2016年9月7日水曜日

神は生ける方、力ある方、見捨てない方 (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2016年9月4日(聖霊降臨後第16主日)スオミ教会

申命記29章1-8節
フィレモンへの手紙1-25節
ルカによる福音書14章25-33節

説教題 神は生ける方、力ある方、見捨てない方

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の礼拝説教は、旧約聖書の日課、申命記29章1-8節をもとに行おうと思います。本日の福音書の箇所ですが、これは難しいところでして、本当はこちらをもとに説教すべきとも思ったのですが、実はこの箇所をもとに三年前、当教会の礼拝にて説教をしておりました。それを読み返してみたら、ほとんど変える必要がないとわかりまして、復習の意味で同じ原稿を読んでもいいかなと思ったのですが、今回は三年前に比べて申命記の日課が語りかけてくるものに何か力を感じまして、それでそちらをもとに説教することにした次第です。

本題の申命記に入る前に、福音書の日課について三年前どんな解き明しをしたか手短に述べます。ルカ14章25-33節には、二つの大きな問題があります。一つは、父母、娘息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと弟子になれない、とイエス様が教えていることです。イエス様は十戒の第四の掟「父母を敬え」に反することを教えているのか?また彼自身、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と教えているのに、肉親を憎まないと弟子にはなれない、とは、どういうことなのか?

これは、福音書が書かれたギリシャ語の文で「憎む」を意味する動詞(μισεω)が使われていることによります。イエス様はこの場面では間違いなくアラム語を話していたでしょう。アラム語とは旧約聖書の言語ヘブライ語に近い言語です。イエス様がアラム語で話した事柄は、福音書に書き記されるまでの過程の中でギリシャ語に訳されていきます。もちろん、イエス様が話したアラム語の言葉は記録がないのでわかりません。しかし、イエス様の教えや思想の土台にある旧約聖書のヘブライ語の「憎む」を意味する動詞שנאサーネーアをみてみると、これは「憎む」を超えていろんな意味を持つことがわかります。創世記29章や申命記21章では「二つのうち一方をより多く愛して他方を少なく愛する」とか「一方を愛して他方を疎んじる」という意味で使われています。「他に比べて疎んじられる、少なく愛される」ということで、「憎まれる」ということではありません。

これを土台にして考えると、イエス様が弟子の条件として肉親を「憎む」ことと言ったのは、神への愛を最優先するということ、肉親への愛は神への愛を下回らなければならないということになります。これはイエス様の隣人愛の教えと矛盾しません。なぜなら、イエス様は、二つの最も重要な掟について、一番目は「神を全身全霊で愛せよ」、その次に来るのが「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と、ちゃんと優先順位をつけて教えたからです。三年前の説教では、神への愛を第一にして行う隣人愛とはどんな愛かについて述べてみました。

ルカ14章25-33節のもう一つの問題は、塔を建てる人と戦争に臨む王のたとえです。二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。ところが、33節でイエス様は、自分の持ち物を捨てる覚悟がないと自分の弟子にはなれない、と言われる。無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子にはなれない、とは、イエス様は一体何を言いたいのか?

どういうことかと言うと、イエス様はつき従う群衆に対して、お前たちは塔の建設者がするように、後で笑い者になることを心配して前もって綿密に計算をするであろう、また、素早く計算して負けが明らかな戦をしないで講和を結ぶ王と同じようにするであろう、これが今のお前たちの姿だと指摘するのです。そこで33節で、このように自分の持っている物を捨て去る覚悟のない者は私の弟子にはなれない。つまり、塔建設者や王のように計算づくではだめだ、ということになるのです。

そうなると、キリスト信仰者とは単に無謀、向う見ずな生き方をする者になってしまわないか。そんな生き方では、どんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう、計算は前もってしっかり立てて物ごとに臨むべきではないか、そういう疑問が起きてきます。三年前の説教で私は、イエス様の教えていることは、あくまでイエス様の弟子として生きるということ、つまり、イエス様を救い主と信じる信仰を携えて生きること、そして、神に対する全身全霊の愛に立って隣人を愛すること、言うなれば、信仰そのものに関係することなのだ、ということを強調しました。何か事業を起こしたり、建物を建てたりする時に見積もりや見通しを立てないでやれ、ということではないのであります。

2.

 それでは本日の本題である申命記29章1-8節の解き明しに入ろうと思います。申命記29章の舞台は、預言者モーセがイスラエルの民を引き連れて、奴隷の国エジプトを脱出して、シナイ半島の荒野の中を40年近くかけて移動した後、北上してヨルダン川東岸のモアブの地に到達、今や神が約束したカナンの地を目前にするところです。ここで、かつてシナイ山で結ばれた神とイスラエルの民の間の契約を新たなものにします。神はイスラエルの民の神となり、民はこの神の民となるという契約です。その時モーセは、イスラエルの民の前で神の意思を宣べ伝えます。そこで、本日の箇所の3節で不可解なことを言います。「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」

 モーセは、このすぐ前の1節と2節で、神がイスラエルの民を守るためにエジプトに対して行った罰の業を民は目で見た、と言っています。それなのに、今日の今日まで神は、それらの業を理解する心、見る目、聞く耳を民に与えなかった、と言う。これは、どういうことか?

 確かにイスラエルの民は、神がエジプトに様々な罰を下してイスラエルの民の脱出を可能にしてくれた、数々の奇跡的な業を自分たちの目で見ました。しかし、そうしたイスラエルの民を助ける神の業が何を意味するのかを理解できていなかった。それが理解できない以上は、本当に見たこと、聞いたことにならないのであります。それでは、神の業は何を意味していたのか?

それは、神が金属や木材で出来た偶像とは異なり、意志を持ち考えて計画して、それを実行に移すまさに生ける神であるということ、そして計画したことを必ず実現させる力を持った方であるということ、さらに自分を信じ信頼しきる者を決して見捨てない方である、ということを意味したのです。このように、天と地と人間を造られた創造の神とは、生ける方、力のある方、見捨てない方なのである。このことを理解できなければ、それは本当に「見た」こと「聞いた」ことにならず、神の奇跡の業がただ目の前に映って通り過ぎただけにすぎないのです。

本当に見ることのできる目、聞くことのできる耳、理解することのできる心をイスラエルの民が持っていなかったことは、彼らが神に抱いた畏敬や感謝の念がいつも一過性のものにすぎなかったことに明らかです。エジプト脱出の時から何度も神に助けてもらったにもかかわらず、荒野で食料や水に困ればすぐ不平を言いだして、エジプトで奴隷をした方がましだったとなどと言ったり、モーセがシナイ山頂からなかなか戻らなければ、金で雄牛の像を造って拝み始めるとか、そういうことを繰り返してきました。

そして今、紆余曲折を経ながらも、イスラエルの民はモアブの地に到達し、シナイ山で結んだ契約を新しくするところに来た。「今日まで、悟る心、見る目、聞く耳を与えなかった」というのは、今日与えるということです。つまり、イスラエルの民よ、お前たちは今日、神が生ける方であり、力ある方であり、見捨てない方であることがわかる心と目と耳を持つことになったのだ、ということです。4節と5節のモーセの言葉は、このことを確信させたでしょう。お前たちは40年荒れ野を移動していたにもかかわらず、着物は古びず、靴も磨り減らなかったではないか。パンも食べずぶどう酒も濃い酒も飲まずにすませ、今約束の地の手前まで到達したではないか。これを聞いた民は、自分たちの服や靴をみて、神がどのような方であるか本当にわかったでしょう。

こうしてイスラエルの民は、本当の心、本当の目、本当の耳を持った民としてカナンの地に入って行きます。その地には偶像を崇拝する民族が多数おりました。神が約束した土地ですので、神が忌み嫌う偶像崇拝は排除しなければなりません。そのような入り方をすれば、それらの民族との武力衝突は避けられません。最終的にイスラエルの民はカナンの地の隅々まで入植しますが、現実にはカナンの地は、イスラエルの民が独占的に居住する地にはなりませんでした。もとからいた民族はかなり残り、周囲も偶像崇拝する諸民族が取り囲むという状態でした。そういうわけで、イスラエルの民を偶像崇拝に陥らせる力はその後もずっと内外両面にわたって強く働いたのでした。

実際、イスラエルの民がモアブの地で与えられたはずの、神のことを知る本当の心、本当の目、本当の耳は長続きしませんでした。それは、サウル王が登場する前の時代、士師という政治権力と宗教権力を兼ねた指導者の時代に既に起きてきます。王国の時代になって、サウル王が死者の霊にお伺いを立てますが、これは神が最も忌み嫌うことの一つでした。神は「見えるものと見えないもの」の造り主ですから、被造物の人間が造り主の神をさしおいて別の被造物に自分の運命についてお伺いを立てることなど許せないのです。さらに、ソロモン王でさえ晩年は異国の神々を崇拝するようになってしまいます。

王国が南北に分裂した後、北のイスラエル王国はバール神崇拝に走り、最後はアッシリア帝国に滅ぼされます。南のユダ王国は偶像崇拝に陥ったり、天地創造の神への信仰に戻ったりが繰り返されます。ユダ王国で活動した預言者イザヤに対して神は次のように命じます。すでに心が頑なになってしまったこの民の心を一層頑なにせよ、目をもってしても見えなくなるようにせよ、耳をもってしても聞こえなくなるようにせよ、と。恐れおののくイザヤが、いつまで民をそうした状態に置かなければならないのですか、と聞くと、神は答えます。国が荒らされて、民が十分の一になってもさらに大木のように切り倒されて、最後に切り株を残すまでだ。その切り株を神は「神聖な種」と呼びます(6章13節)。それは、神を知る本当の心、本当の目、本当の耳を持つ新しい民の誕生を預言するものでした。

そのような新しい民は生まれたのでしょうか?ユダ王国も紀元前500年代初めにバビロン帝国に滅ぼされ、主だった人たちは異国の地に連行されてしまいました。イザヤ書の40章から55章をみると、イスラエルの民がこのバビロン捕囚から解放されてイスラエルの地に帰還することを示唆する預言があります。この祖国帰還は紀元前538年に歴史的事実として実現しますが、イザヤ書の当該箇所を見ると、民の目や耳が開かれるということが随所に言われます。これは、かつてモーセがこれからカナンの地に入ろうとするイスラエルの民に本当の心、目、耳が与えられる、と言ったことを思い起こさせます。神の民を滅ぼして連行した大帝国が滅び、捕囚の民が祖国に帰還できるというのは、普通ではありえない、まさに出エジプトの出来事に匹敵する神の業でした。本当に、神は生ける方、力ある方、見捨てない方であることを示す業でした。祖国に帰還する民に本当の心、目、耳が与えられた瞬間でした。

ところが、帰還したイスラエルの民は本当に「神聖な種」になったのでしょうか?バビロン帝国滅亡後もイスラエルの民はほとんどの年月を、ペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、ローマ帝国という大帝国の支配のもとで過ごさなければなりませんでした。帰還後の時代のイスラエルの状態がどのようなものであったかについては、旧約聖書は明確に記していません。それでも、祖国帰還後のイスラエルの民の状態について述べているイザヤ書の終りの方をみると、預言者の次のような叫びがあります。「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか」(63章17節)。神がイスラエルの民に本当の心、目、耳を与えないようにしている状態がまだ続いていることを示しています。まだ「神聖な種」は生まれていなかったのです。それでは、神を知る本当の心、目、耳が与えられる新しい民はいつ生まれるのでしょうか?

3.

神を知る本当の心、目、耳は、イエス様の出来事を通して与えられることとなりました。しかもそれらを与えられる人は、もはや血で繋がるイスラエルの民族ではなくなって、イエス様の出来事を心で受け入れて、彼を救い主と信じる人全てに与えられるようになりました。

イエス様が言葉と奇跡の業を通して、人々に神の意思や神の御国について正しく教えていた時、イスラエルの民の宗教指導者たちと衝突を繰り返しました。宗教指導者グループの一つであるファリサイ派との論争の中で、イエス様は、お前たちは自分では見えていると言っているが、本当は見えていない、と指摘するところがあります(ヨハネ9章)。指導者たちからすれば、自分たちは神のことをよく知っている、本当の心、目、耳を持っているということなのですが、神のもとから送られた、神のひとり子であるイエス様からみれば、そんなものは本当のものでもなんでもない。イエス様は、自分がこの世に送られた使命について次のように述べています。見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる、そういう裁きを行う(ヨハネ9章39節)、と。つまり、神のことをわかっていないことに気づき、それではいけないとわかった人には理解できる心、見える目、聞こえる耳を与える。しかし、神のことをわかっていないことに気づかず自分はわかっているから何も問題はないと思っている者には与えない。これがイエス様の行う裁きなのです。前述した旧約の教えから明らかなように、理解できる心、見える目、聞こえる耳を与えたり、与えなかったりするのは神です。イエス様はまさに神と同じ働きをすると言っているのであります。

それではイエス様はどのようにして、神が生ける方、力ある方、見捨てない方であるということを知る心、目、耳を与えるのでしょうか?それは、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で死んだことと、死から三日後に復活されたことで与えられるようになりました。これは、かつて神が示した業、例えば天から食物が与えられるとか、敵の軍勢が壊滅するとか、異国の土地を征服するとか、祖国に帰還できるとか、そういうものとは全く質が異なる業でした。それは、神のひとり子が人間の救いのために自らを犠牲にしたということ、そして一度死んだ者を今度は神が力を及ぼして復活させたという業でした。宗教指導者たちがイエス様に、お前が神の子ならしるしをみせろ、と要求したことがあります。イエス様の答えは、かつて預言者ヨナが大魚の腹に三日間閉じ込められた後に外に出られたがそれと同じことが起こる。それがしるしだ、と答えました(マタイ12章38-41節)。ヨナの遭難と救出の出来事は、イエス様が死んで葬られ三日後に復活して墓から出るという出来事の預言的出来事だったのです。

さて、死からの復活が起きたことで、イエス様とは何者だったのかということが明らかになりました。それは、神が「死の陰府に捨てておかない、その体は朽ち果てることがない」と約束した(使徒2章27節、詩篇16編10節)方であることが明らかになりました。それにあわせて、かつてダビデ王自身が「主」と呼んだ、神のひとり子であることも明らかになりました。そして、神がこの世に送ったひとり子が十字架の上で死ぬというのは、これは、人間が神に対して負っている罪という負債を人間に代わって帳消しにしてくれる、そういう神聖な犠牲の生け贄であることも明らかになりました。この出来事を前にして、人間はどういう態度をとるのか?こういうことが起きた以上、自分が罪ある存在であることから目を背けることはできないと観念して、この私が神から罪の罰を受けないで済むようにと、ひとり子を犠牲にすることさえ厭わなかった神は本当に愛と恵みに満ちた方だとわかるようになるのか。その神の愛と恵みの実現のために自分自身を犠牲にすることを厭わなかったイエス様こそ真の救い主と信じられるようになるのか。そう信じる時、神は本当に生ける方、力ある方、見捨てない方だとわかっているのです。いつの間にか神のことを知る本当の心と目と耳が与えられているのです。

神は一度死なれたイエス様を復活させる力を及ぼしました。そこで、イエス様の十字架と復活の出来事は自分のために起きたのだ、それゆえイエス様こそ自分の救い主だ、と信じて洗礼を受ける者に、神はこの同じ力を及ぼして復活の日に死から復活させて下さいます。その日が来るまでは、洗礼を受けイエス様を救い主と信じる者は、神の御手の中で生きて行くことになり、絶えず神の守りと助けと導きを受けます。洗礼には莫大な力が秘められています。罪には、人間を復活のない死の滅びに陥れようとする力がありますが、洗礼にはそれを無力にする力があります。洗礼には、復活された主イエス・キリストと自分をしっかり結びつける力があります。神の愛と恵みが十分に含まれているのです。
 
もちろん、無力化されたはずの罪はいろいろな隙を狙っては、信仰者が受けた神の愛と恵みを忘れさせようとします。本当の心と目と耳を失わせようとします。しかし、その都度、心の目をゴルゴタの十字架に向ければすぐ、あそこで罪は死滅したと言っていいくらいに無力化されたことがわかります。神に「イエス様は私の救い主です。私の罪の赦して下さい」と祈れば、神は「心配するな、お前の罪はあそこで赦されている」とおっしゃるのです。十字架のおかげで、罪の支配の下ではなく、神の愛と恵みのもとで生きられるのです。

本日これから執り行われる聖餐式にも莫大な力が秘められています。洗礼の時に受けた、罪を無力にする力を自分の内に強め、復活の主と自分との結びつきを一層強める力です。本教会では聖餐式は月一度ですが、兄弟姉妹の皆さん、聖餐式を自分自身の信仰と命そのものにとって大切なものであることを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2016年6月6日月曜日

嵐が来ても大丈夫な家の中に (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2016年6月5日 聖霊降臨後第三主日 スオミ教会

エレミア書7章1-7節
コリントの信徒への第一の手紙15章12-20節
ルカによる福音書6章37-49節


説教題 嵐が来ても大丈夫な家の中に


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。                                                                                                                                               アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所の終わりのところで、イエス様は、二人の人を比較します。一人は、家を建てる時、最初に地面を掘って岩盤にあたったところで土台を置いてその上に柱を立てる建て方をする人。もう一人は、地面を掘ることをせず、土台も置かず、直接地面の上に柱を立てる建て方をする人。その後で何が起きたかと言うと、嵐になり川が氾濫して洪水が起きる。地中の岩盤の上に土台を置いた家は揺るがずしっかり立ち続けたが、ただ地面の上に土台もなく柱を立ててしまった家は倒れて流されてしまった。

作り方からみれば、なるべくしてなったとしか言いようがないのですが、ここで大事なのは、この二人の人は何かに例えられているということです。地面を掘って岩盤の上に土台を置いて建てた人、これはイエス様の教えを聞いてそれを実行する人です。地面に直接柱を立てて建てた人、これはイエス様の教えを聞くが実行しない人です。このたとえは何を意味しているのでしょうか?

まず、イエス様の教えを聞いてもそれを実行しない人についてみてみます。この人は、この世の人生でそこそこの「嵐」に何度か出会ったかもしれないが、その人の「家」は何事もなくみかけは立派に立ち続けた。ところが人生で最大かつ最後の「嵐」である死が来た時、その人はそれを乗り越える力はなく、無残にも倒れて流されてしまう家のようにその人の全ては終わりを告げ、全てが失われてしまう。翻って、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人は、この世の人生でいろんな「嵐」に出会って打ちのめされたかもしれないが、その人の「家」の土台や柱はしっかり建てられたままであった。そしてこの世の人生で最大で最後の「嵐」、死が来たとき、揺るぎもしなかった家のように、その人はそれを乗り越える力が与えられていて、終わりを告げるのはむしろ「嵐」と死の方で、その人は永遠の命を持って生き始める。

そうなると、ここで問題になって来るのは、イエス様の教えを聞いて、それを実行するというのはどういうことか、ということです。イエス様の教えを聞くだけでは足りない。それを実行しなければならない。そうしないと、土台を置かず地面に直接柱を立ててしまった人と同じように家ともども悲惨な運命を辿ってしまう。つまり永遠の命を持てず死を超えられない。ご存じのように、ルター派では、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から「お前は私の目に適う者だ」みなされる、「よし」とみなされる、ということが強調されます。神に「よし」とみなされるというのは、罪を内に持ってはいるが、信仰によって罪を赦されて神の裁きを免れる。神の裁きを免れるというのは、永遠の命を得られるということです。信仰によって神から「よし」と認められる、「義」と認められるということで「信仰義認」と呼ばれます。人間は、律法に命じられた掟を守ることで神に「よし」と認められるのでなく、また善い行いを積み重ねて神に「よし」と認められるのでない。イエス様を救い主と信じる信仰によって「よし」と認められるというのです。そうすると、本日の箇所で、自分の教えを実行することが大事だと言うイエス様は、信仰義認ではなく、律法主義や善行義認を意味しているのでしょうか?この問題を考えてみましょう。

2.

 確かに、イエス様の教えには、「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに命令するものが多くあります。こういうイエス様の命令は本当はどんなものかについてルターが解き明かしているところがあるので、それを見てみようと思います。それは、本日の福音書の箇所のはじめで、イエス様が「あなたがたは、自分の量る秤で量りかえされる」(6章38節)と教えているところです。キリスト信仰者は、他人を見下したり侮ったりすれば、自分も神から見下されたり侮られたりするということです。他人に情け容赦なく振る舞えば、神もその人に対して情け容赦なく振る舞うということです。ルターは、この箇所について、次のように教えます。

『これは、まことに奇妙な教えだ。神は、隣人に仕えることの方が神に仕えるよりも大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分にかかわることでは我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人にかかわることとなると、そうではないのだ。もし我々が隣人に対して悪く振る舞えば、神はもう我々と平和な関係にはない、以前与えた赦しも全て無効にすると言われるのだ。

 実を言うと、この「量る、量りかえされる」というのが起こるのは、我々が信仰に入った後のことで、入る前のことではない。君は、信仰に入った時のことを覚えているだろうか?神は、業績や能力にもとづいて君を受け入れたのではなかった。一方的なお恵みによって君を受け入れてくれたのだ。そして今神は、信仰に入った君に次のように言われる。「私がお前にしてやったように、お前も他の人にせよ。さもないと、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも起こる。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げるだけで、何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ、何も与えないことにする」と。

信仰に入った後の「量ること、量りかえされる」というのは、このようにして起こる。神は、信仰者の我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与える。それで、もし我々が隣人に善いことをしようとしなければ、神も我々にお与えになった善いことを取り消されるのである。その時、我々は、自分に信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。』

厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、次のことです。私たちは神から計り知れない恵みをいただいているのだから、そのことがわかっているならば、そのような計り知れないことをして下さった神を心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然という心になる。そして、そのいただいたものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることは実に取るに足らないものになる、ということです。つまり、キリスト信仰者にとって、イエス様の命令に聞き従うというのは、神に救われた結果として自然に生ってくる果実のようなものなのです。神から救いを勝ち取るための努力や修行ではないのです。

そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで救われて、そんなに自然にイエス様の命令が実行できるようになるのか、と訝しがる向きもでてくるかもしれません。実はそんな時こそ、自分が救われたことがどんなに大きなことであるか、立ち止まって振り返る必要があります。

3.

 人間の救いとは何か、何が救われていない状態で、そこからどのようにして救われた状態に入れるのか、それを明確に教えているのが聖書です。救いということがわかるためには、まず人間には造り主がいるということを認めなければなりません。造り主を認めず、人間なんてただ単に、いろんな化学物質の偶然の合成からできて勝手に進化して今ある姿かたちになったんだ、という見方をとれば、救いということはでてきません。そもそも必要もありません。なぜなら、死ねば、化学物質のように分解して姿かたちは消え去るだけだからです。救いとは、この世を去る時、最後の一線を越えた瞬間、自分の造り主が約束通りがっしりと自分を受け取ってくれるということです。このように聖書は、人間とは創造主の神に造られたものであり、神から命と人生を与えられたという立場に立っています。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、そこにどんな問題があって、それはどう解決されるのか、そういうことを明らかにしている書物です。救いとは、つまるところ、造り主の神と造られた人間の間の関係にかかわることなのです。

創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い溝ができてしまいました。死ねば永遠に造り主から切り離されて滅びの苦しみを受けるしかなくなった人間を、神は深く憐れみ、再び関係を回復して神のもとに戻れるようにしようと計画して、それで自分のひとり子をこの世に送り、彼を用いて計画を実現されました。それは、人間の罪から生じる神罰を全てこのひとり子イエスに請け負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、この身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで、永遠の命への扉を人間に開かれました。

人間は、このイエス様の十字架の死と死からの復活が全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は、罪を赦された者として神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもかわることなく絶えず神の守りと導きがあります。万が一、この世から死ぬことになっても、造り主である神の御許に引き上げてもらって永遠にそこに留まることができるようになりました。私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、これ以上何を求める必要があるでしょうか?

こうした神の私たちに対する愛の大きさがわかれば、私たちは喜びと感謝のあまり、他人が自分に気にさわることをしたとか言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもなく大きなことを私のために成し遂げて下さった神を全身全霊で愛するのが当然と思うようになります。さらに、そこから出発して、神がしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となっていきます。

4.

以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちキリスト信仰者に命じる時、それは同時に、「お前は、私が十字架と復活をもってもたらした救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれていることが明らかになりました。このことがわかると、本日の福音書の箇所のイエス様の教えもよくわかります。

まず、37-38節。「裁いてはいけない、有罪としてはいけない」とイエス様は命じられます。ここで注意しなければならないのは、これは、悪や犯罪を放置しろ、悪や犯罪をし放題にさせろ、ということではありません。天地創造の神は、罪や不正義や不従順を激しく憎む方です。神は神聖な方ですから、罪の汚れを目の前にすれば、即座に焼き払われる方です。従って、私たちは、犯された罪を目の当たりにした時、うやむやにしたり曖昧にしたりすることなく、それは罪である、神の意思に反するものである、と態度と見解を明確にしなければなりません。

しかし、ここで忘れてはならないことがあります。それは、神は罪や不従順を断罪せずにはいられない方であるが、同時にその御心は、人間が罪と抱きかかえに裁きを受けて永遠の滅びの苦しみに落ちてしまうことではなく、「罪の赦しの救い」を受け取って神との関係を回復することにあるということです。それなので、キリスト信仰者が罪について明確な態度をとる時、どうするかと言うと、罪を犯した人を断罪してはいけないということです。「こんなことをしたお前は神との関係が断ちきれたままで、関係修復の見込みはない」などと言ってはならないということです。神と関係修復の見込みがないかどうかは、神が将来最終的に決めることです。ひょっとしたら、その人は、いつの日かイエス様を自分の救い主と受け入れるかもしれないのに、今断罪してしまったら、これは呪いをかけるも同然です。神の目的は出来るだけ多くの人が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることなのに、それを阻止したら神に反対する者になってしまいます。神の反対者であれば、それこそ神から呪われる者になってしまいます。罪を犯した人に対して、キリスト信仰者は、断罪するかどうかは神に任せて、自分としては、罪を犯した人がイエス様を救い主として信じ受け入れられるような働きかけをする、ということです。

もちろん、罪を犯した人の心がとても頑ななため、働きかけが効果を生まない場合もあります。その場合は、神に祈って祈ることから始めます。祈ることも大事な働きかけです。とにかく働きかけをするのが、神の目的に仕えるキリスト信仰者の任務です。罪びとが「罪の赦しの救い」を最後まで拒否し続ければ神の断罪は免れません。しかし、それを受け入れてイエス様を救い主と信じるならば、どんな大きな罪も赦されて神との関係が回復されるのです。もし罪が社会の法律的な処罰や償いを求められるような犯罪であればあるほど、「どんな大きな罪も赦される」と言っても、なかなか受け入れられないかもしれません。しかし、その人と神との関係が回復したら、法律上の処罰や償いということはあっても、神の目から見たら関係の回復はもうその通りなのです。

 39-40節のイエス様のたとえの教え。盲目の人が盲目の人を道案内しようとすれば、二人とも穴に落ちてしまう。道案内をしようとする盲目の人とは、先に述べた、罪びとに「罪の赦しの救い」が及ぶのを邪魔する者、神の専権事項である断罪を自分の仕事にする者のことです。このような者の断罪を被ってしまう罪びとは、救いを受けることを妨げられ、気の毒です。断罪を行う者は行う者で、そのために神から断罪されかえされてしまい、憐れです。二人とも救いの可能性を失い、穴に落ちてしまう、これは悲劇です。

ここで、イエス様は、弟子は教師に優るものではないが、全ての弟子は、やがて必要な課程を修了して教師のようになる、と言われます。(ギリシャ語のκαταρτιζωが日本語訳では「十分に修行を積む」となっていますが、「必要な課程を修了する」です。どんな「課程」かは後で明らかになります。「修行」ではありません。)ここでは動詞の未来形(εσται)が使われ、将来そうなると約束されます。どういうことかと言うと、イエス様が、これらの教えを述べているのは、まだ十字架と復活が起きる前のことです。まだ「罪の赦しの救い」は実現されていません。そんな時に、罪びとを裁くな、赦せなどと教えられても、人々にはそれを実行するための土台がないのですから、途方にくれるしかありません。この時、弟子は教師であるイエス様に遠く及ばない存在です。しかし、イエス様の十字架と復活により「罪の赦しの救い」が実現して以降は、状況が一変します。自分は神のひとり子が十字架で流した尊い血を代償にして神に買い戻されたとわかって、この救いを受け取る者がでてくる。そして、その者が今度は他の人たちもその救いを受け取ることができるように働き始める。まさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるという「課程を修了」して、イエス様の真の弟子になって、教師が始めた仕事を受け継いで救いを拡げていく。その意味で教師のようになるのです。イエス様は、この教えを述べた当時、今はまだ不可能だが将来可能になる、と約束しているのです。その約束は実現されたのです。

こうして、41節から後のイエス様の教えは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者とそれを妨げる者の対比となります。41-42節に出てくる、他人の目にある小さなゴミには気がつくが、自分の目にある大木には気がつかない人とは、まさに他人を断罪して「罪の赦しの救い」を拡げることを妨害する盲目の信仰者のことです。43-45節の良い実を実らせる良い木とは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者であり、悪い実を実らせる悪い木とはそれを妨げる者です。そして、最後に46-49節で、イエス様の教えを聞いて実行する者とは、まさに「罪の赦しの救い」を自ら受け取って、それを当然のように拡げていく者です。そのような人の建てた家は堅固な土台の上に立つ家で、死という嵐にもびくともしません。教えを聞いて実行しない者とは、赦しを受け取っていない人です。イエス様の教えを聞いたかもしれないが、「罪の赦しの救い」を受け取るまでには至らなかった。それで、イエス様を救い主とまだ信じていない。または、信じたつもりが、どこでどう間違えたか、断罪者になってしまって赦しを拡げることを妨げてしまった。このような人たちの建てた家は死という嵐に耐えられないのです。

5.

イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たち信仰者に教えられる時、それは、「お前は、私が十字架と復活をもって実現した救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれている、と前に申しました。そして、もし私たちが、イエス様の十字架と復活を通して神から計り知れない恵みを受けたことが自覚できるならば、そのような計り知れないことをして下さった神を私たちは心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然だという心になる。また、その受け取ったものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが実に取るに足らないものになる、と申しました。まさに、神の私たちに対する愛と恵みのなんたるやを知った時に、私たちの心に愛が点火される、ということです。

ただ、そうは言っても、現実はなかなか甘くはありません。隣人を自分を愛するが如く、と言っても、いつも壁にぶつかるし、ましてや神を全身全霊で愛していると言えるかどうか。そこで、ルターは、キリスト信仰者のこの世の人生とは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく新しい人と以前からある肉に結びついた古い人との間の内的な戦いであると教えます。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いであると。キリスト信仰者は、この世から死ぬ時に古い人は肉と共に滅びて、完全なキリスト信仰者になると言っています。この戦いは、本当に一進一退の戦いです。しかし、しっかり聖書の神の御言葉に聞き聖餐式にちゃんと与っていれば、罪と死と地獄と悪魔に対して完全勝利を収めたイエス様としっかり結びついていますから、大丈夫です。何も心配はありません。

最後に、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人、つまり「罪の赦しの救い」を受け取って、それを他の人にも拡げていく信仰者の人生について一言。残念ながらイエス様は、救いを受け取った信仰者に安逸な人生が保障されるとは教えません。しっかりした地盤の上に建てられた家も、土台なくして建てられた家となんら変わりなく、嵐や洪水に見舞われると言われます。つまり、人生の歩みの中では、信仰者であるかないかにかかわらず、同じように苦難や災難に遭遇するということです。いくら土台の上に建てられたと言っても、家が激しく揺れたら、さすがに恐れや心配を抱いてしまうでしょう。いくら神との結びつきが回復して、日々守りと導きを受けていると言われても、苦難や災難に遭遇したら、立ち向かっていけるか心配になるでしょう。しかし、イエス様は、「罪の赦しの救い」を受け取って神との結びつきが回復した者、そしてそこから生まれる喜びと感謝をもって自分の生き方を神の意思に沿うものにしようと志向する者、そういう者は倒壊しない家にいるのと同じなのだ、だから、恐れる必要はないのだ、と教えられるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに共に歩んでまいりましょう。

それから、今はまだイエス様を救い主として信じていない人、信じているつもりが断罪者になってしまった人は、最後まで倒れる家に留まるしかないということではありません。神のもとに立ち返ることができれば、彼らは倒れない家にいることになります。ですから、兄弟姉妹の皆さん、彼らも嵐が来ても大丈夫な家に引っ越すことができるように働きかけていきましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン