2025年9月29日月曜日

旧約聖書の精神と復活の信仰が結合すれば悔い改めが生じる (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2025年9月28日(聖霊降臨後第16主日)スオミ教会

 

アモス書6章1、4-7節

テモテへの第一の手紙6章6-19節

ルカによる福音書16章19-31節

 

説教題 「旧約聖書の精神と復活の信仰が結合すれば悔い改めが生じる」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。                                                                                    アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?

 

 金持ちが贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に全身傷だらけの貧しい男が横たわっていました。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のラザロは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

 

 ラザロという名前は、旧約聖書によく登場するヘブライ語のエルアザルという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。

 

 さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

 

 ところが、話はここで終わりませんでした。これまでのことはほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちによって天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。

 

 以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人は誰でも、ああ、イエス・キリストは利己的な生き方はいけない、困っている人を助けてあげなければいけないんだと教えていると思うでしょう。なんだか当たり前の道徳に聞こえます。そんな教えは別にキリスト教でなくたって他の宗教にもあるぞと言う人もいるかもしれません。

 

 しかしながら、ここのイエス様の教えは「利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ」が中心的なことではありません。中心的なことは「神に背を向けた生き方を方向転換して神を向いて生きよ」です。利己的な生き方をしない、困っている人を助けるという道徳は方向転換をした後で派生して出てくるものです。そして、方向転換のカギになっているのが旧約聖書とイエス様の復活であると教えているのです。ここのところが、道徳の問題でキリスト教が他の宗教・信条と違ってくる点です。似たような道徳を説いているようでも、組み立てられ方が全然違うのです。

 

 少し余談になりますが、私が大学の神学部で勉強していた時、何かのセミナーである学生が今日の個所をテーマに発表をしました。彼によると、この金持ちとラザロの話にはネタがあって、それはエジプト由来の話であった、その内容は同じように金持ちが貧しい人を助けてあげず死後に立場が逆転するという話で、金持ち一般に対する戒めであった。この話はユダヤ教社会にも伝わってよく知られていて、イエス様はそれを自分の意図に沿うように改作したというのが発表の主旨だったと思います。ただ、どんな意図で改作したかはペーパーが手元にないのでもうわかりません。しかし、今回説教の準備にあたって、セミナーのことを思い出しながら日課の個所を何度も読み返してみたら、なるほどと私なりにイエス様の意図が見えてきました。それは、説教題にあるように、旧約聖書の精神と復活の信仰の両方があると神の方を向いて生きる方向転換が起こるということです。今日はそのことを見ていきましょう。

 

2.天国、地獄、陰府

 

 まず、今日の教えの中で天国や地獄が出てくることについてひと言。人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて時代遅れのやり方だ、と言う人がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこに行くのか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかという問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かないよ、死んだらそれで終わり、消えてなくなると考える人もいるでしょう。その場合は、この世での生き方が次の世での有り様に関係するというのはナンセンスです。なぜなら、次の世がないのですから。人によっては、死んだら魂か何かが残ってみんなどこか安逸な場所に行くと考える人もいます。その場合、この世での生き方と次の世での有り様にはあまり関連性はありません。なぜなら、みんな安逸の場所に行けるのですから。人によっては、新しく別の人間ないし動物に生まれ変わると言う人もいます。この場合は関連性があります。もし、今の生き方に何か問題があれば次はなりたくない動物や虫になってしまうからです。

 

 キリスト信仰の場合はどうでしょうか?十戒という神の意思を凝縮した掟集があります。それを守らないと地獄に堕ちると言うことでしょうか?そうとも言えるし、そうとは言えないという両面がキリスト信仰にあります。キリスト信仰はこの世での生き方と次の世の有り様の関連をどう見るかについては終わりで明らかにしようと思います。

 

 本日の個所で一つ、おやっと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄ではなく「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかし、永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。

 

 新約聖書の観点では、天国とか地獄というものは将来イエス様が再臨する時、死者の復活とか最後の審判とか天地の再創造が起こる時、その時点で生きている人と前に死んで眠りについていた人が起こされて到達する地点ということになります。なので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにつく、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な出来事が始まっていると教えています。壮大な出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。

 

 そういうわけで、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は地獄と言った方が正しいのではないか。しかし、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判も天地の再創造も起きていません。そうするとやはり「地獄」でなく「陰府」かなと思うのですが、金持ちは眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。これは一体どういうことか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。一例として、英語NIVはハーデースをhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では「陰府」を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、などと断っているくらいです。

 

 どうしてイエス様は、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?一つ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。もう一つ考えられることは、もしこの話の元にエジプト由来の教えがあったのであれば、イエス様はその骨格をそのまま用いて、元の話にはない新しいことを教えたことになります。聞き慣れた話だと思って聞いていた人たちは突然、別世界に連れて行かれた感じになったでしょう。ここがイエス様の凄いところだと思います。それでは、その大事な新しいこととは何か?そのことを次に見ていきましょう。

 

3.旧約聖書の精神と復活の信仰

 

 金持ちはアブラハムにラザロを送って指先の水で焼き付く舌を冷やさせてくれるよう頼みます。

 

 アブラハムは、お前は前の世で良いものを十分味わった、ラザロは悪いものを十分味わった、だから今ラザロは大いなる慰めを受け、お前は大いなる苦しみを受けるのだと言います。ここからも、聖書の神にとって正義は重大な関心事であることがわかります。今の天と地の下で正義が損なわれて放置されることがあっても、神はそれをそのままで終わらせない、必ず決着をつけられる。最終的に決着がつけられるのは最後の審判です。そこでは「命の書」と呼ばれる、全ての人間の全ての事柄が正確に記録されている書物が開かれて判決が下されます。どんな有能な裁判官も太刀打ちできない完璧な判決です。

 

 さて金持ちは、自分のことはもう決着済みと観念して、今度はラザロを兄弟たちのところへ送って下さいとお願いします。そうすることで兄弟たちが自分と同じ運命に陥らないようにするための警告になると思ったからでした。

 

 ところがアブラハムは、彼らには律法と預言書、すなわち旧約聖書があるではないかと返します。そこにある神のみ言葉に聞けば、わざわざ死者など送らなくとも警告は伝わると。

 

 しかし、金持ちはそれは上手くいかないと認めて言います。「父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」つまり、兄弟たちは旧約聖書に聞いていないのです。「悔い改める」とはギリシャ語のメタノエオーという動詞で、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになる方向転換を意味します。方向転換のために神のみ言葉に聞くことが必要なのだが、実際は聞いていないから、死んだ者を送ってやれば兄弟たちは恐れて考え直すと考えたのです。

 

 ところが、アブラハムはそんなことは起きないと言います。なぜなら、「もし、モーセと預言者(つまり旧約聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」

 

 この言葉は重大です。よく耳を開いて聞きましょう。これはアブラハムの言葉ですが、イエス様が作った話の中のアブラハムなので、イエス様がアブラハムの口を通して言わせたイエス様の教えです。「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。ここでイエス様はご自分の復活のことを意味しているのです。ここのイエス様の真意はこうです。「もし、旧約聖書に耳を傾けならないのなら、たとえ死者の復活が起こっても、方向転換の悔い改めは起こらないだろう。」この教えが重大なのは、この教えが向けられているのは金持ちとその兄弟だけではなく、これを聞き読む全ての人に、私たちに向けられているからです。もし、私たちも旧約聖書に耳を傾けないならば、イエス様の復活が起こったところで、私たちに方向転換の悔い改めは起こらないのです。逆に言えば、もし旧約聖書に耳を傾けるならば、イエス様の復活が起こったことで方向転換が起こるのです。旧約聖書に耳を傾けるとどうしてそのような効果が生まれるのでしょうか?

 

 旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように、十戒の掟を心の奥底まで守れているかどうか問うことになることです。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うのです。そうすると、自分には神の意思に反する罪があることがはっきりし、神の御前に立たされて「命の書」を開かれる日は恐ろしい日になります。ところが、旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを私たちに約束するのです。どんな約束か?人間が神の御前に立たされても大丈夫でいられるように、人間の罪を人間に代わって償って下さる方が来られるという約束です(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、まず、自分には神の意思に反する罪があることを十戒によって暴露されて絶体絶命の状態に置かれることです。しかし同時に、神の計らいで人間は罪から贖われるという約束を与えられて希望の状態に置かれることです。つまり、旧約聖書に耳を傾けるというのは、罪の自覚に基づいて希望を持つことです。

 

 この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。イエス様が死から復活された時、あの方は旧約聖書に預言されていた、死が最終的な力を持ちえなかった神のひとり子であることがわかりました。それではなぜ神のひとり子とあろう方が残酷にも十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも旧約聖書に預言されていたこと、神の送られた方が人間の罪を償うために人間に代わって神罰を受けられたことが十字架の形で実現したとわかったのです。

 

 これらのことが明らかになると、今度は人間の方が、これらは神が私のためになされたと受け止め、イエス様こそ真の救い主であると信じて洗礼を受けると、果たしてもらった罪の償いは自分にとっての償いになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者とみなされ、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むことになります。神の方を向いて生きる方向転換が起きたのです。旧約聖書の精神と復活の信仰が結びついて起きたのです。それからは、この神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みに留まる限り、神との結びつきはずっとあり、順境の時も逆境の時も変わらずあります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて約束通りに復活の体を着せられて創造主の御許に永遠に迎え入れられます。

 

4.勧めと励まし

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆様、私たちキリスト信仰者はこんな途轍もないことをして下さった神に対して、ただひれ伏して感謝する他ありません。その時、神の意思に沿うように生きるのが当たり前になります。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するが如く愛するのが当たり前になるのです。そこでは、神の掟は永遠の命を獲得するために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。

 

 このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意思に沿う生き方を志向する者ですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意思に反する罪があることに気づかざるを得ません。気づいた時はがっかりします。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、自分が復活に至る道に踏みとどまっていることがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意思に沿うように生きようと志向します。このように方向転換したキリスト信仰者は何度も何度も軌道修正をしながら復活の日に向かって歩んで行くのです。これが、本日の使徒書の日課、第一テモテ6章でパウロが言う「信仰の立派な戦い」です。同じ個所でパウロはまた、キリスト信仰者は永遠の命に到達するように神に召されたと言っています。説教の冒頭でキリスト信仰は今の世の生き方が次の世の有り様に影響すると考えるのかどうか問いました。実にキリスト信仰では、次の世の有り様が既に定められているので、それに合わせるように今の世を生きるのです。影響の向きが逆なのです。これが、パウロがガラテア6章で言う、キリスト信仰者は「新しく創造されたもの」カイネ―・クティシスの意味です。

 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン