2020年7月27日月曜日

洗礼には人生の重荷を軽くする何かがある (吉村博明)

 

 

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年7月5日(聖霊降臨後第五主日)スオミ教会

 

ゼカリヤ書9章9-12節

ローマの信徒への手紙7章15-25節

マタイによる福音書11章16-19、25-30節

 

 

説教題 「洗礼には人生の重荷を軽くする何かがある」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の日課の終わりにあるイエス様の言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」これを聞いた人は、キリスト信仰者でなくても、この世にはこういうことを言ってくれる人がいるんだ、とありがたく感じて、イエス様の言うとおり彼のもとに行ってみようという気持ちになるのではないでしょうか?イエス様のもとに行くとはどういうことでしょうか?聖書をよく読んでイエス様のことをもっと知ろうとしたり、イエス様にお祈りしてお願いしたりすることが考えられます。もっと近づきになるために教会の礼拝に参加してみよう、洗礼を受けてみようと考える人も出てくるかもしれません。ただ、人によっては、教会なんかに行かなくても洗礼なんか受けなくても自分はイエス様のもとに行けると言う人もいるかもしれません。

 

さて、どんな仕方にせよ、自分では「イエス様のもとに行った」つもりだったのだが、果たして重荷はなくなって安らぎは得られたかどうか?人によっては、人生や生活の問題が解決したと言ってイエス様の言ったことは本当だという人がいるかもしれません。しかし、そうならなかったら、どうなるのか?イエスはあんな調子のいいことを言ったが、自分の重荷は相変わらずだ、彼のもとに行っても何の御利益はなかった、と言って教会や聖書から離れて別のところに安らぎを求めようとすることにならないでしょうか?

 

イエス様の言葉で注意しなければならないことがあります。それは、イエス様は重荷がなくなるとは言っていないということです。自分が与える荷は軽いと言っているように、彼のところに行っても何がしかの荷は背負わされる。しかし、それは軽いと言うのです。それから、軛。軛とは昔、牛や馬の頸に木の板をつけて、それを綱か何かで後ろの馬車か農作業の道具に連結させてそれらを引かせるためのものでした。軛を付けられた家畜は後ろのものを引っ張っていかなければなりません。イエス様は軛を取り除くとは言っていません。自分が与える軛は負いやすい、つまり、彼のところに行っても何がしかの軛は負わされることになるが、それは大きな負荷はかからないと言うのです。

 

そうなると、今の自分には何も重荷も軛もない、人生全て思い通りにいっていると思っている人はイエス様のもとに行く必要性はない、なんでわざわざ荷や軛を負わなければならないんだと思うでしょう。また、自分には重荷も軛もあって大変な人生だ、それらを全て取っ払って欲しい、軽いとは言え、新しく背負わなければならないのはいやだという人もイエス様にもとに行くのを躊躇するでしょう。もっとも、軽くなるだけでも十分ですからイエス様の与える軛と荷を下さい、という人は行くでしょう。

 

本日の説教では、イエス様の与える軽くて負いやすい荷とか軛とは何を意味するのかを見ていこうと思います。それが明らかになると今度は、自分には重荷も軛もない、だからイエスのところに行く必要はないと言っている人は本当にそうだと言い切れるのか?それから、重荷も軛もない人生を追い求めることは意味のあることなのか?そういうことを考え直すきっかけになるのではないかと思います。

 

 イエス様の言う、軽い荷、負いやすい軛の意味を明らかにする前に、イエス様にまつわる誤解について触れておこうと思います。イエス様にまつわる誤解というのは、本日の旧約の日課ゼカリア書の個所と福音書のマタイ11章の16-19節が関係します。この誤解について説明しておくと、イエス様の重荷と軛のことがよくわかるようになると思います。

 

2.イエス様にまつわる誤解を解く

 

 イエス様にまつわる誤解について、ゼカリア書9章の個所がどう関係するかと言うと、そこで王様がロバに乗ってエルサレムにやって来るという預言があります。ゼカリアは紀元前6世紀の終わり頃に活動した預言者ですが、この預言は西暦30年プラスマイナス何年かの頃、イエス様が群衆の歓呼の中をロバに乗ってエルサレムに入城した時に実現します。しかしながら、その時の群衆の気持ちとしては、この方がもう直ぐかつてのダビデ王の王国を再興して、他民族の支配をはねのけて広大な版図を持つ王国を打ち立てて下さる待望の王なのだという期待でした。それで歓呼で迎えたのでした。ゼカリア書の個所で神が「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河の地の果てにまで及ぶ」と述べていたことがいよいよ実現すると思ったのでした。

 

 ところが実際には何が起こったかというと、イエス様はユダヤ教社会の宗教指導層と激しく衝突します。占領者であるローマ帝国の軍事介入を恐れた指導層はイエス様を逮捕して帝国の官憲に引き渡して裁判にかけさせ十字架刑に処してしまいました。群衆はなんだ期待外れだったと背を向けてしまいました。イエス様に付き従っていた弟子たちも逃げ去ってしまいました。

 

 ところがその後で、神が預言者たちを通して預言していたことはユダヤ民族の解放と王国の復興なんかではなく、もっと大きなことだったということが明らかになる、そんな出来事が起きました。神が言わんとした大きなこととは、人間が天地創造の神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにするということでした。そして、この世を去った後も造り主の神のもとに永遠に迎え入れられるようにするということでした。このことが明らかになった出来事とは、イエス様の死からの復活でした。創造主の神の力でイエス様は死から復活させられて、肉の体ではない復活の体をもって弟子たちの前に現れたのでした。この復活の出来事をもって、イエス様は死に繋ぎとめられない方である、よって神のひとり子であることが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも、旧約聖書のイザヤ書53章などにある預言から明らかになりました。それは、人間が神との結びつきを持てないようにしているた原因である人間の内に宿る罪を、イエス様が全部自分で引き取って神に対して償って下さったということだったのです。まさに神のひとり子の神聖な犠牲だったので、これ以上の償いはないという位の償いがなされたのでした。

 

 そこで人間が、これらの出来事は本当に自分のために起きて、それでイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、彼がしてくれた罪の償いがその人のものになります。神聖な神のひとり子にしてもらった償いは完璧なものだったので、神からは罪を赦された者として見なしてもらえ、それで神との結びつきを持ってこの世を生き始めることとなります。この世を去った後も、イエス様を救い主として信じる信仰に生きていたことを神に認めてもらえて、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて造り主の神のもとに永遠に迎え入れられます。

 

 ゼカリア書に預言されている平和な世というのは、今ある天と地が新しく創造し直された時に現れる神の御国を意味します。今のこの世でも戦争のない平和な時期があります。しかし、その後にまた戦争が起こって、また平和という繰り返しです。また自分たちのいるところは平和でも、他のところでは戦争があります。もちろん、この世で全世界的で永続的な平和が実現することがよいに決まっていますが、聖書の観点はそういう平和は今の次に来る世に実現するというものです。それじゃ、聖書はこの世の平和を望まないのかと言われてしまうかもしれませんが、そうではありません。ローマ12章でパウロが説くように、キリスト信仰者は全ての人たちと平和に暮らさなければならない、相手と平和な関係が持てるかどうかが自分たちにかかっている時はそうしなければならないのです。相手が応じてくれるかどうかわからなくても、こちらからはそうしなければならないのです。

 

 ゼカリア書9章11-12節の御言葉「またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえにわたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ」について。「契約の血」というのは、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前にこれを聞いた人たちは出エジプト記24章にあるような神とユダヤ民族の間の契約を指すと思ったでしょう。しかしながら、「契約の血」は十字架と復活の後はイエス様が十字架で流された血を意味します。キリスト信仰者は聖餐式で祝福されたぶどう酒をイエス様の血として受けますが、それは罪が償われて神との結びつきに生きるという契約を守るためにそうするのです。

 

 それから捕らわれ人の解放と帰還のテーマがありますが、これは一見、他の預言書にあるバビロン捕囚からの解放と祖国帰還の預言と同じように見えます。しかし、ゼカリア書は紀元前6世紀の終わり、祖国帰還の後に出た預言書です。それなので、ここで言われる帰還はもはやユダヤ民族の祖国帰還ではなくて、人間一般が神のもとへ帰還することを意味します。「捕らわれた人」とは、まさに罪や罪がもたらす死に捕らわれたことを意味します。「水のない穴」とはヘブライ語の単語列の直訳ですが、辞書によれば「死者の居場所」という意味もあります。それなので、罪と死に捕らわれた人がイエス様のおかげでそこから解き放たれて永遠の命に向かって進めるようになったことを意味します。

 

 以上のように、ゼカリア書の預言は、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は神の意図を理解するのは難しいものでした。本日の福音書の個所の最初の部分マタイ11章16~19節からも、十字架と復活の前はイエス様は理解されなかったことが言われています。洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場して、もうすぐ救世主が現れる、だから心を改めて迎える準備をしなさいと言う。それに対して、自分たちの権威にしがみつく宗教指導者たちはヨハネのことを悪魔にとりつかれた者と中傷する。続いて登場したイエス様に対しても同じでした。イエス様が一声かけると、罪びとたちは次々と心を改めて彼につき従って行きます。民族の裏切り者と目されていた取税人たちが全てを捨てて付き従ってきました(ルカ5章27~28節、19章1~10節)。イエス様はそういう回心した元罪びとたちと食事を共にしたのですが、それに対しては、大食漢、大酒飲みという非難が付きまといました。イエス様が開いた食事会は、実は復活の日に神の国に迎え入れられた者たちが持つことになる大祝宴の予行演習のようなものだったのです。

 

こういう、神の計画に対する指導者たちの無理解について、イエス様はたとえを用いて描写します。それは子供たちが広場に座って「僕らは嬉しい曲を弾いてるのに君らは踊ってくれない、弔いの歌を歌っているのに泣いてくれない」とお互いに言い合っているのと同じだと言います。旧約聖書の「コヘレトの言葉」3章に、天の下の出来事には全て定められた時があると言われ、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時もそうだと言います。子供たちが自分たちの歌や演奏に君たちは乗ってこないとお互いに愚痴を言い合っているのは、この定められた時がわからないことを意味します。指導者たちは洗礼者ヨハネやイエス様が到来した時が神の定めた時であることがわからず、全く見当はずれなことを言い合っているのが、広場の子供たちが定められた時をわからないのと同じだと言うのです。

 

19節の「知恵の正しさは、その働きによって証明される」というのは、「知恵」は旧約聖書の箴言にあるように、神の知恵のことです。しかも、それは聖霊のように人格化されています。それでここで言う「知恵」とはずばりイエス様のことを指します。神の知恵そのものであるイエス様が神の意思に沿う方であることは、指導層の目には見えなくても、彼の行っている奇跡の業や権威ある教えから明らかだったのでした。

 

3.洗礼には人生の重荷を軽くする何かがある

 

さて、イエス様が与える軽い荷と負いやすい軛の意味を見ていきましょう。先々週から使徒書の日課は「ローマの信徒への手紙」6章で今日は7章です。これらの個所が軛と荷の意味を明らかにするのに役立ちます。

 

少しおさらいになりますが、パウロは6章で、キリスト信仰者は洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様の死に結びつけられると、「罪に対して死ぬ」ことになると言います。その意味は、信仰者は罪に対して死んでしまったので罪の影響力が及ばない、それで本当は罪から自由な身であるということです。このように罪に対して死ぬと今度は返す刀で神に対して生きることになります。神に対して生きるとは、かつて罪に利益をもたらすように生きていたのを打ち切って今度は神に利益をもたらすように生きることです。つまり、服従する相手が罪から神に変わったのです。

 

しかしながら、イエス様の死と復活に結びつけられたと言っても、まだ本当に死んで葬られて復活していないので、「罪に対して死に神に対して生きる」というのは、まだ土台が打ち立てられた段階です。建物全体が完成したのではありません。私たちが纏っている体はまだ復活の体ではなく、肉の体です。この体は、油断するとすぐ、洗礼前の時のように神に対してではなく罪に対して生きようとします。罪に対して生きてしまうと、心は「体の欲望」の言うことに聞き従ってしまいます。「体の欲望」とは、神聖な神の意思に反するとわかっていても、口に出してしまわずにはいられない、行為に出してしまわずにはいられない、思わずにはいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としかいいようがないものです。先週もお教えしましたが、十戒でしてはいけないと言われていること、両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを口にしたり思ったり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫をしてしまうこと、他人のものを自分のものにしてしまうこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人を妬んだり、その持っているものを自分のものにできないかと思い巡らすことです。

 

洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられたら、罪は本当は支配者ではなくなっている筈なのに、肉の体を纏っているために肉の思いをかなぐり捨てて行ったり語ったり思ったりすることが自然に自動的に出来ないのです。まさにそのために自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるのかを知って自覚することが大事になります。それでパウロは、自分の肢体を神の意思に反することのために用いるのをやめて、神の意思に沿うことのための武器、道具にしなさいと繰り返し教えるのです。

 

本日の7章で話がもっと深まります。イエス様の十字架と復活のおかげで罪の償いを果たしてもらったということは、キリスト信仰者が神との結びつきを持って生きられるのは神からのお恵みということでしょう。自分で律法を守り抜いてそうなったのではありません。それで神から義と認めてもらうことに関して言えば、律法は何の意味も持っていません。ところが、神のお恵みがあるからと言って、それで人間から罪が消えて肉の思いも持たなくなって全身全霊で神の意思に沿えるようになったということではありません。律法は人間には罪があることを示す機能は果たすのです。それはキリスト信仰者であっても、肉の体を纏っている限りそうなります。

 

律法はとても厄介なものです。パウロも言うように、もしそれがなければ罪の自覚は生まれません。しかし、自覚がないからと言って罪が存在しないということではありません。神の意思に反する行いや思いや言葉は、律法がなくてもあるわけで、律法があると、それらは神の意思に反するものであると言い表すことができます。神の意思に反する行いや思いや言葉が罪であると言い表されると、今度は肉が待ってましたとばかり、それに加担しようとします。神から罰を受けないためには、神の意思に反する行いや思いや言葉をなんとか食い止めなければなりませんが、それは時として大自然に抵抗するような難儀さを感じます。

 

そこにイエス様の十字架と復活の出来事が起こりました。神罰は全部イエス様が受けて下さいました。洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられて、罪に対して死に神に対して生きることが始まりました。十字架と復活が起きる前の律法しかなかった時は、罪に対して死んでおらず、神に対して生きることもなく、罪の力をもろに受けながら、神罰を受けないように受けないようにとただただ自力でもがくだけでした。しかも、罪の力を全面的に受けながらもがくのです。これは大変な重荷であり、凄まじい軛です。しかし、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると罪に対して死に神に対して生きられます。もちろん、まだ肉の体を纏っているので律法が私たちの内に宿る罪を暴露します。しかし、そのたびに洗礼の時に注がれた聖霊が「あなたは神に対して生きる者になっています。神に対して生きているのであれば、あなたは罪に対して死んでいるのです」と思い起こしてくれます。先ほど、キリスト信仰者は洗礼によって本当はどんな状態にあるのかを知って自覚することが大事であると申しました。かつては、思い起こしをしてくれる方もなく、肝心の思い起こすべき状態そのものがありませんでした。それが今では洗礼によって新しく生まれた状態があります。それを洗礼によって注がれた方が絶えず思い起こして下さるのです。もちろん、律法がある限り罪の自覚は消えません。しかし、それは新しくされた状態と聖霊のおかげで、かつてのような重荷、軛ではなくなりました。まさに軽くされた荷、負いやすくされた軛がここにあります。

 

以上から、イエス様が与える軽くて負いやすい荷や軛とは何かが明らかになります。それは、洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられて、罪に対して死に神に対して生きることそのものです。そこで罪の自覚は洗礼前より一層はっきりするので、そこがきつく重くなるところですが、イエス様の罪の償いは消えてなくならないので、イエス様を救い主と信じる信仰にある限り神との結びつきはしっかり保たれています。何も心配はありません。だからイエス様の与える荷は軽く、軛はきつくないのです。信仰にあるのに罪の自覚が出てくるということ自体が、神に対して生きていることの証しです。

 

そうなると、イエス様が軽くすると言ったのは、人生の重荷や軛のことではなく、神と人間の結びつきにかかわる重荷や軛ということになります。これを聞いて、なんだ人生の重荷ではないのかと、がっかりする人もいるかもしれません。ところが、この人間と神の結びつきにかかわる重荷が軽くされるということは実は人生の重荷の軽減にもつながるのです。そのことを宗教改革のルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

 

「信仰の教師である我々は、イエス様を救い主と信じる信仰について教えたら、次は善き業を行うことについて教える。もし君が信仰によってイエス様を自分のものとし、彼のおかげで神の御前で義なる者となれたのなら、その次は善き業を行いなさい。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛し、神に祈りを捧げ、神に感謝し敬い賛美し人前で告白しなさい。そして、隣人に仕え、自分の務めを忠実に果たしなさい。

これらの業が本当の意味で善き業になるのは、それらがイエス様を救い主と信じる信仰から生じてくる時である。罪の赦しは自分の業績によってではなくただひとえにイエス様のおかげで得られものなので、それを喜び感謝する心で行う業は全て本当に善き業なのである。その時、私たちは背負わなければならない自分の十字架や人生の重荷を全て耐えることができる。そのようにしてイエス様は私たちの荷を軽くし軛を負いやすくされるのだ。

キリスト信仰者とは、このように罪の赦しが与えられて良心が罪の重圧から解放されているので、あらゆることを楽に取り組む出来るのである。彼の心の中では全てのことが麗しいものに変わり、遭遇するあらゆる事柄に喜んで取り組み、耐え忍ぶことが出来るのである。しかし、イエス様の与えて下さる罪の赦しを持たない人にとっては、取り組み耐え忍ばなければならないことは全て重く嫌なものになる。なぜなら、彼はしたくないことを仕方なくしているだけだからだ。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年6月29日月曜日

神の真理に立って生きることにやましいことは何もない (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年6月28日(聖霊降臨後第四主日)スオミ教会

 

エレミア書28章5-9節

ローマの信徒への手紙6章12-23節

マタイによる福音書10章40-42節

 

説教題 「神の真理に立って生きることにやましいことは何もない」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の説教は、3つの日課に従って三部構成です。3つの部には共通のテーマがあります。それは、神の真理ということです。真理というのは、時や場所に関係なく、いつどこででも本当である事柄、いつどこででも当てはまる法則のようなものです。それでは、神の真理とは何か?まず第一部で、旧約聖書の日課エレミア書の本日の個所から神の真理を明らかにしてみます。第二部では、神の真理に立って生きるとどんな生き方になるのかを、使徒書の日課ローマ6書の本日の個所をもとに見ていきます。第三部では、そのような生き方をするとこの世の歴史と社会の中でどんなことに遭遇することになるか、どんな目に遭うか、そしてそれに対してキリスト信仰者はいかに立ち振る舞うべきかということについて、福音書の日課マタイ10章の本日の個所をもとに考えてみたいと思います。

 

 要約すると、第一部は神の真理とは何かということについて、第二部は神の真理に立つ生き方について、第三部は神の真理に立って生きるとどんなことに遭遇し、それに対してどう立ち振る舞うかということです。

 

2.神の真理

 

本日の旧約の日課エレミア28章の個所は紀元前7世紀から6世紀の変わり目の頃の出来事です。ユダ王国にハナンヤという預言者が国民に神が敵国バビロンを打ち砕くから大丈夫だと預言したことに対して預言者エレミアが反論するところです。

 

この辺の歴史的背景を超特急でおさらいしておきましょう。イスラエルの民は天地創造の神に導かれてエジプトから脱出して約束の地カナンの地に定住します。紀元前11世紀に国は王制をとり、ダビデ王ソロモン王の時に最盛期となりました。その後、王国は南北に分裂、国全体が神の意思に反する生き方を繰り返し、まず北王国が紀元前8世紀にアッシュリア帝国の攻撃を受けて滅亡します。南のユダ王国は寸でのところで危機を脱しますが、その後も神の意思に反する生き方が一時の例外を除いて続き、神は罰としてバビロン帝国の攻撃を仕向けます。紀元前598年ヨヤキン王の時に大きな攻撃があり、エルサレムは陥落してしまいます。この辺の事情は列王記下の24章に詳しく記されているので、それと照らし合わせながらエレミア書を読むと預言者エレミアの活動がまさに激動の歴史と共にあったことが手に取るようにわかります。エルサレム陥落の後、ヨヤキン王はじめ王国の主だった人たちがバビロンに連行されて行きます。バビロンの王はヨヤキンの叔父ゼデキアを王に立てて引き上げます。もうユダ王国は独立国とは言えませんでした。

 

 このゼデキア王の治世4年目に預言者ハナンヤが現れて国民の前で、2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻ると預言します。他方エレミアはハナンヤが現れる前、これも国民に対して、ユダ王国はバビロンによって徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えていました。エレミアはそれが神の計画であるということを象徴して自分の首に軛をかけることもしていました。丁度その時にハナンヤが現れて、エレミアと違うことを預言したのです。国民は既にエレミアの神の裁きの預言にあきあきしていました。ハナンヤの預言を聞いた時、こっちの預言の方がいいぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。本日の個所の後になりますが、ハナンヤはまたエレミアが首にかけていた軛を打ち砕くといパフォーマンスもします。これを見たら誰でも、説得力があると思ったでしょう。

 

 ところが実際には歴史はハナンヤが言った通りにはなりませんでした。ゼデキア王は治世9年目にバビロン帝国に反旗を翻します。それがもとで王国はバビロン帝国の再度の大攻撃を受けます。エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は敵の大軍に蹂躙され王国は完全に滅亡させられます。エルサレムの神殿も完全に破壊され、残りの市民も皆バビロンに連行されてしまいます。紀元前587年のことでした。全てエレミアが預言した通りになったのです。

 

神はエレミアに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだったのでしょうか?神は天地万物を創造し人間を造られた全知全能の方です。人間に対しては罪を犯すなと命じられ十戒を与えた神聖な方です。神はそうした自分の意思を表した十戒やその他の掟を自分が選んだイスラエルの民に全人類を代表するかのようにして授けました。民はこれを大きな誇りとしました。しかし、民はそれに反する生き方を繰り返し、神が遣わした預言者の警告にも耳を貸さないようになってしまいました。そうすると、神とは自分の意思に反する者、罪を犯す者を完膚なきまで滅ぼす裁きの主ということになります。

 

 ところが、エレミア書にはイスラエルの民の復興についても預言されています。民が連行された異国の地で心から神に立ち返って神の名を呼び求め祈りを捧げるならば神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われます(29章11~14節)。実際、紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になった時、イスラエルの民はこのペルシャ王の勅令によって祖国帰還が認められ、紀元前538年から帰還が始まります。これもエレミアが預言した通りでした。

 

神の計画は災いのためでなく将来と希望を与えるものであるならば、なぜ自分の民にバビロン捕囚のような大きな苦難を与えられたのか?それは、やはり神という方は罪を見過ごせない方、罪をはっきり罪と言い、それを焼き尽くしてしまうように抹消せずにはいられない方だからです。しかし、人間が罪の罰を受けて焼き尽くされてしまえばいいということではありませんでした。罪には滅びが一心同体になっているという呪いがあります。神は人間をその呪いから救い出して、罪は滅びても人間は滅ぼさないようにしたかったのでした。それはどのようにして可能でしょうか?神は、イスラエルの民の祖国帰還を可能にすることで、罪を赦して新しく生きることを始めさせるという例を示したのです。

 

このように神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が罪のゆえに神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神の真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事の歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、罪を忌み嫌って罪から離れて生きようとする者に変えようとされる方であることもわからなければなりません。

 

 バビロン捕囚と祖国帰還という歴史的出来事から、神は二つの大きな目的、すなわち罪に対する裁きと罪の赦しの二つの目的を持っていることがわかりました。ところで、罪の赦しの方の目的は実はまだ民の祖国帰還の時に実現してはいませんでした。もちろん当時の人たちの中には実現したと考えた人もいましたが、事はユダヤ民族に属する人だけの罪が問題だったのではありませんでした。そうではなく、神に造られた全ての人間の罪が問題だったのです。そういうわけで、ユダヤ民族の祖国帰還というのは実は、神は罪ある人間に赦しを整えて下さるという、全ての人間に及ぶ救いを歴史的出来事を通して前もって予感させるものでした。そして、全ての人間に関わる救いはイエス・キリストの十字架の死と死からの復活で実現したのです。

 

3.神の真理の上に立つ生き方

 

神は、罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもある、これが神の真理でした。この神の真理が如実に現れたのが、ご自身のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事だったのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上で断罪して彼に人間の罪の償いをさせました。そして、イエス様を三日後に死から復活させることで、御許に戻れる道を人間のために切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、神の真理に立って生きるキリスト信仰者の生き方はどのようなものになるのでしょうか?このことがローマ6章によく記されています。

 

 使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられていると。イエス様の死に結びつけられると、「罪に対して死んでいる」ことになるとも言われます。わかりにくい言い方です。ギリシャ語の用法で、罪にとって不利益になるように死んでいるということで、要は罪が信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、それくらい信仰者は罪に対して死んでしまっているということです。

 

 洗礼によって結びつけられるのはイエス様の死だけではありません。死からの復活にも結びつけられます。パウロは、この結びつけられということがキリスト信仰者の有り様や生き方を根本から変える意味を持っている、信仰者はそれに気づくべきであると教えます。どう根本から変えるのか?罪に対して死んだ者は、もう神に対して生きるだけになると言います。神に対して生きるというのと罪に対して死ぬというのは同じコインの裏と表です。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている。そこで神に対して生きることになると、神に利益になるように生きることで、神に従って生きることになります。洗礼を受けた者は、そういう状態にあるというのです。もちろん、イエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きないかもしれません。しかし、洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられたら、罪に対して死に、神に対して生きるという状態にある。後は本当に死んで葬られて復活を遂げるという形式的なことが残っているだけで、実質的なことはもう起きているということになります。

 

 それなので、神の真理に立ってこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。

 

それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨してしまえばあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそうした状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと性的なことが頭に浮かぶかもしれませんが、それも含みますが、もっと広い意味です。神聖な神の意思に反するとはわかっていても言わずにはいられない、やらずにはいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるとすれば、十戒の第四から第十の掟を逆に考えればいいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを口にしたり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人を妬んだり、その持っているものを自分のものにできないかと思い描くこと等です。

 

こうした肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからである、しかし、洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので罪は本当は支配者でなくなっている筈です。しかし、信仰者はまだ肉の体を纏っているので、肉の思いを捨てて行ったり語ったりすることが自然に自動的に出来ないというもどかしさがあります。でもそれは復活の体を着せられる前のことなので仕方のないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるかを知って自覚して生きることが大事になります。それで、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えということが言われるのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫と見てもらえ焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを本当にそうだと受け取った者は神の義を持てます。

 

パウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と教えるのは本意ではなかったと思われます。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたら、その解放は神のお恵みです。人間が律法を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。それで「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに教えないで自然に、自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っている以上は出来ません。自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはこのことです。実にもどかしいことですが、神の真理に立って生きるとそうならざるを得ないのです。

 

4.神の真理に立って生きることにやましいことは何もない

 

福音書の日課マタイ10章40~42節のイエス様の教え、預言者を預言者という理由で受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人という理由で受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子であるという理由で冷たい水一杯でも与える人は弟子の報酬を得るということですが、これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。そこで、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみんな預言者にはならないことに注意しなければなりません。神の意思に沿っていないといけないからです。神の意思は聖書にあります。つまり、聖書から外れたことを言ったら、偽預言者ということになります。次に「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理に立って生きる者です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える者です。

 

マタイ10章はここまでキリスト信仰者が受ける迫害について述べていたので、ここも同じ文脈で理解します。そうすると、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を追い払ったりせず受け入れて世話をする人は、預言者や義人や伝道者が神から将来受ける報酬と同じものを受けるということになります。パウロを初めとする使徒たちやローマ帝国の迫害期にそのように世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。しかし、世話をした人が受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶ可能性があることを意味します。使徒言行録やパウロの手紙でそうした事例は見つけられませんが(後注)、日本のキリシタン迫害の時にはありました。先週の説教でも触れました帚木蓬生の「守教」の中で密告に対する報奨金制度が出てきます。この制度のもとでは聖職者や信者を世話したり匿った者もキリシタンと見なされて拷問を受けました。貧しい人たちにはまたとない収入源でした。それで神父たちは衣食住を絶たれてしまったのでした。まさに世話する人がされる人と同じ報酬を受ける事態になったのでした。

 

ここで小説「守教」について、前回の説教で下巻200ページ残っていると申しましたが、先週読み終えました。とても良かったです。何が良かったかというと、昔、遠藤周作の「沈黙」を読んだ時、日本人がキリスト教徒になるとロクなことがないと言っているようで重苦しさが残ったのですが、「守教」では日本人がキリスト教徒で何が悪い!とはねのけることが出来たからです。

 

わき道にそれましたが、世話する人がされる人と同じ立場になるというのは江戸時代に限りません。近代日本にもありました。第二次大戦中の時、私どものミッション団体のフィンランド人宣教師8人が本国に帰国する機会を逸して戦争中ずっと日本に留らなければなりませんでした。宣教師たちが書いた記録をいくつか読みましたが、キリシタン迫害には及ばなくてもやはりキリスト教受難の時期でした。キリスト教会は国家権力の統制下に置かれ、当局の指図に従わなければならず伝道や礼拝が自由に出来なくなりました。礼拝をしても当局の回し者と思える目つきの鋭い男たちがやって来て説教の最中に質問と称して大声で意見を言い、礼拝を妨害したということもありました。ゾルゲ事件の影響と思われますが、ある日突然町中の人たちからスパイ呼ばわりされるということもありました。戦争末期には宣教師たちは軽井沢に集められて軟禁状態に置かれ、食糧難は酷く100キロの巨漢の牧師は45年に帰国した時には43キロしかなかったという位でした。彼らを支援する日本人信徒たちも大変な目にあい、宣教師たちの面倒を見たり面会をしたりした人は隣近所から「宣教師の犬」と呼ばれ顔を背けられたそうです。そういうことが江戸時代ではなく、ニ、三世代前の日本であったということです。

 

第二次大戦後はキリスト教に対する接し方は180度変わりました。数多くのキリスト教系の社会事業あり、学校あり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教が果たす役割や存在は無視できないものがあり、一目置かれるようになりました。それでも信徒が全人口の1パーセントというのは、やはり日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあると思います。

 

それについては宗教学や社会学、文化人類学からいろいろな説明の仕方があると思いますが、「守教」を読んでこういうことではないだろうかと考えさせることがありました。キリシタン弾圧が激しくなっていく時、幕府から来る命令を藩のレベルでもっと厳しくするということがありました。それは幕府に対して忠誠を示すためでした。将軍様、我が藩ではこれくらい締めあげています、ご高配賜りますようということです。なんだか現代日本政治の忖度にも通じるものを感じさせますが、そんな藩主の点数稼ぎの巻き添えを食らったキリスト教徒には迷惑千万な話です。つまり、キリスト教禁止を過酷にすればするほど思想的な根拠から遠ざかるという構図です。それから、今村の信徒たちがひっ捕らえられて後ろ縄で久留米城下を歩かされた時、見物人の中から一人の男が歩み寄って唾を吐きかけたということがあります。小説の話ですが、実際にあり得る話で、そういう人はどうしてそうするのか、それはキリスト教のどこそこが間違っているということではなく、お上が禁じていることをやっている、だから許せないということでしょう。内容的なことは何もないのです。

 

それから日本人がキリスト教に距離を置く背景に、信徒になると欧米に魂を売り渡しているようなイメージがいまだ持たれていることもあるのではないでしょうか?日本人は神仏を拝めばよいのだ、と「守教」の取り調べの役人も言っていました。しかし、明治維新や第二次大戦直後の頃と違って、今、キリスト教を信じることは欧米化することと同じと言える時代でしょうか?当時は欧米の圧倒的な力を見せつけられましたが、今はそのような力の差はあるのか?その肝心の欧米ではキリスト教、特に伝統的なキリスト教は教会離れ聖書離れが進んでいるというのが現状です。キリスト教が欧米経由で入った来たとは言え、聖書の内容は欧米の文物の紹介なんかではありません。それは、古代オリエント世界で天地創造の神が人間の救いの意思と計画を明らかにしたということと、それをその地域の人たちが一生懸命後世に伝えようとしたものです。私たちの命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。神の真理に立って肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが悪いのか?一体これのどこが欧米化なのか?

 

最後に、先ほど触れました戦時中に日本に留まらなければならなかったフィンランド人宣教師たちの名前を、彼らの名誉のためにここに述べておきたく思います。

ターヴィ・ミンキネン、

ナイミ・ミンキネン、

マルッタ・ミエロ、

パーヴォ・サヴォライネン、

ヘルヴィ・サヴォライネン、

アルットゥリ・カレーン(体重が100キロから43キロに減ってしまった宣教師です)、

アンナイレーネ・カレーン、

トゥーリッキ・コルピネンとその子息アルト・コルピネン

それから、彼らを助けて「宣教師の犬」と呼ばれた信徒は石坂真砂さんです。SLEYが設立した東京池袋教会(現日本福音ルーテル教会所属)の信徒でした。彼女はそのように呼ばれたことを名誉なことと受け取り、支援を続けたそうです。神の真理に立って肉の思いと戦いながら生きることに何もやましいことはないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)すみません、説教の後で、あれ、どこかでパウロをかくまった人が引き立てられたことがあったことに思い至り、使徒言行録を見直したら17章のテサロニケ滞在の時にそのようなことがありました。訂正してお詫び申し上げます。

2020年6月22日月曜日

神は信仰を告白する者の魂を守り通す (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年6月21日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会

 

エレミア書20章7-13節

ローマの信徒への手紙6章1b-11節

マタイによる福音書10章24-39節

 

 

説教題 「神は信仰を告白する者の魂を守り通す」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の旧約の日課はエレミア書20章の預言者エレミアの告白、福音書はマタイ10章の終わりにあるイエス様の教えです。エレミア書の方は、かつて栄華極めたダビデ・ソロモンの王国が神の意思から外れた生き方をし、内憂外患に陥って最後は東方の大帝国バビロンに滅ぼされる、その直前の紀元前7世紀から6世紀にかけての頃のことです。神はエレミアに国に迫っている危機について宣べ伝えて国民が神に立ち返るようにしろと命じ、エレミアはその通りにするのですが、国民はこぞって彼に反対し、人心を惑わす者として迫害してしまいます。本日の個所でもそのことについてのエレミアの苦悩と神への愚痴が述べられています。

 

福音書の方を見ると、イエス様は自分のことを救い主と信じる者が将来迫害を受けることになると預言しています。エレミアの場合もイエス様の教えも、神から人々に伝えなさい、自分の信仰を知らしめなさい、と言われてその通りにすると命にかかわるような大変な目に遭うということについて述べています。しかし、両者とも、神はその者たちの魂を救うということも言われます。

 

そこで本日の説教では最初に、この神が守ってくれる「魂」とは一体何なのかということをみてみようと思います。魂と似た言葉に「霊」もありますが、両方ともわかりそうでわかりにくい言葉です。それらについて、旧約聖書と新約聖書ではどのような意味で使われているかを考えながら、その意味を明らかにしていこうと思います。その次に、エレミア書の本日の個所に復活の信仰が見られるのでそれを見ていきます。キリスト信仰では「魂の救済」ということを復活の信仰に結びつけて考えることは大事です。復活なくして魂の救済なし、魂の救済なくして復活なし、と言ってもいい位です。そのことを説教の第二部で見ていきます。最後の第三部では、マタイの個所が提起している問題についてです。それは、人前で自分はイエス様に繋がる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に繋がる者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定するということです。このことに関連して、実はこのほど帚木蓬生の長編小説「守教」を読みました。隠れキリシタンと呼ばれる潜伏キリスト教徒を題材にした歴史小説です。そこで、いくつか視点を得られたのでそれについてお話ししようと思います。(「このほど読みました」というのは正確でなく、下巻に入ってあと200ページ残すところで、もうこの先どうなるか気になって仕方なくなり、つまみ食いするように終わりまで一気に行って、今じわりじわりと残りを読んでいます。)

 

2.聖書の「魂」について

 

まず、「魂」についてみてみます。いろいろな定義があると思いますが、それを聖書に出てくる言葉に頭から当てはめるのではなく、聖書の中でその言葉が出てきたら、ここではこういう意味だろうか、別の所ではこうだったのではなどと考えながら、あくまで聖書の中での使われ方を意識しながら理解していこうと思います。「魂」と日本語に訳されるもとの語は、旧約聖書のヘブライ語ではネフェシュנפשと言い、新約聖書のギリシャ語ではプシュケーψυχηと言います。

 

本日の福音書の個所のイエス様の教えの中で「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10章28節)と言われています。人間には体の部分と魂の部分があるということです。体の部分は殺されて腐敗してしまうが、殺されず腐敗しない部分がある。それが魂ということになります。ただし、その魂も神は滅ぼすことが出来るのです。しかし人間には出来ない。人間が滅ぼすことが出来るのは体の部分までで、神に守られている者は体は滅びても魂は滅ばないということです。 

 

魂は目で見えない部分です。体は目で見える部分です。手や足など肢体があり肉体があり骨や内臓があります。みな目で確認できます。魂はできません。そうした体の部分は死んで腐敗してしまいますが、魂はそうならないで残ります。ただし、神に守られていればの話です。そこで、目で見えない魂は本当に存在すると言えるのか?手足や骨肉内臓であれば働きも機能もあるが、魂はどんな働きをするのか?詩篇23篇を見ると、「主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」(2~3節)とあります。ヘブライ語の動詞ישוביבは、「生き返らせて下さる」と訳すと死者の復活を連想させてしまいますが、基本的には萎えた状態から立ち直らせるというような、元気回復、リフレッシュの意味です。元気回復するのは手足を含めた体全体です。ここでは「魂」が体全体を代表しているという使われ方です。それで、「人そのもの」を意味するように使われていると言ってもいいでしょう。

 

また詩篇130篇をみると、「わたしの魂は望みをおき、わたしの魂は主を待ち望みます」と言われています。手足と違って神を待ち望む器官がある、それが魂となります。この場合は「心」と同じと言ってもよいでしょう。

 

さらに詩篇121篇では、主が「あなたの魂を見守ってくださるように」と言われます。この場合、体も含めた人全体を魂という言葉で言い表して人そのものを意味しているとも言えるし、また、体とは別に魂だけに特化してその見守りをお願いしているとも言えます。その場合は魂は「命」と同じ意味になると言えます。実は、本日の福音書の個所の終わりでイエス様が「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っているところで、「命」と言っているもとの語はプシュケー魂です。それなので、ここの意味を魂にこだわって考えたら次のようになるのではと思います。「魂を守ったり滅ぼしたり出来るのは神である。それなので、人間が神抜きでそれを自分で支配しようとしても出来ない。逆にイエス様を救い主と信じる信仰にあれば、それは魂の支配権が神にあることを認めることになる。それでそれを守り通してもらえるのである。」

 

さて、魂は、肉体と魂の双方を持つ「人間そのもの」を言い表す言葉にもなり、「命」や「心」にも言い換えられる言葉であることがわかってきました。本当は聖書の使い方の例をもっと沢山調べた方がいいのですが、これ位でも多くのことは網羅できるのではないかと思います。そこで、魂は肉体が滅びた後も残るということですが、そうなると肉体が滅びた後も、肉体のような形は持たないがその人自身が残っていることになります。ここでキリスト信仰で大事な事柄、「復活の信仰」が重要な意味を持ってきます。復活とは、死の眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に迎え入れられる、ということです。使徒パウロが第一コリント15章で教えるように、肉体の体は失われるが、それに代わって新しい、もう朽ちることのない復活の体が与えられるのです。体は異なっても魂は滅びず守られていたので同じ人です。それなので、「私は吉村博明である」という自分が続きます。この世で纏っていた弱い朽ちる体にかわって神の栄光を映し出す輝く体を纏っているという自分に気がつくのです。

 

ここで「魂」と並んでよく使われるが、同じようにわかりやすそうでわかりにくい言葉、「霊」を見ていきます。ヘブライ語でルーァハרוח、ギリシャ語でプネウマπνευμαと言います。両方とも「風」という意味も含んでいます。聖書の中では、霊とは肉体と魂を持った人間が息をする生き物になるために吹き込まれるものということがあります。さらに、人間がただ単に生き物として生きるだけでなく、神から罪を赦されて神との結びつきを持って生きるようになる時に、さらに神からの霊、聖霊が注がれるということがあります。

 

それでは、霊と魂はどう違うのでしょうか?復活信仰の観点に立てば、魂は復活の日まで安らかに眠っていることになります。霊はちょっと違います。旧約聖書では死者の霊や霊媒と関りを持つことが禁じられています(レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。ということは、霊は眠っていないようです。さて魂と霊は、どちらが亡くなった人を代表しているでしょうか?私自身は、復活の日までは安らかに眠っていたいと思う者です。

 

3.エレミアの復活の信仰

 

エレミアという預言者は、初めにも申し上げましたように、神から宣べ伝えなさいと言われてその通りにすればするほどひどい目にあってしまうという悲劇の預言者でした。しかし、国は滅亡し人々は占領国に連行されてしまうが、神は悔いる民に憐れみを示して祖国帰還を実現されるという希望の預言も残します。つまり、神は罪に汚れた民をただ罰して消滅させてそれで終わりという方ではない。新しく生まれ変わらせ建て直して下さるという方でもある。だから国滅亡しても自暴自棄になるのではなく、神を信頼して時を待てというメッセージです。

 

加えてエレミアのメッセージには、神の御言葉を宣べ伝えたり信仰を人々に証しすることで迫害を受けることになっても、それですべてが終わりではないというものもあります。今日のところがそうです。神は必ず、その者に報い、補償をして下さる。それは、およそ神の御心に沿うものとして行ったことは無意味、無駄なものは何一つないという神の約束を意味します。この考えは旧約聖書、新約聖書の随所に見られます。本日の個所にも出てきます。

 

 7節から10節は、神が宣べ伝えよと命じた通りにすると、どれだけ散々な目に遭うかという複雑な心境が吐露されます。ところが11節で、神は迫害者よりも偉大なのだという確信を述べます。その根拠が12節と13節で言われます。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」

 

 ここで注意しなければならないことがあります。「わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを」ですが、「見させてください」はヘブライ語の動詞の形をすると、「私は見ることになる」というふうに将来のこと、起きてしかるべきことを意味すると思います(どうしてそうなのか、後注に記します)。それから「復讐」という語ですが、標準的な辞書(HolladyのConciseです)によれば、人間がするものなら「復讐」、神がするものならば「報い」とか「補償」と出ていました。そこで、何の「報い」、「補償」になるのかと言うと、最後の審判の時に行われる正義と不正義の大清算です。神に立ち返る生き方をした者たちがしなかった者から受けたあらゆる仕打ちや損害に対して、それこそ神の正義の尺度に基づく補償、賠償が行われて、この世でないがしろ中途半端にされてしまった正義が最終的に実現するということです。逆に、仕打ちや損害を与えた者たちには正反対の報いが待っているということです。ローマ12章でパウロが復讐は私たちがするのではない、神に任せよ、と言うのも同じです。最後の審判で正義が最終的に実現する大清算が行われる、だから今は敵が飢えていたら食べさせよ渇いていたら飲ませよ、という行動規範が生まれます。それで相手が心を改めたら、悪事が止むのでこちらも安心でき、相手も地獄の炎に堕ちなくてすむので両方にとって益になります。しかし、もし相手が心を改めなかったら、それは将来自分に降りかかる悲惨を自分で一生懸命積み重ねることになります。

 

 エレミアが神の補償を見ることになると言う根拠が次に来ます。日本語訳では「なぜなら」と言っていませんが、ヘブライ語にはあります。「なぜなら(כי)、自分の訴えをあなたに委ねたからです。」訴えをあなたにお委ねしますので、あとはお任せしますということで、パウロの復讐は自分でしないという考えと同じです。訴えを全て神に委ね任せたので、あとは最後の審判の時に補償してもらえるということです。

 

13節の「貧しい人の魂」の「貧しい」ですが、辞書では「抑圧された者、虐げられた者、迫害された者」の意味があります。金銭的な貧しさだけではありません。エレミアの状況がまさにそうでした。ところがエレミアは、神に褒め歌を歌え、賛美をせよ、と読者に勧めます。なぜなら神は虐げられた者であるこの私の魂を悪を行う者の手から救い出して下さったからだ、と言うのです。ヘブライ語では「救い出して下さった」と過去の意味です。これは興味深いことです。なぜなら、今まさに迫害の渦中にあるのに、自分の魂は既に神の手中にあるのだ、体の部分は痛い目にあっているが魂の部分は神の手中にあって守られている、だから迫害のさ中にあっても神に褒め歌を歌い賛美をするのが当然なのだと言うのです。

 

このような、今は理想的な状態にいるとは言えないのに、その状態にあるのと同然だということは本日の使徒書の個所ローマ6章にもあります。洗礼を受けた者がイエス様の死だけでなく復活にも結びつけられているということです。復活は将来のことなのですが、洗礼でイエス様の死に結びつけられて罪の体が葬られた、それで罪が自分をもう支配できない状況が生まれた。あとはその状況にのめりこむようにして生きるだけである。それが「神に対して生きる」ということです。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、片方の手はこの世を掴んでいるが、もう一方の手は復活を掴んでいるということになります。あとは肉の体から離れれば、両手は復活を掴んでいることになります。パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で早くこの世を去りたいと願ったのはこのためです。しかし、彼はキリスト信仰者には神から与えられた使命、課題があり、それを果たさずにこの世を去ることは許されないこともわかっていて、そこにジレンマを感じていました。このジレンマはパウロだけでなく全てのキリスト信仰者に共通のものです。

 

4.潜伏キリスト教徒と信仰の告白

 

本日の福音書の個所でイエス様は、人前で自分はイエス様に繋がる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に繋がる者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定すると述べました。その場合、潜伏キリスト教徒たちのことをどう考えたらよいのか?帚木蓬生の「守教」に登場する「今村信徒」たちは踏み絵を踏み檀家制度にも組み込まれ、人前ではイエス様に繋がる者と公表しませんでした。しかし、その傍ら代々密かに洗礼を授け、主の祈り、使徒信条、天使のマリア祝詞、十戒を唱え祈りました。週の7日目は仕事を控え、クリスマスと聖金曜日は大事な日であると心に留めました(あれっ、どうして復活祭はないのかな?当時のカトリックないしイエズス会の考え方?でも、高山右近は高槻城下で復活祭を盛大に祝ったと何かの歴史書に書いてあったではないか)。教会など公けに礼拝する場所がない状況で、これらのことを250年近く代々守り受け継ぎました。公には仏教徒を装い、隠れた所ではキリスト信仰の伝統を守り伝えたわけですが、これは、イエス様が明言されたことに照らしてどうなのか?

 

小説は歴史上実在した人物が大勢登場しますが、あくまで小説ですのでなされた会話が全て史実ではありません。しかし、それでもこの問題を考える上で良い視点がいくつかあります。一つには、中浦ジュリアン神父、彼は天正少年使節の一人でした、彼が信徒である大庄屋に宣べた言葉ににこういうのがあります。「あなたたちは殉教しないで下さい。殉教は聖職者がすることです。あなたたちは信仰を守り続けて下さい。聖職者は必ず来ます。たとえ200年後になっても。それまでは信仰を守り続けて下さい。」同じ言葉はペドロ岐部神父も述べます。彼は単身でローマに行き、途中日本人で初めてエルサレムも訪問した人です。二人の神父は後に拷問にかけられて棄教せずに殉教します。将来聖職者が訪れる日が必ず来る、それまで隠れてでも信仰の共同体を維持することが大切な使命になったのです。

 

もう一つは、隠れても身の保全そのものが目的ではなく、場合によっては申し開きをしなければならない日が来ると覚悟と準備が出来ていました。権力側の執拗で緻密な捜査体制や多額の報奨金による密告制度が張り巡らされていて、隠れて洗礼や祈りを行っているとは言え、いつ発覚してもおかしくないという状況でした。それを当人たちは薄氷の上を歩いている、もし氷の割れ目に落ちたら水底が天国になるとさえ言っていました。その意味で、最初の頃に信仰を公けにして殉教してしまった人たちは一足早く氷の割れ目に落ちてしまったということになるのでしょう。

 

そこで、出来るだけ長く薄氷の上を歩き続ける者たちがやがて発覚したらどうなるのか?取り調べの時に拷問を避けてさっさと棄教するということはありえませんでした。実際、明治維新の1年前の1867年、今村信徒の存在が発覚して久留米城下で取り調べが行われた時、まさにそうだったのです。彼らは、ついに来るべきものが来たと覚悟を決めました。どうせ殉教が待っているのだから思うことは全部言った方が清々するという態度でした。それで役人たちから、お前たちが信奉している教えは何だ、と聞かれて、デウスは全ての創造主だから拝まなければならない、百姓も侍も皆デウスに造られたのだから、お役人様あななたちも拝まなければいけないのです、とまで言ってのけます。使徒信条通りです。

 

結果は、今村の信徒たちの処罰は戊辰戦争や明治の政変のどさくさでうやむやになったのでした。それとは対照的だったのは、浦上の信徒たちでした。彼らは明治6年に切支丹禁令の高札が撤去されるまで迫害を受けてしまいます。多くの殉教者を出してしまいました。今村ではかつて信徒たちを守るために自らを犠牲にした庄屋の平田道蔵の墓があったところに教会が明治14年に建てられます。小説ではペドロ岐部神父が250年近く前にそれを預言したことになっています。

 

以上のように潜伏キリスト教徒の場合、将来の教会の再建の種を残すという使命を託されたことや、それは命がけのことで発覚した時は信仰を公表することになるとわかっていたし実際そうしたということは考慮に入れるべきことと思います。

 

ところで、今村の信徒たちが取り調べの時に、あなたたちも創造主の神を拝むべきです、と言った時の役人たちの答えは「日本には神仏がある。日本人はそれを拝めばよいのだ」というものでしたが、これは実にありうる考えです。今でもこの考えは変わっていないと思います。日本人にはキリスト教は合わないという考えはかなり根深いものがあると思います。室町時代末期、安土桃山時代、江戸時代初期にかけて日本人の間にかなり浸透したにもかかわらずです。キリスト教が壊滅してしまったのは、日本人に合わなかったからではなかったのです。暴力と武力で壊滅させられたのです。遠藤周作の有名な「沈黙」の終わりで、棄教して仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。その言い方はいかがなものか。暴力と武力で壊滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは問題のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。日本人がキリスト信仰者になると日本人でなくなったように見なされることはよくあることではないでしょうか?果たしてキリシタンの時代の信仰者は自分たちは何か日本人に合わないことをしていると思って信仰していたでしょうか?

 

5.おわりに

 

最後に、現代日本の私たちの場合は、潜伏キリスト教徒のように表向き仏神教徒を装って信仰を隠す必要も理由もありません。教会もあります。聖職者もいます。信仰を公けにすることで公権力から処罰もされません。もちろん、キリスト信仰者が圧倒的少数派の社会に生きていますから、いろいろ気を使わなければならないことはあります。特に、キリスト教は日本人にあわないという禁教以来のイメージが根強いので肩身が狭く感じられます。でもそれは、人間が作って維持し維持されているイデオロギーのようなものです。かつての東西イデオロギー対立時のベルリンの壁のようなものです。

 

何よりも大事なことは、もし私たちが父なるみ神から素晴らしいもの、何ものにも代えがたいものを頂いているとわかっているのなら、ペトロの次の言葉を胸に刻んでその通りにすべきです。

 

「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生き方をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」(第一ペトロ3章15~17節)

 

キリスト信仰で「希望」と言ったら、それは復活を見据えています。キリスト信仰の希望は復活に収れんしていきます。そういうキリスト信仰の希望については、本説教でもお話ししたところです。もしこの辺のところがまだ弱く感じられる方がいらっしゃれれば、本説教のテキストが教会ホームページに掲載されるのでそれをお読み下さい。動画も残りますので再生して視聴して下さっても結構です。同じことは毎週説教で繰り返し教えています。扱う聖句は異なっても中心にあることはいつも同じだからです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)新共同訳はאראהをcohortativeに取っている訳です。でも、אראהはcohortativeならば、二つ目のאの母音は「エ」ではなく「アー」になるのではないでしょうか?ここはimperfectではないか?この点に関しては、LamdinのIntroductionは、cohortativeにする時はנהを付けるとだけあります。それだけでは足りないので、北欧の権威的参考書NybergのHebreisk gramatikを見たら、נהを付けるのはליהのタイプを除くとありました。例文が一つありますが、どう見ても訳が間違っているとしか思えず(スウェーデン語の世界になるのでここでは詳細に立ち入りません)、完全に解決できません。困りました。それなので、ここではimperfectで考えた次第です。