2015年9月21日月曜日

福音は命の永久保証書 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年9月20日 聖霊降臨後第十七主日

イザヤ書50章4-11節
ヤコブの手紙2章1-18節
マルコによる福音書8章27-38節

説教題 「福音は命の永久保証書」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先日、家電屋に冷蔵庫を買いに行きました。保証期間は1年と言われ、ちょっと短いなと思ったのですが、冷蔵庫の価格の5%を追加で払えば5年に出来ると言われ、しかもポイントでカバーできるというのでお願いしました。冷蔵庫の値段より1円も多く払わないで保証期間を延ばせたので、何かとても得をした気分になりました。これで5年間は故障してもタダでなおしてもらえる。それ以後は、壊れたらきっと修理代は高くついて新しいのに買い換えなさいということになるのだろうな。でも、5年先のことなんか今はまだ悩む必要はないなどと自分に言い聞かせたりしました。

 その翌日に今日の説教の準備を始めたのですが、本日の福音書の次の箇所で立ち止まりました。聖書を読まれる方なら誰でも知っているイエス様の有名な教えです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ8章34-37節)。」

 これを読む人はたいてい、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているのだと理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値のあるものなのだ、と。そうすると、最初に言っていること、つまりイエス様に付き従いたい者は自分を捨てて自分の十字架を背負いなさい、というのはなんのことだろうか?自分を捨てるというのはどういうことなのか?イエス様が背負いなさいと言っている十字架とは何なのか?人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのか?

それから、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というのは、一体どういうことか?人間、どうせいつか必ず死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのだろうか?それに加えて、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うというのはどういうことなのか?大抵の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだな、と理解するのではないでしょうか?

そういう理解も間違いではないのですが、まだ少し浅いと思います。今見てきた福音書の箇所はマルコ8章34節から38節までですが、本日与えられた箇所は、27節から33節までが最初にあり、最後に39節がきます。これらを全部ひっくるめてしっかり読むと、今見た34節から38節の内容ももっとよくわかります。結論から言いますと、先ほどの冷蔵庫の保証期間に結びつけて考えると、イエス様と福音を携えて生きる者は命の保証期間が永久にあるようなもので、携えないで生きる者は保証がなく全部自己負担で生きようとするのと同じではないかということです。壊れた冷蔵庫の場合は、保証がなくても自費で修理か買い替えかのいずれかを選ぶことができますが、命の場合は、失われたらどんなに大金を積んでも取り戻すことはできません。自己負担の限界です。しかし、イエス様と福音を持つ者は、この世での命が失われても、復活の日に神から復活の体を与えられて新しい命を生きることになるので、命の保証期間は永久にあります。こうしたことがわかるために、以下、本日の福音書の箇所をみていきましょう。

2.

 まず、本日の福音書の箇所であるマルコ8章27-38節ですが、これは、マルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、本日の箇所の出来事があり、その後でヘルモン山と推定される「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させる。それから後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点であります。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて、自分の受難と復活について預言します。

 本日の箇所の前半部分を見ていきましょう。マルコ8章27節から33節までです。まず、人々はイエス様のことを何者と考えているか、という質問をイエス様がします。弟子たちの答えから、人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが明らかになりました。それに対して、弟子のペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることが明らかになりました。その後でイエス様は、自分の受難と死からの復活について預言しました。それを聞いてショックを受けたペトロがそれを否定すると、イエス様は厳しく叱責したのです。ここで疑問として起きることは、まず、この「メシア」とは何かということです。普通、救い主とか救世主を意味すると言われます。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならないと弟子たちに命じたのでしょうか?それから、ペトロがイエス様の受難と復活の預言を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペトロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?こういう疑問が起きてきます。以下にそれらを明らかにしていこうと思います。

 まず初めに、「メシア」について。これはヘブライ語の言葉マーシーァハ(משיח)で「油を注がれた聖別された者」の意味です。具体的には、ユダヤ民族の初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束もあって(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります。(それ以外の使い方としては、イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照。)ユダヤ民族の王国が滅びると今度は、将来ダビデの家系に属しユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨する王が現れるという期待が高まります。さらにイエス様の時代に近づくと、メシアとは、この世の終わりに現れてユダヤ民族の解放を主な任務としつつも全世界に神の救いを及ぼす、そういう一民族の解放に留まらず、文字通り「世の救い主」、「救世主」という理解も出て来るようになります。

このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(クリストスχριστος)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語に訳して、イエスという名に付けたということであります。

 さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡の業も成し遂げて、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。

実は、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。触れ回ってはいけないのは自分がメシアであるということ、これを言いふらしてはならないということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアという言葉には、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解してしまったら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られた。それなのに一民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。それだけではありません。占領者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には神経をとがらせていました。もしガリラヤ地方で反乱鎮圧のため軍隊出動という事態になっていれば、エルサレムで受難と復活の任務を遂行するというイエス様の予定に支障をきたすことになったでしょう。

 ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったと思われます。それで、イエス様が宗教指導層に迫害されて無残にも殺されるという預言を聞いた時、王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのだと思います。

 それにしても、預言を否定したペテロに「サタン、悪魔」と言って叱責するのは、いくらなんでも強すぎはしないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画を邪魔することになる。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することと同然になってしまいます。これが、イエス様の強い叱責の理由です。ここで、この神の計画というものを少しおさらいする必要があります。

キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを一番の大前提にしています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまった、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために人間は死ぬ存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、造り主である神との関係が壊れているということの現れなのです。

このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしてあげようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間からその罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことでした。三週間前の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でした。そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまったか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき罪の呪いをひとり子に背負わせて、罪からくる罰を彼に叩きつけて十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦す、というものです。そこで人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いて行った神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうするとことで人間は、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。人間は洗礼を受けることで、不従順と罪を持ったままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうしてイエス様を救い主と信じる者は神の目に義(よし)とされて神との結びつきが回復して、それからは順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと良い導きを受けて生きられるようになり、万が一この世から死んだ時も、その時は御許に引き上げられて、永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

 さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にユダヤ民族解放の夢を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から降る天使の軍勢の力を得てローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち倒して、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていました。ところが、「迫害されて殺されて三日目に復活する」などと聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てのことが起きた後で、それこそが本当に全人類の歴史にとって大きな転換点になったとわかったのであります。

3.

以上マルコ8章27節から33節までをみてきました。神の人間救済計画の全容が明らかになったと思います。この計画の実現のために神はイエス様をこの世に送ったのですが、人々は自分たちの民族的悲願のため、神の計画のスケールの大きさが理解できませんでした。全てのことがわかるのには、十字架と復活の出来事を待たねばならなかったのです。

神の人間救済計画についてわかったところで、マルコ8章34節から38節を見るとその内容もよくわかってきます。

 それでは、イエス様が、つき従う者つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?それらについてみてみましょう。

 まず、私たちの背負う十字架ですが、これは、イエス様が背負ったものと同じものでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって全人類の罪と不従順を全部請け負って、罪から来る神の罰を全て引き受けて、人間の救いを実現した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。

 それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことなのでしょうか?ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に、神の霊に結びつく新しい人を植えつけられた者だと教えます。それでキリスト信仰者の人生は、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことになるのだと教えます。古い人を死なせるというのはどぎつい言葉ですが、これはそんなに物騒なことではありません。ルターが言わんとするところは、まず、自分の肉に古い人がいることを認めて、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえずそそのかすことを忌み嫌うこと。忌み嫌っているのに神の意思に反するようにと引っ張る力が働くのも現実にある。しかし、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる、その赦しを神から受け取ること。これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々押し潰されていくのであります。

そういうわけで、「自分を捨てる」というのは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこう、そういう生き方を始めることです。それはまさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。「自分を捨てる」と言うと、なにか自分で自分を律するようにして無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえますが、そうではありません。また、自分自身を放棄することでもありません。そうではなくて、神が与える赦しの恩恵に包まれて、もっともっと包まれようと赦しに次ぐ赦しを受けて自分が新しくされていく、そのことに身も心も委ねてしまうことです。古い人が衰えれば衰えるほど、新しい人が育っていくということです。

そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架も、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との間の内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違います。例えば職場や家庭などの具体的な人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。自分より良い境遇の人を妬むことで古い人が強まるかもしれません。あるいはキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を唯一の救い主と信じることが揺らいでしまって、新しい人の育ちが後退するかもしれません。このように背負う十字架は、それぞれ見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦うという点では内容はみな同じです。

 さてここで、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう(注)。36節でイエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)ですが、原語のギリシャ語ではそれぞれ違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあるくらいです。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?

先ほど、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて古い人と新しい人との内的な戦いを始めることであると申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、この内的な戦いを戦いながら神のもとに戻る道を歩んでいるかいないかを意味することが明らかになってきます。以下、35節から先を整理してみます。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、解説的に言い換えるとこうなります。「イエスを救い主と信じず古い人の言いなりのままにいて新しい人を植えて育てようとしない者は、永遠の命を望んでも、それを得られない。なぜなら、自分の造り主である神のもとに戻る道を歩んでいないからだ。しかし、イエスを救い主と信じて内的な戦いを始めた者は、たとえその信仰が原因で命を失うことがあっても馬鹿を見たことにはならない。その者は永遠の命を得る。なぜなら神のもとに戻る道を歩んでいるからだ。」

36節と37節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これも次のように言い換えることができます。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりになって生きていて神のもとに戻る道を歩んでいない者は、命に傷がついているのである。そのような者が全世界を手に入れても何の得があろうか?全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは永遠の命を買い取ることはできないのだ。」

詩篇49篇8-9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。保証書がなくて壊れた冷蔵庫だったら自費で直したり買い換えたりできます。しかし命の場合は、失ってしまったら、全世界の資産の合計を差し出しても、元に戻らないし、新しい永遠の命にも変えることができません。ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さった方がおられるのです!イエス・キリストという神のひとり子が私たちの犠牲の生け贄となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界の総資産にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を罪の支配力から解放し、本来の造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たち一人一人は、神の目から見てそれくらい高価なものなのです。

さらに神は一度死んだイエス様を復活させることで、今度は永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそこを歩むようになったのです。福音というのは、神がイエス様を用いて実現した人間の救いを伝える良い知らせを意味しますが、それは真に人間にとって命の永久保証書です。冷蔵庫の保証書はポイントを使って5年に延ばすことができましたが、こちらの方は、神のひとり子が高価な代価を払ってくれて、無限に延ばすことができました。どれだけ得をしたか考えただけで、兄弟姉妹の皆さん、気が遠くなりませんか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


(注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)

2015年9月14日月曜日

歓呼の中で最終目的地にて出迎えを受ける喜び (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年9月13日 聖霊降臨後第十六主日

イザヤ書35章4-10節
ヤコブの手紙1章19-27節
マルコによる福音書7章31-37節

説教題 「歓呼の中で最終目的地にて出迎えを受ける喜び」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 皆さんは、大勢の人から歓呼で迎えられたり歓声を受けた経験がありますか?スポーツの選手だったら、競技の最中とか、また試合や競争に勝った時は観客の歓声を浴びるでしょう。音楽を本格的にする人だったら、演奏や歌が終わった時、聴衆から拍手を受けるでしょう。そうなると、大勢の人の歓声を受けると言うのは、スポーツ選手や音楽家のように特別な才能ある人に限られて、普通の人はあまり機会がないかもしれません。それでも、小学校や中学校の運動会で走った時は応援の声を浴びたり、ゴールインした時は、たとえ一番でなくても誰かしら拍手してくれたり、「よく頑張った!」と言ってくれたのではないでしょうか?また学芸会の劇とか合唱コンクールにクラス全員で出て、観客から拍手を受けた時などは、たとえ自分は脇役くらいだったとしても、大勢の人たちから大きなこと成し遂げたと見てもらったような感じがしたのではないでしょうか?こうしたことは、大人になってしまったら、どんな感じだったかもう覚えていない人がほとんどかもしれません。しかし、大抵は誰でも歓声や拍手を受けた経験はあるものです。

本日の旧約聖書の箇所であるイザヤ書35章は、人は誰でも歓呼や歓声をもって出迎えられる可能性があることについて述べています。しかしながら、その歓呼や歓声の場所は、スポーツ競技場でもコンサート会場でもありません。それではどこでしょうか?イザヤ書35章は、神の国、別名天の御国、またの名を天国と言いますが、人がそこに迎えられる時の出迎えの様子について述べています。しかも、その歓呼や歓声たるや、大勢の天使たちが出迎えをしてあげるものです。10節に「とこしえの喜び」とあるように、永遠に続く喜びに満ち溢れた歓呼・歓声です。スポーツ競技場やコンサート会場の観客の一過性の歓声とは全く質が違う、天国に響き渡り、永遠に続く喜びに満ちた歓呼・歓声です。特別の才能があろうがなかろうが、またどんなに目立たない人生を送ってきた人でも、そのような盛大な出迎えを受けられる可能性がある、ということをイザヤ書の箇所は教えています。どうしてそのようなことが可能なのか、以下みてまいりましょう。

2.

イザヤ書35章を一読すると、渇いた荒れ地に水が溢れ出て草花が咲き乱れたりすることとか、またエルサレムに通じる道が現れて、そこを喜びに溢れて進んでいくことなどが書かれています。そうすると、この箇所は、イザヤ書40章から55章にかけて述べられている、ユダヤ民族のバビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還を先取りする内容のように見えます。バビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還というのは、紀元前500年代後半に起きた歴史的な出来事です。当時のイスラエルの民にとって、解放と帰還はそれこそ喜びに満ちた帰還でした。バビロンからエルサレムまでの荒野の道はそれこそ、水が溢れ出たり花が咲き乱れるような気分で歩むことができたでしょう。囚われの身だった人々が解放されたというのは、さぞかし歩けなかった人が鹿のように躍り上がったり、口の利けなかった人が喜び歌う、そういうイメージを彷彿させたでしょう。

 しかしながら、キリスト信仰者がこの箇所を読む時は、これを歴史的な出来事のイメージ豊かな描写という理解で終わってはいけません。5節と6節で「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」と言われていますが、これは、単なるイメージ描写ではありません。なぜなら、本日の福音書の箇所から明らかなように、こうしたことは、バビロン捕囚からの解放と帰還の500年後にイエス様が実際に全て行ったのです。本日の福音書の箇所では、耳と口が不自由な人が癒された奇跡が記されていますが、イエス様は盲目の人の目も見えるようにしたり、手足の萎えた人が自由に動けるようにする奇跡も行っています。そうしたことは単なるイメージだけでなく、実際に起きることがイエス様の事例で明らかなのです。

加えて、9節と10節をみると、「解き放たれた人々」とか「主に贖われた人々」が道を進むことが述べられています。「解き放たれた者」(9節)とは一見、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民を意味すると考えることができます。しかし、原語のヘブライ語ではそれこそ「贖われた者」( גאולימ< גאל )という意味の単語です。「贖われた」とは、囚われの身だった者が誰かが請け負ってくれたので自由の身にしてもらった、という意味です。10節の「主に贖われた人々」はもっと意味がはっきりしています。原語のヘブライ語( פדויי< פדה)では「主が身代金を払ってくれたので自由の身にしてもらった」という意味です。

「贖われる」とか「身代金を払ってもらって自由になる」という考え方は、キリスト信仰にとって要となるものです。なぜならキリスト信仰者は、人間は罪の汚れのために神聖な神との結びつきを失ってしまったが、イエス様がゴルゴタの十字架で人間の罪を請け負って神の罰をかわりに受けてくれたおかげで、神から罪の赦しを受けられるようになり、それで神との結びつきを回復できるようになったのだ、と信じます。まさにそれゆえにイエス様は真の救い主であり、彼が十字架の上で流した血こそが私を罪の奴隷状態から解放するための身代金になった、そのように自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに神は私を大切な存在に扱ってくれたのだ、とわかります。それでキリスト信仰者は、神に感謝してひれ伏し、神の意思に沿うように生きようと志向するのです。さらに、そこまで自分を愛してくれる神なら自分の思いや悩みを真摯に受けとめて聞いてくれるだろうと信頼して、神に祈りを捧げ、思いと願いを全て打ち明けるのです。

そういうわけで、イザヤ書35章9節10節にある「解き放たれた人々」、「主に贖われた人々」というのは、イエス・キリストの十字架の贖いの業が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じるようになった人たちを意味します。まさに、キリスト信仰者です。今から2500年以上前の歴史的出来事の人々にとどまりません。さらに、10節の最後をみると、「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」と言われています。同様なことが黙示録21章でも言われています。それは、最後の審判と死者の復活が起きる時に出現する新しい天と地についての預言です。その時、復活させられて神のもとに迎え入れられる者たちについて次のように言われています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3-4節)」。

ギリシャ語の新約聖書のテキストの欄外に編者の注のようなものがありますが、この黙示録の箇所はイザヤ書35章10節をもとにしていることが記されています。つまり、黙示録を書いたヨハネにとって、イザヤ書の35章は過去の歴史的出来事ではなく、新しい天と地が現れる将来の出来事を意味したのです。10節にはまた、「喜び歌いつつシオンに帰り着く」と言われています。シオンというのは、エルサレムを指す言葉ですが、ヨハネの黙示録では新しい天と地が出現する時に天から降ってくる天の御国のことをエルサレムと言っています。地上の町のことではありません。

ここで、旧約聖書の読み方について注意しなければならないことを述べておきます。旧約聖書は、もちろんイエス様以前のイスラエルの民の歴史やユダヤ民族の信仰について知る書物として読むこともできます。それはそれで意味があります。しかし、キリスト信仰者はそれにとどまってはいけません。旧約聖書には来るべき人間の救いとその救い主についての約束が随所に記されています。ルターが、旧約聖書を読む時はキリストを見いだすように読みなさい、と教えている通りです。従って、このイザヤ書35章の内容は以下のようなものと言うことができます。イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神から罪の赦しを得て罪の奴隷状態から解放された者たちが、この世の人生の歩みを経て天の御国という最終目的地に到達して、そこで歓呼と歓声をもって出迎えられるということです。以下、このことを踏まえて、35章を少し詳しく見ていきます。少し聖書研究会のようになってしまい恐縮ですが、皆様、お手元の聖書をお開き頂き、それを見ながら話をお聞き下さい。

3.

1-2節 私たちの用いる新共同訳では「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」という具合に、「喜び躍れ」は命令文です。英語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書をみると、「喜び躍ることになる」と未来の意味で訳され、命令の意味ではありません(ドイツ語の旧約聖書は手元にないので割愛します)。私としては、ヘブライ語の文法上、命令が正解と思われ、日本語訳に軍配があがるのですが、その後がよくない。最初を命令の意味に訳すと、文法上その後は目的とか結果の意味に訳さないといけないのです。つまり、こうです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠が喜び花を咲かせるために(または、「そうすれば砂漠は喜び花を咲かせるであろう」)。

 「レバノンの栄光」とか「カルメルとシャロンの輝き」というのは、これらの場所が荒れ野と全く対称的な自然豊かな土地だったのでしょう。ただここは、荒廃した自然が緑豊かに回復するという意味ではなく、今ある天と地にかわる新しい天と地の出現を暗示しています。それがわかるのが、2節の終わり「人々は主の栄光と我らの神の輝きをみる」という節です。人間は誰も神の栄光や輝きをみることはできません。罪に汚れた人間が神聖な神の前に立つと、焼き尽かされてしまいます。人間と神との落差はそれほど絶望的なものです。しかし、イエス様を救い主と信じる者に神は次のように言います。「そうか、お前は私が送ったイエスを救い主と信じ、私が彼を用いて実現した罪の赦しの救いを受け入れるのだな。ならば、お前の罪はお前のその信仰のゆえに赦される。」このように言われた者は、最後の審判や死者の復活が起きる日に神の栄光や輝きをみることができ、見ても大丈夫なのです。

3-4節 「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。」ヘブライ語の原文では「敵」とか「悪」という単語はありません。原文に忠実に訳すと、「報復が来る。神の報償が」です。この世で不正義、悪、不条理の犠牲になった者は何百倍にも償いを受けて完全な補償を受ける。逆にそのような犠牲をもたらした者は、この世の人生の段階で神の前にへりくだって赦しを乞わない限り、何百倍もの報いを受け永遠の苦しみを受けることになる。そういう人間の生前の行いが最終的に完璧に全て清算される時が来るということです。もちろんこの世の段階で、不正義、悪、不条理の問題はある程度は解決できて、被害者に償いや補償を行うこともできましょう。しかしながら、解決できないものも多く、解決できた場合も完全に正義を実現したのか疑わしい時も多々あります。だから、最後の審判の日に全ては神の意思に沿って完全かつ最終的に清算されるのです。

先ほど引用した黙示録21章4節に、神は涙をことごとく拭い取って下さる、とありましたが、それはまさに神の完全かつ最終的な清算を象徴しています。加えて、黙示録19章では天の御国は結婚式の盛大な祝宴にたとえられています。これは、この世での労苦に対する最上の労いを意味します。キリスト信仰者は、将来こういう時が待っていると知っているので、この世で悪に手を染めず、悪から試練を受けても「雄々しくあれ、恐れるな」という言葉が絶えず耳に響いているのです。およそ神の意思に沿うことなら、何事も無意味だったとか、無駄だったとかいうことは何もないとわかっているのです。

5-7節 見えない人が見えるようになり、聞こえない人が聞こえるようになり、歩けなかった人が躍り上がり、口の利けなかった人が喜び祝う。これは、死者の復活が起きる時、神の御国に迎えられる者が復活の体という特別な体を与えられることを意味します。復活の体について使徒パウロは、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです(第一コリント15章42-43節)」と教えます。イエス様は復活させられた者がどんなものかについて、ずばり「天使のようになる」と言っています(マルコ12章24節)。

 「口の利けなかった人が喜び歌う」の次ですが、ヘブライ語の原文では「なぜなら」という言葉があります。つまり、いろんな障害を抱えている人が輝かしい者に復活する。なぜなら、荒れ野に水が湧きいでて、荒れ地に川がながれるからだ、と言うのであります。この自然描写は、最後の審判と死者の復活が起こる時に出現する新しい天と地について述べています。

8節-9節 「そこに大路が敷かれる」の「そこに」というのは、ヘブライ語の言葉としては「そこに至る」と訳しても大丈夫な言葉です。新しい天と地のある場所、つまり神の御国に至る大路が敷かれたということです。イエス様を救い主と信じ、神から罪を赦してもらった人は、その道の上に置かれてあとは御国を目指して歩み続けます。「汚れた者」がその道を通れないと言われますが、これは罪の汚れを持つ者です。ただし、キリスト信仰者も肉を纏って生きている以上、罪の汚れを持っています。どこが違うかというと、信仰者の場合は信仰のゆえに罪を赦してもらっているが、信仰者でない場合はまだこの神からの赦しを得ておらず罪の汚れが汚れとして残っているのです。

8節で「主御自身がその民に先だって歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない」と言われます。最初の部分を原文に忠実に訳すと、「その道は、その道を通る者のものである」。なんだか当たり前すぎてよくわかりません。しかし、次の行「愚か者がそこに迷い入ることはない」をよくみれば意味がわかります。「愚か者」とは、神の知恵からかけ離れた者のことです。神の意思を知らず、神の導きに自分を委ねたくない人です。翻って、「その道を通る者」とは神の意思を知っていて、神の導きに自分を委ねる、神の知恵に与った人です。「道」は、そのような者の道なのです。

 この天の御国に至る道は、獅子も獣も入り込めない道と言われます。つまり、しっかり守られ安全な道なのだという。しかし、御国に至る道を歩む者が危険や災難に一切遭遇しないとは言い切ることはできません。だったら、安全ではないでないか?と言われてしまうでしょう。使徒パウロが次のように教えていることを思い出しましょう。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです(ローマ8章38-39節)」。危険や災難に遭遇しても、それらには信仰者から神の愛を引き離す力は持っていないのであります。それで安全なのです。

10節「主に贖われた人々は帰って来る」。「主に贖われた人々」とは、イエス様が十字架で犠牲の死を遂げたことで私の罪は赦され、イエス様のおかげで罪の奴隷状態から贖われた、と信じる者です。「帰って来る」というのは、神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復させた者が、最初の人間アダムとエヴァが堕罪前にいた楽園にまた帰って行く、という意味です。このようにイエス様の十字架の贖いの業というのは、最初の人間が失ったものを取り戻す意味があります。

「シオン」とは、先ほど申しましたようにエルサレムの別名で、エルサレムも地上にあった現実のエルサレムの町の意味の他に、天の御国も意味します。

「とこしえの喜びを先頭に立てて」。ヘブライ語の原文では、「とこしえの喜びは彼らの頭上にある」です。「喜びと楽しみが彼らを迎え」。「迎え」と言っているのは、原文では「取って替わる」という意味がある動詞です。「喜びと楽しみが取って替わる」というのははっきりしませんが、すぐ後で「嘆きと悲しみは逃げ去る」と言っているので、「贖われた人々にとって喜びと楽しみが全てに取って替わり、嘆きと悲しみはもう入り込む余地がなくなって退散せざるを得ない」という意味でしょう。

4.

以上、イザヤ書35章というのは、キリスト信仰者が歩むことになる道、永遠の命に至る道がどんな道でどこに至るかをよく教えている箇所であることが明らかになりました。その途上で信仰者は決して危険に遭遇しないとは言えないけれども、どんな危険や困難も、信仰者を神の愛から引き裂く力を全く持っていないのです。そしてこの世が終わりを告げて死者の復活が起こる時、信仰者は朽ちない復活の体を与えられ、天の御国にて神の天使たちの盛大な出迎えを受けます。到着する方も出迎える方も、ただただ喜びに満たされています。それこそ、天使たちが「おめでとうございます!よく頑張りましたね!」と叫ぶのが聞こえそうなくらいです。

本日の福音書の箇所で述べられているイエス様の奇跡の業について一言。イエス様は、イザヤ書35章や他の章にも預言されているいろんな癒しの奇跡を行いました。イザヤ書35章をよく見ると、難病が癒されるのはそれこそ終末の時、新しい天と地が出現する時の出来事として記されています。それがまだその時でない段階で、どうして奇跡の業を行ったのでしょうか?

それは、神の国がイエス様とともにあったからです。イエス様は活動開始の頃、「悔い改めよ。神の国は近づいた!」と宣べ伝えました。「近づいた」というのは、ギリシャ語の原文ではエンギケン(ηγγικεν)という言葉で、これは「近づいた」と言うよりは、ずばり「もう来た」とか「もうここにある」という意味です。神の国は、先ほども見ましたように、復活の体を与えられて朽ちない存在に変えられた者が集い、なんらの嘆きも悩みも苦しみもなく死もなく、病気も飢えもない世界です。そんな神の国がイエス様にくっつくようにして一緒にいたのです。だからイエス様が触れたりまたイエス様に触れれば、神の国の影響力が働いて病気が治ってしまう。イエス様が一声かければ嵐は静まり、わずかな食糧で数千人もの人たちを養ったりしました。つまり、当時の人たちは、まだ最後の審判や復活の日が来る前に神の国を垣間見たないし味わったのです。

しかしながら、いくらイエス様に癒してもらったり、空腹を満たしてもらったりして神の国の力や影響力を体験したとは言っても、これらの人々はまだ神の国の外部に留まっています。神の国の内部にはいれるようになるためには、これはイエス様のゴルゴタの十字架の贖いの業と死からの復活がなされるのを待たなければなりませんでした。それらが成就した後で、人はこれらの出来事が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神の国に至る道に置かれてその道を歩み始めるのです。まさに、イエス様がイザヤ書35章で言われる大路、聖なる道を敷いたのです!キリスト信仰者は、この道がどこに向かって、最終目的地はどんな場所か、そしてそこでは歓呼と歓喜を持って出迎えを受けるということを知っています。

雄々しくあれ、恐れるな。חזקו  אל-תיראו
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
ששון  ושמחה  ישיגו  ונסו  יגון  ואנחה

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン