2013年9月17日火曜日

命を買い戻せる代価(マルコ8章37節)とは? (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年9月15日(聖霊降臨後第十七主日)
スオミ教会にて

イザヤ書50:4-11、
ヤコブの手紙2:1-18、
マルコによる福音書8:27-38

説教題 命を買い戻せる代価(マルコ8章37節)とは?



私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所は、読み通していくと、さほど難しいことはなく、理解できる気がします。まず、人々がイエス様のことを過去の預言者がよみがえって出てきた者と考えていることが明らかになりました。それに対して、ペテロはイエス様のことをメシアと信じていることが明らかになりました。その後で、イエス様は御自分が受難のうちに死ぬも三日目によみがえると預言します。これにショックを受けたペトロがそれを否定するとイエス様は激しく叱責しました。その後で、イエス様は、自分につき従う者は各自それぞれの十字架を背負わなければならない、とか、何が命を救うことになり何が失うことになるかについて教えます。そして、人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか?自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか?という有名な言葉が続きます。読む人は誰でも、イエス様は命のかけがえのなさ、大切さを教えているのだと理解するでしょう。

しかし、本当に理解したのかな、わかったつもりはいやだな、と二、三度読み直してみると、一度目には気づかなかったようなことが出てきます。例えば、ペトロがイエス様のことを「メシア」と信じていると言った時、そのメシアとは何だったか?確か、救い主、救世主という意味だと聞いたことがあるな。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならない、と弟子たちに命じたのか?また、イエス様が受難の死と死からの復活を預言した時、ペトロがそれを否定して、イエス様は激しく叱責する。ペテロのことをサタン、つまり悪魔呼ばわりさえする。ペテロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?さらに、イエス様がつき従う者に背負いなさいと言った十字架とは何なのか?何か人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのだろうか?それから、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、一体どういうことか?どうせ失われるのだから、自分の命を救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?さらに、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うとはどういうことか?一度失った命が救えるというのは、一体どういうことなのか?

このように、聖書は一度読んでわかったような気がしても、何度か読み返すと、実はわからないことだらけだった、というようなことがいつも出てきます。しかし、不理解点を発見できることで、私たちは、自分の造り主である神の御心・御意思を明らかにしていこうとする出発点に立つことができます。どうか、本説教を通しても、それが明らかになりますように。

2.

 まず初めに、ペトロがイエス様のことを「メシア」と言った、そのメシアについて少し解説します。これはヘブライ語の言葉(משיחマーシーァハ)で「油注がれた者」の意味です。具体的には、イスラエルの初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は、神の約束もあって(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります(それ以外の使い方としては、イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照)。ユダ王国が滅びると、今度は、将来ユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨するダビデ家系の王が現れるという期待が強まります。イエス様の時代に近づくと、メシアとは、ダビデ家系でユダヤ民族解放を主任務とはしつつも、この世の終わりに現れて、神の救いを全世界に及ぼす救世主という理解も持たれるようになります。

 このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(χριστοςクリストス)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語になおして付けたということであります。

 さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡を成し遂げており、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。従って、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。メシアということについて、自分がメシアであるということについて人に話すな、ということだったのです。どういうことかと言うと、先ほどもみましたように、メシアの意味として、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解したら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られました。それなのに一つの民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。加えて、支配者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には常に神経をとがらせていました。王国復興者としてのメシアの噂が広がれば、反乱鎮圧のための軍隊出動という事態になったでしょう。そうなれば、エルサレムに赴いて受難と復活を遂行するというイエス様の行動計画に支障をきたすことになったでしょう。
 
 ところで、ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったと考えられます。それで、イエス様が迫害されて無残にも殺される、という預言を聞いた時、王国復興の期待を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならない、と否定してしまったのだと言えます。

3.

 それにしても、預言を否定したペテロを「サタン、悪魔」呼ばわりして叱責するとは、いくらなんでも言い過ぎではないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死をくぐり抜けて死からの復活を実現しなければならない、そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画の実現を邪魔することになる。神の計画の実現を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、神の計画を認めないというのは、悪魔に加担することになってしまいます。ここで、この神の計画とは何かということについて少しおさらいをしましょう。

キリスト信仰では、人間は誰もが神に造られ、神から命と人生を与えられたということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。

このため神は、人間との結びつきを回復させようと、また、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順の汚れを除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。マルコ7章の初めにイエス様とファリサイ派の有名な論争がありますが、それは、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、人間は自分の造り主との結びつきを失ったままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対して神がとった解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いを全てこのイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、イエス様を犠牲に用いた神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのイエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪が残ったままイエス様の神聖さを頭から被せられます。人間はこのようにして、造り主である神との結びつきを回復し、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得てこの世の人生を歩めるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。
 
 さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にユダヤ民族解放の期待を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から下る天使の軍勢の支援を受けてローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち滅ぼして、永遠に存続するダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていたことでしょう。ところが、「迫害されて殺されるも、三日目に復活する」という預言を聞かされて、最初、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てが起きた後で、あれは特定民族を超えて全世界に及ぶ神の人間救済計画の実現だったのだ、とわかるようになったのであります。

4.

 それでは、イエス様が、「つき従う者」つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か。そして、命を救う、失う、と言っていることは何か。それらについてみてまいりましょう。

 まず、私たちがそれぞれ背負うべき十字架とは何か?自分を捨てるとはどういうことなのか?これについては、先週の礼拝説教でも取り上げました。イエス様を救い主と信じ、神との結びつきの中で生きられるようになったキリスト信仰者というものは、そのような結びつきを可能にして下さった神と御子に絶えず感謝の念を抱く者です。その感謝のゆえに、神の御心・御意思に従って生きるのは当然という心を持っています。神の御心・意思とは十戒に凝縮されていますが、イエス様はそれをさらに凝縮して二つの掟の形で提示しました。一つは、「神を全身全霊全力をもって愛せよ」という神への愛、もう一つは、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛です。先週の説教でも強調したところですが、隣人愛は、神への愛から独立してあるのではなく、それを土台としてあります。それゆえ、キリスト信仰者の隣人愛というものは、隣人が同じ信仰者である場合には、隣人がしっかり信仰にとどまって神との結びつきの中で生きられるように助けることが底流にあります。隣人が信仰者でない場合も、その人がいつの日にか、イエス様を救い主と信じて、その人の造り主でもある神との結びつきの中で生きることが出来るよう導いていくことが底流としてあります。このような神への愛と隣人愛の実践は、実社会・実生活の中ではいろいろな困難をもたらします。しかし、それにもかかわらず、神の御心・御意思である以上はやるしかない。これが、十字架を背負うことであり、自分を捨てることである、と申し上げた次第です。

 ところが、こうは言っても、私たちは、神を果たして全身全霊全力で愛していると言えるかどうか、隣人を自分を愛するが如く愛していると言えるかどうか、という局面に多く出くわします。失敗ばかりで、神の御心・御意思に従って生きるなど、もう不可能だ、と思わされることが多く出てきます。
 
 この問題について、ルターがキリスト信仰者というものをどう捉えているか、それを見るのが有益です。ルターによれば、キリスト信仰者とは、神の霊に結びつく新しい人を自己の内に植えつけられた者ということになります。そこで、キリスト信仰者の人生とは、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことだ、とルターは教えます。古い人を死なせるというのは、言葉はどぎついですが、これはなにも物騒なことではありません。ルターによれば、まず、自分の肉の内に古い人があることを素直に認め、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえず導くことを心から悲しみ忌み嫌うこと。そして、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる。そのようにして神から赦しを不断に受け取ること。これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々力を失っていくのであります。聖餐式でパンとぶどう酒を頂く毎に、このプロセスは強まっていきます。

「自分を捨てる」とは、一般に思われがちですが、なにか自分で自分を律せられる無私無欲の立派な人間を目指していくということではありません。それは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこう、という歩みを始めることです。このプロセスは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。

 最後になりましたが、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう。35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという言葉です。生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力の核のようなものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。36節で「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)のギリシャ語は違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。それで、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあります。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?

34節の「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、感謝に満たされて神の御心・御意志に従って生きるということでありました。これにあわせて、神との結びつきの中で、内なる新しい人を日々育て、古い人を日々死なせ、神のもとに永遠に戻る道を歩むことであるとも申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を「救う」とか「失う」とか言っているのは、実は、造り主である神のもとに戻る道を「歩んでいるか」「歩んでいないか」ということであることが明らかになってきます。これに沿って、以下に、35節以下を整理してみます。

35節はこうなります。「自分を捨てようともせず十字架を背負おうともせずして、永遠の命を得ようとしても、それは得られない。なぜなら、それは造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいないからだ。しかし、自分を捨てて十字架を背負う者は、信仰の迫害にあって命を失おうとも、永遠の命を得る。なぜなら、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいたからだ。命を失った瞬間に父なる神は御手をもってその人をみもとに引き上げて下さる。」

36節はこうなります。「たとえ全世界を手中に収めても、命に関して欠けていることがあれば、何の役に立とうか?造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいない者は、全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは死の瞬間に永遠の命を買い取ることはできないのだ。」

そして、37節に続きます。「人間は、今の命が終わった後の命を買い取ろうにも、何を代価として支払うことができようか?全世界も財産も代価としては不足すぎるのだ。」詩篇49篇8-9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。しかし、人間にこの代価、身代金を支払って下さる方がついに現れたのです。それが、イエス様の十字架の死だったのです。神のひとり子が犠牲となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界や財宝にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を奴隷状態にしていた罪と不従順の力から私たちを解放し、造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たちは今、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでおりますが、この道の歩みにおいて、どんなことが起きても、私たちの命は、とてつもなく尊い犠牲を払ってもらって造り主である神のもとに買い戻された命であるということを忘れないでいきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2013年9月9日月曜日

イエス様の弟子として生きるとは、どういうことか? (吉村博明)



説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年9月8日(聖霊降臨後第16主日)
スオミ教会にて

申命記29:1-8、
フィレモンへの手紙1-25、
ルカによる福音書14:25-33


説教題 イエス様の弟子として生きるとは、どういうことか?


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は難しいところです。私たちの理解を困難にするものとして、二つの大きな問題があります。まず一つは、父親、母親、娘、息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと、イエス様の弟子になれない、とイエス様が教えていることです。十戒の第四の掟は「父母を敬え」です。イエス様は、自分をこの世に送られた父なる神が命じることに反することを教えようとしているのでしょうか?またイエス様自身、「自分を愛するが如く隣人を愛せよ」と教えているのに、親兄弟娘息子を憎まないと弟子にはなれない、とはどういうことなのか?イエス様は、矛盾することを教えているのでしょうか?

 もう一つの問題は、塔を建てる者と戦争に臨む王のたとえです。塔というのは、マルコ12章やイザヤ5章に出てくるように、大きなブドウ園を造る者が見張りの塔を建てるというように、ブドウ園にはつきものでした。せっかくブドウ園を造っても、見張りの塔が建てられなかったら、実ったブドウは容易く盗まれてしまいます。マルコ12章とイザヤ5章をみると、ブドウ園を造る時、見張りの塔の建設は順番として最後にくるものだったようです。さて、ブドウ園経営者は前もって、お金が足りるかどうかしっかり計算して、もし足りないとわかったら、誰かから借りるとか、ブドウ園を縮小するとか、何か策を講じなければなりません。それをしないで、自分には十分資金もある、大きなブドウ園も出来た、さあ仕上げは見張りの塔だ、といざ塔の基を築いた段階で、お金が足りなくなって建設が中断してしまったら、周囲の者から「建て始めておきながら、最後まで終わらせることができなかった」と笑い者になってしまいます。

 もう一つのたとえは、戦争に臨む王です。二つの王国の間の利害が衝突し、それに決着をつけるために戦争状態に突入する。それぞれの王が兵を引き連れて戦場に臨む。その時、一方の王が、この戦いは自分にとって有利が不利か計算を始める。自分には1万の兵がいるが、相手は2万いることがわかる。これは勝ち目がないと判断し、まだお互いの軍勢が遠く離れている段階で、相手方に使いを送って、講和を求める。恐らく講和の条件は、先に和平を乞うた者にとって不利になるかもしれませんが、それでも、戦いに敗れて国が滅亡することは回避できます。
 
 このように二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。何か事をする場合には、まず、達成しようとしたり獲得しようとするものと、それにかかる費用や犠牲を冷静によく比較して、自分の持っているもので達成可能かどうかよく検討すべきだ、もし費用や犠牲が莫大になる、とか自分の持っているものでは達成不可能だとわかれば、即やめなさい、と。物事にあっては、常に慎重に冷静に判断することが大事だ。向う見ずなこと、無謀なことはしてはいけない。これは、真に理に適った、常識に適った教えであります。
 
 ところが、33節を見ると、イエス様は、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われる。冷静なブドウ園経営者や国王は、笑い者にならないように、また国が失われないように合理的かつ理性的に行動したのであります。しかし、イエス様は、突然、捨てる覚悟がないと自分の弟子にはなれない、と言うのであります。それこそ、一度、基を築いたら、資金のことはかまわず建設を続行せよ、と。また、一度、出陣したら、兵力の差は気にせず、そのまま進軍を続けよ、それが弟子としての本道である、と教えているのであります。そうなると、前の二つのたとえが語っている冷静な判断、合理的・理性的行動と矛盾してしまいます。
 
以上、親兄弟娘息子を憎まないと弟子にはなれない、とか、一見、向う見ずなこと無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子にはなれない、とか、イエス様は一体何を言いたいのでしょうか?本日の箇所は、こうした難しさを持ってはおりますが、実は、聖書の他の箇所を思い出しながら、よく読んでみると、次第にわかってくるところです。多少、ギリシャ語やヘブライ語の知識を持つ信仰者の手助けもあるといいのですが、要は、イエス様を救い主と信じる信仰をもって読むかどうかが決め手となります。(ギリシャ語やヘブライ語の知識を持っていても信仰がなければ、意味のある理解には役立たないということです。)以下、本日の箇所の解き明しに入ってまいりましょう。

2.

まず、親兄弟娘息子を憎まないと弟子にはなれないという教えについて。「憎む」という言葉は、ギリシャ語のμισεωミセオーという動詞をそのまま辞書的に訳したものです。しかし、これは旧約聖書の「憎む」שנאサーネーアという動詞の使い方を念頭においてみると、必ずしも「憎む」と訳さなくてもいい言葉です。どういうことかと言うと、創世記29章にラバンがヤコブに初め長女のレアを、次に次女のラケルを妻に与えた出来事があります。ヤコブはレアを「疎んじた」(31節)。この「疎んじた」は、ヘブライ語の「憎む」という動詞でこれを辞書的に訳すると「レアはヤコブに憎まれた」(שנואה)となります。しかし、ヤコブは実際にはレアを憎んだのではなく、レアよりもラケルをより愛した、それで、レアにそっぽを向いた、ということです。申命記21章15節をみると、男に二人の妻があった場合で、彼が一方の妻を愛し、他方を「疎んじて」いた場合、遺産相続はどうなるか、という規定があります。「疎んじられた」妻が第一子を産んだ場合、財産配分では、たとえ「疎んじた」とは言え、その子供に第一子の地位を認めなければならない、より愛した妻の子を優先させてはならない、という規定です。この「疎んじた」も、ヘブライ語の動詞「憎む」が使われています(שנואה)。つまり、その正確な意味は、「他方よりも少なく愛された」という意味です。
 
以上、旧約聖書のヘブライ語の「憎む」という動詞が幅広い意味を持っていることが明らかになりました。これを念頭において、本日の箇所でイエス様が口にする「憎む」という動詞を考えてみると、意味がよくわかります。つまり、親兄弟娘息子を「憎む」のではなく、「これらの者に比べて神の方をより多く愛する」ということであります。親兄弟娘息子を愛するのは当然だが、それよりも神に対する愛が大きくなければ、弟子になれない、ということであります。

これで、ああ、肉親を憎まなくてよかったんだ、と安心するやいなや、すぐ次の壁にぶつかります。神の方を多く愛して、肉親を少なく愛するとは、どういうことなのか?やはり、肉親を軽んじることになるのではないだろうか?もちろん、神が全ての上に立つ以上、神に対する愛を多くして、肉親に対する愛を少なくするというのは論理としてわかるが、それでも肉親に対する愛を何かに比べて少なくしてもよい、というのはどうも腑に落ちない。イエス様自身は、「自分を愛するが如く隣人を愛する」ことは神の最重要な掟である(マルコ12章31節等)、と教えているではないか?

イエス様は十戒を二つの掟の形に集約して、これこそ最重要な掟である、と教えました(マルコ12章28-34節)。この二つの最重要な掟の筆頭にくるのは、こうでした。「私たちの神である主は、唯一の主である。あなたは、あなたの神を全身全霊全力をもって愛せよ。」そして、その次に来るのが、「あなたは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ」です。つまり、隣人愛は最も重要な掟ではありますが、実はこれに先立つものとして、唯一の神を全身全霊全力をもって愛せよ、という掟があるのであります。つまり、隣人愛の掟というものは、神への愛の掟から独立してあるのではなく、実は、神への愛の掟に基づいてあるのであります。

ルターは、神への愛と肉親に対する愛の関係について大体次のように教えています。「肉親を愛し仕えるのは神の意思として当然である、しかし、肉親が、私たちに対して神の意思に反することを要求して、私たちの説得や懇願にもかかわらず、態度を変えず、また、ひどい場合には、神を唯一の主と信じる私たちの信仰、御子イエス様を唯一の救い主と信じる私たちの信仰を止めさせようとする場合には、肉親に何を言われようが、何をされようが、信仰に踏みとどまって、第一の掟を守らなければならない。」
 
もし、肉親が、信仰を捨てないともう肉親として認めないぞ、と強硬な態度を取る時もあるでしょう。また、肉親を愛していると言うんだったら、そんな信仰を捨てて戻ってきておくれ、と泣き脅しになる可能性もあります。つまり、私たちがキリスト信仰に踏みとどまることが、あたかも肉親を愛していない証拠のように言うことです。しかし、それは筋違いです。なぜなら、たとえ肉親が私たちの信仰を認めなかったり、信仰のゆえに私たちを悪く言ったとしても、私たちとしては、もしその人たちが困難な状態に陥れば、すぐ助けの手を差し出す用意があるからです。そういうわけで、私たちの側では、隣人愛の掟は神への愛の掟としっかり結びついて維持されているのです。こうしてみると、イエス様の弟子とは、とやかく言われて悪く言われて、なおかつ、まさにそのような人たちのために祈ったり、必要とあれば助けてあげなければならない、なんだかずいぶんお人好しで馬鹿をみるような人生だな、と思われてしまうかもしれません。しかし、それが本日の箇所でも言われている、各自が背負う十字架(27節)なのであります。

少し個人的なことになりますが、昔、フィンランドで大学の神学部の学生を先生にして聖書を学んでいたことがあります。ある時、十戒の第四の掟「父母を敬え」と神への愛との関係について、彼に尋ねたことがあります。もし、神への愛と「父母を敬え」が対立関係に陥ったらどうすればよいのか?その場合は、父母を敬わなくてよいのか?彼の答えはこうでした。もし両親が、君の信仰に反対することになった場合、君のなすべきことは、まず信仰に踏みとどまることである。両親に対しては、自分の信仰について落ち着いて、かつ一層の尊敬の態度をもって、話して聞かせてあげることだ。見解の相違はあっても、両親に対して尊敬の態度を示すことはできるし、また示さなければならない。そのようにして、神を全身全霊で愛し、父母を敬うのだ。ひょっとすれば、両親が君の信仰を認めるという寛容を勝ち得ることができるかもしれない。さらにひょっとすれば、両親が君をきっかけとしてキリスト信仰に入っていく可能性もあるのだ、と。

このことからもわかるように、キリスト信仰者にとって隣人愛とは、愛の対象となっている人たちを、イエス様を救い主と信じる信仰に導く志向性が血液の中に流れていることである、と言えます。そこが、他の宗教や無宗教の人たちが行っている様々な弱者救援活動や支援活動と決定的に違うところです。

ここで、今言いました「イエス様を救い主と信じる信仰」ということについて、短くおさらいをします。それは、とりもなおさず、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えられた全ての造り主の神を信じることであります。その造り主の神と造られた人間の関係は、創世記の堕罪の出来事に示されているように人間に内在する神への不従順と罪のために崩れてしまいました。ところが、神はそれを回復しようとして、独り子イエス様をこの世に送られました。そして、神聖な神と人間を分け隔てていた罪と不従順の汚れを全て、ゴルガタの十字架でイエス様に覆い被せ、あたかも彼が全ての罪の張本人であるかのようにしてその罰を全て彼に受けさせて死なせました。このようにして神は、人間のためのイエス様の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。しかし、それだけでなく、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命、復活の命への扉を人間のために開かれました。人間は、このイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しの救いが自分に対して効力を発することとなって、それからは、自分の造り主である神との結びつきの中で生きられるようになりました。神との結びつきの中で生きられるとは、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得られて生きることであります。仮に、不運にもこの世から死ぬことになっても、その瞬間神は御手を伸ばして、私たちを御許に引き上げて下さるのです。以上が、イエス様を救い主として信じる信仰を持つことであり、この信仰を持つ者には、これらのことが全て起きるのであります。このような信仰をもって生きる者からすれば、先ほど申しました、神への愛と隣人愛を二つ背負っていく十字架の重さなどいかほどのものでありましょうか?

神がイエス様を用いて実現した人間の救いは、全人類のために行われたものですが、このことを知って、イエス様を自分の救い主と信じて、この救いを実際に所有している人たちは、まだ全人類のなかの一部です。一度所有した筈が、手放してしまったような人たちも大勢います。どうか、私たちの隣人愛が至らないものであっても、救いの所有者が増えていくのに少しでも役立つものとなりますように。

3.

次に、塔を建てる前に予算をしっかり計算する人と、負けが明らかな戦をする前に講和を求める王のたとえで、冷静な判断や合理的な行動を勧めているようにみえつつも、「自分の持ちものを捨てなければ弟子にはなれない」と述べて、逆のことを教えているようにみえることについて、見ていきましょう。
 
実は、イエス様の教えには矛盾はありません。イエス様は、まさに、弟子になるということは、見積もりを立てずに塔を建てるようなものだ、また圧倒的多勢の軍勢に立ち向かっていくようなものだ、と教えているのであります。それでは、何のためにこの二つのたとえを引き合いに出したのでしょうか?

本日の箇所の流れをよく目を見開いて見ていきましょう。まず、親兄弟娘息子を「憎まないと」弟子にはなれない、という教えが来ます。これは先ほど申しましたように、肉親に対する愛よりも神への愛を優先させて、それを土台に隣人愛を行っていく、ということであります。神への全身全霊全力の愛と、それに基づいて、自分を愛するが如く隣人を愛する、父母を敬う。これは重い十字架を背負うことになる、と申しました。しかし、神がせっかく全ての人間のために用意した救いがまだ一部の人にしか受け取られていない現状では、既に受け取った私たちとしては、背負って当然なものであります。なぜなら、受取人が増えるのが神の意思であるからであります。

さて、イエス様がこのように教えた後で、二つのたとえが来ます。その意味はこうです。弟子の生き方とは、なるほど負荷がかかるものである。ところで、お前たちは、塔の建設者が普通するように、後で笑い者になることを心配して前もって綿密に計算をするであろう。また、素早く計算して負けが明らかな戦をしないで講和を結ぶ王と同じである。これが、今のお前たちの生き方なのだ、こう指摘するのです。そして、問題の33節で言っていることは、こうです。このように自分の持っている物を捨て去る覚悟のない者は、私の弟子にはなれないのだ。つまり、塔建設者や王のように計算づくではだめだ、ということなのです。日本語訳で「同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人として私の弟子ではありえない」と言っているのは、ギリシャ語に忠実に訳すると、「あなた方の中で、このように(ουτως)自分の持ち物を一切捨てない者は、だれも私の弟子ではありえない」です。つまり、塔建設者や王のように自分の持ち物を一切捨てない者は、ということです。
 
28節と31節で、塔建設者や王が計算する時に、日本語訳で、「まず腰をすえて」と書いてあります。これでは、なんだか、計算することが正しい立派な行いであるような印象を受けます。しかし、ギリシャ語の原文は、両方とも、「まず座って」πρωτον καθισαςです。つまり、何か実行しようと思ったが、ちょっと待てよ、うまくいくかな、と心配して、要は「立ち止まって」計算を始めた、ということです。一度決めたら後ろを振り返らずに前に進まないと弟子にはなれないのであります。ルカ9章62節で、イエス様は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と教えています。また、士師記7章を見ると、ギデオンが最初3万3千人の兵を率いて、敵に向かっていくところがあります。その時、神は、「これでギデオンが勝ったら、イスラエルは神に対して驕りがおきて、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と見越して、ギデオンに命じてどんどん兵士を減らさせ、最後は300人だけで行かせ、勝利を得させました。このように神は、普通の計算からでははじき出せないような結果を用意される方なのです。

そうなると、次のような疑問が浮かびます。キリスト信仰者とは、なんと無謀、向う見ずな者なのか、と。こんなことでは、どんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう。計算は前もってしっかり立てて、物ごとに望むべきではないか、と。ここで注意しなければならないのは、イエス様の教えていることは、あくまで、イエス様の弟子として生きるということ、イエス様を救い主と信じて生きること、つまり信仰に関係することについて言っているということです。何か事業を起こす時とか、家を建てる時とか、そこで見積もりや見通しを立てないでやれ、ということではありません。そうではなく、キリスト信仰者として、神を全身全霊全力をもって愛し、かつそれに基づいて隣人を自分を愛するが如く愛する、ということについて言っているのです。その時に、キリスト信仰者は、自分の合理的・理性的な判断に頼るのではなく、神から与えられる力と助けと良い導きにのみ頼らなければならないということなのです。人間的な打算や見積もりが先に来れば、これこれの場合に神を全身全霊で愛すると、また隣人愛を行うと、かれこれの損失を被る、とか、誰々から笑い者になったり、中傷されたり、背を向けられたりする、という計算結果が出てきます。これで、神への愛や隣人愛に躊躇の心が生まれれば、結局、全知全能の神への信頼ということがなくなって、その神をさしおいて、被造物にすぎない人間の限られた理性や判断力に信頼するということになってしまいます。神への愛も隣人愛もそして信仰そのものも、人間の限られた能力の管理下に置かれることになります。
 
しかしながら、こと信仰に関する限り、私たちは、私たちの造り主である神、イエス・キリストを通して罪の奴隷支配から私たちを贖って下った神、そして永遠の命・復活の命に至る道に置いて下さった神、この神から助けと良い導きは絶えず与えられているのだと信頼して、この道を歩まなければなりません。しかし、これは、言うほどたやすいことではありません。私たちには、理性や計算能力があり、また自己保存欲があるからです。しかし、神は、死を超えた永遠の命、復活の命に至る道に私たちを置いて下さり、私たちは今その道を歩んでいるのです。この道の途上には、理性や計算能力ではじき出される結果よりも、はるかに大きなものが待っています。神はもっと大きな結果を用意しておられます。どうか、そのことを忘れずに、信仰の人生を共に歩んでまいりましょう。
 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン