2016年2月22日月曜日

汝の信仰なんぢを救へり (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2016年2月21日 四旬節第二主日 スオミ教会

エレミア書26章7-19節
フィリピの信徒への手紙3章17節-4章1節
ルカによる福音書18章31-43節

説教題 汝の信仰なんぢを救へり


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の説教題に「汝の信仰なんぢを救へり」という昔の文語訳を用いましたが、これには理由があります。私たちが使っている新共同訳では、このイエス様の言葉は「あなたの信仰があなたを救った」となっています。「救った」というのは過去形ですが、少し詳しく見ると、過去の意味だけでなく、完了や存続の意味も持つことができます。例えば、「先週、あなたの信仰があなたを救った」と言えば、先週そんなことが起きたと過去の事実を述べるだけで、今週はどうかは何も言っていません。ところが、「あなたの信仰があなたを救った。だから安心しなさい」と言ったらどうなるでしょう。救ったことが起きたのは過去だが、その状態が現在も続いているので、心配いらない安心しなさい、という意味になり、「救った」ことが現在も効力を持って存続している、それくらい「救った」ことはしっかり完了している、という具合に完了・存続の意味を持ちます。このように同じ「救った」と言っても、文脈によって意味が異なります。

ところで、文語訳聖書の「救へり」は意味が限定されていて、これは完了・存続の意味です。過去の意味は持ちません。もし過去の意味を出そうとすれば、「救ひけり」、「救ひき」になるでしょう。どうしてこんな高校の古文の授業のようなことを言い出すのかと言うと、実は問題となっているイエス様の言葉は、ルカ福音書の書かれた原語のギリシャ語を見ると、過去の意味ではなく完了・存続の意味で言っているからです(σεσωκεν 現在完了形)。それで、その意味をはっきり表している文語訳の「救へり」が原語の意味と一致するので、そちらを説教題に選んだという次第です。それでは、「救った」が過去ではなくて完了・存続の意味を持つと、このイエス様の言葉はどんな意味を持つのか?このことは後でみていきます。

 本日の福音書の箇所ですが、大きく分けてイエス様の二つの教えからなっています。最初の教えは、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味について教えるものです。預言の意味について、この後すぐに見てまいります。

もう一つの教えは、イエス様がこれから癒すことになる盲目の人に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことに関係します。先ほど、「救った」には過去ではなくて完了・存続の意味があると申したところです。この箇所を読む人は大抵、おやっと思わされます。というのは、イエス様は、男の人の目を見えるようにする前に「お前の信仰がお前を救った」と言ったからです。男の人の目が治ってからそう言った方が意味が通じるのではないかと思われます。実はイエス様は、同じ言葉をマタイ9章22節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?

一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康回復をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様の方では癒しは必ず起きるとわかっているので、それがもうさも実現したかのように考えて、「救った」などという言い方を先回りして用いたのではないか、などと考えることもできます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ17章19節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言いました。さらに、ルカ7章50節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースがありますが、2つは癒しの奇跡に関係して健康回復の前に言われたケース、1つは癒しの奇跡に関係しているが健康回復の後に言われたケース、最後の1つは癒しの奇跡と無関係に言われたケースということになります。結論から言いますと、どのケースをみても、ある共通したことがあって、それでこの言葉を健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。何のことか今のところはわかりませんが、後ほどわかるようになりますので、頑張って聞いていて下さい。

2.シンボル的な預言が具体的な出来事に

 まず初めに、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味についてのイエス様の教えです。31節でイエス様は、これから行こうとしているエルサレムにて、預言者を通して記されたこと全てが人の子に実現する、と言います。実現することとしては、次のことを挙げます。まず人の子が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人の手に引き渡され、侮辱され、辱めを受け、唾を吐きかけられ、そして鞭うちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。

翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことを理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難、十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからでして、起きた出来事をもって予告されたことを確認できるからであります。しかし、弟子たちにしてみれば、まだ十字架と復活が起きていない段階ですから、確認する術がありません。

それならば、弟子たちには旧約聖書に記されている預言者たちの預言があるではないか?イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っている人ならば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、という具合に理解できるのではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純なことではなかったのです。旧約聖書に記されているとは言っても、どこに、人の子が異教徒の手に引き渡される、と書いてあったか?また、どこに、人の子が侮辱され、鞭うちの刑を受け、殺される、と書いてあったか?そして、どこに人の子が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言がこのような形で実現すると言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。

しかし、実はこれらの出来事は全て旧約聖書の中に、あまり具体的には見えなくとも、しっかり記されていたのです。イエス様は、シンボル的な言い方で預言されていることが、人間の歴史の特定の時代の舞台と状況のなかで具体的な形で実現することを言っているのです。イエス様自身は、シンボル的な言い方で預言されていることがどう具体的に実現するか前もって既にわかっているので何も問題ありません。しかし、弟子たちの方は、まだ具体的な形をとって実現することは見聞きも体験もしていません。それでイエス様が言われたことが、シンボル的な言い方で預言されていることとどう関係するのか、まだわかりません。

それでは、預言されていることと、実現したことの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書7章13節に登場する謎めいた人格を持つものです。今あるこの世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて、神の御国が現れます。その時、神から王権と権威を授けられて、御国の統治者・君臨者となるのが「人の子」です。こうして、「人の子」はイエス様の時代には、この世の終わりに到来する神の御国の統治者・君臨者として理解されていました。加えて、「人の子」は、神から王権と権威を授けられる前に、迫害を受けるものとも理解されていました(ダニエル7章25節参照、マタイ16章14節も)。

さらに「人の子」とは別に、神に近い者として「神の僕」という者がイザヤ書53章に登場します。人間が受けるべき神罰を変わりに引き受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の預言が全て実現すると言う時、それは、ダニエル7章で言われる「人の子」が受ける迫害、イザヤ53章で言われる「神の僕」が受ける犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で、異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、と明らかにするのであります。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、引き渡し、鞭うち云々と言われても、あれっ、聖書のどこに書かれていたっけ?となってしまうのであります。

次に、三日後に死から復活する、ということについて。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書26章19節、エゼキエル書37章1-10節、ダニエル書12章2-3節に預言されています。そこで、復活が死んでから三日目に起こるという、三日目の復活という出来事については、ホセア6章2節とヨナ2章1節が鍵になります。特に、ヨナは、大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事について述べているので、これは未来を言い表す預言には見えません。しかし、ユダヤ人にとって、この箇所は、神の力で三日後に死の世界から復活するというシンボル的な出来事になるのです。マタイ12章でイエス様自身、ヨナの出来事を過去の出来事としてではなく、自分の復活についてのシンボル的な預言であると言っています(38-41節、16章4節)。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはや単なるシンボルではなくなって実際の出来事になるのであります。

しかしながら、預言はどれもシンボル的に記されていて、いろいろな書物に散らばっています。そのため、これらはこういう具体的な形で、繋がりを持ってこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、といくら言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解できないのであります。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全ては繋がり、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、すなわち文字通り預言の実現になるのです。弟子たちは、事後的に全てのことを理解できたのです。

ところで、弟子たちが事後的に理解できたというのは、ああ、旧約聖書のあれこれの預言は、神のひとり子イエス様が異教徒に引き渡され、侮辱と辱めを受け、唾を吐きかけられ、鞭うちの刑を受けて殺され、そして三日後に復活するという形で実現したのだ、それで旧約聖書の預言の一つ一つが実際起きた出来事の各部分にしっかり結びついているのだ、という具合に、起きた出来事と預言との結びつきを確認できたということです。しかし、結びつきの確認だけにとどまりません。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのか、それがわかったのであります。実はそちらの方が大事なことでした。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味するのでしょうか?

それは、天地創造の神の人間救済計画の実現を意味しました。どうして人間は神に救われなければならなくなったかと言うと、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は神との結びつきを失い死ぬ存在になってしまったからでした。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子イエス様をこの世に送り、これを用いて救済計画を実行しました。それでは神は、どのようにしてイエス様を用いて人間救済計画を実行したのでしょうか?それは、人間の罪がもたらす神罰を全てひとり子イエス様に負わせて十字架の上で私たちの身代わりに死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を私たち人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との結びつきが回復して、この世の人生において永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

3.信仰があなたを救われた状態にしている

 以上、旧約聖書にシンボル的に預言されたことが全て、イエス様を通して具体的に実現したこと、そして預言の実現は天の父なるみ神による人間救済計画の実行であったことを明らかにしました。

次に見ていくイエス様の教えは、「あなたの信仰があなたを救った」という不思議な言葉です。初めに申しましたように、この言葉は、盲目の人の目が見えるようになった段階で言った方がすっきりするのではないかという疑問が起きます。ところが、イエス様は同じ言葉をある時には、本日の箇所のように癒しの奇跡を起こす前に言っていますが、ある時は奇跡の後に言い、またある時は奇跡と無関係に言われました。この不可解な言葉について見ていきましょう。

この言葉は日本語では「あなたの信仰があなたを救った」と過去の出来事にも完了や存続の意味にも介される表現になっていますが、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく、現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、最初で触れた4つのケース全て同じです。ギリシャ語で現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、過去の時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、完了している、存続しているという意味です。従って日本語訳で「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、この箇所は、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。

さて、ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか、と。まだ盲目の状態にあったのに、どうして救われていたと言えるのか?

その答えはこうです。救われるということが、病気が治るとか、そういう人間にとって身近な問題の解決を意味していないということであります。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために断ち切れてしまっていた人間とその造り主である神との結びつきが回復されて、神との結びつきをもってこの世の人生を歩むこと。そして、この世から死んだ後は、神のもとに永遠に戻れること。これが救われるということです。これが出来るためにはどうすればよいかというと、これも先ほど申しました。神が2000年も前の昔に彼の地でなさったことは、実は今の時代を生きる自分のために行われたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで出来るのであります。こうすることで、人間は、神が自分で整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができて、それを自分のものとすることができるのであります。盲目の男の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との結びつきをもって生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのであります。癒しを受けていなくても、救われていたのであります。その後で癒しを受けたのは、付け足しのようなものでした。

これと同じことが、マタイ9章で、12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ。神との結びつきを回復して生きる者となっていたのだ。」その後で、女性は健康になります。癒しは、付け足しのようなものでした。

以上、癒される前の状態、つまり病気の状態にいても、人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり人間の造り主である神との結びつきを回復した者になって、この世の人生を歩むこととなり、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことがとても大事なのは、もし病気から癒されることそのものを救われることと言ってしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で、神との結びつきが回復しているとか、病気の人は病気だという理由で神との結びつきがない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を背負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪を赦されて神との結びつきが回復して、同じくらいに神との結びつきをもってこの世の人生を歩み、この世から死んだ後は、同じくらいに神のもとに永遠にもどれるのです。

逆に健康だからといって、また癒しがあったからといって、それが神との結びつきの回復の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この男の人に「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられませんでした。健康な人でも、イエス様を救い主と信じ告白する者が救われるのです。

ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので、健康な人だったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、その女性は、イエス様を救い主と信じた日から現時点まで、そしてこれからも信じ続ける限り、救われた状態にいるということです。

このように人間が救われているかいないかは、健康であるかないか、人生が成功だらけか失敗だらけか、ということは関係なく、イエス様を救い主と信じるかどうかによるのです。そういう訳で、キリスト信仰者というのは、仮に不治の病にかかっても、何か事業や計画に失敗しても、イエス様を救い主と信じる限り、神との結びつきはしっかり保たれているんだ、ひとり子をこんな自分のために送って下さった神の愛は境遇の上がり下がりにかかわらず同じくらいこの自分に注がれているんだ、と確信する者です。そして、その確信が生きる命そのものになっている者だと言うことができます。使徒パウロがまさにそのような者であることは、「ローマの信徒への手紙」8章38-39節にある彼の言葉からも明らかです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 最後に兄弟姉妹の皆さん、通らなければならない逆境があまりにも大きすぎて、回復した神との結びつきに確信が持てなくなってしまう危険に晒された兄弟姉妹たちがいることを忘れないようにしましょう。私たちは、彼らのために時間を割いてしっかりお祈りして、私たちの祈りを通しても、彼らを父なるみ神の御手にお委ねしてまいりしょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2016年2月8日月曜日

主イエスは最後まで共にいて下さる (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年2月7日変容主日 スオミ教会

申命記34章1-12節
コリントの信徒への第二の手紙4章1-6節
ルカによる福音書9章28-36節

説教題 「主イエスは最後まで共にいて下さる」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン


 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースターに向かう四旬節が始まる前の節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという出来事についてです。同じ出来事はマタイ17章、マルコ9章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことが「変容した(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本主日は変容主日とも呼ばれます。

三つの福音書に同じ出来事が記されていますが、よく読んでみると記述がそれぞれ若干異なっていることに気づかされます。しかしながら、さらに読み込んでいくと、そうした違いは本質的なものではなく、むしろ、お互いを補い合っていて、三つをちゃんと読むと同じ出来事の全体像がよりよくわかってくることに気づかされます。全体像がわかるための違いであると言ってよいと思います。具体的に申しますと、マルコとマタイでは、ルカに比べてイエス様の輝いた姿が詳しく述べられている反面、出来事全体の記述はそれほど詳しくありません。出来事全体の記述は、ルカの方がマルコ、マタイに比べて詳しいです。

 本日の箇所に出てくる「山」について、マタイやマルコの記述では「高い」山と形容されています。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同じ地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えられます。

 このヘルモン山について、以前の説教で2700メートル位と申し上げたのですが、2814メートルの誤りでした。この場を借りて訂正いたします。どうして間違えたかと言うと、言い訳になってしまいますが、その時見た地図には9230フィートと記されていて、私は1メートル=3,4フィートと間違えて記憶していて、それで計算してしまいました。1メートルは3,28フィートでした。それで計算し直したら、2814メートルとなりました。実際、メートルで高さを記した地図を見つけ、それも2814メートルでした。2700メートルなら日本の白山と同じくらいだなどと申したのですが、これも訂正しなければなりません。2814メートルでしたら、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ標高です。ただ、インターネットの写真を見てみると、ヘルモン山はなだらかで急峻な感じはありませんでした。頂上は現在のレバノンとシリアの国境上にありますが、山域はイスラエルまで及んでおり、冬はスキー場も開設されてスキー客で賑わう様子もネットで見ることができました。

 山もこれくらいの高さになると、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の福音書の箇所の記述を注意して読むと(33-34節)、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を3つ立てましょう、と言ったすきに頭上を覆ってしまうのですから。高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神が利用したと考えられますし、または、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。どっちだったかはもはや判断できませんが、この件は判断しないままにしても、本日の箇所の解き明しには何の支障もありません。

2.

 本日の福音書の箇所の出来事は幻想的かつ劇的ということができます(「幻想的」と申しましたが、「幻想」とは申しませんので御注意下さい)。山の上で一体何が起こったのか、ルカの記述を中心にマタイやマルコの記述にも注意しながら見ていきましょう。

イエス様は祈るために山に登られました。イエス様が祈る場所に山の上を選んだことは他にもあります。ルカ6章によれば、山の上で一人一晩祈り明かした後で12弟子を選んだことが記されています(12節)。マタイ14章とマルコ6章によれば、5千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たすという奇跡を行った後でイエス様は一人で山の上で夜明けまで祈られました(それぞれ23節、46節)。その後で、ガリラヤ湖上で逆風に煽られて舟をこげなくなった弟子たちを助けに行ったのです。この二つの山は、ガリラヤ湖近辺にあるので、ヘルモン山のような高い山でなく丘陵と言ってよいでしょう。イエス様が一人で何を祈られたかは、記録がないし、そもそも同行者がいなかったのでわかりません。

それでも、十字架にかけられる前日にオリーブ山のゲツセマネでしたお祈りの内容は知られています(マタイ26章、マルコ14章、ルカ22章)。もうすぐ、全ての人間の罪を償う犠牲の生け贄になる、そうすることで人間が神の怒りや罰を受けないで済むようにする、そうして人間が神との結びつきを取り戻せて、死を超えた永遠の命を持てるようになる、そういうことを実現するために神のもとからこの世に送られてきたのだが、これから受ける苦しみに果たして耐えられるかどうか不安に苛まれてしまった。避けられれば避けたい、しかし行わなければならない、そういう苦悩をイエス様は父なるみ神に包み隠さず打ち明けます。そして最後は、「あなたの御心がなりますように」と祈って覚悟が与えられ、立ち上がって十字架の道に進んで行きます。

イエス様が他の祈りの場所で何を父なるみ神にお祈りしたのかは不明ですが、少なくとも、神がイエス様に持っていた計画を明らかにするように、そしてそれを行う力を与えてくれるようにということはあったでしょう。

本日の出来事ではペトロ、ヨハネ、ヤコブの三弟子の同行者がいましたが、イエス様のお祈りの内容は伝えられていません。32節をみると、三人は「ひどく眠かった」とのことで、これは2800メートル級の山をロープウェイやケーブルカーを使わずに麓から登れば疲労困憊になるのは当然でしょう。ああ、イエス様は何かを祈っておられるな、と眠い目には映っているが、何を祈っているのかはもう聞き取れない。ところが、祈っている最中のイエス様の様相が急に変わった。「顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた」(29節)、そして、その輝きは「栄光に輝く」(32節)ものだった。

それだけではありません。気がついてみると、どこから現れたのか、二人の人物がいて、一緒に話しをし始めたではないか?その二人もイエス様と同じように「栄光に包まれ」ています(31節)。三人の弟子は、体は重く疲れたままですが、興奮が入り込んで次第に眠気が引いて行きます。話声も耳に入ってきました。聞いていると、この二人はかつての偉大な預言者モーセとエリアだということがわかってくる。ところで、このモーセとエリアは一体何なのだ?ルカ24章を見ると、死んだ人間が目の前に現れると幽霊とか亡霊と理解されるのは、彼の地でもあったようです。ルカ24章では、復活したイエス様が鍵を閉めてあった家の中に突然入って来たのを見て弟子たちがパニックに陥りました。しかしながら、山の上で三人の弟子たちはそうなりませんでした。恐らく、目の前に現れたモーセとエリアは父なるみ神の力によって再臨をした者という理解があったからだと思います。当時、特に律法学者の間で、エリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10-11節、マルコ9章11-12節)。加えて、ペトロがモーセとエリアのためにも「仮小屋」を建てます、と言ったのも、神の力によって再臨したという理解があったことを示しています。「仮小屋」というのは、ギリシャ語のスケーネー(σκηνη)ですが、正確な訳は、神に礼拝を捧げる場所の「幕屋」を意味します。ペトロはイエス様に加えてモーセとエリアのためにも礼拝を捧げる場所を建てると言ったわけです。幽霊や亡霊にそのようなものを建てる言われはありません。

さて、モーセとエリアが近々エルサレムでイエス様が行なわなければならないことを知らせると、二人はイエス様のもとを「離れ」出しました。文章では「二人がイエスから離れようとしたとき」と書いてありますが、歩いて立ち去ろうとしたのか、空に上げられるように去ろうとしたのか、姿が消えるようにしてなのか、ギリシャ語の言い方からでは全くわかりません(εν τω διαχωριζεσθαι)。どんな仕方であれ、とにかく、二人の大預言者とイエス様の間に距離が開きはじめた。それが見て取れた。まさにその隙をとらえて、ペトロがイエス様の方を向いて、イエス様とモーセとエリア三人のために礼拝を捧げる幕屋を三つ建てます、と言ったのです。三人の話しが終わって、そのうち二人と一人の間の距離が開き出したその時です。

この、ペトロが幕屋の提案を述べている、ほんの10-20秒程の間に突然雲が現れました。雲は、ペトロたちの側からみて、あっと言う間にモーセとエリアとイエス様の頭上に覆いかぶさりました。34節を見ると「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った(εν τω εισελθειν αυτους)、つまり雲の中に乗り込んでしまったのです。弟子たちが恐怖を抱いたのは、得体の知れない雲が現れたということより、雲がイエス様から離れつつあったモーセとエリアだけでなく、イエス様をも取り込んでしまったことによるのです。

まさにその時です。その雲の中から、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という、父なるみ神の声が響き渡りました。この声が響き渡った後で、弟子たちが顔を上げると、目に入って来たものは、そこに一人立つイエス様だけでした。あの、様相が変わる前のいつものイエス様がそこにおられました。もうモーセもエリアも雲もなくなっていました。全てもとに戻っていました。本当にあっという間の出来事でした。全てもとに戻ったとは言っても、この出来事があったがゆえに、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の声は、今目の前におられる方を指すことがはっきりしました。また、ペトロにとっては、モーセやエリアに礼拝を捧げる必要などないこともはっきりしました。

3.

 以上、山の上で起きた出来事を書かれたものに基づいてできるだけ忠実に再現してみました。幻想的でかつ劇的な出来事ですが、天の父なるみ神の意思や計画がはっきり伝わってくる出来事だと思います。神の意思や計画というのは、イエス様に対してだけでなく私たち人間に対して両方のものです。以下、そのことについて見てみましょう。

 まず、イエス様の変容について見てみましょう。ルカ福音書では、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、実は、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ福音書9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪や不従順の汚れに全く染まっていない神聖な神の子としての本質をあらわにしたのです。

 「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証されています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。

そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。イエス様は、もともとからして罪を持たない神の神聖さを持つ方なので、何の問題なしにそのまますんなり天の神の御国に入れた筈です。モーセとエリアの場合は、御国に入れるようになるために神によって変えてもらわなければなりませんでした。31節でモーセとエリアは神の「栄光に包まれて現れ」(οφθεντες εν δοξη)と言われていますが、これは、彼らが神から栄光を輝かせてもらって、それを受けて光っているということです。イエス様の場合は32節で言われるように、彼自身が「栄光に輝く」、つまり神と同じように自ら輝かせることができる栄光(την δοξαν αυτου)を持っているということです。本当にイエス様はお迎えの「雲」に乗って、そのまま天の御国に帰ればよかった。それなのに、私は行かなくてもいい、と言わんばかり、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められたのです。なぜでしょうか?

それは、私たちも神の栄光を受けて光ることができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すこととなって、神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神と切り離された状態で生きることとなり、この世から死んだ後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間がこの汚れを除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能なことです。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす律法というものがあるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たしていくものというより、人間が神の意志からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものなのです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21-22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27-28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、できない人間にかわって人間を罪の汚れから洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで成し遂げました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪の汚れを忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまうことも辞さない方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が背負うべき罪の罰を全部彼に負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は言わば、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この尊い犠牲のおかげで、人間が罪の罰や罪の支配状態から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありません。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができるのです。

このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、それを大事に携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて光ることができるようになれる。そして、いざ、この世を去る時が来たら、神に自分の全てを委ねることができて、神の方でしっかり受け取ってもらえるようになれる。まさにそのためにイエス様は、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

ところで、復活されたイエス様は天に上げられました。今は天の父なるみ神の右に座しています。そして、今のこの世が終わりを告げて、新しい天と地が創造される時に再臨すると約束されました。マタイ福音書の終わりで、復活の主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章19節)と言われますが、今天の父なるみ神の右に座している方がどうやって、私たちと共にいて下さるのでしょうか?

それが本当に共にいて下さるのです!洗礼を受けて「罪の赦しの救い」の贈り物を受け取った者は皆、自分からそれを捨てない限り、その贈り物を大事に携えて生きる限り、イエス様を自分の救い主として確実に持っています。小さな子供の場合は、両親の信仰告白に支えられてイエス様を持っています。大人になって自分で信仰告白をするようになれば、両親から独立して救い主イエス様を持ちます。イエス様を救い主として持てるのは、聖霊が働いているおかげです。

さて、両親に支えられていても、また独立していても、信仰に留まる者が聖書の御言葉を読んだり聞いたりすると、それはただイエス様が救い主であることを絶えず思い起こさせる神の声、イエス様の声そのものです。さらに両親から独立して聖餐式のパンとぶどう酒を受けると、それは受ける人にとってイエス様が救い主であることを御言葉と一緒に強めてくれます。

さらにイエス様は、私たちの祈りを、声に出る祈りも、声にならないため息も、全て聞き遂げて父なるみ神に取り次いで下さって、全てのことを神の御心に適うように祝福されたものに変えて下さいます。まことにイエス様は、この世の終わりまで、そして私たち一人一人の人生の終りまで、いつも共にいて下さるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしっかり歩んでまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン