説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
主日礼拝説教 2026年3月1日 スオミ教会
創世記12章1~4a節
ローマ4章1~5、13~17節
ヨハネ3章1-17節
説教題 「キリスト信仰者の出身地は実は天国だったのだ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派というグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられることが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救って神の国に迎え入れられるようにするということ。これらは以前にもお教えしましたが、今日は新しいことも入れて述べていきたく思います。
その前に、ファリサイ派というグループについて。彼らは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわった人たちでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべしと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。
そこにイエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々の注目を集めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本当の意図はそこにあるのだと、神のひとり子として自分の父の意図を人間に知らせたのです。
全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば神に認められるのだ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、彼らの中には、このやり方でいいのだろうか、神の国つまり天国に迎え入れてもらえるのだろうかと疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような疑問を持った人だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。
2.「新たに生まれる」とは「天国から生まれる」こと
さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。ニコデモにイエス様はいきなり言われます。
「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)
「新たに生まれる」ということについて注意が必要です。「新たに」の元にあるギリシャ語はアノーテン、この基本的な意味は「上から」、「天国から」という意味です。それでここは、「上から生まれる」、「天国から生まれる」、つまり「天国を出身地として生まれる」という意味にもなるのです。さて、「新たに生まれる」でしょうか?「天国から生まれる」でしょうか?英語訳聖書NIVとスウェーデン語訳とルタードイツ語訳は「新たに生まれる」です。フィンランド語訳は「新たに、そして上から生まれる」と両方をあてています。
私はこう考えます。イエス様はこの後で、君たちは地上のことを教えても信じないのだから、天国のことを教えても信じるわけがない、と言っています。イエス様は天国の視点で述べている、なので、彼は「天国から生まれる」という意味で言っている。しかし、ニコデモは、どうやってもう一度母親の胎内に入って生れることができようか、と言っているので、彼は「新たに生まれる」と解してしまっている。それで話がかみ合っていないのです。(ここで一つ厄介なことは、この出来事はギリシャ語で書かれています。それでギリシャ語を元にして二人のやり取りを理解しようとしているのですが、彼らが実際に会話した言葉はアラム語です。どんな言葉を使ったかはわかりません。手元にあるのはギリシャ語の文章なのでそれを基にするしかないのです。)
さて、イエス様は「天国から生まれる」ことはどういうことかをはっきりと教えます。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5-6節)。
イエス様が教える「天国から生まれること」とは実に「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきた時はまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた肉的な存在が、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが「天国から生まれること」であり、それが「新しく生まれる」ことになるのです。
3.キリスト信仰者は天国を出発点として天国に帰る
それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
なにかとても意味深なことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。風も空気も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。強さによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?
さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架や復活の出来事は起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれることもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。
困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上の事柄について正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天上の事柄を教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。
イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうなることで神の国に迎え入れられるようになること、これらのことが、どのようにして起こるかについて明らかにします。
「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」
「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、「人の子」はある事を成し遂げた後でまた天に戻るということを意味しているのです。そして、その成し遂げる事というのが次に来ます。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」
モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で蛇を作って旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じ掲げることと人を救うことが自分を通しても起こると言うのです。どのようにして起こるのでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることでした。イエス様はなぜ十字架にかけられたのか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持って生きられるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。
それで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて万物の造り主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。天国と神の国は同じことです。洗礼を受けて聖霊を注がれて「天国から生まれた」キリスト信仰者は天国を出身地として生まれた者です。それで、信仰者にとってこの世の人生は実に、天国という生まれ故郷に帰る道を神との結びつきを持って進むことに他ならないのです。
4.勧めと励まし
洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがわかりました。それでは、それはどうイエス様の風のたとえと結びつくでしょうか?前にもお教えしましたが、聖書の元の言葉、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。このたとえでイエス様は両方をひっかけているのです。彼が教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。
これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまると言うのです。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちもあるし声もするから実在するのはわかります。しかし、信仰者は聖霊と同じように肉的な人には見えないわからない独特な意思に従って人生を歩みます。だから、肉的な人から見たら、キリスト信仰者は風と同じように実在するのはわかるが、その行動様式、立ち振る舞いを起こしている原動力はわからないのです。それでは、キリスト信仰者の原動力は何か?私は、それは内なる霊的な戦いと考えます。
キリスト信仰者の内なる霊的な戦いとは、キリスト信仰者は天国から生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めたように、「他人のものを妬んだり欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんか別にどうでもいい、などと言ったら、イエス様の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。
まさにここが聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲になったおかげで、あの方を真の救い主と信じるあなたの信仰を神は義として下さるのです。それで神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたからではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はご自分のひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先回りして赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。
「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。
神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」
この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。それで神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。ところが、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そして、この繰り返しが終わる日が来ます。天と地が新しく再創造される復活の日です。その日、神の御前に立たされた時、繰り返しをしたことは実は罪に与しない生き方、罪に反抗する生き方を貫いてきたことの証しとして認めてもらえるのです。この時、天国を出身地として生まれたキリスト信仰者は天国に帰り着いたのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン