説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)
主日礼拝説教 2025年9月7日(聖霊降臨後第13主日)スオミ教会
申命記35章15~20節
フィレモンへの手紙1~21節
ルカによる福音書14章25~33節
説教題 「イエス様の弟子であるということ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の箇所は難しいです。私たちの理解を難しくしているものとして二つの問題があります。一つは、父親、母親、娘、息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと、私の弟子でいることはできない、とイエス様が教えていることです。十戒の第四の掟は「父母を敬え」でした。イエス様は、自分をこの世に送った父なる神の命じたことに反することを教えようとしているのでしょうか?イエス様自身、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と教えているのに、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくないとはどういうことか?愛せよと言ったかと思いきや、憎めなどとはイエス様は矛盾が過ぎるのでは?
もう一つの問題は、塔を建てる者と戦争に臨む王のたとえです。塔というのは、マルコ12章やイザヤ5章に出てきますが、ブドウ園を造る者が見張りの塔を建てるという位にブドウ園にはつきものでした。せっかくブドウ園を造っても、見張りの塔が建てられなかったら、実ったブドウは容易く盗まれてしまいます。マルコ12章とイザヤ5章をみると、ブドウ園を造る時、見張りの塔の建設は順番として最後にくるものだったようです。さて、ブドウ園経営者は塔を造る段になって、お金が足りるかどうか計算する、足りないまま造り始めてしまったら途中で断念することになって笑いものになってしまう。では、足りないことが明らかになったら、どうするのか?造らないで済ませてしまうのか?中途半端な無様な建物をさらけ出さずに済み、笑いものにはならないかもしれませんが、ブドウ園は無防備になってしまいます。
もう一つのたとえは、戦争に臨む王です。隣の国の王が2万の兵を率いて進軍してくる。それを迎え撃つために王は兵を率いて出陣する。しかし、彼の兵力は半分の1万。それで王は勝算を計算し始め、勝ち目はないと判断して、まだお互いの軍勢が遠く離れている段階で相手方に使いを送って講和を求める。不利な戦いは回避できるかもしれませんが、講和の条件は先に和平を乞うた王にとって不利なものになるでしょう。
このように二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。何か事をする場合には、まず、達成しようとしたり獲得しようとするものと、それにかかる費用や犠牲を冷静によく比較して、自分の持っているもので達成可能かどうかよく検討すべきだ、もし自分の持っているものでは達成不可能だとわかれば、即やめなさい、と。たとえブドウ園が見張り塔がないものになってしまっても、また、不利な条件で講和を結ぶことになっても、そっちの方がいいのだ、と。これは、理に適った教えであります。
ところが、33節を見ると、イエス様は、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われる。イエス様は、突然、捨てる覚悟がないと自分の弟子に相応しくないと言うのです。それこそ、一度、基を築いたら、資金のことはかまわず建設を続行せよ、と。一度、出陣したら、兵力の差は気にせず、そのまま進軍を続けよ、それが弟子としての本道である、と教えているのです。そうなると、前の二つのたとえは何だったのかと言いたくなります。
以上、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくない、とか、一見、向う見ずなこと無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子に相応しくない、とか、イエス様は一体何を言いたいのでしょうか?本日の箇所は、こうした難しさがありますが、キリスト信仰者が自分の受けた洗礼にはどんな意味があるのかを思い返してみると次第にわかってくるところです。マタイ福音書28章でイエス様は、洗礼を受けることで彼の弟子になると言われました。本日の個所は、イエス様の弟子であるとはどういうことか、洗礼を受けた後の人間の生き方はいかなるものかについて教えているのです。だから本日の個所の理解には、自分が受けた洗礼の意味を思い返す必要があるのです。
2.「憎む」ということについて
まず、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくないという教えについて。「憎む」という言葉はギリシャ語のμισεωミセオーという動詞が元にあり、その意味は「憎む」なので、それをそのまま当てはめて訳したものです。旧約聖書のヘブライ語にはשנאサーネーという動詞があり、これも辞書に出ている意味は「憎む」です。ただ、創世記29章をみると、私たちが普通思い浮かべる「憎む」とは異なるニュアンスがあります。ラバンがヤコブに初め長女のレアを妻として与え、後で次女のラケルを妻に与えた出来事です。ヤコブはレアを「疎んじた」(31節)とあります。この「疎んじた」は、ヘブライ語のサーネー「憎む」です。しかし、ヤコブは実際にはレアを憎んだのではなく、レアよりもラケルを愛した、それで、レアにそっぽを向いた、ということです。
このことを念頭において、本日の箇所でイエス様が口にする「憎む」を考えてみると良いと思います。つまり、親兄弟娘息子を「憎む」、憎悪の対象にするのではなく、親兄弟娘息子よりも神を愛するということです。親兄弟娘息子を愛するのは当然だが、それよりも神に対する愛が大きくなければ、弟子に相応しくないということです。「憎む」というのは、神への愛が優位に立つことをはっきりさせるためにイエス様がよく用いる度肝を抜く誇張法をここでも用いているのではないかと思います。
ああ、これで肉親を憎まなくてよかった、と安心するやいなや、すぐ次の壁にぶつかります。親兄弟娘息子よりも神を愛するとはどういうことか?憎まなくても、肉親を軽んじることになるのではないだろうか?イエス様自身は、「隣人を自分を愛するが如く愛する」ことは神の最重要な掟である(マルコ12章31節等)、と教えているではないか?
イエス様は十戒を二つの掟の形に集約して、この二つが最重要な掟であると教えました(マルコ12章28-34節)。この二つの最重要な掟の筆頭にくるのは、こうでした。「私たちの神である主は、唯一の主である。あなたは、あなたの神を全身全霊全力をもって愛せよ。」そして、その次に来るのが、「あなたは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ」です。つまり、隣人愛は最も重要な掟ではありますが、実はそれに先立つものとして、唯一の神を全身全霊全力をもって愛せよという掟が来るのです。つまり、隣人愛は、神への愛から分離独立してあるのではなく、実は、神への愛を土台にしてあるのです。
宗教改革のルターは、神への愛と肉親に対する愛の関係について大体次のように教えています。曰く、肉親を愛し仕えるのは神の意思として当然である、しかし、肉親が、私たちに対して神の意思に反することを要求して、私たちの説得や懇願にもかかわらず、態度を変えない場合、さらには神を唯一の主と信じる信仰や御子イエス様を唯一の救い主と信じる信仰を止めさせようとする場合には、肉親に何を言われようが、何をされようが、信仰に踏みとどまって、第一の掟を守らなければならない、と。
肉親が、そんな邪教を捨てないともう私の子供ではないと強硬な態度に出ることもあるかもしれません。あるいは、親を愛しているんだったら、そんな信仰は捨てておくれ、などと、キリスト信仰に生きることが親を愛していない証拠のように持っていくケースもあるかもしれません。しかし、それは筋違いです。なぜなら、たとえ肉親が私たちの信仰を認めなかったり、信仰のゆえに私たちを悪く言ったとしても、私たちとしては、もしその人たちが困難に陥れば、すぐ助けの手を差し出す用意があるからです。私たちの側では、隣人愛の掟は神への愛の掟としっかり結びついているのです。こうしてみると、イエス様の弟子とは、とやかく言われて悪く言われて、なおかつ、まさにそのような人たちのために祈ったり、必要とあれば助けてあげなければならない、なんだかずいぶんお人好しで馬鹿をみるような人生です。しかし、それが本日の箇所でも言われている、各自が背負う十字架(27節)なのであり、イエス様の弟子であることの証しなのです。
3.神に対する愛
親兄弟娘息子よりも神を愛すると言う時、キリスト信仰者の神に対する愛とはどんな愛なのでしょうか?
聖書が大前提にしていることは、人間は創造主である神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために神聖な神との結びつきが失われてしまったということです。それで人間はこの世の人生を生きる時は全知全能の神との結びつきがない状態で生き、この世から去る時も結びつきがない状態で去らねばならなくなってしまいました。それを、神は人間が結びつきを回復してこの世を生きられるようにしよう、この世を去る時も結びつきを持ったまま去って復活の日に目覚めさせてあげようということで、それでひとり子のイエス様を人間のために贈られました。
この神のひとり子は人間の全ての罪を背負ってゴルゴタの十字架の上で人間に代わって神罰を受け、人間が受けないで済むようにして下さいました。そこで今度は人間の方が十字架の出来事というのは聖書に書いてあるように本当に起こったことだと信じて洗礼を受けると人間はこの罪の赦しの救いを自分のものにすることができるのです。
さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超える永遠の命が本当にあることをこの世に示されました。それで、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、順境の時も逆境の時も何ら変わらない神との結びつきを持って生きられ、復活の日を目指してこの世を進んで行くのです。
キリスト信仰者の神への愛は、神がひとり子と一緒に罪の赦しの救いを与えて下さったから起こって来るのです。親兄弟娘息子はいかに愛すべき存在であっても、罪の赦しの救いを与えることはできません。それが出来るのは造り主の神だけです。親兄弟娘息子は気づいていないですが、この罪の赦しの救いは神が、どうぞ受け取って下さい、と彼らにも向けられているのです。彼らも創造主の神に造られたのです。イエス様は彼らのためにも死なれ、彼らのためにも復活されたのです。ここに、神を愛するキリスト信仰者が信仰者でない親兄弟娘息子たちにどう振る舞うか、明らかなヒントがあります。
4.塔と王のたとえの意味
次に、塔を建てる前に予算を計算する人と、負けが明らかな戦をする前に講和を求める王のたとえについて見てみましょう。たとえの次に来る、自分の持ちものを捨てなければ弟子に相応しくない、という教えと矛盾しているように見えます。ところが、矛盾はないのです。イエス様は、まさに、弟子になるということは、見積もりを立てないで塔を建てるようなものだ、また圧倒的多勢の軍勢に立ち向かっていくようなものだ、と教えているのです。どうしてそんなことが言えるのか?二つのたとえの意味はこうです。塔の建設者は普通、後で笑い者にならないようにと前もって綿密に計算だろう。また、王は普通、負け戦が明らかな場合は不利な条件でも講和を結ぶだろう。しかし、こういうのは、自分の持っているものを捨てる覚悟がない者と同じだ、私の弟子に相応しくないと言うのです。
少し細かい所を見ますと、28節と31節で、塔建設者や王が計算する時に、日本語訳で「まず腰をすえて」と書いてあります。「腰をすえて」なんて言うと、なんだか落ち着いた立派な行為のような印象を受けます。しかし、ギリシャ語の原文は、両方ともただ単に「まず座って」πρωτον καθισαςです。つまり、何か実行しようと思ったが、ちょっと待てよ、うまくいくかな、と心配して、要は立ち止まって計算を始めた、ということです。一度決めたら後ろを振り返らずに前に進まないと弟子には相応しくないのです。ルカ9章62節で、イエス様は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と教えています。
そうすると、キリスト信仰者とは、なんと無謀で向う見ずな者なのか、こんなやり方ではどんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう、という疑問を抱かれるでしょう。ここで注意しなければならないのは、イエス様の教えていることは、あくまで、イエス様の弟子として生きるということについてです。イエス様の弟子として生きるとは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して築かれた神との結びつきをしっかり携えて生きることです。私たちのためにとても大きなことをしてくれた神をひれ伏すように愛して、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛することです。何か事業を起こす時は見通しを立てないでやれ、ということを言っているのではありません。イエス様が教えているのは、そういう世俗的な事柄ではなく、私たちの魂に関わる霊的な事柄です。
キリスト信仰者は、ヨハネ福音書15章で言われるように、イエス様というぶどうの木に繋がる枝です。このぶどうの園を見張りの塔がない無防備にしてはいけないのです。この世には、イエス様を救い主と信じる信仰を失わせ、神との結びつきを引き裂こうとする力が沢山働いています。外からの圧力や誘惑、自分の内側には神の意思に反しようとする罪があります。そのような力に遭遇したら、すかさず心の目をゴルゴタの丘の十字架に向けます。また復活を証しする空の墓にも向けます。その時、洗礼の時に打ち立てられた新しい命は今もしっかり打ち立てられたままであることがわかります。このように神の力で見張りの塔が出来ているのです。
信仰を失わせる力、神との結びつきを引き裂く力は、自分の力の2倍以上に感じられるかもしれません。しかしそのような力に対してはいかなる妥協もしてはならないのです。そのような時も、心の目を十字架と空の墓に向けます。洗礼の時に打ち立てられた新しい命は今もしっかり打ち立てられたままです。このように神の力で2倍の相手を撃退しているのです。
5.勧めと励まし
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちには、洗礼という原点があります。ゴルゴタの十字架で打ち立てられたこと、神のひとり子を犠牲にした罪の償いと罪の呪いからの解放が私たち自身のものになった原点です。キリスト信仰者にはこのような立ち返ることが出来る原点があるのです。罪の償いと罪の呪いからの解放が自分のものになっているというは、私たちにとって現実なことですが、聖餐式のパンとぶどう酒が霊的な栄養となってその現実を強めてくれます。洗礼と聖餐を持つキリスト信仰者は本当に幸いな者です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン