2019年3月18日月曜日

俺は二つの国の国民なのさ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年3月17日 四旬節第二主日 スオミ教会

エレミア書26章7-19節
フィリピの信徒への手紙3章17節-4章1節
ルカによる福音書18章31-43節

説教題 「俺は二つの国の国民なのさ」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の使徒書の日課の中にあるフィリピ3章20節の聖句は、キリスト教徒のお墓の墓碑銘としてよく見かけるものです。新共同訳では「しかし、わたしたちの本国は天にあります」ですが、文語訳では「されど、我らの国籍は天に在り」です。これを見たことのある人は、ああ、この世を去ったら天国に行くことを言っているんだな、と思うでしょう。しかし、ここは少し注意が必要です。日本ではお寺や神社に行く人でも、誰かが亡くなると「あの人は今天国から私たちを見守ってくれている」などという言い方をよくします。キリスト教も天国、天国と言っているから、人間死んだらみんな同じところに行くというようなイメージがわいてくるかもしれません。ところが、キリスト教の場合は「復活」ということがあるため、少し事情が複雑です。復活と言うのは、かつて天地を創造した神が将来いつか今ある天地を新しく創造し直す時が来て、その時、死者を復活させるというものです。その時、今ある天と地がなくなって新しい天と地に取って代わられるという大変動が起き、そこで唯一なくならないものとして神の国が現れる。イエス・キリストが再臨して、誰が神の国に迎え入れられて誰が入れられないかの審判を下す。そういう最初の天地創造にも劣らない壮大な時です。

それなので、聖書の観点に立てば、人間は死んだらすぐ天国に行くというのはよほどの事情がない限りありえず、大方は「復活の日」までは天地創造の神のみぞ知る場所にて静かに眠っているということになります。それで、このキリスト信仰に特有な「復活」というものを踏まえてみると、「私たちの本国は天にあります」とか「我らの国籍は天に在り」というのは、「あなた先に天国で待っていて下さいね、私も後で行きますから」という意味ではなくなります。そうではなくて、「眠りから目覚めさせられるその日またお会いしましょう。それまでは安らかにお眠り下さい」という、そういう「復活の日の再会の希望」を言い表すものになります。

少し脇道に外れますが、「本国が天にある」と言うのと「国籍が天にある」と言うのは何か違いがあるでしょうか?「本国」と言えば帰属先です。「国籍」と言えば帰属先に伴う資格です。「本国」に属しているからそれに伴う「国籍」があるのだし、また「国籍」があるということは「本国」があるということなので、同じコインの表裏のようなものでしょう。他の国の聖書の訳も分かれています。スウェーデン語訳の聖書では「故国」hemlandと言って帰属先路線です。ドイツ語はルター訳ではBürgerrechteなんて言っていて辞書では「公民権」ですが、ルターの時代ならどこかの自治都市の「市民権」でしょうか。いずれにしても資格路線です。ただ、ドイツ語もEinheitsübersetsung訳を見るとHeimat「故郷」でしょうか、帰属先路線です。英語の訳はcitizenshipで、普通「国籍」、「市民権」と訳されて簡単そうな英単語ですが、「市民の身分」などという意味もあり、本当は日本人には厄介な単語です。しかし、いずれにしても資格路線です。フィンランド語訳を見ると「天の国民/市民」taivaan kansalaisiaとなどと言っていて、これは資格路線と言えるでしょう。

そこで、原文のギリシャ語はどうかと言うと、ポリテウマπολιτευμαという何か共同体を意味する言葉です。帰属先路線です。定冠詞τοがついているので、「帰属先の決定版」ということになります。まさに「本国」です。キリスト信仰者の本国は創造主の神がおられる天にあるというのです。そして、それは先ほども申しましたように、今は私たちの目の届かないところにあるが、復活の日に目の前に現れる国です。「天にある」と言う動詞の「ある」υπαρχειも現在形で、これは普遍的な真理を表しています。つまり、キリスト信仰者はその本国を将来の復活の日だけではなく、今この世を生きている段階でも、いつどこにいても持っているということです。これは一体どういうことでしょうか?

普通は日本とかフィンランドとか、国籍を有している国が「本国」ということになります(二重国籍の人は両方が本国と言うでしょうか?どっちかがより本国に感じられると言うでしょうか?)。そういう地上の本国を持って生きることに加えて天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方でしょうか?フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライターにP.シモヨキという人がいますが、彼の曲の中に「俺は二つの国の国民なのさ」Kahden maan kansalainenという歌があります。「二つの国」というのは、まさしく地上の本国と天の本国ということです。その歌の歌詞をみたら、今の問いの答えになるのではと思いました。それで、それを紹介して本日の説教を終わりにすることも可能なのですが、本日の福音書の個所がまた、解き明かしをするとシモヨキの歌が一層味わいのあるものになると思われたので、やっぱり解き明かしをします。歌は礼拝後のコーヒータイムでユーチューブで皆さんにお聞かせしますのでお楽しみに。

2.旧約聖書のシンボル的な預言の具体化とその意味

本日の福音書の箇所ですが、二つの異なる出来事が記されています。最初は、イエス様が自分にこれから起きる受難と復活は旧約聖書の預言の実現であると言ったのですが、それを弟子たちが全く理解できなかったという出来事。その次は、イエス様が盲人の目を見えるようにしたという奇跡の出来事です。最初にイエス様が自分の受難と復活を預言の実現と言ったことを見てみます。天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方かという問いを忘れないようにしましょう。

 ルカ18章31節でイエス様は、今行こうとしているエルサレムにて、預言書に記されたこと全てが「人の子」に実現すると言います(後注)。実現することとして何があるかと言うと、まず「人の子」が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人に引き渡されて侮辱され辱めを受けて唾を吐きかけられて、むち打ちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。

翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことを理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難、十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからでして、起きた出来事をもって予告されたことを事後的に確認できるからです。しかし、弟子はまだ十字架と復活が起きていない段階にいますから、確認する術がありません。

それならば、弟子たちには旧約聖書に記された預言者たちの預言があるではないか?イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っていれば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、というふうに理解できるのではないか、弟子たちは少し勉強不足ではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純ではありませんでした。旧約聖書に記されているとは言っても、どこに「人の子」が異教徒の手に引き渡されるなどと書いてあったか?どこに「人の子」が侮辱され鞭うちの刑を受けて殺されると書いてあったか?どこに「人の子」が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言がこのような仕方で実現するなどと言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。

しかし、これらの出来事は実は全て旧約聖書の中に、あまり具体的には見えなくとも、しっかり記されていたのです。イエス様は、そういうシンボル的な言い方で預言されていることが、特定の時代のなかで具体的な形をとって実現することを言っているのです。イエス様自身は、シンボル的な言い方の預言がどう具体的に実現するか前もってわかっていたので何も問題ありません。しかし、弟子たちの方はまだ具体的な形をとって実現することを見聞きも体験もしていません。それでイエス様が予告されたこととシンボル的な預言とがどう結びつくのか、まだわかりません。

それでは、預言されていることと実現したこととの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書7章13節に登場する謎めいた者です。今あるこの世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて神の国が現れる。その時、神から王権を受けて、この神の国に君臨するのがこの「人の子」です。こうして「人の子」というのは、イエス様の時代には、この世の終わりに到来する神の国の統治者という理解がされていました。加えて「人の子」は、神から王権を受ける前の段階で、迫害を受けるという理解も持たれていました。(そのことは、マタイ16章13-14節のイエス様と弟子たちのやり取りの背景にダニエル書7章25節があることを考えるとわかります。ここではこれ以上深入りしません。)

さらに「人の子」とは別に、イザヤ書53章に「神の僕」という者が登場します。人間が罪のゆえに神から受けるべき罰を身代わりとなって受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の預言が全て実現すると言った時、それは、ダニエル7章の「人の子」が受ける迫害やイザヤ53章で言われる「神の僕」の犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、そう明らかにしたのです。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、そんなこと言われても、あれっ、聖書のどこに書いてあったっけ?となってしまったのです。

次に、三日後に死から復活するということについて見てみましょう。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書26章19節、エゼキエル書37章1-10節、ダニエル書12章2-3節に預言されています。そこで、復活が死の三日後に起きるという、三日目の復活という出来事については、ホセア6章2節(「三日目に立ち上がらせてくださる。」)とヨナ2章が鍵になります。ただ、ヨナ書の場合は、預言者ヨナが大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事についてです。それで、未来を言い表す預言には見えません。しかし、この個所は実はユダヤ人にとって、神の力で三日後に死の世界から復活するというシンボル的な出来事になるのです。マタイ12章でイエス様自身、ヨナの出来事を過去の出来事としてではなく、自分の復活についてのシンボル的な預言として捉えています(38-41節、16章4節)。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはや単なるシンボルではなくなって実際の出来事になったのです。

しかしながら、預言はどれもシンボル的に記されていて、いろんな書物に散らばっています。そのため、それらはこういう具体的な仕方で繋がりを持ってこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、いくらそう言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解は不可能でした。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全てが見事に繋がって、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、文字通り預言の実現になったのです。弟子たちは、文字通り事後的に全てのことを理解できたのです。

ところで、弟子たちが事後的に理解できたというのは、旧約聖書の預言の一つ一つが実際に起きた出来事の各部分にしっかり結びついていることを確認できただけにとどまりませんでした。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのかもわかったのです。実はそちらの方が大事なことでした。このことは、天の本国を持ってこの世を生きるとはどういう生き方かを知る上でも大事です。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味したのでしょうか?

それは、天地創造の神の人間救済計画が実現したことを意味しました。どうして人間は神に救われなければならなかったのか?それは、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことがもとで、人間が神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったからでした。造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持てて造り主である自分のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに基づいてひとり子イエス様をこの世に送り、彼を用いて計画を実行に移しました。神は、イエス様を用いてどのように人間救済計画を実行したのでしょうか?

それは、人間が自分の持っている罪のゆえに受けなければならない神罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、彼の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を私たち人間のために開かれました。人間は、これらのこと全ては自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との結びつきが回復し、この世の人生の段階で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもいつも神の見守りと導きを受けて歩みます。これが天の本国を持ってこの世を生きるということです。逆境があっても天の本国を持っていることは微動だにしません。このように天の本国を持って生きた人は、この世を去ってひと眠りした後の復活の日に天の本国に迎え入れられます。イザヤ書35章風に言えば、天使たちの歓呼の声をもって迎え入れられます!(そして、そこは懐かしい人との復活の再会が待っているところです!)

そういうわけで、この私がこの世を去ると私の日本国籍は持ち主を失って消滅しますが、天の本国の国籍は持ち主を失わないのでそのままずっと残ることになるというわけです。

3.信仰があなたを救われた状態にしている

 以上、旧約聖書にシンボル的に預言されたことが全て、イエス様を通して具体的に実現したということ、そして預言の実現は天の父なるみ神が主導した人間救済計画の実行であったことを見ました。

本日の福音書の個所のもう一つの出来事は、イエス様が盲人の目が見えるようにしたという奇跡の出来事です。この個所を読む人は大抵、おやっと思わされることがあります。それは、イエス様が「お前の信仰がお前を救った」と言った時、それを男の人の目が見えるようになった時に言ったのではなく、見えるようになる前に言ったことです。これは少し変な感じがします。治ってからそう言った方が意味が通じるのではないかと思われるからです。実はイエス様は、同じ言葉をマタイ9章22節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?

一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様の方では癒しは必ず起きるとわかっているので、それが実現する前に実現したと先回りして言った、と考えることが出来ます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ17章19節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言いました。さらに、ルカ7章50節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースがありますが、2つは癒しの奇跡に関係して健康回復の前に言われたケース、1つは癒しの奇跡に関係しているが健康回復の後に言われたケース、最後の1つは癒しの奇跡と無関係に言われたケースということになります。結論から言いますと、どのケースをみても、ある共通したことがあって、それでこの言葉を健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。どういうことか見ていきましょう。

「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、今申し上げた4つのケース全てそうです。ギリシャ語で現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、以前にも申し上げましたが、過去の時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、存続しているという意味です。従って「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。

さて、ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか?まだ盲目だったのに、どうして救われていたなどと言えるのか?

その答えはこうです。救われるということが、病気が治るとか、そういう人間にとって身近な問題の解決を意味していないということです。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために断ち切れてしまっていた人間と神との結びつきが回復して、神との結びつきをもってこの世の人生を歩むようになること。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻れるようになること。これが救われるということです。これが出来るためにはどうすればよいかというと、これも先ほど申しました。神が2000年も前の昔に彼の地でなさったことは、実は今の時代を生きる自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることです。そうすることで人間は、神がひとり子を用いて整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができ、それを自分のものとすることができるのです。盲目の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との結びつきをもって生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのです。癒しを受けていなくても、救われていたのです。その後で癒しが起きますが、それは付け足しのようなものでした。

これと同じことがマタイ9章の12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ。神との結びつきを回復して生きる者となっていたのだ。」その後で、女性は健康になります。癒しは付け足しのようなものでした。

以上から、癒される前の状態、つまり病気の状態にいても人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり天地創造の神との結びつきを回復した者になって、この世の人生を歩むこととなり、この世を去った後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことがとても大事なのは、もし病気から癒されることそのものを救われることと言ってしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で、神との結びつきが回復しているとか、病気の人は病気だという理由で神との結びつきがない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を背負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪を赦されて神との結びつきが回復して、同じくらいに神との結びつきをもってこの世の人生を歩み、この世を去る時は、同じくらいに神のもとに永遠に戻れるのです。

逆に健康だからといって、また癒しがあったからといって、それが神との結びつきの回復の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この人に「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。その期間は病気の時と健康回復の時の双方を含みますが、イエス様を救い主と信じた時点から以後は病気の時も健康回復の時も含めてずっと救われた状態にいたのです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられませんでした。健康な人でも、神から救いを受けて十字架の主のもとに戻る者が救われるということなのです。

ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので健康な人だったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、女性はイエス様を救い主と信じた日から現時点まで、救われた状態にあり、そのために全身全霊が感謝で一杯になり、神の意志に沿うような生き方をしようという心になりました。

神の意志に沿うような生き方をしようとしても、至らないところはいろいろ出てきます。さすがに行為で神の意志に反することはしないで済んでも、心で思ったり、それが口に出てしまったりします。もちろん、そのためにイエス様の十字架が立てられたので、それが私たちの心の中で立てられている限り、神との結びつきは失われていません。このように、この世での生き方はいつも不完全さを免れません。しかし、パウロが本日のフィリピ3章20-21節で述べているように、この世の人生の段階で天に本国を持つようになった者は、イエス様が再臨される日にこの不完全な有り様を栄光に満ちた神の有り様に倣う者へと変えられます。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、天に本国を持つ者のこの世での生き方は、不完全であることを悲しみもするが、復活の日に完全な者にしてあげるという神自らの約束に安心して、そこに向かって歩み続けるということになります。まさに「されど、我らの国籍は天に在り」です!

それでは、最後にシモヨキの「俺は二つの国の国民なのさ」の歌詞を紹介したく思います。訳は神学的な意味を明らかにしなければならないので少し解説的になることをご了承ください。

Kahden maan kansalainen
天高くある御国の壮大さに比べりゃ
足元の国のちっぽけさと言ったらない
この二つの国は俺の人生にいつも連れ添ってきた

俺の周りにあるのは、ちっぽけな国の方
この世にいる限り、それは俺の友だちさ
でも、それは、俺がこの世から永遠の世に向かって足を踏み出すまでのことさ

俺の足はこの世では土にまみれているが
俺の目は天の御国を見据えている

この世で俺は、風に薫りがあることを知った
海辺で打ち寄せる波に耳を傾けた
雪が降る日にはそれが白く舞うのを見ていた

この世で俺は、時が早く過ぎ去ることに気づいた
すると影が忍び寄り次第に覆うようになった
でも、俺は恐れない。待ち焦がれているものは夢で終わらないとわかっているから。

俺の足はこの世では土にまみれているが
俺の目は天の御国を見据えている
自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ
俺は二つの国の国民なのさ

地上の国で俺は仕事に精を出す 時には笑い、時には泣きもしながら
荒れ地を切り拓いて土を耕し  
福音が生み出す平和の種を撒く 不和や争いがあるところに、戦乱の時にも撒くのさ

一度土に鍬を入れて始めれば
植え育てたものが収穫される日は必ず来る
その日俺は自分に言うだろう。「ああ、やっと自分の家に帰り着いたんだ。」

俺の足はこの世では土にまみれているが
俺の目は天の御国を見据えている
自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ
俺は二つの国の国民なのさ


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注(ギリシャ語が分かる人にです)
 ルカ18章31節の「人の子」τωυιωτουανθρωπου(単数与格)は、「実現する」τελεσθησεταιにかかると考えればdativus commodi/incommodi、「記された」γεγραμμεναにかかると考えればdativus limitationisということになると思います。



2019年3月4日月曜日

山の上での主の変容の謎に迫る (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年3月3日 変容主日 スオミ教会

申命記34章1-12節
コリントの信徒への第二の手紙4章1-6節
ルカによる福音書9章28-36節

説教題 「山の上での主の変容の謎に迫る」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

本日はキリスト教会のカレンダーでは、1月に始まった顕現節が終わって、イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたルカ9章の他に、マルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

少し教会史の話をしますと、かつてキリスト教会ではイースターの前の40日間は断食をするという伝統がありました。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるかのかは調べていないのでわかりません。ことの始まりですが、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだったということが重く受け止められた、それで特にイースターの前は彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間に来る6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がり、イースターの前7週目の水曜日となりました。今度の水曜日です。それで本日は断食前の最後の主日、次主日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」は唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えて、イエス様の受難を身近に感じるようにします。

話が少し脇道にそれますが、この断食の期間は普通、「四旬節」とか「受難節」とか呼ばれます。英語では「レント」です。面白いことにフィンランドやスウェーデンでは今でも文字通り「断食の期間」という言葉を使います。もちろん、両国ともルター派教会が主流の国なので、何か修行や業を積んで神に目をかけてもらうとか救いを頂くというような考えは全くありません。ルター派の基本は、人間の救いとはイエス様を救い主と信じる信仰にのみ基づくというものだからです。カトリック時代の呼び方が修正されずにそのまま今でも続いているということです。それでも、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。例えば牧師の中には、この期間は嗜好物を遠ざけるとか、好きなテレビ番組を見ないようにするとか、何か当たり前の日常から少し自分を切り離すようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。

話が脇道に逸れたついでに、フィンランドやスウェーデンでは、「断食の期間」に入る前1、2カ月位前からでしょうか、ラスキアイスプッラ/セムラと呼ばれる菓子パンが全国どこででも、パン屋でもスーパーでも喫茶店でも売られます。ちょっと鏡餅みたいな形をした焼きパンの間にジャムとこってりした生クリームをたっぷりサンドイッチした伝統的な菓子パンです。当スオミ教会の料理クラブでも作ったことがあるそうですが、これは「断食の期間」の前に少し贅沢に美味しいものを頂いて、あとは厳粛に過ごそうという趣旨のものだそうです。近年フィンランドやスウェーデンは教会離れ・聖書離れが急ピッチで進むご時世ですが、それでも「断食の期間」が始まると、この菓子パンは店頭からパタッと姿を消します。

 四旬節の元にある断食の伝統の話から少し脱線してしまいました。早速、本日の御言葉の解き明かしに入りましょう。このイエス様の変容の出来事は幻想的であり劇的でもあります。出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われます。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

さて、ヘルモン山の上で何が起こったでしょうか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れて、イエス様と話し合う。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。イエスは私が選んだ、私の愛する子である、彼の言うことを聞け、そう神は言います。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられました。周りの様子は、頂上に着いた時と同じに戻りました。

この個所を読まれて、皆さんはどう思われたでしょうか?そんなに難しいことは書いていない、書かれてあることは具体的ですぐ理解できると思われたのではないでしょうか?聖書にはこういう出来事が書かれているんだなとわかって、また一つ知識が増えました。でも、それで書かれていることが分かったことになるでしょうか?もちろん、いつ、どこで、だれが、なにを、どのようにという質問に答えられる位はわかります。しかし、この話は一体なんなのかということはまだわからないのではないでしょうか?モーセとエリアが出てきたのは何なのか?ペトロが言った仮小屋とは何のことか?なぜ三人に仮小屋が必要と考えたのか?さらに、雲が出てきたことや、神がイエスの言うことを聞けと言ったことは何なのか?こうしたことがわからないと、ただ書かれた字面を追うだけで終わってしまいます。

そういうわけで、これからこの謎めいた出来事を本日の聖句の解き明かしを通してわかるようにしていきたいと思います。

2.モーセとエリアの出現

最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみましょう。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?モーセとエリアの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかということについて聖書が教えていることをおさらいします。聖書の観点では、人間はこの世を去ると、神の国に迎え入れられるかどうかの決定を受けます。ただし、その決定がなされるのは、イエス様が再臨してこの世が終わりを告げる時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地が新しい天と地にとって替わられるということです。神の国に迎え入れられるかどうかの決定は既に死んでいる者たちにも及ぶので、その時には死者の復活ということが起きます。そのようにして、迎え入れられるかどうかの決定がなされるのです。そうなると、先にこの世を去った人というのは、ルターが教えるように、復活の日が来るまで神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っています(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。

そうかと思えば聖書には、将来の復活の日を待たずして既に神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターも、そのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセは、その例と考えることができます。というのは、エリアは、列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。本日の旧約の日課である申命記34章に死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(6節)。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。これはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しなければなりません。

4.不思議な雲

次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を立てましょう、と言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬことになると言われます(18-23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだっと言えます。

4.イエス様の変容

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。

 「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。

そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったというのが正確な意味です(後注)。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいい、と言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められました。なぜでしょうか?

それは、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すことになって神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神から切り離された状態で生きることとなり、この世を去った後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間が罪を除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす十戒の掟があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たすものというより、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21-22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27-28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、それができない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が背負うべき罪の罰を全部彼に背負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この犠牲のおかげで、人間が神罰や罪の束縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありませんでした。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が準備した「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。

このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、しっかり携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになれる。全身が輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、「救い」を受け取った段階で心の中が輝き出す、ということを使徒パウロは本日の使徒書の日課の中で言っています(第二コリント4章6節)。それで、この世を去る時が来ても、神に自分を委ねても大丈夫だ、神の方でもしっかり自分を受け取ってくれるのだ、とわかって委ねることができます。そのような確信に満ちた安心を私たちに与えて下さるためにイエス様は受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかかられたのです。

5.弟子たちの誤解と神の声

ペトロが建てると言った「仮小屋」と雲の中から轟いた神の声についてもみてみましょう。「仮小屋」とは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言い、それは旧約聖書に出てくる神に礼拝を捧げる「幕屋」と同じ言葉です。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことでした。しかしながら、ペトロの提案には問題がありました。というのは、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。確かにモーセは、十戒をはじめ神の掟を神から人間に受け渡した預言者の筆頭格です。エリアも、迫害に屈せず生きざまを通して神の意志を公に表し続けた偉大な預言者です。しかし、イエス様は神の子そのものであり、神の意思である十戒そのものが完全に実現した状態の方です。また、預言者たちの預言したことが成就した方です。それなので人間と同等に扱ってはいけません。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天地創造の神の一声で一蹴されてしまいました。「これは私が選んだ、私の子である。彼の言うことを聞け」と。

ペトロはどうしてイエス様をモーセとエリアと同格に扱ってしまったのでしょうか?一つ考えられるのは、三人がみな栄光に包まれていたことがあります。31節で、モーセとエリアが「栄光に包まれて現れ」と言われ、32節に「栄光に輝くイエス」と言われています。しかし、これもギリシャ語原文をよく注意してみると、モーセとエリアの場合は、栄光は自分たちから輝き出ているのではなく神からの栄光で輝かせてもらっていると理解できる表現です。イエス様の場合は、輝きが「彼自身の栄光」によるものとはっきり言う表現です。つまり神と同じように自ら輝く栄光を持っているということです(後注)。

6.おわりに

弟子たちは、イエス様の変容の出来事を誰にも話しませんでした。マタイとマルコの記述によれば、イエス様が十字架と復活の出来事が起きるまで話してはならないと命じたと言われています。私が思うに、イエス様がかん口令を敷こうが敷くまいが、この出来事について弟子たちの驚きと混乱はかなりのものだったので整理がつくまでは話すことが難しかったのではないかと思われます。どうしてかと言うと、この出来事のおかげで、イエス様が何者であるか全くわからなくなってしまったからです。イエス様に付き従った人々は、直近の弟子たちも含めて、イエス様のことをユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放して、全世界が天地創造の神に立ち返ってエルサレムの神殿にお参りに来るようにしてくれる、そういう民族解放の英雄と考えていました。どうしてそのように考えたかと言うと、旧約聖書の預言を自民族の夢や願望を通して解釈したからです。

ところが、ヘルモン山に登る前にイエス様は弟子たちに突然、自分の受難と復活について預言し、弟子たちはなんのことか理解できず混乱します(マタイ16章21-23節)。山の上でもモーセとエリアはそのことについて話をしました(ルカ9章31節)。さらに、イエス様のことをモーセとエリアと同格な方と思った瞬間、それは違うと一蹴されてしまいました。これは一体何なのだ?一体これから何が起きるのか?イエス様が殺されてしまったら、民族解放と諸国民のへりくだりという世紀のプロジェクトはどうなってしまうのか?死から復活するなどと言われるが、それがプロジェクトと何の関係があるのか?ところが、天の父なるみ神が計画していた「解放」とは実は、人間の罪と死からの解放であり、それをひとり子を用いて実現したのでした。このことがわかるのは十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。

さて、当時出来事の只中にあった弟子たちとは異なり、私たちはこれらのことを事後的に知っています。兄弟姉妹の皆さん、これから四旬節を迎える私たちは、イエス様の受難と復活をもう分り切ったことと教会の年中行事のように受け止めるのはやめましょう。今一度それを身近なものにしましょう。それを身近にすることで自分の命の立ち位置を確認できます。つまり、今の自分の命は、神のひとり子の犠牲の上に成り立っているとわかって、それは尊いもの、大事にしなければならないものとわかります。愚かなこと軽はずみなことは出来なくなります。では、どのようにしてイエス様の受難と復活を身近なものにするか?断食をするか?ここで注意しなければならないことは、私たちには神から与えられた立場やそれに伴う課題があるということです。それらをないがしろにするような「身近さ」の追い求めはいけません。断食をしても、日常の立場と課題をないがしろにしなければ良いのですが、それは実際には難しいのではないでしょうか?日常の立場や課題に取り組む時、今ある命は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていることを普段以上に覚えて取り組めば、どこを目指して行けばよいかわかってきます。その時、立場や課題は神から与えられたものということもはっきりします。このような循環に入れる者はイエス様の受難と復活が身近になったと言うことが出来ます。

兄弟姉妹の皆さん、今の命がイエス様の犠牲の上に成り立っていることをよく覚えて今年の四旬節を迎えましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

後注(ギリシャ語が分かる人にです)
ルカ9章34節は、εντωεισελθειναυτουςειςτηννεφελενと言っているので、明らかに「雲が彼らを包む」ではなく、「彼らが雲の中に入る」です。
モーセとエリアの栄光については、οφθεντες εν δοξηと言い(31節)、イエス様の栄光については、την δοξαν αυτουと言っています(32節)。εν δοξηですが、イエス様に用いられるとεν τη δοξη αυτουなどとαυτουが付きます(マタイ25章31節)。
説教準備の終わりの段階になって、33節のδιαχωριζεσθαιがなぜ現在形でアオリストでないのかが気になりだしたのですが、時間切れでした。また次回に考えることにします。