説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2026年4月5日 復活節第二主日
使徒言行録4章32-35節
ヨハネの第一の手紙1章1節-2章2節
ヨハネによる福音書20章19-31節
説教題 「神がキリスト教会を通して備えて下さる三つのもの
― 罪の赦し、神との平和、心の目」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の個所で、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて三つの大切なことを教えます。まず、イエス様は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言いました。イエス様の言う平和が一つ目。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えました。罪の赦しとその権限が二つ目。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活を信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりました。その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」、これも大切なことです。これらの三つのこと、罪の赦しとその権限、イエス様の言う平和、肉眼の目で見なくても心の目で見て信じるということについて、以前の説教でキリスト教会を成り立たせる条件と申しました。ただ、条件と言うのはちょっと違うかなと思い直し、今回は、これらの三つは神がキリスト教会を通して人間に備えて下さる大切なもの、という言い方にしようと思います。それで以下、三つのことを見ていきます。
2.罪の赦しとその権限
まず、罪の赦しとその権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがない状態で去らねばなりません。この惨めな状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈ったのです。まず人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせ、人間が受けないで済む状況を作り出しました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。さらに神は、想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させて、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。
そこで私たち人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。神罰を受けないで済む状況に入れたのです。それで、永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。まさに、新しく天から生まれた者になったのです。キリスト信仰者は、新しく生まれた自分というものは神のひとり子の犠牲の上にあるのだとわかっています。それで、罪に与せず罪に反抗して生きていこうという心になります。
このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たちに備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えます。それは、神がイエス様を用いて備えて下さった罪の赦しを多くの人々に行き渡らせる権限です。人間が赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちの場合は、イエス様が聖霊を授けて、その権限が付与されました。イエス様が天に上げられると、今度は使徒たちが次に権限が付与される人に手をかざす按手の儀式を行って権限を伝授していきました。伝授された人たちも次に権限が付与される人に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。ここには使徒的な継承があります。
スオミ教会の礼拝の初めに罪の告白と赦しの宣言があります。牧師は罪の赦しを宣言する時に、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します」と言います。ここでも明らかなように、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた者として宣言しますということです。
3.目で見なくても信じられる心の目
次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。目で見ない限り信じない、これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るとか。そういうことをする者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれる原因になります。
ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるのが本当の信じることだ、と言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、文字通り見なくてもそうだと信じることです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を目で見なくても、イエス様は復活した、それはその通りだ、と言えば、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。
このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じるということを強調します。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり、目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。
さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。それ以後は復活の主を目撃することはできません。そうなると、目撃者の証言を信じるかどうかがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?ひとつには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?
それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められていて、それをわかって自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは、最初は目撃者の弟子たちが自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくて、ただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象ですまない大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを、目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。
4.イエス様が言われる平和
イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。旧約聖書の言葉ヘブライ語でシャーロームשלומと言います。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もあります。その他に、繁栄とか成功とか健康というような人間個人にとって望ましい理想的な状態も意味します。しかし、イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせました。どんな意味でしょうか?
イエス様は十字架に掛けられる前日に弟子たちに次の言葉を言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で与えたら、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?
イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所があります。ローマ5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、神と人間との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで得られる平和です。コロサイ1章21~22節を見ると、イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということが明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれたのです。
こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に至る道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、どんな時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、創造主の神との結びつきは失われず、神との平和な関係は微動だにしません。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で罪の支配から贖われている状態を強化していけば、神との結びつきと平和な関係はしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の段階で神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。自分は復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さるという確信と信頼を持って神に全てを委ねることが出来ます。
5.勧めと励まし
以上、神がキリスト教会を通して信仰者に備えて下さる三つのものを見てきました。使徒的な継承に立つ罪の赦しとその権限、神との平和な関係、肉眼の目で見えなくても信じることができる心の目です。どうか、神がこのスオミ教会を通してもこの三つのものを皆さんに備えて下さいますように。
第一ペトロ1章3節でペトロは、キリスト信仰者はイエス様の復活によって新たに生まれて「生ける希望」を持つようになったと言います。説教の終わりにこの希望について述べたく思います。
新共同訳では「生き生きとした希望」と言って、希望が躍動感に溢れている感じがしますが、そうではありません。原語のギリシャ語を見ると、「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている」ですが、私が使う辞書(ギリシャ語・スウェーデン語)によれば「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている希望」とは、「永遠の命を与えられる希望」、復活の日に復活させられるという希望です。この希望はイエス様の復活を心で受け取ったら一緒に内に入って来ます。復活の日に復活させられるという希望が朽ちない希望であるということが4節でも言われます。「天には信仰者たちの受け継ぐものがちゃんと取っておかれている。それは朽ちず汚れがなく永久のものである。」この天に取っておかれている受け継ぐものとは、まさに復活の体と永遠の命です。5節で、イエス様の再臨の日に現れる救いということが言われますが、それは、その日に復活の体と永遠の命を目に見える形で受け取るということです。6節では、このような希望があり救いが待っているのだから、この世でいろんな試練にあって悲しむことがあっても、喜びも失われずにあるのだと言います。ペトロは試練について肯定的な見方をしています。試練を経ることでかえって信仰が金よりも純度を高められ、イエス様の再臨の日に栄誉と栄光を受けるものになる、そういう精錬するような効用が試練にはあるのだと言うのです。ここで注意しなければならないのは、試練の時に信仰が萎えないで純度を高められるようになるのは「永遠の命を与えられるという希望」を持てているかどうかによります。その希望を持てているかどうかは、イエス様の復活を心で受け入れているかどうかによります。
そして8節と9節でペトロは言います。あなたたちはイエス様を見なかったのに愛し、今見ていないのに信じていて、言葉で言い表せない大きな喜びで満たされている、と。どうしてそんなことが言えるのか?ペトロは、あなたたちが「信仰の目標」に到達する者だからだと言います。「信仰の目標」とは「魂の救い」であると。「魂の救い」とは、復活の日に復活の体を着せられて永遠の命を持って父なるみ神のもとに迎え入れられることです。あななたちはそこに到達する者であるとペトロははっきり言うのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか?私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して、実は復活の体と永遠の命を今すでに見えない形で手にしているのです。それで主の再臨の日、復活の日が来たら見える形で手にすることになるのです。だから言葉で言い表せない大きな喜びで満たされているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン