説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2026年11月1日 全聖徒主日
ヨハネの黙示録7章9-17節
ヨハネの第一の手紙3章1-3節
マタイによる福音書5章1-12節
説教題 「キリスト信仰者が幸いなのは、秘められたものを持っているから」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今日の福音書の個所は有名なイエス様の「山上の説教」の出だしのところ、「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。9つのタイプの人たちが「幸い」と言われます。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、イエス様のために罵られ迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人です。これを読んで違和感を抱く人もいると思います。心の清い人や平和を実現する人が幸いというのはわかるが、悲しんだり迫害される人を幸いというのは当たっていないのじゃないかと。「幸い」というのはギリシャ語のマカリオスの日本語訳です。「幸せ」ではなく「幸い」と訳されました。普通の幸せではない、何か特殊な「幸せ」なので「幸い」と訳されました。「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとっての幸せだという、神の視点での幸せです。人間が自分でこれが幸せだと考えるのとどこか違います。そういうわけで、人間的な視点での「幸せ」からちょっと離れて神の視点での「幸い」とは何かを考える必要があります。
ところで、このイエス様の教えを最初に聞いた群衆は果たして9つのタイプが神の視点で幸せ、幸いであるとわかったでしょうか?私が思うに、彼らはわからなかったのではないかと思います。どうしてかと言うと、ユダヤ教社会の伝統では「幸いな人」とは、旧約聖書の詩篇の第1篇で言われているように、律法をきちんと守って神から愛顧を受けられる人のことです。ヘブライ語でアシュレーと言います。また、詩篇の第32篇を見ると、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫な人のことをアシュレー/幸いと言っています。このように律法を守って生きて、その見返りとして神から愛顧を受ける、もし神の意思に反する罪を犯したらエルサレムの神殿で動物の生贄を捧げる贖罪の儀式を行って赦しを頂く、これがユダヤ教社会にとって幸いでした。イエス様はそういったことには触れず、心の貧しい人、悲しんでいる人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を作る人、義のゆえに迫害される人、イエス様のことで悪く言われたり迫害される人が幸い、神の目から見て幸せと言うのです。これは一体どういうことか?今日はイエス様が教える「幸い」について見ていきましょう。
2.
このイエス様の「幸い」の教えをギリシャ語の原文に沿ってじっくり見ていくと、日本語の訳では見えてこないことが見えてきます。それが見えると、この教えをもっとよく理解できるようになります。
まず、「~する者は幸いである」と言った後に、必ず「なぜなら」という言葉が続きます。日本語訳では抜け落ちていますが、「悲しんでいる者は幸いである。なぜなら彼らは慰められることになるから」とイエス様は言っているのです。つまり、悲しむこと自体が幸いなのではなく、逆転が起きるから幸いなのです。だから、今悲しんでいるのは将来慰めに取って代わられる前触れに過ぎないということです。
次に日本語訳で見えないことは、「なぜなら」で始まる文の動詞が未来形ということです。慰めも、地の受け継ぎも、義の渇きの満たしも、憐れみを受けることも、神を見ることも、神の子と呼ばれることも全て将来必ずそうなるとイエス様は約束されているのです。ここで問題になるのは、では、その将来とはいつのことか、逆転が起きるのはいつかということです。それについてはこの説教の終わりで明らかになります。ここの一つ注意すべき点は、慰めや地の受け継ぎなどは将来起こることなのに、心の貧しい人と義のゆえに迫害される者が神の国を持つのは現在形です。将来ではなく今の時点で持っているということです。それゆえこれらの者は幸いであると。神の国を今持っているというのはどういうことか、これもこの説教の終わりで明らかになります。
もう一つ日本語訳で見えないことは、新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、「~される」という受け身の文がある時、誰によってそうされるかと言えば、それは大抵は父なる神が隠された主語になっているということです。なので、慰めるのも、義の渇きを満たしてくれるのも、憐れみを授けるのも、神の子と呼ぶのも全部神がそうされるということです。そういうわけで、幸いな者というのは、今は人の目から見て惨めとか取るに足らないような状態にあっても、将来は全てが逆転する、神の取り計らいでそうなると信じる者なのです。まさに神の視点で幸せ、幸いな者なのです。
さらに、もう一つ日本語訳で見えないことはがあります。それは、最初の「心の貧しい人」です。ギリシャ語原文では「霊的に貧しい人」で、心を意味するカルディアではなく霊を意味するプネウマという言葉です。英語、フィンランド語、スウェーデン語、ドイツ語ルター訳でも「霊的に貧しい」と訳しています。どうして日本語が「心の貧しい」になってしまったのか、大体理由はわかりますが、後の8節に出てくる「心の清い人」はギリシャ語は「心」を意味するカルディアです。しかし、この3節は「霊」を意味するプネウマを使っています。なので、ここに「心」を当てはめるのはよくないと思います。それで、これからは「霊的に貧しい人」と言い換えます。
そうすると、「霊的に貧しい人」とはどんな状態なのかを考えなければなりません。「心が貧しい」と言うと、「あの人は心の貧しい人だ」などと批判することがあります。それで「心が貧しい」というのは人間同士の間での何か至らない状態を意味します。「霊的に貧しい」というのは相手が人間ではなく神を前にしての自分の至らない状態を意味します。それでは、神を前にした至らない状態とはどんな状態でしょうか?それを理解する鍵は、旧約聖書にあります。イエス様の言葉も使徒たちの言葉も、全てが旧約聖書を土台や背景にしていると言っても過言ではありません。イエス様や使徒たちの言葉が難しい時は旧約聖書のどこかに鍵があると思って探すことが大事です。難しくない、簡単だ、わかったと思っても、旧約聖書の背景を考えないで自分たちの常識や理想の中で考えたら、それはもうイエス様や使徒の言葉ではなくなります。
「霊的に貧しい」に関係する旧約聖書の個所はいろいろあります。イザヤ書66章2節で神は言われます。「私が目を注ぐのは、貧しい者、打ち砕かれた霊、私の言葉を恐れる者。」神のみ言葉は人に罪があることを明らかにします。そのみ言葉によって霊が打ち砕かれて貧しい状態になるのです。(注目 新共同訳では「貧しい者」が「苦しむ者」になっています。しかし、ヘブライ語のアーニーはHolladyのConcise lexiconによると「貧しい」が基本的な意味です。「苦しむ」はありませんでした。違う訳をするから「霊的に貧しい」の意味を探る手掛かりを失ってしまいます。)同じように、詩篇34篇19節「主は打ち砕かれた心の近くにいまし、とことんヘリ下った霊を救われる。」詩篇51篇19節「神への捧げ物は打ち砕かれた霊、打ち砕かれてとことんへり下った心を神は軽んじることはしない。」イザヤ57章15節「私は高く聖なる所に住み、とことんへり下る者、へり下る霊と共にあり、へり下る者たちの霊を修復し、うち砕かれた心を修復する。」
どうして神は打ち砕かれてヘリ下った霊や心を求めるのでしょうか?これは、イスラエルの民が神殿で行う贖罪の儀式が機能していないことが背景としてあります。人間はどのようにして神の意思に反する罪を神から赦してもらって神の愛顧の中で生きることができるか?イスラエルの民はエルサレムの神殿での礼拝が罪の赦しを実現すると考え行っていました。律法の規定に従って贖罪の儀式を毎年のように行っていました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでした。それで、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦されて神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
ところが、この贖罪の儀式は、民の心を罪の赦しを受けるのに相応しい心に変えていなかったのです。民のつもりとしては生贄を捧げているので罪は赦されている。しかし、神から見れば、神の意思に反する罪はそのままです。儀式が形だけのものになってしまって、本当の悔い改めは起きていないのです。それで神はそんな捧げものはうんざりだ、見たくもない、生贄に代えてお前たちの打ち砕かれてへり下った霊と心を持ってこい、そうしたらそれを修復してあげるから、ということになったのです。
3.
まさにそのような時に神のひとり子イエス様が神の御許からこの世に贈られてきたのです。神とイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守り、神の意思に沿うように生きていると言っているが、実は心に留めてもいないし本当は守ってもいない。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は罪の赦しはもうそこにはない。私が預言者たちを通して伝えたように、毎年繰り返される生け贄捧げの儀式は形だけのものになってしまい、心の中の罪に対しては何もなしえていない。それなので私が本当に私の意思をお前たちの心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えてあげよう。そうすると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが本当に幸いなことなのだ。なぜなら、それはお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しになるからだ。これがイエス様の「幸いな人」の教えの真相です。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、神の意思を心に留められるようにして人間を「幸いな者」にしたのでしょうか?それは、イエス様が父なるみ神の大いなる意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡して全ての人間の罪の罰を人間に代わって受けられることによってでした。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。
あとは人間の方がイエス様が命じた洗礼を受けると、使徒パウロが明らかにしたように、その人はイエス様の十字架上の死と死からの復活に結びつけられます。イエス様の死に結びつけられると自分の中にある罪が人間を永遠の滅びに陥れようとする力を失います。イエス様の復活に結びつけられると永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩み始めるようになります。その人はイエス様は真に自分の救い主だという信仰に満たされています。イエス様のおかげで罪を償われたので、神から罪を赦された者として見てもらえ、神との結びつきを持てるようになります。その人は、パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様をあたかも衣のように頭から被せられたのです。本日の黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことです。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。
このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を進みます。しかしながら、キリスト信仰者といえども、この世ではまだ朽ちる肉の体を持っています。それは神の意思に反する罪を内に宿しています。そのため信仰者は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。これが霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは真に私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは犯さないように」と言って下さいます。その時、神はこの者の衣は神の小羊の血で白くされたままであると確認します。私たちに被せられた衣の白さを証明してくれるのです。
キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。神が満たしてくれる方であるとわかればわかるほど、本日の詩篇の日課34篇や23篇に言われるように「私には欠けるものがなにもない」というのが本当になります。それくらい自分は霊的に満たされているとわかると、詩篇24篇4節で言われるような「心の清い者」になります。「潔白な手と清い心を持つ人はむなしいものに魂を奪われない」。また、神によって霊的に満たされていると、自分の力によるものではないと自分でわかるので他人に対して高ぶったりしません。逆にへり下るようになります。それが柔和さや憐れみ深さになります。「平和を実現する」とは、何かノーベル平和賞を受けられるようなことを考えてしまうかもしれませんが、もっと身近なところにあることを忘れてはいけません。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、イエス様のおかげで自分には欠けているものがないとわかれば、そういうお人好し路線が当然になるのです。実に9つのタイプは全てキリスト信仰者に当てはまるタイプなのです。
4.勧めと励まし
9つのタイプが全てキリスト信仰者に当てはまるものとすると、信仰者は神から慰められることになります。同じように、地を受け継ぐことになり、神から義の飢え渇きを満たしてもらえ、神から憐れみを受けることになり、神を目で見ることになり、神から子と呼ばれるようになり、天の御国の報酬は大きなものになります。
それでは、慰められたり満たされたりするのは将来のいつなのでしょうか?キリスト信仰者の人生は罪の自覚と赦しの願いと赦しの受け取りの繰り返しです。そうなると、慰められるのも満たされるのも無数にあることになります。一回終わっても、また次が来るので、どれも最終的なものではありません。しかし、最終的な慰めと満たされの日が来るのです。それは、復活の日、創造主の神が今ある天と地に替えて新しく天と地を創造する日、そこに永遠の神の国が現われて、復活を遂げた者たちがそこに迎え入れられる日です。その日、繰り返しの人生は終了して完全な慰め、完全な満たされが起こります。柔和な者が地を受け継ぐことになるというのは、かつては約束の地カナンから追い出されずに永遠に居住できることを意味しました。キリスト信仰者にとって「地の受け継ぎ」は、永遠の神の国への迎え入れを意味します。神の国から追い出されずに永遠に居住できることを意味します。そうすると、霊的に貧しい者、義のゆえに迫害される者が今、神の国を持っていると言うのは矛盾するのではないか?神の国を持てるのは今ではなく将来と言ったほうが正しいのではないか?
いいえ、そうではないのです。確かに神の国への迎え入れは将来のことですが、神の国は罪の自覚、赦しの願い、赦しの受け取りを繰り返して生きる者のものに既になっているのです。なぜなら、この繰り返しは、罪の赦しという神の恵みに留まる生き方だからです。迎え入れはまだなので、秘められた状態で神の国を持っているのです。迎え入れの時に顕在化した神の国を受け継ぐのです。つまり、こういうことです。人は洗礼を受けることで神の国を秘められた状態で持ち、復活の日に顕在化した状態で持つのです。この世の人生の中でも神に慰められ満たされることはありますが、それは最終的なものではなくその都度その都度のものです。それが、復活の日に最終的に完全に慰められ満たされるのです。本日の黙示録7章と後に来る21章で言われます。またそれらを預言したイザヤ25章でも言われます。その時、神は私たちの目から全ての涙を拭い去って下さると。この世の段階で拭いきれなかった涙も、痛みや苦しみのだけでなく無念の涙も含めて全ての涙が拭われるのです。このことをわかっているキリスト信仰者はだから、この世で何があっても大丈夫、平気という気持ちでいられるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン