2026年4月7日火曜日

君はイエス様の十字架を通して二つの大きなことが見えるか(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年4月3日 聖金曜日

イザヤ書52章13節~53章12節

ヘブライの信徒への手紙10章16~25節

ヨハネによる福音書18章1節~19章42節

 

説教題「君はイエス様の十字架を通して二つの大きなことが見えるか」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに

 

 イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始まったのでした。

 

 イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。彼らはこともあろうにイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどはイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。

 

 このようにイエス様の十字架の出来事は残酷であり悲劇なことでした。しかし、この出来事には少なくとも二つの大きなことが伴ってありました。私たちは残酷と悲劇に目を奪われて、それを見失ってはいけません。確かに残酷と悲劇はありますが、それを透かすようにして大きなことを心の目で見ることが出来なければなりません。まさにそれが、この出来事が起こることをお許しになった神の御心だからです。

 

2.二つの大きなこと ― 神の計画の実現

 

 二つの大きなことの最初のものは、十字架の出来事は神がずっと前から計画していたことの実現であったということです。神が計画したこととは、先ほど朗読したイザヤ書の個所が明らかにしています。イエス様の時代の何百年も前に書かれた預言です。

 

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とありました(535節)。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は、人を傷つけたり欺くようなことをしてはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とても潔白ではいられないのです。そのためか、そんな都合悪いことを言う神など胡散臭いと、神は近年ますます遠ざけられていきます。

 

 そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの奴隷状態から解放してあげようと手立てを考えました。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰を全部愛するひとり子に身代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。イエス様の十字架の残酷さと悲劇を通して、この神のひとり子が受けた罰の重みに思いを馳せることが出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。馳せることが出来なければ心は変わらず奴隷のままです。

 

 こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪のゆえに神との結びつきを失った状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様が息絶える直前に「成し遂げられた」と言ったのはこのことだったのです。

 

 あとは人間の方が、成し遂げられたことは自分のためだったのだ、だからイエス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病んでしまった人間の癒しは赦しから始まります。こうして人間は、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。

 

3.二つの大きなこと ― 勇気、本物の心、希望の証しの備わり

 

 もう一つの大きなことは、十字架の出来事が神の計画の実現だったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちには新しいものが備わるようになるということです。先ほど朗読したヘブライ101923節に3つの新しいものが言われています。一つは、神聖な神の御前に進み出ても大丈夫という勇気(παρρησια)、二つ目は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つことで私たちの心が偽物でない本物の心になること(αληθινη καρδια)、三つ目は、今の世と次に到来する世の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望を人前で告白できること(ομολογια της ελπιδος)。短く言えば、勇気、本物の心、希望の告白です。これらが私たちに備わるのです。新共同訳はギリシャ語原文を崩すようにして訳してしまったのでこの3つははっきり見えてきませんが、原文でははっきり見えるので、以下この3つについてお教えします。

 

 イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとこれらのものが備わるのは、イエス様の十字架の業が神殿の礼拝を無意味にしたからです。かつてエルサレムの神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れませんでした。何しろ神のみ前に立つという神聖中の神聖な場所だったからです。しかし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。まず、民の罪を動物の生贄を捧げることで償う儀式をして、それから自分に生贄の血を振りかけて自分の罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今や、神のひとり子が十字架の上で血を流され、私たちは洗礼を受けることで罪を赦された者にしてもらえるようになりました。まさに、イエス様の犠牲の血で罪の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかっていました。マタイ2751節に記されているように、イエス様が十字架にかけられて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂け落ちました。かつて大祭司は動物の血をかけられて垂れ幕を通って神のみ前に進み出ることが許されていました。今や、イエス様の血で罪の汚れを落とされた者は彼の犠牲の体を通過するようにして神の御前に進み出ることができるのです。

 

 十字架の業のゆえにイエス様は真の大祭司中の大祭司であることが明らかになりました。人間の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、それでも大祭司自身が儀式で自分を清めなければならない位のレベルの低い仲介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方です。その彼が自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち立てたのです。これぞ正真正銘の大祭司、完璧な仲介者です。

 

 このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神から罰を受けてしまう、神に見捨てられてしまうという恐れから解放されています。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落とされています。なので、神を前にしても、イエス様のおかげで私のことをやましいところがないと見て下さる、潔白と見て下さるとわかるので、恐れはありません。これが私たちが持つべき本物の心であり、それはイエス様を救い主と信じる信仰をもって洗礼を受ければ持つことができるのです。その心があれば、この世を前にしても堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に堂々と立つことができるのです。

 

 キリスト信仰者は罪の赦しの恵みに与かることで、今の世と次に到来する世の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望があります。神は計画されたことを預言者を通して知らしめ、最後にはイエス様を通してそれを実現されました。このように神は約束に忠実な方です。それをわかっていれば、希望についての私たちの証しは確固としたものになるはずです。

 

 このようにキリスト信仰者には勇気、本物の心、希望の揺るがない証しが備わっているのだから、あとはお互いにお互いのことを配慮し合って、愛と善い行いに励めばよいのです。24節で言われる通りです。

 

 そこで一つ忘れてはならないことがあります。それは、キリスト信仰者にとって礼拝を守ることは大事ということです。なぜなら、イエス様が大祭司であること、そのおかげで私たちには勇気と本物の心と希望の揺るがない証しが備わっていること、これらを確認し確信できるのは礼拝をおいて他にはないからです。これが25節の教えです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン