はイザヤ書40章3節の預言の実現であると考えて、それを引用して書きました。

 

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』

聖書を注意深く読む人は、あれ、これはさっき読んだ引用元のイザヤ書40章3節とちょっと違う、と気づくでしょう。実はこれは少し大きな問題なので、後で改めてお話しします。いずれにしても、マルコは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫ぶ声は洗礼者ヨハネのことだったと見なしたわけです。

 

 洗礼者ヨハネが人々に命じた、主の道の整え、道筋を真っ直ぐにすることとはどんなことだったのでしょうか?ユダヤ地方やエルサレムの町から大勢の人が来てヨハネに罪を告白してヨルダン川の水で洗礼を受けました。これが主の道を整えることでした。マタイ福音書やルカ福音書を見ると洗礼を受けに来た人は皆、神の怒りを恐れていたことがわかります。旧約聖書の至る所に「主の日」と呼ばれる日の預言があります。それは神が人間に怒りを表す日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異が起こる時として言われています。イザヤ書の終わりではそれこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造する日のことが預言されています。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、いよいよその日が来たと思ったのです。それで神の怒りが及ばないようにと、そのような大変動から助かろうと、それでヨハネのもとに来て、罪を告白して「罪の赦しに導く」悔い改めの洗礼を受けたのです。水を浴びるので罪から清められることを象徴しました。

 

 ところが、ヨハネは洗礼を授けたものの、自分の後に来る方つまりイエス様が本当に神の怒りが及ばないようにする力がある方だと言います。そのためには洗礼に聖霊が伴わないとだめなのだが、自分の洗礼にはそれがなくイエス様の洗礼にはあると認めるのです。どうしてイエス様の洗礼には神の怒りが及ばないようにする力や来るべき大変動を乗り越えさせる力があるのでしょうか?それは、イエス様の洗礼には、彼がゴルゴタの十字架で自分を犠牲にして人間の罪を神に対して償ったという、罪の償いをその人に注ぎ込むものだからです。洗礼を受けた人はイエス様に罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたので神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。

 

 さらに、イエス様は死から3日後に神の途轍もない力によって復活させられました。これによって、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る扉も開かれました。洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそれを歩むことになるのです。その道の歩みで、先ほども述べたように、罪の自覚と赦しを繰り返しながら進み、主の再臨の日が来ると、罪を圧し潰す側にいて生きていたことを認められて神の国に迎え入れられます。イエス様の洗礼にはそのような力があるのです。彼の洗礼に聖霊が伴うということについて。聖霊とはそもそも洗礼を受けた者が罪の自覚を持つようにと促し、自覚を持てば今度は心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて罪の赦しが微動だにせずにあることを知らせてくれる方です。それで聖霊が伴わなければ、罪の自覚は生まれず、罪を圧し潰す生き方も出来ません。逆に、罪の自覚は生まれても心の目をゴルゴタの十字架に向けさせることがなかったら、絶望に陥ってしまいます。そのように聖霊は信仰者が神との結びつきを失わずにそれを一層強める働きをして、信仰者を主の再臨の日に備えさせてくれるのです。

 

 ヨハネの洗礼にそのような力も聖霊もなかったのならば、なぜ彼は洗礼を授けたのでしょうか?それは、神の怒りの日を覚えて自分の罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めて、彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るとことに心を向けさせる印でした。その意味で、ヨハネの洗礼はまさしく来たるべき救い主を迎える準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中に道を整えて道筋を真っ直ぐにすることでした。

 

3.

 

 そうすると、イザヤ書の預言は洗礼者ヨハネがユダヤ地方やエルサレムの人たちに、イエス様を迎える準備の洗礼を授けたことで完結したことになります。ところが、預言はそこで完結していないのです。

 

 イザヤの預言をよく見てみましょう。マルコが引用した預言はこうでした。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

引用元のイザヤ書40章3節はこうです。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」

 

 よく見比べると、マルコの引用では、叫ぶ声は荒れ野で叫ぶことになっています。引用元は、声の場所はどこと言っていません。「荒れ野」は声がする場所ではなくて、道を備える場所が荒れ野です。マルコの引用では、主の道を整える場所はどことは言っていません。「荒れ野」はあくまで声がする場所です。それなので、この声はユダヤの荒れ野で叫んでいた洗礼者ヨハネを指すことになったのです。ところが引用元の文では、声がする場所は何も言われていません。それでもし、これをそのまま引用してしまったら、叫ぶ声がヨハネの声だと自信をもって言えなくなります。さて、マルコは、叫ぶ声の主が洗礼者ヨハネだと言いたいがために、元の文を改ざんして「荒れ野」という言葉を「道の整え」から切り離して「声」の方にくっつけたのでしょうか?イエス様にまつわる出来事はみんな旧約聖書の預言の実現だと言いたいがためにそういう小細工をしたのでしょうか?

 

 そういうことではないのです。イザヤ書のヘブライ語の原文を見ると、確かに、声がする場所は何も言われていません。「荒れ野」は主のために道を備える場所です。マルコの引用では「荒れ野」は声がする場所になっています。実を言うと、マルコはイザヤ書のこの個所をギリシャ語版の旧約聖書に拠っているのです。旧約聖書にはヘブライ語版だけでなくギリシャ語版もあるというのは、紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国が地中海地域の東半分を征服して、地域のギリシャ語化が進んだことが背景にあります。ヘブライ語よりもギリシャ語がわかるユダヤ人のために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたのでした。イザヤ書40章3節で「荒れ野」が叫ぶ声の場所になっているというのはギリシャ語版なのです。

 

 そうすると、翻訳者が間違ったのかと言うと、そうとも言えないのです。これはヘブライ語の旧約聖書がどのようにできたかという大問題になるのでここでは立ち入りません。簡単に言うと、翻訳者たち(伝説では70人いた)が目の前にした、動物のなめし皮に刻まれたヘブライ文字の羅列はどっちにも取れる書き方だったのです。「荒れ野に」(במדבר)という言葉は、叫び声がする場所と見ることも出来たし、道を整える場所とも見ることも出来たのです。(私個人の感想では、ヘブライ語のテキストを何度も見るとやはり、道を整える場所ではないかなと思われるのですが、でも声の場所も捨てがたく、とても悩ましいところです。)

 

 そういうわけで、マルコはギリシャ語版に忠実に従っただけで、翻訳者たちも間違いを犯したわけではないことがわかります。そうすると、イザヤ40章3節は、叫び声が荒れ野でしたと言って、それが洗礼者ヨハネを指し、彼の活動をもって実現したということになります。そうなると、この預言は過去に完結したことになって後世には関係ないことになります。しかし、実はそうではないのです。もう一つの理解の可能性、「荒れ野」は主の道を整える場所と考えたら、現代を生きる私たちに関わる預言になるのです。

 

4.

 

イザヤ書40章から55章までの部分は額面通りに取ると、紀元前6世紀にバビロン捕囚の憂き目にあったユダヤ民族の祖国帰還を預言する内容になっています。荒れ野に道を整えるというのは、まさに中近東の荒野を通って、蜜と乳が溢れる祖国に帰還する道ということになります。40章2節で、民の苦役の時は満了になった、民は犯した罪に対して二倍の苦汁をなめたのでその償いは十分過ぎるほど果たした、ということが言われています。これは、イスラエルの民がかつて神に背き続けて罰として国滅ぼされ異国の地に連行されて辛酸をなめたことを指すと普通は解されます。このようにイザヤ書40章の預言は、バビロン捕囚期のユダヤ民族からすれば、もうすぐ祖国帰還が近いという希望の預言でした。それは実際に紀元前6世紀の終わりにその通りになりました。

 

ところが、祖国に帰還できてエルサレムに神殿を再建したものの、ユダヤ民族は立て続けに大帝国の支配下に置かれ続けました。ダビデの子孫が王となって諸国民が創造主の神を崇拝に集まって来るという預言には程遠い状況でした。しかも、エルサレムの神殿で行われる神崇拝は本当に神の意思に沿うものか疑問視する見方も強まりました。それで、イザヤ書の預言は祖国帰還なんかで実現したのではなかった、40章5節で荒れ野に主の道を整えると全ての人の目の前に主の栄光が現れるという預言はまだ実現していない、だから道を整えるというのは過去の祖国帰還のことではなく、もっと別の大きなことなのだという理解になっていきます。イザヤの預言で神が意図したのはそれだったのです。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。

 

イエス様の十字架の死と死からの復活の後で、イザヤ書の預言は特定民族の歴史上の期待を超えた、もっと大きな普遍的なことを意味していたことが明らかになりました。全ての人間が万物の造り主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにと、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようにと、そのために神のひとり子が私たちに贈られました。そのひとり子が私たち人間に代わって罪の償いを神に対して果たしてくれて、死を超えた永遠の命に至る扉を開いて下さったのでした。イザヤ書40章の冒頭で、罪の罰を倍以上受けて神にそれでもう十分と受け入れられたことが言われていました。これはまさしく、神のひとり子の神聖な犠牲の死のことだったのです。

 

洗礼者ヨハネが人々に道を整えよと命じたのは、心にイエス様を迎える準備をしなさいということでした。そのために罪の自覚を抱かせて、救い主を受け入れるしかないという心にして、もうすぐ聖霊を伴って洗礼を授ける方が来られるので心配しないで待ちなさい、というものでした。

 

私たちキリスト信仰者にとって、主の道を整えるというのは、本説教の最初でも申しましたような、罪の自覚と赦しを繰り返しながら神との結びつきを強め罪を圧し潰していく生き方をすることです。その時、この世がいろいろなことを言って、そのような生き方から離れさせようとします。それでこの世はまさしく主の道を整える場所なので、「荒れ野」になります。この世の中で神との結びつきを強める生き方をすることが、荒れ野の中で主の道を整えることになります。だから、イザヤ書40章3節の預言は私たちに向けられた預言なのです。そのようにしてこの世という荒れ野を進む私たちを父なるみ神は守って導いて下さることもイザヤ書40章で次のように約束されています。

 

 10節「見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」主のかち得られたもの、主の働きの実りとは、イエス様が果たしてくれた償いを洗礼を通して自分のものとしたキリスト信仰者のことです。それがこの世にあって御もとに従い、御前を進むのです。

 

 11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって小羊を集め、懐に抱き、その母を導いて行かれる。」神との結びつきを持って生きる者は、このように守られて導いてもらえるということです。それでは、どこに導いてもらえるのか?罪を圧し潰す側についていれば、この世が仕掛ける障害物はみな、谷が埋められ山と丘が平らにさせられるように倒されて行きます。そして最後に、

 

 5節「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に(יחדו同時に)見る。」罪を圧し潰す側にいた者も、それを邪魔した者もみな一緒に主の栄光を見る日が来ます。その日はまさにイエス様の再臨の日です。

 

ここで一つ忘れてはならない大切なことがあります。本日の使徒書の日課第二ペトロで言われていたように、神の意思は多くの人がイエス様の救いに与り、罪を圧し潰す生き方に入れるようにすることです。そのために再臨の日を延ばしてくれているのです。でも、それはいたずらに延ばすことでもないと言われています。まだイエス様を救い主と信じておらず洗礼を受けていない人たちが、洗礼者ヨハネの呼びかけに応じた人たちのように心の中で主を迎え入れる準備が出来るように、父なるみ神に祈らなければなりません。

 

6、7節「人間は全て草のよう。その華やかさ威光は野の花のよう。草は枯れ、花は散る。なぜなら神の一息が吹きかけられたからだ。」人間はそのままの状態では神の前に立たされる時、枯れて散ってしまうだけです。

 

8節「草は枯れ、花は散る。しかし、神の言葉は永遠に保たれる。」この永遠に保たれる神の言葉を自分のものとする者は枯れることもなく散ることもなく、同じように永遠に保たれます。「神の言葉」とは、イエス様を介して永遠の命に至るという福音であり、またヨハネ福音書の冒頭で言われるようにイエス様そのものなのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン