2026年9月14日月曜日

教会の中でも隣人愛が増し加わるために(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十五主日)スオミ教会

 

エゼキエル書33章7-11節

ローマの信徒への手紙13章8-14節

マタイによる福音書18章15-20節

 

 

説教題 「教会の中でも隣人愛が増し加わるために」

 

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.  はじめに

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は、あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか教えます。「あなた」と「あなたの兄弟」は両方ともイエス様を救い主と信じる者です。問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので二人とも教会に属する者です。つまり、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したら、どう対処すればよいのでしょうか?そもそもキリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯すとはどういうことでしょうか?

 

「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟は一括りにすると「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」に尽きると言います(9節)。これと同じ教えは既にイエス様が教えていました(マルコ1231節等)。パウロがイエス様の教えを忠実に受け継いでいるのは明らかです。隣人を自分を愛するが如く愛さない、つまり、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。要約すると、「罪を犯す」とは神の意思に反することを行為、考え、言葉で表してしまうことです。本日の個所では、神の意思の中でも人間関係に関するもの、隣人愛が言われているのです。

 

ところで、「隣人」とは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、本当は自分が属している民族その他共同体の境界を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただし、本日の福音書の個所の教えでは対象が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛の掟を破ったら、どうするかということです。

 

2.赦された者として相手に赦しを願う心を呼び覚ます

 

 まず冒頭の「兄弟があなたに対して罪を犯したら」について、聖書の訳によっては「あなたに対して」がないものがあります。つまり、「罪の犯し」が「あなた」を越えて第三者に及ぶのです。どうしてそういう違いがあるのかと言うと、古代の写本にあるものとないものがあり、どっちを元にするかで違いが出るのです。どっちを選んだらよいか困るところですが、本日の個所の後でペトロがイエス様に「私の兄弟が私に対して罪を犯したら何回まで赦してあげるべきですか?」と聞いているので、ここも「あなたに対して」で行きます。

 

さて、信仰者は隣人愛を破った相手に対してどう出るべきか?イエス様は、まず当事者同士で「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり伝えるべきと教えます。具体的な言葉遣いはこの通りでなくても、趣旨がきちんと伝わる言い方を考えます。まさに私たちの日本語の能力が問われるところです(私も含めて)。もし相手が「おっしゃる通りです、申し訳ありませんでした」と認めて赦しを願えば赦してあげる。相手は、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正したことになるので、信仰の兄弟を取り戻したことになると言うのです。

 

この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記1917節の神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」を土台としています。罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまうというのです。相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人に責任はないのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書3379節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

 

以上から「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手順ではないことがわかります。それは、隣人愛を破った者にそれは神の意思に反することだと気づかせて赦しを願う心を呼び覚ますように導くということです。信仰者はそういう導きをする大事な役割を持つということです。

 

さらに大事なことは、相手が気づいて自分のしたことを悔いて赦しを願う時は、信仰者は赦さなければならないということです。それも神の意思です。どうしてか?それは、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しという恵みの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。神は失われた結びつきを人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去る時も結びつきを持ったまま去ることができ、復活の日には永遠に神の御許に迎え入れられます。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにして下さいました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は私たちの身代わりとして死なれましたが、神は彼を三日後に死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る扉を私たち人間に開いて下さったのです。

 

そこで今度は人間がイエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて古い自分は死に新しい自分が生き始めます。この新しい自分は、罪は全てイエス様に償ってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だという信仰に満たされています。こうして信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。

 

罪の赦しという神の恵みを受け取ってその中で生きるようになった者は、赦しを願う者に対して自分も神からしてもらった以上は赦してあげないといけないのです。あと、罪が何だかわからず赦しを願う心がない者に対しては神の恵みを受け取ることが出来るように祈り導いていかなければならないのです。

 

赦しを願う者を赦すというのは、その者に対して何か優位に立つということではありません。この自分こそが神から赦しを与えられた取るに足らない者であることに思い至らなければなりません。そして、赦すというのは、赦した後は罪は以後不問にするということです。ミカ719節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪を取り除くというのは、まさにこのことです。罪を神の意思に反することであるとはっきり言い、そこから赦しを願う心を呼び覚まして赦しを与えることで罪を消滅させていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

 

3.断罪はしない

 

イエス様の教えの次を見てみましょう。残念なことに当事者だけでは教え戒めることが功を奏せず、相手が耳を貸さなかった場合はどうするか?私は神の意思に反していない、君の方こそ過剰反応ではないか、話を捻じ曲げている、などと言った時です。その場合は、証人として信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり神の意思に反することだったということを確認してもらうことになるとイエス様は教えます。この証人を立てるという教えは申命記1915節の神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。

 

さて、証人から見てもやはり隣人愛を破ったと認めざるを得ないということになりました。これで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて信仰の兄弟を取り戻したことになります。でも、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員全員の前で吊し上げするような感じがしますが、そうではありません。最初は当事者だけ、それがだめなら二人か三人の証言でと言っているように、イエス様の教えは罪を大っぴらにしないという方向性がはっきりあります。神の意思に反した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話をすることになります。

 

そこで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神を信じず、イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の租税官吏となったユダヤ人のことです。彼らは権力を笠に着て同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしたので民族の裏切り者と見なされていました。神の意思に反したことを最後まで認めない、心が頑なな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。果たしてそうでしょうか?

 

ここで、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文は次のような意味で書かれています。「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ。」日本語訳の「見なしなさい」は害を受けた人にそうしろと言う命令ですが、そうではありません。三人称単数形の命令なので「なってしまえ」が正確です。「あなたにとってそうなってしまえ」と、「あなたにとって」と限定的に考えているのです。全ての人にとってそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。それなので、問題の兄弟と神との結びつきの回復可能性を考えることができます。実はこのことについて神自身が本日の旧約の日課エゼキエル3311節で言っているのです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。その一つ前の10節でイスラエルの民は罪の重荷の苦しみを述べています。民が自分たちの罪を認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!

 

それなので、隣人愛を破られた人は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に地獄に堕ちてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。相手が気づいて悔い改めるように、証人になった人も教会の代表者も一緒に祈らなければならないのです。

 

4.使徒の権限

 

18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」とは、18章の冒頭から明らかなようにイエス様の弟子のことです。「つなぐ」「解く」という言葉のペアは、イエス様が話をしたアラム語の言葉のペア、シェラー、アーサルが土台にあります。意味は「禁止する」、「許可する」です。イエス様は以前16章で同じ「地上でつなぐこと、解くこと」を言い、それを彼をメシアと告白したペトロに委ねると言いました。今日の18章ではやがてイエス様をメシアと宣べ伝えることになる弟子たちに委ねると言っているのです。ペトロを中心とした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上でダメと言ったり、OKと言ったりすることは天の国でもお墨付きを得るということです。なぜ使徒たちにこんな権限が与えられるのかと言うと、それは彼らがイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になったからです。その後は迫害にも屈せず命を賭してまで見聞きしたことを証ししイエス様が救い主メシアであると宣べ伝える役割を担ったからです。イエス様の昇天の後、神の意思は何かを地上で明らかにする権限は彼らに委ねられたのです。

 

19節と20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神は叶えて下さるというような一見、願い事は何でも叶うと言っているように見えます。これも注意が必要です。これは今言った使徒の権限の続きです。19節の意味は原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする事柄全部について合意して祈り求めれば、それは天の父なるみ神のお墨付きを得て実現する」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でも叶うということもあるかもしれませんが、全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、沿っていないかを明らかにしなければならない、その時、二人以上の使徒がイエス様の名前のもとに集まって合意して祈り求めたら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。

 

5.勧めと励まし

 

 そうすると、ここで言う「あなたたち」は使徒のことで、私たち信仰者への呼びかけではないのかという疑問が起きると思います。もちろん、私たちへの呼びかけでもあります。ただし、私たちには使徒のような権限はありません。ただ、それとは別に二人以上の信仰者が集まって祈り求めることはできます。例えば、本日の個所のように隣人愛を破って心を頑なにしている兄弟のような、当事者一人では解決できない課題です。そのような場合は別の信仰者に来てもらったり牧師のところに行って事情を話して理解してもらって一緒に解決を祈り求めます。第三者と話し合えば、祈るのに相応しい言葉も見つかるでしょう。この祈りは、掟を破った兄弟のためにもしなければなりません。

 

 ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記1915節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる人たち祈る人たちはみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認、告白します。

 

こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には神との結びつきを確認、告白しようとしても何か決め手がなかったことになります。まだ十字架と復活の前だから仕方ありません。イエス様の名前が付くと、彼の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったので、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人愛を破った兄弟に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン