2017年2月20日月曜日

『汝の敵を愛せよ』という教えから見えてくるもの (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年2月19日(顕現節第7主日)

スオミ・キリスト教会

レビ記19章17-18節
コリントの信徒への第一の手紙3章10-23節
マタイによる福音書5章38-48節

説教題 「『汝の敵を愛せよ』という教えから見えてくるもの」



 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

マタイ福音書の5章から7章にかけてのイエス様の教えは、彼が山の上で群衆の前で宣べたことから、「山上の説教」と呼ばれます。その中でイエス様は、十戒をはじめとするモーセ律法の正しい理解の仕方について教えます。十戒や律法を正しく理解するというのは、それらを与えた方、つまり天地創造の神の意思を正しく理解することになります。かつてイスラエルの民は全人類を代表して十戒や律法を与えられたにもかかわらず、神の意思を正しく理解していなかったことは明らかでした。それでイエス様は、「あなたたちは、神が次のように命じたと言われるのを聞いてきた。私はそれらについて次のように教えよう」と前置きをして、一つ一つ正しい理解を教えていきます。それができたのは、もちろんイエス様が神のひとり子だからで、父である神の意思を正確に知る立場にあったからです。

38節と39節で、イエス様は、律法では「目には目を、歯には歯を」と言われているが、悪人には手向かってはならない、と教えます。これは、一体どういうことでしょうか?悪人が何か悪さをしようとして、それをそのままにせよとは?また、右の頬を打たれたら左を差し出せ、とか、下着を取ろうとする者には上着を取らせよ、とか。イエス様は、悪がしたい放題するにまかせよ、悪をそのままのさばらせておけ、と言っているのでしょうか?

さらに44節を見ると、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。イエス様は、私たちに何か崇高な道徳を実践しろ、と命じているようにみえます。45節を見ると、敵を愛し、迫害する者のために祈る理由が言われます。それは、私たちが「天の父の子となるためである」とか、父なるみ神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」などと言われます。こう聞くと、なるほど神は悪人にも気前よくしてくれるのか、悪さをしようが善をしようが神は恵んでくれるのなら、別に悪をやめなくてもいいわけだ、という理解がされる危険があります。さて、イエス様の意図が、悪はしたい放題で構わないと主張するものではないことは誰でもわかります。それならイエス様は何を教えようとしておられるのか?本日は、この問いに対する答えを見つけて参りましょう。

2.

 まず初めに、38節の「目には目を、歯には歯を」という掟について。これは、出エジプト記21章22-25節やレビ記24章17-20節に出てきますが、申命記19章16-21節を見ると、どうしてこのような掟が必要なのか理由が記されています。それによると、裁判沙汰で一方が他方を陥れようとして嘘の訴えをしたとする。訴えが嘘であると判明したら、嘘をついた側が嘘をつくことで相手を陥れようとしたのと同じ損害を嘘つきに味あわせなければならない。つまり、目には目を、ということです。そして20節で言われます。「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。」つまり、「目には目を、歯には歯を」というのは、こういうことをしたらこういう報いが来るぞ、他人の目を失明させた者は自分の目を失明させねばならなくなるぞ、ということで、同じ悪が自分にも跳ね返ってくるとはっきりさせることを通して悪を控えさせるという、人間が悪に手を出さないようにする抑止力だったのです。

しかしながら、もともとは悪に対する抑止力の意図があったとしても、この掟は反対の結果をもたらしてきたことも事実です。損害を被ったら仕返しをしてもよい、あるいは、仕返しをしなければならない、というふうに理解されるからです。「これは当然の報いだ」と言って報復が正当化されます。こういう考え方はどこの世界にもあります。

掟が仕返しを正当化するものとして理解されたがために、イエス様は、それは本当の意図ではないとして、それで、悪を成す者に対して仕返しをしてはならないと教えます。報復を正当なものとしません。悪を成す者に仕返ししないとは、それじゃ、悪がなされるままにほおっておけ、ということなのかという疑問が起きると思います。ところが、イエス様の教えをよく見るとそういうことでないことに気づかされます。右の頬を打たれたら、左を出せ、と言います。下着を取られたら、上着を差し出せ、1ミリオン(約1,5キロ)歩かされたら、させた者と一緒にさらに1ミリオン歩け、と言います。ただの打たれっぱなし、取られっぱなし、歩かされっぱなしの泣き寝入りとは違います。悪を被った方はとても能動的です。受動的ではありません。能動的と言っても、打たれたら打ち返す、取られたら奪い取るというような仕返しでもありません。お返しはするが、そのお返しは普通考えられるような仕返しとは違います。

そこで、右の頬を打った側が左を出されたらどうするか考えてみましょう。下着を取った者が上着を差し出されたらどうするでしょうか?せっかく相手をひれ伏してやったと得意気になったのに、そんなことされたら、今自分がしたことが全く取るに足らないものであったとこれ見よがしに見せつけられた思いがするのではないでしょうか?そうなると、ここで恥じ入ってそれ以上の悪に進むことを躊躇するか、それとも、逆上してさらなる悪に踏み込むか、どちらかだと思います。

このように見ていくと、ここでのイエス様の教えの趣旨というのは次のように言うことができます。まず、悪を被ってしまった者は悪と同じ土俵に立たず悪と同じ手口を用いてはならないということ。そして、悪を行った者を、大げさに言えば人生の運命の分岐点に立たせるような、そういうお返しをしなさいということ、この二つを教えていることが見えてきます。

さらに42節を見ると、イエス様は「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と言われます。ここで言う「求める者」と「借りようとする者」は、38節からの文脈に沿ってみれば、悪を成す者です。困っている人一般ではありません。つまり、悪を成す者が困って求めてきたら与えなさい、借りようとしたら、背を向けないで貸してあげなさい、ということです。悪を成す者が困ったら、いい気味だ、自業自得だ、などと言うのではなく、助けてあげなさい、ということです。実は、使徒パウロがこのイエス様の教えを受け継いで教えているところがあります。「ローマへの信徒の手紙」12章17-21節です。少し、それを見てみましょう。

17-18節 だれに対しても悪に悪を返せず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

「だれに対しても悪に悪を返せず」というのは、先ほど述べたイエス様の教えの趣旨に合致します。「せめてあなたがたは」の意味ですが、まず、このパウロの手紙はキリスト信仰者に向けて書かれています。それで、キリスト信仰者というのは他の者たちが平和共存を損なおうとして何かしでかしてきても、決してそれを受けて立ってはいけない、挑発に乗ってはいけない、相手が何をしようがどう言おうがこちらとしては平和共存路線に訴えていきなさい、ということです。

19節 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」というのは、裁くのは神の仕事であって、起きた不正義に対しては神が報いと償いをする。それは最終的に最後の審判の日に実現する。だから、審判が起きる復活の日を信じるキリスト信仰者は不正義の報いと償いは神に任せて、以下のことに専念しなさいと言われます。

20節 あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。

善をもって悪に報いてあげた敵の頭の上に燃える炭火を積むというのは、一つには敵が自分の悪行を恥じ入る意味があります。もう一つは、敵が考えを改めない限り、ただただ最後の審判で受ける裁きを自ら確定してしまうことを意味します。

21節 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

悪に対抗するのに悪をもってすると、結局は悪の力に頼ったことになり、悪に屈したことになる。悪に本当に勝つためには善をもって悪に立ち向かうしかない。その時、敵は恥じ入って悔い改めるかもしれない。悔い改めない場合は、あとは神がその者を完璧に裁くことになる。どっちにしても、悪は打ち負かされる運命にあるのだから、善をもって悪に立ち向かうしか道はないのである。

以上、使徒パウロの教えを見てみましたが、悪に対して悪を返さない、善をもって悪に勝つ、などとは、一見崇高な道徳に見え、誰か立派な人がやればいいのだと思われるかもしれません。しかしながら、キリスト信仰には復活の信仰があるので、悪と不正義に対する報いと償いはどんなに遅くとも最終的には最後の審判と復活の日に起きるとみんな知っています。それでキリスト信仰者は、イエス様やパウロが教えていることはそんなにかけ離れたものではないと気づくことができるのです。逆に、復活とか最後の審判とか最終的な報いや償いなどない、全てはこの世止まりで、その先は何もないと言う人から見たら、善をもって悪に立ち向かうなどというのは崇高な道徳で何か英雄的な人でないと無理ということになってしまうでしょう。

以上、「目には目を、歯には歯を」という掟の意図についてイエス様が教えたことを見てみました。それは、仕返しを正当化するものではないということ、じゃ、悪に対してどう振る舞えばよいかと言うと、悪と同じ手口を使わないで悪を一瞬たじろがせることをしなさいということでした。キリスト信仰者にはそういうことが出来る可能性があります。復活や最後の審判が起こると信じているからです。それがなければ、仕返しもせずに善をもって悪に報いるなどとは本当に道徳的な英雄しか出来ないことになってしまいます。

3.

次に、43―44節のイエス様の教え、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」について見てみましょう。

「隣人を愛せよ」という掟は、先ほど読んで頂いた本日の旧約の日課レビ記17章18節にあります。一つ注意すべきことは、レビ記の文脈の中ではこの「隣人」というのはイスラエルの民に属する同胞を意味します。「敵を憎め」という掟はモーセ律法の中には見当たりません。どうして律法にない掟が律法にあるものと一緒に対になって教えられてきたのか?レビ記の文脈では隣人愛は同胞愛ですので、同胞に属さない者、敵国に属する者は愛の対象ではないという考え方がつきまとったことによると考えられます。

ところがイエス様は、「敵を愛せよ」と教えました。つまり、隣人愛を向ける相手がイスラエルの民の外にも及ぶということです。これで、隣人愛を向ける相手である隣人の概念が一つの民族集団の枠を超えて全人類に及ぶものになりました。しかしながら、概念を拡大したところで、現実には敵対して来たり迫害してくる者も出て来ます。そういう者に対してはイエス様は、「迫害する者のために祈りなさい」と命じられます。「ために」と訳されているギリシャ語の前置詞υπερは「利益になるように」という意味があります。迫害する者の利益になるように祈りなさい、とは一体どんな祈りなのでしょうか?

それがわかるために、イエス様が迫害する者の利益になるように祈ったことがありますので、それを見てみると良いと思います。ルカ23章34節です。十字架にかけられたイエス様が天の神に向かって「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたところです。自分を十字架にかけた者たちが神の厳罰を受けないようにと、まさに迫害する者の利益のために祈ったのです。同じような祈りは、ステファノが大胆に信仰を証しした後で石打ちの刑を受け、息を引き取る寸前に唱えました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)。悪と不正義に対する報いと償いは必ず復活と最後の審判の日に果たされるのに、なぜ、悪を吹っかける者が罰を受けないで済みますように、などと悪を被る側の方が祈らなければならないのか?イエス様もステファノも崇高な道徳を追求しすぎて、少しやりすぎたのでしょうか?

いいえ、そういうことではないのです。イエス様とステファノの祈りの意味がわかるために、あるキリスト信仰者が以前私に話してくれたことを振り返ってみたく思います。その方の高齢の親御さんが病気で入院して、原因不明の痛みが体中にあって苦しんでいました。医者もいろいろ調べてみたけれど原因がつかめず困っていました。見舞いに行った息子さんが、励ましの言葉が尽いてしまって、黙って見ているだけということに耐えきれなくなり、ついに意を決して「イエス様にお祈りしてあげます」と言って、ベッドの脇で少し声に出してお祈りを始めました。実はその親御さんというのは、元気な頃から、神や仏などに頼らない、宗教などは弱い人間がすがりつくものだという考えを持っていました。案の定、「やめろ、やめろ、そんなものは聞きたくない!」と叫び出してしまい、せっかくのお祈りは中断されてしまいました。息子さんが落胆したのは無理もありません。しかし、ちょうどその時、頭の中にある言葉が響き渡りました。それは、あのイエス様が十字架の上で述べた言葉でした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

その息子さんが願ったことは、イエス様が癒しを与えて親がイエス様と出会え、彼を救い主として受け入れられるようになることでした。あるいは、たとえ癒しが与えられなくとも、少なくともイエス様とは出会えて、痛みがあっても心に平安を持てることでした。もちろん、洗礼を受けるまでになればベストなのですが、たとえそこまで行かない場合でも、少なくとも、あのルカ23章40-43節に出て来る、改心した強盗のように最後の瞬間にイエス様を救い主と受け入れて、この世から次の世への移行を全てイエス様に任せられるようになることでした。それが拒否されてしまった時、息子さんに残されたのは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りだけでした。

この親のケースは、迫害はありませんが、それでもイエス様を拒否するという点では迫害者の場合と共通しています。そのような人たちでさえも、神が与えて下さる救いを受け取られるようになるというのが、まさに神が望まれていることなのです。

ここで、神が与えて下さる救いとは何かということを思い出さなければなりません。それは、人間が自分の造り主であり天地の造り主である神との結びつきを回復させてこの世の人生を歩むことができるようになるということです。そして、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようなるということです。この、神との結びつきの回復という救いはどのようにして起こったのか?それは、神がひとり子イエス様をこの世に送って、本来人間が受けるべき罪の罰を全部彼に請け負わせて十字架の上で死なせて、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことで始まりました。そして人間の方で、この、イエス様が命を捨ててまでして成し遂げた償いと贖いの業を聞いて、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しはその人に全くその通りになります。罪が赦されたのですから、神との結びつきが回復するのです。

神はこの、イエス様を用いて実現された「罪の赦しの救い」を全ての人間にどうぞと言って差し出してくれているのです。神がこの救いを善人にも悪人にも等しく与えたがっていることは、45節のイエス様の教えからも明らかです。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせると言うと、悪を働こうが善を行おうが神にとってはどうでもいいと言っているように聞こえます。しかし、そうではないのです。悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、彼らが神の差し出している救いを受け取ることができるようにするという意図があります。それで、善人だけでなく悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるのです。もし、太陽が善人にしか昇らず、雨が義人にしか降らないとしたら、悪人はすぐ滅びてしまいます。神が彼らにも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、彼らが一日も早く救いを受け取るようにと猶予の時間を与えているのです。もし悪人が、神は自分にも太陽を昇らせてくれるのだから、自分の悪を認めてくれているんだ、だから悪のし放題でいいんだ、と思ったら、それはとんでもない誤解で、神の善意を裏切ることになります。そのままで行けば、この世の段階で何か罰が下るか、そうでなくても最終的には最後の審判の日に罰を下されてしまいます。

神としては、悪人も自分との結びつきを回復してほしいというのが御心です。それなので、既に結びつきを回復した者は神の御心に従って、悪人や敵に対してどんな働きができるかを考えなければなりません。悪人だから敵だから滅びてしまえ、というのは神の意思に反することです。悪人や敵のために祈らなければなりません。自分を迫害する者のために祈れというのは、「神よ、迫害を終わらせて私を助けて下さい」という自分のための祈りではありません。そうではなくて、「神よ、あの迫害する者がイエス様を救い主と信じてあなたの用意された『罪の赦しの救い』を受け取ることができるようにして下さい」とまさに悪人や敵の利益のために祈ることです。言うまでもないことですが、悪人や敵がイエス様を信じて救いを受け入れることになったら、迫害もなくなります。悪人や敵が神との結びつきを回復できるように働きかけ、またそう祈ること、これがキリスト信仰者にとって敵を愛するということになります。

以上みてきたように、汝の敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ、という教えは、キリスト信仰にあっては、まさに「罪の赦しの救い」を受け取って既に神との結びつきを回復した者が、まだ受け取っていない、回復していない者たちに働きかけ、神に祈りを捧げて、その者たちも受け取れるようにする、そういう内容です。もし、「罪の赦しの救い」とか神との結びつきの回復ということと全く無関係に、敵を愛することや迫害する者のために祈ることが目指されるならば、それはもう、道徳的な英雄にやってもらうしかなくなるでしょう。

4.

 このように、キリスト信仰の観点に立ってみると、イエス様とステファノが行った迫害者のための祈りは、何か崇高な道徳を追求した、とか、やりすぎな祈りであったというのは当たりません。もちろん、そうは言っても、自分を迫害する者が本当にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け入れられますようにと祈ることは、やはり現実離れしているような感じを受けるかもしれません。

 ところが、二人の祈りは現実離れしているとか、崇高な道徳の飾り物ではなかったことを示す証拠があります。それは、パウロです。彼は、自分でも語っているように、ステファノの石打ち刑に加担していました。それくらいイエス・キリストを拒否していたのに、「罪の赦しの救い」を受け取って、その後は使徒として福音伝道に一生を捧げました。イエス様やステファノの祈りの結果、迫害者が救いを受け取ったという例はパウロ以外にもあったかどうかについては、聖書には記されていないのでわかりません。ひょっとしたら、迫害者の中から福音伝道者が現れたかもしれません。または、あの十字架の強盗のように息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白した人がいたかもしれません。もちろん、イエス様も救いも拒否し続けて、神との結びつきを回復しないままこの世を去ってしまったケースもあるでしょう。それぞれどれくらいいたのか、それは神のみぞ知る、ですので、これ以上詮索はしません。いずれにしても、兄弟姉妹の皆さん、私たちは「罪の赦しの救い」を受け取って神との結びつきを回復したキリスト信仰者ですので、まだ受け取っていない、回復していない人たちがそうできるように、働きかけと祈りを忘れないようにしましょう。
 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2017年2月6日月曜日

地の塩、世の光として生きよ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年2月5日(顕現節第五主日)

スオミ教会

イザヤ書58章1-10節
コリントの信徒への第一の手紙2章1-5節
マタイによる福音書5章13-16節

説教題 「地の塩、世の光として生きよ」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

当たり前のことですが、塩は有用かつ不可欠なものです。料理になくてはならないし、生ものの保存剤としても使えるし、消毒の役割も果たすし、また体には塩分が必要です。イエス様は、教えを受けに集まってきた群衆に「あなたたちは地の塩である」と言います。この言葉は、聖書のなかにこのように収録されているので、それを読んだり聞いたりする人に対しても、また今まさにこの礼拝に集う私たちにも向けられている言葉です。「地」というのは、天の反対、地上の意味です。そうすると、イエス様は、私たちが地上において塩のように有用かつ不可欠なものであると言っていることになりますが、果たして私たちはそのようなものでしょうか?

 イエス様はまた、私たちがこの世の光である、とも言われます。どんな光かというと、ちょうど山の上にある町が隠れることができないのと同じように隠すことの出来ない光、また燭台の上において家の中を照らす蝋燭のように人前で輝かざるを得ない光だと言うのです。そのように人々に見える光が私たちの光であると言うのですが、それでは何が私たちの光かというと、「立派な行い」がそれだと言うのです。それが周りの人たちに見える目的は何かと言うと、見た人たちが神様を崇めるようになるためであると言うのです。私たちは、神をまだ知らない人たちが神を崇めるようになる、そんな目に見える立派な行いをしているでしょうか?

以前、私はキリスト教系の病院に通ったことがあります。受付の横の壁には、その病院がキリスト教の精神で運営されているとか、待合室には聖句が書かれた額縁が飾ってありました。その病院に来て、病気を治してもらったり、命を助けてもらったりしたら、きっと神様を崇める人もでてくるかもしれません。キリスト信仰者の医師や看護婦や職員が地域医療のために貢献する、これこそ地の塩、世の光の良い例と皆思うでしょう。もちろん、医者や看護婦にならないで、別の仕方で社会のために貢献して地の塩、世の光になっている方も大勢いらっしゃるでしょう。

このように見ていくと、本日の福音書の箇所は、キリスト信仰者たる者は世の人々にとって有用かつ不可欠な存在となって、立派な行いをして、人々が神を信じるように励みなさい、そうしないと信仰者失格で味を失った塩のように捨てられて踏んづけられて終わってしまうぞ、と教えているように聞こえます。もちろん、世のため人のために尽くしている人を見ると、そういう人は輝いている印象を受けるでしょう。しかし、別にキリスト信仰者でなくとも、人助けの大切さは誰でもわかるし、立派な行いをしている人も大勢います。そうなると、キリスト信仰者はもっと頑張って立派な行いで他を抜きんでていなければならない、ということでしょうか?そうなると、世のため人のために尽くすことが出来ない、病気とか障害とか失業とか貧困等のために、したくとも出来ない人たちは、地の塩、世の光にはなれない、ということになるのでしょうか?キリスト信仰者の中にもそういう弱者は大勢います。

本説教では、キリスト信仰にとって「立派な行い」とはどんなものかを少し考えてみようと思います。それが明らかになれば、地の塩、世の光である、ということがどんなことかもわかってくると思います。結論を先に申し上げると、キリスト信仰者の「立派な行い」というのは、神の国/天の国というものを本人にとっても他人にとっても本当にあるものだと証するものだ、ということです。以下、そのことを見ていきましょう。

2.

 イエス様が地の塩と世の光について述べた時、「立派な行い」は世の光と結びつけて述べられています。それでまず、世の光とはどんな光なのかということを見ていきたいと思います。

世の光は、まず、山の上に建てられて隠れることのできない町のようであると言われます。これは、一見わかりにくいたとえですが、どういうことかと言うと、イエス様の時代、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸から20~30キロ程のところにヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの町は朝日や夕焼けの時は遠方からでも町全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、私たちが放つ世の光というのは、これらの都市のように自ら光を発するのではなく、光の本当の源から光を受けて輝くことができる光ということです。

 次に、私たちが放つ世の光とは、燭台に灯した蝋燭の明かりのように暗かった家の中を照らし出す光であるということ。家の中の事物は、蝋燭の光を受けてそれなりに輝くので目に見えるようになるわけです。つまり、もともとは他から光を譲り受けなければならなかった私たちが、いったん光を受けて輝きだすと、今度は他のものにも輝きを与えていく、そういう光が私たちであるというのです。

 第三に、私たちの光は、「立派な行い」と不可分に結びついているということです。あえて言えば、私たちの「立派な行い」そのものが私たちの光であるということです。イエス様は言われます。燭台の上に置いて家の中を照らし出す蝋燭のように、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなた方の立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」つまり、人々が目にする私たちの光とは、実に私たちの「立派な行い」なのです。イエス様はさらに、その「立派な行い」には、見る人をして神を崇めるようになる影響力があると教えられます。

 ここで要約しますと、私たちは世の光ですが、それは本源的な光から光を受けて輝くことができる光であるということです。そして、そうした私たちの光は、実は私たちの「立派な行い」であり、それを見た人たちが私たちと同じように神を崇めるようになるという潜在力を持っているということです。それはあたかも、暗かった家の中で何の輝きもなくたたずんでいた事物が蝋燭の光を受けて輝きを持つようになるのと同じだというのです。

 さて、このイエス様の教えを理解できる鍵は、「立派な行い」とは何かということにありますが、「立派な行い」とは、ちょっと捉えどころのない言葉です。ギリシャ語ではκαλα εργαと言いますが、同じ言葉が「テトスへの手紙」では「良い行い」などと訳されています(2章14節、3章8節、14節)。「行い」と訳されている単語εργαは「業」とも訳されます。ここではギリシャ語の言葉の正しい訳は何かということには深入りしないで、ここで問題になっている「行い」ないし「業」とはどんな特徴をもった行い、業なのかを明らかにしたいと思います。

 「立派な行い」はどんな特徴を持った行いかと言うと、それは「光を放つ」ということです。その光はと言えば、前にも申し上げましたように、本源的な光を受けて光ることの出来る光です。本源的な光とは、これは神の栄光の光です。神の国はこの光に満たされた国です。そのことは黙示録の終りの方でも述べられています。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(黙示録22章5節)。「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照ら」す(同21章23節)。

 本日の旧約の日課であるイザヤ書58章でも同じことが言われています。「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」(10節)。6節から8節までを見ると、悪による束縛を経ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折り、飢えた人にパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまなければ、「あなたの光は曙のように指し出で」る、と言われています。

 苦難や困難にある者、困窮した者、悪に囚われた者、そういう助けを必要とする人を助ける時に光が輝くということですが、それは神の国の栄光から来る光です。そういう「立派な行い」をする時に、神の国の栄光の光がその行いをする人に反射するのです。つまり、「立派な行い」というのは光ることを通して神の国が存在することを証するものなのです。

 助けを必要とする人を助けることが神の国の存在を証しした例として、イエス様の奇跡の業があります。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて公けに活動を開始した時、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と大々的に宣べ伝えました。実際にイエス様が行ったことは、まず、神の人間に対する思いと神の国について、神のひとり子という立場から人々に教えたことがあります。具体的には旧約聖書を正確かつ権威をもって教えました。それから、イエス様は無数とも言えるくらい奇跡の業を行いました。数多くの難病や不治の病を癒したり、悪霊を退治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たことを示したのです。それで「神の国は近づいた」と述べたのです。

 イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、その全貌は何かというと、黙示録の20章から21章にかけて描かれています。そこで神の国は、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もないところです。ここで注意しなければならないことは、神の国は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、そういう今の世が終わる時に唯一残るものとし現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章に、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されている通りです。神の国が結婚式の祝宴にたとえられるというのは、この世での信仰の戦いや人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国で涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っているのです。

 ところで、この神の国はまだ世の終わりなどとは無関係に、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々や、それを目のあたりにした人々は、将来この世が終わりを告げる時に現れる神の国とは、この世では奇跡であることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験することができました。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。

この問題を最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという解決策に打って出たのです。そこで人間の方が、「あの、2000年前の昔の彼の地で天地創造の神がひとり子を用いて人間のために罪の赦しを実現したのは、現代を生きる自分のためにも行われたのだ」とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の死がもたらした罪の赦しがその人に効力を持ちます。そして、その人は罪が赦されるので神の目に適う者となり、そのようにして神の国に迎え入れられる者に変えられます。そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならない、と思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。

3.

 以上のように、イエス様は奇跡の業を通して神の国の実在を証しただけではなく、実に十字架の業を成し遂げることで、私たち人間が神の国に迎え入れられるようにもして下さいました。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しを受け取って、神の国に迎え入れられる者に変えられます。神の国に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。そういうわけで、キリスト信仰者として生きるということは、奇跡と正義に満ちた神の国が実在することを、好むと好まざるとにかかわらず証するものにならざるを得ないのです。

それでは、キリスト信仰者はどのように神の国の実在を証していくのか?私たちもイエス様のように奇跡を起こさなければならないのか?神の国の栄光を現わすような「立派な行い」をしなければならないが、それは社会的に有用で不可欠なことをすることなのか?いろいろ疑問が起きます。ここで、答えの手がかりとして、使徒パウロが「ガラテアの信徒への手紙」5章で教えている、キリスト信仰者に育っていく聖霊の実ということを考えてみたいと思います。パウロはその実の内容として、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制をあげています(ガラテア5章22-23節)。このパウロの教えは実は、当スオミ教会の昨年度の年間主題聖句でした。先々週の主日礼拝の後のコーヒー・ティータイムの時に残られた教会員の方たちに1年間の歩みを、この主題聖句の観点から振り返ってもらう時を持ちました。ずっと以前から気にかけていた聖句だったとか、職場や家庭という実際の生活の場で聖霊の結ぶ実を意識したこと、意識したがゆえに至らない自分に気づかされたこと、それぞれにいろいろな思いをお話しいただきました。本日礼拝後の年次総会にて主題聖句は新しいものにとってかわるので少し名残惜しい気がします。

昨年、この聖霊の結ぶ実を年間主題聖句にすることを決めた際に私が強調したことは、以下のことでした。愛、喜び等々の徳性は、イエス様を救い主と信じた時点で一気に備わるものではなく、実なので育ち始めるもの、そして各自の性格、個性、置かれた環境に影響されて、それぞれの仕方で次第に育っていくものであることがまず第一点としてありました。第二点は、これらの徳性は、自分の努力で達成しようとか、獲得しようとするものでなく、イエス様を救い主と信じる信仰が中心にあることで、天の父なるみ神が育ててくれるものであるということです。どういうことかと言うと、自分に罪の思いがあることがわかって、神の意思に反する自分を知った時、心の目をゴルゴタの十字架に向ける、すると、そこで首をうなだれた救世主の全身に自分の罪が貼り付けられているのを目にする。その時、「お前の罪はあそこで赦されている。だから、心配しなくても良い。もう罪は犯さないように」と言う神の声が心に響きます。私たちが生きている現実では、そのようなことは残念ながら繰り返されてしまいます。しかし、繰り返すごとに次第に、自分は神の前に立たされても潔癖でいられるのだ、やましいところはないのだ、という、そんな大それたことがイエス様のおかげで言えるのだということがわかってきます。それがわかればわかるほど、良心は責任感と安心に支えられていきます。このようなプロセスを経るうちに、聖霊の実が、自分では追い求めたわけではないのに育っていく、そのような実り方でいきましょう、ということを申し上げた次第です。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制などの聖霊の実は、力ある人、余裕のある人の場合には、苦難困難に陥っている人や困窮している人を助けたり、悪に束縛された人を解放してあげる行動として現れるでしょう。(注 「聖霊の実」とは別に「聖霊の賜物」という、特別な力が特定の人に与えられて、助けることができる場合もありますが、ここでは全てのキリスト信仰者にあてはまる「聖霊の実」を中心にお話しします。)そのような行動は、本日のイザヤ書の日課に言われるように光を放ち、世の光として神の国の実在を証しします。しかし注意しなければならないのは、それは聖霊の実が具体的な行動として現われたものなので、あくまで聖霊の実の方が「立派な行い」そのものということになります。

そこで、自身が病気その他の事情のために力も余裕もなく、助けてあげたくとも出来ない人たちの場合はどうなるでしょうか?彼らは、神の国の栄光を輝かせることは出来ないのでしょうか?いいえそんなことはありません。そのような人たちの場合も、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り、力ある人、余裕ある人と全く同じ聖霊の実を結ぶ成長を辿っているので「立派な行い」をします。病床にあるキリスト信仰者でも、自分のことだけでなく他人のために祈り続けている人も大勢います。彼らも世の光として、神の国の実在を証しているのです。兄弟姉妹の皆さん、余裕がある場合でもない場合でも、隣人のために祈ることは神の国の実在を証することになりますので、それを絶やさないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン