説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2021年12月12日待降節第3主日
スオミ・キリスト教会
ゼファニア書3章14-20節
フィリピの信徒への手紙4章4-7節
ルカによる福音書3章7-18節
説教題 「洗礼の結ぶ実」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.神の怒りの日
今日の説教題「洗礼の結ぶ実」を見て、あれっ、「聖霊の結ぶ実」の間違いじゃないのと思われた方もいらっしゃると思います。使徒パウロはガラテア5章で「聖霊の結ぶ実」と言っていて、それは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であると言っています。実は「洗礼の結ぶ実」も同じことです。洗礼がどんな実を結ぶかがわかると「聖霊の結ぶ実」もよくわかるようになると思います。
今日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネが出てきます。呼び名のごとく人々に洗礼を授けました。大勢の人たちが洗礼を受けにきました。人々は神の怒りの日が来ることを恐れ、神の怒りから免れる手立てになると思って洗礼を受けに来たのです。神の怒りの日というのは、旧約聖書の預言書のあちこちに「主の日」なる日が来ると預言されていますが、それと同じ日です。神が怒りを込めて裁きを行うという日です。誰をなぜ裁くかと言うと、まず、ユダヤ民族内部の神の意思に背く人たちです。もし背くのが民族全体ならば全員です。罰の与え方としては、強大な大国を呼び寄せてユダヤ民族を攻めさせて滅ぼしてしまうということがあります。紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚がその例です。さらに、ユダヤ民族を滅ぼして得意がっている外国も滅ぼされます。その例は枚挙にいとまがありません。
紀元前6世紀終わりにバビロン捕囚が終わり囚われの民が祖国に帰還できてエルサレムの町と神殿を再建します。その後の時代になると、神の怒りの日はユダヤ民族や周辺民族だけに関わるものではなくなって全人類に関わるスケールの大きさに理解されるようになります。その背景には、旧約聖書の預言書に終末論の見方がはっきり出るようになったことがあります。イザヤ書の終わりの方65と66章を見ると、天地創造の神は今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造するという預言があります。またダニエル書7章や12章では、この地上の歴史が終わる時、神と共に人類を裁きにかける「人の子」が到来して、死者の復活が起きて神の栄光を受けられる者と受けられない者の選別が行われるという預言が出てきます。これがいわゆる最後の審判です。今日の洗礼者ヨハネの言葉からも明らかなように、神の怒りは神の意思に沿う者と沿わない者を選別し、沿わない者は永遠の炎の中に投げ込んでしまうという怒りです。
このようにユダヤ民族を主役にして考えられていた神の怒りの日は全人類に関わるものになりました。しかし、それは旧約聖書を貫く観点からすると当然なことでした。というのは、人間はユダヤ民族かどうかに関係なく全員が創造主の神に造られ、最初に造られた人間が神の意思に背くようになって罪を持つようになってしまった、だから罪は全ての人間に受け継がれている、そういう人類普遍の観点が聖書に貫かれています。ひとつ参考までに、本日の旧約の日課ゼファニア3章を見てみます。15節「主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた」は、一見するとユダヤ民族を虐げる敵対民族を撃退するということでバビロン捕囚からの解放を預言しているように見えます。「お前に対する裁きを退け」も、神がユダヤ民族に罰としてバビロン帝国を送って攻撃させたという神の裁きが撤回されたことを意味しているように見えます。しかし、ヘブライ語のミシュパートは日本語訳の聖書ではよく「裁き」と訳されますが、辞書(Holladayのです)を見るとjudgementの意味は出ていません。ここでの使える意味は「訴訟」とか「告訴」です。その意味でいくと、人間と神の間を引き裂く力である悪魔が人間のことを、この者は罪がある、だから裁くべきだ、と神に訴えるのです。その悪魔の告訴が退けられ、人間の敵である悪魔が追い払われるという預言になります。こうなるとゼファニアのこの箇所はユダヤ民族を超えて人類普遍なことになります。どのようにして悪魔の告訴は退けられたのか?イエス様が成し遂げたことによってです。それについては後ほど詳しくお話ししましょう。
さてヨハネはユダヤの荒野から出てきて「悔い改めよ、神の国は近づいた」と大々的に宣べ始めます。旧約聖書の内容を知っていた人たちはこれはイザヤ書40章(特にギリシャ語訳の)の「荒野の叫ぶ声」だと察知しました。神の国が近づいたということは新しい天と地が再創造される日が近いということだ、そうすると、今ある天と地はもうすぐ崩壊する、神の裁きもすぐ来る、これは大変だ、と思ったのでしょう。それで人々はこぞってヨハネが勧める「悔い改めの洗礼」を受けに来たのです。ヨハネの洗礼を受けたら神の怒りを免れて永遠の炎に投げ込まれずに済んで神の国に迎え入れられると考えたのです。ところがヨハネは、自分の洗礼にはそんな力はないと認めました。もうすぐ自分よりも偉大な方が来られ、その方は聖霊と火で洗礼を授けると言ったのです。その方とは言うまでもなくイエス様のことです。イエス様が設定する洗礼こそが神の怒りを免れる洗礼であると。聖霊と火が伴うイエス様の洗礼とはどんな洗礼でしょうか?そのことをこれから見ていこうと思います。
2.ヨハネの洗礼からイエス様の洗礼へ
イエス様の洗礼をよくわかるために、もう少しヨハネの洗礼がどういうものか見てみます。ヨハネは洗礼を受けに来た人にかなり厳しいことを言います。お前たちは蝮から生れ出た者だなどと。「悔い改め」に相応しい実を結べ、結ばないと火に投げ込まれる、つまり、神の怒りをもろに受けると言います。「悔い改め」に相応しい実を結ぶとは具体的には何をすることでしょうか?取税人に対しては、定められた額以上を取り立てるなと言います。このことから、当時は定められた額以上に取り立てていたのが普通だったことがうかがえます。兵隊たちには市民から強奪するな、貰っている給与でよしとせよと。当時は強奪は日常茶飯事だったのでしょう。一般市民に対しても、自分が持つ物を持たざる者に分け与えよ、と言います。これからするに当時は、持たざる者はほおっておけばいいというような、今風に言えば新自由主義的な自己責任論がまかり通っていたのでしょう。蝮から生れ出たと言われるのも無理はありません。
ここで、ヨハネはこれらの行いを洗礼の条件にしたことが見て取れます。12節を見ると、取税人たちが洗礼を受けるためにヨハネのもとにやって来て、私たちは何をすべきでしょうか?と聞きます。それに対してヨハネは規定以上に取り立てるなと命じます。神の怒りから免れようと洗礼をもらいにやって来て、受ける前にそのように言われたら、普通だったら、はい、その通りにいたします、と約束して受けることになるでしょう。そうすると、定められた行いをすること、ないしはすると約束することが洗礼の条件としてあります。これら悔い改めに相応しい行いを行って相応しい実を結んだことを示してから、ないしはそれを約束してから洗礼を受ける、そうすれば洗礼が中身を伴ったものになる、逆に行いなしで洗礼を受けたら中身を伴わない形だけのものになってしまうということです。その意味で、ヨハネの洗礼は正しい行いとセットになって有効性がある洗礼と言うことが出来ます。
ヨハネの洗礼はまた、「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」とも言われます(ルカ3章3節)。悔い改めにふさわしい正しい行いをしてヨハネから洗礼を受けると罪の赦しに至ると言うのです。「罪の赦しに至る」というのは微妙な言い方です。ギリシャ語原文がそういう言い方をしているのですが、それは行いをして洗礼を受けたら即罪が赦されるのか、それとも行いをして洗礼を受けたら将来罪の赦しを得られる軌道に乗るということなのか、どっちの意味も可能です。ここではどうも罪の赦しは将来のことのようです。というのは、ヨハネは自分の後に自分より強力な方が来られる、その方は聖霊と火を伴う洗礼を行うと言うからです。その方とは言うまでもなくイエス様です。ヨハネの洗礼では即罪の赦しは得られない、イエス様の洗礼で得られるようになることを意味したのです。それなので、ヨハネの洗礼は罪の赦しに至る軌道に乗せるものだったのです。
それでも人々はヨハネから洗礼を受けると即罪の赦しを得られると信じて受けにきました。そう信じる背景には、当時のユダヤ教社会には水を用いた清めの儀式があったことがあります。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、それは本当はあり得ないことでした。マルコ7章の初めにイエス様とユダヤ教社会の宗教エリートたちとの論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、ということでした。宗教エリートたちが重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。その目的は外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間は本質的に神の神聖さに相反する汚れに満ちている。律法の掟を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないので神の意思に沿ったり実現することには程遠く、将来最後の審判をクリアーして神の国へ迎え入れられることを保証するものではない、とイエス様は教えるのです。
人間は自分の力では罪の汚れを除去できないというのがもう真理ならば、どうすればいいのか?除去できないと、最後の審判の時に神聖な神を前にしてなす術がありません。この人間にとって行き止まりの状態を突破するために神が編み出した方策は次のものでした。ひとり子をこの世に贈り、本当だったら人間が受けるべき罪の罰、神罰を全部彼に受けさせて人間の罪の償いをさせる、この身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そこで人間が、神がひとり子を犠牲に供したのはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると彼にしてもらった罪の償いはその人のものになります。その人は神のひとり子に罪を償ってもらったのですから、神からは罪を赦された者と見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから、神と結びつきを持ってこの世を生きることになります。
さらに神はイエス様を想像を絶する力で死から復活させました。これで死を超えた永遠の命が本当にあることがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。神との結びつきを持って進む道は、永遠の命が待っている神の国に至る道です。たとえ、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、復活の体という神の栄光を映し出す体、朽ちない体を着せられて神の国に迎え入れられることになります。
ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。神が人間に贈り物のように与える罪の赦しはまだ確立していません。それなので、ヨハネから洗礼を受けても、それは罪の赦しに至る軌道に乗せるものにしかすぎませんでした。これとは別に神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要でした。イエス様の身代わりの犠牲がもたらした罪の赦しがそれだったのです。
3.聖霊の結ぶ実、洗礼の結ぶ実
イエス様が設定する洗礼には、ヨハネの洗礼のように良い実を結ぶという条件はありません。イエス様のことを救い主とわかって信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができ神から罪を赦された者として見てもらえるようになる。これがイエス様の洗礼です。何か良い業をして洗礼を受けるということはありません。そんなことをしたらイエス様が果たしたことは何か不足があることになってしまいます。神から罪の赦しを頂くにはイエス様の十字架の業だけでは足りないということになってしまいます。そういうわけでキリスト教会の洗礼というのは実に、神から罪の赦しを頂けるためにはイエス様がこの私に果たして下さったことで十分ですと観念することと言っても過言ではないでしょう。本当に罪の赦しは神からのお恵みとして頂くものなのです。それじゃ、キリスト信仰者は良い実は結ぶ必要はないのかという疑問が起こると思います。この疑問に対する答えを見つけましょう。
ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。しかし、本当に罪から浄化されるでしょうか?
実を言うと、洗礼を受けてキリスト信仰者となっても、神の意思に反しようとする罪はまだ残ります。それじゃ、精錬されていないじゃないか、イエス様の洗礼には力がないじゃないか、と言われるかもしれません。洗礼受けても罪を持ち続けるのなら、最後の審判をクリアーできないじゃないか、キリスト教会の洗礼には意味がないのか、と言われてしまうかもしれません。
洗礼には意味があります。洗礼を受ける前と後で決定的な違いが起こります。それは、罪の側ではなく神の側に立って生きるようになることです。神に背を向ける生き方でなく神の方を向いて生きるようになることです。十戒の掟は、なんじ殺すなかれにしろ、なんじ姦淫するなかれにしろ、そういうことをしないで済んだら合格というような甘いものではありません。イエス様が言われたように、兄弟を罵ったら同罪、異性をみだらな目で見たら同罪になるほど天地創造の神は私たちの心の有り様まで問うてくるのです。キリスト信仰者になれば、神の意思に敏感になるので心の中に神の意思に沿わないことが出てくるとすぐ気がつきます。その時、どうしたらいいのか?洗礼を受けたくせに神の意思に反することに心を許してしまった、イエス様の尊い犠牲を汚してしまったので神は失望し怒るだろう、そう思って落ち込むしかないのでしょうか?いいえ、そうではありません。そういう時のキリスト信仰者の立ち振る舞い方はこうです。まず神の意思に反するものがあると気づいたら、見て見ぬふりをせず、すぐ神のみ前に跪きイエス様は私の救い主です、彼の尊い犠牲に免じて罪を赦して下さいと祈ります。その時、神はこう言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じて赦すから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい」と、ヨハネ8章でイエス様があの女性に言ったのと同じ言葉を私たちに言って下さいます。そして、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて罪の赦しが間違いなくあることを確認させて下さいます。私たちは、あの十字架が歴史上打ち立てられた以上は赦しは間違いなくあり、その赦しの中に留まって自分からはみ出さない限り、神との結びつきは失われることはなく、復活の日に至る道を迷うことなく進んでいることがわかります。あの十字架が打ち立てられて洗礼を受けた以上はそうなのです。このように人間に罪のあることを気づかせるのも、また、ゴルゴタの十字架を目の前に見せて洗礼の時の立ち位置に戻してくれるのも、みんな聖霊の働きによるものです。
キリスト信仰者の人生は、洗礼の時に注がれた聖霊の働きに自分を委ねて罪の自覚と神からの赦しを得ることを繰り返していく人生です。この繰り返しということが大事です。というのは、繰り返しは私たちが罪の側ではなく神の側に立って生きることそのものだからです。まさに罪から贖われた者の生き方です。火の精錬、罪からの浄化も同じことです。洗礼を受けて一気に精錬された、浄化されたのではなく、洗礼を受けることで精錬されていくこと浄化されていくことに身を投じたのです。罪の自覚と赦しを得ることを繰り返してきたということは、イエス様が果たしてくれたことを最大限活用したということです。そうなると最後の審判の時、神としてもあなたが神の側に立って生きてきたことを認めないわけにはいきません。その時、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて、精錬と浄化の長いプロセスは完了します。もう自覚すべき罪もなく赦しを得る必要もなくなります。
パウロがガラテア5章で「聖霊の結ぶ実」と言っているものは、まさに洗礼を受けた後、罪の自覚と赦しを得ることを繰り返していくうちに実ってくるものです。洗礼を受けた後で自分自身を聖霊が働く場にすると実ってくるものです。だから「洗礼の結ぶ実」と言っても同じです。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が言われていますが、これら漢字で書かれた単語は言葉としてはわかるのですが、まだ抽象的すぎると思います。それらをもう少し具体的にわかりたいと思えば、ローマ12章でパウロが教えていることを見ればよいと思います。
悪を嫌悪せよ、善に留まれ、お互いに対して心から兄弟愛を示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たちと共にいるように努めよ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和な関係をもてるかどうかがキリスト信仰者次第という時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が損なわれた時は神の怒りに委ねよ、神が報復されるのだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝つことがあってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。
以上、~しなさいと命令文ばかりで、これでは自分の力で頑張って実らせなければならない感じがします(少し細かいことを言うと、ギリシャ語原文は全部が命令形で書かれていません。一部は~しなさいと命令文ですが、大部分は分詞形で書かれています)。パウロの趣旨は、頑張ってこうせよ、ではありません。洗礼を受けて聖霊を与えられて、罪の自覚と赦しを得ることを繰り返す生き方をすれば、こういうふうになるのが当然なのだ、それを忘れるな、とリマインドしているのです。リマインドされて、どうもパウロの言うことが遠くに感じられるのであれば、それは罪の自覚と赦しを得ることを繰り返すことを怠っていたと気づかなければなりません。怠ったまま、パウロが言っていることをしようとすると苦しくなります。というのは、パウロの上記の教えの中には、お気づきのように、その通りにすれば自分が不利になるようなこと、お人好しが過ぎることがあります。それでそれらのことをやろうとすると仕方なくやる、嫌々することになっていきストレスがたまります。
ところが、罪の自覚と赦しを得ることを繰り返していくと、たとえお人好し路線でも神の意思がそうならばそれでいいという感じになります。それで当然のことになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン