2023年11月27日月曜日

福音を受け入れて受け入れ続けることは大きな安心のもと (吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年11月26日 聖霊降臨後最終主日

スオミ教会

 

エゼキエル書34章11-16、20-24節

エフェソの信徒への手紙1章15-23節

マタイによる福音書25章31-46節

 

説教題 「福音を受け入れて受け入れ続けることは大きな安心のもと」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

.はじめに

 

 説教を始めるにあたって二つ申しあげねばならないことがあります。一つは、説教題が変わりました。説教を準備している時に内容がホームページや週報でお知らせした題に合うものから変わっていき、結局、今掲げている題のものになりました。説教をお聞きになれば、どうして新しい題になったかお分かりになると思います。もう一つは、今日本語訳の聖書を読んで気づいたのですが、37節と46節に「正しい人」が出てきますが、ギリシャ語原文ではデカイオスです。ルター派だったらこの言葉を聞くと信仰義認の「義」が頭に浮かび、「正しい人」と幅広く考えず、「義なる人」と考えます。フィンランド語の聖書もずばり「義なる人」と訳しています。「義なる人」がどんな人か、今日の説教でもお話しします。

 

 さて、今日は聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の一年は今週で終わり、新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それはまた最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。

 

 ところで誰も、最後の審判の時に自分が神からどんな判決を下されるか、そんなことは考えたくないでしょう。本日の福音書の個所はまさに最後の審判のことが言われています。牧師にとって頭の重いテーマではないかと思います。あまり正面切って話すと信徒は嫌になって教会に来なくなってしまうと心配する説教者もいるかもしれません。牧師によっては、地獄なんかありません、と言う方もおられます。そうすると、信徒さんたちは、ああ、よかった、さすが牧師先生、素晴らしい、となります。あるいは、聖書でイエス様はこう言っていますが、本当は言っていません、とか、こう言っているけど、イエス様の本意は別のところにあります、などと言う方もおられます。私としては、聖書にそう言っている以上は、そういうものとして取り扱うしかないと観念して話を進めてまいります。そういう観点で皆さんと一緒に今日は自分たちの信仰を自省することができればと思います。

 

 本日の福音書の箇所は最後の審判について言われていますが、これはまたキリスト信仰者が社会的弱者やその他の困難にある人たちを助けるように駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終末の時に再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮者、特に子供たちに主の面影を見て支援に乗り出して行きます。

 

 しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かになってしまう、つまり、人間の救いは善い業をしたかどうかに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の立場と相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本には、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場があります。

 

 問題は、ルター派を越えてキリスト教のあり方そのものに関わります。善い業を行えば救われると言ったら、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。仏教徒だってイスラム教徒だって果てはヒューマニズム・人間中心主義を標榜する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っています。それを実践すればみんなこぞって神の国に入れると言ってしまったら、ヨハネ146節のイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

 

 この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言えば、本日の箇所は善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も信仰による救いを教えていることがわかります。これからそのことをみてまいりましょう。

 

2.イエス様の兄弟グループとは福音を伝える使徒のこと

 

 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、諸国民全てを御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで以前もお教えしたことですが、この審判の場では人々のグループは二つではなく、実は三つあります。何のグループか?40節をみると、再臨の主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言っています。日本語で「この最も小さい者」、「この」と単数形で訳されていますが、ギリシャ語原文では複数形(τουτωνなので「これらの」が正解です。一人ではありません。原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは」となります。つまり、第三のグループとしてイエス・キリストの兄弟グループもそこにいるのです。主は兄弟グループを指し示しながら、羊と山羊の二グループに対して「ほら、彼らを見なさい」と言っているのです。

 

 それでは、このイエス・キリストの兄弟グループとは誰のことか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような社会的地位の低さも意味します。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような者たちです。社会の基準からみて価値なしとみなされる者たちです。従って、主の兄弟たちは子供に限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいでしょう。

 

 それでは、この主の兄弟グループは、もっと具体的に特定できるでしょうか?それが特定できるのです。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこでイエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、伝道に派遣します。その際、伝道旅行の規則を与えて、迫害に遭っても神は決して見捨てないと励まします。そして、使徒を受け入れる者は使徒を派遣した当のイエス様を受け入れることになる(1040節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(4142節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」(ここではτουτωνをちゃんと複数形で訳しています)、「小さい」ミクロスμικροςという単語は、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが(マタイ186節)、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことを言っているので、「小さい者」は子供を指しません。使徒たちです。

 

 使徒とは何者か?それは、イエス様が教えることをしっかり聞きとめよ、自分が行う業をしっかり見届けよ、と自ら選んだ直近の弟子たちです。さらに、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという良き知らせ、つまり福音を命を賭してでも宣べ伝えよ、と選ばれた者たちです。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。イエス様は弟子のことをどうして「小さい」とか「取るに足らない」などと言われるのか、それは、彼が別の所で弟子は先生に勝るものではないと言っているのを思い出せばよいでしょう(マタイ1024節、ルカ640節)。

 

 マタイ10章では、使徒を受け入れて冷たい水一杯を与える者は報いを受けられると言っていますが、本日の箇所も同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をして病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言っているのです。

 

3.福音を受け入れ、受け入れ続けることが大事

 

 このように、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すとすると、これを広く社会的弱者・困窮者と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは怒ってしまうかもしれません。支援の対象は福音を宣べ伝える使徒だなどとは、なんと視野の狭い解釈だ、と。しかし、これは解釈ではありません。書かれてあることを素直に読んで得られる理解です。そうなると、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう一般の弱者・困窮者の支援は考える必要はないということになるのか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ1025-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということです。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになります。先ほども申しましたように、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは、別にキリスト教徒でなくてもわかり実践できます。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。あとでそのことも明らかになります。

 

 それから、子供を助けることについては、別に本日の福音書の個所によらなくても聖書には他にもいろいろな御言葉があります。それらの御言葉は歴史的に重要な役割を果たしたのです。古代のギリシャ・ローマ世界には生まれてくる子供の間引きが当たり前のように行われていました。この慣習に最初に異を唱えたのがユダヤ人でした。旧約聖書に基づいて、人は皆、創造主の神に造られ、人は母親の胎内の中にいる時から神に知られているという立場に立っていたからでした。続いてキリスト教が旧約聖書を引き継ぎます。イエス様自身、彼を救い主と受け入れる子供たちは大人の受け入れ方に比して何も引けを取らないと言って子供を積極的に祝福しました(マタイ1814節、191315節、マルコ93337節、101315節、ルカ94648節、181517節)。また、イエス様を信じる子供を躓かせる者は最低最悪だと非難するくらい、子供の価値を高めたのもイエス様でした(マタイ186節)。結果、キリスト教が地中海世界に広まるにつれて間引きの慣習は廃れていきます。この歴史的過程とそこで影響を与えた聖書の個所についての研究もあります。(代表的なものとしてE.コスケン二エミが2009年に出した研究書があります。その中で、影響力を持った聖書の個所がいろいろあげられていますが、本日の福音書の個所はなかったと思います。)

 

 以上、子供を大事なもの価値あるものと考える聖書の個所としては以上の個所を見ればよく、本日の箇所は使徒に関するものと言っても大丈夫なわけです。

 

 さて、使徒たちが福音を宣べ伝えていくと、今度は人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろ支援してあげる人たちが出てくる。他方で福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出てくる。ここで注意すべき大事なことは、支援した人たちというのは、支援することで、逆に使徒の仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。そのような例は使徒言行録にも見ることができます(17章のヤソンとその兄弟たち)。

 

 そういうわけで支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだからという同情心で助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音のゆえに彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのです。つまり、支援した人たちは福音を受け入れて、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った人たちです。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちです。また、一時信仰を持ったかもしれないが、いつしか宣べ伝えた人たちと距離を置き背を向けるようになった人たちもいます。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、受け入れても受け入れ続けたか続けなかったか、これが神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのです。そういうわけで、本日の箇所は、文字通り信仰義認を教えるもので、善行義認ではありません。

 

 そういうわけで、神の国に迎え入れられるか否かの基準は実に、使徒を支援するのが当然になるくらい福音を受け入れるか否か、受け入れた福音を受け入れ続けたかどうか、ということになります。

 

 ここで使徒たちが宣べ伝えた福音とは何かということについて復習しておきましょう。福音とは、要約して言えば、人間が堕罪の時に失ってしまっていた神との結びつきを、神の計らいで人間に取り戻してもらったという、素晴らしい知らせです。人間は堕罪の時以来、神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなってしまった。この世を去った後も自分の造り主である神の御許に永遠に戻れなくなってしまった。そこで神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部負わせてゴルゴタの十字架の上で神罰を下し、人間の罪を人間に代わって償わることにした。あとは人間の方が、これは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だと信じて洗礼を受けると彼が果たした罪の償いが自分のものになる。罪の償いが果たされたのだから、神から罪を赦された者と見なしてもらえる。罪が赦されたのだから神との結びつきが回復して、その結びつきを持ってこの世を生きることになる。この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになる。これが使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音です。

 

 人間は、この福音を受け入れた時、もう神に対して背を向ける生き方はやめなければ、これからは神の方を向いて生きようと志向するようになります。万物の創造主である神が自分の側についてくれて、この世の人生を一緒に歩んでいてくれるとわかればわかるほど、自分の利害はちっぽけなものになり、自分の持っているもの自分に備わっているものを独り占めにしないで、それを他の人のために役立てようという心になっていきます。真に、キリスト信仰にあっては、善い業とは神に目をかけてもらうために行うものではなく、一足先に目をかけてもらったので、その結果、出てくる実なのです。

 

4.キリスト信仰は善行義認ではなく信仰義認

 

 以上、今日の福音書の個所は善行義認を言っているように見えるが、実は信仰義認を言っているということをお話ししました。まだ納得いかないと言う人には、ダメ押しとして次のことをお教えします。

 

 イエス様は羊に言いました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」実はこの部分のギリシャ語原文はわかりにくく、この訳はわかりやすくするためのぶった切りです。原文をぶった切りしないで忠実に見るとこうなります。「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にあなたがたが頑張ってした分は、私にしたことになる。」これでもわかりにくいですが、こういうことです。まず、複数いる兄弟たちの一人だけでも助けてあげたことが良しとされている。全員でなくてもいいのです。そして、あなたがたが頑張ってした分がイエス様にしたことになる。つまり、良い業のリストの中で何かしなかったことがあるかもしれない。食べさせてあげることはしたが牢屋に面会にはいかなかった。でも、それはとやかく言わないで、頑張ってした分に目を留めている。そういうふうに見ていくとイエス様は、福音を受け入れた人の場合、完璧な助けではなくても、天の御国に迎え入れる位に完璧なものとして認めて下さる、完璧でないところは目を留めないで下さるということが見えてきます。

 

 同じように、イエス様の山羊に対する言葉を見てみます。「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」これもぶった切り訳なので、原文に忠実に見るとこうなります。「これらの取るに足らない者たちの一人にあなた方が怠ってしなかった分は私にしなかったことになる。」つまり、複数いる弟子たちの一人だけでも助けてあげなかったことが非難されるのです。全員助けてあげないといけないのです。そして、あなたがたが怠ってしなかった分がイエス様にしなかったことになる。食べさせることはしたが牢屋には面会に行かなかった。良い業のリストにあることを全部しないと天の御国に迎え入れられないと言うのです。つまり、福音を受け入れない人の場合、天の御国に迎え入れられるためには完璧な助けができなければいけないと言うのです。でも、それは無理な話です。だから、兄弟姉妹の皆さん、福音を受け入れて受け入れ続けることは本当に大きな安心になるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン