2019年6月24日月曜日

なぜ神は三位一体なのか? (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年6月16日(三位一体主日)むさしの教会

イザヤ書6章1-8節
ローマの信徒への手紙8章1-13節
ヨハネによる福音書16章12-15節


説教題 なぜ神は三位一体なのか?


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.はじめに

本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

宗教学では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の世界三大一神教の類似性ということがよく言われます。ユダヤ教は旧約聖書を用いるし、イスラム教は新約旧約聖書を全く独自の仕方で用いています。しかしながら、神学的には三つの宗教が同じ種に属するという話には無理があります。なぜなら、キリスト教では神は三位一体ですが、ユダヤ教とイスラム教はそうではないからです。共通の聖典を持っている宗教同士でさえ、三位一体がキリスト教と他を切り離しているのです。共通の聖典などない他の宗教とキリスト教の間には類似性など論じる可能性はもっとなくなります。

 キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどにわかれていますが、わかれていてもこれらが共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体として受け入れています。そうした共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。わかれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があると言えます。また、わかれた教会が一致を目指す時の土台とも言えます。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

 ところで、神が三位一体という説は、キリスト教が誕生した後で作りだされた考えにすぎないという見方があります。しかし、その見方は正しくありません。三つの人格を一つにして持つ神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

その例として、ソロモン王の知恵の集大成である箴言の8章22-31節を見ると、神の「知恵」というものがいかに人格を持った方であるかが言われています(「知恵」は「彼」と呼ばれます)。「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言われています。ところでイエス様は、自分がソロモン王の知恵より優れたものであると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。ソロモン王は神の知恵を人間に伝達しましたが、イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると言ったことになります。そこで箴言のなかに登場する「知恵」、天地創造の場に居合わせた「知恵」について、初期のキリスト教徒たちは、これがイエス様を指しているとすぐわかりました。そのために、御子は既に天地創造の時に父なるみ神と一緒にいたと言うようになったのです(第一コリント8章6節、コロサイ1章14-18節、ヨハネ1章、ヘブライ1章1-3節)。さらに、神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を作り上げていきましたが、その時、御子が創造の業に積極的にかかわったことを明らかにしようとして、それでイエス様のことを神の「言葉」そのものと言うようになりました(ヨハネ1章)。

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」である御子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。


2.どのようにして三位一体なのか、ではなく、なぜ三位一体なのか?

三位一体とは、わかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?理屈で理解しようとすると、三つの人格がどのようにして一人の神になるのかということに目が行ってしまい、これは行き詰ります。それならば、なぜ神は三つの人格を一度に備えた一人の神でなければならないのか、ということを考えると、聖書はこの「なぜ」の問いには答えを出していることがわかります。神が三位一体であるというのは、私たちに愛と恵みを注ぐために神はそうでなければならない、三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体でなければならないのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。神に造られた最初の人間が神に対して不従順になって罪を犯し、死ぬ存在になってしまったのです。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いている。このように人間が罪ある存在とわかると、神は全く正反対の神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

神の神聖さとは、罪を持つ人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約の箇所イザヤ6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは肉眼で神を見てしまう。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

イザヤは自分の罪と自分が属する民の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤが大やけどを負わなかったということは、罪から清められたことを示しています。罪から清められたイザヤは神と面と向かって話ができるようになります。モーセは、そのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されましたが、山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間にとって危険なものなのです。

このように神と人間との間には果てしない溝が出来てしまいました。しかし、私たちが神との結びつきを回復してこの世の人生を歩めるようにすべく、そして、この世を去った後は永遠に自分の許に戻れるようにすべく、神は溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされました。その救いの手がイエス様でした。本日の福音書の箇所の中でイエス様は弟子たちにこう言います。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「理解できない」、ギリシャ語の動詞βασταζωは「背負いきれない」、「耐えられない」という意味です。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を神との結びつきから切り離している罪と死から救い出すために、イエス様がこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということです。このようなことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それらを受け入れることができるようになりました。まず、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死ななければならなかったのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲の生け贄になったということがわかりました。さらに、イエス様の復活によって永遠の命に至る扉が開かれて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとそこに至る道に置かれる、そして、神に見守られて導かれてその道を歩めるようになったこと、以上のこと全てが真理だとわかって受け入れることができるようになったのです。それができるようになったのは聖霊が働いたためです。どれも人間の理解力、理性では理解できないことだからです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

ところが、こうした神の真理がわかってイエス様を救い主と信じて永遠の命に至る道を歩むようになっても、この世には神の真理を曇らせよう、イエス様が救い主であることを忘れさせようとする力が働いています。イエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを目に適う者に見て下さる、これが真理なのに、そんなに甘くはないぞと言って、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に増幅しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、私たちは、本日の福音書の箇所で前のところ(ヨハネ14章26節)でイエス様が「弁護者」である聖霊を送ると言われたことを思い出さなければなりません。

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架での人間の罪の償いが自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは、神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。

キリスト信仰者はこの世の人生でこれを何度も何度も繰り返して自分の内に宿る罪を圧縮していきます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。一度に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

このように聖霊は私たちが神の真理にしっかりとどまれるように応援し助けてくれます。先程のイエス様の13節の言葉は、日本語訳では「聖霊があなたたちを導いて真理をことごとく悟らせる」でしたが、ギリシャ語原文では「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「真理全体の中にとどまれるように導いてくれる」とか「真理全体へと導いてくれる」などと訳すことも可能な文です(οδηγησει υμας εν τη αληθεια παση)。つまり、真理をわからせてくれるだけでなく、真理にしっかりとどまれるように助けてくれる、それが聖霊です。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちがこの世の力や罪と戦う時、私たちは一人ぼっちではなく、イエス様が約束された聖霊が働いてくれることを忘れないようにしましょう。

13節から15節にかけてイエス様が教えていることは、聖霊が私たちを導いてくれる時、それは聖霊が自分で好き勝手なことを告げるのではなく、イエス様がこう言いなさいと言ったことを私たちに告げるのだ、ということです。父なるみ神のものは同時に御子のものでもあると言われているのは(15節)どういうことかと言うと、イエス様がこう言いなさいと聖霊に言うことは、それは父なるみ神がこう言いなさいと言ったことでもある、ということです。このように、父と子と聖霊は共通の真理のもとで働くという意味でも、三位一体なのです。


3.三位一体の神だから私たちと共におられる

このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度はひとり子を用いて私たち人間を罪と死の支配から贖い出して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中に生きることとなりましたが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しに生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けられるようになりました。

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて生きられるようになってこそ、神に造られた目的を果たすことになるということです。本当に三位一体はすごいことです!私たちにあるべき姿を示し、そうなれるようにする力そのものだからです。

最後に、父なるみ神とひとり子は天の御国におられるとは言えども、三位一体の神は私たちの近くにおられるという不思議なことを確認しておきましょう。スオミ教会の三位一体主日の礼拝説教で毎回見せているものですが、ここにこんな三角形があります。それぞれの頂点には、父、御子、聖霊と記されています。この三角形全体が三位一体の神です。まず、イエス様が地上に贈られる以前は、三つの頂点は天の御国にいますから、説教壇の表面を地上とすると、三角形は地上に対して上方に平行してあります。ただし、聖霊はずっと天にいっぱなしだったのではなく、旧約聖書を繙くと、聖霊がイスラエルの民の指導者に力を与えたり、預言者を空間移動させたりすることがありました。そのように聖霊は、時として地上にいる特定の個人に働きかけることがありました(士師記6章34節、13章25節、Iサムエル11章6節、エゼキエル2章2節、37章1節)。しかし、聖霊が本格的に地上に送られてそこに留まって大勢の人間に働きかけるようになったのは、やはり、聖霊降臨の時からです。

さて、イエス様が地上に贈られました。神の身分でありながら神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり(フィリピ2章6-7節)、乙女マリアから人間として生まれました。三角形は平行でなくなって、イエス様の頂点を下にするようになりました。

父   霊  
  

  子

さて、イエス様が十字架の上で死なれ、死から復活させられ、そして天に上げられる日が来ました。イエス様は、自分が天の父のもとに戻った後は、信仰者が一人ぼっちに取り残されることがないように、父のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4-15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。さあ、イエス様は天に上げられます。聖霊は本当に送られるでしょうか?どうなるでしょうか?(三角形の御子の頂点を上げると、聖霊の頂点が下がって、父と御子の頂点が上になる。)ほら、大丈夫でした。ちゃんと聖霊が送られました。

父   子  
  

  霊


               
          
               
             

イエス様は、しっかり約束を守りました。良かったですね。

聖霊が送られたおかげで、人間はイエス様を救い主と信じることができるようになります(第一コリント12章3節)。聖霊は、聖書の御言葉を通して人間に働きかけ、キリスト信仰者がしっかり神との結びつきを持ってこの世の人生を歩めるように助けてくれます。また聖霊は自分の判断に基づいて、信仰者にいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、まだ信じていない人を信仰へ導いたり、既に信じている人には信仰をしっかり守るように助けたりします。そのようにしてキリスト教会がまとまりを保って成長するように助けます。皆さん、どうですか?父と御子は天におられるとは言っても、三位一体と聖霊のおかげで、全然遠くにいる感じがしないでしょう。それどころか、私たちには聖書の御言葉と聖餐式があるので、神はまさに私たちの耳元や口元にまでおいでになられるのです。このことを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2019年6月3日月曜日

信仰は、賭けだ! (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2019年6月2日 昇天主日

使徒言行録1章1-11節
エフェソの信徒への手紙1章15-23節
ルカによる福音書24章44-53節

説教題 「信仰は、賭けだ!」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.     はじめに

本日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天の神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。その日に近い主日ということで、本日が「昇天主日」となっているわけです。イエス様の昇天日から10日後に、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日が聖霊降臨日になります。カタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということは昨年の説教でお教えしたところです。今回もその教えには変更はありませんが、本日の第二の日課であるエフェソ1章の中に、昨年お教えしたことを深めることを発見しました。何かと言うと、死んだ人間に新しい復活の体を着せて蘇らせることとその者を創造主である神の御許に引き上げるということ、これはイエス様に起きましたが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要である。しかし、神はそのエネルギーを行使する力がある方である。だからイエス様の復活と昇天を起こせた。それだけではない。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも行使される。つまり、信仰者も将来イエス様と同じように復活して天の父なるみ神のもとに上げられる。しかも、同じ神の力は今私たちが生きているこの世でも信仰者の後ろ盾になって働いている。そういうわけで、信仰者は前方も後方もしっかり守られているので何も恐れたり心配する必要はない。エフェソ1章の本日の個所をよく読むと、そういうことがわかってきます。なんだかわくわくしてきますね。

そういうわけで、本日の説教では最初に、イエス様の昇天とは何だったのかということについて毎回お教えしていることのおさらいをして、神の想像を絶するエネルギーと力が私たちにも働いていることを見ていきたいと思います。

2.イエス様の昇天

 私たちの新共同訳の聖書では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。なんだか、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわきます。しかし、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します(後注)。

そういうわけで、新共同訳の「雲」はただの上空に浮かぶ普通の雲にしかすぎません。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあることを忘れてはなりません。出エジプト記では、モーセが神から掟を授かったシナイ山は雲で覆われました。イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋にも雲が覆ったり離れたりしました。時代は下って、イエス様が高い山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判を受けた時、自分が再臨する時は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)やって来ると預言しました。本日の使徒言行録の箇所でも、天使が弟子たちに言います。イエス様は今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、つまり、天に上げられた時と同じように天の雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天は聖書的な出来事です。

それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れるでしょうが、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画のSFX特殊視覚効果技術による撮影を本当のことと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。もっとも、キリスト教徒の中にも最近は、そういうふうに考える人が増えているかもしれません。

 ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多く、例えば弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同じ次元の方なので、被造物にすぎない天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

3.天の御国

天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?このことも前回お教えししました、おさらいします。

地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるでしょうか?恐らく見つからないのではと思います。

というのは、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰というものと全く別世界だからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

 信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。さて、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の立場は、天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考えることも可能です。ただ、その場合、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなりません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意図が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場ですので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心の有り様ということになります。

キリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。そして、人間の命と人生というのは実は、この現実の世界だけでなく創造主である神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がひとり子のイエス様を私たちに贈って下さったのは人間の人生から天の御国が抜け落ちてしまわないためだったということが見えてきます。人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

それでは、イエス様を私たちに贈ることでどうやって人間が二つの人生を合わせた大きな人生を持てるようになるのかと言うと、以下のような次第です。
人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てません。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまってから、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、行為に現れる罪も現れない罪も全部含めて、罪が天の御国の人生を持てないようにしている。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。

そのために神は、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人を覆います。神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになります。その人の心に自分の命と人生は神のひとり子の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれ、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向し出します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるようになっています。順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを得られ、この世を去ることになっても、その時は御手をもってその人を天の御国に引き上げて下さいます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。

4.信仰は、賭けだ!

イエス様は十字架と復活の業を通して人間がこの世の人生と天の御国の人生の両方を持てるようにして下さった。それはわかるとしても、なぜ天に上げられなければならなかったのか?この間の復活祭の礼拝説教で、復活の体というのは神の栄光を現わす神聖な体なので罪に満ちたこの世には相応しくない、天の御国こそが相応しい場所とお教えしました(4月21日)。それなら、なぜ復活後すぐ天に上げられず、しばらくの間地上に留まったのか?それは本日の使徒言行録やルカ福音書の日課にもあるように、弟子たちに復活の目撃者・証言者になってもらうためでした。また、人間の救いはメシア・救世主の受難と復活に基づいているというのが旧約聖書の奥義であると教えるためでした。

イエス様の昇天について、本説教では別の角度から考えてみます。聖書の立場では、神に造られた現実の世界は初めがあったように終わりもあります。終わりの時は最後の審判があり、死者の復活が起こる。そういう森羅万象の大変動を経て最終的に天の御国だけが残る、そういう気の遠くなることがあります。イエス様はその時に再臨され、新しい天と地の中で天の御国が実現するために大きな役割を果たされる。つまり、イエス様の昇天というのは、上げられてそれっきりということではなくて、いつかは戻って来られるというものなのです。

そうなると、このイエス様が天の御国に上げられてから再臨するまでの長い期間は一体何なのか?聖書の観点からすれば、それは、神のひとり子の身代わりの受難と死からの復活という出来事に対してあなたはいかなる態度を取るのか?人間がそれを問われる期間になりました。

人によっては、これは素晴らしいことだ、イエス様を救い主として受け入れ信じます、ということがすぐ起きるかもしれません。しかし、そう簡単ではないという人たちも多いでしょう。なにしろ、復活したイエス様を目にすることもなく、ただ聖書に書かれたこと、弟子たちの目撃録や彼らがイエス様から教えられたことだけが手掛かりだからです。実物を目にすることが出来たらすぐ納得できるのに、天になんか行ってしまったので「信じる」などというイチかバチかの賭けのようなものになってしまった。目で確認できない不確かなものに賭けることはできないと言って信じない人もいるでしょう。あるいは、自分には聖書に書かれたことよりももっと確かなものがあると言う人もいるでしょう。例えば宗教がそれだったりしますが、それも目で確認できるものではないのに、その人にとっては慣れ親しんだものなので目で確認できるに近い確実さを感じるということでしょう。他方でキリスト教徒の中にも、不確かなものを信じるなんて現代に相応しくないと言わんばかりに、復活や昇天は文字通りに取るべきではない、人間の思いや願いをそのような出来事に仕立て上げたにすぎないなどと心理分析みたいなことをする人もいます。分析ですから、言葉は明瞭で目で確認するのと同じくらい説得力があります。それを聞く人の多くは、信じる信じないの苦悶なしにすんなり受け入れるのではないかと思います。

私は、「信じる」というのはやはりイチかバチかの賭けのようなものであると思います。それで、イエス様というのは天地創造の神のひとり子で人間にとってメシア・救世主であると信じている人はそれに賭けたということになります。復活や昇天も心理的出来事でなく、文字通り起こった出来事と信じている人はそれに賭けているのです。心理的出来事にしている人は、もし文字通りの出来事でなかった場合に備えて安全策を取っていると言えます。賢いやり方です。しかし、賭けている人こそ信じているのです。

信じている人はどうして賭けられるのでしょうか?これは確かだ、賭けるに値すると思って賭けているわけですが、その確かなもの、値するものとは何でしょうか?それについて私は、二つのことをあげてみたいと思います。一つは、人がこの世を去る時、神は自分をしっかり受け取って下さるという、神の意図に対する信頼。もう一つは、神は意図するだけでなく実際に受け取る力も持っているという確信です。

まず、神の意図に対する信頼について。人がこの世を去る時、それは自分を何か果てしない大いなるものに委ねる瞬間となるので、果たしてそのものは自分をしっかり受け取ってくれるだろうか?自分に何か足りないもの欠けているものがあって受け取ってもらえないだろうか?と不安になります。聖書は、まさにこうした問題とその解決を言葉で明らかにしています。つまり、足りない欠けているというのは、神の意志に反する罪を持ってしまい、神の神聖さ、神の目に相応しくされるための義を持っていないことです。この問題は先ほども述べましたように、父なるみ神がイエス様を用いて解決して下さいました。イエス様を救い主と信じることによって罪の赦しを衣のように被せてもらっている、罪は残るが、この衣を手放さないようにしっかり掴んでいるというのは罪に反抗して生きることです。神はそれをよし、と言って受け取って下さるのです。

次に神は私を受け取る意図だけでなく、そうする力も持っているという確信についてです。復活や昇天というのは科学技術や物理学の常識ではありえないことです。それが起こるためには常識を超えた、想像を絶するエネルギーとそれを行使できる力がなければ出来ません。エフェソ1章の19節と29節をよく読むと、使徒パウロはまさにそうした想像を絶するエネルギーと力が必要とされることをよくわかっていたことが見て取れます。ギリシャ語原文を見ると「神の力」の「力」いう言葉が3つの違う単語で言われています(δυναμις, κρατος, ισχυς)。それぞれ日本語でどう訳し区別するか考えたのですが、それぞれの詳細な意味内容がわからないため出来ませんでした。ただ、はっきりしていることは、「神の力」は一つの単語だけでは把握しきれないスケールを持つということです。「神の力」のスケールについて「膨大な大きさ」(υπερβαλλον μεγεθος)と言われています。さらに同じ個所でエネルギーという言葉も2回(ενεργεια, 2回目は関係代名詞ηνとして)、エネルギーを行使するという動詞も1回使われています(ενεργεω)。

そのような想像を絶するエネルギーと力を持つ者を考えると、それは万物を造られた神以外にはありえなくなります。パウロは、神がそれらを用いてイエス様の復活と昇天を実現したと言います。パウロは、復活と昇天をまさに物理学的な現象の延長上に捉えていると言えます。ちちんぷいぷいのおまじないの世界の出来事なんかではないのです。

エフェソ1章19-20節でもう一つポイントとなることがあります。それは、イエス様に起こったエネルギーと力の行使が、彼を救い主と信じる者たちにも起こるということです。つまり、信仰者にも、イエス様に起きた復活と昇天が起こるというのです。

この神の力は、将来の復活の日に行使されるだけではありません。今この世の人生の段階でも、信仰者の後ろ盾になって、襲い掛かる悪い力に負けないように後方支援してくれています。エフェソ1章21節から23節を見ると、神の右に座したイエス様はあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に立ち、それらを足蹴にしています。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実にある国の権力だけでなく、霊的な力も含みます。その力は、人間が神との結びつきを回復するのを邪魔し、命と人生についても天の御国は持てないようにしようとします。

それらの力は今天の父なるみ神の右に座しているイエス様に対しては何もなしえませんが、天の下にいる私たちには攻撃を仕掛けてきます。しかし、キリスト信仰者は何も恐れることはありません。エフェソのこの個所で言われるように、信仰者はイエス様を頭に戴く体を構成しています。洗礼でこの体に結ばれ、御言葉と聖餐によって結びつきを保ち強めています。ただ、頭は天の父なるみ神のところにあり、体はその下のこの世にあります。だから体は攻撃を受けます。しかし、忘れてはならないのは、私たちの頭は既に復活と昇天を遂げた部分です。体の部分である私たちはその頭と結びついているので、将来の復活の日にやっと頭と同じ天上のレベルになります。パウロは体のことを「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」と言います。わかりやすく言えば、「私たちに欠けているものは何もないという位に私たちを満たして下さる方、つまりイエス様の力が隅々まで行き渡っている」体です。私たちはイエス様に結びついている限り、大きな人生を生きる上で何の心配もなく全く大丈夫なのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


後注

 フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。