2020年6月15日月曜日

キリスト信仰者は実はみんな祭司なのだ (吉村博明)

 

 

主日礼拝説教 2020年6月14日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会

 

出エジプト記19章2-8a節

ローマの信徒への手紙8章1-8節

マタイによる福音書9章35節-10章23節

 

 

説教題 「キリスト信仰者は実はみんな祭司なのだ」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.祭司たちの王国

 

本日の旧約聖書の日課は出エジプト記の出来事です。イスラエルの民がエジプトを脱出して3カ月が経ち、シナイ山のふもとまで来て宿営しました。そこでモーセはシナイ山上に現れた神のもとに登り、十戒をはじめ多くの律法を授かります。本日の個所は神が律法を授ける前に次の言葉を民に伝えよとモーセに命じたところです。その中に次のような驚くべき言葉がありました。

 

「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちは全ての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19章5~6節)

 

ここのヘブライ語の原文には一見簡単そうでわかりにくいことがあります。「世界はすべてわたしのものである」に「なぜなら」כיがついていて、それが前文とどう結びつくのかがわかりにくいからです。もちろんכיには他の意味・用法もありますが、どれを採っても解決は難しいので取り敢えず基本的な意味の一つである「なぜなら」でやってみます。それから、前文の「全ての民」についている前置詞מןも考えさせられます。「~の中から」と起点・起源の意味で取るか、「~から見たら」と比較の視点で取るかというところではないかと考えました。「~から取る/選択する」の可能性も考えたのですが、その場合動詞がהיהであることが引っかかりました。新共同訳は「すべての民の間にあって」と「間にあって」ですが、それなら前置詞はמןよりもבの方がいいのではないでしょうか?以上のような次第で、次のような意味ではかと思われます。「今、お前たちが私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、お前たちは私の守るべき財産となる。世界の全ての民族の中からそのような特別な地位に置かれるのである。このような選抜を行うのは、私が全世界にとっての神だからである。そのような地位に置かれるお前たちは『神の祭司たちの王国』になり、神聖な民族になる。」

 

イスラエルの民は「神の宝」だけではなく、「神の祭司の王国」や「神聖な民族」にもなれると言います。私たちの新共同訳では「祭司の王国」と祭司が単数形ですが、ヘブライ語原文では複数形で「祭司たちの王国」です。つまり、特定の祭司が国を治めているのではなく大勢の祭司から構成される王国です。お前たちがそうなるのだ、とお前たちはイスラエルの民を指して言っているので、イスラエルの民全員が祭司になっている王国です。

 

これは驚くべきことです。というのは、旧約聖書で祭司はモーセの兄弟のアロンから始まって、その家系に属する者がなりました。彼らは民を代表して神に対していろいろな捧げもの、罪の赦しの贖罪や神との和解のため、また神への感謝のしるしとして動物の生贄や収穫物を捧げました。そうなると今日の出エジプト記19章のところでユダヤ民族みんなが「祭司たちの王国」になるというのとは少し違ってきます。神が意図したのはイスラエルの民が全員祭司であるような王国だったのですが、実際には祭司は特定の家系に属する者の専門職業集団でした。

 

そうかと思えば、この「祭司たちの王国」は出エジプトの出来事から1300年位経った後の新約聖書の中にまた出てきます。使徒ペトロはその第一の手紙の2章9節でキリスト信仰者のことを「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と言います。「王の系統を引く祭司」などと言うと、あれっ、ダビデ王の系統のことかな?などと思ってしまうかもしれません。しかし、そうではありません。ここの「祭司」のギリシャ語の言葉は一人ひとりの祭司(ιερευς)ではなく祭司職の集団を意味する単語(ιερατευμα)です。それなので正確には「王的な祭司の集団」です。これは出エジプト19章の「祭司たちの王国」と同じことです。キリスト信仰者がそうなのだと言うのです。また、黙示録1章6節を見ると、使徒ヨハネが次のように言います。「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が代々限りなくありますように。」ギリシャ語原文では、「私たちを王国とし、神のための祭司たち(複数形!)として下さった方」です。これも「祭司たちの王国」です。黙示録5章10節でも同じことが言われています。

 

このように「祭司たちの王国」が旧約聖書と新約聖書にまたがってあります。しかしながら、旧約聖書では「祭司たち」は実際には専門職業集団でした。しかし、出エジプト記19章での神の意図は民が全員祭司ということでした。それが神のさらなる命令で専門職業集団が形成されました。出エジプト記19章で神が言われたことは無効になったのでしょうか?ところが、新約聖書の時代になって、やっと全員が祭司になれた、これで出エジプト記19章の神の意図が実現したぞ、そうことをペトロやヨハネが言い出したのです。あとで見ていきますが、実はパウロも、「祭司たちの王国」という言葉は使いませんが、ペトロとヨハネと同じ見方を持っていました。

 

キリスト信仰者がみんな祭司であるとすると、何か儀式めいたことをしなければならないのか、でもそれは牧師や神父や司祭の仕事ではないかと思われてしまうかもしれません。そこで本説教では、キリスト信仰者が祭司ならば、どんな祭司で何をしなければならないのかについて見ていきたいと思います。

 

2.神の御言葉を正確に忠実に宣べ伝える職務

 

ユダヤ民族の専門職業集団の祭司は、エルサレムの神殿が出来る以前は臨在の幕屋が置かれていたところで捧げものの儀式を行い、神殿が出来てからはそこが儀式の場所になりました。神殿での儀式は、紀元前6世紀初めにバビロン帝国の攻撃によるユダヤ国家滅亡の後、一時中断されます。しかし、同世紀の終わりに民族が祖国に帰還出来て神殿が再建されると儀式も再開されます。しかし、これも西暦70年に今度はローマ帝国の攻撃で破壊されて終焉します。それ以後は神殿は再建されず今日に至っています。

 

エルサレムの神殿での儀式は、律法の掟に従って忠実に執り行われてはいましたが、決して問題なしということではありませんでした。神殿での神崇拝についてのいろいろな批判が預言書に現れるようになりました。なかでもバビロン帰還後に再建された神殿の時代に記されたマラキ書という預言書の中に次のような言葉があります。

 

「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。だが、あなたたちは道を踏み外し、教えによって多くの人をつまずかせ」てしまった(マラキ2章7~8節)。

 

祭司たちは、確かにカレンダーに従って神殿にて儀式を行い、定められた目的に応じて定められた捧げものとをきちんと捧げてはいたのだが、肝心なことが抜け落ちていた。何かと言うと、神の意思が記された聖書についての知識を口を通して人々に宣べ伝えることでした。それこそが人々が祭司に求めていたことだと言うのです。「万軍の主の使者」の「使者」は少しピンときませんが、ヘブライ語の単語(מלאק)の意味はメッセンジャー、つまり神の言葉を神が述べた通りに正確に伝える役目を持つ者です。それが実際には神が述べた通りのことを伝えず、聖書について正しく教えなかったということが起きていたのでした。

 

キリスト教会では、神の御言葉を正確に忠実に宣べ伝え教えるということは、そのために設置された職務があって、その人たちに委ねられます。聖霊降臨後に形成されたキリスト教会の歴史を新約聖書の時代に限ってみていくと、それに関連して三つの職務が出現します。それはどれも祭司という名は持っていません。祭司はヘブライ語ではコーヘーンכהן、ギリシャ語ではヒエレウスιερευςですが、全く違う言葉で呼ばれる職務が誕生します。それらを少し見てみます。

 

まず、ディアコノスδιακονοςと呼ばれる職務があります。奉仕者という意味があります。もともとは使徒たちが御言葉の教えと祈りに専念できるようにと、食べ物などの信徒たちの必要を満たす仕事を行うために設置された職務でした。ただし、賄いや給仕が専門というわけではありませんでした。使徒言行録6章にあるように、選考基準は信仰と知恵と聖霊に満ちていることでした。実際、選ばれた者の一人ステファノは御言葉もしっかり教えることが出来、キリスト信仰に反対するユダヤ人たちに対して大説教をしたことが原因で殉教してしまいます。彼はキリスト教会最初の殉教者です。

 

 もう一つの職務はプレスビュテロスπρεσβυτεροςというのがあります。単語の意味は年長者で、日本語では長老と訳されます。これは第一テモテ5章17節から明らかなように御言葉を教える職務です。ヤコブ5章14節から伺えるように教会の代表者として信徒のために祈ることもします。プレスビュテロスがこのような職務を持つことがもとで、後にドイツ語で牧師を意味するPriest、スウェーデン語でもPrästになっていきます。英語のPastorはプレスビュテロスと違うところから来ていると思われます。

 

三つ目の職務はエピスコポスεπισκοποςです。管理者とか監督者という意味があります。使徒言行録20章28節を見ると、プレスビュテロスからエピスコポスに任命されるのでプレスビュテロスより位が高い感じがします。実際、時代が下るにつれてエピスコポスはディアコノスやプレスビュテロスを任命する権限を持つようになります。しかしながら、両者の資格についてのパウロの記述を見ると(第一テモテ3章1~7節、テトス1章6~9節)質的な違いはないのではないかと思います。実際、4世紀から5世紀に活動した教父ヒエロニムスも、また宗教改革のルターも両者の位に優劣はないと言っています。いずれにしても、エピスコポスも御言葉の職務を務めることにはかわりありません。

 

以上のように、キリスト教会で、ディアコノス、プレスビュテロス、エピスコポスという三つの専門職業集団が現れます。興味深いことにフィンランドのルター派国教会はディアコニア、牧師、監督の三つの職務があり、初期のキリスト教会の体制がよく受け継がれていると言えます。さて、キリスト教会でこれらの三つの専門職業集団が現れたのですが、他方でユダヤ教にあった祭司ヒエレウスは姿を消します。それは、祭司が神殿の儀式に特化した専門職業集団だったので、肝心の神殿が破壊されてしまった後は祭司も存在しなくなってしまったことによります。しかし、それにもかかわらず使徒たちはキリスト信仰者のことを「祭司たちの王国」と呼ぶのです。祭司ヒエレウスは死語ではないのです。牧師や神父や司祭はちゃんといるのに、キリスト信仰者である私たちのどこが祭司なのでしょうか?

 

3.キリスト信仰者は感謝の捧げものをする祭司である

 

それは、私たちキリスト信仰者は、牧師や神父や司祭であろうがなかろうが、全員がかつての祭司と同じように神に対して捧げものをしなければならないからです。それでは何を捧げるのでしょうか?かつての祭司は、罪の赦しの贖罪の捧げもの、神との和解の捧げもの、収穫の感謝の捧げものなどいろんな捧げものをしていました。

 

結論から言うと、キリスト信仰者にとっては罪の赦しの贖罪の捧げものと神との和解の捧げものは不要になりました。というのは、神のひとり子イエス様が私たち人間に代わって自らを犠牲の生贄として捧げて私たちの罪を神に対して償って下さったからです。この犠牲の生贄は完全無欠なものでした。それは、エルサレムの神殿で毎年の贖罪日に捧げられていた夥しい数の動物の生贄と比べればわかります。贖罪日ではまず最初に祭司たちが自分の罪の償いのために捧げものをし、そのようにして自分を罪から清めてから今度は民全体の罪の償いのために捧げました。これを毎年行わなければならなかったというのは、言うなれば罪の赦しの有効期限と言うか賞味期限は1年だったということになります。

 

ところが、イエス様が行った贖罪は、まさに神の神聖なひとり子を犠牲に供するもので、これ以上の犠牲はないという位のものでした。それなので今後はもう罪の償いのために犠牲をささげる必要は一切なくなったという、それ位の犠牲だったのです。それなのに、もしまだ何か追加で捧げものをしないといけない、そうしないと神は自分を受け入れてくれない、なんて考えたら、それは神のひとり子の犠牲では不足だと言っていることになり、逆に神の怒りを買うことになってしまいます。それなので神との和解を果たせるためには、イエス様がゴルゴタの十字架にかけられたのはまさに自分の罪の償いのためだったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、もう十分なのです。そうすれば、あとはイエス様のおかげで罪の償いが済んだ者となって、それで神から罪を赦された者として扱ってもらえるようになります。そのあとは、これからはもう罪を犯さないようにしなければ、神を全身全霊で愛し、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛さなければと心が新しくされます。なにしろ、ひとり子を犠牲に供してもいいと言い位に天地創造の神がこの私を価値ある者と見なして下さるんですから。そういう畏れ多い気持ちに加え感謝の気持ちに満たされてこの世の人生を歩むことになります。

 

以上申し上げたことが本日の使徒書の日課ローマ5章によく言い表されています。イエス様を救い主と信じる信仰により、神の目に義とされる、つまり神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられるようになる。それで神との間に敵対関係はもうなく、ただただ平和な関係にある。神と平和な関係にあれば、もう無敵で何も恐いものはない。このような信仰に立っていれば、試練があっても忍耐に転化する。忍耐は鍛えられた心に転化する。そして鍛えられた心は希望に転化する。ここで言う「希望」とは、神の栄光に与るという希望です。その意味するところは、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を着せられて神の御国に迎え入れられるということです。私たちがまだ罪びとであった時に、私たちがそのように神の栄光に与れるようにとイエス様は自らを十字架の死に委ねられたのでした。これが神の愛です。この神の愛はイエス様を救い主と信じる者の心に注がれているのです。

 

 以上のような福音の真理を宣べ伝え教えることがどれだけ大切なことであるか、本日の福音書マタイ9章にてイエス様が述べられています。群衆が羊飼いのない羊のように打ちひしがれて見捨てられた状態にあるというのは、神との平和な関係を持たず、罪の支配の力に服してしまっている状態のことを意味します。人々がそこから脱せられて神との平和な関係を持てるように、そのために福音の真理を宣べ伝え教える働き人が必要なのです。まさにマラキ書で言われているメッセンジャーです。本当に私たちは聖書を正しく忠実に宣べ伝え教えられる働き人が多く与えられるように祈らなければなりません。

 

少し話が脇道に逸れました。私たちキリスト信仰者がする捧げものについて見ていきます。イエス様が私たちのために贖罪と和解の捧げものとなって下さいました。それなので私たちはその捧げものをする必要がなくなりました。そうすると捧げるものとして残るのは感謝の捧げものになります。神のひとり子の尊い犠牲の上に自分が新しくされたということに対する感謝です。それでは、一体何を捧げたらよいのでしょうか?

 

そのことをパウロはローマ12章で明らかにします。まず、冒頭で度肝を抜くような主題を掲げます。

 

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 

「なすべき礼拝」などとそつなく訳していますが、正確には「理にかなった礼拝」です。難しい表現です。どういうことかと言うと、動物の生贄を捧げる礼拝はもう理に適った礼拝ではないということです。それで自分の体を生贄として捧げる礼拝が理に適っているというのです。これを読んだ人は皆ぎょっとしてしまうでしょう。体を生ける生贄として捧げるだなんて、まるで人身御供ではないかと。ところが、そういうことではないのです。パウロはこの12章で、イエス様の贖いと償いの業のおかげで神から罪を赦しを受けて和解を頂いた者はどんな生き方が当然になってくるかを述べていきます。その生き方をすることが「聖なるいけるいけにえとして自分の体を神に捧げる」ことになるのです。どんな生き方でしょうか?

 

まず2節で生き方の総まとめを最初に掲げます。生き方のコンセプトのようなものです。

 

「自分をこの世に合わせていってはいけません。神から罪を赦して頂いて心も考えも新しくされたのだから、あとは自分を神に変えてもらうに任せなさい。変えてもらうにつれ、何が神の意思であるか何が善であり神に喜ばれることか何が完全なことかを常に吟味するようになりなさい。」

 

 そして3節からあとは、何が神の意思か、善か、神に喜ばれることか、完全なことかについてパウロが吟味したことの具体的な内容が続きます。ざっと見ますと、自分を過大評価するな、悪を憎み、善から離れるな、兄弟愛を持って互いに愛せよ、互いに尊敬を持って相手を優れた者と思え、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはいけない、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、高ぶらないで身分の低い人と交われ、自分を賢い者とうぬぼれるな、悪に悪を返すな、全ての人の前で善を行え、他の人と平和に暮らせるかどうかがあなたがた次第ということであれば迷わずそうせよ、自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませよ、等々、そうそうたるものです。これらを聞くと、同じようなことは他の宗教でも言っているではないかと思われるかもしれません。しかし、根元は違います。自分で復讐してはいけない理由に神の怒りに任せるということがありました。これは、最後の審判とそれに続く復活が土台にあります。先ほどローマ5章のところで、「神の栄光に与る希望」とは、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を着せられて神の御国に迎え入れられる希望のことであると申しました。キリスト信仰者の全希望はそこに集約されています。

 

 以上が、キリスト信仰者が自分の体を生贄として捧げる生き方です。これができる、これが当然という心意気になるのには、まずイエス様のおかげで罪の赦しがあることを信じる信仰がなければいけません。そうしないと何も始まりません。全ては信仰から始まるのです。このような生き方をすることが神に感謝の捧げものをしていることの現れであり、感謝の捧げものをしていることが祭司であるということです。これは、牧師、司祭、神父であろうが信徒であろうが、キリスト信仰者みんなの課題であり、みんなが感謝の捧げものをする祭司なのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2020年6月8日月曜日

創造主の神に造られた者で何が悪い! (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2020年6月7日(三位一体主日)スオミ教会

創世記1章1-2章4a節
コリントの信徒への第二の手紙13章11-13節
マタイによる福音書28章16-20節


説教題 「創造主の神に造られた者で何が悪い!」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      神に造られた者としての自覚を持て

 今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週の主日は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、そのうちの一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され出したことを記念する日でした。父、御子、聖霊の三者がそろった後の主日ということで今日は三位一体を覚える主日です。

 先週の説教でも申し上げましたが、キリスト信仰では神は、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝されます。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表されています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の神、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの神、そして聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない者にしていくということです。

 本日の福音書の日課はマタイの最後のところ、復活されたイエス様が弟子たちに宣教命令を述べたところです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」洗礼を父と子と聖霊の名によって授けるというのは、洗礼を受ける者が三位一体の神に結びつけられるということです。神は創造の業を行う父であり、また人間を罪の支配下から贖う御子であり、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊である、この三位一体の神に結びつけられるのです。結びつけられた後は、神に創造された者としての自覚を持って、また罪の支配から贖われた者として、絶えずこの世から聖別されてこの世を生きていきます。そして、この世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて天の御国に迎えられます。

この「神に創造された者としての自覚を持つ」というのは大事です。その自覚は、キリスト信仰に入れるか入れないか、また入ってもその後しっかり入った状態にいられるかどうかのカギになります。というのは、自分が神に造られた者であるとの自覚を持つと今度は、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになるからです。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?聖書の立場は、うまく行っていない、それなので問題を解決しないといけない、というものです。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまった、それで人間はこの世では神との結びつきがないままで生きていかなければならなくなってしまったからです。どうしてそんなことが起きたかというと、人間は神に造られたという立場を静かに受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられて、その言うとおりにしてしまった。それは神がしてはならないと言っていたことで、そのために人間に神に対する不従順が生まれ、神の意思に反しようとする罪が備わってしまった。そのことが創世記に記されています。この堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、何もしないでいればこの世を去った後は神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死というものは罪の報酬であり、人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れなのです。

 そこで神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにして、この世を去った後は永遠に自分のもとに帰れるようにしてあげようと、罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったということであり、神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったことでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、復活の体と永遠の命が待ち受ける天の御国への道を私たち人間のために切り開いて下さったのでした。

そこで人間が、これらのことは本当にその通りに起こったのであり、それでイエス様は救い主と信じて洗礼を受けると、彼がして下さった罪の償いがその人を覆い、罪の支配下から贖われたことがその人に起きます。それからはその人は、天の御国に向かう道に置かれてその道を進んでいきます。

ところが、この世には人間がその道に入れないようにしてやろうとする力、入ったら今度は踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊が大事な役割を果たします。人間が神に造られた者であることと、洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。もし神に背を向けてしまったのであれば、聖霊はすぐに私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきはしっかりあることを示してくれます。その時、私たちの内に神の意思に沿うように生きなければという気持ちが起きます。そして、また天の御国に向かう道を進んでいくことになります。

 このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖い出されることです。また、造られ、かつ贖われた者としてこの世を歩む時の支えや力を得ることです。さらに、歩み終えた後は復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れられるという約束を神から頂くことです。

2.      天地創造の今日的意味

 以上から明らかなように、キリスト信仰では神は創造主であり人間は造られた者ということが大前提にあります。それがなかったら、造り主との関係はどうなっているかという問いは起きません。その問いがなければ神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことは何の意味も持ちません。それらが意味を持たなければ、聖霊が役割を果たそうとしても全然かみ合いません。それ位、人間が神に造られたというのは信仰の大前提なのです。

ところが、今日では神の創造ということを信じて受け入れることがますます難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると支持される状況があるからではないかと思います。生物は長い年月をかけて単純なものが複雑なものに進化していく。そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物に関しては神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。

イスラエルのハラリという歴史学者の書いた「ホモデウス」という本が大きな話題になりました。私はまだ全部読み終えていないのですが、進化論に立っているのは明らかで、なぜキリスト教が進化論に否定的なのか?それは進化論が魂の存在を否定するからだ、と言っていた下りはなるほどと思いました。生物が人格と意志を持った創造主に造られるのではなく、無数の化学反応の集積から構成されて変化していくと見たら、魂などという科学的に説明できないものは入り込む余地はなくなります。人格を持った神なんか持ち出さなくてもいろんなことが説明できるようになります。もう人間は造り主がどう思っているかなんか考えないで、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。天地創造を出発点にする聖書とその聖書に基づいて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

そこで、本説教の第二部として、ここから先は本日の旧約聖書の日課、創世記の初めの天地創造をもう一度振り返り、天地創造は本当に今では意味のない時代遅れの見方かどうか見てみたいと思います。この問題に関して近年では進化論に対抗するものとしてインテリジェント・デザインという考え方が注目されたようですが、私はおそらくその議論に加わられるインテリレベルに達していないので、ひたすら聖書をじっくり見ていくことにします。じっくり見る聖書とは、旧約聖書はヘブライ語のBiblia Hebraica Stuttgartensiaで(一部はアラム語で書かれていますが)、新約聖書はギリシャ語のNovum Testamentum Graeceです。私にとって大切な聖書のテキストです。

創世記1章について、本説教では2つのことを見て、聖書の天地創造は今日でも意味があることを確認したいと思います。一つは、天地創造の時間の流れについて。もう一つは、造られたものとしての人間と動物の立場についてです。

まず、天地創造の時間の流れについて。天地創造によると、神は6日間で天地とその中にあるものを造り上げ、7日目に休まれたとあります。これなどは、多くの人は真に受けないでしょう。物理学などで地球は何十億年前に誕生したと言っています。それなのに、最初の24時間で光が出来、次の24時間で空、次の24時間で海と陸と植物、次の24時間で太陽、月、星、次の24時間で魚と鳥、次の24時間で陸の生き物と人間、合計144時間、分にして8,640分、秒にして518,400秒、これで地球誕生から最初の人類まで間に合うのか、誰も見向きもしないでしょう。

もちろん、神に不可能なことはないというのが聖書の立場なので、144時間で完結したという可能性も残しておきますが、ここは次のように考えることも出来ます。毎日の終わりに「夕べがあり、朝があった。第何の日である」という締めの言葉があります。ヘブライ語で意味するところを見ると、「そして日の入りとなり、そして日の出となった。以上が第何の日である」という意味です。つまり、一日というのは、日の出で始まり、次の日の出までという考え方です。それで、「日の入りとなって日の出となった」と言うのは、これでその日は暗くなったので仕事は終わりですという、その日の終わりを告げる合図的な文句のようなものです。

つまり、聖書の観点は、造られたものを6つの段階的なグループにわけて、それぞれの段階の長さは私たちの時間の観念ではどれくらいなのかはわからないが、とにかくそれぞれの段階の終わりに「これで一日が終わりました」と言って、それぞれの段階が1日という扱いになって全部で6日になるように見せようとしていると考えることができます。それぞれの段階の長さは、私たちの時間の観念でひょっとしたら何億年もかかっているかもしれないが、それぞれに一日の終わりを意味する締めの言葉をつけることで1段階を一日と言っていると考えることができます。それでは、どうして6段階を6日とすることにこだわるのかと言うと、それは神が人間に1週間7日というリズムを与えて、7日目は安息日に定めるという意図があるからです。以上のように6日というのは6段階と考えれば、天地創造は時間的流れに関しては受け入れるのに問題はなくなります。

次に造られたものとしての人間と動物の立場について。先ほどのハラリは進化論に立って霊の存在を否定するので、そうすれば人間と動物は能力の差はあるが、同じ種類になって決定的な差はなくなります。それなので進化論から見ると、キリスト教というのは人間を霊的な存在にはするが動物はそうせず、それで人間を優、動物を劣にしているというふうに見えます。ところが、聖書をよく見ると、動物も実はある意味では霊的な存在で、進化論が言うのとは逆の意味で人間と動物が同じ種類に入りうるということがあるのです。ひょっとしたら、これはあまり注意されてこなかったことかもしれません。少し注意しながら聖句を見てみましょう。

 5日目に神は魚と鳥を祝福します。そのまま続けて読んでいくと、6日目に人間も祝福します。あれ、人間と同じ日に造られた動物は祝福されないのか?やはり動物は神の祝福に与れない、人間より劣ったものなのかと思わされます。しかし、それならば、なぜ魚と鳥は祝福を受けられるのか?動物は人間より劣っているが、魚と鳥は動物以上、人間並みということなのか?

 これは、ヘブライ語の原文の厄介さがあります。複数形と単数形が入り乱れて、どれが何を指しているかよく考えないといけません。問題となるのは27節と28節で、28節を逐語訳すると、「神は彼らを祝福した。そして神は彼らに言われた。『お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして、お前は地を従わせよ』」となります。最後の「地を従わせよ」と命令されている相手は単数形なので「お前は」です。その前の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の相手は全部複数形です。それで「お前たちは」です。それが突然「お前は」になるのです。これはどういうことか?可能な考え方として、神が祝福した「彼ら」は人間だけではなく、同じ日に造られた動物も含まれる。そして両者に対して「産めよ、増えよ、満ちよ」と言った。ところが、「地を従わせよ」のところで相手を人間に絞ったということです(後注)。鳥や魚が祝福を受けて「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのなら、動物も祝福を受けられて同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われてもおかしくなく、それが文法的にも可能なのです。つまり、動物も魚も鳥も人間と同じように神の祝福を受けられ、みな「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのです。

動物が霊的な存在ということを考える時、民数記22章でバラムが乗ったロバが行く手に天使を見て立ち止まり、それが見えないバラムに人間の言葉で話し出した出来事を思い出すと良いでしょう。人間には見えなくても動物には天使が見えたということが聖書には削除されずちゃんと記載されているのです。

そこで、26節と28節に人間に動物、魚、鳥を「支配させる」と言われていることを考えます。それは、聖書が人間に優越的な地位を与えていると考えられるところです。ところが、この「支配する」というヘブライ語の動詞רדהですが、詩篇72篇8節でも使われています。そこを見ると、正義を守る理想的な王の支配について言われています。力や数に任せた身勝手な権力行使ではないのです。そのように動物や魚や鳥に対しても、神の創造ということを念頭において何か注意深さが必要ということになります。

さらに29節を見ると神は人間に食べ物として植物から採れるものを与えると言い、鳥や動物にも植物を食べ物として与えると言います。神が与える食べ物に関して、人間も鳥や動物もかわりません。ところが、現実は、人間は動物や鳥も食べるし、鳥や動物の中には他の鳥や動物そして人間を食べるものもいます。それなので、神が人間、動物、鳥の食べ物について言ったことは、天地創造当初の理想状態の時のもので、それが堕罪の後で変わってしまったというふうに考えられます。そこで興味深いのは、イザヤ書11章にエッサイの切り株から出てくる若枝が世界をこの世の権力者とは全く異なる仕方で治めるという預言があります。エッサイはダビデの父親なので、エッサイの末裔から出る若枝とはイエス様のことです。イエス様が世界を治めるというのは、これは今の世が終わった次の世に現れる天の御国のことです。そこでは猛獣たちも他者を傷をつけることなく家畜と一緒に仲良く並んで草を食べています。これは、まさに堕罪が起きる前の天地創造の理想的な世界が戻って来ることを示しています。つまり、動物たちも天の御国にいられるのです。

 それならばなぜ、聖書は動物のことをもっと出さないのか、もっと踏み込んで動物の救いについて言わないのかという疑問を持たれるかもしれません。それはやはり、救いということは神の意思に反するということが人間に起こったために人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものか示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるために、イエス様の十字架の死と死からの復活があって、洗礼と聖餐を受けることが必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだと言っても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。じゃ、動物の救いは何かと言うと、それは聖書にはそれ以上のことはないのでわからない。聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造の業と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。

3.神に造られた者よ、自信を持て!

以上、創世記の天地創造は、時間の流れについてみても受け入れるのに問題がないこと、人間と動物の立場についても神の創造に属するものとして同じ祝福に与っていることを見ました。もちろん、聖書は人間の問題に集中しているので動物のことは書いてある以外のことはわからず、神に任せるしかありません。人間は動物を「支配する」ことを神から委ねられていますが、その内容も注意深く考えないといけないこともわかりました。いずれにしても天地創造は、救いということを人間を超えて生態系にも関わらせていることを予感させるだけで十分です。それで、それは時代遅れなんかではなく、ある意味では今日ますます意味を持つものになっていると言えます。この世が、造り主がどう思っているなんか考える必要などない、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人なのだから、神なんかにとやかく言われる筋はない、などと言ってきたら、私たちは自信を持って、否!否!否!と応じてよいのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン



(後注)
ここで厄介なことがいろいろありますが、解決策を考え出すことも可能だと思います。
一つの厄介なことは、「お前は地を従わせよ」と言った後すぐ、今度は「お前たちは海の魚、空の鳥(etc)を支配せよ」と言います。つまり、「支配する」人間が単数から複数に変わるのです。そうなると、その前で「お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言っていたのは、人間プラス動物ではなく、やはり人間だけなのではないかと思えてきます。しかし、26節と27節では人間は単数扱いになったり複数扱いになったり目まぐるしいのです。27節で「神は自分に似せて彼を(אתו単数)造った。男と女とに彼らを(複数אתם)造った。」とあります。28節の「支配する」が複数なのは、26節で複数形で言われている文をそのままそこにコピー&ペーストしたことで起こったのではないかと思います。
もう一つ厄介なことは、「支配する」動詞のרדהですが、詩篇8篇で神が人間に他の被造物を支配することを委ねたというところで、このרדהを期待したのですが、なんとמשלでした。実はこのמשלは創世記1章18節で「太陽が日中を支配し、月が夜を支配するために」のところでも使われています。秩序だった支配を意味すると考えれば、詩篇72篇8節の正義の支配と重なりますが、משלは現在分詞で「暴君」の意味もあるということで、頭が痛いところです。今回は解決策の模索はここで休止します。またいつの日か考えなければならない時が来ると思います。

2020年6月1日月曜日

聖霊 - 我らの人生の素晴らしき縁の下の力持ち (吉村博明)

聖句と教え 吉村博明 
(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日の聖句と教え 2020年5月31日 聖霊降臨祭

使徒言行録2章1-21節
コリントの信徒への第一の手紙12章3-13節
ヨハネによる福音書7章37-39節

説教題 「聖霊 - 我らの人生の素晴らしき縁の下の力持ち」



 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.聖霊降臨とは?聖霊とは?

 今日は聖霊降臨祭です。ペンテコステとも呼ばれますが、それはギリシャ語の50番目を意味するペンテーコステーπεντηκοστήという語に由来し、復活祭から(それを含めて)50日目に天の父なるみ神から聖霊がイエス様の弟子たちに下った出来事を記念する日です。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとって、クリスマスや復活祭に並ぶ大事な祝日です。それは、イエス様がかねてから送ると約束していた聖霊が彼の昇天後に約束通りに天の父なるみ神のもとから送られたからです。

加えて聖霊降臨祭はキリスト教会の誕生日の意味を持っています。そのことは、先ほど読みました使徒言行録の2章を終わりまで読んでいくとわかります。聖霊を注がれたイエス様直近の弟子たち、すなわち使徒たちの一人であるペトロが群衆の前で、イエス様の十字架の死と死からの復活について堂々と証言します。これらのことは全て旧約聖書の随所に預言されていた、それが実現したのだ、この期に及んでも神のもとに立ち返らなかったら、君たちは神のひとり子を十字架にかけた者どもと同じ罪にとどまることになってしまうのだぞ、それでも良いのか?そう聞く人たちに人生の何か重大な岐路に立たされていることを知らしめます。ペトロの言葉を聞いて心を突き刺された(2章37節)群衆はすぐさま洗礼を受け、その数は3千人にのぼりました(41節)。これらの人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、つまり聖餐に与ることです、そして、祈ることに熱心」(42節)な集団を形成したのです。これがキリスト教会の始まりとなりました。全ては、聖霊が使徒たちに注がれたことから始まったのです。

 ところで、キリスト信仰では神というのは父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として崇拝されます。それじゃ、聖霊も、父や子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。確かに日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含むが、聖霊は男性扱い)、まさしく人格を持つ者です。三つの人格はそれぞれ果たすべき機能、役割を持っています。父は無から万物を造り上げる創造の神です。子は人間を罪の支配から救い出す贖いの神です。聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する機能を果たします。この世からの聖別とは、人間を神聖な神の御前に出しても恥ずかしくない者にするということです。

今日の説教では、福音書の日課ヨハネ7章37~39節のイエス様の言葉を説き明かすことを通して、この人格と役割を持つ聖霊がどんな方であるかを明らかにしようと思います。そこで見えてくるのは、聖霊はキリスト信仰者にとって人生の素晴らしい縁の下の力持ちということです。他方で第一コリント12章を見ると、聖霊が自分の考えに従って信仰者一人ひとりに様々な賜物を与えることが言われています。賜物を与えることも聖霊の役割の大事な側面です。今日はヨハネ福音書のイエス様の言葉に基づいて別の側面を見てみましょう。

2.仮庵祭の二つの異なる水

イエス様がエルサレムにて群衆の前で「生きた水」について話しをしたのは、ユダヤ民族の仮庵祭という、丸1週間続く盛大な祝祭の最後の日でした。仮庵祭というのは、時期的には私たちのカレンダーで秋分の日の後に催されるもので、作物や果物の収穫を神に感謝するためのお祝いでした。祝い方の詳細はレビ記23章33~44節、申命記16章13~15節に記されています。このお祝いに特徴的なことは、名前が示すように木の枝で掘立て小屋を作ってお祝いの期間はそこに入るということが行われていました。これはかつてモーセがイスラエルの民を率いてエジプトから約束の地カナンまで民族大移動した時の生活を再現して振り返る意味がありました。約束の地までの貧しい生活に思いを馳せ、その地での豊かな収穫を神に感謝する時、神への感謝と賛美は一層高まったでしょう。

仮庵祭の最終日はまた、神殿の祭司たちがシロアの池から水を汲んでそれを大祭司が黄金の水差しに入れて祭壇にかけることをしました。水を汲んだ祭司たちが神殿に到着すると群衆は歓声をあげ、祭司たちはイザヤ書12章3節の聖句を歌にして歌いました。「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水をくむ。」まさにその日にイエス様は群衆を前にして叫んで言ったのです。「渇いている人は誰でもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書に書いてあるようにその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」まさに祭司たちが祭壇にかける水を汲んでそれを「救いの泉」から汲んだと言っている時に、イエス様は自分が与える水は渇く者をいやすことができ、それだけでなく与えられた人は今度は内から「生きた水」が川のように流れ出ると言うのです。これを聞いただけでも、イエス様が与える水は「救い」ということに関して祭司たちが汲んだ水よりも優れているものであることが直感できます。さらに、この出来事を記述したヨハネは、イエス様が与えると言っている水は聖霊を意味するのだと解説します。しかしながら、まだイエス様が栄光を受ける前だったので聖霊はまだ降っていなかったとも。イエス様が栄光を受けるというのは、十字架と復活の出来事を経て天の父なるみ神の右の座に上げられることです。実際、聖霊降臨はイエス様の昇天の後に起こりました。それなので聖霊降臨の前では誰もイエス様の言われた「生きた水」の意味はわからなかったでしょう。しかし、イエス様の言葉には聖霊がどんな役割を果たすかが明確に言われているのです。どんな役割かそれを見てみましょう。

3.聖霊は人間の霊的な渇きを癒して目的地に押し出していく

イエス様は「生きた水」という言葉を使いました。ギリシャ語の言葉を直訳すると「生きている水」です。生きている水とはどんな水でしょうか?

まず、「渇いている人」はイエス様のところに来て彼から飲むことができる、つまり、イエス様に渇きを癒してもらえるということです。「渇いている」と言うのは普通の喉の渇きのことではありません。霊的に渇いているということです。霊的な渇きとは、救いを求めているということです。そこで、救いとは何かと言うと、それは、この世を生きる時、自分は創造主である天の父なるみ神と結びついているか切り離されているかどうかということです。天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた、まさに自分の造り主である神と結びつきを持ててこの世を神の守りと導きを受けながら生きられ、この世から別れることになっても神のもとに永遠に迎え入れられる、こうした今の世と次に来る世の両方の世にまたがる神との結びつきがある、これが救いです。

イエス様が渇きを癒して下さるというのは、彼がこうした救いの願いを叶えてくれるということです。救いの願いが叶えられるというのは、まさにイエス様の十字架の死と死からの復活によって実現しました。イエス様は人間と神の結びつきを壊していた原因である罪を全部背負って十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて文字通り身代わりとなって死なれました。さらに、死から復活させられたことで永遠の命に至る道を人間に開かれました。この時、人間はイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを頭から被せられて、彼の犠牲に免じて神から罪を赦されます。罪を赦してもらったので神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきの中で生きていけます。この世だけでなく、次に来る世においてでもです。

 そこで、イエス様から渇きを癒されて救いが叶えられた人は今度はその内から「生きた水」、「生きている水」が急流のようにほとばしるようなるということについてみてみましょう。それはどんな水でしょうか?それについては、ヨハネ福音書の4章に理解の鍵があります。イエス様とサマリア人の女性が水について問答するところです。イエス様が自分は「生きた水」、「生きている水」を与えることが出来ると言うと、女性はそれを井戸から汲める水と勘違いしている。そこでイエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「私が与える水はその人の内で、永遠の命を目指して流れ続ける水の水源となる」です。つまり、人がイエス様から「生きた水」を受けると、今度は、その「生きた水」がその人のなかで水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命に向かって流れゆくというのです。そういうわけで「生きた水」、「生きている水」とは、人を「永遠の命に押し出す水」であり、その意味で「永遠の命を与える水」です。

そこで、このイエス様が与える「永遠の命に押し出す水」が聖霊を意味するということについてみてみましょう。人がイエス様からその「水」を与えられて霊的な渇きを癒される。つまり、イエス様によって救いが叶えられたことを知り、それで彼を救い主と信じるようになる。そして洗礼を通して聖霊を受けることになる。すると今度は聖霊がその人の中で水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命を目指して流れ続ける。つまり、聖霊はキリスト信仰者を霊的に潤し、もし渇きそうになっても止まることのない流れでいつでも癒される。それはさながら信仰者を永遠の命まで押し出してくれるようである。まさにイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者にとって聖霊はその人の水源地となって、その人を内側から永遠の命という目標に押し出していく働きをするのです。それは素晴らしいことです。しかしながら、キリスト信仰者の人生はそんな結構な水の流れに乗って、この世をすいすいと渡って永遠の命に向かって進んでいくものでしょうか?そんなに甘いものではないという気がします。実際はどうでしょうか?次にこのことについてみてみましょう。

4.聖霊は我らの人生の素晴らしき縁の下の力持ち

人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれても、まだ肉を纏って生きています。それなので、実はまだ神への不従順と罪を内に持っています。それでは、洗礼を受ける前と何も変わってはいないではないか?キリスト教では「あなたの罪は赦された」とか「罪は帳消しにされた」などと言うが、それは一体どうなるのか?神に対する不従順と罪を相変らず内に抱えているのに何が変わったと言うのか?いや、やはり決定的に変わったのです。一体何が変わったのか?

キリスト信仰者が神の意思に反することを考えたり思ったりする時、または弱さや隙があったためにそれらが行為や言葉で出てしまった時、神に向いてイエス様の犠牲に免じて赦しを願い祈ると、神は次のように言って下さいます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、もう犯さないように。」この時、信仰者は恥じる気持ちと感謝の気持ちから本当にそうしなければと心を新たにします。このようにキリスト信仰者は罪の自覚と告白、そして赦しを繰り返しながら永遠の命に至る道を踏み外すことなく進んでいきます。このように、キリスト信仰者は罪が残っているにもかかわらず、イエス様が築き自分が受け取った罪の赦しがあるおかげで神との結びつきには何も変更はありません。何も失われていません。罪は信仰者を振り回すことはあるかもしれませんが牛耳る力はもう持っていません。牛耳る力は全て父なるみ神の手中にあります。信仰者はそれくらい父なるみ神に守られているのです。このことが、罪は残っているが帳消しにされたということです。

ところが、この世で作用する見えない力とその背後にいる悪魔は、このような神と人間の麗しい関係を壊さないではいられません。これは堕罪の時からずっとそうです。悪魔のやり口として、まずキリスト信仰者に罪びとであることを思い知らせようとします。信仰者は自分と神との結びつきは大丈夫かどうかということを気にして生きますから、結びつきを危うくする罪の問題には敏感です。そこを付け狙ってくるのです。もし悪魔が、「ほれ見ろ、お前はやっぱり罪びとだったのだ。神はお前に呆れ返っているぞ」と暴露戦術で攻撃をしかけてきます。そんな時は神に赦しを願い祈っても赦してもらえるかどうか、何かしないと足りないのではないかと途方にくれます。その時こそイエス様が聖霊のことを「弁護者」と言っていたことを思い出す絶好の機会です(ヨハネ14~16章)。聖霊は父なるみ神の前で弁護してくれるのです。「父よ、この人はひとり子イエスを救い主と信じて、彼が果たした罪の償いの他には何も持てないという位に受け入れています、すぐ赦しが与えられるべきです!」という具合にです。同時に聖霊は返す刀で途方に暮れている私たちに向かって言われます。「あなたの心の目をあのゴルゴタの十字架に向けなさい。あそこで神罰を受けてうなだれた神のひとり子がいる。彼の肩に重くのしかかっている罪の中にあなたのもちゃんと含まれています!あなたの罪はあそこで償われています。あとは復活されたあの方の後をついて行きなさい!」この時、聖霊は私たち人間の罪性という真理と神のひとり子の贖罪が完璧であるという真理を私たちの目の前に示すのです。イエス様が聖霊を真理の霊と言っていたのはまさにこのことです(ヨハネ14~16章)。

さらに、この世で作用する力と悪魔が罪とは別の問題で信仰者を惑わして意気消沈させることもあります。それは、信仰者が自分の罪が原因でないのに大きな苦難に陥ってしまった場合がそうです。そのような時、「これこそ、お前が神に見捨てられた証拠だ」とか、「神はお前に背を向けている。いつまで神に対して無垢を気取っているんだ。そんな神などさっさと袂を別てば良いではないか」というようなこちらの痛みと弱みに付け込む攻撃が仕掛けられます。

神としっかり結びついて生きるなどというと、人生順風満帆という感じがします。なにしろ、全知全能で天地を創造した神が味方についているのですから。しかし現実は、キリスト信仰者と言えども不幸や苦難に陥ることにかけては信仰者でない人たちとあまり大差はないのではと思います。それにもかかわらず、信仰者はどうして苦難困難の時でも神との結びつきを信じられるのでしょうか?それはキリスト信仰者は命や人生というものを、今生きているこの世の人生とこの次に来る神の国の人生の二つをセットにした大きな人生を生きているということが真理になっているからです。この真理に立てば、この世では絶体絶命の状態になっても、それで全てが終わってしまうということにはならないとわかります。苦難が大きければ大きいほどこの世の方に目を奪われてしまいますが、聖霊は私たちが見失いがちな真理を聖書の御言葉に結びつけて改めて目の前に示してくれます。聖霊の働きは私たちが聖書の御言葉に結びついている時に一番よく現れます。それなので、真理を見失わないために聖書を常日頃繙くことは大事です。

5.おわりに

以上から、聖霊は私たちが洗礼を受けて注がれてからは私たちの救いの渇きをいやしてくれる霊的な水であること、そして一度注がれたら今度は私たちの内で水源となって私たちを永遠の命へと押し出してくれる水にもなってくれること、そういう働きをされることが明らかになりました。永遠の命に向かう途上で罪や苦難のために神との結びつきが見失われる時があっても、聖霊は神の御前で私たちのために弁護して下さり、罪の赦しと神との結びつきは微動だにせずあるという真理を明らかにして下さいます。本当に私たちを永遠の命に向けて押し出してくれているとしか言いようがありません。それくらい聖霊は永遠の命を目指して進む私たちにありとあらゆる支援を惜しまない真に素晴らしい縁の下の力持ちなのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン