説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
主日礼拝説教2024年6月2日 聖霊降臨後第二主日
申命記5章12-15節
コリントの信徒への第二の手紙4章5-12節
マルコによる福音書2章23節-3章6節
説教題 「日曜日に教会の礼拝に出席すると『安息日は人間のためにある』が本当のことになる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. はじめに
皆さんもご存じのことと思いますが、1週間に7日あって7日目が休みというのは、旧約聖書の創世記にある天地創造の出来事に由来します。創造主の神が天と地とその間にある全てのもの、人間も含めて万物を創造した時、6日間仕事をされ、7日目に仕事を離れて休まれて、その日を特別な日、神聖な日に定めたことに由来します(創世記2章1-3節)。その日は旧約聖書の言葉であるヘブライ語でヨーム ハッシャッヴァート(יומ השבת)、短くしてシャッヴァ―ト(שבת)とも言います。普通「安息日」と訳されます。大学の先生たちに与えられる長期休暇のことを英語でサバティカルと言いますが、このシャッヴァ―トから来ています。最近はビジネス界にも広まっているそうです。
天地創造の時、神は仕事を離れて安息された7日目を神聖な日としました。神は、私たち人間もそのようにしなさい、と私たちも7日目に仕事を離れて安息することを掟として与えられたのです。その掟は、太古の昔、モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にいた時、十戒の第三の掟として与えられました。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8節)。
「休みなさい」と言ってくれるのはありがたいことですが、注意しなければならないことは、この「休め」というのは神がそうしたのでそれに倣えという命令です。休んだ神がお前も休めと言っているのに、そんなの認めない、俺は仕事する、などと言ったら神に反抗することになってしいます。安息日に「休む」というのは神の意思に従う行為であり、それをすることで自分は創造主の神に造られた者であると認め、だから造り主の意思に従うのであると自分にも他人にも示すことになるのです。ただし、仕事を休むと言う時、何でもかんでも休まなければならないのか、と言うと少し考えなければなりません。例えば、人の命を助ける仕事も休まなければならないのか、という問題については、イエス様ははっきり命を助けることが大事と言っています。なので、神の意思に沿う仕事の休み方とは何かを考えなければなりません。後でそのことを見ていきます。
神の意思に沿う仕事の休み方を考える材料の一つとして、本日の旧約の日課の申命記の個所は大事です。これは、イスラエルの民がエジプトを脱出した後40年間続いた荒れ野の移動がようやく終わりに近づいた時の出来事です。この時、神は民に十戒の復習をします。安息日の掟は、先ほどエジプトを脱出して間もない頃に与えた掟を見ましたが、それに興味深い補足をします。何かと言うと、かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの民を神は解放して下さった。そのために/それゆえ(על-כן)、神は安息日を守るようにと命じたのだと言うのです(5章15節)。最初に掟を与えた時は、神が7日目に休んでその日を神聖な日に定めたから、人間もそれに倣えというものでした。ここではそれに加えて、神は民を奴隷状態から解放して下さった、だから安息日を守れ、と言うのです。神は天地創造の時に安息日を定めたのであるが、民を奴隷状態から解放したことで一層守らなければならないというのです。これはどういうことでしょうか?本日の説教では、奴隷状態からの解放と安息日を守ることがどうかかわっているのかを見て、神の意思に沿う安息日の守り方は何かを明らかにしようと思います。
2.アヒメレクかアビアタルか?
その前に少し脇道に逸れますが、本日の福音書の日課マルコ2章のことで一つ説明しておきたいことがあります。日課は、イエス様の弟子たちが空腹を満たすために麦畑で麦の穂を摘んでいるところを宗教エリートのファリサイ派の人たちが見つけて、安息日に仕事はしてはいけないのに何事か!とイエス様に怒ったという出来事です。その時、イエス様は次のように応じます。昔ダビデがサウル王から逃れる逃避行をしていた時にノブという町の祭司から供え物のパンをもらった。サムエル記上21章にある出来事です。祭司のもとには普通のパンはなかったので、聖別されたパンを与えた、しかも、その日はパンを供え替える日で、それはまさに安息日でした(レビ記24章5~9節)。つまり、安息日に祭司しか食べてはいけないパンをダビデとその家来たちは食したという出来事です。
イエス様はこの話をされた時、ダビデにパンを与えた祭司は大祭司のアビアタルと言いました。ところが、サムエル記上21章を見ると、違う名前でアヒメレクです。これはどういうことでしょうか?イエス様は名前を間違えたのでしょうか?以前、ある教会の礼拝説教で牧師がこの個所について、福音書を書いたマルコが間違えて書いた、と言ったのを覚えています。私は、そんなにあっさり間違えと言ってしまっていいのだろうかと思いました。こういう、聖書の中によく見られる食い違いの問題は、一牧師が分かり切った顔でひと言で一蹴してしまうにはあまりにも深いことがあるのです。牧師というのは聖書を教えて給料をもらう聖書のプロです。しかも、日本では牧師は限りなく神に近い存在と見なされます。普通の信徒さんは牧師の言うことを無批判に受け入れがちです。なので、マルコが間違ったと言ったら、信徒の皆さんは、ああ、そうかマルコは間違っているんだ、さすがは牧師先生、すごいなあ、と感心するのがおちです。
私は、この問題はマルコが福音書を書く時に資料として受け取った伝承の中にアヒメレクではなくアビアタルの名があった可能性を考えなければいけないと考えます。果たしてそんな可能性があるのか?まず最初に、いわゆるパピアスの伝承を見てみます。2世紀に司教として活躍したパピアスの伝えるところによると、マルコ福音書は、イエス様の直弟子であるペトロが話し伝えたことをマルコが記述して出来たと言われています。もしそれが本当なら、ペトロがアビアタルの名を言ったことになります。しかし、ペトロはイエス様がそう言ったからそう言ったと言うでしょう。さあ、アビアタルと言ったのはペトロかイエス様か?実を言うと、聖書の各書物の成立を研究する釈義学という学問分野ではこのパピアス伝承は歴史的信ぴょう性がないとしてほとんど顧みられません。
それならば、次に見るべきことは旧約聖書のギリシャ語訳です。旧約聖書はもともとはヘブライ語ですが、紀元前3~2世紀に大々的にギリシャ語に翻訳されていきます。もし、ギリシャ語のサムエル記上21章にアビアタルの名があれば、イエス様ないしペトロはその伝統に従ったということになります。ただし、旧約聖書のギリシャ語訳と言っても、オックスフォード版とかゲッティンゲン版とかいろんな版があり、全部調べるのは大変です。それでも、ギリシャ語訳の全部の版を調べてアビアタルの名がなかった場合は、次はヘブライ語の旧約聖書の写本の出番です。
写本というのは、15世紀にグーテンベルクが活版印刷術を発明する以前、本というのはオリジナルが出来たら、後は手書きでコピーして数を増やしていきました。それが写本です。実を言うと、聖書の各書物はオリジナルのものは現存しません。全ての書物は一番古いと目される写本を元にしています。釈義学の研究者が無数にある写本を突き合わせて、これがオリジナルに一番近いだろうと結論した写本です。旧約聖書の写本の中で重要な意味を持つのが、いわゆる死海文書です。今のイスラエル国の死海の近くから発掘された古文書の中に旧約聖書がたくさん含まれています。全部がイエス様の時代ないしはそれ以前のものです。死海文書のサムエル記上21章の復元可能な写本を全部調べて、それでアビアタルの名前がなければ、イエス様はアヒメレクと言ったのだがマルコが間違えてアビアタルにしたと言ってもいいかもしれません。ただし、言い方は次のように慎重にしなければなりません。「現存する写本から見る限りは、マルコが間違えた可能性がある。」現存しない写本も無数にあります。なので、あっさりマルコが間違えたと言うのは早急すぎます。
ここで、アヒメレクをアビアタルと言い換えるのは誤りではないということを述べてみたく思います。このことは、サムエル記上21章からサムエル記下15章までをよく読んでいくと見えてきます。アビアタルというのは、アヒメレクの息子です。親子ともども祭司です。父アヒメレクは、ダビデを世話したためにサウル王によって殺害されてしまいます。息子アビアタルは難を逃れ、後にダビデが正式に王になった時、祭司ツァドクと共に神の契約の箱を管理する任務に就きます。これはもう大祭司と言える位の地位です。それなので、イエス様がアビアタルのことを大祭司と言ったのは間違いではないのです。つまり、「後の大祭司アビアタル」という意味で言ったのです。問題は、サムエル記上21章の書き方がダビデにパンを渡したのはアヒメレクということです。これも、ダビデとアヒメレクが話をしていた時、他の祭司、つまり息子のアビアタルも居合わせたと考えたらどうでしょう?私たちの新共同訳では「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、」と書いてあります。ギリシャ語の原文は次のように訳することも可能です。「ダビデは、大祭司アビアタル(つまり後の大祭司アビアタル)がいた神の家に入り、」(後注)。つまり、イエス様はサムエル記上の内容から外れたことは何も言っていないのです。そのイエス様の言葉を受け取ったマルコは、それをそのまま記述しただけなので、マルコも間違っていないのです。それなのに、マルコは間違って書いたなどと言うのは、どういうことでしょうか?今見てきたように調べたり考えたりしなかったのは明らかです。同業者として情けなく思います。何よりも信徒の方たちが気の毒です。
3.安息日は人間のためにある
アヒメレクとアビアタルの問題はここまでにして、神の意思に沿う安息日の守り方について見ていきましょう。本日の福音書の日課の個所で、イエス様は安息日の誤った守り方を指摘して、正しい守り方を教えます。弟子たちが麦の穂を摘んでファリサイ派の批判を受けた出来事では、安息日にそれを行ったことが問題になりました。ファリサイ派が問題としたのは、弟子たちが麦の穂を摘んだのは仕事だったということです。仕事は安息日にしてはいけないことなのにしたという論理でした。
少し馬鹿馬鹿しい論理ですが、当人たちは真面目そのものでした。ファリサイ派は、神に約束された神聖な土地に住む民は神聖さをしっかり保たなければならないということをとても強調していました。そのためには神の掟を完璧に守らなければならない。安息日に仕事をしてはならないという掟があれば、完璧にその通りにしなければならない。そうしないと神の目に適う者にはなれない。そのように一寸の隙もない位に細心の注意を払った結果がこうなったのです。
ファリサイ派の批判に対してイエス様は、先ほど見たように、サムエル記上21章にある出来事、安息日に祭司にしか食べることが許されていないパンをダビデと従者が食べたという出来事を引き合いに出して反論します。それに比べたら、安息日に自分の空腹を満たすためだけに麦の穂を摘むのは何の問題でもないのです。ダビデのパンの場合も、弟子たちの麦の穂の場合も、「安息日は人間のためにある」ということの実例としてあげるのです。これとは逆にファリサイ派の律法主義では「安息日のために人間がある」になってしまうのです。神の意思は、「安息日は人間のためにある」なのです。
本日の福音書の日課の後半も同じテーマが続きます。安息日にイエス様が手の萎えた人を癒したという出来事です(マルコ3章1-6節、ルカ14章1-6節も)。イエス様が癒しを行ったら訴える口実にしてやろうとファリサイ派の人たちが注視しています。それに気づいてイエス様が言います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」ここまで言われたら誰も答えることができません。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら(マルコ3章5節)、その人の手を元通りに治してあげました。ここでも、「安息日は人間のためにある」が実践されたのです。ファリサイ派の人たちは、自分たちこそが神の意思を一番知っていると自惚れがあり、掟をそれこそ人為的に作り変えて、それを守らなければ神の目に失格だと烙印を押すやり方でした。神の意思に従うなどと言いつつ、実は自分たちの意思に従わせるやり方だったのです。
4.安息日に行う礼拝も人間のためにある
イエス様は「人の子は安息日の主でもある」(28節)と言われます。これは、神のひとり子としての彼が安息日の意味や守り方を正確に知っているということです。イエス様は父なるみ神の意思を正確に知りうる立場にいるので、律法全体についても正確に知っています。安息日の主というのは律法の主でもあります。
ところが、安息日の主、律法の主というのは、イエス様がただ単にそれらについて正確に知っていて人々に教えることができるということだけではありません。イエス様は神のひとり子なので神の意思を体現しています。イエス様は、律法が全人格的に守られているというお方なのです。これが律法の主ということです。だからイエス様は真の意味での義人なのです。これは人間とは大きな違いです。なぜなら、人間は神の意思に背こうとする性向、罪を持ってしまっているので、律法を全人格的に守り通すことはできないからです。人間はそのままの状態では義人にはなれないです。
そこで神が人間にしてくれたことは、人間に義をプレゼントして、人間はそれを受け取ることで義人になれるようにするということでした。それを神は実行に移し、ひとり子のイエス様をこの世に贈りました。やがて時が来て彼に人間全ての罪を背負わせてその罰を受けさせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせました。つまりイエス様を犠牲の生け贄にしたのです。それだけではありません。神は一度死んだイエス様を今度は死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に切り開いて下さいました。このように神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたのです。そこで人間がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たした罪の償いはその人にその通りになります。罪が償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされます。神から義人と見なされるのです。
このように人間は洗礼と信仰を通して神から義をプレゼントされてそれを受けとって義人になるのです。ただし、キリスト信仰者になったとは言っても、肉の体を纏っているので罪は内に残っています。しかし、神はこう言われます。お前は高い犠牲を払ってもらって罪と死の支配状態から買い戻されたのだ。新しい命を与えられたのだから、これからは何が新しい命に相応しい生き方を考えて行きなさい。聖書の御言葉を武器にして心の中にある罪に反抗しなさい。死と罪の力に勝利したイエスがいつもそばについていることを忘れないようにしなさい。
かつてイスラエルの民にとってエジプトからの脱出は奴隷状態からの解放を意味しました。キリスト信仰者にはもっと重大な奴隷解放があります。それは、罪と死の力に支配されていたという奴隷状態です。神はこの奴隷状態から人間を解放するためにイエス様をこの世に贈られ、彼に十字架の死を受けさせて死から復活させたのです。まさにそれゆえに、安息日はキリスト信仰者にとって罪と死の奴隷状態からの解放を記念してお祝いする日なのです。
仕事を休んで安息日を神聖なものとせよ、と言うのは、仕事のことに心と時間が向けられていたのを中断して、心と時間を解放の神に向けよ、ということです。安息日に神以外のものに心と時間を向けないことこそ、安息日を神聖なものにするものです。また、仕事だけでなく生活一般のことでいろんな心配事があって頭が一杯になっていても、安息日にはそうした心の重荷を一旦肩から下ろして、心を解放の神に向ける日です。どうやってそんなことが出来るかと言うと、次のようにお祈りします。「天の父なるみ神よ。今日は安息日ですから、あなたに心を向けたいので、この重荷をあなたにお預けします。どうぞ、受け取って下さい。」そうお祈りして神の足元に投げ出してしまうのです。心配事を投げ出して出来た空白を今度は礼拝を通して得られる良いもので満たしていきます。御言葉や説教を聴くことで神が聖書の時代においても今の時代においても私たちにどんな大きなこと素晴らしいことをしてくれたかを思い起こします。讃美歌を歌うことで解放の神に感謝と賛美を言い表します。祈りの時に普段抱えている課題、自分自身と隣人の課題に解決を与えてくれるように助けをお願いします。また、今日のように聖餐式がある日であれば、、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいます。こうして霊的な栄養と力と知見を沢山もらって、新しい1週間に臨むことができるのです。
主にある兄弟姉妹の皆さん、礼拝に出席するというのは時として「しなければならない」もののように律法的に感じてしまう人がいます。そのような人たちから見たら、礼拝は「安息日のために人間がある」ものに映ってしまうでしょう。礼拝をさぼる方が「人間のために安息日がある」ではないかと。しかし、そうではありません。礼拝をさぼることは「人間のために安息日がある」ことにはなりません。なぜなら、安息日は罪と死の奴隷状態からの解放をお祝いする日です。安息日に行う礼拝は、その解放を確かなものにします。だから礼拝は「人間のために安息日がある」ものなのです。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン