説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
降誕祭前夜礼拝説教 2021年12月24日
スオミ・キリスト教会
ルカによる福音書2章1-20節
説教題 「マリアの静かな大胆不敵」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1.
今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれます。世界中の全てのキリスト教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読される箇所です。「クリスマス福音」は聖書の1ページ程の長さですが、内容は深いです。それで毎年クリスマス・イブの礼拝でこの聖句をもとに説教する人は毎回テキストから新しい発見をします。私も今回はイエス様を出産したマリアの表向きは静かではあるが内面に大胆不敵さが見れたので、そのことに焦点をあててみようと思います。
まずイエス様の誕生の出来事のあらましを見てみましょう。現在のイスラエルの国がある地域の北部にガリラヤ地方と呼ばれる地域があって、そこのナザレという町にヨセフとマリアという婚約者がいました。ある日、マリアのもとに天使が現れて、あなたに神の力が働いて男の子を産むことになる、それは神聖な神の子であり、ダビデの王座に就く王となり、その王権は永遠に続く、と告げます。案の定マリアは妊娠し、それに気づいたヨセフは婚約解消を考えますが、彼にも天使が現れて、マリアを妻に受け入れるようにと言います。生まれてくる子供は人間を罪の支配から救う救い主になる、だからマリアを受け入れなさい、と。ヨセフは言う通りにしました。ちょうどその時、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが勅令を出して、帝国内の住民は自分の出身地にて租税のための登録をせよという命令です。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあったので、皇帝の命令には従わなければなりません。それで、ヨセフとマリアはナザレからユダ地方の町ベツレヘムに旅に出ます。なぜベツレヘムかと言うと、ヨセフはかつてのダビデ王の末裔だったので、ダビデ家系の所縁の地ベツレヘムに向かったのです。グーグルマップで調べたらナザレからベツレヘムまで156,7㎞あり徒歩で31時間かかると出ました。(ちなみに自動車で2時間5分、電車で3時間45分、自転車なら9時間2分だそうです。)身重のマリアは間違いなくロバに乗せたでしょう。日中明るい時に歩きどおしで3日はかかったでしょう。マリアにとっては辛い旅だったと思います。そうまでして行かねばならなかったのは、それ位、皇帝の命令は絶対だったということです。
さてベツレヘムに着いてみると、同じ勅令のためだったでしょうか、町は旅人でごった返しして宿屋は一杯でした。マリアは今にも子供が生まれそうです。ヨセフが必死になって宿屋の主人にお願いする様子が目に浮かびます。そこで宿屋併設の馬小屋に案内され、そこで赤ちゃんを産みました。生まれた赤ちゃんは布で包まれて馬の餌を置く飼い葉桶に寝かせられました。天地創造の神のひとり子で神の御許にいた時は神聖な輝きを放っていた方は人間の救い主となるためにこのような生まれ方をしたのでした。
このイエス様誕生の場面はよく、微笑ましい、何かロマンチックな出来事のように描かれます。子供向けの絵本の聖書を見ますと、「きよしこの夜」の歌のごとくすやすや眠る赤ちゃんイエスとそれを幸せそうに見守るマリアとヨセフ、3人の周りを馬や牛やロバが微笑んで見守るという挿絵が多いと思います。しかし、馬小屋で出産するというのは、そんなに微笑ましいものではないと思います。妻のパイヴィの実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。最初の頃は興味本位で行きましたが、その後は子供たちが行ったきり出てこないので連れ戻すために仕方なく行きました。牛舎は牛の水分補給や栄養摂取がコンピューターで管理され、乳搾りも機械化されていますが、臭いだけはどうにもなりません。牛はトイレに行って用を足すことをしないので、全て足元に垂れ流しです。汚物は床下の汚水槽から外の貯蔵池に流れていきます。ベツレヘムの馬小屋はそういう作り方はしていなかったでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。
それでも、その時のマリアとヨセフの気持ちとしては、ただただホッとしたというものだったでしょう。場所はともあれ雨露しのげる屋根の下で赤ちゃんを出産させることができた、赤ちゃんを包んで寝かせてあげる床も出来た、本当に助かったというのが素直な気持ちだったでしょう。なんでまたこんな場所で、と不貞腐れたりブツブツ文句言うなんてことはなかったでしょう。赤ちゃんを無事に誕生させられたことに心が一杯になっていたでしょう。そういうマリアとヨセフの気持ちを考えれば、イエス様の誕生というのはまさしく闇と汚れに満ちた周りの事物を背後に追いやってしまう位の光の出来事と言ってよいでしょう。
2.
マリアとヨセフが劣悪な環境を気にせずに誕生した赤ちゃんに心を傾けられたのは、出産を無事済ませられたことだけではありませんでした。彼らには既に、この赤ちゃんはどういう者か、天使のお告げを聞いていたのです。その子は神聖な神の子で、将来ダビデの王座について永遠の王権を打ち立てると言われていました。また、人間を罪の支配から救い出すとも言われていました。永遠の王権を打ち立てるというのはどういうことなのか?それは、ユダヤ民族を支配するローマ帝国を打ち破って民族自決の王国を復興させ、それが未来永劫まで続くということなのか?ならば、人間を罪の支配から救い出すとはどういうことか?確かに旧約聖書には、罪という神の意思に反しようとする性向が人間に備わってしまったことが記されている。人間が罪を持つようになってしまったために神の御許にいることが出来なくなって神との結びつきが切れてしまい死ぬ存在になってしまったことも記されている。人間を罪の支配から救い出すというのは、人間が神との結びつきを回復して神の御許に戻ることが出来るようになることを意味するのか?ということは、人間は死を超えた永遠の命を持てるということなのか?そのようなことを成し遂げる者がユダヤ民族の王国を再建するのとどう結びつくのか?一方では人間全ての救いについて言って、他方では一民族の解放について言っていて話がかみ合わないのではないか?
今、布に包まれて飼い葉おけの藁の上ですやすや眠っている赤ちゃんを見ていると、民族の解放者か人間の救い主かわからないが、そういうことはとても遠いことに感じられます。もちろん、神のみ使いからそう言われた以上は、この子にはこれから何か大変なことがいろいろ起こるのだろう。ローマの皇帝の権力は絶対だし、今いるユダヤの王はローマの傀儡のくせに空威張りの権威を振りかざしている。この子は将来それらを相手に一戦交えることになるのだろうか、想像もできないことだ。考えただけでも恐ろしい。しかし、マリアは天使の言った通り処女のまま赤ちゃんを生んだではないか、それで万物の創造主の神がこの子と私たちのことに目を注いでおられることはわかった。神に注視されていることがわかると、将来に対する心配は馬小屋の暗闇と汚れが背後に退いたように退きます。マリアとヨセフは生まれたばかりの赤ちゃんをそれこそ闇の中に輝く光のように見続けていたでしょう。
その時です。周囲が騒がしくなり、光と闇の静寂を破って大勢の人たちが馬小屋に入ってきました。先頭にいた羊飼いたちが言いました。「ここだ!ここだ!その赤ちゃんはここにいるぞ!天使が言った通りだ、布に包まれて飼い葉おけに寝かされている!」羊飼いたちの他にも人がいたことは18節からわかります。羊飼いたちは大声で言ったのか、声を押し殺しながら言ったのかはわかりません。イエス様が起きて泣き出したのか、起きずにすやすや眠り続けていたのかもわかりません。いずれにしても羊飼いたちは自分たちに起こったことをマリアとヨセフそして一緒に来た人々に話し始めました。
郊外の野原で羊の番をしていた時でした。神のみ使いが突然、私たちの目の前に現れて、神の栄光の輝きが私たちを覆いました。恐れおののく私たちにみ使いは言いました。「恐れることはない。旧約聖書を持つイスラエルの民全員に大きな喜びの知らせを告げよう。今日ダビデの町で救い主がお前たちにお生まれになった。その方はメシアであり主である。その印として、お前たちは布に包まれて飼い葉おけに寝かせられた赤子を見つけることが出来るだろう。」天使がそう言うと、今度は大勢の天使が現れて神を賛美して言いました。「いと高き天には栄光、神に。地には平和、御心に適う人に。」すると天使たちは天に帰っていなくなり、辺りはまた静かな闇に変わりました。しかし私たちは、すぐベツレヘムに行って神が知らせてくれたことを見に行こうと羊ともども出発しました。飼い葉おけと言うから、どこか馬小屋に違いありません。でもどこにあるかわからないので、町の人たちを起こしながらやっと探し当てました。
一緒について来た人たちは羊飼いの言うことにただただ驚くばかりです。メシアが馬小屋にいると言うからついてきたら、何だ赤ん坊じゃないか!いや、天使が言った通りのことが起きたのだから、やっぱりメシアじゃないか?みんな半信半疑です。イエス様を出産したマリアはどうだったでしょうか?「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(19節)。」この箇所のギリシャ語原文の意味合いは少し違います。正確を期すると原文の趣旨はこうなります。「しかし、マリアはこれら全ての事柄を一つも漏らさず総合して考えて心の中に保管していた。」「これら全ての事柄」とはイエス様の誕生にまつわる全ての事柄、最初の天使のお告げから高齢のエリザベトの妊娠そして今回の羊飼いたちに起こったことの全てです。それを全部総合して考えたというのはマリアは事の全体像を理解したということです。つまり、マリアはイエス様の誕生の背景に神の何か周到な計画があるとわかったのです。それを心の中に保管していたというのは、どういうことか?今マリアの周りでは羊飼いたちが、天使の言ったことは本当だった、と大喜びしていて、その他の人たちは半信半疑でいるという正反対な状態にいます。そうした中でマリアは彼らに対して口を開かなかったということです。羊飼いと一緒に喜び合うこともせず、半信半疑の人たちに説明や説得することもせず、マリアはただ、全ては神の計画によるものとわかったことでよしとして静かに赤ちゃんを見つめていたということです。
メシアという言葉について。当時はユダヤの人たちにもその意味は明確ではありませんでした。それなのでこの時マリアが、この子はメシアです!と言わなかったのは賢明でした。いずれ、イエス様がどういうメシアであるかはっきりするのですから。今はただ、神は羊飼いを通してもお告げをして下さった、この子を通して神の何か計り知れない計画が実現することがわかった、その計画の具体的な内容はまだわからないが、自身の計画を実現させるために神は間違いなくこの子と私たちと共におられ、私たちのことを絶えず見守っていて下さる、そのことがわかった。それで十分でした。その時のマリアは神への信頼が一層強まり、何も恐れることはないという心でした。このように何かとてつもなく大きなことをわかっていながら口数が少なく物静かというのは圧倒させるものがあります。逆に何もわかっていなくて口数が多く騒がしいというのは軽い感じがします。
3.
創造主の神はこの私に目を注いで下さる、私が歩む道で具体的に何が起こるかは先立って何もわからない、しかし、神が私と共にいて私を守り導いて下さることは確かなので心配はいらない。これがこの時のマリアの静かな大胆不敵さの内容でした。私たちも同じような静かな大胆不敵さを持つことが出来るでしょうか?それは、イエス様が私たちにとって本当の意味でのメシアになることで出来ます。
先ほども申し上げましたように、当時メシアの意味は旧約聖書を持っていたユダヤ民族の間でも明確ではありませんでした。それは民族を外国支配から解放してくれる王様なのか、それとも一民族を超えた全人類共通の敵である罪と死から解放してくれる救い主なのか。この世に人間として誕生された神のひとり子イエス様は後者であることを明らかにしました。
イエス様はこの世にあった時、まず旧約聖書の内容を正確に人々に教えました。彼の教えの中で最も大切なことの一つは「神の国」でした。それは今ある天と地が終わって新しい天と地が創造される時に現れる国です。その時、死者の復活が起きて、復活の体と永遠の命を与えられる者は神の国に迎え入れられます。イエス様は数多くの奇跡の業を行い、将来の神の国がどのような国であるかを人々に垣間見せました。黙示録で預言されているように、飢えも渇きも病も痛みも苦しみもなく、この世での全ての無念が晴らされて全ての涙が拭われるところです。しかし、イエス様は神の国について教えただけではありませんでした。なんと、人間が神の国に迎え入れられるようにすることもやってのけたのです。人間がそこに迎え入れられるのを不可能にしていた罪の問題を人間のために解決して下さったのです。それがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。イエス様は人間の罪を全て背負って十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれ人間が受けないようにと盾になって下さったのです。あとは、人間の方が、イエス様は本当に自分を犠牲にしてまで私の罪を神に対して償って下さったとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。罪の償いを済ませた者にしてもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたのだから、神との結びつきを回復してこの世を生きられるようになります。この結びつきは自分から手放さない限り失われることはありません。
さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、復活の体と永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を進むことになります。日々の生活と人生の課題の中で神の意思に反することに気づかされる時があります。その時はいつもイエス様の十字架のもとに戻って罪の赦しに留まる自分を神に確認してもらいます。このように神のひとり子が自分を犠牲にしてまでこの私に良いもの大切なものを与えて下さった恩義に恥じないように生きようと心がけ続けていけば、この世から別れた後、復活の日に復活の体と永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられます。
このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、自分に対する神の計画の全容が明らかになります。神との結びつきが回復し、その結びつきを持ってこの世の人生を歩むことになります。自分が置かれた道は神の国に通じるものです。神は私たちをそこに至らせたいので、順境の時であっても逆境の時であっても神との結びつきは変わらずにあります。いつも神に見守られているのです。道を進んでいく時に、具体的にどんなものに遭遇するかは先立ってはわかりません。人間はいつも事後的に神の導きと見守りがあったと気づくだけです。そのため見えない先のことを考えると少し不安になります。しかし、神の計画の全容ははっきりしています。それは周到な計画で、具体的に遭遇すること一つ一つを全て合わせたものよりも遥かに大きなものです。だから具体的に何かに遭遇する前に静かに大胆不敵にしていられるのです。マリアと全く同じです。願わくば、出来るだけ多くの人が、マリアのような静かな大胆不敵さを持てて、この不穏と悪に満ちた世にあっても「腰に帯を締め雄々しく」していられるように。イエス様という大元の光を見つめながらその光を映し出す「世の光」となれますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン